部屋は綺麗に片付いていた。 元々この部屋に住んだ期間はそう長くない。11月は仮住まい。本当にこの部屋で暮らし始めたのは2月中旬頃からだ。それまでは壱番世界でバイトに明け暮れて暮らしていた。 0世界から出ることの出来なかった一ヶ月。きっちきちに入っていたバイトのシフトは勿論こなすことが出来ず、おまけに無断欠勤とあればクビになるのも当たり前。苦しかった生活が更に苦しくなった。 この部屋で過ごし出した時から、荷物はあんまり増えていない……調理器具を除けば。 初めはフライパンとボウルと菜箸と包丁くらいだったかもしれない。それがだんだんと小鍋に中鍋、中華鍋に卵焼き用のフライパン。ザルにフライ返しにおたま、ピーラーにおろし金にスライサーとだんだんと増えていった。包丁も、菜切り包丁に加えて魚用と果物用も揃えたりして。 料理をきちんと作ろうと思うと調理器具は加速度的に増えていく。その調理器具があるからこそ簡単に作ることが出来る料理、というのは驚くほどあるのだ。 商店街の八百屋でもらってきたダンボールの幾つかに調理器具を詰めてみる。タッパーは予備も含めていくつもあるけれど、基本的に食器やカトラリーは一人分。調理器具よりは断然に少ない。 (食器はコタロさんも持っていると思い……持っているでしょうかぁ?) もしないのならば、一緒に買いに行ってもいい。ペアの食器なんてどうだろう、想像すると頬が熱くなって、気分が盛り上がってしまう。つい、壱号をぎゅむと握ってしまっていた。 試しに詰めてみた荷物はダンボール10箱にも満たない。 「……これならお引越しできるかもですぅ☆」 握っていた壱号を抱きしめるようにして、川原 撫子は目をキラキラさせた。グギギギと壱号が変な音を出していたが、聞こえないふりをする。 あまり持ち込む荷物が多いと迷惑になるだろうと思ったが、この程度ならば大丈夫そうだ。 好きになった人が居て、意訳だけど『好きになって良いよ』と言われた。 生活が苦しいならシェアハウスする? とも言われた。 舞い上がりすぎてついアッパーカットしてしまったけれど、とても嬉しい。 にへらっ。 自然、表情が崩れたのを見て、抱きしめられていた壱号がその頬をぺちぺちと叩いた。まるで「正気に戻れ」とでも言いたげだ。 「もう、いい気分だったのに水をささないでくださいぃ」 ぷーと頬をふくらませると、その膨らんだ部分を壱号がつつく。 「分かってますぅ、同棲じゃなくて同居ですぅ、仲間の窮地を見かねての互助精神の提案だって事はぁ」 深い意味はなく、互いにメリットが有ると踏んだ上での提案だった。それは撫子も重々承知だ。マンガやドラマのような甘~い展開がすぐそこに待っているわけではない。いつかは甘い展開も訪れるかもしれないが、すぐに望めるものではないことも承知だ。 「でもうれしいから夢くらい見たっていいじゃないですかぁ……あれ?」 ドンッ……。 仕返しにと壱号にデコピンをしたら、デコピンではありえない音がして。壱号の姿が見当たらない。きょろりと室内を見渡してみれば、壱号は壁際まで吹っ飛んで床に落ちていた。 グガ……グギギギ……ピー……。 「壱号! 壊れたら駄目ですぅ」 慌てて駆け寄って、両手でガシっと掴み上げる。そして思い切り前後へと振った。それが駄目押しとなったようで、すっかり壱号は目を回してしまった。 *-*-* 新しいバイト先がなかなか決まらない。それはすなわち撫子の生活が苦しくなることを意味していた。正直、生活は苦しい。それを隠す気はなかったが、好きな人に知られてしまうと乙女としては少しばかり恥ずかしいかもしれない。 だが、今回はそれが良かった。生活苦を隠そうともしなかったからこそ、あんなに嬉しい申し出を聞けたのだ。それに、自分の料理を食べて喜んでもらえれば嬉しい。作り手の誰もが思うことだろうが、その相手が好きな相手だとすれば尚更。美味しいといってほしい、思いは募る。 これから毎日彼のために料理を作れるのかと思うと、彼がそれを食べてくれるのかと思うと、乙女回路が暴走しそうだ。 (『あーん』とかできるでしょうかぁ? ほっぺたについたご飯粒をとってあげたら、ご飯粒ごと指をぱくり、とか☆) 夢の見過ぎだろうか。けれども夢くらい自由に見たって良いではないか。まあ、夢というか……妄想に近いかもしれないが。 彼は少女漫画が好きなので、自分よりもそういうシチュエーションをよく見かけているかもしれないし、理解しているかもしれない。そう思うとなんだか期待が募っていく。 「あぁもう、なんであの時アッパーカットしちゃったんでしょぉ……うれしかったのにぃ」 真っ赤に染まった頬をぺちぺちと叩く。誰も見ていないというのに、まるで誤魔化すように。 ついつい『いろいろなこと』を想像してしまったのだ。ついつい手が出てしまったのだ。あれも撫子にとっては一種の愛情表現……なのかもしれない。 「うん、明日コロッセオにお弁当持って行きましょぉ☆ それで今度はこちらからお願いするんですぅ☆」 大きく頷いて、お財布を握り締める。そうとなれば善は急げだ。シューズのかかとを踏んづけたまま、玄関の扉を開けて飛び出す。 壱号を忘れたままだということに、撫子は気が付かなかった。 *-*-* 商店街で材料を物色しながら考える。 (やっぱりぃ、スタミナが付くものがいいでしょうかぁ……あ、これから毎日となると栄養バランスもきちんと考えなくてはなりませんね☆ 嫌いな食べ物とかあるでしょうかぁ……軍人さんですから、なんでも食べてくれるでしょうかぁ……) 八百屋のおじさんにダンボールの礼を言って、トマトの山を見つめる。傷が付いているけれど、味は変わらないはずだ。なのにピカピカのものよりも安い。『買い』だ。 「にんじんとぉ、じゃがいもとぉ、たまねぎとぉ……、しいたけはちょっと高いですぅ」 (スライスしたしいたけを入れると風味が上がるので入れたかったんですがぁ……ちょっとお高いですぅ……) 「お嬢さん、リンゴはいらないかい? リンゴ買ってってくれるならしいたけ少しサービスするよ!」 「!! フルーツつきなんて、贅沢ですけど女の子らしいお弁当ですぅ! おじさん、そっちの傷有りの小玉でもいいですかぁ?」 おじさんの提案に、撫子は奥にある傷のついた小さな林檎の山を指す。こっちのほうが大きくてピカピカのリンゴよりも安いのだ。 「しっかり見てるねぇ……参った、言い出したのは俺だ。あれも紛うことなきリンゴ。しいたけサービスするよ」 「ありがとうございますぅ☆ これで美味しい肉じゃがが出来ますぅ☆」 こうして撫子はサービスのしいたけ3つを手に入れたのだった。 じー。 魚屋前で発泡スチロールの中に展示されている切り身を見つめる。 (スーパーのほうが安いかもしれませんー。でも、掘り出し物があるかもしれませんしぃ) あさりとしじみが安い。お味噌汁にピッタリだ。だが魔法瓶から味噌汁が出てくるのはいいが、ガチャガチャ貝がでてきたらなんとなく嫌だ。一緒に暮らし始めたら、お味噌汁を作ってあげよう、そう決めて横目であさりとしじみを見る。 「今さばいたばかりのマグロだよー!」 魚屋のおじさんが、冊に切ったマグロの刺身が乗った発泡スチロールの皿を次々と出していく。 (おいしそうですぅ……) だが、撫子は頭を振って。 マグロの刺身なんてお弁当に向かないし、第一、高いではないか。無理無理。 (お弁当に向かないものにばかり目が行ってしまいますぅ) もう頭の中では同居していることになっているのだろう、なんだか思考がそっち寄りだ。 「!!」 と、キュピーンと撫子のセンサーのようなものが反応した。刺身をすべて並べ終えたおじさんが、次に奥から手にしてきたものに。 「それくださいいいっ!」 「お、おうっ……」 駆け込んできた撫子の勢いに若干押されつつ、おじさんはそれを手渡してくれた。 マグロの『あら』。1パック150円。醤油ベースで煮込むと美味しい。 「うぅん……」 肉屋の前。野菜類とマグロのあらを入れた袋を持ったまま、撫子はショーケースを眺めていた。かれこれ15分は経過しただろうか。店員のおばさんは声をかけるのを諦めて、他の客を先に相手している。 「節約して豚にするか、奮発して牛にするか……あるいは鶏にするか」 悩ましい。一緒に暮らせば食費を出してもらえるだろうからといって、それをあてにして無駄遣いをするわけにはいかない。けれども美味しいものを食べてほしい。好きなものを食べさせてあげたい。彼は牛と豚と鶏、どれが好きだろうか? 「よし、牛と豚と鶏、全部買っちゃいますぅ☆ すいませーん、牛のこの一番安い切り落としと、豚のバラスライスと、鶏胸肉お願いしますぅ☆」 牛肉は肉じゃがに、豚肉は肉巻き卵(ゆでたまごに肉をまいて醤油味に煮付ける)に、鶏肉はよく味を揉み込んで唐揚げになる予定だ。 帰りにスーパーで買いそびれた材料を買い込んで、お豆腐屋さんでおからをもらって帰途についた撫子。仮詰めした段ボール箱を開いて調理器具を取り出す。 「下ごしらえをしておきましょう☆」 ふんふんふーんと鼻歌に混じって、包丁の小気味良い音が聞こえる。 なにせタッパーにたくさんおかずを詰め込んでいく予定なのだ。今日のうちに下ごしらえをして置かなければ大変である。 「喜んでもらえるでしょうかっ……」 ポッと頬が熱くなったのは、湯気のせいだけではないはずだった。 【了】
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