15年前に神隠しにあった女五の宮様の行方を存じております――。 それは一種の賭けだった。 一人、夢浮橋を訪れた夢幻の宮は、勝手知ったるこの世界で左大臣邸を目指した。 もとより身分の高い彼女は往来を独り歩きすることなど殆ど無く、牛車に揺られて街に出ることすら少なかった。だがこの都で身分の高い者が屋敷を設ける場所は限られているし、左大臣邸といえば一条のお屋敷という別名があるほどだ。姫宮として大切にされるだけではなく香術師として働くことが多かった彼女は、この世界の普通の姫らしからぬ知識と度胸も持ち合わせていた。 彼女は旅装で左大臣邸を訪ね、先ごろ知り合いになった藤原鷹頼(ふじわらのたかより)を頼ったのだ。 そして告げた。「15年前に神隠しにあった女五の宮様の行方を存じております――。帝には、そう申し上げれば分かるはずです。お願い致します」 案の定、鷹頼は不審さを顔に出して隠さなかった。この時点でおかしなことを言う不届き者として夢幻の宮を捕まえることもできた。それでも彼が夢幻の宮を捕縛しなかったのは、うっすらと昔の幼い頃の記憶に『女五の宮』と呼ばれる女性の存在があったからだ。(そういえば、いつ頃からかお会いすることができなくなった気がする) 神隠しにあった姫宮がいたなどという話は聞いていない。いや、そんな話が大人たちの間で流れていたとしても幼い鷹頼には理解できなかっただろう。 何より扇の向こうのこの女性の面影が幼い頃の記憶に残る『女五の宮』に似ていて。だから話に出すくらいならと思ったのだ。 *-*-* そんな彼の判断のお陰で、夢幻の宮はこの『暁王朝』で一番尊ばれるべき人物の前に出ることができたのだった。「まさか本人だとは思わなかったが……久しいな、女五の宮」「……お久しゅうございます」 頭をあげるように言われてその顔を見せた夢幻の宮に、今上帝は驚いたように声を掛けた。「私は老けたが、お前はあの頃と変わらぬな。女人とはそういうものか」「……」 確かに目の前の兄、一の宮――いや、今上帝は重ねた年月相応に顔にも年を刻んでいる。だが夢幻の宮は18のままだ。女性は親兄弟にすらそれほど顔を見せない世界ゆえに『若く見える』と認識されたのだろう。「女五の宮が神隠しにあったなど、知る者はほんの僅かだ。お前の指揮していた研究に携わる者達にも、女五の宮――夢幻の宮は急な事故で身罷ったと伝えてある」「そしてそれが広く伝わらないようになさったのですね。男宮でしたら隠すのに限度があるでしょうけれど、降嫁するくらいしか使い道のない女宮であれば、人々も深く追求しないでしょうから……とくにわたくしは、香術師としての研究の方に時間を割いておりましたゆえ」「その聡明な所、嫌いではないぞ」「……」 くつくつと笑う兄その人の態度には反応を示さず、夢幻の宮は口を閉じていた。「15年間どこにいた……と聞くのは今更野暮か。鷹頼から聞いているが、先日陰陽師を名乗る者達と共にいたらしいな。だが陰陽寮からそのような者達を派遣した事実はない」「……あの方達は、私が神隠しにあった先で出逢った、大切な仲間にございます」「ほう……家臣ではなく仲間、と」「そのとおりでございます」 一段高い所に座す今上帝は、面白そうに夢幻の宮を見ながら口を開く。「神隠しから戻ってきて、私に接触までして何が目的だ? 目的があるのだろう?」「……いまのわたくしはこの世界について15年分の知識がありませぬ。その補完と、わたくしの仲間の当面の間の庇護をお願いしたく……」「ほう……自分の立場の復帰ではなく、か?」「……、……」 立場の復帰。姫宮としての立場と、香術師としての研究者の立場。後者は彼女の覚醒理由にも触れる。そのためか、彼女は歪めるように表情を崩した。「……はい。わたくしたちはこの世界に今までとは違った変化が起きていることを存じております。先の戦の集結からこちら、怨霊や物怪が暴れまわる事件が頻発していると伺いました。このままでは帝としての貴方様の御代に陰りが出るとも限りません」 今上帝の在位になってから不穏な変化が訪れたとなれば、それを理由に廃位を望む声も上がりかねない。それは今上帝自身も危惧していることだった。「陰陽師と香術師達に調査はさせているが……調伏にかかる時間のほうが圧倒的に多い。確かに人員不足でもある」「ならば、お手伝いさせてくださいませ」「……いいだろう、だが条件がある」 条件、と口の中で繰り返した後、夢幻の宮は「なんでございましょう」と兄を見据える。「まず、お前が、その仲間が信頼に足るか調べさせてもらう」「……」 当たり前といえば当たり前だ。15年ぶりに戻ってきた妹、そしてその仲間。いきなり信用しろというのは無理というもの。夢幻の宮は頷き、説明を促す。「裏で私への謀反を企んでいる者がいる。其の者を探しだすのに協力してほしい。なに、そんな難しいことではない。陰陽師が作った特殊な札がある。これをその者の家の中に張ってくるのだ。ついでに家の者と親交を深めて、なにか情報を聞き出すのもいいだろう」「御札でございますか……」「貼れば透明になるという。だが人がよく通ったり集まったりする場所に貼るのが良いという。要するに邪な気配などを感知する札だ」 屋敷に潜入する口実としては、下働きや女房としての推薦状は用意してもらえるという。また、方違えの為に宿を借りたいという場合も、仮の身分の保証はしてもらえるという。他に潜入する口実を思いつくなら、よほどとっぴなものでなければ協力してもらえるだろう。 潜入したら札を貼るとともに、邸内の人達と親睦を深めて情報収集が求められる。(「確かに潜入先の人々と親交を深めておけば、のちのちの拠点となるかも知れませぬ」) そう考えて、夢幻の宮は了承を示した。否、この世界で彼女の持つツテを使えるようにするには、断る事はできなかったのだ。「ところで……その潜入先とはどこでございましょうか?」「今のところは『右大臣邸』『左大臣邸』『中務卿宮邸』だ」「……やはり後宮絡みではないのですか?」 有力貴族はこぞって自分の娘を入内(じゅだい)させて、帝の目にとまるようにと仕向ける。その娘が生んだ子供が男児であるならば、いずれその子供は帝になるかもしれないからだ。だから現時点で後宮争いで優位にある貴族は候補から除けるものと考えた夢幻の宮だったが……。「どうやら、私が冷我国(れいがこく)の姫を娶ったことが皆、気に食わないらしくてな」「……なるほど」 敗戦国である冷我国の姫君を、モノのように扱って自分の後宮に入れたという話は、先日鷹頼がしていた。おおかた帝はその姫にご執心なのだろう。「冷我国の姫だけを優遇しているわけではないぞ。他の姫の元にも通っているがな……」 考えを読まれたのか、兄はそう言うが歯切れが悪い。恐らくその姫のもとに通うのが『いろいろな意味で』愉しいのだろう。「かしこまりました……協力してくださる仲間を募ってみますので、後ほどまたお目通りをお願い致します」 夢幻の宮は礼儀正しく頭を下げて、兄の前を辞した。 *-*-*「というわけなのです。夢浮橋における今後の活動の利便性を上げるためにも、ぜひご協力お願いいたしたく……」 ターミナルに戻った夢幻の宮は、世界司書の紫上緋穂を介してロストナンバーたちを集めていた。 今回の任務は指定の屋敷に潜入し、5枚の札を張ることと、邸内の人と仲良くなり、色々と話を聞き出すこと。「帝からの依頼は、帝に対して敵意を持っている者を確かめる手伝いをすることですが、私からも一つお願いがございます」 夢幻の宮はまっすぐにロストナンバーたちを見つめる。「できるだけ、邸内の人と仲良くなってきてくださいませ。よき縁を築ければ、今後何かと協力していただけることもあるやも知れません」 この先何があるかわからない、頼れる場所が多いのはいいことだ。 少人数での潜入となるが、上手く行けば後々のための効果が期待できるだろう。※注意※「桃花に紛れる」の3本は同一時間に起こった出来事です。同じPCでの同時参加(抽選エントリー含む)はご遠慮ください。
三条と呼ばれる辺りにある右大臣邸は、寝殿造りの大きな邸宅であった。左大臣邸も大きな邸宅であろうが、残念ながらここに潜入する二人、東野 楽園と坂上 健には左大臣邸の知識がないため、比べるすべはなかった。 だが、左右の大臣といえば国で随一の権力者ともいえる。その屋敷がそこら辺の貴族と同じであろうはずはなかった。 ことに右大臣は華美な装飾を愛するようで、それは几帳や屏風、壁代などにも現れていた。 *-*-* 下働きとして潜入した健は、簡素な着物を着用し、新人として屋敷の案内を乞うた。案内されたのは基本的に炊屋や下働きの者達の住居兼仕事場あたりが中心だ。一応、北の方の住む対や姫君、子息の住まう対も場所として教えてはもらえたが、そこには用を申し付けないからほとんど立ち入ることはないだろうということだった。 健の仕事は主に牛車用の牛の世話と、薪割り、水汲みである。汚れる仕事と重い物を運ぶ仕事ゆえに若い者に任されがちだが、健は嫌がらずに……むしろ楽しんで引き受けていった。 普段白衣を着込んでいるから室内派のように見えるが、実際はトレッキングなども行う室外派のところもあるようだ。 ひと通り仕事を教わって休憩にしていいと言われた健は、築地近くの木の影でトラベラーズノートを開いた。宛先は同じく右大臣邸に潜入している楽園だ。もしかしたらノートでの連絡に気づいてくれないかもしれない。それでも一方的に自分の動きを伝えておこう、健は書き記していく。 この家のだいたいの造りの簡単な図と名称。、セクタンに札を張ってもらおうと思うという提案。案を二つ示し、返事がなければ最初の案で進めるという事まで書いた。札のうち一枚は楽園が持っていったので、健は残り四枚を貼ることを考えていた。自分は入れる場所は限られているが、オウルフォームにしたセクタンならば、こっそりと邸宅のいろいろな場所に入れる、と。 *-*-* 楽園は女房見習いとして潜入を果たしていた。 (実は十二単に憧れていたの。私だって女ですもの、華やかな着物に袖を通してみたいわ) 華やかな十二単はそれなりの重さはあるけれど、美しさを追求するのに苦労はつきもの。春色の重ねを纏った楽園は、その色の白さに鬘をつけた黒髪が映えてどこぞの高貴な姫君といっても差し支えないほどである。 「貴女のことは『東雲』と呼ばせますから、ここにいる間はそのつもりでいなさいね」 年嵩の女房は『相模』と名乗った。はい、と頷いてみせれば相模は満足したように笑んで、楽園を先導して歩く。 あちらの対には北の方と殿が、そちらの対には三人のご子息が、などと説明を受けながら渡殿を通過していく。どうやら楽園が案内されているのは姫君のいる対のようだった。 「貴女には姫さま付きになって頂きます。見たところ姫さまと年も近いようですから、良い話し相手になって貰えると私達も助かります」 「姫様のことは……なんと呼べ……お呼びすれば?」 「『凪姫』様と我々はお呼びしています。東雲、貴女もそうするように」 「はい」 凪姫、と心の中で呟く。右大臣家の家族構成を話に聞いた時に、自分と年の近い姫に興味を持った。その姫と仲良くなって聞いてみたいこともあったし、仲良くなれればなにか聞き出すのにも役に立つと思ったのだ。 「姫様、失礼致します。本日から見習いに入った女房を連れて参りました」 御簾を上げる相模に続いて入室した楽園はそっと床に跪き、頭を下げる。 「姫様と歳も近いようですから、話し相手としてお側に置かれるのも良いかと思います」 「……あなた、なんと呼べばいいの?」 相模の声に続いて聞こえてきたのは愛らしい声だったが、年の割には落ち着いた雰囲気を醸し出している。この室に焚き染められている香も穏やかな心地にさせるものであった。 「東雲、と」 頭を下げたまま楽園が告げると、姫はくす、と小さく笑って。 「そんなに緊張しないで。頭を上げて顔を見せてちょうだい」 「……はい」 さすがに相模の手前でいつもの喋り方をしては姫に失礼だとたしなめられてしまうだろうから、楽園は言葉遣いに注意しつつ、ゆっくりとおもてをあげた。脇息にもたれかかるようにして畳で一段高くなった所に座している姫は、華美な屋敷の中の落ち着いた存在だった。 「あら、とても可愛らしい見習いさん……東雲、だったわね」 姫の部屋の調度はさすがに右大臣の一人娘だけあってどれも高価そうに見えたが、その中でもあまり華美ではないものを選んでいるのか、落ち着いて見えた。他の家人の室礼を見たわけではないが、家のそこここから感じる派手さからは縁遠いように見えた。姫自身も華美な装いを好まぬのか、金糸銀糸をあまり使わぬ落ち着いた襲を身に着けているようだった。 「もう少しこちらへ……」 姫に招かれて、楽園は姫の座所へと近づく。もう少しもう少しと乞われて近づいていけば、いつの間にか姫に手が届く位置まで来ていた。 「よろしく、東雲」 驚いたことに、姫自ら手を伸ばし楽園の手をとった。高貴な身分の者にありがちな高慢な態度ではなく、暖かな態度を持って楽園に接する姫の手は、筆より重いものを持ったことがないような美しい手で、入内が控えているためか丁寧に爪も整えられていた。楽園も美しい手をしているが、それに負けず劣らず姫君の手は美しく、暖かかった。 「はい、こちらこそ……凪姫様」 掌から伝わる熱が、身体の中にも伝わる。楽園は姫に優しく微笑みかけた。 *-*-* 「健! めしにするぞ!」 「はい!」 下働き見習いとして肉体労働を重ねていた健は、腹が減っていた。休憩時間はあるとはいえ、食事は雇い主たる右大臣一家や女房たちが終えたあとになるからして、必然的に腹が減ってから食べ物が腹に入るまではそれなりに時間がかかった。 竈に薪を運びながら覗いた感じでは、食材や調味料は現代と殆ど変わらないという話は本当のようだった。勿論、旬の食べ物というのはあるだろうが、健の考える平安時代よりは食に関しては充実しているようだった。 炊屋に近づくと、煮物と汁物の良い匂いが漂ってきていた。それに加えて下働き達用の小魚の焼ける匂いが腹を刺激する。 「ほら、飯だ。お館様に感謝しながら食えよ」 主に健を指導してくれている瀧という中年の男からご飯山盛りの茶碗を受け取って、健は頷く。この屋敷では米は何杯おかわりしてもいいということになっていた。さすが右大臣邸ということか。おかずは余ったものを分けてもらったりすることもある。下働きの者達はみな気の良い者達ばかりで、入ったばかりの健を何かと気にかけてくれていた。 健はありがたく夕餉をいただきながら、車座になっている仲間達に何気なく話題を振りまく。 「ここの跡継ぎはやっぱり長兄? お姫さんはそろそろ入内するのかな。見たことないけどきれいなんだろうなぁ」 「跡継ぎはやっぱり長子の信恒様だろうなぁ……いい加減、跡を継ぐ準備をなさるんじゃないかってところだ」 「跡を継ぐ準備って……」 「通っていらっしゃる女の整理とか、だな」 言われてみればなるほどと。一夫多妻であればこその『準備』である。なんだか少しうらやましく思っていると、隣りに座った男が肘で脇腹をつついてきた。 「それより姫様が気になるのか? やっぱり若い男はみんな憧れるもんよ。後ろ盾のしっかりした、気立ての良い姫さんを嫁にできりゃあなぁってさ。まあ、俺達下働きなんてのには一生縁がないだろうがな」 がはははは、と男たちは笑う。彼らは彼らで貴族の姫君なんかを前にしたら恐れ多くて固まってしまうだろうから、なんだかんだ言いつつも現状が身の丈に合っているということか。 「良く知らないんだけどさ、大臣の家って言うのはみんな今上帝に娘を入内させてるもんなんじゃないの?」 「左大臣なんかはすでに姫様を入内させているぞ。前の帝が戦中に突然亡くなったということもあって、色々と遅れも出ていたという噂だな。うちの姫様も、東宮妃になるかどうかっつー話もあったみたいだが、まあ、貴族の考えていることは俺達にはわからないなぁ」 「現東宮妃は、添い臥しを果たした内大臣家の姫だしなぁ」 わからないと言いつつも興味はあるようで、いろいろと健に話してくる。家の内情を知らぬものに話をするのは楽しいものなのだろう。無闇矢鱈と外に漏らす訳にはいかないが、内部で働く者になら、というところか。 「……成程、貴族ってのは難しいんだな。そう言えばここで陰陽師って見ないけど居ないのか」 厚揚げと豚肉、きのこ類を入れて煮物を頬張りながら健は無知を装って尋ねる。するとその言葉を聞きつけか、炊屋の別の場所で食事をしていた女達が近寄ってきた。 「陰陽師様、いらっしゃるわよ! といってもお館様のお抱えの陰陽師様は時折通いでいらっしゃるの。それが見目麗しくって……」 「頼永様のお姿を拝見出来た日は、もう眠れないのよ! 眠っても夢に出ていらっしゃるの!」 (そこまで美形なのか? とゆーか) いい年した女達がきゃあきゃあ騒いでいるのを見て、女はいくつになっても変わらないものだなぁと思ったりした健は、味噌汁をすすった。 *-*-* 「東雲、少しは慣れた?」 「そう……ですね」 姫に声を掛けられていつもの調子で返してしまいそうになった楽園はなんとか口調を整えて返事をする。すると凪姫は口元に袖を持って行ってふふふと笑った。 「東雲、今は相模も他の女房もいないから、いつもの喋り方でいいわよ……? 慣れていないのでしょう?」 嫁入り前に後宮で女房努めをする貴族の娘もいるくらいだ。そう思われても当然だろう。 「ええ……。いきなり宮仕えというのも敷居が高くて……お願いして大臣様に受け入れていただいたの」 「ふふ、その喋り方のほうがあなた、やっぱり気楽そうよ。私も、なんだか嬉しいわ」 ここ数日、姫の様子を見てきたが彼女は終始穏やかで、入内に対する不安など抱いていないように見えた。だから、楽園は尋ねてみたかったことを思い切って口にした。 「ねえ……入内を控えた心境を聞かせてくれない?」 「え?」 「貴方は今上帝のお顔をご存じ?」 「いいえ、お顔を拝したことはないわ」 思った通りの答えが帰ってきて、楽園は質問を続ける。 「顔も知らない殿方に嫁ぐのはどんな気分?」 今上帝は夢幻の宮の兄だ。彼女がディアスポラしたのが18歳。それから15年経っていると考えれば、今上帝は35歳以上である可能性が高い。一回り以上も年の離れた顔も知らぬ男性に嫁ぐというのはどういう気持なのだろうか。 「……私の場合は、それが唯一の親孝行なのよ」 姫は儚げに微笑んで続ける。 自由に外に出られる身ではないけれども、何不自由なく育てられ、大きな後ろ盾もある。そして国の頂点といえる帝に嫁ぐことができる。不満があると言ったらバチが当たってしまう、と。 「入内して、帝の寵愛を得て男児を産む、それが私にできる唯一の親孝行。だから、物心ついた時から自分がそのためにいるものだって思い込んでいたのよ」 「……そう」 姫は至って普通のことを語るように楽園に告げた。楽園は相槌を打って返したが、心の中では姫の言うことが理解できたわけではなかった。 (求められるのが女の幸せ、それがこの世界の価値観なのだろうけれど、正直腑に落ちないわ) それでもこの穏やかな姫が入内した先で幸せになれればいいと思う。 「東雲、いずれ宮仕えをするのだったら、私が入内しても後宮でまた会えるかもしれないわね」 そうやってほんとうに嬉しそうに笑いかけてくれたから。 *-*-* 「……ん、健、健!」 「! おっと……」 何度も呼ばれて初めて、自分がうとうとと眠りかけていたことに気がついた。昼間重労働をこなしているのだから、暗くなったら眠くなってしまうのも仕方あるまい。 「健、網代車用の牛を牽いて来てくれ」 「ん? こんな夜更けに外出か?」 「ああ、信義様がな」 信義というのは確か二番目の息子だった気がする。頭のなかで漏れ聞いた情報を整理しつつ、あくびを噛み殺しながら健は牛舎へと向かった。昼間世話をした牛達の中から一頭を選び、連れ出す。健が牛を連れて行くと、健を呼びに来た牛飼いが手馴れた様子で牛を網代車へとつないだ。そしてそこにそっと乗るのは、松明の炎に照らされた、健と同い年くらいの青年。脇目もふらずに車に乗り込んでしまったから横顔しか見れなかったが、なかなかに精悍な顔立ちをしていた。 他の数人の使用人と共に牛車を見送る。夜更けに出かけるということは、知己の間で酒を呑むか、女の所に通うのであろう。 「俺、21だから信義様と大体同じくらいだな。どんな人?」 「どんな人って……ある意味見ての通りだな。武芸に秀でていらっしゃるお方だよ」 夜だからがろうか、健が尋ねた使用人は声を潜めて答える。 「息子が3人もいるんだし、みんなで巻狩とか行かないのかなー。行くとしたら信義様が一番活躍したりして」 「しーっ」 健の軽い言葉に、使用人は慌てたように彼の口を抑えた。何かまずい事でも言っただろうか。 「信恒様はあまり武芸がお得意でないから。さすがに面には出さないようにしていらっしゃるけど、狩りはいい気分にはならないだろうな。お前の言うとおり、信義様の天下だよ」 「やっぱりそうかー」 勢子をやってみたかったが今回の滞在中は無理か? などと考えている健の耳に、ホーウと耳慣れた声が響いてきた。 「フクロウか? 珍しいな」 「そうだな。俺ちょっと探してみようと思うんだが」 「お前は元気だな。俺は寝るよ」 使用人は健を置いて屋敷に引き取っていった。健は暗い庭を少し歩く。と、バサバサッと羽音を響かせて、健のセクタンであるポッポが肩に乗ってきた。 「よしよし、無事に札を張ってきたんだな?」 それに応えるようにして、ポッポはすりすりと健の頬に頬ずりした。 *-*-* 「誰か居るのか!?」 「!」 楽園は袖で涙を吹きながら、右大臣の部屋にいた彼女を見咎めた三男、信威と共にに庭を歩いていた。父親に用事のあった信威が、札を張るために右大臣の私室に侵入していた楽園と出会ってしまったのだ。だが楽園としては下手に女房や北の方に見つかるよりは好都合、とばかりに女の武器である涙を使って迷ってしまっただけだと訴えたのだった。 嘘泣きであったが信威は信じ込んだようで、迷ったのなら怒るつもりはないとどうにか泣き止ませようと、彼女を庭に連れだしたのだ。きっと、泣かせてしまったところを他の者に見られるのが恥ずかしかったに違いない。 「素敵なお庭ね。ここでは通い婚が主流だと言うけれど……待つだけ、焦がれるだけの身というのも切ないわ」 私だったら、と切り出して、楽園は袖や裾を翻すようにして動く。本当ははしたないのだろうけれど、綺麗な庭で綺麗な衣を翻せば、蝶のように見えるではないか。 「私なら好きな人とは明るい太陽の下で逢瀬を楽しみたい。花を摘んだり、蝶を追いかけたり」 「そのようなこと……裳着を済ませた姫がすることでは……」 「ねえ、貴方から見たお父上や今上帝、左大臣、噂の冷我国の姫君はどんな方?」 「え?」 美しい楽園に戸惑うように、そして背伸びするようにして答える信威。もしかしたら元服を済ませたばかりなのかもしれない。楽園の蠱惑的な仕草に、戸惑うようにしている。 「私は……少しだけ冷我国の姫に同情してるの。貴方の姉上にもね」 「どう、じょう……?」 「男性の勝手で振り回されて物扱いされて、心を軽んじられて。それはとても酷な事よ」 「そんなふうに思ったことはなかった」 「そうでしょうね、貴女は男だもの」 くすくす、楽園は微笑む。その微笑みに魅入られたように、信威はじっと、彼女を見つめている。 「……父上は、尊敬すべき男だと思っている。今上帝は急に帝位につかれてさぞかし心中穏やかでなかったことと思うが……けれども尊敬すべきお方に変わりはない。左の大臣殿も、話のわかるお方だ」 (きっと、まだ子供扱いされていて、あまり他の公達のことは知らないのでしょうね) 信威の取って付けたような答えに、楽園は心中で呟く。 「冷我国の姫君は……お目にかかったことは勿論ないが、今上帝の御心を捉えて離さないのだとしたら……あまりいい気はしない」 「姉君が入内なさるから?」 楽園の問いに、信威はこくりと頷いた。入内しても、帝の御渡りがなければ寂しく宮中で過ごすことになるだろう。姉をそんな状況にしたくない、そう思っているに違いなかった。 「好きな人に相手にされない辛い気持ちはわかるわ。私にも初恋の殿方がいたの。フラれてしまったけれど」 「……」 「余計な話だったわね……貴方は好きな人を幸せにしてあげて」 「す、好きな人なんて……」 まだ早かったかしら、楽園が首を傾げると、信威は顔を真赤にして肯定とも否定ともつかぬ返事をした。 「入内するまで、姉君に優しくしてあげて頂戴。指きりげんまん」 白い小指を差し出すと、一瞬躊躇ったようだったが彼も小指を差し出して彼女のそれに絡めて。 「約束よ」 「……うん」 小さな、約束。小さな、願い。 【了】
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