白いタイルの床、白い壁、白い扉。そこには三人がけのワインレッドのソファと黒いローテーブル、そしてソファの向かいにはロッキングチェアがあった。 ロッキングチェアに座らされているのは、『ヒトガタ』と呼ばれる人形。真っ白い人形は木綿で出来た布に何か詰められているようで、それぞれ頭、胴体、手足に見立ててた部位が銀色の紐で括られている。この『ヒトガタ』はある意味この部屋の主だ。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは今日、『会いたい相手』がいて、この追憶Lab.を訪れた。この研究所は、会いたい人に会わせてくれるというから。 否、それでは語弊があるか。厳密に言えば会いたいと思う相手のイメージを記憶から取り出し、そして形作るのであり、完全に本物と出会えるわけではない。むしろ、作り出されるのはニセモノだ。けれどももう会えない相手、会いたいけれど遠い相手、実在しない相手に会うことができるという。ジュリエッタも、『彼』との時間を持ちたくてこの研究室を訪れた。 最近、手紙が届いたのだ。それは北イタリアからのエアメールだった。差出人自体に覚えはなかったが、『彼』と同じ姓であると気がついた時、『彼』に何かあったのだと悟った。 慎重に封を切ってみれば、そこには『彼』の訃報が記されていた。 『――は天寿を全ういたしました。ジュリエッタ様が遠く日本での生活に馴染まれたとお聞きして、安心しておりました』 書いたのは『彼』の親族だろう。丁寧な言葉遣いで『彼』の事を教えてくれる。 彼はジュリエッタのイタリアの実家に父方の祖父の代から仕えていた、白髪交じりのひげを蓄えたロマンスグレーの老執事だった。 ジュリエッタが生まれた時から共に有り、いつも目を離さずにいてくれた彼。 しかし彼は、ある日突然今までジュリエッタが見たことがないくらい悲しそうな顔をして、忽然と姿を消してしまったのだ。 当時の彼女は知る由もなかったが、実はジュリエッタの父が、借金の件で彼を巻き込みたくないと半ば強引に彼を帰郷させたのだった。 彼は最後までお仕えします言ったことだろう。もしかしたら初めて、主人に逆らったかもしれない。このお屋敷を出るその時まで共にいさせてください、と。 ジュリエッタはそっと、手紙に同封されていた小さな箱を開いた。そこには彼女の瞳と同じ色をした、エメラルドのブローチが入っていた。ジュリエッタの遠い記憶にあるこのブローチは、確か家宝であると父と母が彼女に教えてくれたものだ。手紙を読めば、父が借金のカタに売られまいと、彼に預けたのだという。 時を経て、アヴェルリーノ家の者の手に戻ってきたそのブローチは、一点の曇りもない。丁重に保管され、定期的に手入れされてたであろうことが容易に想像された。父の見込んだ通り、彼はそれを売り払ったりせずにきちんと守りぬき、そしてジュリエッタへと返却してくれた。その行動からも彼の人柄が伺えて、なんだか胸が熱くなる。 「本当は、直接会って礼を言いたかったのじゃ」 ヒトガタの前に跪く。白いタイルがひんやりとしていて、ジュリエッタの足から体温を奪っていく。表情のない木綿の人形は、黙ったまま座している。 そっと、その手に手を伸ばし、両手で挟むようにして包み込む。確か、手を握りしめて会いたい人を思い浮かべながら名を念じるのだったか。 詰め物のされたその稚拙な人形のような感触を確かめつつ、ジュリエッタは長い睫毛を震わせるようにして瞳を閉じ、そして念じる。 (――、――、――!!) ああ、その名を呼ぶのはいつ以来だろうか。 幼い頃、共にいた頃は「じいや」と呼ぶことが多かったかもしれない。いつ頃からか、大人を真似て彼の名を呼ぶようになった。その度に彼は、顔の皺を深くして笑んでくれたではないか。 「!」 ジュリエッタが握るヒトガタの手が、無機質なものからだんだんと人の手としての質感を帯びたものになっていく。少し皺の寄った、乾いた手。今のジュリエッタから比べても大きな手。挟み込んだジュリエッタの手から、はみ出してしまう優しい手。 つ、と顔を上げる。 「じいや……!」 思わずかつてのように彼を呼んだ。 「ジュリエッタお嬢様」 彼も、かつてのようにジュリエッタを見て優しく微笑んだ。 *-*-* 彼の姿はジュリエッタの記憶から造られている。だから、恐らく彼が没した時よりは若い姿を模しているのだろう。最後に別れたあの時のままだ、ジュリエッタは思う。 「久しいな」 「お久しぶりでございます。本当にお元気そうで、そして健やかにお育ちになって……」 ジュリエッタはあの頃よりだいぶ成長してしまっている。それでも彼ならば、本物の彼であれば人混みの中からジュリエッタを見つけ出せるだろう、そうジュリエッタは信じている。 「もっと早く知られてくれればよかったものの」 「お知らせすれば、お嬢様はせっかく落ち着かれている日本での生活を中断し、私に会いに来てしまわれるでしょうから。僭越ながら、そのくらい思われているという自覚はございますので」 「……というよりわたくしの行動が見ぬかれているというのが正しいような気もするが」 冗談めかして言う彼の言葉に少しばかり眉根を寄せて。 「折角、日本での生活が落ち着かれているのですから、乱したくはなかったのでございます」 小さくこぼされた優しい本音に、涙が出そうになった。 思えば彼は、ジュリエッタのことをよくわかってくれていた。 広い庭で迷子になった時も一番に見つけてくれたのは彼だし、太陽の光をたっぷり浴びて真っ赤に育ったみずみずしいトマトをついもいで齧ってしまった時も、最初にジュリエッタを見つけたのは彼。時には優しく迎えに行き、時には諭してくれた彼。そんな彼だからこそ、自分の居場所を、近況を伝えることはしなかったのだろう。 「でもそのおかげで、直接話をすることができなくなってしもうたではないか」 拗ねたように少し頬をふくらませる。すると彼は白髪交じりの髭を揺らして。 「もう幼子ではなくレディなのですから、拗ね方を改められるのがよろしいかと」 なんて言って笑う。 「そうじゃのう……子供っぽい仕草は伴侶殿をゲットするときだけにしようかのう」 だからジュリエッタも、嘘か本気か判別しがたいつぶやきを返して、笑った。 「わたくしは知らなかったのじゃ。父様がそなたの身を案じて、半ば無理矢理そなたを解雇したことを。家宝のブローチを、そなたに預けていたことを」 彼の親族からの手紙からは、その経緯が簡単にだが読み取れた。ジュリエッタは当時、何故彼が突然姿を消したのかわからなかった。父母に何度、彼の行方を尋ねたことだろう。その度に父も母も困った顔をして、ジュリエッタをなだめたものだった。 「幼かったわたくしは突然姿をくらませたそなたを恨んだこともあったのじゃ。わざと庭で迷子になったり、トマトをかじったり、庭の水道につながっていたホースで遊んで自身と辺りを水浸しにしたり……けれどもそなたは迎えに来てもくれなければ、諭しに来てもくれんかった……」 わざと迷子になれば探しに来てくれるだろう、わざと悪いことをすれば戻ってきて諭してくれるだろう、幼心にそう思い、ジュリエッタなりに頑張ったけれど……彼が来てくれることはなくて。何で来てくれないの、と愛情の裏返しからそれが恨みに変わった事もあった。 「父上と母上があのようなことになってしもうた時も……」 言葉を詰まらせたジュリエッタを、彼は眉尻を下げて目を細めて見守っている。ジュリエッタが何よりも心細かった時にそばにいてあげられなかったことを、彼なりに苦しく思っているのかもしれない。 「旦那様方の訃報をお聞きした時、まっ先にジュリエッタ様のことを思い浮かべました。お一人で泣いておられるのか、太陽のような笑顔は曇ってしまわれたのか……駆けつけられない我が身を恨んだものです」 何度、駆けつけようと思っただろうか。そのような時に支えるのが自分の役目ではないのか、彼は自分を責めたという。けれども解雇された身。預かった家宝を守らなければならぬ身。戻ってしまっては自分の身を案じてくれた主人の心に背くことになってしまう。 「ジュリエッタ様が日本へ引き取られたとお聞きして、半ば安心、半ば心配でございました。常ならば、すぐに馴染まれるであろうことは想像に固くなかったのでございますが……」 両親を失い、家を失い、そして環境も言葉も全く違う日本で暮らすことになる小さな子供の身を、案じずにはいられぬだろうか。ずっと、北イタリアの地からジュリエッタの事を心配してくれていたのだ、その気持が伝わってくる。 重ねたままの手は温かくて、そしてそっと握り返されて、そこから彼の心が流れ込んでくる気がして。 「確かに、最初こそ戸惑いはあったように思う。じゃがわたくしの適応能力を甘く見てもらっては困るのう」 口の端を上げて、ジュリエッタは笑ってみせる。それはついついしんみりとしてしまい、涙がこぼれそうになったのを抑えるためでもあった。 「さすが、お嬢様でございます」 ロッキングチェアの上の彼の顔を見つめれば、彼も何かをこらえるように笑顔を見せていた。 「故郷では、穏やかに過ごせたようじゃな」 「それはもう……毎日のようにお嬢様を探して庭を歩きまわらずに済みましたから」 「むむ……」 「けれども、少し運動不足気味になってしまいまして……やはりお嬢様がいらっしゃらないと、足腰も弱ってしまうようです」 いたずらっぽく告げられた言葉にジュリエッタが唸ってみせると、彼は冗談ですよとばかりに優しい言葉をかけてくれる。以前の、幼かったジュリエッタであれば彼のいたずらじみた言葉も真に受けてしまうところだが、成長した今となってはそんなことはない。このようなやり取りを交わせるようになったのが嬉しくもあり、そして不思議でもあった。そして――本当の『彼』とこのようなやり取りができなかったことを、少しさみしく思う。 「聞いたぞ。隠居生活はとても穏やかなものじゃったと」 「おかげさまで、穏やかに過ごさせて頂きました」 「せめて今一度世話になった礼を言いたかったのじゃが、それも叶わぬこと」 成長した姿を、元気にしている姿を見せたかった。けれども彼はもう、空の上の人。二度と、それは叶わない。 ここに来たのは、その願望を少しでも叶えるため。こうして向き合っている彼は本物ではないとわかっているが、こうしていると、本物の「彼」にも言葉と気持ちが届くのではないかという気がするのだ。 ジュリエッタは零れる涙をそのままに、そっと十字を切った。そして静かに祈りを捧げる。彼はそんなジュリエッタを、在りし日と同じ瞳で見つめていた。 涙が、言葉の代わりに次から次へと溢れ出て、はらはらとこぼれ落ちてはジュリエッタの頬を濡らす。まるで幼子が嗚咽をこらえているかのように、ジュリエッタは涙を流し続ける。 「ジュリエッタお嬢様」 彼はそっと胸ポケットからハンカチーフを取り出し、幼い頃にそうしてくれたようにそっと、ジュリエッタの涙を拭きとってくれた。そのハンカチーフからは、懐かしいイタリアの太陽の香りがする。 「父上母上はあのようなことになってしもうたが、せめてわたくしは悔いのない人生を送ろうぞ、約束じゃ」 涙を拭かれながら、ジュリエッタは彼を見つめて。少し赤くなった鼻をすすって笑顔を浮かべた。 「約束でございますね。かしこまりました。そのお言葉を聞けて、私も安心いたしました」 すーっと、彼の姿が薄らいでいく。輪郭がぼやけていく。 また涙が溢れてきたのかと思ったが違った。もうすぐ時間、なのだ。 「――、さらばだ。また会う日までな」 「ええ。何十年後かにお会いした時には、またお世話をさせて頂きたく思います」 それが最後の、もうひとつの約束だった。 【了】
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