壱番世界に遊びに行こうと誘われて、指定された場所に来てみるとそこは小さな旅館だった。 古い作りだが綺麗に掃除が行き届いており、調度品にも華美ではないものの端々まで気を配って配置されている。 ユリアナが到着すると着物姿の女将に歓迎を受け、部屋へと通された。 彼女に取っては見慣れない順和風の部屋で座布団に座り、ちゃぶ台の上にあったプラスチックのケースをあける。 「これを使ってお茶をいれるのね。ええと、お茶の葉をいれてから少し待って……」 茶筒から乾燥した葉をすくい、急須にいれ、ケトルから熱湯を注いで待つことしばし。 その間にケースの中にあった一口サイズの焼き菓子を開いて口にいれた時、唐突にユリアナの肩越しに二本の腕が伸び驚く間もなく抱きすくめられた。 「ひゃっ!?」 「お待たせ、ユリアナちゃん」 「あ、ニコさま」 ニコ・ライニオの腕に抱きすくめられてユリアナはふわりとはにかむ。 「遅くなってごめんね。本当はすぐに迎えに行きたかったんだけど、これを選んでいたら遅くなっちゃった」 「え? ニコは紙袋を取り出して中から紙に包まれた小さなぬいぐるみを取り出す。 ふわふわもこもこの赤い毛皮に包まれた長毛種の子犬のような、大きな瞳のドラゴンを象ったものだ。 実物のドラゴンを知るものから見ると、そんな竜がいるものかと思ったが、その横にあった熊のぬいぐるみも本物には程遠く可愛らしい作りになっていたので、そういう趣向なのだろう。 赤い竜ということは。 「僕だと思って大切にしてね」 「ありがとうございます、ニコさま!」 腕の中にあるもこもこと柔らかい感触と、いつのまにか自分の背と腰に回されたニコの手の暖かさ。二つの幸せに包まれる。 「でも、なんとなくこのあたりの雰囲気ではないような……?」 「うん、昼間に遊園地にいってたんだよ」 「……もしかして、また可愛い女の子をナンパされていたのでしょうか?」 「ううん。ロストナンバーのみんなと一緒だよ」 みんなと言っても総勢三人だったり、そのうち一人が無機物かつ人というより匹とか頭とかいうべき存在なこととか、もう一人は紛れもなくかわいい女の子と呼ばれるような人だとかはなんとなく言わない方がいい気がしたので、ニコは腕の中のユリアナを抱き寄せて自分と彼女の口を一度に塞いだ。 「ね、ここはいい温泉で有名なんだって。いつか、竜星の温泉にいったけど気持ちよかったよ。一緒に入ろう」 「一緒、ですか?」 「うん。ここは混浴なんだって。水着着用なのが残念だけど。水着持ってる? なかったら買いにいこう」 「残念、ですか。ふふ、でも水着を着てもいいならいいですよ」 鉄分の高い温泉は錆と硫黄の匂いがした。 独特の温泉の香りは湯につかるといい香りだと思ってしまうから不思議である。 ニコとしてはビキニを期待したものの、パレオにTシャツにと重装備をまとって肘から先、膝から先、首から上程度しか、つまりはいつものユリアナと同じくらいしか肌色が見えない彼女が湯に使ってにっこりと笑っていた。 「この温泉。Tシャツ、いいんだ」 「うふふふ。ニコさま、本当に残念そうですね」 あてが外れたよと力なく笑うニコ。 暖かい温泉の熱はじんわりと肌にしみこむように温度を伝える。 やがて数分もすると湯の温度で上気した頬や潤んだ瞳のユリアナは魅力が増したように思えた。 湯の温度に音をあげるのはユリアナが先。 ほんの十分ほどで頬がピンクに染まり、しっとりと濡れた髪がうなじに付着してその先が温泉の湯面にゆらゆらと揺れる。 濡れて肌に吸い付いたTシャツの奥に見える白い肌も今はピンクに近い色へと変わっていた。 他愛のないお喋りの途中で「あの、そろそろ」とユリアナが言い出して、僅かな温泉タイムに幕が下りた。 これでも火竜のニコにとっては熱めのお湯も灼熱の溶岩も「あったかい液体」に分類される程度だが、壱番世界出身のユリアナにとっては温度が10度違えば別世界。 名残惜しいが可愛いユリアナが湯あたり寸前な事に気を回さないニコではない。 「それじゃ後で、お部屋でゆっくりとお喋りしよう」 先に出て行くユリアナを見送ってから、ニコも脱衣場へと向かった。 当然のごとく、脱衣場は男女別である。 ここも混浴で全然構わないのになと言ったらユリアナはどんな顔をするかななどと考えながら、ガラス張りの冷蔵庫にあるフルーツ牛乳を購入して窓際に立つ。 タオルを腰に巻いたまま、窓に向かって仁王立ち。 両足は肩幅程度に開いて左手を腰にあて、右手瓶を掴んだまま45度の角度で、一気に飲むべし飲むべし飲むべし。 「……ッくぅぅ~~~~~~」 火照った体の中に冷えた液体が流れ込んでくる。 マイルドなミルクの中に果実の酸味と甘味がやや過剰にブレンドされた味は湯上りで鈍化した舌に優しく語りかけ、豊かな余韻を残して一気に胃の腑へ雪崩れ込む。 あまりのうまさにニコはそのまま一分弱、仁王立ちのままに全身を走る電流のような幸福感を満喫した。 「いい文化だよね。お作法があるのもよくわかるよ」 後ろでくすくすと笑う声がするが気のせいに違いない。 それにニコの容姿として異邦人に見えるわけだからして、日本の温泉を楽しむ異国から観光客、というものに見えるだろう。 ロストナンバーとしては現地の人に不快感を与えなければいいのだ。 さて、と振り向いてバスタオルを頭に載せた瞬間、浴場から女の子の悲鳴が聞こえてきた。 ミ★ ミ☆ ユリアナの浴衣姿を言葉を尽くして褒めちぎった後、板張りの長い廊下を二人で歩く。 ガラス窓のあちら側では薄い雲が月を覆い朧にかかっていた。 待たせたお詫び、とニコが差し出したフルーツ牛乳を受け取り、ユリアナは先ほどの悲鳴は何だったのかと問う。 よくは分からないんだけど、と前置きして。 「女の子が混浴だって知らないまま入っちゃって悲鳴をあげたみたいだよ。すぐに見に行ったけどもういなくって」 「残念ですね?」 「うん、本当に残念」 「ニコさま……」 ユリアナのジト目でようやくニコは口が過ぎたと理解し、あわてて話題を牛乳に移した。 「本当はお風呂からあがってすぐにタオルだけでやるのがツウらしいよ、でもユリアナの裸を僕以外の人が見るかもしれないからね」 「ええと、仁王立ちして、左手を腰に添えて、45度の角度で一気に、ですか。難しいですね」 手から伝わるフルーツ牛乳の瓶のひやりとした冷たさが、火照った体に心地良い。 歩くたび、ビニールの草履がぺたぺたと足にくっついてはがれてという不思議な感触を味わいつつ、二人は部屋へと辿りついた。 扉をあけ立て付けの悪いふすまを開けると新しい藺草の香りが鼻をくすぐった。 タオルや着替えをカバンに詰め込み、ユリアナはニコに聞いた通りのサホウでフルーツ牛乳を一気に煽る。 彼女の喉にはいささか量が多くすこし噎せてしまい、それを予見したかのようにニコが背中を撫でた。 「ありがとうございま……けほけほ、あの、ニコさまは召し上がられないのですか? フルーツ牛乳」 「僕はさっき飲んだからね。それにユリアナのいれてくれたお茶が、……あれ、もうないんだっけ?」 急須の蓋をあけるとしっとりと濡れた茶葉があるのみで、お湯は残っていない。 そのついでにケースに残っていた焼き菓子を自分の口に放り入れる。 久しぶりの二人きりの夜である。 古びた旅館。浴衣姿。風呂上り。 お酒の用意はある。 邪魔者はいない。 いつのまにか布団は敷かれている。 久々に訪れた甘い恋人の時。 布団の上に腰掛けているカップル、という絵柄はアダルトなものだろう。 どちらからともなく、少しずつ会話が少なくなってくる。 左手を伸ばし、隣に座るユリアナの肩を抱いて力を込めると彼女の顔がニコの胸に飛び込んできた。 赤くなっているのは湯上りだけが理由じゃないだろう。 「あの……、ニコさま……」と小さく呟いた様が心を射抜くほど可愛らしくて、思わずニコはユリアナの頬に口付けをした。 そのまま両腕で彼女の細い体を抱きしめようと右手を差し出したあたりで。 するっとユリアナの体がニコの腕から抜ける。 彼女の体がある事を前提に体重を移動したので、ニコは顔から分厚い敷き布団につっこんだ。 冷たいシーツともふっとした布団の感触は湯上りということもあり、これはこれで気持ちいいもののニコの希望しているのはこれではない。 「ええー」 不満の声をあげるとユリアナはくすくすと笑った。 「すみません、もうちょっとだけ待ってください。まだ髪の毛、濡れたままなんです。すぐに乾かしますから」 「そんなのいいのに」 「ニコさま?」 少し言葉から色気が抜けた気がする。 ユリアナが真摯な瞳でニコの顔を覗き込んできた。 「見てください」 指差したのは布団の先。 さっきまでユリアナの体があった場所だ。 シーツの下、布団の柄が透けて見える程度には湿っていた。 ユリアナの髪は彼女の腰に届く程、長い。濡れている範囲もまた広い。 「どうなっていますか?」 「――濡れてるね」 「ええ。濡れた長い髪の毛って不便なんですよ。油断すると、こんな風にすぐ濡れてしまいます。特に熱い季節は」 「僕はユリアナちゃんの髪の毛、大好きだよ」 「ありがとうございます。では、その髪の毛の維持のためにもう少しだけ時間をいただけませんか?」 もう少しだけの時間。 分かっているつもりだが、つい顔に出てしまったのだろう。 ユリアナはタオルで髪の丁寧に水気を拭き取りつつ、髪の毛を指差した。 「最近はドライヤーなんて便利なものがありますから昔ほどではありませんが……。ただドライヤーを使ってもまだ少し不便なのです。今も髪の毛を乾かしているのにうなじにくっつきますし、温風をあてるわけですから髪の毛を乾かしているのに汗をかくから湿ったりしますし……」 「じゃあ乾かさないで寝たらどうなるの?」 「まず、重いです」 ユリアナが断言する。 髪の毛の隙間が水を吸う。髪が長いと吸う量は当然多くなる。重量は増える。 「それに乾かさないと翌朝、脂っぽくなります」 髪の毛が湿気を放ち続けるわけだから、頭皮やうなじは梅雨以上の湿度にさらされ、それが文字通り呼び水として汗を誘発する。 一晩あければ、その汗を吸い取った髪の毛は脂っぽくなってしまう。 「そうなるとちょっと生臭いですし、このシーツを見ていただければ分かりますが、枕やシーツ、パジャマも濡れてしまいます」 「うーん」 色っぽくない話ではあるが、ムードに任せて押し倒してしまうと心象を損ねそうだ。 だが、ユリアナの髪の毛は相当に長い。当然、それを乾かす時間も長くなるだろう。 少しでも彼女と二人きりの甘い時間を満喫したいのに。 ユリアナがカバンから取り出したドライヤーを見て、ニコは体を起こした。 彼女の髪の毛に手をいれる。 「ニコさま、待ってくださいってば」 自己申告通り、洗いあがりの髪の毛はリンスの香りに包まれていて、しっとりと濡れていた。 「これ、僕にさせてくれないか?」 「え?」 ユリアナの手からドライヤーと櫛を奪い、ニコは彼女の銀髪を梳る。 頭の上から腰まで長い髪の毛並みにあわせて櫛を動かしつつ、ドライヤーの角度を合わせる。 タオルを髪の毛と体の間に挟み、そのタオルに温風をあてた。一箇所にあてすぎれば熱によってそこが傷む。 ドライヤーを持つ手、もう片方の手にある櫛、そしてタオル。 三つを器用に使いこなしてユリアナの髪の毛を上から下に流れるように乾かす。 時折、櫛を持つ手の掌や甲を使って首筋から肩甲骨にかけての筋肉を軽く叩くのも忘れない。 「どうかな?」 「あ、あの、すごく気持ちいいです。ニコさま、こんなこともできてしまわれるんですね」 温風は一箇所に留まらず、櫛の動きは止まることを知らず。 自分で乾かすとうまくドライヤーの風を届けることができなくてどうしてもムラができてしまうのだが、他人がやってくれるとこうも楽なのかと感心する。 だが、素人が適当にやっているだけでここまで髪の毛を丁寧に扱えるはずがない。 「すごいですね」 「これでも少し勉強したんだよ。髪の毛を編んだり乾かしたりできるとね、女の子の髪の毛に触る理由ができるんだ。髪の毛が長い子だとこういう風に肩が首に触れることもできるし、何より喜んでもらえるしね」 「……どこで覚えたのかは、聞かない方がよさそうですね」 「あはははは」 笑って誤魔化す。 ニコの笑い声は嫌いじゃない。お喋りの時の声も大好きだ。 ドライヤー以外に何かしているのか、髪の毛もすぐに乾いていく。 「ね、ゴム持ってる?」 「あ、はい」 手首につけていたヘアゴムを渡すと、ニコはくるくると手を回転させユリアナの長い髪をひとまとめにしてゴムで閉じ、首から前へとおろした。 「はい、できた。ユリアナちゃん、かわいいよ」 「あ。ありがとうございます。ローションもお願いしていいですか?」 ユリアナがカバンの中のヘアローションを指すと「畏まりました、僕のお姫様」と悪戯っぽい笑顔が帰ってきた。 「その顔、とても大好きです」 「ありがとう。じゃ、いくよ」 ヘアーローションを両手にまぶして髪の毛と頭皮、肩、背中とマッサージするように揉み込んでいく。 部屋の中にふわりと桃の香りが漂った。 いい香りだね、とはニコの感想。 できあがりを確認し、満足そうな笑顔を向ける。 思わず笑顔を返し、ユリアナは何かお礼ができないかと考えて、準備していた物を思い出した。 「あのニコさま。お礼といっては何ですが……」 「え?」 「あの、……少しだけ、目を閉じていてもらえますか?」 「うん」 「……気配とか探ってもダメですよ?」 「はいはい。目を閉じてじっとしていればいいんだね?」 言葉通りニコはすっと瞳を閉じる。 それを見てユリアナはテレビをつけた。 今から準備する音が聞こえないように、音量のつまみを少しだけ高く設定する。 「私がいいというまで何があってもそのままじっとしていてくださいね」 「うん、いいよ」 素直にニコが瞳を閉じているままなのを確認し、ユリアナは部屋の玄関口まで出てクローゼットに隠しておいた包みを開けた。 ついでに備え付けの冷蔵庫を開け、小さなガラス瓶を取り出す。 木の机の上に包みから取り出した器を並べて「どうぞ、もういいですよ」と笑顔を向けた。 「こんなサービスがあるなんて……思わなかったな」 ニコがぼそりと呟いた。 ユリアナの用意した酒器と、よく冷えたお酒。 それに彼女手作りのおつまみがタッパーに入っていくつも並んでいる。 「うふふ、こんな風にしないと使わないかと思いまして」 「そんなことないよ。それに使うなんて言っちゃダメ。いや、もちろん凄く凄く嬉しかったけど!」 ユリアナが卓袱台に広げたのは趣向をこらした酒器である。 と、同時にニコとユリアナで同じものを持っていた。 長崎びいどろの繊細な硝子細工に透明な酒が注がれている。 これはいつか二人の思い出の品としてユリアナがニコに贈ったものであり、自分にもと買い求めたもの。 今回はユリアナの手にあったものを二人の夜のためにと持参したのだ。 「……ニコさまのために選んだものですが、せっかくですから飾っているだけじゃなくて使った思い出も欲しいなって。そう思っちゃいました」 えへへ、と笑うユリアナ。 そのしぐさがニコのハートを射抜いた。 どきん、とニコの胸が高鳴る。 ユリアナの方でもそうなのだろう、まだ酒をあけてはいないし、お風呂からあがって髪の毛を乾かすまでの時間でクールダウンもできていたはずだ。 じゃあ、ユリアナの頬が染まっているのは。 お風呂でも、湯上りでも見たはずのこのピンク色の頬がより一層魅力的に見えるのは。 きっとユリアナの心臓が限界に近いほど照れくささと嬉しさで弾んでいるからに違いない。 くいっと一気に酒をあける。 勿体無いと思いながら、せっかくの機会であると知りながら。 ニコは手元の酒器を一瞬にして干してしまった。 その酒器に瓶からお酒を注ぎ足し、ユリアナは自分の口へと運ぶ。 こくり、と小さく飲み下す。 「やっぱり……、少し、……強いですね」 「おいしいよ、僕のために用意してくれてありがとう!」 「そんな、あの、私も嬉しいです。旅行に誘っていただいてありがとうございます」 見詰め合う瞳と瞳。 所在のなくなった手先が酒器でも取ろうと勝手に伸び、勝手に伸びたもの同士が酒器の上で重なった。 心臓の音が早鐘を打つ。 相手にも聞こえているだろうか。 聞こえても構わないと思う。 「あのっ」 どちらが先に声を出したのか分からない。 ――ばつん、と音を立て。 一瞬にして電気が落ちた。 暗くなった部屋、カーテン越しの月明かりが古びたふすまに作る二人の影がひとつになって――。 「あ、あの」 搾り出した小さな声がニコに縋りつく。 「大好きです。ニコさま」 「僕も大好きだよ。これからももっと二人の思い出を作っていこうね。ユリアナちゃん」 お互いを抱きしめる腕に、強く、強く、力がこもった。
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