「シャンヴァラーラへ向かってくれ」 言いつつ、贖ノ森 火城は人数分のチケットを差し出した。 シャンヴァラーラのどこなのかと問えば、華望月のヒノモトだ、と低く返る。「正確には、ヒノモトの皇主に仕える元ロストナンバー、那ツ森 アソカと、ヒノモトの有力武将たちとともに竜涯郷(リュウガイキョウ)という【箱庭】に向かって欲しい」 火城が言うには、竜涯郷は『電気羊の欠伸』に次ぐ異質な【箱庭】で、そこには守護者である神が存在せず、またヒトも住まないのだという。 その名の通り、どこまでも続く広大にして豊かな緑の大地――森が全体の50%、山が30%を占めるという――に、無数の竜が暮らす穏やかな【箱庭】なのだそうだ。「竜涯郷は神を持たない【箱庭】だ。いや、持たないと言うよりは、過去に何があってそうなったかは判らないが、【箱庭】全体に微弱な神が満ちていると表現すべきなのかもしれない。そのお陰で……というのも妙な話だが、帝国も積極的に手を出すことなく、あるがままの姿で残されている」 何より、竜涯郷には多種多様な竜が棲む。 様々な属性を持ち、大きさも姿かたちも生まれ持った能力も性質も性格も多様な竜が、竜涯郷を自由気ままに闊歩している。 ヒトの腕にとまれるような小さなものがいれば、小山のような巨体を持つものもいる。翼を持つものがいれば、角を持つものがいる。蛇に翼が生えたような姿のものもいる。自在に火や風、雷などの要素を操るものがいれば咆哮ひとつで山を砕くものもいる。陽気なものもいれば怒りっぽいものもいるし、妙に大人しいものや人間嫌いのものもいる。獣のような知能のものもいれば、人間よりも聡明なものもいる。 シャンヴァラーラ開闢のころより存在している竜――千年以上生きた個体は龍とも証するらしいが――、最大で数キロメートルにもなるような、強大な力を持つものもいるとかで、要するに竜涯郷は、迂闊に、生半可な気持ちで手を出すことは不可能な【箱庭】でもあるのだ。「各【箱庭】の猛者が、心通う竜を探して分け入り、生涯の友として故郷へ連れ帰ることもあると聞く。シャンヴァラーラで見られる竜のほとんどは竜涯郷からやってきた個体だ」 その竜涯郷でヒノモトの武将たちが何を、と誰かが問うと、「……帝国の方でも、竜涯郷へ行ってほしいという依頼があった。それは別のロストナンバーたちに任せてあるんだが、向こうのは、少々危険を伴う、異質な『何か』を探して【箱庭】の深部へ分け入るというものだ。あちらは、もしかしたら、戦いになるかも知れないな」 火城はそこで言葉を切り、「竜涯郷では、百年に一度、竜たちの卵が一斉に孵化する日があるんだそうだ。一般に、ほかの【箱庭】では星飛びの日と呼ばれている」 『星』が何を意味するのかは見てみれば判る、とかすかに笑った。「ヒノモトをはじめとした【華望月】の人々は竜涯郷の竜たちと縁が深い。竜涯郷そのものは中立だが、竜の中には帝国の無体を憤って【華望月】につくものもいる。竜の半数はヒトと同じかそれ以上の知性の持ち主だ、それは、決して少ない数ではない」 だから、竜たちにとってもっとも喜ばしい、貴い誕生の日を、彼らとともに緑豊かな美しい地で祝わないか、というのがヒノモトの武将たちの言であるらしい。「アソカの口ぞえや、前回の依頼で顔を合わせた連中が好意的に受け止められたのもあって、武将らはずいぶんロストナンバーたちを買っているようだ。今回の同行で、更に信頼関係を深められれば言うことなし、といったところか」 帝国の横暴――と表現されてはいるが、それが私利私欲のためになされているのかどうかは今ひとつはっきりしない――を止めるため、もしくは別の解決方法を模索するために、そして夜女神ドミナ・ノクスの願いをかなえるためにも、この機会を逃す手はない、というのがアソカや火城の目論見のようだった。「ひとまず、『駅』に向かってくれ。そこでアソカと落ち合ってから、ヒノモトを経て武将たちとともに竜涯郷の中央大森林群へ。――豊かすぎて驚くほどに豊かな場所だ、堪能してくるといい」 言ってから、火城は、「……きっとあんたたちは、そこで、いのちの美しさ、喜び、厳しさ、強さ、そのすべてを見ることだろう」 そう付け加えて、チケットを皆に配ったのだった。
1.みどりの庭 竜涯郷の中央大森林群。 そこは、透き通り輝くみどりの髄を集め、煮詰めて固めた宝玉の如き場所だった。 空から射す陽光が、森の遥か彼方までを明るく照らし、 「うわあ、すごい……!」 それらを目にした相沢 優は、葉の一枚一枚までが煌めく、瑞々しくもしなやかな無数の樹木に感嘆の声を上げ、どこからか響いてくるやさしげな――涼やかな、シャラシャラという音に耳を澄ませては、その美しさに目を輝かせた。 「隅から隅まで、いのちのエネルギーに満ちてるのが判るよ」 言いつつ、一斉孵化が起きるという谷へと向かう。 先導には、那ツ森アソカが立った。 彼女の神顕は知性などを司る神であるらしく、世界の――【箱庭】の成り立ちに関する情報には事欠かないのだそうで、今回の一斉孵化が事前に判ったのも、彼女の神顕の力によるものだと言う。 「どんな竜がいるのかなあ……ヴォロスで出会った飛竜も可愛かったし、楽しみ。めいっぱい、可愛がるんだ、あたし!」 アソカの隣では、臣 雀がはしゃいだ声を上げている。 「生まれたばかりの竜に、刷り込みでお母さんと間違われちゃったらどうしよう? あたし、困っちゃう……けど、そうなったらちょっと嬉しいかも」 「ん、そういえば俺も疑問に思ってたんだけど、竜って刷り込み現象のある生き物なのかな? 卵生っていう点じゃ確かに鳥と同じだけど……」 優の疑問に、肩をすくめたのは同行者のひとり、隻眼の武将、奥ノ州マサムネだった。 「過分にして聴いたことはないな」 「あ、そうなんですか?」 「ああ、竜涯郷の竜に関しちゃ、判ってないことの方が多いが、奴らは鳥でも獣でもなく、竜だからな」 マサムネの言葉に、雀が「そっかー」と少し残念そうな声を上げる。 「赤ちゃん竜のお母さんになるのもいいかなって思ったんだけど」 「そりゃア残念だったな。まァ、何度でも見に来てやりゃァいいじゃねェか」 くっくっと笑って雀の頭を撫でるのは尾ノ江ノブナガ。 マサムネの親友であり好敵手であり、マサムネと同じく強力な神顕でもある、ヒノモトの要のひとりだ。 「うん、そうだね。でも、いつでも来ていいの、ここって?」 「ん? あァ、いいんじゃねェか? 孵化が無事に終われば、の話だろうがな」 「そりゃあそうだよねぇ、百年に一度出会える赤ちゃんなんだもん、感動の出会いってやつだよね」 だったらお父さんお母さん竜の邪魔にならないようにしなきゃね、と大きく頷く雀の傍らを、ゆっくりした足取りで歩きつつ、 「竜の箱庭、に御座いますか……非常に興味がありますね。多種多様な竜様が生活なされていると御聞き致しましたが……ワタクシのような姿かたちの方もいらっしゃるので御座いましょうかね?」 医龍・KSC/AW-05Sは興味津々で周囲を見渡していた。 医龍は、白く美しい、すらりとした身体つきの、白衣を身にまとい眼鏡をかけた、ヒトとワイバーンの中間のような姿をした人工生命である。 いわゆる試験管ベイビーであり、パイプやケーブルが繋がれたガラスシリンダーの中で生を授かった医龍は、自分と同じような種族がこの世界にいるとしたら、どのようなかたちで誕生するのだろうか、という興味のためにこの依頼を受けたのだった。 「探してみれば見つかるんじゃないか? 俺も、俺に似たドラゴンがいるか、気になるところだ」 医龍に応えるのは、Σ・F・Φ・フレームグライドという、がっしりした身体つきと長身の男だ。 彼は、今でこそ人型をしているが、実際には身の丈4.5メートルにもなるレッドドラゴンなのである。 そんな一行で森の奥へ奥へと進むと、途中、銀色に輝く湖があって、 「うわ、なんだろあれ。魚? それとも水棲の竜? 何か、泳いでる!」 発見者の優が興奮気味に言うように、絹のように滑らかな水の中には、レースのようなヒレと水晶の如き煌めく鱗を持つ、全長十メートルにもなる長大な生き物がいて、ゆったりとした優雅な舞を見せているのだった。 「あっちには、ほら、真っ赤な翅の蝶が飛んでる。すごい……宝石みたいだ」 樹上から差し込む陽光に、真紅の蝶がまぶしく輝く。 木漏れ日は、まるで黄金の欠片が揺れるようだ。 「綺麗だな……それに、穏やかだ」 優が、目を細めて微笑んだ時だった。 ざざあっ! 強い風が吹き、木々が揺れた。 それとともに、力強い羽ばたきの音がして、 「皆、あと少しで谷だぜ! もう、いっぱい集まってるみてーだ!」 樹上から、弾むように活き活きとした声が降って来る。 「あ、お帰りー理星さん。偵察お疲れ、どうだった?」 優が空に向かって手を振ると、 「ただいま! すげー色んな竜がいた。皆、なんか、ワクワクしてる感じがして、俺も楽しくなってきた!」 白銀の髪と眼、漆黒の角と純白の大翼という、ツーリスト以外にはありえない姿かたちをした青年が、ふわりと地面に降り立ち、無邪気に笑った。 彼は、理星。 鬼と天使という、両極端な性質を持つ種族同士が結ばれて生まれた異端の子である。 「そんなにたくさん集まってるの? 大変、急がなきゃ見逃しちゃうかも……!」 理星の言葉に雀がそわそわしはじめ、速足になる。 「大丈夫ですよ、まだ『その時』まで少しありますから」 くすっと笑ったアソカがフォローを入れるが、理星と雀のわくわく感に急かされた一行は、つい速足になって谷へと急ぐのだった。 2.満つる器 大きな町が――下手をすれば、小さな国も――丸ごとすっぽり収まってしまいそうな、緩やかな傾斜の広大なすり鉢状の谷には、すでに多様な竜がひしめき、『その時』を待っていた。 火性の赤竜、紅竜、火竜、炎竜。 水性の黒竜、水竜、雨竜、湖竜、海竜。 風性の白竜、銀竜、風竜、嵐竜、飛竜。 地性の青竜、緑竜、花竜、地竜、岩石竜。 光性の黄竜、光貴竜、金竜、雷竜。 闇性の紫竜、闇黒竜、星竜、魔竜。 聖性の天竜、神竜、聖王竜。 その他、鳥竜も妖精竜も、毒竜も邪竜も獣竜も、複数の首を持つ巨大な竜も、普段は敵対していてもおかしくなさそうな種族を含むすべての竜たちが、争うでもなく、ごくごく普通のことのように、つがったもの同士、間に横たわる、色とりどりのたまごをいとおしげに見下ろし、やさしい声で鳴いている。 「すごい……いったいどのくらい集まっているんだろう、谷のずーっと向こう側まで、色んな竜でいっぱい……!」 雀が歓声を上げる。 「さあ……誰も数えたことがありませんから。その必要もないですしね。それに、今回産卵しなかった竜や、若い竜たちはここには来ていませんから、実際の数はもっと多いですよ」 「そうなんだ、すごいね。増えすぎて困る……なんてことにはならないの?」 「ええ。ここは、縦に広大な【電気羊の欠伸】と対を成す、シャンヴァラーラでも随一と言っていい広さを誇る【箱庭】です」 谷は、陽光に煌めく竜たちの鱗でまぶしいほどだ。 小さいものは人間の子どもの頭くらい、大きいものは大型自動車よりも大きい、色と同じく様々なサイズのたまごが、太陽の光を浴びて輝いているのと同じく。 小さいものは猫くらい、大きいものはちょっとしたビルくらいの――それも、千年以上生きた『龍』と呼ばれるものたちと比べれば格段に小さいと言うから驚きだ――、色も形状もあまりに違う、ただ、我が子の誕生を待ち望むそわそわとした楽しげな雰囲気だけが同じという彼らの傍らで、 「竜の生まれ出る場所……か」 Σは目を細めて遠くを見やった。 「……興味深いな。俺と同じ火性のドラゴンも多いようだし……ここなら、本来の姿でもいいってわけだな」 Σは、普段は人間の姿で過ごしているのだが、同族のひしめく谷を目にして、昂揚する気持ちを抑えきれなくなってきたのだった。 「それにしても……自然の豊かな場所だぜ」 Σの、溜め息めいた感嘆の声を聞きつけて、竜の夫婦と挨拶を交わしていた優が小首を傾げる。 「Σさんの故郷は、豊かじゃなかったんですか、自然?」 「ん? ああ、俺のいた連合国は、都市が比較的多かったからな。皆無ってわけじゃあなかったが、ここまでの濃厚さで『緑』を感じるのは、久しぶりだぜ」 「なるほど……確かに。でも、それは俺も同じかも」 「あんたの出身は、壱番世界の日本だったか」 「ええ。Σさんと同じく、緑がないわけじゃないですけど、こんな雄大な場所は、なかなかないですね」 「……どこも同じなんだな、そういうの」 「ですねー」 肩を竦めて笑う優にかすかな笑みを見せ、Σは「さてと」と呟いた。 「せっかくだから、伸び伸びさせてもらうぜ。……ってことでちょっと離れておいてくれ、巻き込むと気の毒だ」 Σの言葉に、優が距離を取る。 親竜たちが何ごとかと見守る中、 「変身・解除」 どこか厳かな声とともに、Σの身体が赤く光り、 「わあ……!」 優が歓声を上げるうちに、彼は、身の丈4.5メートルの赤きドラゴンへと転じていたのだった。 あかあかと輝く硬質な鱗と、棘のような外殻、そして長く力強い尾を持つ、しなやかなレッドドラゴンに、親竜たちの視線が集中する。人語を解し操りもする竜たちからは、あんな綺麗で力強い竜なら是非うちの子とつがいに、などという気の早い声も聞かれ、Σは思わず苦笑した。 「もてもてですねー、Σさん」 「おう。まあ……ここは喜んでおくべきか」 そうですよ、と笑って返した優は、谷の岩陰に、こちらの様子を伺っている小型の竜を見つけ、首を傾げた。 全長は二メートルくらいだろうか。 銀をベースに、ところどころ赤の散った身体の――後に、これは他属性同士の混血の特徴なのだと教えられた――、どこか華奢な印象を受ける、しかし理知的な眼差しの竜だった。 「あのー……?」 声をかけ、近寄ろうとすると、竜は眉根を寄せるような仕草をして、優から距離を取った。 「??」 こちらをチラチラと見ている姿から、人間たちに興味を持っている、もしくは気にしていることは明らかだったが、近づこうとするたびに距離を取られ、彼は首をひねるしかなかった。 と、先ほどまで交流していた黒竜と銀竜の夫妻がくすくすと笑い、 『あの子は人嫌いなのよ』 『あの子の兄が、人間と一緒に“外”へ行ってしまったものでね』 『お兄さんも、数年に一度は戻ってくるのよ? だけど……人間にお兄さんを取られた、と思っているのね』 そのわけを教えてくれる。 「……そうなんですか。じゃあ、近寄らない方がいいのかな?」 『どうだろうね。しかし、本当を言うと、あの子も“外”には興味津々なんじゃないかと思うんだ。そうでなければ、親になる竜しか集まらないようなこの場所に、わざわざやってくる理由がない』 「俺たちを見に、ってことですか?」 『ああ。ヒノモトの武将たちが、面白いお客を連れて来ると言っていたからね。気になって、見に来たんじゃないかな』 楽しげな、悪戯っぽい夫妻の物言いに、優は友人の幼龍を思い出していた。 純粋すぎるがゆえに、人間の醜い行為に耐えられず、人間を嫌うことで自分が傷つかないように壁をつくったという、神聖にして繊細なる水の気の龍。 この竜も、彼と同じように、何がしかの痛みを抱えているのだろう。 「ええと……あの」 意を決して再度声をかける。 「こんにちは、俺は相沢優っていいます。今日は、竜涯郷にお祝いに来ました」 少しでも近づければいい、かといって無理強いをするつもりもない、そんな気持ちで、静かに、朴訥に、言葉を紡ぐ。 3.いにしえの叡智 その頃、理星は道に迷っていた。 皆と一緒に、谷で親竜たちと交流していたはずなのだが、興奮してテンションが上がり、あちこち飛び回ったのが悪かったのか、気づけば彼は、見知らぬ区画へと迷い込んでいたのだった。 「えー、ここどこだろ……?」 開放的な洞窟……とでも言えばいいのだろうか。 距離にして百メートル以上ありそうな天井と地面とを、淡い銀光を孕む、たくさんの太い石柱が支えた、静謐でどこか荘厳な場所だった。 「ここにも、竜がいるのかな?」 巨大な岩山の頂上にぴったりと張り付き、周囲をきょろきょろ見渡しつつ呟く。 「……あのヒトみてーな、やさしい竜と会えたら、いいな」 理星にとって、竜という生き物は思慕と憧憬の対象である。 というのも、0世界で慕っている人の本性が竜なのだ。 今回の依頼に参加したのも、竜=いいヒト、だから会ってみたい、という単純明快極まりない理由からだ。 「んー……どこかなー……」 誰かいないかと、せめて出口を教えてもらわないと帰れなくなる、と人影ならぬ竜影を探していると、 《迷ったか、お客人》 唐突に、たった今まで岩山だと思ってしがみ付いていた塊から声がして、 「うわあぁッ!?」 理星は慌てふためいて空へ舞い上がり、小動物さながらの動きで手近な場所にあった石柱の影に隠れた。 「え、ええと……」 恐る恐る顔を出すと、 《よくぞ参られた、ふたつの貴き血を持つ、異なる旅人よ》 岩山が楽しげに喋った。 そう思ってまじまじと見やれば、理星が乗っかっていたのは、何と、巨大というのも馬鹿馬鹿しいくらい巨大な竜の、鼻先なのだった。 何せ、頭部だけで『偉いヒトが住む豪奢なお屋敷』くらいのサイズがあるのだ。 鋼めいた濃灰銀の身体と、白金に輝く鬣、そして黄金に輝く理知的な目をした、身の丈で言えば数キロメートルあるのではないかと思われるほど巨大な竜で、よくよく見れば鱗があると判るのだが、その一枚一枚が、理星が羽や手足を伸ばしてのびのびと寝られるベッドよりも大きいのでは、それと意識していなくては気づきようもない。 「!」 その時の理星の狼狽ぶりを誰が笑えるだろうか。 「ご、ごごごごめんなさい……ッ!」 子どもの頃から、存在そのものが不吉だと言われて、両親と引き離された後は特に、一挙手一投足までも罵られ侮蔑されてきた理星なのだ。 ひとさまの鼻先に土足で乗るだなんて、自分のような存在に許されるはずもないどころかその場で斬り捨てられても文句は言えない、と、濃い褐色の肌なのにはっきり判るくらい青褪めた理星が「怒られる!」と泣きそうになったのは当然だったが、 《何、可愛らしい花びらが載ったようなもの、お気になさるな》 竜は楽しげに目を細めただけだった。 「え、あ……あの、」 《我らの如き、地底に住まう龍には、これもまた楽しき出来事ゆえ》 理星は心底ホッとした。 「怒らないでくれて、ありがとう、ございます……。えと、俺、理星、です」 たどたどしい挨拶とお礼に、龍、要するに千年以上生きた竜は、金属で出来た幾つもの鈴を鳴らしたような声で笑い、 《お客人からは、我々と同じモノの気配がする。それゆえ声をかけたのだが……なるほど、その鱗か》 理星の首から下がるペンダントを見やった。 「あ、うん、はい、あの……これ、ともだち……が」 友達などと称するのも面映いが、漆黒でありながらまぶしく輝く六角形のそれは、兄貴分である竜のロストナンバーが、これがあれば自然が友達になってくれるから、いつでもお互いを傍に感じられるから、とくれた、彼の鱗なのだった。 《然様か……強き、善き力を感じる。よい友人をお持ちだな》 「……うん」 大好きな人を褒められて嬉しくないはずがなく、理星が無邪気な、はにかんだような笑みを浮かべて頷いた時、 「このような場所があるとは……驚きで御座いますね」 聞き慣れた声がして、白いワイバーンがこちらへ向かって飛んでくるのが見えた。理星が手を振ると、医龍は優美な翼をゆったりと羽ばたかせ、彼らの元へとやってくる。 そしてすぐに、龍に気づいたようだった。 「こちらの方は……」 「えーと、そういえばなんて呼べばいいのかな」 《残念ながら、我らの名は多分に言霊を孕むゆえ、ヒトには聞き取れぬのだ。……だが、それでは不便ゆえ、古龍を含む竜は皆、通称を持っている。私のことは、『神香峰(カミガネ)』、と》 古龍・神香峰の名乗りに、それは通称であってすら世界を震わせるものなのか、洞窟全体が喜ばしい力に揺らいだような気がして、理星は思わず居住まいを正した。 医龍はと言うと、神香峰の前へ進み出て深々と一礼し、 「お初にお目にかかります、神香峰様。ワタクシは医龍・KSC/AW-05Sと申すものに御座います。以後、お見知りおきを」 そう恭しく名乗ってから、 「神香峰様は、お幾つでいらっしゃいますか。ずいぶん大きくていらっしゃるのですね」 《さて。古龍と呼ばれるのは一万年以上生きた龍だけだが。竜涯郷に現存する古龍の内、私を含む十の個体は、創世神によってこのシャンヴァラーラが創造された頃より存在しておるゆえ、幾つ、と数えたこともないな》 「では……神香峰様は、天地開闢の頃よりここにおられる、と……?」 《いかにも》 「……神香峰様を、古の叡智に律されしお方とお見受けして、お尋ねしたいことが御座います」 医龍は神妙な、それでいて迷子にも似た表情で神香峰を見上げた。 《尋ねたいこと、とは……?》 「はい。ワタクシは、これまでに様々な医療の知識を学んで参りました。ひとりでも多くの方々を救えるようになりたいと、勉学に勤しんでおりましたが……ワタクシは不安なのです。ワタクシの力で、どれだけの方々を救うことができるのだろうかと。ワタクシの力が至らぬために、失わせてしまうものがあるのではないかと」 白きワイバーンの目が、縋るような光を帯びる。 「神香峰様。不躾と知ってお願い致します。どうかワタクシに進むべき道を教えて頂けませんでしょうか……?」 古龍の答えは簡潔だった。 《進まれよ、今ある道を、今のままに。すべては、一日(いちじつ)では成らぬ。それらはただ、貴殿の願いと勤勉の先に待とう》 慈しみに満ちた金眼が、迷える白き竜を穏やかに見つめ、 「……はい。はい……!」 医龍はその言葉を噛み締めるように頭を垂れた。 「あ、あのっ」 それを見ながら、理星もまた、問いを発していた。 《うむ?》 「あの、俺。一目会いたいヒトがいるんだけど、俺はそのヒトのために何か出来ますか」 呪われた子どもとして、疎まれ怖れられながら一生を終えるはずだった自分を、誰かが『こちら』へと呼んでくれたことを、本能のように知っている。 「俺は、災いになりませんか」 その人に会いたい。 会って、ありがとうと言いたい。 けれど、呪われた子である自分がその人に何か悪いことをもたらしはしないだろうか、と、それがどうしても怖いのだと理星が言うと、神香峰はまた、金属の鈴が転がるような涼やかな声で笑った。 《貴殿の大切なお人は、今もずっと貴殿を待っておられるよ》 「えっ」 《早く、出会っておあげ。それはきっと、貴殿のみならず、そのお人をも救うこととなろう》 静かな金眼が、理星に運命を告げる。 確かめるまでもなく、それが真実だということが判る。 理星は、拳を強く握り締め、 「はいっ!」 満面の笑みで、大きく頷いた。 ――自分は待たれているという喜びで、胸が熱い。 4.流星喜 『その時』は唐突にやってきた。 何もないはずの空で、谷全体が震えるような、喜ばしい力に満ちた鐘の如き音が鳴り響くと同時に、竜たちが一斉に天を仰いで翼を大きく広げ高らかな咆哮を響かせた。 それはまるで、早くおいでと呼びかけているようで、 「……始まる、のか」 優がまぶしげに空を見上げ、雀と理星が目を輝かせる中、ついに、大小様々、色とりどりのたまごの殻に、小さなひびが入る。 ぴしり、ぱしり、しゃらん、りりん。 少しずつ割れてゆくたまごの奏でる音もまた、命の喜びに満ちた音楽の様相を呈していた。 「! 空が……!」 理星が息を飲み、指し示す先で、空は、誕生するすべての命を祝福するように、光の色をした花を降り頻らせる。 光る花が舞い降り、殻に触れると、ひびは更に大きくなり、たまごも身じろぎめいた動きで震えるようになった。 「あっ、見て!」 雀の視線は、体長三十センチほどの小さな竜が、微細な稲妻を纏いながらたまごから顔を覗かせるのを捕らえていた。殻を被ったままの仔竜が、つぶらな瞳を空に向け、ピィ、と可愛らしい声を上げるのを聞いて、雀の胸は愛しさでいっぱいになる。 「がんばれ、頑張れー!」 金色がかった黄色の身体は、雷性のあかしだ。 親である黄竜たちが見守り、雀が夢中で応援する中、仔竜は懸命に身体を動かし、たまごを揺らして、ついに外の世界へと転がり出た。ぷるぷると身体を振るわせ、まとわりつく殻を弾き飛ばすと、すぐによたよたと歩き始める。 「やったー! お誕生日おめでとう!」 駆け寄って抱き上げて頬ずりしたいのをぐっと堪え、少し離れた位置で盛大に拍手をする。黄竜の仔は、両親に身体を舐めてもらい、まだやわらかい鱗を綺麗にしてもらって、ピィ、と気持ちよさそうに鳴いた。 「ねえ、名前は? あ、竜の名前はあたしたちには聴こえないんだっけ……じゃあ、なんて呼んだらいい?」 興奮気味に、早く名前を呼びたい、一緒に遊びたい、いっぱい可愛がりたい……という思いとともに尋ねると、親竜たちはしばしの沈黙の後、厳かに告げた。 『では、飛燕(ヒエン)……と』 「飛燕……」 それは不意打ちに似た驚きだったが、決して嫌な感覚ではなかった。 『? どうした?』 「ううん。燕ってね、兄貴の名前なの。それで……何か、運命みたいって思ったんだ」 もう一度会えるのかどうかも判らない、大好きな兄。 大好きだけれど、もしかしたら自分が歪めてしまったのかも知れない存在。 けれど、やっぱり、どうしても会いたい大切な人。 今日、こうして出会った竜は、その兄と同じ呼び名を持つのだと言う。 それは、せつなく物悲しく、しかしとても大きな喜びでもあるのだった。 「……よかった、あたし、ここに来て」 ピィ、と鳴いて近寄ってきた仔竜の頭を撫で、肩から腕へと這い伝わらせながら、雀は頬を紅潮させる。 「ねえ……飛燕。あたし、キミに会えて、嬉しい」 目尻に滲んだ涙の意味を、雀だけが知っている。 その頃、優と理星は仔馬サイズの黒竜の誕生に立ち会っていた。 漆黒の身体に白銀の翼を持つその竜は、水性の黒竜と風性の銀竜がつがって生まれたものだという。 「命って……力強いな」 懸命に、たまごから出てこようともがく黒竜を、手出しできないもどかしさと、とにかく無事に生まれてきてほしいという手に汗握る思いで見つめながら、優はぽつりと呟く。 「うん……なんだろ、綺麗だなって思う」 「そうだな……俺、前の依頼で小亀の誕生を見守ったことがあるんだけどさ」 「うん」 「あの時も思ったけど、命って、一生懸命でひたむきで……なんか、ここに来る」 高らかに鳴いた仔竜が、力を振り絞って殻から転がり出るのを見届け、優は胸に手を当てた。強く脈打つそれに、生きている喜びを思う。 生まれた黒竜はと言うと、何もかもが珍しく楽しくて仕方がないとでも言わんばかりに、まだ薄く小さな翼を広げてはためかせ、一声鳴くと、いきなり優に向かって突進した。 「えっ、ちょ……うぐっ」 突拍子もない行動に虚を突かれ、思い切り鳩尾の辺りを強打されて――赤ん坊とは言え仔馬サイズの竜はかなりの力の持ち主でもあって――、優は思わず息を詰めた。 「だ、大丈夫か、優……?」 「あー、うん、すっごい効いたけど、なんとか」 『あらあら、そんなに喜んで』 『お兄さんたちが出来てよかったな、夜雲(ヤクモ)』 おっとりとした両親の言葉に脱力しつつ、仔犬さながらに全身で喜びを表現してまとわりついてくる、命そのもののようなエネルギーに満ちた存在に苦笑し、優は仔竜の頭を撫でた。 そのことに大喜びし、くるくる回転した仔竜が、今度は理星に向かって突進した挙げ句、前脚で押し倒しのしかかった彼の見事な羽をおしゃぶりのように口に入れてもぐもぐし、どうしていいか判らなくなった理星を硬直させたのはまた別の話。 医龍はと言うと、自分に似たワイバーンを探し出し、その誕生を見届けていた。 「これもまたご縁で御座いますね」 創られた存在である自分を辛いと思ったことはなく、むしろ己が生は幸いと喜びによってかたちづくられていると確信している医龍だが、こうして同属に出会えると、それとは別の喜びが湧き上がって来る。 「ワタクシは紛い物の竜では御座いますが……だからこそ、本物の竜様が生を授かる光景を見届けたいと感じたので御座いましょう」 雪のように輝く白をまとったワイバーンは、親竜たちに見守られながら、危なっかしい足取りで立ち上がり、ゆったりと翼を広げた。 「……ワタクシも、生まれたばかりの頃はこうだったので御座いましょうか」 自分を生み出した人々、欠陥品でありそのまま処分されてもおかしくなかった自分を慈しみ育ててくれた人々のことを懐かしく思い起こしつつしみじみと呟く。 医龍が、兄弟なのかとばかりに近寄ってきた小さなワイバーンと遊んでいると――ちなみに、主人から教わった独楽やカルタやメンコなどを持ち込んでいた――、 「しかし、すごいもんだな」 あちこちぶらついて様々な竜の誕生を見てきたというΣがひょっこりと顔を覗かせた。 「これだけの数が一斉に孵化して、しかも聞くところによると幼竜期に命を落とす竜ってのは数えるほどなんだとよ。竜の間にゃ、仔竜は襲わないって暗黙のルールみたいなものがあるらしい」 「それは、素晴らしいことで御座いますね」 「ああ。まあ、何も同属を襲って食わなくても、森には他の獲物が山のようにいるみたいだし、何より肉を食って生きてる竜ばっかりじゃないらしいからな。つくづく、面白い生き物だぜ、竜ってのは」 自分もドラゴンのはずなのに他人事のような口調で言い、Σがからりと笑った時、白い仔ワイバーンが空を見上げて一声鳴いた。 「白良(キヨラ)様?」 医龍が首を傾げる間に、仔竜は翼を広げて大きく羽ばたき、空へと舞い上がる。 ――それは、谷中で起きていた。 「あっ、飛燕ったらどこに行くの!?」 「おーい、どうした、夜雲ー」 小さな小さな黄竜も、銀の翼を負う黒竜も、生まれたばかりの仔竜たちが皆、一斉に羽ばたいて飛び立つと、今度は親竜たちもまたそれに倣った。 竜たちの翼が起こす凄まじい風で、小柄な雀やアソカなどは吹き飛ばされそうになり、手近な位置にいた武将たちにしがみ付いたほどだ。 「うわ……すごい、綺麗……!」 しかし、そんな風など気にもしていない風情で、空を見上げて雀が歓声を上げる。 他の旅人たちもそれに倣い、同じように歓声を上げた。 ――空からは、光る花が降り続けている。 その、花が降り頻る空を、翼を、鱗を、瞳を輝かせた竜たちが一丸となって飛ぶ。 清らかで神々しく、歓喜に満ちたそれは、 「ああ、そうか……これが、星か……!」 喜びに輝く竜たちの全身をして、この佳き日を星飛びの日と呼ばせるのだと旅人たちに知らしめる。 優は、それをうっとりと見上げていたが、 「アソカさん、マサムネさん、ノブナガさん、今日はありがとうございました」 ふと思い立って、ヒノモトの人々に礼を言った。 「百年に一度の、こんな瞬間に立ち会えて、本当によかった。誘ってくださったこと、感謝します」 優の言葉に、三人は交互に顔を見合わせた後、かすかに笑って首を横に振る。 「私も、皆さんとこの時を共有できたことを嬉しく思います。きっと、この場にいれば、誰もがそう思ったでしょう」 アソカがそう言った時、何か大きなものが倒れる音が幾つも響いた。 驚いて見やれば、百近い竜が、地面に倒れている。 『星飛び』に加わらず、我が子や同胞をじっと見上げていた、特に大きな竜たちが大半で、満足げに目を閉じた彼らの様子に、妙な胸騒ぎを覚え、 「アソカさん、彼らは」 尋ねると、 「……寿命です。年経た竜の大半は、龍とはならず、仔を生むことで命をつないで力尽きます。次世代の存在が生まれ、すべては受け継がれたということでしょう」 静かな、しかし悼みを孕んだ答えが返り、優は言葉に詰まる。 「誕生の日が、お別れの日だなんて」 命の美しさ、素晴らしさ、それと同じ位置にある、覆すことの出来ない厳しさ。 それが、優たちの前には突きつけられていた。 「だけど……やっぱり、綺麗だ。あの星たちも、命も」 けれど、だからこそ命はいとおしいのだと、生きることは弾むような喜びを孕むのだと、言葉なしに理解していた者も、決して少なくはなかっただろう。 5.予兆 『星』たちが大地へと帰還し、息絶えた同胞たちに悼みの咆哮を上げたのち、それぞれの住まいへと戻って行こうとしている最中に『それ』は起きた。 優や理星、医龍が、誕生を見届けた仔竜とその両親にまた遊びに来ると約束する中、飛燕とお別れしたくない、と雀が泣きべそをかいている時のことだった。 『また、いつでも遊びにおいで。飛燕も、お姉ちゃんが来るのをずっと待っているよ』 父黄竜に諭され、飛燕に頬を舐められてようやく泣きやんだ雀が、絶対絶対また来るからね、と何度も繰り返したあと、仔竜を両親の翼にそっと乗せた、その時、大地が激しい勢いで震動した。 どおおぉん、という大きな音が響き、巨体を誇る竜ですらよろめく。 仔竜の中には、ころころと転がってしまったものもいた。 「何だろう、この、不吉な感じ……」 同時に、足元で、思わず頭を抱えて蹲りたくなるような不気味な『何か』が蠢く感覚が全員を襲う。 竜たちが天を見上げ、地を見下ろしては警戒の声を発する中、 『憎しみの声……一体、誰の……?』 黒竜が我が子を翼の内に匿いながらぽつりと呟いた。 それから、 『一刻も早くここから立ち去りなさい、旅人たち。何かが起きたのだわ……後は、私たちが』 厳しさを増した声で、人々を促す。 「そんな、皆さんを放って行くなんて……って、あ、まさか」 気づいたのは優だった。 「『深部』に向かった人たちに、何かあった、とか……?」 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。 足元で何かが蠢く。 ――何かが、鎌首をもたげて獲物を狙っている。 そんな錯覚に、背筋を冷たいものが滑り落ちて行き、 「だったら、尚更、どうにかしなきゃ」 呟きは、どこか虚しくたわんで響いた。
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