冷たく、乾いた晴天が続いていた。しかしそれも今日限りのようだ。ねずみ色の雲が紗のように天球を覆い始めている。 「雨……か」 埃っぽい基地から首を出し、コタロ・ムラタナは風の変化を敏感に嗅ぎ取った。 次いで別の異変に気付く。いつにもましてサクラコの機嫌が良い。 「聞いたか? ソブイせんせ――いや、教官が視察に」 彼女は頬を上気させて告げ、コタロは蒼い眼を軽く見開いた。教官の来訪も、サクラコの無邪気な様子も意外だ。 軍営の孤児院でコタロ達を兵隊に仕立てたのがソブイという男だった。現在は中央に赴任しており、東部前線基地に所属するコタロ達と顔を合わせる機会は少ない。孤児院を出た皆が、父親と祖父の中間のような年齢のソブイを敬愛していた。 「隊長。そろそろ合議へ」 「分かった」 部下の兵士に答え、サクラコはコタロに向かって肩をすくめた。 「教官も、何も合議の時間に来なくても。是非寄ってほしいと伝えてくれ」 「……了解」 コタロは微動だにせず彼女の背を見送った。凛と前進する背中で、ひと束の金髪が弾むように揺れている。 ソブイは日陰の応接室に通され、コタロを含む三名の兵士もそこへ向かった。 久方ぶりに再会するソブイは老いていた。鬢には白い物が混じり、目許にも口許にもひびのような皺が刻まれている。生来の鷲鼻は痩せ、峻厳さを増して聳えていた。 「でかくなったもんだ」 コタロの姿を見るなりソブイは唇を歪めた。コタロは小さく顎を引く。長身のコタロと並ぶと、小柄なソブイは子供のように見えるのだった。 「サクラコは」 「合議、が」 「抜けられんか。小隊長殿は忙しい」 ソブイは軍帽を目深にかぶり直した。口許の皺が深くなる。 「予定通りだ」 軍帽のつばの下、蒼い目が稲妻のように光った。老いてなお失われぬ眼光にコタロはぞくりとする。それはひどく不吉な寒気で、事実、予感は的中した。 話の筋は明快だった。 紅国のさる勢力から、停戦に関わる要求が秘密裏にもたらされたという。蒼国上層部は賛同すると見せかけて隙を突くことを決めた。しかしことが表沙汰になった場合、近年増加傾向にある反戦――あるいは厭戦――派が騒ぐのは必至だ。人口に乏しい蒼国において、世論の分裂は破滅を招きかねぬ。 「故に」 たん、とソブイは机上の名簿を突いた。老いた指の下、粗悪な紙が震えるように跳ねる。 「妨げとなる分子を排除する。主に隊長格。我らは“これ”を」 筋張った指がサクラコの名をなぞるのをコタロは茫と見つめた。 「捨て置けば必ず邪魔になる」 断罪が続く。回し車を止めるハツカネズミなどいらぬと。「戦争が国を豊かにしたのか」。サクラコの問いがコタロの鼓膜を静かに揺さぶる。 「密命につき他言は無用。決行は明晩。では、これより質疑に応ずる」 ソブイは要点のみを告げて兵士らを見回した。当然、誰もが口を開かなかった。いち兵士が国の命令に口を挟む道理はない。 緞帳のような沈黙が降りてくる。 しんしんと空気が冷えていく。 コタロは浅い呼吸を密やかに繰り返した。実のところ、この応接室はあまり好きになれない。日当たりが悪く、壁は重苦しいねずみ色で、いつでもこちらを圧迫するのだ。 「コタロ。理解したか」 静かな稲光の目がコタロを射抜く。コタロは息を止め、手を挙げて発言を請うた。ソブイは首肯して許可した。 「……何の、ために」 そろそろと吐き出した息はかすかに震えていた。 他の二名が無言で視線を交わす。ソブイがどんな表情をしたのか誰にも分からない。老いた双眸は軍帽の暗がりの下だ。 「国のためだ」 ソブイは用心深く軍帽のつばを引いた。コタロは肯くように顎を引いて口を閉ざす。ただ、ソブイの白髪だけが瞼の裏に焼き付いた。 ――ハツカネズミの色だ、と。 コタロの予感はまたしても的中した。 日没と同時に雲が厚くなり、不気味な薄明かりが天球に広がる。こめかみがかすかに疼く。気圧のせいだろうが、皮膚の下で虫でも飼っているようだ。 雲は鯨の腹に似ていた。圧倒的な大きさと重さで頭上にのしかかっている。コタロは逃げるように基地に戻った。 「コタロ」 途端に、軽快に肩を叩かれる。疲れを浮かべたサクラコの笑顔があった。ようやく合議が終わったらしい。 「教官は?」 刹那、コタロは喉仏を上下させた。 「……もう、休むそうだ」 呻くように声を押し出す。一拍遅れたが、悟られなかった筈だ。サクラコは口惜しげに「そうか」と溜息をついた。 「滞在はいつまでだ?」 「明日の、夜と」 「会えるだろうか」 「……ああ」 明晩、嫌でも顔を合わせることになる。 「教官も暇がないかも知れないな。お互い、忙しい」 コタロの心中を知る由もなくサクラコは笑う。誇り高い口ぶりだ。 「私が忙しいと知れば教官も喜んで下さる筈だ」 「……ああ」 「どうしたコタロ?」 サクラコは首を傾げた。金髪が、額にべたついている。基地で湯を浴びるのは数日に一度だ。 「この国が……好きか?」 とうとう、コタロは呻くように問うた。サクラコは目をぱちくりさせた。蒼い眼の縁に黄色いヤニが溜まり、頬も首筋も垢で黒ずんでいる。コタロとて似たようなものだし、兵隊は皆こんなものだろう。 「本気で訊いているのか?」 「ああ」 「ふん……」 刹那、睨み合う。 「……ふ」 均衡を破ったのはサクラコだった。 「ふふ、ふ、あははははは!」 彼女は体を折り曲げて笑った。歯の黄ばみも、軍服から舞い上がる埃も意に介さず、無邪気ですらある風情で笑い続けた。 「くくく。何を今更」 ゆっくりと背筋を正し、凛と胸を張る。 「無論だ。この国を愛している」 コタロのこめかみがぴくりと震えた。 「蒼国の兵士であることは私の誇り。国が、より幸福になるよう願っている」 ――戦争ガ国ヲ豊カニシタノカ―― 「そのために我々がいる。我々はそのために戦っている」 ――停戦ニ関ワル要求ガ―― 「この身はただ国のために。ソブイ先生の教えを忘れたか?」 ――妨ゲトナル分子ヲ排除スル―― コタロは気取られぬようにゆっくりと目を伏せた。指先までみっちり鉛が詰まっている気がする。 命令のままに戦い続けてきた。疑問を感じたことはおろか、自身で考えたこともなかった。 だからなのだろうか。 こんなに頭が痛いのは。 「明日は……用心しろ」 俯いたまま呻いた。サクラコが眉を持ち上げる気配がある。コタロはのろのろと顔を上げた。サクラコを見つめる瞳はわずかも揺らがない。 「ひどい、雨になる」 兵隊としての精一杯だった。 翌日。 ねずみ色の鯨は空に居座り、寡黙に地上を見下ろし続けた。兵士たちは豪雨に備えて土嚢を積み始める。雨の訪れを待ち構えながら日が沈み、夜が更けた。 夜陰に紛れ、一人、二人。三名の忠実な兵士がソブイの下に集結する。 「作戦を開始する」 ソブイは当たり前のように告げた。 誰もが口を開かない。押し殺した足音だけが響く。まるで葬列だ。空気はどろどろと湿り、彼らに重たく纏わりついている。 外に出た時だった。 ボウガンの、くぐもった発射音が三つ。 最後尾についていたコタロが矢を放ったのだ。一発目と二発目は仲間の背に刺さり、心臓を穿った。三発目はソブイの頬を掠めて闇に吸い込まれた。ソブイだけが、初めから予期していたように振り返って避けてみせた。 「偉くなったもんだ」 絶命した二名を見下ろし、ソブイはただ笑った。コタロ達を育て上げたソブイは、誰よりもコタロの心中を見透かしていた。 「俺まで討ち取れると思ったか。散々痛めつけてやったのを忘れたか!」 コタロは答えずにボウガンを構えた。 兵士のイロハならソブイから叩き込まれた。しかしコタロは凡庸な兵士で、ソブイは百戦錬磨の老兵だ。コタロを熟知したソブイは面白いように矢を避けていく。 「ちっ」 コタロは舌打ちしてボウガンを投げ捨てた。次の瞬間、不可視の圧力が腹をぶちのめす。老いた唇が読経のように呪文を紡いでいる。 「そら。弓銃の次は懐剣か」 挑発するような声。二つの短剣がぎらりと光り、打ち合わされる。ぎいいいん。青い火花。ソブイの目が稲妻の光を帯び、コタロの息が乱れた。手首に感じる衝撃は重く、強靭だ。 ソブイの剣がコタロの腕を跳ね上げる。コタロの剣は狂ったように回転しながら飛んでいく。ソブイは手を緩めない。コタロの耳に熱が走る。切られた。返す刃は首筋を狙っている。 刹那、コタロは息を止めた。 ソブイの眼前で身を沈める。ソブイの刃が空を切る。コタロはソブイの腕を掴んでねじり上げた。からん。懐剣が落ちる音。 「コタ、」 腕を離さず、一息に当て身を喰らわせる。 『我らの得物は魔法。弓銃。それと……使用頻度は高くないが、近接用の懐剣も支給される』 老いた体を地べたに叩きつける。コタロがソブイに勝るのは肉体の力のみだ。 『しかし最後に残るのはこの体よ。体術を軽んじる者も多いが、覚えておけばきっと助けになる』 揉み合いながら転がる。あっという間に土にまみれる。皺の寄った手が虚しく空を掻く。 「……ひょろひょろのくせに。俺の教えを守っていたとは」 老兵は若者に組み伏せられ、ただ笑うばかりだった。 風がいっそう重くなる。暗闇の中、二つの息遣いだけが響いている。 「でかくなったもんだ」 首を押さえつけられたソブイはかすかに唇を歪めた。手の下に感じる小ささと頼りなさにコタロは目を揺らす。ソブイが縮んだのではないことは分かってはいた。かつて見上げていた目も、恐れ、敬愛していた鷲鼻も今やコタロの掌握下だ。 迅速に両手に力を込める。ぎちり。ぎちり。稲妻色の目が溢血する。顔面の血管がミミズのように膨れ上がる。 「コタロ……お前、サ――」 遮るように首の骨をへし折った。「ごりゅっ」とも「ぶちっ」ともつかぬ手ごたえがあり、ソブイの口から血が噴き上げる。ぬるい血は、コタロの軍服をまだらに汚した。 とうとう雨が降ってきた。あっという間に豪雨と化し、弾幕のようにコタロを打ち据える。ソブイの首を折った感触が消えない。手を洗いたい衝動に駆られたが、そんな暇も必要もなかった。 足元の土が泥と化して流れていく。三つの血溜まりが形を失って溶けていく。雨は平等に降り注ぎ、ソブイの眼窩に水溜まりを作った。小さな水溜まりはすぐに溢れ、涙のようにこめかみへ伝い落ちる。 あるいは本当に泣いていたのか。 この雨では分からない。コタロの頬も死体の顔も濡れている。暗闇の中では何も見えないし、聞こえない。 「――――――!」 かすかに、息を呑む気配が伝わってきた。 建物の陰で人のシルエットが揺れている。物音で気付かれたのだろうか。雨の弾幕を透かし見たコタロはボウガンを拾って立ち上がった。 「コタロ? 先生……? 先生。先生!」 人影は泥の中に転がるソブイを懸命に揺さぶる。死体だと知ると、きっと顔を上げた。 「コタロ。お前が。お前が殺したのか」 声が震えている。コタロは答えない。 人影……サクラコは、激情のままにボウガンを構えた。 「答えろ。何故だ! 何故――」 悲鳴のような糾弾。頬を雨が伝っている。コタロは黙し、泥を蹴りつけて彼女に挑んだ。 (了)
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