井戸の底のような闇、じっとりと湿った空気に包まれたそこで黒いコート姿の男は懐から丸い硝子瓶を取り出した。小さな栓を抜き、そこから漏れ出したのは赤から黒にかわった香り。「絶望の香りよ、さぁ、包め。形を成せ、この妄想に!」 ぎしっと何かが歪む。闇のなかに突然と現れたのは豊かな赤い髪の毛の、白肌の少女だった。虚ろな瞳でゆっくりと起き上がる。「お前の名前は?」 低く甘い声で問いかけると少女は答えた。「あい、りん」「そうだ。アイリーン。お前はアイリーン・アデル。さぁ、なにがしたい? お前はなんのためにここにいる? ここに現れた?」「はわど、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる!」 少女はうっとりと、カナリアのような声で微笑んで繰り返す。あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、あいしてる、ハワード、アデル、永遠、永遠を、永遠、造りましょう、永遠を、愛してる! 「成功したようです。ボス」 カナリアの唄声を無視して男は背後にいる男を見た。 地味な茶色のスーツ姿の男と、その右横に並ぶ扇で顔を隠した女が興味深そうに少女を見ていた。「素晴らしいよ。ハイリーブ、やはり君の香はこの件にうってつけのようだね。香師としての腕がますますあがったようだし」「ボスに喜んでいただければ!」 ハイリーブが高揚に頬を染める。しかし、それは長くは続かなかった。「愛しいランファ、君の協力のおかげだ」 男は横にいる女に極上の微笑みを浮かべたのにランファと呼ばれた女もまんざらでもないのか流し眼を向ける。 そこには男女の関係を匂わせる濃厚さが存在した。「っ! ボス、お役に立ったのは僕のはずです。この女は……媽は何もしていないでしょう!」 ランファ、また媽と呼ばれた女の目に剣呑が宿る。「二人とも、やめなさい。この一件はお前に任せておく。素晴らしい結果を期待している。そうだな。結果次第で、お前がほしいものをなんでも一つ、俺がやろう」 その声にハイリーブの目が欲情の光を持つのに、ランファが不愉快げな顔をした。「さぁ、仕事にとりかかなさい」「なぜあのようなことを?」 二人きりになると低く甘えた声で男を詰った。「いけないかな?」「あの男は、いやしくも貴方との一夜をねだるに決まっておる!」「あははは、そうかもしれないな。なぁに、そのときはそのとき……妬いているのかい? 愛しいランファ。妬むのはないものへの怒り。嫉妬は失うことへの恐れ。なら、君はどちらとも無縁さ。愛しいランファ、俺が愛しているのは君だけだからね」 男はランファの腰を抱き、体を密着させる。そのときになって男の眸が淡い紫色の輝きを放っているのが見てとれた。「さぁ。君は君の仕事に戻って。あの人の役に立つんだ。それが俺を助けることになるんだ。愛しいランファ」 優しい口づけを落す男の腕からランファは名残惜しげに去っていく。その背を見て男は笑った。「哀しているよ、ランファ」☆ ☆ ☆「よぉ、おめぇら!」 依頼者であるハワード・アデルの屋敷で旅人たちが通された客間に美龍会の長・エバが着崩した着物姿に不敵な笑みを浮かべて待っていた。「今回、狼ところの依頼なんだが、そのついでに俺も気になることがあったよぉ、おめぇらに頼もうと思ってな。まぁもののついでだ、もののついで。おら、座れよ」「鬼、ここは私の家だぞ」「ハッ、ケツの穴のちっせぇこといってんな。狼」 勝手に仕切るエバにハワードが苛立つしげに文句を放つが、エバはからからと笑ってとりあわない。 旅人たちはぴりぴりとした空気のなか、とりあえずソファに腰かける。「依頼っていうのがなぁ」 硝子の割れる音と女の悲鳴にハワードが顔をあげ駆けだすあとを、旅人も続いてその部屋に飛び込んだ。 風が吹く。 むっと甘い香りがした。それも赤い色を持って、部屋いっぱいを満たして――それがさっと霧が晴れたように見えなくなった。 白いカーテンを揺らして、立ちつくす青いブレザー服の赤毛の女。その赤い髪の毛はまるで生き物のように蠢いて理沙子を持ちあげ、首を締め上げていた。「理沙子! ……きみは」 ハワードが絶句した。「あいしてる、あいしてる、あいしてる、はわーど」 赤毛の、それは十代の少女だった。美しいエメラルドグリーンの眸を細めて笑いかける。「あなたのアイリーンよ。会いたかった、会いたかった、愛してる、愛してるわ、ハワード。ねぇ、どうして、私の部屋に女がいるの? この女はあなたの妻だというの、どうして?」 アイリーンは首を傾げると、ハワードが一歩、前に進み出る。それにエバが旅人の腕をとった。「ばか、隠れろ。巻き添え食って死ぬぞ!」 ――え? 旅人たちが気が付いたときにはハワードは弾丸のように飛び出していた。その手には銃が握られ、躊躇いもなく発砲する。赤い髪の毛が壁のように女を守る。それにさらにハワードは撃つが、髪の守りを突発出来ないと判断すると銃がさらりと砂となって消え、新たな銃がその手のなかに生み出され、再び発砲が開始される。それが高スピードで繰り返される様を旅人たちは見ていた。 ハワードの力について説明したのはエバだ。「ハワードの奴はよぉ、全身が武器庫なんだよ。正確にゃあ、あいつは魔術師だ。頭のなかにいくつもの陣やら方式を覚えていて、瞬時にそれを発動させれんだよ。詳しくは知らんが、あいつ自身がそういう元らしいぜぇ。一番得意なのが武器構成。あいつは武器ならなんでも生み出させる。そしてその武器は破壊されればされるほどに威力を増す」 言われて目を凝らすと、スピードもさることながらハワードの銃は攻撃、分解、新たに構築されるたびに威力を増していた。 炎を吹く銃が赤毛の女を壁まで追い詰めると、ハワードは何かに気が付いたように後ろに下がった。女の後ろの壁からぬっと男が突如現れたのだ。男は手のなかに小さな赤黒い色を溜め込んだ硝子瓶を握り、嫣然と微笑んだ。「アイリーン。そろそろ退却しましょう」「どうしてどうして、どうしてはわーど……あなたの妻、アイリーン・アデル。あなたに尽くすためだけに生きてるアイリーン。ねぇ、永遠の愛を誓ったでしょ? ハワード、ねぇ、どうして、知らない女がいるの。どうしてこの女は赤ん坊を抱えていたの? 赤ちゃんね、ふふ、知らない人が連れて逃げちゃった。ねえ、どうして?」「……私の妻と子に危害をくわえたな、アイリーン」 ハワードの声にアイリーンは眉根を寄せた。「私があなたの妻でしよう! アイリーン・アデル! この世に私以外の妻はいないのよ! ああ、邪魔だわ。この女が邪魔なの。殺してあげる!」「アイリーン」 連れの男が窘めた。「そろそろにおいが切れる。魔法はおしまいだ」「わかっているわよ。ああ、ここじゃだめね。ここだと、力が出ないもの。ああ、怒られちゃう。はやくいかなくちゃ。赤ちゃん、つれていかなくちゃいけないのに。ああ、もう、仕方ないわね!」 アイリーンはヒステリックに叫ぶと男とともに後ろに下がっていくのにハワードが声をあげた。「どこにいくつもりだ!」「家に帰るの。私たちの。こんなところよりずっと素敵なところ。ねぇ、ハワード、会いにきて暗房に、赤ちゃんを連れてきてね。そこなら、私たち三人とも幸せになれるのよ。そこでいらないこいつは殺してあげる! 来てよ。絶対よ! ちゃんと場所も残しておいてあげる。ふふ、ふふ、必ず私まで辿りついてね! だって、あなたは私の手をとって言ったわね。あの白い花咲く庭で、結婚しようと、たとえあなたが私を利用するために結婚するといったのだとしても、ふふ、ふふ、それでも永遠を誓ったんだもの! 絶対に君を幸せにするよって!」 アイリーンは白い手を伸ばして小さな紙切れを床に落とすと、理沙子をなんなく髪の毛で抱えて窓から男とともに飛び出して、その姿を消した。☆ ☆ ☆「ここは? 私は?」 気絶していた理沙子は起き上がると周囲を見た。冷たいアスファルトと暗闇。 ひどく不気味な室内に理沙子は顔をしかめた。ここにいるだけでいやに不安な気持ちになる。それに気を失う前の記憶を思い出した理沙子は逃げようと立ち上がったが、その前にすっと赤毛の女が現れた。「気がついた? 理沙子だったかしら? 古めかしい名前ね。ふ、ふははは! 私のハワードにどうやってとりいったの? 憎らしい! あの人はね、私を追いかけてくるの。私と永遠の愛を誓うの! あなたに見せてあげる! 私の愛を。ああ、そうね。そうよ、許してあげる。私がいなくて、寂しかったのね。誰よりも寂しがり屋なまだらの狼さん」「何言ってるの? あなた。ハワードがここに来るとしたら私を助けに来てくれるのよ」「私のために来るのよ!」 赤毛の女が声を荒らげた。そのエメラルドブルーの瞳がぎらぎらと怒りに燃えている。「どうしてあなたのために! ハワードは私の夫よっ! あんた、なんなのよ! アイリーンって、まさか、前の奥さん? けど、死別したって」「黙らないと殺すわよ? ここでは私は全力を出せるんだから」 とたんに赤毛の女の髪の毛が伸びて、理沙子の首に巻きついた。それが鋭い刃のようになって皮膚を傷つける。「ふふ、あははは! 甘やかされて、ホント役に立たないわね。それで愛されているはずないでしょ!」「……かわいそうな女、宝石の価値も、甘いケーキの味わいも知らない。その重みも」 赤毛の女はヒステリックに叫び、理沙子を地面に叩きつけた。「うるさい、うるさい、うるさい! 私はあの人を愛しているの! あの人も愛しているの、あはははははははははは! ハワード、ハワード、あなたの前で、この女の顔をずたずたにしてあげる。あはははははははははははは! だって、誓ったもの。私はその誓いだもの!」 気絶した理沙子の顔を踏みつけたアイリーンは笑う。「アイリーン」「本当におつかいも満足にできないのね。私は、赤ん坊もつれてこいっていったのに!」「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい、アイリーン、私」「黙りなさい。役立たず! ……かわいそうなアイリーン。死者のアイリーン。ふふ、あはははは! 誰よりも幸福なアイリーンは私よ」☆ ☆ ☆「すまないが、君たちへの依頼はなしだ。即刻帰ってくれ。私は封箱地区に妻を迎えに、そしてアイリーンを始末する」 ハワードは厳かに告げたのに反論したのはエバだ。「お前、あそこは蛇がいるんだぞ。許可なくテリトリーに入って勝手したので何か言われたらどうすんだ」「構わん」「莫迦か。てめぇはよくても、てめぇが暴れて、あそこをぶっ壊されたら困るのは俺らだ。それにあそこは女狐とつるんでるんだぞぉ? 何を要求されるかぁわかりゃしねぇ」「私は私の妻を迎えに行く。それは君にも邪魔はさせない。邪魔をするなら殺すだけだ。鬼」 ハワードの血走った眼と全身から放つ殺気は本物だ。 エバはしばらく考えるように黙っていたが、すっと旅人たちに目を向けた。「……旅人の依頼はキャンセルすんだな。だったら、お前ら、俺が雇う。こいつの護衛だ。一緒についていけ。別にこの狼を守れとはいわねぇ。こいつには暴走癖あっから、それを止めてくれや」「鬼! 勝手を」「黙りゃあ! これは最大限の譲歩だ。狼。見逃してやるが、旅人も連れていけ。基本的にこいつらがするのにお前は見ているだけ。それだったらあとあと因縁つけても言い訳ができんだよ。それができなきゃ、今すぐお前が動けないように俺がするまでだ」 エバの言葉にハワードは舌打ちして黙った。 意外なことにハワードはエバの言葉に従った。また普段は冷静にふるまっているハワードだが本来はかなりの激情家らしい、また豪快で無鉄砲なエバのほうがこうした事態には冷静な対応が出来るようだ。「で、指名された場所はぁ?」「……ここは、たぶん、教会だ。私とアイリーンが結婚式をあげた。この地下に暗房があるんだろう。ここの下は確か生活用品を奥ためによく使用される部分と、その奥に以前この場を縄張りにしていたマフィアたちが逃亡用の道を作って、かなり複雑な作りになっていたはずだ」「へぇ。しかし、そりゃ、ますますアイリーンなのか? おりゃあ、あれがてめぇの元嫁さんかぁ? 俺にゃあ、わからん」「私もだ。むしろ、私は彼女たちを見分けれたことがないからな」 アイリーン・アデル。 彼女は二十四年前に死亡したハワードの妻だ。彼女が死んだとき遺体はすべて灰にし、決して悪用されるようなことはないはずとハワードは説明しながら、アイリーンの写真を取り出した。 そこには赤毛のエメラルドブルーの瞳のにこやかに微笑む大人しそうな女性が立っていた。 ただし、とハワードはつけくわえた。彼女には双子の妹がいた。「今は結婚してアイリーン・スシャ。そう同じ名前の双子の妹だ……私の亡くなった妻の双子の妹だ。しかし、彼女はもう四十歳も手前のはずだ。気になってオーガストを確認に行かせたが」 とたんに電話が鳴った。「オーガスト。なに? ……スシャの家で全身を何か鋭利な紐のようなものでずたずたに引き裂かれた主人がいたそうだ。つまり、私たちの前に来たのは……しかし、私とアイリーンだけが知っていることも知っていた……旅人諸君、エバの言葉があるので私は我慢しよう。しかし、君たちが使えないと判断すれば勝手にさせてもらう」 牙を剥いて唸る狼のように吐き捨てたハワードはさっさと背を向けて出ていったのにエバはため息をついた。「旅人、今回はちょっとことがややこしい。エバの護衛と外のアイリーンについてのことを調べるのにわかれてくれ。もしかしたらなにかしらつながりがあるかもしれんからな。まぁ、俺も暗房は気になっていたんだ。ちょうどいいさ。ん、ああ、なぁに、ちょっとな。気になることを聞いてよ。それは今回はいいさ。ほら、はやく行ってこい。でぇじょうぶ、俺はお前らを信頼してる。多少失敗すんのもありさ。ただ、まぁ、命がかかわってるもんで失敗はすんなよ」
「敵は暗房に赤ん坊を連れて来いって言ったわ。勿論連れて行かないわよね?」 臼木 桂花は仲間たちに確認する。口調は穏やかであるが、眼鏡の奥にある瞳は剣呑を帯びて鋭く細められていた。 「子供は好きだから助けたいの」 桂花の言葉に賛同したのはリーリス・キャロンだ。 「私は、キサを守るっていったもん」 「本件を特記事項β5-11、テロリストからの人員保護に該当すると認定。リミッターオフ、テロリストに対する殺傷コード解除、事件解決優先コードA7、保安部提出記録収集開始……テロリストに妥協する気はございません」 とジューン。 「そうですよぉ~。小さな子が危ない目に合うのはだめでぇすぅ!」 川原撫子は憤慨して言い切る傍らではセリカ・カミシロンも静かに頷いた。彼女も小さな子供が好きで、キサを連れていくなどはじめから考えていない。 設楽 一意は皮肉ぽい笑みを浮かべて肩を竦めた。 「向こうが約束を守る保障はどこにもねぇんだ。ほいほい連れていくほどお人よしじゃねぇぜ」 全員の意見が一致したのにジューンはあらかじめ用意しておいたイヤークリップ型無線機7個を差し出した。 「セリカ様のように機械が苦手な方もいますので、使用に関しては個人の意思にお任せします。連絡手段は一つでも多いほうがいいと考え、できればそれぞれの班に一人は所有したほうがいいかと思います」 ジューンは何度かセリカと依頼を共にして彼女が精密機械に弱く、使用を避けていることを知っているため無線機の使用については個人の判断にゆだねた。 ノートでも連絡はとれるが、それだと急を要したときに時間がかかるのだ。 「ありがとう。それにごめんなさい、気を遣わせて。私は使わないから、他の人たちに情報交換は任せるわ」 とセリカ。 「耳が使えないのは困る」 そっけない一言でハワードも無線機の使用は辞退したが他のメンバーはそれぞれ無線機を受け取った。 「それで班分けは……暗房にはいるのが、リーリス、ジューン、私とハワードさんね」 セリカの確認に一意は頷いた。 「外の調査が俺と川原だな。おい、あんたはどうするんだ」 「私? 依頼は受けないわよ」 桂花はきっぱりと言い返した。 「私が敵なら必要最低限の護りを残してキサちゃんを奪うために再襲撃するわ。だから残るの」 その点については誰も反論はしない。 ハワードの依頼はキャンセルされてエバに再度依頼される体裁をとっているので応じる、応じないは個人の自由だ。 仲間たちと別れた桂花はエバを探し、玄関口で見つけた。 「キサちゃんはどこなの? エバさん、それにここに残らないの?」 「ここにはいねぇよ。その指示のためにちょいと席を外したのさ、俺はけぇるぜ」 「待って、キサちゃんはどこにいるの?」 「一番安全なところに運んどいた」 キサの護衛はすでに別のアテがあったらしい。 依頼の際エバがキサについて一切口にしなかったのはロストナンバーたちがキサを暗房に連れていくと言い出したときのために先手を打って屋敷から連れ出していたからだ。 「別のところって?」 「この街で一番こぇ化け物のところだよ。あそこには誰もうつかに手を出さないからな。俺は俺で気になることもあるからな」 「わかったわ。じゃあ聞きたいの。前にハワードさんが美龍会とハオ家が関係あることを言っていたわ。親戚なの?」 「あのおしゃべりの狼め、この件がカタついたら首を叩き落としてやる!」 エバが怒りをあらわにしたのに桂花はまずいことを口にしたと怯む。それに冷静な第三者の声が割り込んだ。 「傍系ですよ。裏切り者の美龍会といえば有名だ」 玄関のドアを見ると、黒いスーツに身を包ませた男――桂花は彼を知っていた。ハオ家が崩壊したとき生け捕りにしたアサギだ。 「美龍会の仮面、あれを独占するため、ハオ家の技術者をほとんど皆殺しにした……恥知らずの簒奪者。ものは預かったと報告に来ました」 「てめぇは……! フン、結局、鳳凰連合に入ったやつがよく言う」 アサギはエバを無視して桂花に近づくと微笑んだ。 「生きていたのね」 桂花は目を逸らさない。冷たい手が伸びて手に触れられる。決して逃げられないように捕えるように。 「ええ。おかげさまで……あなたはまだキャンディのように甘いのかな?」 アサギが桂花の顔を覗き込む。唇が触れ合うぎりぎりの距離。見つめあう。アサギの目は笑う。 「あなたを味わったら甘いのかな? 桂花、今度ぜひ、あなたをいただきたいです」 ぱっとアサギは離れると踵返して行ってしまった。桂花は茫然と見送り、無意識に手は唇に触れた。 甘いキャンディの味がした。 ★ ★ ★ 撫子と一意はアイリーン・スシャの屋敷に訪れた。 オーガストがなかで待っていて、二人がつくとすぐになかに招いてくれ、犯行現場に案内した。 寝室で二人が見たのはベッドの上であおむけに倒れている男の遺体だった。 「っ!」 一般人である撫子は息を飲む。 一意は撫子よりはだいぶ冷静だが、死体の状態に目を細めた。 「本当は裸だったけど、さすがにそれは女性に見せたらセクハラだからね」 白いシーツはくしゃくしゃに乱れ、腰に白いタオルが置かれた男は全裸だった。身長はさしてない小柄で恰幅のよい四十台も中ごろの脂ぎった男だ。 その全身は細かいもので擦り切れたような傷がある。 一意は男の顔を見ようと近づく。 「あのぉ、私もぉ、近くにいくべきですよねぇ~?」 「無理に見なくていいぜ」 白く濁った両目、苦悶に歪んだ土色の顔、口から泡が漏れている。注目すべきは首だ。何かよほど強いもので締め付けながら切ったのか肉がえぐれて骨が見えている。 「呪いじゃねぇなぁ」 探しもののほうが得意だと一意はこちらを選んだ。もし死体が呪い関係ならば何か手がかりを探し出せると思ったが、今のところ何も感じない。 「ううぅ。一意さんに死体を見るのはお願いしたのでぇ、私もできるかぎりぃがんばりまぁす。オーガストさん、この方の死因は失血死ですか、それとも致命傷がありますかぁ?」 「首の傷、それも骨ごと折ってる。こんな傷になるとしたらなにか回転するもののなかに無理やり肉をねじ込んだかんじかな? まぁ、女性の腕力では無理だね」 「ああ。女の力でこんなことできるはずがねぇ」 一意もオーガストに同意しながら死体から得るものはないと判断して観察を打ち切って離れようとしたとき、背筋にぞっとするなにかを感じて動きを止めた。 ――なんだ。 「こいつは人の仕業にはみえねぇが」 かすかに甘い香りがして一意は顔をしかめた。 「その致命傷ですがぁ、人間の髪の毛並みの細い鋼糸で切り刻んだら、どうでしょぉかぁ? アイリーンさんは髪の毛で理沙子さんの首を絞めて、ハワードさんの弾丸を防いでいたのでぇ……凶器は髪の毛なのかなぁ、と思いましてぇ」 「そうだな。人にはほぼ不可能としかいけど。もしやるとしたら撫子ちゃんが言ったみたいにピアノ線なんかを何重にも巻いて、それで大きなプロペラにくくりつけるとか。けど、ここでそんなものはないだろうし、髪の毛ね。それで絡めて、肉と骨を折ったとしたらおっかない」 オーガストは間違った先入観を二人に与えないためにも慎重に解答する。 「やっぱりぃ髪の毛でしょぉかぁ? あれでしたら可能だと思うんですぅ。きっと暴霊がついてるんですよぉ。それさえ引き剥がせれば、暴霊に憑りつかれて殺人を犯した人を正気に戻すことは可能でしょぉかぁ?」 撫子は懸命に考えに考えて尋ねた。今まで何度かインヤンガイの依頼は受けたが、暴霊が人に憑いた例ははじめて遭遇した。 「だってですねぇ、アイリーン・アデルさんが死んで死体もないならぁ。アイリーン・スシャさんに暴霊を憑りつかせたって考える方が素直かなって思いましてぇ。普段のアイリーンさんの居所、お部屋とか台所に日記やメモみたいな手がかりないか探しますぅ。アイリーンさんの日記でなくてもご主人さんの日記でも手がかりになりそうな気がしますぅ」 「部屋は好きに探してかまわないよ。警察にはこちらから説明するから。暴霊については詳しくはないけれど、ただもし」 オーガストは撫子を見て苦笑いをこぼした。 「君の推理が正しければ、それは殺されるよりも残酷だね」 撫子は目を瞬かせる。 「正気に戻って人を殺したなんて、アイリーン・スシャは耐えられるかな。その現実に」 撫子は沈黙し、苦しげな顔をする。撫子は己のなかにある善意からいつも行動する。どんな人でも変われる。だから見捨てない、できる限りのことはしたい。 「ごめん、ごめん。まぁ、まだわからないしね。さぁ、探索をどうぞ。必要なときは声をかけて」 遠慮する気持ちはあるが、日記や何かメモがないか撫子は物色を開始した。 一意は式神を、今日は白い毛並の美しい狼と兎を二匹ほど呼び出した。 式神として呼びだしやすいのは兎だが、これはみんな同じような動きをする。それにこういう現場ではにおいを嗅げる狼がなにかと役立つはずだ。 「うーん、何か手がかり……これはメモでしょうかぁ?」 「なにかあったのか?」 「はい。スケジュール帳みたいですぅ……えーと、一カ月くらい前ですけど、彼と会うって、そのあとも一週間に一度は彼に会う? なんでしょぉ。それにホテルってぇ、ええって、これってぇ」 「浮気だな」 一意は冷静な声で断言する。 「そ、そんなぁ~!」 「今気が付いたが、この部屋、鏡がないな」 「そういえば……この家そのものが冷たいかんじがしてぇ……このスケジュール帳についてもご夫婦のことも書いてなくってぇ、キッチンとかすごくきれいなんですうぅ。ふつう生活していたから散らかったりするはずなんですげぉ。なんだか料理とかしてなかったかんじでぇ」 「夫婦としてこいつら成立していたのか?」 一意の言葉に撫子は目を瞬かせる。 「夫婦っていうよりも、同じ家に住む赤の他人ってかんじじゃないか?」 「そう、いえば……旦那さんのお財布のなかレシートありましたけどぉ、その、そういう遊び関係のものでぇぃ。ご夫婦のアルバムとかもないのでぇ」 この家で楽しく、何事もなく夫婦が暮らしていたという想像がどうしても撫子にはできない。むしろ、冷え切った悲しい――この家は牢獄のようだ。 「狼に調べさせたら、この男の死体から襲撃にあったときに嗅いだにおいが少しした」 「やっぱりぃ、暴霊が憑りついてるんですねぇ!」 「どうだろうな。人じゃない、けど、人らしいにおいがする。……それにアイリーンにひっかかるんだ」 喉に小骨が突き刺さったような疑問を言葉として具体的に吐き出せないもやもやとした気持ちの悪さに一意は顎を指で撫でた。 「あの男は、アイリーンの浮気相手だったのか? けど、なんでわざわざ現場にきたんだ? それに香水の匂いが常にしてるのはなんのためだ?」 「うーん、うーん、わからないことだらけでぇす! わかったことはぁ暗房に潜ってるみなさんに、連絡しますね! せっかくですから無線で、あれ?」 ジューンからもらった無線で連絡しようとした撫子は怪訝な顔をする。 「どうした?」 「ノイズがいっぱいはいっていて連絡が取りづらいみたいなんですぅ」 「暗房は暴霊域だからな、ノートに書いたほうがいいな」 「はぁい! わかりましたぁ! あのぉ、思ったんですけどぉ、私たちも教会のほうにいきませんかぁ? よくわかりませんどぉ、香水を買ってみなさんもってないと思うんですぅ。なにか役に立つかもしれませぇん! アイリーンさんは一人なんですからぁ、ここにいても仕方ありませんしぃ」 「このメモにあるホテル、行ってみないか? もしかしたら男がいるかもしれないぞ。例の教会からも近いからな。ここが逃亡アジトの可能性もあるしよ」 「はぁい!」 二人はここでの調査の終了をオーガストに告げるとメモに書かれたホテルに向かった。 ついたホテルはあきらかに男女が一つの目的ではいるような類のもので、撫子と一意は立ち止まった。 「はいりますかぁ?」 「いや、さすがに……兎を一匹なかにいれて、名簿を見ればいいだろう」 「ですよねぇ」 ほっと撫子は笑う。 一意は式神の兎の一匹を術で透明化させ、眼を借りた。ホテルのロビーは無人で、誰もいない。フロントのなかに忍び込むがやはり無人だ。ただ各部屋を管理しているモニタは使用中のランプがともっている。 一意は兎を通してホテル全体に甘い香りをかぎ取った。 「なんか、いやな予感がするな。術のかんじだが、なんだ、これ」 「わかりましたぁ! ひとつひとつたずねましょう!」 「おい」 「緊急ですよぉ。ホテルの人がいないってことは、まぁ、この手のホテルですしぃ仕方ありませぇん。私たちが何か言っても名簿とかみせてくれないでしょうしぃ。それならちょっと迷惑かけても、命が助かればぁみなさん少しくらいは許してくれますよぉ! 非常階段からはいりましょぉ」 「仕方ねぇなぁ」 二人はホテルの裏手にある非常階段からなかに侵入した。 シーツなどの洗いものが大量につまれた雑用部屋から狼を廊下に出す。その目を借りていた一意は廊下の先に立つ男がいた。 ――おにさん、こちらぁ 男の口が嘲笑う。 「あいつ! 行くぞ。撫子!」 「はぁい!」 撫子と一意が廊下に出た次の瞬間、狼の肉体を何か鋭いものが貫いて滅多刺しにして消した。 ピューン! 兎が甲高く鳴くのに一意は目を見開く。 「下がれ! 罠だ!」 「え?」 撫子は目を見開く。 甘い香りとともに女の姿――撫子の目の前に現れる。 「おばかさん」 撫子の腕に髪の毛が絡みつき、地面に引きずり倒す。力技なら負けないつもりだったが完全に不意打ちだ。 「いやだわ。私の邪魔をするなんて、私の過去を暴きたてるなんて」 アイリーンが冷たい目で撫子を見下ろして吐き捨てた。 一意は舌打ちした。なんらかの霊力が作用して姿を消していたらしく、まやかしが消えた瞬間、ひどい血の香りがした。 ――こいつらホテル関係者を殺したな! 「アイリーンちぁん、こんなことやめてくださぁい! 今なら間に合います!」 懐に隠してあった聖水を撫子はかける。もしかしたらこれで少しは暴霊がひるむかもしれないと思ったが、まったく反応がない。 アイリーンはからからと愉快げに笑う。 「間に合う? なにが? 私は私の意思であのろくでなしを殺したんだもの。私を殴ったり、蹴ったり……そう、だから殺したの。彼が殺す方法を教えてくれたから」 「アイリーンちゃあん?」 ぎりぎりと腕が絞められる痛みに撫子は顔をしかめる。それを助けたのは一意の兎だ。一匹がアイリーンに飛びつき、もう一匹が鋭い前歯で撫子を拘束する髪の毛をかじって切る。 一意はさらに兎を呼んだ。 大量の兎たちがわらわらと飛び跳ねるのにアイリーンが驚いた隙をついて近づく。右手を伸ばしてアイリーンに触れる。 浄化、除霊はお手の物だ。 それに、この手はあの子の加護つきだ! 「怖い顔するなよ。愛してるって嘘でも言えるんだぜ? けどな、愛してるはきれいなものであってほしいだろう? 女は笑っているほうがいい」 ささやきながら一意は除霊を施す。甘い香りが強い。これにもなんらかの術作用があるならば吹き飛ばせばいい。 「あ、あああああああああああ!」 アイリーンが狂ったように叫ぶ。その声がだんだんと枯れて 一意は見た。 アイリーンの顔を、 「これでも、お前は私をきれいだというの? あの男が私から奪ったこの顔を!」 一意は絶句する。 そこにいたのは老けた女だった。顔は浅黒く、皺だらけで……一意はそのとき思い出したのだ。 アイリーン・アデルは二十四年前に死亡した。ならば妹は アイリーンは醜かった。いたるところに痣や火傷のあとが、彼女の本当の年齢の何十年分にも老けさせていた。 「あーあ、魔法がきれちゃったねぇ」 男は肩を竦める。アイリーンは一意を髪の毛で薙ぎ払い、男に駆け寄った。 「いやぁ、はやく、はやく!」 「わかっているよ。アイリーン、はやくそいつらを殺さなくちゃ。君が哀れなアイリーンになってしまうよ? ほら、もう一度魔法をかけてあげよう」 男はガラス瓶のふたをとった。そこから流れる香りに、アイリーンの姿が若くなっていく。 「若くなった?」 「違う。あれは、ただの目くらましだ! このホテルも、あの襲撃現場でもこの匂いで俺らをだましやがって!」 一意が怒鳴るが、男はからからと笑った。 「さぁ、アイリーン、魔法が切れる前に殺してしまわなくちゃ。君はここでは本気はあまり出せないのだからね。僕の香りは暗房にいると思わせる程度だし」 「ああ、あああ、あああ! いやよ、いやよ、もう哀れなアイリーンはいやぁああああああ! 姉さんみたいに幸せに、私を、私を選んでハワード、あなたを愛しているの! もう殴られるのはいや、ののしられるのも! だから、だからぁ」 狂った叫び声をあげ、アイリーンは笑う。醜く、けれど美しく。 ★ ★ ★ 朽ちた教会には人の気配はなく、かわりに陰気な雰囲気が漂っていた。教会のなかはやはり荒れており、裏手へと続く扉が暗房の入り口であった。 入り口からなかに進むと、薄暗く、なまあたたかい空気がねっとりと肌を撫でる。 「リーリスも魔術師の卵なの。魔術干渉すると困るからあんまり近付かないでね、ハワードのおじちゃん」 ジューンはともかく、精神感応全開にしていることがハワード、セリカにばれることを恐れたリーリスは二人から距離をとった。 「床の罠は空中浮遊で躱せると思う。みんなも浮かせていいよね?」 アストラルサイドを見る目を持つリーリスには通路になにかしかけあってもすぐにわかる。 「お待ちください、リーリス様」 とジューン。 「私は成人男性3人分程度の重量があります。移動中床を破壊する可能性も考え、先行してトラップにマーキングしつつ無線で状況中継を行うことを提案します」 「私は浮かさないでくれないか。自分の足で進む」 ハワードは意見する。 「とっさの場合、反応が鈍る」 「ハワードさん……ハワードさんは私が守るわ。けど、ジューンさんを犠牲にするわけには」 「セリカさま、お気遣い感謝しますが、私はみなさまのように怪我をすることはありません。壊れるとしても修理すれば問題ありません」 「ジューンさん……わかったわ」 ジューンが頼りにするしかないと判断してセリカも渋々だが頷いた。 「じゃあ、リーリスとジューンおねぇちゃんが一緒にいけばいいと思うの! リーリスは魔術でトラップを見つけるし、それができないものはジューンおねぇちゃんが見つけてくれる。ね? 無線で連絡すれば大丈夫だよ。ハワードのおじちゃん、リーリスの無線、預かって!」 「無線が本当に使えるのか?」 ハワードの言葉にジューンは内臓している無線機にひどいノイズがはいっていることに気が付いた。 「リーリスさまの無線機は?」 「リーリスのもノイズがはいってる」 「あまり、ここについて詳しくないが、ここでの通信手段はかなり限られているそうだ」 「無線の使用は最低限に、ノート連絡にしましょう」 ジューンは潔く無線機での通信を断念した。聞きづらいのでは肝心の情報を取りこぼす恐れがある。 「アイリーンの口にしていた「あの白い花咲く庭で」って、居場所を示す手掛かりじゃないかしら? 例えば風水では鬼門である北東に白い花を置くといいと言われてるその方角とか、逃亡用の通路なら、途中に敵をやり過ごす小部屋も可能性はあると思うの」 セリカの言葉にリーリスとジューンは頷く。 二人が先行中は待機するしかないセリカは内心ため息をついた。 明かりをもってくるべきだった。急いでいて最低限の準備しかしていない。幸いにも壁は弱弱しい照明に照らされていて完全に闇ではないが、落ち着かないのは確かだ。 「聞いてもいいですか? スシャさには子供はいるんですか?」 「いや、いないはずだ。私もアイリーンと子はなさなかった」 「そう、なんですか……だとしたら、あれはアイリーンさんの子供じゃないですか?」 アイリーンは二十四年前に死亡している。襲撃犯の可能性として妹が浮かぶが見た目が若すぎる点がひっかかっていた。 それにハワードから見せられた写真。 ハワードの妻のアイリーンと、襲撃したアイリーンには決定的な違いがあった。 「あの、不躾ですけど、もう一つ聞きたいことが」 「その前に質問だ。君は、こちらに来てはいけなかったのではないのかね」 意味がわからずセリカは小首を傾げた。 「君はこの闇で耐えられるのか」 ハワードの言葉にセリカは震え上がった。何か言葉を紡ごうとして失敗し、諦めたように俯いた。 「……私、本当は……ためらったわ。私が戦場に出るとろくでもない結果になることは今までのことが証明しているから……けど、仕事の不始末は仕事でしか払拭できないでしょう? だから、ハワードさん、邪魔になるのだったら私のことは切り捨てて、理沙子さんを優先してください」 重い沈黙にセリカは顔をあげた。 「私はどうなってもいいんです。だから」 「君は、一体、なんのためにここにいるんだ」 不意に片手がとられた。 痛みを覚えて顔を歪める。 追いつめられて背中に冷たいアスファルトの感触を感じながら、セリカは目を見開いた。 狼が、牙を剥きだしに笑っている。 「お嬢さん、君はどんな価値があるだい? その手足で、不幸を呪うのに諦念を抱いて」 「私は、私は」 セリカは下唇を噛む。ハワードは見抜いている。私の人生をめちゃくちゃにしたやつは故郷にいるからと憎悪と諦念を抱いていることを。 「私はね、決してあきらめない。どんなことをしても相手を殺してみせる。何年、何十年かかろうとね。……私は幼いときに目の前で父と母を殺されたが三十六年もかかって、復讐をした。諦めは敗北で死だ。もう少し利口かと思ったが」 逃げられないセリカの頬にハワードの吐息がかかる。渋みのある葉巻の香りがした。 「残念だ」 ハワードはあっさりとセリカを解放した。その顔には先ほどのような狂気は存在していなかった。 「すまないね、ああ、すまない。理沙子がいないから、私は少し気が立っているんだ。……私の人らしいものはすべて彼女に支えられている。彼女がいなければ私は獣にしかなれない」 セリカは緊張したまま首を横にふった。 「っ……私……ハワードさん、あなたの言った言葉、少し考えてみるわ」 「君の質問に答えよう」 「……アイリーンさんのこと、違いは気が付いているんですか?」 セリカは慎重に尋ねた。 二人のアイリーンはときどき交代していた可能性。 けど、そんなこと本当に可能だろうか? 私だって気が付いた。襲撃したアイリーンとハワードの妻は別人だということに。 「気が付いていないんですか? アイリーンの目の色のこと。襲撃してきたアイリーンとあなたの写真のアイリーンの目の色は違っていました」 「そうか。……私は、アデル家の財産がほしくてあの女と結婚した。あの女もそう割り切っていた。つまり、私たちは一度も本当に互いを見たことがないんだ」 「つまり、気が付いていなかった」 ハワードの解答にセリカは拳を握りしめる。 「あ、連絡がきたわ。行きましょう」 壁には事前にジューンが蛍光塗料スプレーで目印をつけていたので迷うことなく合流が叶ったが、奥へと進みながらセリカは鼻孔に甘い匂いを感じた。 これは、襲撃されたときに香ったものと似ている。 やはりアイリーンは襲撃した際にいた男と一緒にいるのかもしれない。男は香りが切れることを気にしていたから何かあるのかもしれない。それにこの香りに頭がひどく痛くなる。 セリカが頭をおさえるのにジューンは気遣った。 「大気中から人体に有害な薬物を検出。暗示への抵抗低下、運動能力への干渉、命令の刷り込み等に使用されていると推測します。呼吸が必要な方は、ガスマスクを取りに戻られた方が宜しいかと」 「リーリスは魔法で平気だけど、おねぇちゃん、大丈夫?」 「ええ。香水をもってきているから、これを撒いてにおいを打ち消すわ。私自身にも香水をかけるから」 事前に購入しておいた香水を自分と周囲に撒きながらセリカは言う。 「ですが、そんなことをすればセリカさまが敵に見つかるおそれが」 「いいの。囮になるわ。その間に理沙子さんだけは絶対に助けてちょうだい。それでまだ見つからないの?」 「距離250に生体反応1。理沙子様と思われます」 ジューンが応じた。 「敵は?」 「生体反応は1つだけです。それもかなり弱いものと思います」 「なら、はやく行きましょう」 理沙子の安否をはやく確認したいセリカは急かした。 「その前にみなさまにお聞きします。理沙子様の安全確保が第一として。アイリーン・スシャ様の生存はいかがいたしましょう。皆様の決定に従います」 「殺せ」 ハワードが断言する。 「必ず殺せ」 凄味のある声にリーリスは赤い瞳を輝かせて反論した。 「あのね、リーリスは出来れば生かしておきたいかな。だって真相をしらなきゃいけないでしょ?」 ハワードは何も言わない 「リーリスさまの意見を採用します。では参りましょう」 部屋に入ったのはセリカ、そのあとにハワードが続いた。 薄暗い室内には甘い香水の香りとそれとは別の匂いにセリカは眉根を寄せた。 「血だ。理沙子は」 「待って。私が先に進むから」 セリカがハワードを抑え、進むと首に何かが巻き付くのに肌が泡立った。 「やだわ。ハワードに近づかないでよ、小娘」 闇のなかから真っ赤な炎が――アイリーンが現れた。セリカは目を凝らし、彼女の瞳の色を確認した。 襲撃犯とその瞳は違っている。つまり、彼女は 「アイリーン・アデル?」 「そうよ」 アイリーンは微笑んだ。 「本当にいやだわ。ハワードに近づく女、みぃんな殺してやる! ふふふ、あははは! 私こそ、幸せなアイリーンよ! ねぇ、ハワード」 「理沙子はどこだ」 アイリーンは怒りに形相を歪め、きりきりとセリカの首を絞める髪に力をいれる。じわじわと呼吸が奪われていく恐怖と痛みにセリカは気丈に立ち向かった。 「ハワード、ねぇ、私を見て、ハワード、どうして私以外の名前を言うの! あなたは誓ったはずよ。私に……殺してやるっ!」 「させないわ!」 セリカはアイリーンが完全に油断している隙をついて香水を投げた。アイリーンは髪の毛で瓶をたたき割ると中身が散った。 「きゃあ!」 香水を浴びて驚くアイリーンの横を白い鳩が過る。 それはリーリスだった。 セリカを囮にリーリスは鳩になって気がつかれないように侵入し、理沙子を探していたのだ。 アイリーンの背後で倒れている理沙子に飛びこむ。何か罠がかけられている可能性を考えたが幸いなことにそれはなかった。 リーリスは人の姿に戻ると、理沙子を抱きしめてその足首がないことに気が付いた。 急いで生気譲歩するが完全に治ることはほぼ不可能だとわかる。 リーリスのなかで怒りが燃え上がる。まるで松明のように朱色の赤い瞳がぎらぎらと輝く。 「許さないから」 塵化はあまり使用したくないし、攻撃すると理沙子を守れない。だから我慢しなくちゃいけない。 けど 食べてやりたい! ハワードはセリカの自由を奪う髪を連続で撃って叩き斬ると、崩れたセリカを腕のなかに抱きしめて後ろへと下がる。 「っ! よくもぉ……なっ!」 ジューンが伸びたアイリーンの髪を掴む。 ハワードの背後にロボットであるジューンは完璧に気配を絶って隠れていたのだ。アイリーンが逃げられない状態に追いつめたジューンはその懐に飛び込む。アイリーンの髪が首を絞めるがジューンは顔色一つ変えない。 「私には効果ありません」 ジューンの手がアイリーンの腹を叩く。しかし、手ごたえがないことにジューンは僅かながらも瞠目した。 「髪の毛に暴霊がついてるんでしょ? 髪の毛を燃やして!」 リーリスが叫ぶ。 ジューンはすぐに髪の毛に電磁波と電撃を気絶する程度に出力するが、アイリーンは驚くほど貪欲に暴れるのに皮膚が擦り切れ、腕がちぎれそうになる。 自分はかまわないがセリカは戦える状況ではない、また理沙子も同じだ。やむなく捕獲不可能とジェーンは判断し、腹を貫き焼殺に切り替えた。 アイリーンの体はたやすく燃えあがり、唯一残ったのは黒く汚れた指輪だった。 「私とアイリーンの結婚指輪」 ハワードの言葉にリーリスは理沙子を抱きしめたまま呟いた。 「これが、アイリーンの正体?」 「暗房には長くいると人は狂うが、物も変化すると聞いた……長居は無用だ」 ハワードはセリカが自分で立てるのを確認すると理沙子に駆け寄った。 「おじちゃん、ごめんなさい。理沙子さんの足、リーリス、完璧に直せなくて。血はとめたんだけど」 リーリスは悔しげに拳を握りしめると、そっと頭を撫でられた。見ると理沙子が微笑んだ。リーリスはその手にしがみついた。 「理沙子さん、ごめんない」 「撫子さまから連絡です。アイリーンさまに逃げられたと」 ジューンが重々しく告げた。 ★ ★ ★ 一意の兎たちは奮闘していた。小さな体で飛んだり、跳ねたりしてアイリーンをかく乱した隙に撫子は樽から水を噴射してアイリーンを壁に叩き付けた。 一意は男と睨みあっていた。 「おまえら何者だ」 「ハイリーブ、香師だよ」 ハイリーブはあっさりと名乗ると懐から瓶を取り出した。 小さな瓶が開かれて甘い香りが漂うと、わっと暴霊が集まって一意に襲いかかる。 「悪いが除霊は慣れっ」 暴霊を滅した瞬間、腹に蹴りがはいった。 ハイリーブは暴霊を盾に接近し、直接攻撃してきたのだ。床に転げる一意に兎たちが主人の危機か、命令遂行かで動きを止めた。 アイリーンの髪の毛が兎たちを薙ぎ払い、撫子に襲いかかる。 「壱号!」 ぶんぶんと壱号を振り回して盾にしたが、セクタンにはそれほどの防御力はない。髪の毛が壱号を殴り飛ばす。 「壱号の役立たずぅ!」 撫子に髪の毛が襲いかかる。 「っ、てめぇらなんのためにこんなことしてる!」 一意は倒れたまま問う。 「僕に勝ったら教えてあげるよ。まぁ無理だろうけど」 「はっ、いいやがったなぁ? 一撃・白飛!」 一意の声に兎の一匹が白い弾丸となってハイリーブに飛ぶ。ハイリーブが後ろに下がるのに一意はさらに声をあげる。 「二撃・白矢! 三撃、四撃! 高速、回転! ……兎にはこういう使い方もあるのさ。小さいが、高速で飛んで激突されたら痛いだろう? 下手したら肉ぐらいえぐれるぜ?」 兎たちは白い球となって高速で飛びまわり、さらには回転をくわえてハイリーブを襲った。打撃を受けたハイリーブは顔を苦痛にゆがめる。 一意はゆらりと起き上がると皮肉ぽく笑った。 「こいつらは俺の声で一気に襲いかかるぜ。どうする?」 いつの間にか兎たちに囲まれたハイリーブは舌打ちする。 「あ、あはははははははははははははははははははははは!」 突然、アイリーンが笑い出した。 「アイリーンが死んだわ! とうとう、死んだ。憎いアイリーン、哀れなアイリーン! 私こそ幸せなアイリーンよ!」 「勝負がついたね。内にいるアイリーンは壊された。こちらのアイリーンが本物になったわけだ」 「どういう意味だ」 ハイリーブはくすくすと笑った。 「目的は果たしたからさ。今日はもうおいとまするよ。君と遊ぶのは楽しかったから、また、今度ね」 「逃がすと思ってるのか!」 「動いたら、君の連れ、アイリーンに殺されちゃうよ?」 撫子の首にはアイリーンの髪の毛が絡みつき、締め上げて、皮膚を切り、血を流させていた。 「一意さぁん、私のことはきにせずにそのキザ野郎ぉをやっちやってくださぁああい!」 「バカ、そうもいかねぇだろうっ!」 「うん。甘いね。だからバイバイ」 ハイリーブは懐から小瓶を出すとそれを床に投げつけた。強烈な香りが頭に襲いかかる。 「っ! 俺と川原を守れ!」 兎たちがあわてて結界を張るのに、ハイリーブは狂い笑うアイリーンを腕のなかに抱き上げると窓から外へと飛び出した。 においが消えたあとにはなにも残りはしなかった。 ★ ★ ★ 暗房から出たあと、理沙子は屋敷に戻ると医者の処置を受けて寝室で昏々と眠り続けるのにリーリスは片時も離れず、生気を与え続けた。 その日の夕暮に理沙子は目覚めた。 「理沙子さん、目覚めてよかったぁ」 リーリスが笑うのに理沙子はその頭を撫でた。 「気分はいいんですかぁ?」 「無理はなさいませんように」 「無事でよかったわ」 「ありがとう。撫子さん、ジューンさん、桂花さん、私やハワードの我儘に付き合ってくれて」 「女がそんなこと気にするなよ。はやく元気になってくれよ」 一意の励ましに理沙子は頷いた。 「もう帰るのでしょう? ちょっとだけセリカさん、いいかしら?」 「私?」 他の仲間たちが部屋を出ていったあと残れたセリカは困った顔をした。 「話したいことがあるの」 「なんですか?」 「アイリーンは生きているのね?」 理沙子の問いにセリカは迷って、頷いた。 「たぶん、私、殺されるわ……私がもしアイリーンなら、私を生かしておかないもの。だから、セリカさん、お願いがあるの」 理沙子はセリカの手をとった。 「私になにかあったら、ハワードを守ってあげて」 「守る? 私が、私は……今回だって、囮くらいしか出来なくて。それに、理沙子さんのことは、私たちが、私が絶対に守ります。今回だって、アイリーンが二人いることにもっとはやく気が付いて仲間に連絡できれば」 セリカが俯くのに理沙子はからからと笑って、手に力をこめた。 「バカね。あなたは十分、みんなを支えて、私のことを助けてくれた。ハワードは口にしてないけど、あなたのこと気に入ってるわ。私がいなくなっても、あなたなら、ハワードを支えてあげられると思うの。あの人はね、とても弱い人だから」 「ハワードさんが弱いだなんて」 「弱いわよ。あの人は、何かに支えられなくては自分をたもてない……私はね、誰かに守られなくては生きていけないの。それが私の強さ。捨てられれば死ぬしかない、だから誰も私のことを見捨てない。ずるい強さだとあなたは言うかしら?」 セリカは首を横に振った。 ただこんな強さがあることをセリカは知らなかった。 甘いケーキや美しい宝石を捧げられる女性はただ愛されているだけ。けれどそれには当然のように重みがある。覚悟がある。セリカの知らない類の強さだ。 「無理を承知で言ってるの。もし、あなたさえよければ、ここにずっといてハワードを守ってあげて。それは、きっとあなたにしかできないと思うから……こんな時に言うなんてずるいけど、そのうち、お返事を聞かせてちょうだい。忘れないで、ハワードはあなたを必要としてる」
このライターへメールを送る