インヤンガイには巡節祭がある。一年の暦が一巡することをお祝いするもので、壱番世界でいうところの正月だ。しかし、ここはインヤンガイらしくあけましておめでとうという挨拶のかわりに爆竹、龍舞に屋台が立ち並びかなり賑やかな催しとなる。 一年に一度土地の霊力も高まるために祭中、暴霊絡みのトラブルも多くある。また各地区で様々な祭りも違い、毎年、この季節になると司書はロストナンバーに現地調査を依頼するのだが「今回は、さるご婦人からの依頼なの。ええ、何度か依頼されたことのあるヴェルシーナというマフィア組織のボス、ハワード・アデルの奥様である理沙子さんからよ。なんでもこの地区にはとても面白い、いいえ、ちょっと変わった儀式があるの。あなたたちにはその手伝いをしてほしいそうよ。一応、調査という名目があるからがんばってね」 黒猫にゃんこ――現在は黒い着物の海猫が微笑んだ。「覚悟がないと、そうね、務まらないと思うから」★ ★ ★ 依頼主である理沙子はベッドでロストナンバーたちを出迎えた。つい先日ある事件があって彼女は両足首から下を失い、もう二度と歩けないからだとなったのだ。まだその怪我の治療中で満足に動けないのだという。「だからあなたたちに「巡り遊び」をしてほしいの」 巡り遊び――それは、その年に生まれた赤ん坊を腕に抱いて街のなかを歩いて、小さなお社をめぐる。 場所は全部で三つ、すべて子を守る加護のあるお社だという。 問題は、その間、赤ん坊を暴霊が狙うということだ。 ――目をえぐろうかァ、おまえの目ん玉、えぐろおァ、いやじゃいやじゃというならば ――赤ん坊をさしだせやぁ、さしだせやぁ ――舌をひっこぬいてやろうかァ おまえの舌じゃ、ひっこぬく、ひっこぬく いやじゃいやじゃというならばぁ ――赤ん坊をさしだせやぁ、 さしだせやぁ ――その腸えぐろうかァ おまえの腸じゃあ ひきずりだして食ってやろうかァ いやじゃいやじやというならば ――赤ん坊をさしだせやぁ さしだせやぁ「ほかにもいろんな方法で体のひとつひとつを暴霊は赤ん坊を差し出すことを拒否すると奪っていくわ。痛いし、苦しいことだけど、恐れることはないの。それはすべて幻だから、お社につけばすぐに目がさめてしまうから……暴霊はね、この時期は力を得るけど、人に直接害を成せないことが多いの。けど、赤ん坊は違う。まだ神の加護を受けてないから……だから、赤ん坊はね、守ってくれる人の腕のなかにいないと殺されてしまうの。暴霊はそれを狙っているのよ」 巡り遊びは、その年に生まれた子が神に挨拶し、加護をもらうことが目的だという。それに暴霊は寄ってくるのだ。「私は、こんな足だから、それに、ちょっと問題があっていけないの。だからね、あなたたちにお願いしたいの。私はおなかに赤ちゃんがいるとき、あなたたちに助けてもらったから……あなたたちは立派に守ってくれると信じているわ。お願いね。私の娘のキサを」
夜から開始される巡り遊びまでは臼木 桂花、ジューン、オゾ・ウトウは屋敷のなかで過ごすこととなった。 燃える夕日が大地に飲み込まれ、薄闇が世界に広がる。 一日中聞こえた爆竹や歓喜の声はさざ波のように引いてかわりにぽつぽつぽつと淡いオレンジの明かりが街に浮かび上がりだしているのを応接間の窓からオゾは目を細めて見守っていた。 「爆竹などは大丈夫なんですか?」 「大丈夫よ」 オゾの問いに答えたのは車椅子姿でオゾと同じく外を見ていた理沙子だ。 「この地区の恒例業事だから、みんな心得ているの」 巡り遊びは夜の七時から開始される。そうなると街は祭りムードから一転、静寂に包まれる。 この地区での祭りのメインが「巡り遊び」なので、街全体がその行く末を見守るのだ。 巡り遊びで歩くルートは決まっており、日中のうちに掃除され、物にぶつかったりすることがないように整備される。ルート上で母親が迷わないように、電柱などからいくつもの提灯が吊されて場所がわかるようになっている。途中のお社には休憩するための食事や水なども用意されている。 「大切な行事なのですね」 「そうよ。私のような場合は三人まで代役が許されてるから……本当は夫や身内に頼むものなんだけど、この子の誕生に立ち会ってくれた、あなたたちにお願いしようと思ったの。今後のためにもね」 理沙子の微笑みにオゾの翼が小さく揺れた。 「私が一番手で、二番手はジューンさん、三番手はオゾさんね。一応、ルートは地図で確認しておいたほうがいいと思って、用意しておいたわ」 桂花が樫のテーブルに地図を広げて、てきぱきと指示を飛ばした。地図には担当ルートごとに色分けしたペンで線を引いているので誰がどこを通るべきなのか一目瞭然だ。 提灯があっても、土地勘がないため迷う可能性も配慮して桂花が用意した地図をジューンとオゾも感謝してしっかりと見つめる。 「あと抱っこ紐、用意したから使いたい人は使って」 「それ、無理よ。キサは、まだ首が据わってないから。どっちにしても、暴霊にその手の小細工は通じないわ」 桂花は眉根を寄せた。 首が据わっていない赤ん坊は背中に片腕を滑らせ、支えてやる抱き方しかできない。つまり、本当に両手の使えない状態でしかキサは運べないのだ。 「首が据わってないということは、まだ寝返りも?」 ジューンが尋ねる。 「ええ。まだ無理よ。けど体はしっかりしてるしから大丈夫、怖いならここで辞めてもらってもいいわよ」 「暴力的な通過儀礼に思えますが、この世界の通例であれば仕方ないかと……私は乳母です。子供の養育は私の使命、喜んで参加させていただきます」 「私は、ここの風習なら覚えておきたいのよ。ここに再帰属して3人子供を産もうと思ってるから予行演習よ」 桂花は胸を張って答えると、いたずらぽい微笑みを、しかし目だけは真剣に理沙子を見つめる。 「だから、ねぇ理沙子さん。私が息子を産んだら、キサちゃんをお嫁にくれない?」 理沙子の顔があからさまに険しく、目には侮蔑をこめて桂花を睨む。 「それはこの依頼に対する交換条件かしら? だったら答えはノーよ! 私はあなたのことまったく知らないからジョークでも笑えないわ。いい? 私の子を、くれない、なんてそこらへんの安い物のように言わないでちょうだい、不愉快よ。大人のそういう勝手な押し付けは私の最も嫌いとするところ。そんな気持ちならこのまま帰ってもらっていいわ!」 理沙子の一喝に桂花は自分の失態に気が付き、すぐに謝罪した。 「ごめんなさい。そういうつもりはないのよ。息子のお嫁さんになってくれなくても、この子は大事よ、可愛いわ。必ず無事に連れて帰るから安心して」 理沙子は桂花に警戒心むき出しの視線を向けたまま、オゾに尋ねた。 「あなたはどう?」 「僕は……」 オゾは言葉を濁し、己の震える手を見つめる。 二人のようなはっきりとした目的があるわけではない。それでも依頼に挙手し、なおかつここに来た。 抱っこさせてもらったキサの小さくてあたたかなぬくもりはしっかりとこの手に宿っている。それを目の前にして逃げるという選択肢はない。 オゾの後悔の過去がちらつく。 違う。 この子は、産まれたばかりの赤ん坊だ。故郷の、自分のせいで死なせてしまった子供とは何一つ関わりはない。目の前にいる母親もそうだ。けれど。 「うまく言葉にできませんが、逃げません」 理沙子は微笑んだ。 「あなたたちに任せます。失敗は決して許しません。必ず守り切って。あなたたちが両手を離したとき、キサは食い殺される。それを忘れないで」 ★ ★ ★ 日は完全に沈み、巡り遊びがはじまった ★ ★ ★ 「始める前に確認よ。私たちが居るのはここ、行く社は此処と此処と此処。順路はこうなる予定。2人ともできれば頭に入れて置いて」 提灯があっても油断は出来ない。桂花はジューンとオゾに地図を広げて念を押した。 「自分の番が終わっても、始まる前でも順番が移る可能性はあるから気を引き締めておいてね。私も出来る限り2人をフォローするから宜しく」 ジューンが恭しく頷いた。 「生体サーチ起動。臼木様、ウトウ様及びキサちゃんのメディカルチェック及び心肺機能のモニタリング開始……なにかあれば私が反応できると思います」 「よろしく。さぁ、はじまるわ」 キサを両手に抱いた桂花は使っても無駄だと言われたが心配なので紐でキサの体と自分のしっかりと結びつけた。キサはいやがるように首を振るが、こればかりは仕方がない。必死になだめてなんとか我慢してもらう。 「行きましょ、キサちゃん……大丈夫よ、絶対守ってあげるから」 他の母親も同じ場所からスタートするのにそれぞれ五分ごとの間隔があけられる。桂花は緊張した面持ちで自分の出番を持つ。 「次はあなたたちです」 この祭りを取り仕切る神官に声をかけられ、ようやく自分の順番だと桂花は勇ましく、夜の中へと一歩踏み出した。 提灯を追いかければいいのよね。 拍子抜けするほどなにもない。 大丈夫。 桂花がそう思ったときには、違和感を覚えた。 音がしない。 さぁ、さぁ、さぁ、赤ん坊をよしな! 「誰が! お前たちになんか!」 鼓膜を破るほどの狂気に満ちた声に背筋が震え上がった。あわててスピードを速める。逃げなくちゃ。本能が激しく叫ぶ。ここから逃げなくちゃ。 気が付いたとき、真っ暗だった。おかしい。意識ではどこに進むか、灯りがある方向がわかるのに。 鋭い爪が眼鏡を割って、片目を抉る。砕けた小さな破片が体内の柔らかい肉に突き刺さった。 「!」 細胞ひとつひとつを叩き潰すような執拗な攻撃に奥歯を音がするほど噛みしめる。 さぁさぁ。 赤ん坊をおよこし! お前の目をくらうぞ! 「煩い……煩い、煩いっ! お前たちなんかにこの子の髪の毛一筋渡すもんか!」 気丈に叫んだが、次には後悔するほどの痛みが襲ってきた。両目が乱暴に引きずられた。体をくの字に曲げる。涙すら出てこない。 「あぁっ、あ~~~」 暴霊たちは笑う。笑う。叫ぶように笑う。 さぁ、さぁ。 赤ん坊をおよこし! お前のそのうるさい舌を引っこ抜いてやるぞ! 「うっさ……!」 口を開いたのがいけなかった。見えざる手が伸びて乱暴に舌を引き抜かれた。頭ががつんとなにか重いものでたたかれたような衝撃、ふらりと、その場に崩れた。痛い。痛い。痛い。強烈だ。口から鉄錆の味が大量に流れる落ちる感覚がする。それ以上考えられない。 あ、ああああ。 頭がぐるぐるして気持ちが悪い。 大丈夫、片腕でも抱いていける。 足はあるんだから ずる、ずるっと這うように桂花は進む。耳には笑い声が聞こえ続ける。 さぁ、さぁさあぁああ! 無力なお前のその足も奪ってやろうか! 赤ん坊をおよこし! うるさい! 燃えるような意識が叫ぶ。とたんに片足が骨ごともっていかれた。ごき。ごぎごぎごギぃ、いい、ぐしゃあ。耳に響くいやな音。痛みはもうない。まるで体が洗濯機のなかみにぐちゃぐちゃで内臓そのものを吐いてしまいたい。 ずる。と進む。 もう片方の足に冷たいものが触れた。 さぁ、さぁ。まだよこさないか? 離してしまえ。 そんな赤ん坊! いや、よ…… 弱弱しい抵抗に暴霊はそれはそれは愉快げに笑い、もう片方の足ももっていかれた。 息を吐き続けて、酸欠になる。肋骨が痛む。内臓が痛む。 がんばって、キサ、あと少しだけだから……あと、少し。何があっても守ってあげるから 片腕を伸ばそうとした瞬間、その手のひらが踏みつけられた。なにかかたいもので手のひらが貫かれる。 鋭い槍が全身を突き刺していく。 桂花はそれでも這っていく。 あと、すこ、し…… 光が、優しく桂花を包んだ。 「お疲れさまです。桂花さま」 桂花はお社につくと気絶していた。なにがあったのかは常にそばにいたオゾも、ジューンもわからない。ただいきなりふらつきはじめたのだ。交代するべきかとジューンは何度も声をかけたが桂花は腕のなかのキサを離さなかった。 「次は私です。オゾさまは、桂花さまのことをよろしくお願いします」 キサを抱っこしたジューンは状態を確認する。その間にオゾは桂花をお社の仮眠室に運びこんだ 「もし私が倒れかかっても支えないで下さい。私の自重は三百キロ近いので。転ぶ時もキサちゃんだけは庇いますのでご心配なく……よろしくね、キサちゃん」 ジューンはキサを安心させるように微笑むと、淡いオレンジの提灯を頼りに進む。 なまあたたかい風にのってどこかで女性の悲鳴が聞こえる。先に進んだ母親たちも同じだけの苦痛を味わっているのだろうか? 暴力的な習慣だとジューンは思う。 そりゃあ、そうだろうよ 誰かが笑う声がする。 お前は人形だろう。なのに赤ん坊を守るか? わからないだろう、わからないだろう、わからないだろう 母親というものが! 醜いものさ、醜いものさ! ジューンは声を無視して進む。 とたんに下腹部から何かおかしいな感覚があった。見るとジューンの腹から黒い手が伸びていた。貫かれた? おかしい。じゅるっ。なかが乱暴に引きずり出される。その瞬間の息を飲むような、これは――痛みだ。ジューンが本来感じないものだ。体が震えた。これが痛み? ジューンは混乱する。 だが、システムは通常通り動いている。視界、もしくは感覚機能をのっとられているだけだと判断し、まっすぐに進む。 くくくく。 ふふふふ。 あはははは! ねぇ、ねぇ、聞かせてよ。そんなことしてどうするの? 人形さん 「私は乳母です」 作られたね あんたの意思じゃないじゃない。そうだ。はじめて自分の意思をもってみましょ? 自分の意思でその腕を自由にするの。素敵よ。ねぇねぇねぇ ねぇ? 「御断りしま……あ!」 システムの反応が遅れる。一拍置いて激痛がジューンに襲いかかった。 「右足首から先の感覚消失……これは」 ジューンから珍しい戸惑いの声が漏れる。まだ目は見えている。 ねぇねぇ、お人形さん もう離しちゃいなさいよ。 可愛らしい女の子が微笑みかけてくる。 「お断りします。バランサー補正……歩行には、問題ありません」 システムは通常通り作動していることがジューンを幻覚から守った。 「貴方がたも、この街区の方なら……嘗て同じように親御さんが回られたのでしょうに。それなのに、どうして」 簡単よ 黒い影は笑った。 捨てられたからだよ、殺されたからだよ、置き去りにされて食べられたからだよ、本能だからだよ、ねぇねぇねぇ 恨みよりも妬み、それよりも憎悪。暴霊にとって赤ん坊はただの食べ物だ。年に一度食べられるおいしい御馳走。それ以上の価値なんてありはしない。ジューンが思うような高貴な思考も理由はありはしない。それが暴霊だ。 あははははははははははははははっ! 飢えた獣となって暴霊は舌を伸ばし、ジューンの片足をかじりはじめるが、システムは通常通り動いているのにジューンは進む。 暴霊はわざとジューンの目も、口も残しておいた。そうしてジューンが何か言うのを待っていた。 ネェ、痛いの 苦しいの 食べさせてよ その腕のもの 「お断りします」 わたしが、たのんでいるのに? ジューンの前に小さな子供が現れて首を傾げる。 乳母であるジューンは子供を守るものだ。だから。だけど。腕のなかにはなにがあるのか黒く塗りつぶされてわからない。ジューンの片腕が根本から奪われた。 「あ、あああ」 ねぇ、ちょうだい、ママ システムが悲鳴をあげる。痛みではない。どうすればいい。子供が泣いている。子供が泣いている。目の前で、ママと呼んでいる! 守るのは 腕に重みはある。これは赤ん坊だとジューンの思考回路は認識している。だから渡せない。 「お断りします」 助けてくれないんだね 私たちを守るために作られたくせに うそつき 「違います、違います、私は……あなたは暴霊で」 母親に捨てられたのよ なのに あなたまで私たちを守らないのね うそつき! システムは悲鳴をあげる。 ジューンは必死に前に進む。システムが叫ぶ。違う。違う、と。思考回路とシステムがぶつかりあう。 これは現実? 幻覚? どっちなのかわからない。 ふらふらと光のなかに逃げ込んだ。 「到、着……」 とたんにジューンはその場に崩れた。肉体的な損傷はないが、システムが激しい負担を訴えている。 「以後ウトウ様のフォローに」 「大丈夫です。今度は僕の番ですね」 ジューンの腕からキサを受け取ったオゾは気を引き締めた。前の二人に何かできればと思ったが結局何もできなかった。 この二人は強い。 自分は 「……お気をつけて」 「はい。ジューンさんも休んでください。……ええっと、ミルクがいるのかな」 キサが泣いているのにオゾはあわてた。 オゾは赤ん坊を抱くと、オレンジの灯りの下を注意しながら歩き出す。 キサが泣いて困っていると儀式に参加している母親の一人がミルクをあげるのを手伝ってくれ、いまはすやすやと眠っている。そのぷっくりと膨れた頬、閉じた瞼につい微笑みが漏れる。 とたんにオゾの両目に黒い手が遮った。 おくれ、おくれ。 赤ん坊を ――いやだ 背中に氷柱が押し当られたような恐怖が広がる。声を無視して進むと、鋭い爪が両目をひっかいた。 視界が真っ赤に染まる。柔らかな目玉を突き刺し、えぐり、わざと眼窩のなかをかき混ぜる行為は不愉快を通り越して吐き気がした。 どうせ関わりないだろうぉ? おくれ、おくれ 赤ん坊を お前の目玉、くってやる! 「……っ」 一歩、足を前に出すと両目が抜かれた。肉体と神経をつなぐ細胞を限界まで伸ばして、わざとぷち、ぷつと千切れさせて与えてくる痛みはやらしく、オゾを悩ませる。 幻覚とは思えないほどに激痛だ。 耳に哄笑が響く。 見えない闇のなか、ただこっちだと思う方向にオゾは無意識に足を進める。膝が震え崩れそうになるのをほとんど気力で立たせていた。冷たい風が頬を撫でたと思ったときには腹を重い何かが貫いていた。 おくれ、おくれ 赤ん坊を お前の臓をくらってやる! ――いやだ 柔らかな皮膚を鋭い爪がわざとゆっくりと引き裂いていった……だけは理解した。そのあとなにかが自分の中に入ってきた。無数の虫だ。それも毛虫のようなやつに違いない、内側の肉をちくちくと刺し、臓を食らいながら消化器や泌尿器を、果ては胃まで進んでくる。ごふっと口から漏れたのは痰の絡まった咳。 おくれ、おくれ 赤ん坊を お前の舌、食ってやるぞ! ――いやだ オゾは進む。もう歩いている感覚は一切ない。ただ進め、進めと頭に直接命令しているだけだ。 一体、他者から見たら自分はどのように見えているのだろうか? そんな考えはすぐに霧散した。体内をもぐりこんだそれがオゾの舌を内側から引っ張ってきたのだ。びちっ。柔らかな肉の切れる音が耳に響く。叫びたいがもう叫べない状況にオゾは陥り、全身を震わせる。それが自分を内側から食らっている。しかし、わざと心臓は潰さず、飢えた舌が舐めた。 おくれ、おくれ 赤ん坊を お前の骨、一本残らずくらってやるぞ! ――い、や、だ 意味のある思考は一切なくても、オゾは進む。骨が砕かれる痛みは全身を燃やし、氷水を浴びたように全身にかいた汗のせいで震えがとまらない。 鋭い爪がオゾの肩を掴み、なまあたたかい舌が耳を舐めた。 お前の罪悪の子を生き返らせてやろう 食らった臓も返してやろう 燃え堕ちた翼をかえしてやろう ほぉら 赤ん坊を寄こせ、さぁ、さぁさぁ! 優しく、甘い響きはオゾの周囲で陽炎のように揺れる。 あの死んだ少年の顔。あの母親の笑顔。オゾの翼。 あ、ああああああぁああぁあああ。 漏れ出したのは懺悔のうめき声。 視線を落としても赤ん坊が見えず、この腕さえ自由に動かしてしまえばという考えが頭を掠めた。自分はなにを抱いている? なんのために必死になっている? 自分のせいであの子は死んだ。自分の怠慢のせいで。淀んだ子供の瞳。母親の憎悪の目。激痛と血の匂いの記憶。あれがもしやり直せるならば、 さぁさぁ 捨ててしまえ 腕をはなしてしまえ、開いてしまえ そのとき、暴霊の声に交じってかすかに赤ん坊の泣き声が聞こえた――抱いている。赤ん坊を。そうだ、このぬくもりが自分をどこに向かうか導いてくれている! 暴霊は語るしかない。だから耳は潰せないのだとオゾは気が付いた。 耳からは忌まわしい暴霊の声とともに赤ん坊の助けを求める声がする。 この腕を自由にしたら、今度こそ自分は行くべき道を失ってしまう。ただ茫然と立ち尽くし、その先にある、いま肉体を砕く激痛よりも遥かなに強烈な痛みと、憎悪に染まった、それは悲しい目と対峙することになる。 命が失われる痛みを、悲しみをオゾはあのときいやというほどに学んだ。 だから 「……いやだ! 僕はこの子は手放さない! 食べたいなら僕を食べたらいい! 過去はやり直せないんだ。だから、この子だけは絶対に守る!」 おぎゃあおぎゃあ!――赤ん坊が泣いている声がはっきりと聞こえてくる。 オレンジの灯りがぼんやりと視界に見えた。その先へ。駆けていく。黒い手はもう伸びてこない。あれほどに不愉快だった体内の痛みは消えていた。 視界が開け、オゾは瞠目する。 お社が目の前にあったのに飛び込んでいた。 「キサ! ごめん。大丈夫……あ」 腕のなかのキサはオゾの声に泣き止むと、大きな目でじっと見つめてきた。小さな手が伸びてオゾに触れようとしている。恐る恐る屈みこんむと頬にあたたかいぬくもりが触れる。 キサは嬉しそうに何度もオゾの頬を叩くように撫でる。 オゾは自分でも気が付かずに微笑んでいた。 「もう大丈夫です、怖いものも、災いも、なにもありません」 幼いぬくもりはいとしげにオゾを撫でる。 過去の罪は許されない。 けれど 頬を伝う涙はあたたかく、腕のなかで無邪気に手を伸ばしている赤ん坊は生きている。 守る事が出来た。今度こそ……喜びとも安堵ともつかない気持ちを胸にオゾはキサをしっかりと抱きしめて、そのぬくもりを味わった。
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