数ヶ月前、インヤンガイのとある街区にある一軒の家で凄惨な事件が起こった。特別裕福ではなく特別貧しくもないその家で暮らしていたのは20歳の姉とまだ5つの弟。一年ほど前に両親を『事故』で亡くし、頼れる親類もいないことから姉が弟を育ててきた。 近所での評判もよく、事件後は「なんであんないい子が……」とお決まりの文句が飛び交った程だった。 姉、ユイリンは心臓を弾丸で貫かれた後、四肢を切り落とされて殺された。 弟、ツォンミンは姉が殺害された時側にいたと見られる。小さな手型と足型の血痕が現場に残されていたからだ。だが、ツォンミン自身の姿はどこにも見当たらなかった。 通り魔的犯行の線と殺され方が酷かったため怨恨の線で捜査は進められたが、未だに犯人は見つかっていない。 ツォンミンの行方も知れない。 5歳の子供である。どこかで人知れず始末されてしまったのだろうとまことしやかに囁かれているのだった。 *-*-*「いろんな意味でちょっと難しいかもしれない」 ターミナルのいつもの一室を訪れたロストナンバー達を見つめて、銀髪の世界司書、紫上 緋穂(しのかみ ひすい)は難しい顔をしてみせた。そして、おもむろに人数分のチケットをテーブルに広げた。「でも皆ならきっと、何とかできると思うから。黙ってインヤンガイヘ行って!!」「黙ってって言われても……」 困惑の表情を見せるロストナンバー達。それも当然のことだろう。行くのはいいとしても、何をすればいいのか。「ツォイリンさんが困っているの。助けてあげて」 リボンを揺らして上目遣いに見上げる緋穂の肩に、一人のロストナンバーが手を置いて。「とりあえず簡単でいいから説明しろ。ツォイリンって誰だ?」 と、緋穂はバシッと肩に置かれた手を払い、椅子に深く腰をかけて「ふーっ」って息を深く吐いた。 あれ? 一瞬前と態度が違いません?「女の子がお願いしてるんだから、少しくらい優しくしたってバチは当たらないと思うんだけど?」 どうやら自分の『おねがい♪』が効かなかったことに対する憤慨のようだが、そのセリフと態度、使い所が間違っている気がする。「ツォイリンさんっていうのはインヤンガイの女探偵さん。術とか霊とかそっち方面には強いみたい」「その女探偵の所に厄介な依頼が持ち込まれると?」 インヤンガイの探偵に世界図書館が関わるとしたら、そういうことが多いだろう。世界司書が予見したとなれば、依頼が持ち込まれるのは確実。緋穂はロストナンバーの言葉に頷いて。「ある暴霊の心残りを取り除いて、暴走する前に消滅させる依頼だよ。詳しくはあっちでツォイリンさんに聞いて欲しいんだ」「んだよー、なら最初っからそういやいいじゃねーか」 手を叩かれ損のロストナンバーが口を尖らせる。それを見て緋穂は冷たい視線を彼に送った。「女心がわからないんだね。せいぜいツォイリンさんにビンタされないようにねーっ」 ……え、そういう人なの? *-*-* インヤンガイに到着して、事前に受けた緋穂の指示通りに進んだその先にあったのは、高級そうな建物が並ぶ一角であった。指示された建物のエントランスの壁は下品ではないほどの赤に塗られており、金で装飾されている。 ……ちょっと目が痛い。 まさか、ここの女探偵は探偵業を――「金持ちの道楽としてやっているのか……?」 その場にいた数人のロストナンバーがふと考えてしまったことを、一人のロストナンバーがぽろりと零した。「その言い方は酷いねぇ」「「!?」」 落ち着いた大人を思わせる女声が聞こえた。びくりと肩を震わせてそちらを振り返ると、事務所の入口の扉は開けられていて、そこから一人の女性が半分身体を滑り出させていた。 身長は160cmちょっと位、長い黒髪を頭の上にお団子にして、残りはポニーテールのようにふさりと下ろしている。壱番世界で言う白のチャイナドレスを着用していて、チャイナドレスに施されているピンクと緑の植物の図案がとても良く似合っている。このドレス、よく見れば金糸と銀糸がふんだんに使われていてお高そうだ。「道楽で探偵やっているつもりは毛頭ないんだがね……ただ、あるとこからはいただく、ないとこからはいただかない、それだけさ」 促されて事務所内へと足を踏み入れると、そちらはクリーム色の壁紙で、装飾類も落ち着いたものになっていてちょっと安心する。「あんた達が今回手伝ってくれるんだね。まあ、座って。私はツォイリン、ここの所長をやってるよ。といっても部下はそんなにいないんだが。信頼できる者しか置かないからね」 社長椅子に座ったツォイリンは裏に得体のしれぬものを隠したような笑顔を浮かべ、一同を向かいのソファに座らすと短刀直入に事件のあらましを話し始めた。「今回手伝ってもらうのは、暴霊の未練を解消し、消滅させること。暴走されちゃ困るしね。被害が広がっても困る」 暴霊となってしまったのは二十歳の女性。名をユイリンと言い、一年前に両親を『事故』で亡くした後一人で今年5歳になる弟を育ててきた。だが不幸な事件は続き――彼女は何者かに殺害され、四肢を切り落とされるといった凄惨な亡くなり方をした。「現在は霊魂型の暴霊となって彷徨っている。彼女が望むのは『弟の幸せの邪魔になる者を消し去ること』だ」「アバウトな願いだな……」「そう思えるだろうが、次の情報をよく聞いて」 ユイリンは自分を殺した相手を見ている。そして自分の弟がその犯人夫婦の元で実の息子として暮らしていることを突き止めた。彼女は自分を殺したイェン夫婦を恨んでいると同時に、弟を無理やり自分の息子として扱っていることに憤りを感じている。事実、数回イェン夫妻の元に姿を現したらしい。その時は実力行使には出なかったようだが、それも時間の問題。「じゃあ、イェン夫妻がユイリンの未練の原因なのか?」「そのようだ。だが、一概にそうとも言えないね」 歯の奥に物の挟まったような言い方をするツォイリン。その美しい眉間にシワを刻む。「ユイリン自身は、姉を目の前で殺され無理矢理攫われて犯罪者の息子にされた弟は、不幸に違いないと考えている。だが弟の方は――わからない。聞き込みによれば身体が弱かったゆえに離れて暮らしていた息子とやっと一緒に暮らせることになったとイェン夫妻は近所の人達に説明していたらしい。親子三人仲睦まじい姿も、よく見せているようだね」「……どういうことだ?」「そこまではわからない。だがこの姉弟を調べているうちに、わかった情報があるよ」 弟ツォンミンは養子だった。生まれたばかりの赤子の頃に貰われてきたのだ。そしてこれまでに数回、誘拐されたことがある。どれも身代金の要求などはなく、数日後に無傷で発見されるという不思議なものだ。誘拐事件のたびに両親は怯えた様子を見せるだけで、死ぬほど心配したのはユイリンだけだったという。「このことがなにか関係あるのかはわからないが、私が掴んでいる情報はこれくらいだね。なんとか、ユイリンの未練解決までたどり着いて欲しい。覚えておいて、彼女の願いは『弟の幸せの邪魔になる者を消し去ること』。誰が一番ツォンミンの幸せを邪魔をするか――」 ユイリンは普段は普通の人間には視えぬが、イェン夫妻の前に現れる時は姿を表すという。今は姿を見せてプレッシャーをかけているだけだろうが、そろそろ実力行使に出るだろう。 本当にイェン夫妻が『邪魔者』なのか、早急な見極めが必要だ。 *-*-*「あなた」 数カ月前の『事件現場』とは離れた街区の一軒の家で、少年が庭で遊んでいる。無邪気な笑顔がとても眩しい。「本当に……これでよかったのでしょうか」「よかったも何も、もう後戻りはできないだろう。これまでの『誘拐』とは違うんだ」 少年の姿を家の中から眺めていた夫婦は、難しい顔をして我が子を見守る。「あの子は、私達を恨んではいないでしょうか?」「恨むも何も、あの時のショックで記憶を封印してしまったのだからわかるまい。さすがに目の前で人が殺されるという光景は、刺激が強すぎたのだろう。自ら記憶を封印した――この状況は俺達にも好都合じやないか。実の息子とやっと平穏に暮らせるんだ、余計な心配はするな」 おとうさーん、おかあさーん! 泥のついた手を一生懸命に振る少年。夫妻は小さく手を振り返して。「守りましょう、あの子を」「ああ……私達がいなくなっては、あの子は本当に寄る辺をなくしてしまう」 冷たい風が強く吹き抜けて、庭の少年は小さく身体を震わせた。、
●結論を出す前にやらなくてはならないこと 今回の事件解決のために派遣された五人のロストナンバーは、『結論』を出す前にそれぞれ気になっていることを調べることにした。 正しい情報を得なくては、正しい判断はできない。 正しい情報を得ても、正しい判断ができるとも限らない。 だが、何もない状況で下される判断よりは、断然良いものになるだろう。 ●調査~ハクア・クロスフォードの場合 (今のままではすべて俺の推測に過ぎぬが) ツォンミンはイェン夫妻の実子。何らかの理由があってユイリンの両親が育てていた。 実の子を取り戻す為、イェン夫妻はユイリンを殺した。 ユイリンの両親の死も、イェン夫妻に関係があるのかもしれない。 これがハクアの推測。裏付けを取るためにまずハクアが向かったのは、ユイリンの住んでいた家のある街区。近所の住人に声をかけてみれば、噂話の好きそうなおばさんが彼を頭の上から足の先まで舐めるように見て、「あなた探偵さん?」などと言いながらペラペラペラペラと聞いていることいないこと、話してくれる。 「あの事故はねぇ、本当に不幸だったと思うけれど。でもねぇ、なんで夫婦揃ってあんな所に行ったんだか」 「あんな所、とは?」 「この辺では結構高いビルの屋上のね、鉄柵が老朽化していたらしくて。それに寄りかかっていて落下したんたろうって」 (飛び降り……?) 「自殺はありえないって判断されたらしいわよ。そりゃそうよね、しっかりした娘さんと漸く授かった息子さん残して自殺なんてする理由がないもの」 ハクアの考えを読んだかのように、おばさんは語った。その表情がキラキラと輝いている。事故から1年経った今、蒸し返されているという事はなにか新しい動きでもあったのだろう、ならばぜひ知りたいと思っているに違いない。 だが彼が聞き込みの真の目的を語ることはない。共にユイリンの両親に事故について聞き込んでいた一一 一に目配せをして、おばさんに礼を言ってその場を去る。勿論、事故現場は聞き出してあったが、一と後から訪れたリーリス・キャロンがその場へ向かうと いうので、ハクアは別の場所での用を先に済ますことにした。 *-*-* ビルの目が痛くなるような装飾を通りぬけ、探偵事務所へと入る。待っていたよ、と出迎えたのは所長のツォイリンである。他の所員の姿は見当たらないが……いつ出社しているのだろうか。 「頼まれていたもの、調べておいたよ」 ソファに座ったハクアに差し出されたのは2通の封筒。ユイリンの両親の過去とイェン夫妻の過去の調査結果が入っている。 「ユイリンの両親は普通に恋愛結婚をしてユイリンを授かった。だが特に母親はもう一人、それも男の子が欲しいと長年熱望していたようだね。古い友人からの証言だ」 「……結局授からなかったから、ツォンミンを養子にしたというわけか。だが、何故ユイリンの両親がツォンミンを育てることになったんだ? イェン夫妻は健在だったんだろう?」 もう一枚の、イェン夫妻の過去を記してある紙を見て、ハクアは問う。そこにはイェン夫妻が長期間に渡って子供を養育できないような事態に陥ったとは書かれていない。漸く授かった我が子が生まれるのを心待ちにしていたという記述すらある。だが次の記述を見て、ハクアはピクッと眉を動かした。 「ツォンミンは生まれて数日のうちに、行方不明になったのさ」 ●調査~ウーヴェ・ギルマンの場合 「ふふ、どうしようねぇ? 僕としてはイェン夫妻がどうなろうと構わないけど、二人がいないとツォンミン君はひとりぼっちになっちゃうわけだし」 へらへらとした調子だが瞳はそれに似合わないイロを示している。ウーヴェは情報収集を考えたものの、とりあえずツォイリンを頼ってみることにした。なかなかに複雑なインヤンガイをあてどもなく情報収集に歩くよりは、確実で早かろう。 暫くして出された調査書を見て、ふーん、と呟いて。 ユイリンの両親に関する調査書はハクアに出されたものと同じ内容だった。だが、他に知りたかった事項の報告書がない。 「あれ~? 後の2つはぁ?」 「誘拐事件の記録なら、公式な記録は残っていないんだよ。当人たちが届け出るのを固辞したらしくてね。ただ、近所の人達の記憶に頼るしかなかったけど、気になるのは『目撃者がいない』ことと『脅迫電話の類がなかった』ことだけ。しかしこれも噂に過ぎないけどね」 ピラ、と一枚の紙が差し出されたが、数行しか記されていない。それだけ情報がないのだろう。 「ツォンミン君が養子になった経緯はぁ?」 「突然ユイリンの両親が赤子を連れてきた。どこから連れてきたのかはわからない。母親は自分の息子だと自慢げに話したが、妊娠している様子もなかったから、当時の近所では噂の的になったらしい。が、それ以降特に問題も起こらなかったので、いつしか悪い噂は消えたようだね」 「ふ~ん」 「ユイリンの遺体の謎については……」 「わからないよねぇ~」 ウーヴェはヘラヘラっと笑って報告書をテーブルへと置く。 (殺すだけでは飽きたらない程の恨みがあったか、怪しい呪術の準備とか、ただそういう嗜好なだけか……) 「わからないねぇ」 理由を想像することはできるが、真実は犯人の心の中だ。ウーヴェは帽子をかぶり直し、立ち上がった。 「どこへ行くんだい?」 「ツォンミン君に会ってみるよ」 ヘラ、と笑って彼は答えた。 ●調査~シレーナの場合 「弟の幸せのためだけに、ね。解らなくもないけど……」 ツォイリンが資料を纏めている間、シレーナはソファに腰をかけて窓から外を眺める。 「それって不幸なのかしらね? それとも、幸せ?」 ぽつり、零れる言葉はツォイリンが聞こえぬふりをしている間は独り言となって窓の隙間から外へと飛んで行く。 (ただ一人の事だけを考えて居られるなら、それも幸せなのかも知れない) そう、他人にとっての本当幸せなんて、本人だけにしかわからないのかもしれない。 四肢を切り落とした理由は、やはり常人にはわからぬものだろう。相当の恨みがあったのか、とふと思って。 「一年前のユイリンの両親の『事故』もイェン夫妻のせいかもしれないだなんて考えてみたけれど、調べて簡単に出てくるようだったら、すでにイェン夫妻は罰されているわよね」 「そうだねぇ。公式記録はあくまでも『事故』となっているしね」 社長椅子に座るツォイリンは頷いて。 「『誘拐』の時、両親が怯えていたのは……」 (息子がもう二度と戻ってこないのではという恐怖から? それとも……) シレーナは頭を振り、小さくため息をつく。窓から差し込む光が金の髪をキラキラと輝かせる。 「……ダメね。纏まらないわ……。それに『もしかしたら』なんて、現状には関係無いわね」 「一度、推理を口にしてみるという手もあるよ。口に出してみる事で、整理するのさ」 ツォイリンの勧めで、シレーナは頭の中にあった推理を引っ張り出し、再構築し始める。 「纏まっていなくても構わないかしら?」 「勿論」 シレーナの推測は次の通り。 幼い頃、ツォンミンはユイリンの両親に貰われたのではなく、攫われた。 今までの誘拐の時は「帰りたい」と言うツォンミンの意思を実の両親であるイェン夫妻が尊重して、帰したのではないか。 やっと腕の中に戻ってきた息子と何事もなく暮らしたいと願う夫妻。ツォンミンの為だと言うのであれば、夫妻を害する事はマイナスにしかならない。 事の善悪は二の次にして、ツォンミンのことを第一に考えるなら、シレーナの考えはこうなるのである。 ●調査~一一 一の場合 一はユイリンの両親が落下したというビルの屋上を訪れていた。ビルはただの雑居ビルで、特別意味があるとは思えない。ただ、他よりも高めで、屋上から落下したらまず助からないだろうという点を除いて。 ぐるり、柵を見渡すがどこにも壊れた箇所は見当たらない。古ぼけて汚れた雑居ビルだから、柵の修理などしていないかと思ったが、さすがに人が亡くなっているからだろうか、修繕されたようである。 「あった。ここですね」 注意深く柵を見て歩けば、一部新しい鉄柵が次がれた部分を見つけることができた。一年前のことだから馴染んではきているが、それでも他のもっと年季の入った柵と比べれば違いはわかりやすい。 (ここから) ぐ、と柵を握りしめて下を覗き込む。かなり高い上に入り組んだ路地に面している。落下の衝撃だけでなく様々な障害物も命を削りとった原因であろう。 *-*-* 「すいません、少しお話をきかせていただけますか」 雑居ビルを後にした一が訪れたのは、イェン夫妻が現在暮らす家の近所。「最近息子さんが戻って来られたと聞いたのですが」と告げれば、おばあさんは優しく笑んで。 「ああ、ほんによかったのぅ……出産して帰ってきた時は、二人とも憔悴しきっていて見ていられなかったからのぅ」 「それは、生まれたばかりの息子さんが病弱で、離れて暮らさざるを得なかったからですか?」 探偵から聞いていた事情を告げれば、おばあさんは「なんだ、知っておるのか」と頷いて。 「自分の生んだ子供と引き離されるなど、母親には耐え難い苦痛じゃからのぅ。理由が理由じゃから詳しい病状なんかは聞かずにおったが、奥さんは自分を責めたらしくてな、しばらくの間塞ぎ込んでいたよ」 どんな病気なのか、いつ頃帰って来られるかなどと傷口をえぐるかのように突っ込んで聞ける人など少ないだろう。ここで聞ける情報は、あまり多くないようだった。 「ありがとうございま――」 「そういえば」 礼を言ってその場を去ろうとした一に、おばあさんの声がかかる。彼女は言葉を止めて、その言葉に聞き入るる態勢を作った。 「数カ月前の夜中、うちの嫁が窓から夫妻を見たと言っとったのぅ。黒ずくめで、毛布に包んだ子供を抱いていたんじゃと。その毛布に赤黒いシミが見えたから血じゃないかとか騒いでおったが、トイレに起きた際に寝ぼけていただけだろうってみんなで笑ったんだがね」 ●調査~リーリス・キャロンの場合 「久しぶりの陰陽街、久しぶりの霊魂型暴霊……ふふっ。リーリスもユイリンさんも幸せになると良いな」 ツォイリンにイェン夫妻とツォンミンの写真をもらったリーリスは、ユイリンの両親の事故現場をハクアに聞いてから、イェン夫妻の住む街区を先に訪れていた。夫妻の家から近い助産院や産婦人科を順に訪ねて回る。 「五年前、この人がここで赤ちゃんを生んだか知りたいの」 しかし守秘義務や何かで簡単に患者の情報を渡してもらえるはずはない――通常ならば。 「ね、お願い」 リーリス相手には通常も何もないのだ。人を魅了するその能力で、対象は正常な判断を見失う。 「ああ、イェン夫妻ですよね。覚えていますよ。ちょっとした騒ぎがありましたから」 数件回った後に辿りついた小さな小さな産婦人科。中年の医師が話してくれた。通常は守秘義務を守る医師なのだろうが、リーリスの魅了にかかればその口はとろけるように柔らかくなる。 「騒ぎってなぁに? 教えて、おじちゃん」 「退院された翌日に、奥様が急に原因不明の高熱を出されたとかで旦那様に運ばれてきたんですけど、丁度うちのベッドがいっぱいで対応ができなくて。産婦人科ですからね、そっちの患者さんで埋まっていたんですよ。だから、他の病院を紹介したんですけど」 「その時、赤ちゃんはどうしていたの?」 リーリスの尤もな質問に、医師は確か、と記憶を探る。 「旦那様だけでは奥さんと赤ちゃんの世話の両立はできないと判断したんでしょう。ええ、緊急時にしては賢明な判断だと思いますよ。乳児院に一日だけ、預かってもらうようにしたらしいですね」 「その乳児院、どこかわかる?」 このあたりだと、ここじゃないですか――医師に教えられた場所へ、リーリスは向かってみることにした。 ここでもやはり守秘義務等諸々あるのはずなのだが、リーリスは魅了で口を割らせることに成功した。応対に出た若い職員はイェン夫妻のことを知らないと言ったが、五年位前と告げると「あまり大きな声では言えないんですけど」と声をひそめる。 「5年くらい前に、お預かりしていた子供が姿を消しちゃった事件があったらしいの。まだ生まれて間もない赤子だったから、自分でいなくなることはまずなくて」 「赤ちゃんから、目を離したの?」 「なんだか台所で小火を出しちゃったみたいでね、赤ちゃんはよく寝ていたこともあって、すぐに戻るからとその職員は部屋を出たらしいのよね」 「それって、監督責任とかそういうの、問われるんじゃないの? 私、難しいことはよくわからないけど」 小首をかしげてみせれば、若い職員は眉をしかめて。リーリスの耳元に口を寄せる。 「問題の職員は、責任をとってやめた後、自殺したらしいの」 *-*-* 「ユイリンさんのパパとママ?」 ユイリンの両親の事故現場。雑居ビルの屋上に上がったリーリスは、鉄作の向こうに浮いている男女二人組を見つけて声をかけた。声をかけられた二人はびくりと身体を震わせ、リーリスをまじまじと見つめる。 『私達が見えるのかい?』 父親の言葉に頷いて。リーリスは疑問をぶつける。 「ツォンミン君のこと知りたいの。ツォンミン君はもしかして、イェンさんちの子供なの? だから誘拐されても心配しなかったの?」 『!?』 彼女の言葉に両親は目を見開いて。当然のことだろう、いきなり核心をつくような問いをされれば。 『何故、それを……』 『待て。何故ツォンミンの事を知りたいのだ? ツォンミンに全てをばらす気か?』 動揺して肯定を返しそうになった母親を、父親が手で制す。父親は警戒している様子だ。 「いきなりで驚かしちゃったよね。でもどうしても必要な情報だから教えてほしいな。このままだと、暴霊になったユイリンさんも救えないし、ツォンミン君も危ないから」 『ユイリンが……あなた』 私達にはもう、どうしようもないのだからと母親は父親の腕を掴んだ。父親はなにか考えるかのようにわずかに沈黙した後、頷いて。 『私たちは最初、ツォンミンがどこの子かなんて知らなかった。どうでもよかったんだよ。あのままでは妻の気が狂って壊れてしまうところだったから』 ユイリンの両親は男の子がどうしても欲しかった。けれども15年近く経っても二人目には恵まれず、乳児院で親元に戻れない子供を養子として迎えようという話も出ていた。何度か乳児院にも訪れていたが出来れば小さい子がいいことと男の子がいいことという条件がひっかかって、上手く養子が見つからなかったのだという。 ある日乳児院の近くまで来た夫妻は、外から見えた部屋に男の赤子がいることに気がついた。父親は職員にその子供のことを尋ねようとしたが、気も狂わんばかりだった母親が暴走してしまったのである。 職員たちに見咎められぬように小火騒ぎを起こし、その騒ぎに乗じて窓から赤子を連れだしてしまったのだ。 そして母親はその赤子を自分の子供だと思い込み、父親は母親を庇うようにして『養子として引き取った』とユイリンに告げたのだという。 街区が離れているから、そうそう自分達には繋がらないだろうと思ったらしい――実際にその通りで、あちらの街区では赤子が一人行方不明になったと処理されている。 『初めてツォンミンが誘拐された時、あの子は三歳だった。三年かけて、あの子の実の両親は我々に辿りついたのだ』 『その時に初めて、私は自分が狂っていたことに気がついたの』 母親は哀愁を帯びた瞳で、口元を歪めた。 「おじちゃん達を殺したのも、イェンさん達だったりするのかな?」 『……』 沈黙。 だが精神感応によって流れこんでくるのは肯定の意。 『元はといえば、私達が悪いんだ。今は……ツォンミンが幸せになってくれることを祈るのみだ』 父親の言葉は、冷たい風に乗って流れていった。 ●小さな子供にも、意思や権利はある 「あっ……!」 水色のゴムボールが庭の垣根を越えて飛んだ。少年――ツォンミンはあわてて垣根の穴に潜って道路へと出る。住宅街の細い道路だ。自転車などに気をつければそれほど危険はない。 「探しているのはこれかなぁ?」 「あ、それー!」 ヘラっと笑うウーヴェに気がついたツォンミンは、彼の手の中に見覚えのあるボールを見つけて笑顔になる。 「おじちゃん、ありがとう!」 「ふふ、おじちゃんかぁ」 しゃがんで目線をあわせて、ウーヴェはボールを返す。そしてわしゃ、とツォンミンの頭を撫でた。 「聞いてもいいかな。君はパパやママをどう思っているかな?」 「どう思っているってどういうこと?」 子供には抽象的すぎて難しいだろうか。ウーヴェの後ろから出てきたハクアも、しゃがんで優しく声をかける。 「両親は、優しいか?」 「うん、優しいよ! ママはお料理上手だし、パパは工作が得意なんだ! たくさんたくさん遊んでくれるんだよ!」 キラキラと輝く笑顔。それが、今の彼の心境を何よりも語っているだろう。 「幸せなんだな」 確認するようなハクアの言葉に、ツォンミンは頭が落ちてしまうのではないかというほど勢い良く、頷いて。 「うん! 毎日楽しいの! 嬉しいの!」 ユイリンにはこの言葉が、この笑顔が伝わっていないのだろうか。 これでもまだ、弟の幸せは邪魔されていると思うのか? 「おじちゃんとおにーちゃん、バイバイー!」 手を振って垣根の穴から潜るツォンミンを見送って、ウーヴェは空を仰いだ。 (現在彼が幸福だということを、ユイリンに見せられればいいんだけどねぇ) ●邪魔者は、誰だ? 一が願うのは全員の幸せ。誰かが犠牲になって成り立つ幸せは、本当の幸せといえるのか? 闇が空を覆い、眠りの時間までの間に灯されていた人々の団欒の明かりも次第に消えていく。人々が寝静まる頃の住宅街は暗く静かなものであった。それでも所々の家で明かりの付いた宵っ張りの部屋があるから、明かりを持たずとも互いの存在を見て取ることはできる。 (理想は隠し事の無い親子関係が維持され、姉が守護霊になって弟を見守る形。消えるべきは『自分のエゴを通した弟の幸せを望む』姉と両親) 姉と両親そのものではなく、彼らの考え方が変わるべきだと一は思っている。その真っ直ぐな正義は、ハッピーエンドを願うだけ。 「来たよっ!!」 いち早くユイリンの来訪に気がついたリーリスが、注意を喚起する。 ぼやぼやっと暗闇に光が浮かび、色を青白く変えて輪郭作る。程なく現れたのは、肩までの髪に野の花を挿した女性。 「ユイリン……さん?」 おそらくイェン夫妻を襲いに来たのだろう、常人にも姿を見せるようにした彼女に、シレーナが声をかける。ユイリンは、浮いている自分を取り囲むようにしているロストナンバー達をぐるりと見回して。 『あなたたちは、もしかして、探偵さん、の?』 穏やかな声は、復讐に燃えて今にも人を殺そうとしている者のものとは思えない。 「ええ……。少しだけ、私達の話を聞いてもらえる? きっと、あなたの願いを叶える手助けとなると思うわ」 ユイリン小さく頷いて。すっとロストナンバー達と同じ高さへと降り立った。今は落ち着いていて、すぐにイェン夫妻に危害を加えようという気はなさそうだ。ロストナンバー達を『弟の幸せの邪魔になる者を消し去る』手伝いをしてくれる者だと思っているからかもしれない。 「ユイリンさんはイェン夫妻を殺せば満足するかもしれない。けれども今、夫妻が居なくなったら……どうなると思う? まだ小さいツォンミンくんは、どうやって生きていくの?」 『でも、あの二人はツォンミンに不幸しかもたらさないわ』 「どうしてそう断言できるの?」 シレーナの次に口を開いたのは、ウーヴェ。ヘラヘラとはしているが、目は鋭くユイリンを射ぬいている。 「ユイリンちゃんはツォンミン君のお姉ちゃんなんだよねぇ。じゃ、今のツォンミン君が不幸かどうか、ちゃんと見て、訊いてみたらいいんじゃないのぉ?」 『……ツォンミンは……』 「納得できないなら、夫妻を殺せばいいよぅ? でも、そしたらツォンミン君は両親から引き離されて孤児院で暮らすんだよねぇ。君はもう死んでるから、面倒なんて見れないもの。それで、君はもう何もしてやれないくせに、孤児院の方がマシだなんて無責任なこと言うつもり?」 『ツォンミンは、私を見ても私を姉と認めてくれなかったのです……お姉ちゃん、だあれ、と……だから』 ユイリンはぽろぽろと涙を流した。だが実体の無い涙は、空気に溶けていく。 『弟から幸せな記憶を奪ったあの二人、を……』 「だから、殺してどうするの? その後のツォンミン君のこと、考えてる?」 痛いところを突くウーヴェの言葉は、ユイリンの口を縫いつけた。ユイリンは反論できない。 「私も一部同感です」 その場に足を開き、固く地を踏みしめるようにして一は口を開く。 「あなたの考えは、イェン夫妻の死後の弟の生活にまで考えが及んでいません。あなたの行動は、自分が幸せになる方法でしかありません」 厳しい内容だが、事実だから。一は言葉を止めない。ここで止めては彼女の考えを変えることはできない。 「勿論、悪いのはあなただけではありません。イェン夫妻も自分達にとって都合の悪い事実から弟本人の目を逸らさせているだけです。それで幸せになるのは、夫妻だけです」 『やっぱりあの二人がっ……』 「私の話を聞いていましたか?」 強い口調で注意され、ユイリンは唇を噛む。もしかしたら、彼女自身も薄々わかっているのかもしれない。だが、それまでただひとつの事だけを拠り所にしてきたのだ。すぐに考えを変えられるのなら、とっくに自分でやっている。 皆で集めた情報の交換は事前に済んでいた。それを繋ぎあわせれば、ここまで至ってしまったおおまかな筋が見えてくる。 「あなたの両親は男児が欲しいあまり、思い余って一時乳児院に預けられていた弟をイェン夫妻から奪った。イェン夫妻はあなたを、弟の目の前で奪った。あなたは弟の今の両親を奪おうとしている。これ以上、彼から何を奪うつもりですか」 『!?』 彼らが幸せを語るのは、エゴ以外の何物でもない。一の指摘で流される涙も、自分可愛さの為かもしれない。 「見せかけの幸せを維持すれば、それは本当の幸せになると思いますか? 過去の出来事から目を逸らせば、幸せになれますか? ――私はそうは思わない」 『私、は……』 動揺しているのだろうか、ユイリンの輪郭がゆらゆらと揺れる。落ちた涙が次々と闇へ溶けていく。 「勘違いして欲しくないんだけど、僕は犯罪者が嫌いなんだよ。特に殺人犯は等しくクズだと思ってる」 吐き捨てるように告げられた言葉に、ユイリンが顔を上げて。てっきり自分だけを責めているのだと思ったが、そうではないようだ。 「人殺しで得た幸福なんてゴミ屑みたいなもんだよ。少なくとも、イェン夫妻がこの先どれほど息子を慈しもうが結局はただの人殺しだ。ま、そんな汚い幸福でも幸福には違いないんだし、享受させてあげればいいんじゃないの?」 ――それがいつ崩れるかまでは、責任持てないけどね。 ボソリと口の中で紡がれた言葉は、ユイリンはおろか他のロストナンバー達にも届かない。犯罪者に対するぬぐい去れない憎悪の念が、ウーヴェの身体から匂い立ちそうだった。 「一つ、確認したい」 それまで黙っていたハクアが、ゆっくりと口を開いた。 「弟の幸せを邪魔する者を消すのが目的、それは変わりないか?」 『ええ』 再確認として放たれた質問に、ユイリンは迷うことなく肯定の意を返す。それを聞いたハクアは逡巡して、だが内心の葛藤を抑えるようにして事実を告げる。 「ツォンミンは、今の生活が幸せだと言っていた。父母と過ごす日々が、最上だと」 『そんなっ!!』 ユイリンが叫んだ。彼女にしてみれば、自分と離れた所で弟が幸せになることは、自分が必要とされなくなったことのように思えるのかもしれない。 「記憶を失う前、ツォンミンは幸せで。そして記憶を失ったからこそ、今もツォンミンは幸せだ」 『嘘よ、そんな……』 「恐らく、今の弟の幸せ邪魔しているのはユイリン、おまえ自身だ」 「『自分のエゴを通した弟の幸せを望む』あなたは消えるべきです」 ハクアの言葉を一が補足して。結論を告げる。 邪魔者は――ユイリン自身だ。 『……私、が』 すべてを受けてれたのかはたまた許容量をオーバーして考えられなくなったのか、ユイリンの目がうつろになったその時。 「誰かいるのか?」 庭に面した窓が開けられ、姿を見せたのはガウンを羽織ったイェン夫妻だった。 *-*-* 『!!』 イェン夫妻の登場で、ユイリンの表情が変わる。それまでの穏やかで可憐なものから、鬼の形相に。 「だめよっ!」 何かを察知したシレーナがユイリンの前に立ち、視界を遮る。 「君たち、人の家の前でこんな夜中に……何をしている」 庭に降りてきて、大人の腰ほどまでの垣根を挟んでロストナンバーと対面したのは父親。母親は窓際に立ったまま、様子を伺っている。 「初めまして、イェンのおじちゃんたち。ツォンミン君がおじちゃんたちの子どもだっていうのは分かったけど、何で強盗に見せかけてユイリンさんを殺したの?」 「「!?」」 小さくスカートの裾をつまんで挨拶をしたリーリスの口から漏れた言葉。思いもよらなかっただろう、咄嗟の事で青ざめた顔を取り繕うことができないイェン夫妻。 「ねぇ、なんで?」 無邪気に問うリーリス。しかし他のロストナンバー達の視線は冷たい。 「この人に見覚え、あるよね?」 リーリスが指したのは青白く輝くユイリン。その表情は憎しみに満ちていて。ロストナンバー達がいるから、彼らにかけられた言葉があるから、かろうじて飛び出すのを抑えているようだった。 「うわぁぁぁっ! また出たっ! 止めはきちんと刺したはずなのに」 「怯えるってことは、それだけのことをしでかしたって言っているのと同じだよぉ。自白、ご苦労様ぁ」 軽い口調だが、ウーヴェの瞳は誰よりも鋭く、イェン夫妻を射ぬいている。 「ねぇ、私の質問にも答えてくれる?」 にこり、笑んだリーリス。父親はその場に崩れ落ち、そしてぽつりぽつりと語り始めた。 『誘拐』すると、いつもツォンミンは両親より姉の元へ帰りたがること。 ユイリンの両親の死後、何度かツォンミンを養子に迎えたいと持ちかけたが、見ず知らずの自分達は拒否されたこと。 それならユイリンも一緒にと申し出たところ、自立できるユイリンは拒否したということ。 常識に考えればいきなりの養子縁組の申し出は拒否されて当然だろう。だがイェン夫妻にとっては漸くユイリンの両親がいなくなって、邪魔者は消えたと思っていたのだ。困ったことがあれば大人に縋りたいと思うだろう、だが、その目論見は外れた。 だから、息子を取り返すために一番の邪魔者であるユイリンを殺したのだという。手足を切り取ったのは、『追いかけてこないように』『ツォンミンを奪われないように』という身勝手な願い。 「今はいいかもしれない。けれども彼が一人で生きていけるようになれば……彼女、あなた方をどうするかしらね?」 ユイリンを惨殺した上にイェン夫妻の幸せがある。それを忘れさせないために、シレーナは呪詛の言葉を残す。 「おまえ達の悪事はすべて俺達が知っている。繋いだ線の中に、沢山あった。親として子を取り戻したいのはわかる。元はといえばユイリンの両親が悪い。だがその為に全く罪のないユイリンを殺す権利はお前達にはない」 ハクアが静かなトーンで自首を勧める。だが、漸く手に入れた幸せを手放すことができないからか、イェン夫妻は渋い表情を見せて。 「記憶を今は失くしていたとしても、いつ取り戻すかはわからない。自分の罪に一生怯えて過ごすつもりか? 暴霊になるまで弟の幸せを一途に思うユイリンに何の罪があり、お前達に殺される必要があったのか」 静かに告げられたハクアの言葉だったが、語尾には力がこもっている。ユイリンは、殺される理由はなかったのだ。その件に関しては、全くの被害者なのだ。 「今は無理でも、彼が理解できる歳になったなら、すべてを打ち明けて人を殺した己の罪を償うべきです」 一はイェン夫妻を見つめた後、ユイリンに向き直って。 「あなたは始まりが何だったのかを理解し、過去の復讐ではなく弟の未来を助け、見守るべきです」 幸せは誰かから与えられるものではない。自分で見出し、手に入れるものだ。 一の髪が、夜風にふわりと揺れた。だが一の根幹である善意は揺らがない。 「血に塗れたその手で育てられたと知ったら、彼は耐えられるかしら」 ぼそり、呟かれたシレーナの言葉に、イェン夫妻は肩を震わせて。夫人はすすり泣きながら膝をついた。 「彼がすべてを思い出した時が、本当の地獄の始まりね……」 「ユイリンさん……この人達は身勝手だけど、ツォンミン君を愛しているのは本当みたいだよ。私にはわかるの。許してあげられない?」 『ゆる、す……?』 ロストナンバー達による断罪を見ていたユイリンの表情が、穏やかなものに戻る。だが、許すと即決するのは難しそうだ。 「じゃあ私の中に来る? 消滅するまで私がツォンミン君に会いに来てあげる」 まるで抱きしめるのを待つかのようにゆったりと広げられたリーリスの両腕。ユイリンは優しい瞳でそれを見つめた後、首を振る 『邪魔者、見つけてくれましたから……「邪魔者の私」は消えます。ただ、心配なのは……』 ユイリンはつ、と明かりの落ちている部屋へと視線を向けて。ロストナンバー達もそれを追う。 「安心しろ。もしイェン夫妻に何かあった際は、一人になったツォンミンの保護をツォイリンに頼んである」 ハクアは必要経費を支払い、そしてツォイリンはその依頼を快諾したのだ。 『ならば、安心ですね……。こんなに頼り甲斐のある人達を派遣してくれる探偵さんなら、きっと、悪いようにはしないでしょうから……』 安心したのだろう、ユイリンは一度、ぎゅっと瞳を閉じて。 そして。 『さようなら、ですね』 泣き笑いの表情で、ロストナンバー達を見つめる。 (ただ安らかに、穏やかに眠ってくれ) 彼女の魂の安息を願い、ハクアは祈る。 輪郭がゆらぎ、彼女を覆っていた青白い光が小さくなっていく。 すうっと闇に吸い込まれるように、小さくなって光は消えた。 『ツォンミンを、愛してくれてありがとうございます……』 後に残された声は、誰に向けられたものか。 ユイリンは最後まで、弟を愛していた。 *-*-* 『複雑怪奇な愛憎劇! 惨殺犯、自首!』 そんな煽り文句の新聞が机の上に乗せられている。クリーム色の壁の部屋は、今日も通常営業だ。 ただひとつ違うとすれば。 「パパとママはいつ帰ってくるの?」 「いい子にしていれば、早くお仕事を終えて帰って来られるよ」 チャイナ服の探偵の横に、小さな少年の姿があることだった。 【了】
このライターへメールを送る