ヴィラ白銀は重苦しい空気に包まれていた。 ひと呼吸ごとに、肺の中にその重圧が蓄積されていく感覚がある。 精緻な細工の柱時計が立てる、わずかな秒針の音が、やけに大きく感じられた。木造りの建物の持つぬくもりは、しかし今は人々の心を和やかにすることも出来ない。 外は曇天、一面の白。 まだ正午を少し過ぎただけのはずだが、重く雲の垂れこめた空から真昼の明るさをうかがうことはできなかった。「なんでこんなことに……」 誰かがため息をつき、手持無沙汰と言わんばかりにソファへ腰を下ろした。 時間だけがただ無為に、腹立たしいほどゆったりと流れてゆく。 ――壱番世界は日本の某県山奥にある山荘である。 部屋数は十二、一日に受け入れる客は最大で三十名までと規模こそ小さいものの、スキーに温泉、地元の特産品をつかった料理などが楽しめる、その筋では有名なホテルなのだという。細やかで質の高いサービスから海外のセレブリティにも人気が高く、隠れ家的なホテルとして客の絶えることがないといい、あのロバート・エルトダウンもときおりここを息抜きに使っているのだそうだ。 ロストナンバーたちがここを訪れたのは、ロバートから話を漏れ聴いたのも理由のひとつだったが、それを除けばほぼ偶然だった。 何の事件でも、用事でもなく、純粋に、じきに終わりを迎えるであろう冬を楽しもうと、ひとりで……もしくは友人とともにやってきて、このごたごたに巻き込まれた。「出られないとはどういうことだ!」 ロビーの片隅で大柄な男が喚いている。 彼は、日本では有名な企業の社長なのだそうだ。三十代後半程度だろうか、身なりはよく、身に着けているものも高級品ばかりだったが、表情も言動も所作も品があるとは言い難く、傲慢で他者を見下すような物言いから客の中でも煙たがられている。「ですから、岩原さん」「近年稀に見る大雪なのよ、しかたないでしょう。雪が止めば救助が来るんだから、少しくらい我慢しなきゃ」 同行の男女数名がなだめようとするものの、男の苛立ちは収まらないようだった。「我慢だと!? この中に木村を殺した犯人がいるかもしれないのに、なにを我慢しろというんだ!」 男が怒鳴り、再び場が凍る。「で、でも……部屋には鍵がかかっていたんだし、殺されたってわけじゃ……」「ああ、自分の背中をナイフで刺して自殺する器用な人間がいるならな!」 脳裏を酸鼻な光景がよぎったのか、何人かが酢を飲んだような表情をした。 岩原のいうとおり、木村という名の、彼の友人は、刃渡り20cmものナイフを背中に深々と突き立てられ、自分の血の海の中にうつ伏せでこと切れていたのだ。彼の他、誰かがいた形跡はあるのに、部屋にも窓にも鍵がかかっていて、その『誰か』は今のところ見つかっていない。 人が死んでいるのだから、しかるべき機関に捜査をしてもらわなければならないのだが、外は数メートル先も見えない激しい吹雪と一メートルを超える積雪で、警察を呼ぶどころかホテルを出ることすら出来ないのが現状だった。「くそッ、殺人犯がいるようなホテルで何日も過ごさなきゃいけないのか。なんだってこんなところに宿を取ったんだ!」「そんな、ひと気のない、静かな、でも過ごしやすくて高級なところを探せって言ったのは岩原さんと木村さんですよ」「うるさい黙れ、また殴られたいのか!」 苛立ちを隠しもせず、子どもっぽく怒鳴り散らす岩原に、同行者たちが首をすくめ、他の滞在客は憂鬱そうにため息をついた。肝の太いロストナンバーたちは堪えたようでもなかったが、状況そのものは特によくもなっておらず、長期戦が予想されることには辟易した様子だ。 と、そこへ、「今……嫌な話を聞きました」 客のひとりが青い顔で戻ってきて、ソファの隅に座った。「嫌な話?」「一週間ほど前、連続殺人事件があったの、ご存知です?」「ああ、三人、殺されたんだったか。ひどい殺され方だったって聴いたな」「ナイフで滅多刺しだったっけ? 手際は見事なのにわざわざ滅多刺しにした辺りから怨恨の線が疑われて、でも、殺された男たちにはこれといった共通点がなくて、無差別殺人だろうって言われてたアレだよな?」「はい。で、その犯人が、もしかしたらこの辺りに潜伏してるんじゃないかって情報が。無線の、途切れ途切れのものだったんですけど、間違いないと思います」 客がそういったとたん、岩原が青い顔をして立ち上がった。 蹴立てられた椅子が倒れ、大きな音を立てる。 彼からは、殺人鬼が近くに潜伏しているから、というだけではない、何かもっと深い怯えのようなものが感じ取れた。「あれはおれたちのせいじゃない、おれは悪くない」「……岩原さん?」 うわ言めいたそれに、いぶかしげな声が上がる。 男ははっと我に返り、激しく首を振った。「な……何でもない。くそ、おれは部屋に戻るぞ、こんなところにいられるか!」「あ、ちょ、単独行動は……!」「ちょっと待ってよ、岩原さん!」 焦燥すら滲ませて男がロビーを出ていき――飛び出す、といったほうが正しい――、取り巻きたちが首を傾げながら彼を追いかける。騒がしい男が出て行って、場には静けさが落ちた。「殺人鬼か……ぞっとしないな」 滞在客の誰かが我が身を抱いてぶるりと震える。「人が死ぬとか、殺されるっていうのはどうもね」「それより少し前にも、この近くで若い娘さんが亡くなったって聞くし……なんだかやりきれないわね。もちろん、怖いっていうのもあるんだけど」 逃げ隠れのしにくい小規模な山荘である。 誰彼構わず襲いかかる殺人鬼に入り込まれたら、厄介なことになるだろう。 最悪の事態を想像してか、滞在客が青い顔をして黙り込む中、柱時計の針を見据え、青年が小さくつぶやく。「……あいつは殺人鬼なんかじゃない」 それはあまりに小さかったので、彼の言葉を耳にしたものはごく少数だったが、「あいつは……俺が、止めてみせる。もう、誰も殺させない……」 ひとりでヴィラ白銀に滞在し、スキーや温泉を楽しむでもなく、じっと何かをうかがっている風情の彼に、のっぴきならない事情があるだろうことは察せられた。 さまざまな思惑を孕んで、ヴィラ白銀は重苦しい沈黙に沈もうとしている。 しかし、その沈黙は、いつ破られるか判らないのだ。 雪の影響もあっていつもより人数の少ないホテルスタッフが、それでも職務をまっとうすべく行き来する、求道者のようですらあるその姿を横目に見やり、誰かが何度目かも判らぬため息をついたとき、「いや、困ったなこれ。由々しき事態じゃね?」「だよね、困ったなあ」 困ったといいつつまったく困った様子のない、明るい声とともに、数名のロストナンバーおよび滞在客がロビーに戻ってくる。彼らの腕には、一様に小麦粉の袋が抱えられていて、今この場においては違和感がすさまじい。「……何ごと?」 シリアスで沈鬱な空気を打ち砕くような登場に誰かが眉をひそめれば、「調理スタッフが心労で倒れちゃったんだって。雪のおかげで食材も充分じゃないし、料理の出来そうな面子でなんとかしないとごはんにもありつけない」「今あるのは?」「野菜や果物はあんまりたくさんじゃないけどひととおりそろってる。動物性たんぱく質はストック量が少ないから工夫してつかわないと行き渡らないかも。乾物もそこそこ、調味料やスパイスのたぐいは充分にあるかな」 密室殺人事件でも殺人鬼の潜伏でもない、次なる問題が提示されるのだった。「えーと、メインは」「ん、これ」 小麦粉の袋が掲げられる。 話によると、小麦粉は100kg以上のたくわえがあるらしい。 主食としては申し分ない量ではある。「ってことで、救助が来るまで小麦粉で食いつながなきゃいけないんだけど、なんかいいレシピないかな?」 あまりに明るい、あっけらかんとした問いに、「のんきだな……殺人事件があって、殺人鬼が迫ってるっていうのに」 感心とも皮肉とも取れぬ声で誰かが言うが、言われたほうは堪えたふうもない。「だけど、食べなきゃどうにもならないし。せめて美味しいものを食べて、元気を出さなきゃとも思うから」 温度差こそすさまじいが、もっともといえばもっともな言に、料理の得意な人々がぱらぱらと名乗りを上げる。事件やハプニング、物騒なあれこれには慣れっこのロストナンバーたちも、ぼちぼち腰を上げ始めた。「んじゃまあ、出来ることからやろうか」「現場の保存というか、状況の把握くらいはやっておくか?」「じゃあその、殺人鬼に備えての準備とか、しとくかな」「とりあえず、食べたいものがあったら教えてほしいな。小麦粉でつくれるもの限定で」 閉ざされた山荘での、バラバラすぎる方向から突きつけられる問題。 ミステリでもホラーサスペンスでもサバイバルでもある現状を鑑みた、なんだかカオスだなあ、という誰かのつぶやきが、その場に居合わせた人々の内心を見事に代弁していた。
1.謎と探偵 「あーあ、せっかくの雪なのに……早くやまないかなぁ」 そんな、若干の矛盾を感じさせる言葉とともにディガーが戻って来たとき、あの岩原とかいう男は、自分以外のなにもかもが悪いとでも言わんばかりに怒鳴り散らしているところだった。 彼は、木村を殺した犯人や周辺に潜んでいると言われる殺人鬼、彼らを足止めする雪、この山荘を選んだ同行者のみならず、何ら落ち度のないヴィラ白銀の支配人から従業員まで、のべつまくなしに罵り続けていた。口汚い、下品な言葉の羅列に、同行の女性が顔をしかめている。 ディガーは溜息をついた。 近年稀に見る積雪をひたすら掘りたいという、他者にはなかなか判ってもらえない欲求のためにここへ来ただけなのに、猛烈な降雪のせいで掘ったそばから穴は埋まるし、おとなげのないわがまま男が喚き散らしているしで、散々である。 (岩原さん、もうすこし小さい声で喋ってくれないかなぁ……びっくりしちゃうよ) 耳のいいディガーに、岩原の大声は刺激が強すぎる。 といっても、誰かがなだめたところで、岩原の不機嫌を通り越したご乱心ぶりを和らげられるとも思えない。むしろ、火に油を注ぐ結果になりそうだ。 肝の据わっている、荒事に慣れたロストナンバーに関して言えば、岩原には興味がないようで、取り乱す彼を冷ややかに見ているものも少なくない。 (しょうがないなぁ……) ディガーはまた溜息をついた。 このまま彼の大声を聴き続けるなんて、拷問以外の何ものでもない。 しかし、あの声を止めるためには、現状を何とかするしかない。要するに、犯人を見つけ出し、彼を安心させてやるしかないのだ。 (その殺人犯っての、探してみよう) と、ひとまず現場を見に行こうとしたところで、 「警察のものです」 凛とした声がホールに響き、落ち着かない様子だった宿泊客や従業員たちが驚いた顔をして声の主を見やる。 「銀幕署所属の刑事、流鏑馬 明日です。皆さん、お気持ちは判りますがどうぞ冷静に。我々が混乱しては向こうの思うつぼです」 チョコレート色の表紙に、顔写真が入り、下部にはきれいな記章の入った盾開きの手帳を高く掲げ、静かに呼ばわるのは、同じロストナンバーである明日だ。 手帳の威力というのは、壱番世界の日本においてはかなりのものがあるらしく、喚き散らしていた岩原がぎょっとした表情になって、口をつぐむ。それとも、何かやましいことでもあるのだろうか。 しかし、彼女の――警察の登場で、場に安堵の空気が流れたのも事実だ。 「この辺りでは聞かない地名だけど……もしかして、非番で? だとしたら、アンラッキーね」 岩原の同行者である女性が苦笑交じりに問うと、明日は小さくうなずいた。 「ええ。ですが、そのおかげでパニックを防止しみなさんを護れるなら幸運と考えるべきかと。――私は、これから現場の調査を行います。近辺に殺人犯が潜伏している可能性が高いですので、みなさん、単独行動は避けてください」 女刑事は、エンブレムを掲げながら、きびきびとクールに告げる。 冷静な公僕が、非番ながら捜査を始めると知って、滞在客や従業員の眼には、縋るような色が揺れた。ただし、彼女はツーリストで、この世界の警察官ではなかったはずだが、ここでそれを指摘する無意味は警察などという組織とは無縁な異世界人のディガーにも判る。 「だいじょうぶです、皆さんのことは我々が護ります」 「……我々?」 「ええ。今回のバカンスは、頼りがいのある友人たちといっしょなんです。ねえ、皆」 明日の静かな眼差しが、ロストナンバーたちをぐるりと一巡する。 訪れた理由はさまざまでも、顔合わせと確認だけはしていた面々が、微笑んで手を振ったり肩をすくめたりする中、明日は力強くうなずく。 「では皆さん、しばらくお待ちください。出来る限りこのロビーで過ごしてもらって、移動する場合は必ず複数名で」 指示に、いくつかの頷きが返る。 岩原は、俺に指図をするなとかなんとかぶつぶつ言っていたが、死にたいわけではないらしく、再度ロビーから出ていこうとはしなかった。 「あ、じゃあ料理を手伝ってくれる人は厨房へお願いします。とりあえず、あったかいものを食べて気持ちを良好に保たないとね」 相沢 優が、ロビーの片隅で、ひとり、彫像のように身じろぎもしない青年を気にしつつ言うと、ぱらぱらと同意の声が上がり、何人かが腰を上げる。 そうして、じわりじわりと事態は動き出す。 * * * 場面は変わり、木村氏の殺害現場である部屋。 絶命するまでにもがき苦しんだからか、あちこちに飛び散った血が赤黒く変色した酸鼻な場所だが、今さら血に怯える繊細さを持ったものはここにはいない。 「さて……では、気になることがあったら、教えてもらえると嬉しいのだけど。皆で知恵を出し合えば、見えてくるものもあるでしょうし」 明日の問いに、ディガーが声を上げた。 「ええと、背中から刺したんだから、襲いかかられてしょうがなくとかじゃなくて、きっと殺そうと思って刺したんだよね」 「だろうな。潔いくらい背中の真ん中に刺さってる。これで殺意はありませんでしたなんて言っても、誰も信じねぇだろうよ」 頷くのは、一二 千志だ。 覚醒前は賞金稼ぎ、覚醒後は探偵社――という名の万屋であるらしいが――を営んでいる彼は、男が血の海に倒れ伏す光景を目にしても表情を動かすことなく、室内におかしなところがないかどうか調べている。 「でも、背中を向けたってことは、木村さんは刺されるなんて思ってなかったんじゃないかな?」 「ああ、顔見知りである可能性が高い。争った形跡もないしな」 「うん、ぼくも、ぼくを殺すかもしれない人は部屋に入れたくないし、背中も見せたくないよ。だから、犯人は木村さんと仲のいい人……えーと……あ、岩原さん。……あれ?」 首を傾げたディガーが、 「……うん、よく判らないから、本人に訊いてくるね」 と、踵を返しかけるのを、 「待て、先走るな」 千志の手が肩を掴み、止める。 「ん、何?」 「何? じゃねぇだろう。たとえあいつが犯人だったとして、はいそうですって答えると思うのかよ? 警戒されて調べるものも調べられなくなるのがオチだろ。そういうのは、動かぬ証拠を見つけてからの話だ」 「ああ、そういうもの、なんだ……?」 不思議そうなディガーに、額を押さえた千志が「頭痛ぇ」とぼやく。ぼやきつつも、部屋の状態を確認し、 「……合鍵は、ホテルのマスター・キィ以外存在しねぇって話だったな」 ガラステーブルに放り出されたままの、部屋の鍵をちらりと見やる。 木村の死体が発見された時、鍵はそこに置かれていたそうだ。無論、扉を開けるときは、くだんのマスター・キィが使われた。 「密室……か。室内におかしなところはなさそうだが……」 明日は、ほとんど無意識のうちに、指先で唇をなぞった。 「後日、この世界のしかるべき機関が捜査することを考えると、現場のものは動かさないほうがよさそうね。木村さんには気の毒だけれど、このままでいてもらいましょう」 雪がやみ、外界とのコンタクトが取れるようになれば、壱番世界の警察がやってくる。部外者が現場を荒らすことは避けるべきだろうと、死亡推定時刻やほかの外傷など、遺体の状態を調べるにとどめ、部屋のドアや窓の内側、外側、天井などをチェックする。 「あの岩原という人、妙なことを言っていたわよね」 「ああ、あんたも聞いたか。『あれはおれたちのせいじゃない』、」 「――『おれは悪くない』」 エレナが、千志の言を継ぐ。 若干五歳で《探偵》のライセンスを得たという、推理のプロフェッショナルとでもいうべき彼女は、相棒、ぬいぐるみのびゃっくんを抱きながら、死体に怯えた様子もなく、 「強い憎しみを感じる」 小さな手のひらで床に触れ、ぽつりとつぶやく。 「憎しみ?」 「うん。部屋全体から。でも……これが、自分を殺した犯人への、木村さんの憎しみなのか、木村さんへの犯人の憎しみなのかは、わかんない」 「でも、その感情が存在したことが事実なのね。木村さんと岩原さんのこと、もう少し調べる必要があるのかも」 「そうだね。今判ってるのは、岩原さんと木村さんは友達で、岩原さんは会社社長、木村さんは雑誌の記者……だったっけ」 「聴いた話だと、えげつない、過激な内容を扱う雑誌らしい。そっち方面で、なんか恨みでも買ってんのかもな。殺人鬼に殺されたって連中のことも気になるし……その辺、聞き込みでもしてくるか。ここのことはあんたらに任せるぜ」 肩をすくめ、千志が退室する。 彼の、硬質な印象の背中を見送って、 「……しっかしまぁ、せっかくの、初旅行に豪雪と吹雪ってよ……」 夕凪がぼそりとこぼす。 無表情なのにげんなり感が余すところなく伝わってきて、明日はご愁傷さまと思わず返した。 「まー、かまわねーんだけどよ。せっかくの旅行だいなしにしてくれた恨みはあっけど、やることやんなきゃどうしようもねーってのは確かなんだし」 面倒くさそうにしつつも投げ出すつもりはないらしい。 「傷は一ヶ所、か」 「迷いも何もない一撃ね」 木村は、部屋の真ん中あたりで倒れている。 ドアを向いてこと切れているのは、助けを求めて外へ出ようとしたからか。 「知り合いじゃなきゃ、奥までは入れねーよな」 「そうね」 「んー、こいつの身長で、この位置に刃が刺さってるってことは、相手は背の高い男か……?」 夕凪の独語は理にかなっている。深く刺すためには力が要るはずで、刃物を構えて体当たりしたと考えれば、その位置と角度で犯人の大雑把な身長が判るからだ。 ただ、 「椅子の周辺にたくさん血が散ってるから、座ってる時に刺されたのかもしれません。背後から左手で口を押えられて、右手で刺されたのかも?」 探偵助手、黒葛 一夜が指摘する通り、椅子付近に血痕が多いのは、そこで刺され、椅子から転がり落ちてもがき苦しんだ証拠のようにも見える。あれだけの刃渡りのナイフであれば、体当たりとまで行かずとも、少し勢いをつけて刺せば命を奪うこと自体は難しくないだろう。 「誰でも犯行は可能。――ただし、木村と知り合いなら。ってことか?」 一夜は頷き、部屋をぐるりと見渡した。 「密室殺人事件なんて、なかなか本当に遭遇する機会はないですよね……まったく、なんでこういう時に限っていないんだろう、あの先生」 どうにもタイミングの悪い『先生』に溜息をついたあと、 「死体の場所次第では、犯人が去ったあと、犯人から身を守るために被害者自ら鍵をかけるということもあるそうですが……この位置だとそれはなさそうですね」 木村の倒れている位置と、扉までの距離を見やった。 「そうだね。この殺人は被害者と加害者がそれなりに親しくなきゃ難しいかも。椅子に座って話をしていて、犯人が立ち上がって背後に回ったとき、何も警戒しなかったっていうことだもん。……つまり、岩原さんをはじめとした、いっしょに宿泊してる人たちが怪しいっていうのは確かだよね」 ただ、犯人像が絞り込まれたところで、密室という現状が立ちはだかるのもまた事実だ。 「あとは……どうやって鍵をかけたか、かしら」 「そうですね。うーん、ドアの隙間から道具を使ってのトリックは古典的手法ですし、扉を開けてから鍵をばれずにその場に放りだしても密室は成立します。最初に鍵がかかっていると言っていても、こじ開けてみると実は鍵がかかっていないなんてこともあるでしょうし……鍵をすり替えておいて、あとでこっそりと元に戻しておく手もあります。皆さん、どれがいいですか?」 「いや、どれがいいとか訊かれてもよ。どれでもいいから真犯人を見つけてくれとしか言えねーわおれ」 自分の思考に集中し、若干ずれた問いかけをする一夜に、夕凪が呆れたような声を上げた。 それを視界の隅に見つつ、 「だけど……なんでなのかなあ?」 ディガーが朴訥に首を傾げる。 「なんでみんな、すぐ殺そうって思うんだろう? そんなことしたら、なんにもできなくなっちゃうのに」 彼の、いっそ無垢ですらある疑問が、明日に微苦笑を浮かべさせる。 「……そうね」 「その人が生きてるのが、どうしても嫌なら、しょうがないよね。でもそれなら、隠さないで殺しましたって言えばいいのに。なんで、やったことを隠そうとするんだろう?」 ディガーはひどく不思議そうだ。 「殺したって知られると、いろいろと大変なことが起きるからじゃないかしら」 「そしたら、別の誰かに死んでほしいって思われるから? だけど、人を殺すってそういうことだとぼくは思うよ」 「ええ。私もそう思うわ。人を殺すって、その人の命を望むと望まざるとにかかわらず背負うことにほかならないもの。だけど、その自覚がない、覚悟がない人だってたくさんいるわ、きっと」 人を殺すことは禁忌だ。少なくとも、法によって律された世界においては。 例えば、何か激烈な、それを冒すしかない事情があったとして、どんな理由も背景も、その行為を行う免罪符たり得ない。罪が罪として残ることに変わりはなく、厳然として罪人を縛り続ける。 犯人は今どういう気持ちでいるのだろう、と、明日は唐突に思った。 何がその人を駆り立てたのだろうか、とも。 「若い娘さんが亡くなった、というのも気になるわね……誰か、詳しく知っている人はいるかしら」 現段階において、この場で得られる情報の大半は手にした。 となると、今度は、別方面からのアプローチも必要になってくる。 「……おれ、幽体離脱して客とか従業員の会話を『盗み聞き』してみるわ。なんか、新しいことが判ったら連絡する」 「じゃああたし、気になることがあるから、いーちゃんといっしょに聞き込みをしてくるね」 次なる展開を求め、それぞれが、独自路線による調査を始める。 2.思惑ぽろぽろ 「大まかな経過は判った……ような、気がするけど」 びゃっくんを抱えて歩くエレナへ、一夜はメモを取りながら頷いた。 本来は、雇主であるツーリストとともにここへ来るはずだったのだが、くだんの探偵が急用で予定をさくっと変更してしまい、ひとりで滞在することになってしまった一夜である。 ぼやきつつも、臨時雇い主を見つけたのでよしとする。さらに言えば、探偵助手として、事件の解決に少しでも貢献しよう、と張り切っているのも事実だ。 「うんとね、もろもろの情報をつなぎ合わせてみただけの、物語で言うなら第一稿みたいなものなんだけどね」 「はい。聴きながら俺も考えるので、どんなことでも言ってみてください」 「うん、ありがと、いーちゃん。いーちゃんの有能助手ぶりに期待しちゃう」 「そう言われると張り切らずにはいられませんね!」 「ええとね……じゃあ、まず。――誰かが言ってた、若い女の人が死んだのは、たぶん岩原さんと木村さんのせい。事故だって、自分に責任はないって言い張りたいみたいだけど」 大人びた、静かな眼差しが、雪の降り続く窓の外を見やる。 彼女の、高価な宝石のように透き通った眼には、一夜とは違う世界が映っているのかもしれない、などと詩的なことを考え、すぐに意識をエレナに戻す。 「殺人鬼は、きっと、本当の殺人鬼じゃないんじゃないかな。正確には、復讐鬼なんだと思う」 「それはつまり、その女の人の家族とか恋人が……?」 「うん。事件の関係者、もしくは彼女が死ぬ原因をつくった誰かに対して復讐をして回ってるの。ちらっと聞こえたんだけど、たぶん、復讐鬼さんを知ってる人も来てるよ。事情を知ってるんだから、お友達なんじゃないかな?」 「偶然居合わせた? いや、違うな、『殺人鬼』を追いかけてきたのか」 「そうだね、そのほうがつじつまは合うもの。何らかの事情で死んだおねえさんがいて、それには複数の男の人がかかわっている。その復讐のために誰かが鬼と化している。そんなストーリーが成立する感じ」 あのとき不可解な反応を示した岩原と、おそらく木村も、罪のない娘さんに何らかのひどい仕打ちをした。その結果彼女は死に、怒りに駆られた何ものかが、その清算のために命を奪って回っている。 「……流れとしてはこの上もなく自然ですね。でも、」 そこにはまだ解けていない謎がある。 一夜の、視線での問いにエレナが頷いた。 「うん、そう。殺人鬼に密室は不要だよ。何より、三人を殺した手口とやりかたが違いすぎるもの。だから、この状況に便乗したまったく別の事件が起きてる可能性が考えられるの」 一夜もまた首肯しながら、手帳にメモを書き込んでいく。 「複数の思惑が絡み合って、事態を複雑にしている、と。横暴な岩原さんを追い詰める目的の人たち、復讐の殺人鬼、個人的な怨恨や利害で動いた便乗犯……?」 「うん。岩原さんを追い詰めたいのと、個人的な怨恨は同じカテゴリに入るかもしれないけど。木村さん殺しは、もしかしたら関係者全員の共謀っていう可能性もあるよね。だからあたし、発見者の順番や状況を知りたいなって」 「ですね。俺は、岩原さんに尋ねてみたいです。木村さんが殺された理由をご存知なんじゃないですか、って。――答えてくれる可能性は限りなく低いですけど」 「そうだね。あたしはほら、子どもだから、大人には言いにくいことを聞き出すには最適かなって思うし、怖がってるふりをして聞き手に回るね。いーちゃん隊員も、別方向からの聞き込みをお願い」 「了解です、ボス」 以下は、エレナと一夜の畳み掛けるような聞き込みによって得られた情報である。 岩原の同行者、東野多恵子曰く。 ――第一発見者? 結城さんだったと思うわ。木村さんに部屋に来いって言われてて、訪ねてみたのに返事がないから不審に思ったんだって。鍵? さあ……あの時は動転していたから、よくは確かめなかったわね。そうまで恨まれていたっていうこと自体は、実を言うと驚いてもいないんだけど。他の人たちのアリバイ? ずっといっしょにいたわよ、結城さんが呼び出されて、死体を発見するまで。 第一発見者、結城健司曰く。 ――ええ、発見者は僕です。木村さんに暇だから相手しろって呼びつけられて。夜中に迷惑だなあって思いながら行ったら、返事がなくてね。鍵もないし、スタッフに頼んで開けてもらったらあんなことになってるんだから。いろいろ問題のある人だったけど、まさかあそこまで恨まれてるなんてね。怪しい人? さあ……誰に殺されても、おかしくないような人だったから。 ヴィラ白銀の予約を取った、津田准一曰く。 ――なぜここの山荘を選んだか? 岩原さんにも言った通りだよ、ひと気のない、静かな、でも過ごしやすくて高級なところを探せ……だなんて、あのふたりがわがままを言うから。ホント、あの人たちには毎度のことながら苦労させられ……いやまあ、それはさておき。この辺りは雪が深くて静かだから、もってこいだと思ったんだよね。 山荘の従業員曰く。 ――マスター・キィですか? チーフが預かって保管しています。持ち出す際にも帳簿につけますし、常にスタッフの眼がある場所ですから、お客様が誰にも知られずご使用になることは難しいと思いますよ。 * * * 「……あの」 そのころ、優はロビーの片隅で何かを待っている風情の青年に声をかけていた。 料理の途中だったのだが、どうしても気になって戻って来たのだ。 「何か?」 青年は、二十代後半程度に見えた。 これといった特徴のない顔立ちの、どこにでもいるような人物だが、目には強い意志の光がある。 「あ……ええと、俺、相沢優って言います」 「ああ、これはご丁寧に。俺は兵藤だ。……それで?」 「あの、兵藤さんの独り言、聞いちゃって」 「独り言?」 「『あいつは殺人鬼じゃない』って……どういうことですか?」 「……ああ」 優の問いに、青年は緩い苦笑を浮かべた。 そして、首を横に振る。 「何でもないんだ。きみが気にするようなことじゃない」 優の言葉を否定しないところからして、彼の独り言そのものは真実なのだと判る。その返答に、不安が募る。 「何か理由があるんだろうと思うんですけど、あの、ひとりで止めるのは危険ですよ。事情を教えてもらえませんか? 協力できることとか、きっとあるだろうし」 しかし、青年は頷かなかった。 反対に、 「どうして危険だと思う?」 むしろ不思議そうに尋ねられて、優は言葉に詰まる。 「え、それは……三人も殺してて」 ナイフで三人もの人間を、滅多刺しにして殺した殺人鬼。 被害者たちにまだ息があるうちに、とどめにはならない、ただ痛みと恐怖だけを与える目的で何度もナイフを突き刺されたと思しき傷痕からは、明らかに怨恨が疑われるのに、殺された三人に何かの共通点があるという情報はいまだに出てきていない。 それゆえに、快楽殺人犯だとか、通り魔だとか、さまざまな推測が立てられているのが現状だ。地方で起きた事件とはいえ、その残虐性からマスコミを騒がせ、『専門家』による犯人探しは今でもテレビのワイドショーを賑わせている。 優が新聞やネットを通して知っているのはその程度のことだが、おそらく、日本中の大半の認識がそこにあるといって過言ではないはずだ。 だから、 「ああ……うん、そうだな。世間一般ではそう思われてるんだったか」 兵藤の、少し寂しげな、哀しげなそれに、優は眉をひそめるしかなかった。 「心配要らない。あいつは、そうじゃないんだ。だから……俺ひとりでもだいじょうぶ」 殺人鬼のことをよく知り、それでいて警察に通報するでもなく、彼の現れそうな場所で『何か』を待っている兵藤の姿は、青年がなにがしかの強い決意を抱いていて、それゆえに説得が難しいことを示していた。 やわらかい、しかし確かな拒絶に、優はそれ以上の言葉を紡げず、引き下がるしかなかった。 「……先に、出来ることをやっておこう」 彼のもとを離れて、優が、合流した千志とともに行ったのは、宿泊客やスタッフへの聞き取り調査だった。 連続殺人事件の被害者については、ひととおりの情報を得ているが、それはマスコミから発信される、通り一辺倒のものでしかないのだ。何か事情を知っている人間がいれば、新しい発見につながるかもしれない。 千志は、古新聞を探しているようだった。 スタッフにも手伝ってもらって殺人鬼に関する記事を集め、事件の背景に迫ろうとしている。 「岩原と木村、一連の被害者には何らかの関係がある。それが、見つかればな」 今のところ、判っているのは、連続殺人事件の被害者は全員が男で、年齢も背格好も外見的な特徴も、住んでいる場所も学歴も職業も、そこそこ、それなりの収入があること以外は、なにひとつとして共通点がない、ということだ。 過去の事件や事故に、共通してかかわったという事実もいまだ出てこない。 「……なんというか、ここまで共通点がないと、いっそ清々しいな」 優が溜息をつくと、千志は頷きつつも顎に手を当て、考え込むそぶりをみせた。 「ああ。だが、妙じゃないか?」 「妙って?」 「あまりにもなにも出てこねぇのに、岩原の様子からは明らかに何らかの事情があると判る。だとすると、この共通点のなさが、もしかしたら共通点なのかも、ってな」 ばさり、と音を立てて新聞を畳み、千志が鋭い目つきでロビーの片隅を見やる。気持ちのいいソファにだらしなく四肢を投げ出し、憔悴した様子で座り込む岩原の姿が、千志の眼には映っている。 同行者たちは、岩原の守りで疲れたのか、離れた場所で何ごとかを話し合っていた。深刻な表情は、岩原の横暴に対する憂鬱さからだろうか。 「若い女に複数の男って言や、だいたい想像がつかねぇか」 「いや……うん、だけど」 「この辺りは想像どころか妄想の域だが、小金を持ってる、犯罪めいた願望を抱く連中のために、そういう『サービス』を提供する組織がある、って考えりゃどうだ。共通点がねぇのは、その組織かグループが、自分らの犯罪が露呈しねぇよう、情報を絞り込みにくくするために、わざと『サービス』を受ける人間の組み合わせを決めてるから、なんじゃねぇか?」 優は息を呑む。 それが事実だとしたら、なんという非道だろうか。 金の力で、本来許されるはずのない享楽にふける人々。 その陰で苦しめられ、傷つけられる罪なき存在を思うと胸がふさがれるような気分になる。サスペンスものじゃないんだから、と思いもするが、平凡な――ロストナンバーであること以外は、だが――日本人である優に、そういった闇を知る力も、否定する力もない。 「あの」 少しでも情報を集めようと、岩原の同行者で第一発見者、結城にこっそり尋ねる。 「岩原さんのこと、訊いてもいいですか?」 結城は苦笑し、目の端でソファに沈んだままの岩原を確認してから小さくうなずいた。優は、結城に迷惑がかからないよう、声をひそめて問いかける。 「岩原さんたち、ここ何ヶ月かで様子のおかしいことってなかったですか」 返った言葉は、意外なほど冷ややかで、 「あの人たちはいつだっておかしいよ。口には出せないようなことだって、好き放題やってる。お金って怖いよね。――まあ、じゃあそれに逆らえない僕らはなんなんだって話なんだけど」 皮肉げな、苦笑交じりのものだった。 千志の鋭い眼差しが、身じろぎもしない岩原に向けられ、舌打ちとともに、彼が拳を握り締めた。クールで頑固そうな印象を受ける千志だが、実際には人の痛みの判る熱血漢なのかもしれない。 「……いよいよ、俺の妄想が現実味を帯びて来ちまったか? それが事実なら、反吐が出るぜ」 優は唇を引き結び、 「じゃあ……その女の人が亡くなったのって」 引き続き新聞記事をあたり、宿泊客やスタッフにも尋ねて回るが、殺人事件ではなかったらしく、めぼしい情報は出てこなかった。 「うーん、誰も知らないのかな。彼女の死因とか、事情が判ったら、また何か新事実が浮かび上がるんじゃないかと思うんだけど」 すると、彼の言葉を耳にしたのか、エレナとおしゃべりをしていた多恵子が、困ったように優を見た。 「私、それ、知ってるわ。って言っても、自殺だったみたいなんだけど」 「自殺?」 「そう。理由はねぇ、よく判らないみたい。誰からも愛されるような、可愛らしい、気立てのいい娘さんだったみたいだし、好きな人がいるんだって、すごく幸せそうにしていたんですって。それなのにどうして? って」 「そうなんだ……自分で自分を殺さなきゃいけないなんて、どんな苦しいことがそのお姉さんにあったのかしら。たえちゃんは、その人の名前、知ってる?」 「名前? ええと……なんだったかしら。三ヶ月くらい前の事件だし、新聞でも小さく扱われた程度だったから。……思い出したら、教えるわ。それでいい?」 「うん、ありがとう、たえちゃん」 エレナがにこっと笑ってお礼を言うと、『たえちゃん』は目元を和ませて少女の頭を撫でた。 「こちらこそ、ありがとう。エレナちゃんとおしゃべりをして、少し気持ちが軽くなったわ」 それを微笑ましく見つめつつ、優は古新聞を片づけた。 判ったことは少なくなく、それは決して心を明るくはしないが、だからといって落ち込んでいても始まらない。 「そろそろ、食事の支度に戻らないと。みんな、何をつくってるのかな?」 心なしか、食欲を刺激する匂いが漂い始めているような気がして、厨房へ向かう足も、自然、速くなる。 3.いいにおい 「すみません、遅くなって!」 優が駆け込んできたとき、ほのかは、小麦粉料理の定番・すいとんづくりに精を出しているところだった。 もろもろの事情から控えめな彼女は、調査を行う人々の邪魔にならないよう、自分に出来ること、得意なことをしようと、料理人役を買って出たのだ。 「あら……お帰りなさい、優さん。何か、判ったことはあった?」 ほのかの問いに、優はほんの少し表情を曇らせたが、すぐに笑顔になって頷いた。 「うん……あとで説明します。あっ、すいとんですか? 俺もつくりたいと思ってたんですよね、手伝います」 根菜をいちょう切りにするほのかの手元を覗き込み、優が腕まくりをする。 「ええ。豊富な調味料に立派な厨、素敵なところだわ、ここは」 大根、蕪、牛蒡、れんこん、茸類、長ネギをそれぞれ切り、昆布と干し椎茸で取ったダシの中に入れて煮る。酒と、少しのみりんを加え、 「鮭はあるかしら……やはり、魚がほしくて」 「少しだけど。汁物にするぶんにはいいんじゃないかな、これ」 汁が沸騰したところで鮭を加えてさらに煮る。 その間に、優が、小麦粉に水と少しの塩を加え、練っておいてくれる。 「寒いときはすいとんですよね。みんなに行き渡るし、身体も温まるし」 「そうね、根菜が入っていると、なおさら温まる気がするわ。優さんは、何で味付けを?」 「俺は醤油かな? すまし汁風にしようかと思って」 「じゃあ、鍋をふたつに分けて、みそ味もつくりましょう。お好みで、おろし生姜を加えて食べてもらうの。どうかしら?」 「うわ、おいしそうですね、それ。腹減って来たなぁ」 料理を受け持った数名が、めいめいに腕を揮っているのもあって、厨房は食欲をそそるにおいであふれている。 そのひとり、川原 撫子もまた、上機嫌で小麦粉料理に精を出していた。 「ふふふ、これだけ材料があれば、ホワイトシチューを、小麦粉炒めてつくるところから始められます☆ 蕪に人参、キノコにジャガイモ、鶏肉は少しだけもらいますね!」 「楽しそうね、撫子さん」 「普段、粗食なものでぇ、こういう、好き放題料理が出来るっていうシチュエーションにはたぎらざるを得ないんですよねぇ」 ウフフと笑い、鮮やかな手並みで大なべいっぱいのシチューを仕込むと、今度は蒸かしたジャガイモを潰し始めた。そこに小麦粉と塩、玉子を加えて、あまり練りすぎないよう注意しながらまとめていく。 「それは……なんというお料理?」 「これですかぁ? これは、ニョッキっていうんですよぉ。西洋風のすいとん、って感じですかねぇ。ジャガイモと小麦粉が基本なんですけどぉ、ほうれん草や人参、南瓜なんかを練り込んで色とりどりにしたら、きっと目にも美味しいですよねぇ」 眼が満足するぶん、お肉が少なくてもごまかせそうですしぃ、などと言いつつ、トマトやチーズ、クリームのソースをてきぱきと仕上げていく。 ほのかはその横で切麦を打つ準備を始めた。 「あっ、おうどんですかぁ? 熱々の、コシのある手打ちうどんがいただけるなんて、想像するだけでよだれが出て来ちゃいますねぇ☆」 「ええ。具には、椎茸とねぎを煮るほかにも、柚子風味にしてみたり、野菜の細切れや魚の切れ端を使ったかき揚げを載せたりしてみようかと思って。かき揚げなら、切れ端でも美味しくいただけるし、かさが増すから、皆さんに行き渡りやすくなるものね」 「ですよねぇ。みんなに行き渡りやすいって意味だと、ナンを焼いて、好きな野菜ソースにつけて食べてもらう、なんていうのもいいかも?」 「あっそれ美味そう。俺、今りんごをジャムにしてるんだけど、それ乗っけるのとかどうかな。明日は朝食にホットケーキを焼くことにして、このジャムをつけて食べてもらおう」 「いいですねぇ! あっじゃあ私今からシナモンロールを焼くんでぇ、りんごのジャム、分けていただけますぅ? 巻き込んで焼いたら、絶対おいしいと思うんですよねぇ」 こういう場所の常で、むろん天然酵母も常備されていて、パンも焼きたい放題だそうだ。 絶賛調査中の夕凪が顔を覗かせ、パスタとピザがくいてーとリクエストをして去ったので、ハッスルした撫子がパスタマシーンを引っ張り出し、優はピザの生地をつくり始める。 「まぁ……せやな、まずはうまいもん食うて、元気だすしかあれへんわな」 生地をこねる優の横で、豪快にキャベツを刻みながらシャチが笑う。 その名の通り、鯱型の海洋獣人で、エプロンとバンダナを身に着けた姿は愛嬌がある。いつでも笑っているような柔和な表情と、ごつい外見に似合わないやわらかな接しかたが魅力的な人物だ。 シャチが、無造作に見えて熟練の技巧が伺える包丁さばきで、大量のキャベツをあっという間に千切りにしていく。 「うわぁ、シャチさん、お上手ですねぇ☆」 「はは、そらどうも。ま、実際、腹減っとったら脳みそもよう回らんし、咄嗟のときかて、身体が動かんよぉになるさかいな。そないな理由で大事なもんを護れへんの、悔しいやろ? せやし、ワイも腕揮ってな、ごっつ美味いメシ食わしたるわ。そんでみんなに元気出してもらえたら、こないに幸せなこと、あれへん」 ボウルがわりの大きな鍋に、大量の千切りキャベツとみじん切りにしたネギ、すりおろした山芋、天かす、小麦粉と玉子と鰹節で取っただし汁を加え、よく混ぜる。ヴィラ白銀の自家製という紅生姜をみじん切りにし、加えるのも忘れない。 「小麦粉がぎょうさんあるいうたら、お好み焼きかたこ焼きて相場は決まっとるやろ。たこがあれへんのやったら、ソーセージでも明太子でも梅干しでも、なんでもかまわへんさかい、どんどん入れて焼いたらええねん。何が入ってるか判らんいうのも、案外楽しいもんやで」 シャチのリクエストにこたえて、スタッフがホットプレートとたこ焼き用プレートを探し出してきてくれる。 おおきに、と魅力たっぷりの笑みで感謝を表したのち、シャチはたこ焼き用のタネをつくり始めた。といっても、水の量を変えたくらいのもので、工程にそれほどの違いがあるわけではないようだ。 「豪華な食事になりそうですねぇ。みんなでアイディアを持ち寄ってつくるって、素敵ですぅ☆」 「ほんまやなぁ。ワイも、勉強になるわ」 シャチも撫子も優も、てきぱきと手際よく、実に楽しげに、活き活きと料理を仕上げていく。料理が好きなのと同時に、この温かい食事で皆にホッとしてもらいたい、という思いが伝わってきて、ほのかは唇の端にわずかな笑みを刷く。 それから、切麦に添える薬味を用意しながら、厨房の前を、ロストナンバーたちが行き来するのを視界の隅に見ていた。 調査に精を出しているエレナ、一夜。 侵入者がないかどうか、見回りと警戒を続けているディガー、千志。 夕凪は情報集めのための『盗み聞き』に余念がないとのことだったし、明日はロビーに集まった人々の安全を守るべく、SPのように周辺を固めている。 ここで料理に精を出す面々も、閉じ込められた同胞たちの不安を少しでも和らげるために行動しているのだし、山荘のスタッフは、自分もまた危険にさらされるかもしれないのに、宿泊客の快適な滞在のために忙しく立ち働いている。 不幸にも事件に巻き込まれ、豪雪のおかげで閉じ込められてしまった宿泊客は、さぞや不安だろうに(あの岩原という男を除いてだが)皆冷静を保ち、パニックを起こすことなく身を寄せ合っている。 それぞれが自分に出来る最善を尽くす中、それでも殺人鬼は現れ、誰かを殺して去っていくのかと考えると、気持ちが重い。 「殺人鬼の標的が本当に無差別であれば……狙いやすいものを狙うはず。わたしを狙えばよいのに……」 彼女には、受けた攻撃を相手への不具合として返すトラベルギアがある。攻撃を受ければ、ギアの人形が叫ぶから、殺人鬼が現れたと知らせることも出来るし、相手の動きを止めることも出来る。 だから、狙うならば他の誰でもなくわたしを……と切実に願うほのかに、 「殺人鬼さんもですけどぉ、密室殺人犯さんに関してもいろいろ難しいですよねぇ」 頬に手を当て、撫子が首を傾げる。 「密室殺人犯?」 「ええ。密室っぽいところでお亡くなりになったってことはぁ、犯人さんが合鍵持ちの可能性もあると思うんですぅ。みんなでいっしょにご飯つくるほうが楽しいし安全だと思うんですけどねぇ」 優が苦笑して首を振った。 「ああ……いや、合鍵はないみたい。マスター・キィも簡単には動かせないって聞いたよ。殺人鬼も、無差別殺人犯じゃない可能性が高いって、エレナと一夜さんが話してたし、俺も、次に狙われるのは間違いなく岩原さんだろうって思ってる」 「そう……なの?」 「はい。……皆にはあとで説明します。まずはあったかいご飯を食べて、少し休みましょう。ずっと気持ちを張りつめたままじゃ、きっともたない」 優の言葉に、シャチがニッと笑った。 「せやせや。メシ食うたら不安な気持ちも和らぐて、だいじょうぶや。ハラん中がぬくうなるっちゅうのはそういうこっちゃ。――それに、なんかあったら、ワイが護ったるさかいな。なんも心配すること、あれへん」 力強く握り拳をつくってみせるシャチに、ほのかは微笑して頷く。 それから、盛大な湯気を上げる鍋を持ち上げた。 「なら……まずは、皆さんのおなかを満たすお仕事を最優先しましょう。殺人鬼とやらが現れることが絶対だとして、戦う必要があるのなら、その下地をしっかりと整えておかなくては」 料理番たちから返る同意の頷きを見つつ、移動を始める。 * * * 宿泊客もスタッフも全員が大食堂に移動し、いっせいに夕飯となった。 時刻は午後七時を少し回った程度で、まだ夜というには早いくらいだったが、季節柄と、降雪の影響もあって周囲はもう真っ暗だ。いまだ降りやまぬ雪が、窓の外を見つめるたびに、白い残像を残してふわふわと舞い落ちていく。 エレナは、周囲に気を配りつつも、温かな夕食を堪能していた。 「このお好み焼きとたこ焼き、おいしい。夏に食べた焼きそばと似た感じ?」 「ああ、同じ粉もんってやつですからね。ボス、他に何かほしいものはありますか? あの、シナモンロールとか、おいしそうですよ?」 「いーちゃん隊員ったら、お気遣いの人! ありがとう、いただきます。じゃああたし、あっちのすいとんをもらってきてあげるね! ゆっちゃもすいとん、食べる?」 「あ、うん、ありがとうエレナ」 エレナが、一夜と優のためにすいとんを取り分ける傍らでは、夕凪がほのかに入れてもらった鍋料理に舌鼓を打っている。 「これうめーな。なんつの? そぼく? なんだけど、じわっとしみてくるわ。身体もあったまるしな」 「ええ。やはり、冬は鍋だと思って」 「へえ……どうやってつくってんの、これ」 「だしに塩、醤油、味醂を入れ煮立てて、鶏肉を入れて煮るの。そうすると、鶏肉のうまみが出て風味が増すのよ。そこに、水切りをした豆腐と小麦粉を混ぜてつくった豆腐団子を入れて、あとは適当な野菜と茸を入れて煮るの」 「ふーん、このとろっとしたのは?」 「これは、長芋をすりおろしたとろろよ。残り汁には、ごはんを入れれば雑炊になるし、切麦を入れて鍋焼き風にしてもおいしいと思うわ」 「おー、おれ、それも絶対に食う」 旺盛な食欲で出されたものを平らげつつ、夕凪が時折、何かを考える様子をみせるのは、『盗み聞き』の結果によるもの、だろうか。 「さぁさ、お好み焼きにたこ焼き、まだまだあるでー。みんな、思う存分食べて、胃袋から元気になってやー?」 「こっちには焼きたてのピザがありますよー。ぼく、あんまりおいしいから、丸ごと一枚食べちゃった。あ、お茶がほしい人は言ってね、お茶を淹れるのは得意だから」 どこまでも料理人のシャチが、ソースと鰹節と青のりとマヨネーズを乱舞させつつ心躍る粉もんを完成させては手渡す。その傍らで、たっぷり食べて早々に満足したディガーが、優の焼いたピザを皆に勧めている。 千志は、時折料理をつまみながらも、終始難しい、どこか憂鬱そうな顔で岩原の横顔を見つめて――というよりは、睨んで――いたし、明日は、撫子がつくった生パスタをクリームソースでいただきつつ、何かを思案している様子だった。 無国籍で雑多な、たくさんの種類の温かい食事のおかげで、滞在客にもスタッフにも、ホッとした笑顔が見られるようになっていた。 例の岩原だけは、何か文句を言わなければ気が済まないとでも言うように、自分は一流のフレンチが云々とこぼしていたが、人一倍旺盛な食欲で食べていたのも彼だった。 「おなかがいっぱいになったらぁ、やっぱりこれですよねぇ☆」 こちらも早々に食べ終えた撫子が、デッキブラシやモップを手に、あちこちを掃除し、磨きまくっている姿が見られた。あんた客じゃねーのと夕凪が突っ込んでいたが、その姿があまりにも自然すぎて――あまりにも彼女が楽しそうなもので、他の宿泊客には受け入れられスルーされているようだった。 エレナは、撫子がハッスルしてつくったというドーナツを、甘いカフェオレとともに食後のデザートにいただいていた。 そこへ、 「思い出したわ」 そっと近寄った多恵子が、耳打ちしてくれる。 「自殺した、娘さんの名前」 エレナは透き通った青眼でまっすぐに彼女を見つめた。 「美幸さん。兵藤美幸さんっていうのよ、確か」 その名に、優が眼を見開いた。 ――そのとき。 明かりが、いっせいに消えた。 大食堂のみならず、他の部屋も、ロビーも、廊下も、すべてが暗闇に包まれる。どこかで、ガラスが砕け散る音が聞こえた。 誰かの、息を呑む気配。 4.しのびよる 「うわああああああッ!」 最初に悲鳴を上げたのは岩原だった。 「おれじゃない、おれは悪くない!」 椅子を蹴倒し、頭を抱えて大食堂から飛び出していく。 「あっ、岩原さん! 駄目です、ひとりになっちゃ……!」 「待って、それじゃ犯人の思うつぼよ!」 優と明日がそれぞれに声を上げ、岩原を追う。 シャチと夕凪もそれにならった。 千志は小さく舌打ちをして周囲の気配を探った。 スタッフが非常用電源を入れたか、それともブレーカーを落とされただけだったのか、明かりはすぐについたが、宿泊客やスタッフに広がった動揺を消すことは出来なかった。 身を寄せ合い、不安げに――落ち着かない様子であちこちを見ている人々へ、ディガーと撫子が明るい声を上げる。 「だいじょうぶ、あの人たちがなんとかするよ! だから、ここでじっとしていよう。ここにいれば安全だ、ぼくが護るから!」 「そうですよぉ、スズメバチよりミツバチの集団のほうが強いんです。かたまっていたほうが、攻撃されにくいですしね、落ち着いてここにいましょう。お茶を淹れますから、ゆっくり待ちましょうねぇ?」 撫子の言葉に頷き、ほのかが無言のまま茶器の準備を始める。 あっけらかんとして明るいディガーと、焦りの欠片も見えない撫子、淡々としたほのかの取り合わせによる一連の行動は、完全とは言えないまでも、人々に落ち着きを取り戻させたようだった。 ざわざわとした空気が、不安を伴いつつも少しずつ静かになってゆくのを確認し、 「……ここ、任せてもだいじょうぶか」 ぼそりと問えば、ディガーからは陽気な笑顔が返る。 「もちろん」 「どっちかっていうとぉ、危ないのは向こうですよねぇ? 私、か弱いのでぇ、ここで皆さんの護衛に勤めることにしますぅ」 「言ってろ」 肩をすくめ、千志はあとを追う。 ロビーを、廊下を駆け抜ける。 「ぎゃああああああああ!」 断末魔めいた悲鳴は、階段付近から。 「――二階か!」 実戦に特化した恐るべき身体能力でもってひと息に階段を駆け上がる。 そこには、すでに役者がそろっていた。 「助けて、助けてくれ!」 腰を抜かし、廊下にへたりこみながら、手足をばたつかせてもがく岩原の前方に、黒ずくめの衣装に身を包んだ青年の姿があり、青年と対峙するかたちで、優と明日、シャチ、夕凪が立っている。 「助けてくれ、殺さないでくれ!」 泣き声交じりの悲鳴を上げる岩原を、青年は無表情に見下ろしていた。 その、『殺人鬼』の顔を見て、千志はハッと息を呑んだ。 「元(はじめ)……!?」 すぐに人違いだと判ったものの、血塗れのナイフを握り締め、幽鬼のように佇んでいるのは、明朗快活で人懐っこそうな印象の、こんなことさえなければきっと誰とでも仲良くできるタイプの人間なのだろうと思える青年だった。うりふたつとまでは行かないものの、雰囲気がひどく幼馴染の親友に似ていて、不意を突かれる。 「……知り合いか? いや、そんなわけあれへんか」 「何でもねぇ。――行くぞ」 千志が動揺したのも、不意打ちに等しいそれから考えればしかたのないことだった。ともに、冷遇され差別される異能力者らを救おうと誓いあった彼を、唯一無二といって過言ではなかった存在を、千志は、 「てめぇの事情は関係ねぇ。てめぇが殺人鬼だって判りゃ、充分だ」 ――湧き上がりかけた懊悩をねじ伏せ、彼は床を蹴る。 「う、うわああああ」 情けない悲鳴を上げた岩原が、床を這いずり、どうにかしてこちらへ逃げてこようとするのを、赤黒く染まったナイフを掲げた『殺人鬼』が追う。 「待ってくれ、話をしよう! 彼を殺したって、誰も、何も戻ってはこないんだ!」 ギアを手に、優が立ちはだかる。 しかし、青年は応えなかった。 ただ、殺意にぎらぎらと輝く双眸を岩原に向け、真っ直ぐに突っ込んできただけだ。 「ちっ」 千志は自身の異能である『影を操る』能力を発動させ、己が影を槍のように伸ばして青年の進路を妨害する。 「そいつを餌に生け捕りだ。死にさえしなきゃいいんだろ」 酷薄な物言いをしつつ、影槍の先端は尖っていない。 分厚い鉄板をも貫ける影の槍だが、それはどこかやわらかく丸いままだ。無自覚のまま、殺人鬼の怪我を――彼に傷を与えることを最小限に抑えようとしているなどと、指摘されれば千志は盛大に否定しただろうが。 影槍にも優の剣にもひるむことなく、殺人鬼は突っ込んでくる。 「お願いだ、話を聞いてくれ!」 立ちはだかる優の、悲痛ですらある叫びにも、表情を動かすことはない。 千志はまた、低く舌打ちをした。 このまままっすぐにぶつかったら、優が怪我をするという判断のもと、影槍を、殺人鬼の進路妨害のみから優の防御用途へ兼用で解放、複数本を×字に組み合わせて盾代わりにする。 が、しかし。 「えっ」 優が驚いた声を上げる。 殺人鬼は、手にしたナイフを振り上げることすらしなかったのだ。多少のダメージは覚悟していただろう優の脇を、そして千志の放った影槍を、壱番世界の人間とは思えない身のこなしですり抜け、一直線に岩原へと向かっただけだった。 それがなぜなのか、考えるまでもない気がして、千志は奥歯を噛みしめる。 その間に、殺人鬼は岩原へと迫っていた。 「ぎゃああああ!」 岩原が、また聞き苦しい悲鳴を上げる。 「……正直、あんさんには訊かなあかんことがぎょうさんありそうやけど、みすみす死なせるのも寝覚めが悪いさかいな」 岩原の前に、彼を護る体勢で立ちはだかるのは、シャチだ。 彼は、研十手で鮫牙を鋭利に砥ぎ上げつつ、殺人鬼と真っ向から対峙した。 「あんさんか、こないに皆に迷惑かけとるんは? このくらいで止めておいたらどうや? あんさんの友達も哀しんどったで?」 殺人鬼は答えない。 ただ、静かに、何の躊躇もなく、ずいと一歩踏み出しただけだった。 血まみれのナイフに、岩原が顔色をなくしている。 「アカンか? ほな、しゃあないなぁ……」 トラベルギアを両手に掲げ、シャチが身構えた。 「ところで、あんさん。ナイフの扱いが得意なんやってな? やけど、ワイには使わん方がえぇよ。プロの料理人、舐めたらあきまへんで?」 無言のまま殺人鬼が床を蹴る。 シャチも同時に動いた。 ――が、やはり。 「なッ!?」 殺人鬼は恐るべき反射神経でシャチの間合いに飛び込むや否や、膝のばねを駆使して方向を変え、シャチにはいっさい攻撃することなく、シャチのギアを完全に回避して、彼の背後に回り込んだのだ。 しかし、その時には、岩原はもう、わけの判らない喚き声を上げながら階段を一目散に駆け下りていくところだった。 小さな舌打ちの音。 それが殺人鬼のものだと理解するより早く、千志は彼の進行方向に立ちはだかっていた。シャチがそれに倣い、背後を明日と優が固める。 「あんさん……いったい、」 シャチの問いに、初めて青年は真っ向からロストナンバーたちを見た。 岩原への殺意に満ちた眼差しとは打って変わった、静かで理知的な眼だった。 「あんたたちは俺の斃すべき敵じゃない。仇じゃない。そんな相手を傷つけることは、俺の誇りに悖る」 「誇り? 殺人犯が偉そうに」 千志が吐き捨てると、青年はかすかに笑う。 「何がおかしい」 その笑いかたまでが親友に似ていて、千志は顔をしかめた。 過去の、苦い苦い痛みがせり上がってきそうになって、それを力ずくで押し留める。 「いいや。誰が何と言おうとも、俺は、俺の思いを裏切るわけにはいかなかった。俺だけは、俺を裏切るわけにはいかなかったんだ」 いっそ、晴れやかですらあるそれに、千志は今度こそ眼を見開く。 (裏切り者!) あの日叩きつけられた、苛烈な言葉。 それが、記憶を伝って背骨を駆け上がり、千志の意識を打ち据える。あの時の惨劇がフラッシュバックして、一瞬、目の前が白くなった。 シャチが難しい顔をする。 明日と優は、痛ましげに青年を見ている。 と、そこへ、 「ぎゃあああああ!」 再度響き渡る、岩原の絶叫。 殺人鬼はここにいるはずなのになぜ、そう思う前に、一瞬の隙をついて青年が四人の包囲網を抜ける。 「待てッ!」 むろん、そのまま逃がすわけにはいかず、追撃の姿勢に入る。 前方を、一夜とエレナが走っていくのが見えた。 5.「この手を振り上げないわけにはいかなかった」 夕凪は、無表情のままその地獄絵図を見下ろしていた。 「痛い、死にたくない……お前たち、なんで、なんでこんなことを、」 廊下の先の行き止まりは、あちこちに血が飛び散ったひどいさまを呈している。出血の主が誰なのか、今さら言いたてるまでもないだろう。しかし、問題なのは、それを行ったのが誰なのか、だ。 「……?」 走り込んできて、殺人鬼の青年が、眉をひそめた。 彼の、驚きの表情を見ていると、精神感応で心を読まずとも、この青年がごくごく普通の、まともな感性の持ち主なのだということが判る。 「ごめんな、千歳」 倒れ伏す岩原と、殺人鬼の前に立つのは、何かを知っているふうだった青年、兵藤だ。 「……正幸。お前、なんでここに」 予想外だったのか、殺人鬼が眼を見開く。 「お前に全部押し付けてしまった。本当なら、俺がやるべきだったのに」 「違う、俺が望んでやったことだ。お前が気にするようなことじゃない」 「そういうと思ったからこそ、俺はお前を止めに来たんだよ」 静かなやり取りが交わされる。 「……これは、いったい。多恵子さん……結城さん、津田さん」 そこへ優が追いついてきて、驚愕の声を上げる。それを聴きながら、夕凪は億劫げに口を開いた。 「全員の共犯だったって、そーいうことだろ? 俺が盗み聞きした、『まさかあなたまで』『道理で都合よく進むと』『もうなりふり構わずに』辺りからして、最初は単独だったみてーだけど」 肩と腹と太ももにナイフを突き立てられ、泣き喚きながらのた打ち回る岩原を、旅の同行者たちは冷ややかに見下ろしている。そこに、岩原のわがままに振り回されていた弱さはない。 「……おかしいと思っていたの」 明日が、かたちのいい唇を指先でなぞる。 「密室にするなら自殺を装えばいいのに、なぜ誰かがいる形跡を残していたのかと。突発的な犯行で急いでいたのかとも思っていたけれど……わざと、殺人だと知らしめて、岩原さんの恐怖心を煽っていたのね」 「たぶん、最初から、隠し通すつもりなんかなかったんですね。木村さんを殺したのは結城さんで、鍵を戻したのもそうかな。事態に気づいた多恵子さんと津田さんは、お互いのアリバイを確保するための証言をすることにした」 一夜の推理に対する返答はないが、否定の言葉もない。 三人は、助けを求めてのた打ち回る岩原を、ゴミか害虫を見る眼で見下ろしている。ただ、とどめを刺す気はないのか、ナイフはすでに投げ捨てられていた。 「何があったの? 何が、たえちゃんたちをそこまで駆り立てたの?」 多恵子が、結城が、津田が語る言葉は、まさに聞くに堪えない、岩原と木村の悪行を暴き立てるものだった。 潤沢な資金を持つ会社社長と、碌でもない情報を手に入れられる雑誌記者が、己が欲望を満たすためだけに何をしたか、強欲と傲慢と身勝手さによって、どれだけの人間に苦しみを強いたか。 多恵子は人妻だった姉を乱暴され、結城は兄夫婦の会社が起こした小さな不祥事をネタに強請られ続けて兄夫妻を無理心中に追い込まれ、津田は勤めていた会社を乗っ取られた挙句、従業員思いだった社長を過労で亡くしていた。 「美幸は、正幸の妹で、俺の幼馴染だったんだ。四ヶ月ほど前、好きな人が出来て、おつきあいを始めたって嬉しそうに言ってた。ただ、それが誰なのかは、相手に迷惑がかかるからって教えてくれなかった。――それが、そいつだった」 そして、殺人鬼の――千歳青年の告白が、岩原の罪を決定づける。 調べに調べて行き当ったのが、犯罪めいた享楽に耽る組織であり、そこに所属する岩原たちだった。岩原は、目をつけた美幸に、言葉巧みに言い寄り、信用を勝ち得てから、仲間たちとともにひどい乱暴を働いたのだ。 「だから殺すってのか。そんなもん、ただの殺人だ、どこにも正義なんてねぇ」 千志が吐き捨てる。 しかしその語調は、先ほどに比べると弱かった。 多恵子が微笑む。結城も津田も、困ったように肩をすくめた。 後悔は、彼らの顔にはなかった。 「正しいなんて思ったことはなかったわ」 「自分の復讐心を満足させるために彼を手にかけた。それだけだ、そこに正義なんてない。だけど」 「これ以上は耐えられない、そう思ったんだ」 自分と同じ苦しみを味わう人間が増えるのは。 「たぶん美幸はこんなこと望んでない。判っているからこそ、これ以上被害者を増やしたくなかった」 あの傲慢な連中が、誰かの営みを破壊する前に、行動を起こすしかなかった。 「だから」 声が重なる。 「――この手を、振り上げないわけには、いかなかった」 沈黙が落ちた。 岩原のすすり泣く声だけが、夜の静けさに沈む山荘にかすれて響いていく。 「自首をするつもりはあるかしら?」 明日が問う。 彼女は、犯人たちが自殺に走ることだけは避けたいと思っているようだったが、三人は迷うことなく頷いた。 「最初から、罪は償うつもりでいたから」 「自分の犯した罪から逃げてしまったら、岩原たちと何も変わりがないからね。僕は僕のしでかしたことを受け入れて、償うよ」 「それに関しては、話し合うまでもなく、最初から三人とも決めてたんだよな」 逃げも隠れもしないと宣言し、警察を呼ぶよう三人は頼んだ。 残った殺人鬼――復讐鬼に、 「千歳さん、あなたは? まだ、彼を殺したいと思っている?」 優が静かに問う。 正幸が、じっと千歳を見つめている。 シャチも明日もエレナも、一夜も千志も、じっと彼を見つめた。 「……いや」 苦笑とともに、青年はナイフを放りだした。 そして、晴れやかに笑う。 「あんたたちを全員踏み越えてそいつを刺すのは、骨が折れそうだ」 その言葉で、ロストナンバーたちは身体から力を抜いた。 そんな中、 「た、助かった、のか……? はは、ざまあみろ、おれをこんな目に遭わせるからだ……お前ら全員、死刑になっちまえ!」 ひきつったように笑う岩原に歩み寄り、しゃがみこんで、夕凪は彼の耳にそっとささやいた。 「あのな、あんたのこと、殺しに来るやつ、これからも間違いなくいるだろーと思うぜ。まあ、おれは別に、あんたが滅茶苦茶刺されて殺されても痛くもかゆくもねーけどよ」 ぼそぼそとしたそれに、岩原が硬直する。 「はぁ? だいたい、てめぇも立派な犯罪者じゃねぇか。しかるべき機関に突き出してやるから覚悟しろ。証拠? 馬鹿かてめぇ、あいつがなんでてめぇらに辿り着いたと思ってんだ」 千志の啖呵に、エレナがくすっと笑った。 「……うん。めでたしめでたしとは言えないかもしれないけど、ひとまずお茶にしよう? 朝までは、まだ少しあるみたいだし。明日の朝食は、ふわっふわのパンケーキだってゆっちゃが言ってたし」 匠が魂を注いでつくったような、聖性すら感じさせるビスクドールの微笑みに、何人かから笑みと頷きが返った。 夕凪はやれやれとため息をついた。 「おーい、終わった? お茶を淹れたよ、いっぷくしない?」 「ほのかさんがおぜんざいをつくってくださったんですよぉ」 「お饅頭もつくったわ、よければ熱々をどうぞ?」 「あっおれ全部欲しい! おれのぶん取っといてくれよな!」 呼びかけに大声で自己主張し、夕凪は、移動を始める人々の背を見守る。 見れば、窓の向こう側で、雪はやみかけていた。
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