町長の男は無人の歌劇座を睥睨した。深紅の座席。扇状に舞台を囲むボックス席。それらを見下ろし、くすんだ硝子のシャンデリアが太陽の如く君臨している。「分不相応だ」 でっぷりした町長は鼻息ひとつで心を吐露した。産業にも娯楽にも乏しいこの田舎町に歌劇座を養う余裕はない。おまけに不可解な出来事も続いている。 町長はもう一度鼻を鳴らした。「仕方なかろう」 踵を返したその時を狙い澄ましたのだろうか。 目の前にひらひらと封筒が落ちてきた。真っ赤な封蝋は太陽の意匠だ。『開演初日に参ります。 六番ボックス席を磨いておくように。――マダム・ソリュイ』「竜刻の暴走の予兆が顕れました」 リベル・セヴァンはいつものように事務的に告げた。 ヴォロスの田舎町に古い歌劇座がある。そこを訪れる劇団の小道具に用いられている竜刻がターゲットだ。小道具といっても本物の剣で、持ち主も演者も竜刻であることを知らない。おまけに、剣は所有者の家に伝わる宝だそうだ。 竜刻が暴走すれば歌劇座ごと消し飛ぶだろう。それに魔力の歪みはヴォロスの自浄作用を弱め、ワームやファージにつけ入られる要因となる。「しかし、皆さんにお願いしたいのは別の件なのです」 マダム・ソリュイなる人物から歌劇座に手紙が届いた。彼女はオペラをこよなく愛し、いつもボックス席の六番で観劇を楽しんでいたという。 そう、楽しんで“いた”のだ。「実在のマダム・ソリュイは二十年前に亡くなっています」 リベルは眉ひとつ動かさずに告げた。「マダムの手紙が届く度に劇場の天井板が外れたり、演者の衣装が切り裂かれたりするのです。怪我人は出ておりませんが、今回、万が一竜刻の回収に支障があってはいけません。そこで皆さんに調査をお願いしたいのです。観劇を兼ねた調査員ということで根回ししておきますので」 この町はかつて城塞を持ち、栄華を極めていたという。もっとも、今は崩れかけた城壁がわずかに残るのみなのだが。 古めかしい、しかし町ひとつが収まってしまいそうな劇場に人々が次々と吸い込まれていく。華やかな光景ではあったが、あちこちで睨みをきかせるのは強面の傭兵達だ。 屋根を支える裸婦像は金箔が剥げ、衰えた地肌を晒している。時間という、ひどく重厚で無慈悲な質量が劇場を軋ませていた。「エリザベート・ラニエでございます。お見知りおきを」 質素な身なりの壮年の女がカーテシーで一礼した。歌劇座の支配人で、パトロンだそうだ。 ラニエ家はこの地の貴族で、芸術の保護に力を注いできた。しかし現在は零落し、この有様だ。町と協力して歌劇座を援助していたが、劇場は今回の公演を最後に取り壊されることになっている。 民らは惜しんだ。さりとて劇場のための増税は御免らしい。もう、どうしようもなかった。「かつては劇団が付属しておりましたが、現在は旅回りの劇団に公演を依頼するにとどまっています。祖母の代までは盛り立てていたのですが。両親は幼い頃に亡くなり、夫とも死別し……私は子供達に負債を残さぬようにするのが精一杯。息子のアルトワと娘のロゼッタです」 若い息子と娘が面倒くさそうに膝を曲げた。「この子達は芸術に興味が薄いんですの」 エリザベートは子供達を伴い、ロストナンバーを六番ボックス席へ案内した。舞台を上手から見下ろせる位置だ。「昨年の公演では賊の襲撃に遭いました。それで傭兵を……。もっとも、町長あたりはトラブルをお望みかも知れません。歌劇座は税金の無駄遣いだと口癖のように。彼がマダム・ソリュイを騙っているという噂もあるくらいですのよ」「それはないでしょう」 アルトワがむすりと言った。「報告した筈です、僕はマダム・ソリュイらしき人物と遭遇したと。おばあさまの肖像画にそっくりなドレスを纏っていました」「お兄様」 ロゼッタが小さくたしなめる。アルトワは視線ひとつで妹を黙らせて言葉を継いだ。「確かに僕はマダムの背中しか見ておりません。しかし、決して肥満ではありませんでした」 舞台正面の特別ボックス席には肥満体型の町長・シャヌマンが陣取っている。 エリザベートは余裕たっぷりにシャヌマンに会釈し、ロストナンバーに涼しげな微笑を投げかけた。「ということだそうですわ、皆さん。よろしければアルトワを尋問して下さいまし。もっとも、町長の取り巻きがマダムに変装しただけかも知れませんね」 一般席の観客は軽食を手にかまびすしくお喋りをしている。彼らを見下ろす巨大なシャンデリアは太陽を象っているようだ。「他にマダム・ソリュイの心当たりは?」 ロストナンバーの一人が尋ねる。エリザベートは気高く微笑んだ。「ソリュイはこの地の古語で太陽という意味です。二十年前に亡くなった祖母はたいそう朗らかで、太陽夫人とあだ名されておりました」 ロストナンバーたちは軽く目を見開いた。「ラニエ家は芸術に縁の深い血筋……今回の一座のマエストロは私の叔父です。私が小さい頃、祖母や叔父にせがんでこっそり劇場に入れてもらったものですわ。無人の劇場にシャンデリアが輝き、本当に……本当に、聖域のようでした」 落陽の歌劇座に開演ベルが轟く。!ご注意!このシナリオは『【歌劇座】聖域に臨む』と同時系列の出来事を扱います。『【歌劇座】聖域に臨む』との重複エントリーはご遠慮ください。重複参加された場合、満足な描写はいたしかねます。ご了承ください。
役者より先に歌劇を紡ぐ者がいる。オーケストラである。指揮者の老人は寡黙で、呼吸ひとつ、タクト一振りで産声を導いた。 勇壮な金管が吹き荒れる。馬の大群のようにドラムが轟く。圧倒的な音響は聴衆の私語ごと劇場を呑み込んでいく。 「あの指揮者、あんたの大叔父なんだろ?」 二階桟敷の六番席で、白衣姿の坂上健がアルトワに囁いた。 「なんでそんな仏頂面してるんだ? 最後なんだ、せめて楽しんで見てやれよ」 「そうも言っていられないでしょう」 「マダム・ソリュイの件か」 健はそっと眉を顰めた。 「マダムだってあんたの曾祖母だろ」 アルトワは答えない。 「そいつの言う通りだろォ、アルトワちゃ~ん。ひ孫としてどう思うよォ?」 ジャック・ハートが馴れ馴れしくアルトワの肩に腕を回す。アルトワは邪険にジャックを払いのけた。ジャックは不敵な笑みを崩さない。 「天井板外れたり衣装切り裂かれたりしたんだろォ。中知ってる人間じゃなきゃ無理だよナァ?」 「おっしゃる通りです」 アルトワはしかめっ面のままだ。健は仕方ないといった風情で肩を揺すった。 「とにかく、今日が最後だ。アルトワもエリザベートさんもロゼッタさんもこの席で観て貰えないか。マダムの思いと一緒に」 「一応、そのつもりよ。マダムの気持ちなんて知らないけれど」 ロゼッタは冷めた手つきで扇を開いた。 金糸で縁取られた深紅の幕が生き物の腹に似て膨らむ。魔法のように左右に割れて、光と色彩が溢れ出た。 『歌え、集え、絢爛の宵に。 高らかに叫べ、彼の者の名を。 我らの同胞、我らの救い主』 演者の列が前後左右に入れ替わる。赤に青、緑に茶。踊り子がドレスを翻し、侍従が凛と剣を掲げる。 『聞け、蹄を!』 ダンスの列が扇状に開く。さっと上げられた手がアーチを形作る。 『偉大なる王がやって来る!』 アーチをくぐり、白馬に乗った王が現れた。甲冑を着込んだ彼の表情は固い。すかさず客席から野次が飛ぶが、荘重なバイオリンがすぐに封じ込めてしまった。 「緊張は拭えぬか。しかし、なかなか堂々としておる」 六番ボックス席で、ジョヴァンニ・コルレオーネはクラシックなオペラグラスを構えていた。 「良い面構えじゃ。そうは思わぬかの?」 エリザベートに水を向けると、彼女は「本当に」と微笑んだ。 「とても有望な役者です。劇場の最後に間に合ってようございました」 「まったく。終幕まで見届けたいものじゃ」 アイスブルーの双眸を細め、ジョヴァンニは静かにエリザベートの反応を探る。 「彼の親もさぞ喜ぶじゃろう」 「あの青年は孤児だそうです。座長夫妻が養親ですわ」 「ほ。親が二組もいるとは贅沢なことじゃ」 意味深なやり取りが続く。その脇で由良久秀がカメラを構え、手すりから身を乗り出していた。 ファインダー越しに劇場を見渡す。壁に埋め込まれた柱は山羊に悪魔、裸の男に女。磔の罪人のような彼らは互いの体を絡ませながら天井を支えている。像に向かってズームすると、剥げてくすんだ金箔が認められた。 それでも荘厳さを留めているのは太陽たるシャンデリアの力だろうか。円天井に君臨するシャンデリアは劇場に均しく輝きを注いでいる。シャンデリアにレンズを向けた由良は軽く唸った。 「火なのか」 ヴォロスの土地柄を考えれば明かりに電気が用いられなくても不思議はない。 「マダム・ソリュイ……あれもソリュイ(太陽)には違いないが」 密やかにシャッターを切る。 一二千志だけが一言も口を開かない。彼はアルトワ以上にむすりとしていた。しかし銀色の瞳は時折宙を泳いでいる。 『儀式は済んだ。堅苦しさはこれでおしまい。 手を取って踊ろう、肩を組んで歌おう。 何という夜! 何という祝福!』 王がさっと手を上げ、波のように演者が入れ替わる。華やかな舞踏会が始まる。色彩と煌めきの渦。轟く合唱。波打つ重奏が波打つ。千志は眉ひとつ動かさずに舞台を見つめ続けた。 (最後の夜か) 先入観も情も任務に禁物と知りつつ、哀切や寂寞を禁じ得ない。 「マダム・ソリュイを目撃したのはいつだ、アルトワ。場所とか状況とか、詳しく教えろ」 だからこそ淡々と尋問を始める。死者を騙って騒動を起こす輩は腹立たしかった。 第一幕が続く。騎士に扮したアマリリス・リーゼンブルグが次々と相手を変えて舞台を闊歩している。 「……マダムらしき人影を見たのは半月ほど前です。母や妹と一緒に劇場に来た時でした。母は毎日劇場の見回りをしていますので」 アルトワは千志に応じて重い口を開いた。 「下の一般席を三人で回った後、母は六番ボックス――つまりこの席です――に向かうと言って二階へ上がりました。少し経ってから僕とロゼッタも二階に。二階への階段の途中で僕の靴紐が解け、結び直すために立ち止まった時、ひいおばあさまの物によく似たドレスの裾が見えたのです。ドレスの主は二階から一階に下り、僕も懸命に追いかけました。しかし、地下道の入り口で見失ってしまって」 「後ろ姿でも体格で性別くらいは分かりそうなものだけどな」 どうなんだと千志が促すと、アルトワはわずかに顔を歪めた。それは苦悶にも、困惑にも思えた。 「……女性か、小柄で細身の男性ではないでしょうか」 「つまり、よく分からなかったのか?」 千志の眉根が寄る。アルトワは口をつぐみ、額に手を当てながら視線を伏せた。 「どう説明すれば良いのか……どことなく不自然で……足取り自体も浮遊するようで、どうにも現実感がなかったというか……」 「幽霊だとでも言う気か。馬鹿馬鹿しい」 由良が剣呑な舌打ちでアルトワを遮った。 「死者には何もできやしない。天井板の剥落はただの老朽化で説明がつく。演者の服を切り裂くのは無意味で、人間的な悪意が強すぎる。劇団内の確執じゃないのか」 「マダムの手紙はどう説明するんだ?」 健が掃除の手を止めて由良を見つめた。彼は先程から掃除用のクロスを用いて肘掛を丁寧に磨いている。由良は陰気な視線を健に送りながら言葉を継いだ。 「無関係ないくつかの出来事に死者からの手紙という共通項を与えれば一連の怪異に仕立てることができる。手紙と事件の順番が前後したり間が空いたりしても渦中の当事者は手紙にこじつけるだろうな。占いに振り回される心理と同じだ」 「うわ」 健は圧倒されながらぽかんと口を開けた。 「あんた、探偵さん?」 「……違う」 由良は顔をしかめ、健の視線を振りほどくようにカメラを構えた。狙うは円天井のシャンデリアだ。 太陽を模しているだけあって、シャンデリアの形状は球に近い。多面体にカットした硝子をピアノ線で連ねて編み、円周にはいくつもの燭台が突き出ている。硝子は年季でくすんでいたが、炎を照り返して宝石のように輝いていた。 ゆっくりとズームする。太陽の中央から、舐めるようにピントを這わせてシャッターを切っていく。シャンデリアを支えるワイヤーはあちこちに――舞台の脇にも――伸びていた。 再び太陽の頂点にカメラを振る。熱い輝きが目を射る。圧倒的な質量に、ふと怖気がした。 「どこへ行くのかね」 ジョヴァンニが呼びかけるより早く由良は六番桟敷を飛び出した。 入れ替わりに劇場の案内係がやって来る。エリザベートは「あら」と目を輝かせた。案内係はウイスキーボンボンの籠を手にしていた。 「マダム・ソリュイの好物なんだろ?」 健はボンボンを一粒口に放り込みながら皆に籠を差し出した。 「さっきロゼッタさんに教えてもらった。もてなすためには菓子がないと」 「お掃除にお菓子に、準備万端だこと。マダムなんて来るわけないのに」 手袋をはめたロゼッタの指がボンボンをつまんだ。 第一幕が終了した。幕間の演奏が始まる。健は天井と眼下を注意深く確認して息をついた。 「華々しいところでぶっ潰す気かと思ったけど……第一幕では現れなかったか」 「そりゃよォ、マダム・ソリュイの偽モンがいるに決まってんだろ」 ジャックがゲラゲラと笑う。健も肯いた。 「ああ。ここを潰したがってるのは偽者かもな」 「偽モンも2人居るンじゃねェのォ。なァ、アルトワちゃ~ん?」 ジャックは先刻と同じようにアルトワの肩に腕を回した。アルトワはすぐに腕を振り払ったが、ジャックがアルトワの心を読むには一瞬あれば充分だった。 アルトワは動揺している。 「ドレスは間違いなく故人の物であったのかの?」 ジョヴァンニが静かにアルトワに問うた。 「肖像画でしか見たことがありませんが、そっくりでした」 「身内なら故人の衣装を保管していてもおかしくないじゃろうが……どう思うね、マダム」 「私をお疑いなのね」 エリザベートは悪戯っぽく目を細めながら扇で口許を覆う。 「貴女は二人より先にこの六番席に上がったそうじゃが、それは何故じゃね」 「ちょっとした日課です。祖母が愛したこの席にいると昔の思い出に浸れるものですから。とても大切な時間なので、少しだけ一人にしてくれるよう子供達に頼んであります」 「故人の思い出は美しいものじゃからな」 刹那、ジョヴァンニの瞳が遠くへと遊ぶ。愛妻と同じ名のフクロウ型セクタンがシャンデリアの周囲を旋回しながらジョヴァンニを見つめている。 第二幕が始まった。色鮮やかな書割が灰色の荒野へと取って代わる。その真ん中に若い王が立ち尽くしていた。 「ご歓談中悪いけど、忠告してもいいかしら」 ロゼッタは退屈そうに扇で胸元をあおいでいる。 「お兄様の作り話を真に受けないほうがいいわよ」 「僕は本当に見たんだ」 アルトワが噛み付くように反論する。千志は鋭く眉を跳ね上げた。 「おまえもアルトワと一緒にいたんだったな。何か知ってるか」 「あいにく、私はお兄様の一歩先を歩いていたからマダムの姿は見なかったわ。お兄様が血相変えて走って行くのが見えただけ」 ロゼッタは欠伸を扇で隠しながら応じた。 「私はお兄様を見送ってすぐ六番桟敷へ入った。そうしたら中にお母様がいたのよ」 「……ほ。あてが外れてしもうた」 ジョヴァンニはまんざら芝居でもなさそうに肩をすくめた。 『無垢な王は打ちのめされた。 弱き青年! 気の毒なぼうや!』 灰色の舞台で魔女と手下達が王を取り囲む。挑発的なバレエが始まり、王は激昂と共に剣を抜き放った。 「怒りをぶつけても滅びたものは戻らん」 特別ボックス席で町長・シャヌマンが呟く。 「いよゥ。お初にお目にかかるゼ」 そこへジャックがするりと侵入した。町長の取り巻き達が色めき立つ。ジャックは道化のように両手を挙げ、敵意がないことを示した。 「エリザベートからの依頼でナ。話聞かせろよ、町長サ~ン?」 脂肪で膨れたシャヌマンの肩を馴れ馴れしく叩く。シャヌマンは不快そうに顔をしかめながら応じた。 「マダム・ソリュイの件か」 「おうサ。去年の公演も大変だったそうだなァ? 盗賊に襲われるなンざ町の名折れだと思うンだが、そこンとこどうヨ?」 「警備の不備は恥じている。今年は劇団やラニエ家と協力して傭兵を配した」 「ハッ。模範回答かヨ」 ジャックは興醒めした風情でシャヌマンの肩から手をどけた。シャヌマンの心には手がかりも動揺も見られない。 「そんじゃ、賊の襲撃は不幸な偶然ってことか? ああン?」 「満員の場屋を蹂躙すれば実入りも多かろう」 「町長サンはこの劇場をえらく疎んでるそうじゃネェか。劇場の評判に傷が付くなら一緒に町の名が落ちても構わねェのかと思ったがなァ?」 「私を疑うならエリザベートのことも探ったらどうだ」 シャヌマンは冷静な嘆息をこぼした。こういう質問には慣れているのだろう。しかしジャックは鼻を鳴らしながら肩を揺すった。 「エリザベートは違うサ。町長の悪評を立てるためだけに愛しい聖域を無駄にゃできねェ……ああいう笑い方する人間はナ」 「愛しいからこそかも知れんぞ」 シャヌマンは脂肪の層に首をうずめた。 「あの女は執念深く、粘っこい。趨勢が取り壊しに傾いた後も分厚い陳情書を怒涛のように送ってよこした。私も役場も辟易させられたものだ」 「へ~ェ?」 ジャックは軽く口笛を鳴らした。 歌劇が続く。第二幕も終盤だ。 「さっきの話、もう少し聞かせろ」 六番桟敷で、千志は手すりに背中を預けながらロゼッタの表情を探った。 「お話ししたことが全てだけど」 「おまえはアルトワが嘘をついていると言った。根拠は何だ」 「だって、あのタイミングでお母様がマダムになりすますのは不可能でしょ。マダムの正体はお母様なのに」 ロゼッタは相変わらず退屈そうだ。しかし千志は不機嫌な眦を緩めない。 「なぜマダムがエリザベートだと思うんだ?」 「このオンボロ劇場に執着するのはお母様くらいのものよ」 「単なる心証ということか」 「そうね」 「マダム・エリザベートのご執心は事実じゃろうて。情熱的な文面じゃわい」 ジョヴァンニが手紙の束を差し出した。劇場の取り壊しに反対する陳情書と、それに対する町長からの返答が束ねられている。ラニエ家の小間使いに頼んで持って来てもらった物だ。 「まるで恋文のようじゃ。ほ。昔を思い出すの」 「ああそうかよ」 千志はジョヴァンニの微笑から目を逸らして桟敷席を出た。お上品な人間には馴染みがない。 「どこ行くんだ」 健が白衣の下をがちゃつかせながら千志を呼び止める。 「舞台脇に。ここはこんだけ人がいれば充分だろ。……それより」 千志は膨らんだ白衣を注視した。 「おまえ、手品師か何かか。何を仕込んでやがる」 「こ、コンダクターにはギミックが必要なんだよ!」 健の武器オタクぶりは健在だった。本日の装備品はガスマスク、閃光・催涙手榴弾、ネットガン、ワイヤーガンである。 「僕は嘘なんかついていない」 席の奥の暗がりでアルトワが呻く。健は肯きながらアルトワの腕を引いた。 「分かってる。俺はおまえの言うことを信じる」 そのまま桟敷の最前列へと引き出した。 途端に、重厚な音響が二人を目がけて殺到する。 『荒野の他には何もない! 我の他には誰もない!』 血を吐くような王の絶叫。理屈抜きの、圧倒的な歌声は芸術に縁遠い健の心をも揺さぶった。 「……凄いな」 知らず、唸る。アルトワは口を開かない。健はアルトワの背中を軽く叩いた。 「終幕まで立ち会ってくれよ。お前がいつか、懐かしくこの日を思い出せるように尽力したいんだ。な?」 「退屈な時間も社交のうちだものね」 乾いた一言が健の背中に浴びせられた。ロゼッタだ。健がしかめっ面で振り返ると、ロゼッタは扇の陰で欠伸をした。 「芸術だって受け手にとっては娯楽のひとつよ。他者に向けて発せられる以上は消費の対象だわ。作り手の事情や誇りなんてこっちには関係ないし、興味もないの。良い物は良い、つまらない物はつまらない。歌劇や劇場が本当に大切なら皆で必死に劇場を守ろうとしたのではなくて?」 「……俺は誰かの作った物をけなしたりなんかしない。創作ってのはすごく大変で凄いことなんだ」 「じゃあ、レストランで出された料理が不味かったら? 私だってシェフを罵ったりはしないわ。けれどその食事は私にとって意味も価値もないし、そのお店にも二度と入らない。存在を思い出すことすらないでしょうね」 「俺がそのシェフならあんたの舌を満たせなかったことを残念に思う。けど、そんな風に言われたらさすがに悲しくなるぜ」 「サカガミさん。無礼な小娘のためにお時間を割かせて申し訳ありません」 エリザベートがぴしゃりと口を挟んだ。そして叱責の一瞥で娘を突き刺す。ロゼッタは冷たく微笑みながら「失礼しました」とうそぶいた。 「いや、なかなか興味深い議論じゃったよ」 黙って耳を傾けていたジョヴァンニは洋酒でも味わうように目を細めた。 「創作と自慰は根が同じじゃからの。ロゼッタ嬢には極論のきらいがあるが」 再び、書簡の束に目を落とす。役場から突き返されたエリザベートの陳情書。エリザベートやラニエ家の人間によるメモ書き。ラニエ家宛ての封筒。そして、マダム・ソリュイからの手紙……。 マダムの筆跡はエリザベートとは異なっていた。 (人を雇って代筆させたのかも知れんが) アルトワが見たドレスの主と手紙の差出人が同じとは限らない。健やジャックが言う通り、マダムの偽者がいる可能性も捨てきれないからだ。 手紙の束を滑らかにめくり、ふと手を止めた。 『親愛なるエリー』 『プチ・エリー』 溢れる情愛が流麗な手蹟で連ねられている。差出人はエリザベートの叔父――劇団の指揮者だ。 劇場関係者や古株の使用人に聞いた話では、あのマエストロはひどくエリザベートを可愛がっていたそうだ。ラニエの分家筋にあたる彼には結婚歴も子もなく、早くに両親を亡くしたエリザベートを我が子のように慈しんでいたらしい。 手紙の中で、マエストロは劇場の落日を幾度も惜しんでいた。 「プチ・エリーとの思い出の場所……か。彼にとっても聖域というわけじゃな」 ジョヴァンニはオペラグラスをオーケストラ席に向けた。タクトを振るマエストロと目が合う。しかし老指揮者はジョヴァンニを見ていない。 「叔父様、とてもお元気そう」 エリザベートは少女のように喜んだ。 天井裏の暗がりの中、無機質な音を立ててレンズが伸びる。埃っぽい空気に軽く顔をしかめ、由良はズーム越しに周囲を観察した。 「いけそうだな」 老朽化は否めないが、梁はどっしりしている。由良は慎重に歩を進めた。 じっとりとした空気。機械油の臭気が鼻をつく。薄闇の向こうに、要塞に似ていかつい歯車とレバーが鎮座していた。シャンデリアの巻き上げ機だ。近付こうとした由良はぴたりと足を止めた。 熱い。太陽の炎が、劇場を焦がさんばかりに空気を煮立たせている。 由良はそろりそろりと巻き上げ機に近付いた。レバーに顔を近付ける。古いながらも、油で光沢を放っていた。メインの巻き上げ機の周囲に中型のウインチが十数基ほど配置されている。こちらもだいぶ衰えているものの、手入れはきちんとなされていた。 一瞬、由良の息が止まった。 いくつかのウインチにはワイヤーが巻き付いていない。それを認めた瞬間、心地良い悪寒に操られるようにカメラのシャッターを切っていた。 (聖域を汚すだけの連中にこれを落とす気か? だとしたら――) 情念の質量が巨大で、不気味すぎる。 千志が舞台脇に身を潜めたのは第三幕が始まる頃だった。 (とりあえず平穏だが……マダムとやらが何をしてくるか、だ) 最後の公演にわざわざ来るからには天井板や衣装では済まないだろう。千志の視線は自然とシャンデリアへ向かう。 『荒野の他には何もない。お前の他には誰もない。 ああ! 可哀相なぼうや。私の囁きに身を委ねなさい』 舞台は魔女の泉へと変わった。ほとりには王がひざまずき、陰気で淫靡な苔がざわめいている。 『魔女様の門を叩くのは誰?』 蠱惑的な衣装を翻し、エキゾチックな踊り娘たちがゆっくりと登場した。衣装を熱帯魚のひれのようにひらつかせる踊り娘に千志は「へえ」と鼻を鳴らした。旅人の外套で観客には分からないだろうが、踊り娘は緑色の蛇竜人だ。竜刻回収班はうまく立ち回っているようだ。 『あなたはだあれ? 何を悩むの?』 妖艶なバレエに千志はむずむずと口許を歪めた。賞金首を追って劇場に踏み込んだことはあっても観劇の経験はない。そもそも、千志を含む異能者は劇場のような場――華やかで明るくて人が集まるような――から排斥されていた。 「任務。任務だ」 己に言い聞かせるように呟き、息を殺す。 舞台の影に溶け込むような千志を六番桟敷のジャックが見下ろしていた。 「全員配置についたようだゼ。けど、ずいぶん順調じゃねェの」 手すりに腰掛けるようにして鼻を鳴らす。それから、いつもの笑みを崩さずにエリザベートに視線を向けた。 「ぜひ最後まで観てェもんだ。このまま無事に終わればいいが」 「ええ、本当に」 エリザベートは大らかな微笑を返す。ジャックは「くくく」と笑いながらエリザベートの手の甲に口づけた。 「いいねェ、余裕綽々のご夫人ってのは。ま、安心しろヨ? 俺サマは半径50メートル最強の魔術師だかんナ」 そして、怪しまれぬよう素早く離れる。エリザベートの心を覗くには瞬きひとつ分の時間で充分だ。 「昔を思い出す……わしもよく娘とオペラに出かけた。この演技を見せてやりたかったわい」 ジョヴァンニはオペラグラスを覗いている。エリザベートは肯きつつもそっと嘆息した。 「良い役者です。初の主演はもっと大きくて立派な劇場であれば良かったのですが」 「役者にとってはどの舞台も大事じゃよ。彼は二十歳過ぎといったところかね? マダム・ソリュイが亡くなった時期と一致するのは偶然かの」 オペラグラスを構えたまま、世間話でもするように言葉を継ぐ。 「アーサーの生みの親が生きているとしたらどうじゃろう。訳ありで、息子を密かに座長夫妻に託したのだとしたら」 「訳とは?」 「例えば不義の子であるとか。貴族の家では珍しくもない話じゃ」 ジョヴァンニはゆっくりとエリザベートに向き直った。 「そして、彼の生母が息子の初舞台のために劇場を死守したのじゃとしたら? 親の心子知らず、その逆もありなん……親ならば手を汚してでも子を守りたいと思うものじゃ」 「私が密通の末に彼を産んだとおっしゃりたいんですの?」 エリザベートは流れるような所作で扇を開き、口許を覆った。隠し切れぬ笑い声が小さく漏れてくる。 「三文歌劇のような、大衆好みの筋書きですこと。残念ながら、私の子はアルトワとロゼッタだけです。調べていただいても結構」 「申し訳ない。見当違いじゃったか」 心から詫びつつ、ジョヴァンニはモノクルを慎重に指で押し上げた。 「じゃが、マダムの正体はやはり貴女としか思えんのじゃ」 フェンシングの一突きのように静謐で精確な指摘だった。 「貴女には動機もあるじゃろうて。客集めのための話題作り……あるいは祟りの噂を広めて取り壊しの延期を図った」 「取り壊しは決定事項なんだろ」 天井裏から戻ってきた由良がむすりと口を挟んだ。 「町長にしろエリザベートにしろ、今更嫌がらせをして何の意味がある? ちぐはぐすぎやしないか。手紙の主は何がしたいんだ」 由良の背中にシャンデリアの明かりが照り付けている。 「何がしたいか、ですか」 エリザベートは小さく息を吐き出した。 「たやすく説明できないこともあるのではありませんか。例えば、自分で自分が分からない時などは」 由良の眉宇がぴくりと寄った。 「失いたくない物が失われると決まった時、人の心は千々に乱れます。無意味な陳情書を無為に書き続けた私のように。けれど決まったことは覆りません。ならば……私が祖母の立場であったなら、せめて劇場が人々の記憶に残ることを切望するでしょう」 第三幕が終わる。 幕間のざわめきの中、由良は手すりから身を乗り出した。カメラでみたびシャンデリアを狙う。ウインチの不審は皆に伝えてある。 舞台に向けてズームした。舞台袖に家臣役の木賊連治が控えている。こちらに気付いたのか、ファインダー越しに連治と目が合った。由良は舌打ちしてカメラを下ろした。 「ほら。食えよ」 健はアルトワにボンボンを勧めた。 「結構です」 「糖分が不足するといらいらするぜ」 一粒つまんで差し出すと、アルトワは渋々受け取った。 「マダムは来ると思うか」 「……知りません」 「どうもおかしいんだよなあ。太陽とまで呼ばれた人が死んでからそこまで変質するとは思えない。変わるのは生きてる人間だけだろ」 「その通りだ。死者は動きはしない」 由良は過敏な一瞥を健に向け、再びカメラを構えた。 「必ず説明のつく、合理的な正体である筈だ」 「ハッ」 執着じみた陰気な呻きをジャックが笑い飛ばした。 「ンなこたァどうでもいいんだヨ。何が起こっても防ぐ、それだけに決まってンだろ」 熱気と思惑が渦を巻き、太陽の下で最終幕が始まる。 千志の間近で書割と背景布が入れ替わる。千志は劇の筋書きを脳裏で復習した。 マダム・ソリュイは家臣の幻影と一緒に現れるつもりなのか? (今んとこ変な気配はないが) 油断なく視線を巡らせる。彼の足元で、濃密な影が不可解に揺らめいている。 舞台の上で、灰色の背景に緑の草がぽつぽつと萌えている。照明の色がふわりと変わり、清廉な白光が王の上に降り注いだ。 『王よ。帰還を祝福する』 ゆらゆらと、死んだ家臣たちが王を取り巻く。王のテノールが応えるように響き渡る。 『これは夢か。幻か。魔女が今も取りついているのか』 『よこしまは去りぬ。今はひとときの再会を』 家臣役の連治が歌いながら立ち上がり、虚空に向かって手を伸べた。 陽だまりのような風が吹き渡った瞬間、騎士姿のアマリリスが忽然と現れる。 「ほ。何とも美しい」 ジョヴァンニが感嘆の声を漏らす。非現実的な演出に観客もどよめいた。しかし不審を抱く者はない。舞台ではたまに奇跡が起こるからだ。ロナルド・バロウズのバイオリンで増幅された演奏と演技は聴衆をとらえて離さない。 踊り娘から侍従へと変わった福増在利がアマリリスの手を取る。侍従と家臣に導かれ、騎士は優雅に膝を着いた。三人が歌い、王が答える。荘重な重唱が波となって広がっていく。 誰もが息を呑んだ。 演奏。歌。演者。背景。すべてが渾然一体となって絶頂へと上り詰めていく。 (マダムは。竜刻は) 健の拳にじわじわと汗が滲む。王の剣に封印のタグは認められない。舞台脇の千志も舌打ちした。魔力の脈動を感じる。王の剣で、緑色の石が不吉に明滅している。 舞台の上のアマリリスが剣に触れた。 「王よ。貴方と貴方を護る剣に祝福を」 柄の宝石に接吻した、その刹那。 バイオリンの旋律が加速し、目を射るような光が壇上で弾けた。 「おお」とも「ああ」ともつかぬどよめき。光の中に騎士が浮かんでいる。騎士の背には白銀の翼が生えている。呼吸のように翼が羽ばたく度、美しい羽毛が天使の祝福のように降り注ぐのだ。 アマリリスが王を抱擁し、その隙に連治が剣の石を抜き取る。手袋を嵌めた右手が閃く。 『何という夜! 何という奇跡!』 同時に合唱が轟き、大人数でのダンスが始まる。興奮したエキストラが連治にぶつかった。カメラを構えたままの由良は呻いた。連治の手から石が落ちた。 『始まりは終わり、終わりは始まり! 輪になって踊れ!』 トラブルと見たのか、エキストラが素早く石を蹴飛ばす。石は舞台の奥へと滑っていく。 不意に一陣の風が舞台上を駆け抜けた。ほんの一瞬の出来事だったから、風の存在に気付いた観客はいなかった。 『何という夜! 何という興奮! 共に祝おう、共に歌おう!』 何事もなかったように劇が続く。ジャックはひゅうと口笛を吹いた。 「やるじゃねェかヨ、カワイコちゃん」 つむじ風のように舞台を吹き過ぎた舞原絵奈の姿にジャックだけが気付いていた。 千志は不機嫌に眉を持ち上げた。 「……何もなかったじゃねえか」 そのまま深々と息を吐き出す。緊張させていた右手から緩慢に力が抜けた。 上演は無事に終了した。そう、何事もなく終わったのだ。盗賊の襲撃もなく、歌劇座の怪人物たるマダム・ソリュイも現れなかった。 観客たちが退出を始める。彼らは夢から覚めたように甲高くおしゃべりを始めた。 乾いた拍手が轟いた。 「素晴らしい公演でした。有終の美に感謝します」 エリザベートだ。しかし彼女の口上が気まぐれな観客の気を引くことはない。 「マダム」 ジョヴァンニがゆったりとエリザベートを振り返る。エリザベートはそっと微笑んだ。 「お察しの通りです。マダム・ソリュイは初めからこの六番桟敷におりました」 「歌劇を愛する奴が上演の邪魔するわけねェわナ」 ジャックは貴人のしぐさを真似てエリザベートに手を差し出した。 「マエストロんとこに連れてってやんヨ。あのじいさんも同じ気持ちだろ?」 返事を聞かずに抱き上げる。そして、ふわりと一般席に飛び降りた。 オーケストラ席に歩み寄るエリザベートにマエストロはのろのろと相好を崩した。 「プチ・エリー」 「私は年増ですわ」 エリザベートは小さく苦笑する。 マエストロがタクトを振り上げた。エリザベートは深く息を吸い、口を開いた。 『始まりは終わり! 終わりは始まり!』 力強いアルトが孤独に響き渡る。歌手のような声量に、去り際の観客達が足を止めて振り返った。エリザベートはスカートの裾をさばき、舞台袖から伸びるワイヤーに懐剣を振り下ろす。 『何という夜! 何という奇跡!』 「嘘だろ。ここでかよ」 健がはっと息を呑んだ。 巨大なシャンデリアが不穏に揺らめいている。その真下で、皆の視線を一身に受けながらエリザベートが微笑んでいる。 「どうせ壊されるのなら同じこと」 エリザベートはスカートの裾をつまみ上げて流麗に一礼した。 「ならばせめて華々しく。――人々の記憶に焼きつくように」 太陽が落ちてくる。シャンデリアを繋ぐ滑車が狂ったように雄叫びを上げる。しゃらしゃらと、カットガラスが場違いに美しく騒いでいる。 「チッ。自分に酔いやがって」 千志は電光石火の手さばきで自らの影をナイフに変えた。シャンデリアを縫い止めんと次々に放つ。六番桟敷で、由良のシャッターが立て続けに瞬く。健は白衣の下からネットガンを抜き放った。 「馬ァ鹿言ってんなよォ」 髪と目の色を変えたジャックが高笑いした。同時に、魔法のようにシャンデリアが消え失せる。ジャックが、能力を用いてシャンデリアを転移させたのだ。 「覚えとくかどうかは受け手が決めることだろォ? いいモンなら心に残る、それだけじゃねェか。ヒャハハ!」 劇場の裏手に放り出された太陽は地べたに叩きつけられて炎上する。エリザベートはよろけながら膝をつき、声も立てずに慟哭した。 「みっともないこと」 ロゼッタはどこまでも冷たい。健は激昂のままに彼女の胸倉を掴み、吼えた。 「人の思いを否定するな!」 そしてすぐに我に返った。息がかかるほど間近で、ロゼッタの目が怯えに揺れたのだ。 「……済まない」 こんな時、どうして体が動いてしまうのだろう。 「マダム。太陽は皆を包み込むものじゃよ」 一階に下りたジョヴァンニがエリザベートの肩を抱く。持ち上げられたエリザベートのおもては濡れていた。ジョヴァンニと一緒に下りてきた健は唇を噛んで俯くだけだ。 「ユラさんのおっしゃる通りです。偶然のアクシデントを利用して手紙を出しただけ……天井板だけは人のいない時間を狙って細工を施しました。手紙は代書屋に依頼を。怪異で劇場の存在を印象付けられればと」 静かな告白が続く中、ロナルドがバイオリンを手に一礼した。 「マダムと劇場、それから劇場を愛した人に一曲。いいでしょ?」 老指揮者がタクトを持ち上げる。優しい音色がたちまち劇場を抱擁した。 「一件落着、か」 千志はむすりとした表情を崩さない。 「まったくもって腑に落ちねえな。アルトワの目撃談はどうなる」 「あいつは嘘ついちゃいねェよ」 ジャックは訳知り顔で笑った。 「あいつの心ン中、マダムのドレスでいっぱいだったゼ。幽霊でも見たんじゃねェの、ギャハハ!」 数日後、写真を現像した由良は眉を顰めることになる。 「……どういうことだ」 落下するシャンデリアを捉えたショットの中に不可解な物が写り込んでいた。ドレス姿の半透明の女が、微笑みながらシャンデリアに取りついていたのだ。 (了)
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