ドアの前で足を止め、何度か深呼吸をして息を整える。それから意を決したように小さなかぶりを振って、バスケットを携えていない方の手でドアを数度ノックした。 もしかしたら在室ではないかもしれない。そういえば確認してこなかったような気がする。うっかりミスを思い出して小さな衝撃を受けるも、それはすぐに打ち消された。 「はい、どうぞ」 ドアの向こうから耳に馴染んだ声がした。七夏は長めに伸びた前髪の奥で灰色の双眸を何度か瞬かせて、紫色の髪の隙間から伸びる二本の触覚をぴょこりと跳ねさせる。 応えを口にするまで数秒。ドアノブに手を伸ばすまではさらに数秒の時間を要した。 髪の先をを指先で素早く整えて、同時に息を整える。が、息を整えてドアノブを回そうとした瞬間、七夏の動きは向こうから開かれたドアの動きによって制されてしまった。ごちん、と軽い音を響かせて、ドアが七夏のおでこにぶつかる。 「あ、す、すみません。大丈夫ですか?」 ドアの向こうから顔を覗かせたのは世界司書ヒルガブだ。正確にはヒルガブよりも先に、ヒルガブの首に巻きついている有翼の蛇が顔を出したのだが。 「は、はははい、大丈夫です」 おでこをさすりながら顔を持ち上げた七夏の視線が、ヒルガブの視線と重なる。瞬時に顔が熱をもったのを感じて、七夏は視線を泳がせた。 「あれ? あ、七夏さん? どうしました? 大丈夫ですか?」 ヒルガブの手が七夏のおでこに伸びて指先が触れる。七夏は飛び上がりそうになったのを懸命にこらえながら大きくうなずいた。 「大丈夫です!」 「そうですか。すみません、私の部屋、時々ノックだけされてどなたもいらっしゃらないっていう事が時々あるものでして」 「えええ? それっていたずらでしょうか?」 「さあ……。あ、立ち話もなんですね。御用ですか? 残念ながら今お渡しできるような依頼も特には」 「いえ、あの、い、依頼を伺いに来たわけではなくて」 「そうなんですか? そういえばカウベルちゃんの司書室では途中でおいとましてしまいまして。ちょっと人と会う約束があったもので」 「人と会う? そ、そうなんですか」 ヒルガブの顔を仰ぎ見て首をかしげた後、七夏は小さくうつむいた。ヒルガブは「ええ」とうなずいた後、モノクルを指の腹で押し上げながら口を開く。 「先日、私がカウベルちゃんのところに差し入れた駄菓子ですが、あれを購入した店の店主が、新しい駄菓子の試食をしてほしい、と。時々そんな役どころを回されるんですよ」 「し、試食」 「ええ」 ため息まじりにうなずいたヒルガブに、七夏は再び顔を持ち上げて笑みを浮かべた。 七夏の表情の変化の理由を気にしているのかいないのか、ヒルガブはのんびりと笑みを浮かべて七夏を部屋の中へと招こうとした。 「ひとまず、いかがですか。お茶でもお出ししますよ」 開かれたドアの向こう、ひっそりとした薄い闇がある。あちこちで揺れているのはロウソクの火だろうか。 七夏は初めて目にしたヒルガブの司書室の中を興味深げに覗き見てから、大きくかぶりを振ってヒルガブを見上げた。 「いいえ。あの、その……。よかったら、あの、お暇だったらでもちろんなんですが」 「はい。とても暇です」 「あ、あの。それなら、その。い、一日付き合ってくれませんか!?」 意を決して一息に言い放ってみた。 ヒルガブは、まるで初めてダンスに誘った時に見せたような顔をして、やっぱり少しの間何かを考えているような沈黙をみせる。 が、その沈黙はすぐに砕かれた。 「ええ、喜んで」 満面に笑みを浮かべたヒルガブに、七夏もまた喜色を満面にたたえた。 有翼の蛇だけが退屈そうに目を瞬かせている。 視界のすべてを埋める樹海の緑に目を向けて、ヒルガブは「そういえば」と思いついたように七夏を見た。 「七夏さんは樹海探索などは行かないんですね」 言いながら、大勢のロストナンバーたちが樹海探索に赴いて行ったのを思い出す。 「ええ、はい。その、機会がなかったというか」 隣を歩くヒルガブの気配に、七夏はおっかなびっくりしながら背の翅を躍らせた。薄い蜉蝣のそれに似た四枚の翅は、七夏の心境を物語っているかのようにひらひらと跳ねる。 ヒルガブは「なるほど」とうなずくと、復興しつつあるターミナルの街中を歩いた。 ナラゴニアとの親交も持ち始めた影響か、それとも単に店舗が壊れて屋内での営業が難しいためだろうか。ともかく、路面のそこここに屋台のようなものも見受けられる。 「美味しそうな匂いがしますね。……一口サイズのカステラ、だそうですよ。七夏さん、召し上がりますか?」 「え? 大丈夫よ」 「そうですか。そういえばクッキーも売られてるんですよね。私はまだ買ってないんですが、少し高いような気がしますね」 すれ違うロストナンバーたちがクッキーの袋を手にしている。 「でも楽しそうですよね。買ってみましょうか」 言われ、七夏は触覚をぴょこりと起こし、慌ててふるふるとかぶりを振った。 「私は、あの、いいです」 「そうですか? 握手したい相手とかいないんですか?」 「えっ」 ヒルガブからの問いかけに、七夏はつかの間表情をかたくする。それから何か言いたげな顔をして、けれどすぐに視線を泳がせうつむいた。 「……内緒です」 「え? すみません、あちらでの笑い声がすごくて」 少し離れた場所にあるカフェではロストナンバーたちが寄り集まり雑談に賑わっている。 「……なんでもないわ」 七夏は顔をあげ、ヒルガブの顔を見上げて笑みを浮かべた。 「ヒルガブさんは布の好きな柄とかある?」 「? 唐突ですね」 「お好きかなあって思って」 「なるほど。ふむ。そうですね。私は柄よりも手触りの良いものが好きですね」 「手触り?」 「身につけていて心地よいものですとか」 「どういうのかしら。コットンとか」 「ベルベットとかもいいですね」 「なるほど!」 うなずいてしばし思案する。 「ベロアとかもいいわよね」 「ああ、好きですよ」 うなずいたヒルガブに笑みを返し、おすすめのお店があるんですと言いながらヒルガブの服の裾を引く。ヒルガブは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべてうなずいた。 復興しつつあるターミナル内の一郭にある小さな手芸店。そこでは七夏がヒルガブに合わせていろいろな布地を見分していた。 ヒルガブの好みに沿う、手触りのやわらかな、品のいい光沢のある布地だ。ベルアもベルベットも、どちらかと言えばドレスなどに用いられるものだが、コートにすれば男性でも着用できなくはない。あとはデザインだろう。 ついでに採寸もすませ、入り用な分の布を買った。それなりに値段はしたが、「全部出させるのは私の気持ちが許しませんので」という理由で、ヒルガブがほとんどの支払いをした。 「ありがとうございます」 礼を述べた七夏に、ヒルガブは穏やかに頬をゆるめる。 「コート、楽しみにしてますよ」 笑んだヒルガブの目を見つめ、七夏の頬が思わず紅潮した。 「あ、あの。私、お昼も作ってきたの」 「え? あ、そのバスケットが」 そういえばカウベル司書の司書室にも七夏は手作りのサンドイッチを差し入れしていた。 「練り切りといい、サンドイッチといい。七夏さんは本当にお料理もお上手なんですね」 「あっ……! でも、期待はしないでね。おにぎりにハンバーグや卵焼きっていう凄く普通なお弁当だから……!」 「おにぎりにハンバーグに卵焼きですか。どれも好物です」 微笑むヒルガブに七夏はうつむく。そして気付いた。自分の片手が、ヒルガブの服の裾を掴んでいた事に。 「ベンチとか探せばあるかしら!?」 慌てて裾を離してわざとらしく言葉を放つ。見渡すと、小さな公園の隅にベンチがあるのが見えた。 「お茶もあるの。座って食べない?」 「ええ、ぜひ。ちょうどお腹もすきましたから」 うなずくヒルガブに大きくうなずきを返すと、七夏はヒルガブと並びベンチに向かう。 うっかりとまたヒルガブの裾を掴まないよう、布地の入った袋とバスケットを両手で抱え持った。が、そのふたつはほどなくヒルガブが持つことになる。 「せめて荷物持ちぐらいしますよ」 そう言って首をかしげたヒルガブの顔は、なんとなくもうまともに見ることはできなかった。 昼食中に交わされたのはクリスマスに行われたダンスパーティーの話や司書室での話だった。旅団との激戦の話は、ふたりとも切り出そうとはしなかった。目につくのは激戦の痕跡だし、樹海はそのなれだ。 それでも、ふたりともあえてそれを話すことはなかった。いろいろな悲劇もあった。けれど。 「七夏さんはどんな世界からいらしたんですか?」 ヒルガブが訊ねてきたのは七夏の出身世界の事であったり、これまでに請けた依頼で訪れた土地の事であったり。七夏が見てきた風景や出会ってきた人々の話。そういったものを、彼は楽しそうに聞いていた。 「今年もクリスマスのダンスはあるんでしょうかねえ」 七夏が作ったハンバーグを絶賛しつつ、ヒルガブはふと目を伏せてつぶやいた。 「もしもまたダンスがあったら、また踊っていただけますか?」 次いで目をあげたヒルガブに、七夏は満面の笑みでうなずく。 「ええ、ぜひ」 七夏ばかりが話すのもつまらない。ヒルガブの出身世界の話や、見てきた風景の話。そういったものを聞いてみたいと思って、けれど七夏は口をつぐんだ。 ヒルガブはロストメモリーだ。出身世界での記憶の一切を失っている。0世界を出る事もない。知っているのはこの風景だけなのだ。 「あの! 私の行きたいところばかりじゃ悪いわ。ヒルガブさんはどこか行ってみたいところってない?」 復興に賑わうターミナルを指差して声を張り上げた。 ヒルガブはつかの間驚いたような顔をして、けれどすぐに破顔させる。 「私はこうしてのんびりするだけでも楽しいですよ」 返された答えに七夏は再び頬を紅潮させた。 「こ、今度があるならだけど、おすすめの場所、見つけておくわね」 わずかに視線を泳がせた後、ヒルガブの顔を盗み見る。 ヒルガブは嬉しそうに目を細め、 「楽しみです」 笑みを浮かべたまま深く首肯した。 「それでね。私、お守りを持ってきたの」 「お守りですか?」 七夏はうなずき、バスケットの中から小さな紙袋を取り出した。中には細い糸で織った小さな袋がふたつ。 「……この間の戦争の時、私、とても心配だったから……お守りよ」 言って、袋のひとつを手渡した。 「故郷に伝わるお守りなの。細い糸で織った袋の中に特別な石を入れているのよ」 「へえ……これはすごい」 絹糸のような糸で織られた袋は巾着のようになっていて、衣服に提げておいたとしても邪魔にはならないであろう出来になっている。 触れれば、袋の中には確かに硬さのあるものがころりと収まっていた。 ヒルガブが袋の中を覗いて感心しているのを上目に、七夏は神妙な顔をする。 「……心配、したのよ」 呟いた声に、ヒルガブが視線を向けた。ヒルガブは小さく笑って首をかしげる。 「私も心配しました」 返された言葉に七夏は顔を染めて、しかし目を逸らす事なく言葉を続けた。 「この石、故郷にしかないから、本当は作れないお守りなんだけど。……私が持ってたお守りの石を半分こにしたの。だから、効果は半減するかもしれないけど……」 「七夏さんのお守りを半分に? それは、」 ヒルガブが言いかけた言葉を遮るように、七夏は大きくかぶりを振る。 「ヒルガブさんに持っていてもらいたいの。……残りの半分は私が守るわ」 石を守るという意味なのか、それとも。七夏はそれきり口をつぐんだ。ただまっすぐにヒルガブの顔を仰ぐ。 ヒルガブはわずかに驚いたような表情を浮かべたが、すぐにゆるゆると笑って口を開けた。 「それでは、残りの半分、私も守りましょう」 もっとも、私にはそれほどの力はありませんけれどもね。 言い足してふわりと目を細める。つられて七夏もふわりと笑った。 「それでは、食事を終えたらもう少し歩きましょう。もちろん、七夏さんのお時間が許すのであれば、ですが」 「はい、ぜひ!」 笑い合って、残りの弁当に手を伸ばす。 復興を進める音がする。空はのどかな青で満たされていた。
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