■0■ 夜の帳かそれとも別の何かか。視界を覆い尽くす闇の中で開ききった瞳孔にそれは唐突に襲いかかった。いや、闇を自覚した刹那の出来事だったか。とにかく失っていた意識の浮上とともに、フラッシュをたかれたような強い光が脳の裏側を激しく叩くような錯覚を起こさせ、覚醒しろと強烈なアピールをしてきた。瞼の裏は黒から白へ。やがて光は落ち着きを取り戻したのか、瞳孔がほどよく閉じただけなのか、ようやく目を開くことが出来た。純白だった世界は徐々に影をつくり色彩を帯びていく。 有馬春臣は覚めきらない頭で金ぴかの派手な装飾の天井をぼんやり見上げた。いや、天井だと思っていたものはどうやらちょっと違ったらしい。天蓋というやつだとわかったのは首を横に向けた時だ。ポールのようなものが視界に入り、その奥にある本物の天井には3段重ねの巨大なシャンデリアがかかっていた。 更に部屋を見渡す。 広い部屋にはペルシアの最高級品とも思しき毛の長い絨毯が金を基調に茶や緑で草や鳥などの不思議な模様を描いていた。 しかし部屋に並ぶのはマホガニーの重厚そうなデスクでも、ヴェネツィアングラスの並ぶ食器棚でも、サロンを思わせるグランドピアノなどでもない。 冷たい硬質感を放つ鉄の棺を知っている。抱き抱えるために作られた重たい石をしっている。あれも、これも、どれも、それも。 沸き上がるのは、どうしようもない違和感。 鉄の処女、石抱き、算盤板、三角木馬、審問椅子、エトセトラ。 苔むした石造りの地下牢、薄暗く湿って淀んだ空気、鼻腔をくすぐる黴びた臭い、照明は周囲をほんのり照らすだけのランタン、それで十分なほど狭い空間。そういう場所がお似合いな、なんとも血なまぐさい拷問具たちが、絢爛で豪奢で明るく広いその部屋に並んでいるのだ。 何故こんな事をするのか、疑問の答えを探すように上体を起こすと手首の辺りでじゃらりと金属音がした。――鎖か? 「お目覚め?」 という女の声を振り返った。 ころころと鈴を転がすようなとは陳腐であるがなんとも想像しにくい笑い声だ。もしかしたら、こんな風に頭に響く甲高い笑い声のことかもしれない。 ソファーに髪の長い女が座ってこちらを見て愉しそうに笑っていた。 ■1■ 「誘拐されたってこと!?」 思わず声をあげて氏家ミチルは世界司書を見た。 目の前に、その誘拐された人間が横たわっている。彼が目を覚まさなくなってから丸3日。彼が大好きな美脚の写真を顔の前に翳しながら呼びかけても、ルサンチマンがその頬を踏みつけても、ちっとも起きる気配がない。さすがに3日は寝過ぎではないかと相談したのがつい先刻。 世界司書は「ふむ」と頷いた。 誘拐されたというのは語弊があるか、肉体ではなく精神が夢魔のいたずらによって誰かの夢の中に捕らわれたということであった。 「姫は格好良いッスもんね!」 腕を組み首をうんうんと縦に振りながらミチルは納得したように言った。 「間違ってさらわれたのでは?」 鳥の仮面にその面を隠し、くり抜かれた穴の奥から横たわる春臣を見下ろし、ルサンチマンが胡散臭そうに言った。 「格好良い人ならここにも居るよ!?」 ロナルドは納得のいかない顔で主張した。 ミチルとルサンチマンがロナルドを振り返り、一様にほーっと気の抜けた長い溜息を吐き出して、話を戻そうとでもいう風に視線を春臣に戻す。 「それ、どういう意味!?」 抗議の声をあげようとしたロナルドだったがミチルに手で制される。そんなことはどうでもいいらしい。 「助けにいくッス」 「放っておいては…ダメですか?」 ルサンチマンの言に世界司書はそれもありだと答えた。精神の抜けた肉体を放置するとどうなるのか、興味深い症例となるであろう。もちろん、それで肉体が死を迎えようとも彼は一切関知しないのだろうが。 「ダメに決まってるッスよ」 ミチルがきっぱりと言い切った。 「まぁ、ドクがいないと俺としてもなんか物足りないっつーか、調子狂うもんなー」 ロナルドが頭を掻く。 「…仕方ありません」 ルサンチマンがやれやれといった口振りでわずかに頭を下げた。 「姫はどこに捕らわれてるんッスか?」 もちろん、それは夢の中。 「どうやって行くんです?」 もちろん、世界司書特製の怪しげな装置で。 「夢魔を倒せばいいんだっけ? あれ? 夢を見ている誰か?」 失敗すれば全員夢の中の囚人に、というわけだ。 ◆ 女はセパレートタイプの水着を深紅の編み目のレザーで作ったようなハードコアなコスチュームに身を包み、レザーのロングブーツを履いているものの、その白い太股を惜しげもなく見せびらかしながら、ソファーの上で長い足を組み替えた。 ゾクリと何かが耳の後ろの辺りを這うような感覚に春臣は息を呑む。その長いヒールで踏みつけてくれないかなとぼんやり思った。 そんな内心を見透かしているのか女はクスっと笑いソファーから立ち上がった。その瞬間、股間に熱を感じてしまうのは男の生理現象というものだろう致し方あるまい。 春臣は期待に胸を膨らませながら、歩み寄る女の足を見つめていた。それにしてもスラリと伸びた綺麗な足だ。その太股にはたるみもなく、かと言って筋肉質というわけでもない。女性らしいしなやかで柔らかですべすべに違いない足である。 それにピタリとはりつくレザーのブーツがこれまた艶めかしい。 惜しむらくは、ヒールが床を叩く硬質の音を毛足の長い絨毯が全て吸い取ってしまっていることだろうか。 それからふと、女の背後に尻尾のようなものが垂れ下がり揺れていることに気がついた。悪魔の尻尾のように見えなくもない。しかし、それは彼女のキュッとあがった可愛い小尻から垂れ下がっているわけではなかった。 どちらかというと彼女の左の腰の辺りから……。 そこで初めて春臣は彼女の足以外の場所をマジマジと見た。 女が春臣の前で立ち止まる。彼女の右手が腰に伸びて、それを掴み軽くスナップを効かせて上下へ振った。 彼女が握った長いブルウィップがしなり、風切り音を放ちながら毛足の長い絨毯を裂くのを春臣は半ばあんぐり口を開けて見ていた。 「は?」 真っ赤な口紅にグロスを重ねた女の口角があがる。 女の右手が自分に向けて振り下ろされた瞬間、反射的に春臣は避けていた。 布団が避け羽毛が舞い上がった。ベッドマットまで裂けスプリングが飛び出している。股間は急速に冷え、ヒュンっと縮こまった。 「何故、避ける?」 女が尋ねる。 いやいやいや。春臣は飛びださんばかりの眼で無惨に裂かれたベッドを見た。高そうなのに…じゃなくて、そんなもので打たれたら赤く腫れる程度では済まないだろう。みみず腫れが出来る程度でもないだろう。肉を避き骨まで砕かれかねない。下手をすれば一撃死もあり得るんじゃ…さすがにこれは過言か? 「こうして欲しかったのだろう?」 女は高らかに笑って再び右手を振り上げた。 もちろん、その足で踏みつけて、ついでに、にじってくれたら気持ちいいだろうな、とは思った。しかしだ。いくらどMを自称する自分でも、これはちょっと何かが間違ってるような気がするのだ。 死ぬから。 春臣は女に手のひらを向けて全力で横に振った。 「違うのか?」 「違う」 「ふむ、知っている。押すな、押すなは、押してくれという意味であろう?」 女は言うが早いか右手を再び春臣に向けて振り下ろしたのだった。 「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」 ■2■ 「これが、夢の中ッスか?」 ミチルは辺りを見回しながら言った。 大きなシャボン玉の泡のようなものがいくつも浮かんでいる。シャボン玉の中を覗いてみると、1人の少年が黒い巨大な謎の影から逃げるように必死に走っているのが見えた。 「これは夢の集合体をわかりやすく具現化したもののようです」 ルサンチマンが何やら小冊子のようなものを手に言った。夢の中に突入する前に世界司書から貰ったらしい。それをどうやってここに持ってきたのやら。つまりは所詮、夢の中である、という事か。 「どういうことだ?」 ロナルドが尋ねる。 「夢の世界は夢を見る者によって様々に構築出来ます。それを利用して、人々が見ている夢をこのように具現化させているようです」 説明するルサンチマンをミチルは要領を得ない顔で見返した。 「なんかよくわからないッス」 それで一体どうすればいいのか。春臣はどこにいるのか。仕組みとかそんなことよりも、そちらが重要であった。 「この泡のようなものが誰かが見ている夢だと思えばいいと思います」 ルサンチマンの補足にロナルドが応える。 「じゃぁ、この泡の中にドクを捕らえてる夢があるってことかな」 可愛い弟…のような存在であるミチルにもよくわかるように。 「はい」 頷くルサンチマン。 「それを見つけて飛び込めばいいって事だよね?」 「或いは、この泡を往来し、外から見ている者が夢魔ということになるのではないでしょうか」 ルサンチマンは淡々と答えた。 「なるほどッス」 それならわかると、ミチルが勇んだ。手足を解しアキレス腱など伸ばしていつでもスタート出来る体勢だ。 「しかし、夢魔のいたずらだったとして、ドクを捕らえている夢はどうしてドクを捕らえたんだろうね?」 今更ながらにロナルドが疑問を口にした。 「姫は格好良いッスからね!」 伸脚しながらミチルが答える。 「いや、そういう事じゃなくて…」 「どういう事ッスか?」 それ以外に何があるのかという顔だ。 「夢は見る者によって自由に出来るとしたら、この場合、現実の見た目は関係ないわけだよね?」 「姫は心意気も格好良いッスよ」 ミチルは自慢げに言った。 「でも、無類の変態だよ?」 ロナルドはまだまだ納得がいかない。すると。 「変態的嗜好が合致したのではないですか?」 「それだ!!」 ルサンチマンの言にロナルドは食いついた。春臣に勝る変態もなかなかいないだろう。彼のそちらに関する知識は尋常ではない。つまりはそういう事情だったのか。 ロナルドはようやく納得したようにうんうん頷いた。 「だとしたら、意外と帰りたくないとか思ってたりしてね」 半ば本気で呟いたロナルドにミチルの鉄拳が飛んだ。 「そんなことないッス」 ◆ 「こ…殺す気か…」 荒い息を吐きながら春臣は女を見上げた。 「SMプレイとはこういうものであろう?」 女が微笑む。 女の放ったウィップによる攻撃を、何度も手の鎖で受け止めていたら鎖が切れた。ナイスだと思ったが、それと同時に血の気も退いた。加減というものを知らないのだろうか。どう贔屓目に見てもそれはSM用の小道具などではない。それとも鎖の方が玩具だったとでもいうのか。 とにもかくにも部屋に並ぶ数々の拷問具もSMの雰囲気を高める小道具ではなく、普通にその使い方通りに使うつもりではないかという気がしなくもない。 そんな場所に何故自分はいるのか。しかも使われる立場として。いやでも、彼女はSMプレイと称している。――これがSMプレイだと? 「安心しろ。痛みもその内快感に変わる」 女はきっぱり言い切った。 「いやいやいや」 そうなる前に死ぬから。鎖を切るほどのウィップの威力である。快感に感じるほど皮膚が強い者ならともかく、少なくとも自分には無理な気がした。過ぎたるは尚及ばざるが如し、なのだ。 春臣は這う這うの態でベッドの上から逃げ出した。 部屋の扉を開けて廊下へ出る。長い廊下にはいくつも扉が並んでいた。後ろから追ってくる女の気配に春臣は反射的に目の前の扉を開けた。 入ってすぐに閉じて鍵をかえればいいのに。 春臣はその部屋の中の光景にフリーズしてしまった。 「!?」 後方から襲い来る殺気に部屋に逃げ込み損ねて、春臣はドアノブから手を離すと廊下を駆け出す。 「今のは…」 その部屋は自分がいたのと全く同じ部屋だった。並んでいるのは拷問具。それからベッドに男が倒れていた。さんざん痛めつけられて捨て置かれたような…。 などと思考を巡らせている暇などなかった。 追いかけてくる女に地の利があるのは当然といえば当然だろう。気づけば春臣は壁際に追いつめられていた。荒い息を吐いて女を睨めあげる。 女は口の端を愉悦に持ち上げてゆっくりとウィップを振り上げた。 春臣は窮鼠猫を噛むようにその手首を掴む。 「!?」 春臣の反撃を想定していなかったのか女は明らかな動揺の色で春臣を見返した。 運動神経が複雑骨折している春臣にしては上出来だったに違いない。やってみせた本人も驚いていたが、とりあえずそれはさておいて。 「貴様は間違っている」 春臣は厳かに曰った。 「な、何だとっ?」 女がキッと春臣を睨みつける。状況次第では腰砕けになりそうないい睨みであったが、今の春臣には通用しなかった。 春臣は激怒していた。必ずこのジャチボウギャク――勘違い女の性根を叩き直さねばならぬと決意していた。 「SMと拷問は似て否なるものだ」 春臣が女の手首の関節をとると、その手からウィップが床に落ちる。怒りが彼の潜在能力を高めているのか。 「そもそもSM用のムチは羞恥心を煽るために音はよく出るように出来てはいるが、実はそんなに痛くない」 「何ぃ!?」 それをこんな牛追い用のウィップを持ち出してSMプレイとはよく言ったものである。これではただの拷問プレイだ。いや、プレイですらなかったか。 「もちろん、肉を裂く痛みを快感に感じる強者もいるが、それにしても痛みだけを与えていればいいといことはないのだ。昔から飴とムチと言うだろう。そもそもSMとは平安時代に書かれた今昔物語集にも出てくるほど歴史があり崇高なものなのだ。その1000年前でさえ、ムチで打った後は手厚く傷を癒すという工程を踏み、男を骨抜きにしている(※)。それをムチで打った後は放置など言語同断!!」 傲然と春臣は言い放つ。放置プレイの醍醐味とは羞恥心とその後に訪れるであろうご褒美への期待感にあるのだ、と。 「うるさい! なぜそんな真似を妾がせねばならんのじゃ!?」 駄々をこねる子供のように言い返す女に春臣は嘲るように「ふん」と鼻を鳴らして応える。 「それを怠って何がSMプレイか! いいか、よく聞け。Mというのは、ぶたれるという屈辱、ぶたれているという恥辱、痛みによる快感、それらが織りなすハーモニーあってこそのM的快楽なのだ」 きっぱり。彼は真顔で言い切った。 「それを与えてこそのSであろう!」 自信満々だった。彼の背後にはドドーンと巌を砕かん勢いで打ち寄せる荒波が見える…ような気がする。 「だからそれを与えてやろうと言うのではないか!」 女はヒステリックに言い返した。自分は間違っていないと。何がいけないのか、と。 「味噌とクソを一緒にするな! 貴様が与えようとしているのは、快楽ではなくただの苦痛…というか死だ」 憤然と春臣は応えた。女がヒステリーを起こしては、どれほど論理的に説明しても届かないことは何となく経験で知ってはいるのだが、言い返さずにはいられない。 「くっ…生意気な奴隷め。殺す前に調教してやる!!」 女はウィップを拾い上げようと手を伸ばす。いつの間に奴隷になったのやら。 「貴様は“自称”に過ぎん。恥を知れド素人が!!」 ドンと春臣はウィップを踏みつけた。今でこそM気質の彼だが、Sとは昔取った杵柄というのもある。仕方がない。ここは自分が大人になって彼女に本当の調教というものを教えてやらなくては。 半ば使命感に燃えて春臣が踏みつけたウィップを拾おうとした時だ。 「黙れぇ!! 皆の者、奴を捕らえよ!!」 女の声に廊下に並んでいた扉が一斉に開いた。そして甲冑を着込んだ男ども――彼女の親衛隊といったところか――が飛び出してきた。 「へ?」 春臣が開けたドアも同様に開き中か甲冑を来て男が出てきた。半死に見えたあの男だろう、今は颯爽と自分に向かってくる。 「何だと!?」 親衛隊どもが春臣めがけて突進してくるのに春臣は女の手首を手放し後退っていた。 一体、何が起こっておるのか、どういう事なのか、ただ万事休すに春臣は息を呑んだ。 その時だ。 自分の名を呼ぶ声がしたのは。 ――俺はここだ!! ■3■ いくつもの泡の中から春臣を見つけるのはそう難しいことではなかった。所詮、具現化された夢の集積所とはいえ、それ自体が夢の産物であったからだ。 ミチルが春臣を呼べばいい。 それに応える声が光となって彼の居場所を知らせてくれるだろう。 その泡に向かってただ手を伸ばすだけでよかった。 「姫っ!!」 その声を春臣は振り返った。 いや、春臣だけではない。春臣を取り囲んでいた親衛隊どもも、そして女も。 「この人に触るなっ!」 空間に丸い穴が出来、そこから飛び出したミチルが春臣と女の間に割って入ると両手を広げるようにして春臣を庇いながら女を睨みつけた。 ミチルの後に出てきたロナルドが、女をマジマジと見つめ、それから豊満なHカップの谷間に目を奪われながら言った。 「ドクを調教したいとか物好きだね」 まるで、どうせなら自分がお相手をしましょうかと言いだしかねないニヤケた顔だった。ロナルドの後に続いて現れたルサンチマンが事務的に付け加える。 「彼なら殺してもらって構いませんが」 とその手がロナルドを指しているのに気づいて、ロナルドが「おいおい!」とつっこむ。 「な、な、なんだ、貴様等は!?」 女が驚いたように3人を見た。 「姫、助けに来たッス!」と、親衛隊を警戒しながらミチル。 「ミチルのお供で」と、敬礼っぽく片手をあげてロナルド。 「乗りかかった船です」と、相変わらずの調子でルサンチマン。 突然現れた3人に、やはり状況が今一つ飲み込めないまま、春臣はそれでも心強い顔ぶれにホッとして応えた。 「そうか。助かった。とりあえず、これをどうしようかと思っていたところだ」 顎をしゃくって自分を取り囲む親衛隊どもを差す。 「ここは、彼女に地の利があるからな」 彼女の夢である以上、この世界は彼女の意のままに違いあるまい。ロナルドは斜に構えた。 その隣にルサンチマンが並んで立つ。 ルサンチマンの異形にか女は後退ったが親衛隊どもは臆した風もない。 女とルサンチマンらの間に親衛隊らが立ちはだかりにらみ合った。親衛隊どもが戦斧を振り上げる。それを軽やかに避けルサンチマンが床を蹴った。 戦闘開始。 春臣はといえば。うっかり誘拐されたとはいえ、自分の隙が招いたこと。この場を友人たちに任せっぱなしというのも後味が悪いような気がしなくもないが、運動神経に若干難のある自分が出しゃばる方がかえって邪魔に違いないと後ろに下がる。 その時だ。 後ろから突然羽交い締めにされたのは。 「!?」 女か、それとも親衛隊どもの1人か。 「無事を確かめる為に、し、身体検査を…!」 振り返るとミチルが真剣な面持ちで春臣の身体を撫で回した。 「貴様、離せっ!!」 慌てふためく春臣に気にした風もなくミチルは胸や腹などをまさぐり始める。 「ここは無事かなぁ?」 はぁ…、はぁ…、と興奮気味に鼻息の荒いミチルに春臣は全力の抵抗を試みた。とはいえ、先ほど女の手首を掴みあげた時のような乱暴さはない。どう扱っていいかわからないような態でそれでも何とかミチルを引き剥がす。 「寄るな、貴様っ!!」 「大事な事ッス!」 一方、戦闘の始まったルサンチマンと親衛隊どもはといえば、男どもは元々がSM女王様の作った夢の中の産物であったがゆえか、痛み=快楽という公式が染み着いていたようで、攻撃しているだけのはずのルサンチマンに。 「女王様!」 とその足に縋りつき始めた。 「おやおや、まぁ…」 結局戦闘に出遅れ傍観者となったロナルドが呆れながら見守っている。女王様に作られた親衛隊どもがルサンチマンに殺到し、ロナルドの方へはこなかったというのもその一因であろう。 ルサンチマンが鬱陶しそうに親衛隊どもを振り払い足蹴にしていった。 ミチルの魔の手から逃げ出した春臣がその光景に目を見開く。 「ずるいぞ、貴様らっ!!」 俺も踏んでくれと今にも寝ころびそうな勢いの春臣だったが、さすがに寝転がったらミチルの身体検査の餌食と悟って、なんとも言い難い葛藤を繰り広げているようで、結局動けずにいた。 「何この、ギャグかシリアスか分からない感じ」 ロナルドは頬をひきつらせるように右の口の端をあげて呟いた。 そして、同じくここまで完全に放っておかれている女を見た。自らの親衛隊がルサンチマンに骨抜きにされ怒りに震えているかのように見えた。 刹那。 「!?」 放置プレイと、夢であるにも関わらず自分の思い通りにならない現実にか、女の夢はかくて暴走を始めたのだった。 ――いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! ■3■ 女は1人で寂しかった。 だから夢の世界に閉じこもった。 従順な男どもを作り侍らせていた。 しかし、あまりに従順すぎてつまらなくなっていった。 そんな時、夢魔が彼女に話しかけてきた。 とっておきの夢を見せてやろうと。 ◆ 夢の中にそびえ立つ城がガラガラと崩れ、兵どもが霧消し、上も下も右も左も分からぬ暗い空間に4人とこの夢の世界の主である女が浮いていた。 女は何かに怯えるように小さくうずくまっている。 暴走する夢を自分で御せなくなってしまったのだろう。怒りなのか恐怖なのか、その感情が何であるのかわからなかったが、渦巻く闇が波のようにうねり、4人を襲ってきた。 4人はそれぞれに、どうすればいいのかわからぬまま、黒く巨大な腕のようなものの攻撃を避け続けた。 この夢から抜け出す方法も思いつかぬ。ここに来るために開かれた扉はとうの昔になくなってしまっている。 それに。 ただ小さくうずくまるだけの女のことも気になった。 無茶苦茶だった。 でもそれは彼女が知らなかっただけのことではないか? ――SMを? いや、違う。 ――愛を。 春臣はある言葉を思い出していた。SMのSは寂しいのS。寂しいからいじめていじめて振り向いてと下手くそにアプローチするのだ。 これが彼女の夢の中であると知らされ、自分も夢を見ているのだと知った春臣はやれやれと溜息を吐いて、黒い腕の攻撃をかわしながら女に近づいた。これは夢だと強く言い聞かせ、出来ると自分を謀れば運動神経に関係なく攻撃をかわす事が出来た。 女の夢の産物であるから、あの男どもは好きなだけ痛めつけられ、女は男どもを介抱することもなく、それでも彼らは従順に彼女に傅くのだろう。女は現実で男どもにいじめられていたのだろうか。だから男どもを痛めつけることで自分の心を守っていたのだろうか。女の現実など知りようもないが。 ただ。 春臣は女の前で立ち止まり優しく手を伸ばす。 「ここから出してくれないか?」 女は顔をあげ、春臣を見上げて、それからフルフルと首を横に振った。 嫌だ、というよりは、わからない、そんな顔つきだ。 夢の主にも出来ぬというのか。暴走するこの夢を、暴走する彼女の心を、どうやって止めようか。 「姫!!」 ミチルの切迫した声が背を叩く。 ハッとした時、黒い波が触手のように伸びて春臣の体を捕らえていた。 『どうしたの? この者に快楽を与えるのではないの?』 ソプラノとアルトの二重奏で歌うような声が聞こえた。 「誰ッスか!?」 ミチルが辺りを見回す。 「いたずら好きの夢魔のご登場ってことかな?」 ロナルドがどちらへともなく身構えた。 「夢魔を倒せばこの夢から出られるのでは?」 冷静にルサンチマンが推察する。 「だろうね」 言うが早いかロナルドがバイオリンを奏でた。【たらこ】が放つ真空刃が四方八方に乱れ飛んだが手応えはない。“外”から自分たちを見ているのか。ちっ、と舌打ち。 女は怯えたように首を振った。 「もう…いい…」 『どうして?』『どうして?』『何故?』『何故?』 輪唱のように夢魔の声が問いかける。 「思い通りになってもつまらない。思い通りにならなくても辛くて苦しい」 女は応えた。 「当たり前だ。全部思い通りになどなったらつまらな過ぎて生きてる意味がない。だが思い通りにならない焦れったさは時に快感と生きている実感を与えてくれるぞ」 春臣が言った。 「それってつまり、焦らされるのがいいって事か?」 いろいろ過言な気がしなくもないロナルドだったが敢えてそれ以上はつっこまかったかった。 「焦らされるのっていいッスか?」 不思議そうにミチルが首を傾げている。そういう間怠っこしいのはイライラしそうでミチルにはよくわからない。 しかし。 「生きている実感?」 女には何か春臣の言葉に響くものがあったのか。 女はずっと夢の中に引きこもっていた。本当の意味で生きることを拒んできたようなものだ。彼女の肉体はただ死んでいないだけだった。生きていない。 「思い通りにならないから、生き甲斐がある」 春臣が言った。 「生き甲斐…」 女が呟く。 「そうだよ」 ロナルドが言った。 「そうッスね! さっすが姫、いい事言うッス」 ミチルが笑った。 「生き甲斐ですか…」 ルサンチマンにもどこか身に覚えがあるようなないような。 『夢は楽しいぞ』『夢は楽しいぞ』 「楽しいばかりが夢ではない」 春臣が虚空を睨み据える。 『夢をバカにするな』『夢をバカにするな』 バカにしているわけではない。夢は良かったと思う為に見るものだ。悪い夢を見て、夢で良かったと思う。いい夢を見て、いい夢を見て良かった、と思う。 「歌え!」 春臣が促した。奇跡を望んだわけではない。ただ、ここは女の夢の中だ。 「ッス!」 ミチルが大きく息を吸い込んだ。それはミチルの十八番に違いない。 歌え、歌え、応援歌。 これから夢から目覚めなければならない女への餞に。 生きていくための応援歌。 世の中、思い通りにならないことばかりだ。だけど、たまにはいいこともある。世の中、思い通りにならないから、夢を求めて生きるのだ。 生きろ、生きろ、生きろ。届け、届け、届け。 夢を掴め。 フレー、フレー、フレー !! 『なっ…なっ…なっ…!?』『なっ…なっ…なっ…!?』 夢魔を退けるミチルの歌声が暗い空間と黒い腕を打ち破りに光に変える。 光に変えたのはきっと彼女自身。 まばゆいほどの光が瞼を起きろ起きろとノックする。 それに誘われるように目を開いた。 そこに、ミチルの安堵した笑顔と、ロナルドの呆れたような顔と、ルサンチマンの変わらぬ仮面を見つけて春臣は笑みを返した。 「おかえりッス」 「おかえり」 「…おかえりなさい」 「ただいま」 光の中で、彼女が『ありがとう』と言っていたような気がした。 ■大団円■
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