「もし、ムジカさんと由良さんが、赤毛の魔女と連絡を取りたいと望むなら」 ジャンクへヴンの、おふたりがご存知の高級ホテルに手紙を預けたらどうですか? と、無名の司書は『導きの書』を広げる。 ムジカ・アンジェロと由良久秀は、たしかに、かつてある事件絡みで、そのホテルに於いてフランチェスカと遭遇したことがあるのだが……。「ありがとう」 司書は笑顔であったけれど、失踪した《鳥》を案じてか、どこか憔悴の色を残していた。いたわりのことばはあえてかけずに、ムジカはただ、礼だけを伝える。「それと、これ、三倍返しの御礼です。……いただきものなんですけども」 司書は、二枚のチケットに添えて、フライジング産の極上のワインを渡す。ヴァイエン侯爵領の収穫祭に赴いた旅人たちから貰ったお土産のうちの、一本だった。「たぶん、フランチェスカさまに喜んでいただけるんじゃないかなって。……あとですね」 突然―― 司書の頬に、活き活きとした朱が走る。「おふたりがホテルに泊まる場合、部屋は絶対絶対、同室にしてくださいよ!? それはターミナルや世界図書館の今後のアレコレやチャイ=ブレのナニがソレやナラゴニア情勢のドレやコレがどうであろうとそんなもん瑣末なレベルの揺るがせにはできない超重要事項なんで! そのへんよろしくお願」 こつ。 言い終わる前に、由良は無言で、司書の頭に軽く拳を落とす。 ムジカは微笑みながら、チケットとワインを受け取った。 † † † 赤毛の魔女との邂逅はつつがなく叶った。 そして今――、ふたりは、快楽都市ロトパレスにいる。「……わ。見て、フランチェスカさまがお連れになってる殿方……!」「悪くないねぇ。あの珊瑚いろの髪の男が、ウチの店に来てくれるといいんだけれど」「あたし、初めてのお客さんは、あの黒髪のひとがいい」「そばかすだらけのあんたの器量じゃ無理だよ」「そんなことないもの! あのひときっと、あたしくらいの14、5の娘が好きよ。年増はお呼びじゃないわ」「云ってくれるじゃないか」 爛熟と退廃の街を彩る娼婦たちは、艶やかな闇を紅唇に秘めて、堕落の甘さを誘ってくる。 由良は気まずそうに目を逸らすが、ムジカは気にもかけない。旅先の情景を、自然体でたのしむ旅行者が常にそうであるように。「アンジェリカはどこだ?」 苦虫を噛み殺した表情とはこういうことか、としかいいようがない顔で、低く、由良は云う。 そもそも、今回の旅の目的は、赤毛の魔女が匿っている人魚の国の姫君、アンジェリカに逢うことだったのだ。逢って祖国の無事を伝える為だったのだから。「もうすぐ逢えるわ。でも……、驚かないでね?」 快楽都市の一角とは思えないほどに、しん、と静まり返った清浄な教会に、ふたりは案内された。 ……そして、「紹介するわ。シスター・アンジェリカよ」 修道女すがたのアンジェリカを見た。「お久しぶりです。そのせつは、お世話になりまして」 しずしずと歩み寄ってきたアンジェリカは、長いスカートで腰から下を覆い隠している。その所作はなめらかで、一見しただけでは、とても陸に上がった人魚などを連想するものはいないだろう。「これは……?」 眉をひそめる由良に、赤毛の魔女は妖艶に笑う。「ごらんのとおりよ。『足を持たぬ、よるべない異国の姫をお預かりしております。どうか彼女が歩けますよう、ご尽力を』とアスラ卿にお願いしたら、ご自身のお身体を修復した、それは優れた職工をご紹介くださったの」「精密な歩行補助機器を装着した状態ということか」 由良は直裁に云う。フランチェスカは楽しげに目を細めた。「これはあくまでも比喩なのだけれども、《人魚姫》に、陸上でも、船のなかでも、不自由なく動ける《足》をお与えください、と、伝えただけなのよ?」「しかし……、アスラがそれを了承するとは」「ええ、アスラ卿はこう仰ったわ。『わしは無骨な刃金の職人しか知らぬ。その姫に与えられるものは《刃金の足》となるが、それで良いのか』と。それを呑んで、アンジェリカはここに、このすがたでいるのよ」「いったい、どんな技術で」「スカートをめくって見ればいいわ。一目瞭然よ」「そんなことができるか」「紳士なのね」 ねぇ、ユラ、と、発する魔女の声が、あやしくくぐもる。「この街の《人魚姫》たちは、力ある王子に、あるいは異世界へ連れていってくれる王子に依存して救いの手を待っているようでいて、実はそうでもないの」 ムジカが、静かに笑った。「王子と同衾したうえで寝首を掻き、その財産をすべて奪い去る《人魚》もいると聞いた」「誰のことかしら?」「――さあ?」 † † † ロトパレスでは、ひとつの殺人事件が起こっていた。 まるで、彼らを待っていたかのように。 現場は「プリメル・アモル」。赤毛の魔女が運営している娼館である。 被害者はドン・ディオン。二つ名を《強欲の藍》と云う海賊だ。 二つ名の由来は不明だが、相応に名の知れた海賊で、深緑の双眸が印象的な男振りといい、色ごとに長け、港ごとに情婦を持っているところといい、どこか斜に構えたところのあるたたずまいといい、今は亡き四天王のひとり、ドン・ハウザーを思わせる。 そして、容疑者は……、 まだまだ春をひさぐには未熟な肢体の、あどけない少女娼婦で―― 今宵、ドン・ディオンを最初の客として迎えることになった、エスメラルダという娘だった。 事件発生後、容疑者が拘束されるまでの経緯は、単純極まりないと云える。 まず、ドン・ディオンがエスメラルダを指名した。 ふたりは部屋に入り、扉が閉められ、 小一時間も経たぬうちに、男の絶叫が響き渡ったのだ。 店のものたちが駆けつけたときには、ドン・ディオンは胃の辺りを剣で切り裂かれて絶命していた。 すぐそばに、血まみれの凶器が転がっている。それは寝台に於いてさえ離さぬという、彼自身の愛剣だった。 エスメラルダは蒼白な顔で傷口に手を差し込み、何かを探しているようだった。 おまえが殺したのか、と口々に問われ、少女娼婦は何度も頷いた。 ――だが。 その理由を問われても、エスメラルダは何も答えなかった。 傷口から発見した「何か」を握りしめたまま、深緑いろの瞳を伏せ、黙秘を続けている。 † † †「フランチェスカさま。アスラ卿からの通達です。エスメラルダを《海賊法廷》に立たせるにあたり、動機の解明をしておくようにと」「……!?」 娼館内の応接室で、赤毛の魔女から事の次第を聞いていたムジカと由良は、羊皮紙を渡しながら取り次ぎをしている娘を見て驚いた。それは、修道女服から深紅のドレスに着替えたアンジェリカだったのだ。 数奇な運命に翻弄されたこの人魚姫は、今はまるで魔女付きの秘書のようではないか。 その視線に気づいた魔女は、喉の奥で可笑しそうに声を上げた。「この姫ぎみは、祖国が無事ならそれでいい、自分はこのまま冒険を続けたい、のですって」「……そうなのか?」 目を剥く由良に、アンジェリカがこくりと頷いた。「はい。可能であれば海賊船にも同乗したいと考えています。サロメッタのように三叉槍をふるう力はありませんが、剣の手ほどきをいただけるなら、わたしでもお役に立てるのではないかと」「まさしく《剣を持つ人魚》だね」 すでにムジカに動揺はない。あなたが望むならそれもいいね、と、やわらかに云う。「冒険の内容は、シスターや海賊だけかな? 探偵は?」「……手ほどきを、いただけるのでしたら」「頼もしいね。では、あなたは、どう考える?」 そして――素人探偵たちは、それぞれの推理を披露する。「エスメラルダが手を下したのはたしかだと思います。ですが、やはり動機が」 考え込むアンジェリカに、由良が、常識的な問いを発する。「客を取るのが嫌だった、ということはないのか?」「それはないわね。この店の名前にかけて」 赤毛の魔女が紅唇をゆるませる。 プリメル・アモル(初恋)などというしおらしい単語を娼館に付したのは、フランチェスカ自身であるという。「女にとって『最初の男』って忘れられないものだと思うのよ。だからこの店の娼婦は、最初の客を選ぶことができるの。ドン・ディオンが嫌なら、指名を断れば良かった。それだけのことよ」「では反対に、恨みを持っていて、良い機会だと思った?」「それもないわね。だってエスメラルダはドン・ディオンのファンだった。自室に肖像画を飾っていたくらいよ。最初の客は彼がいい、彼は港ごとに情婦を持ち、彼女らに子どもを生ませていると聞くけれど、私にもその幸運は訪れるかしら? とまで云ってたわ」「……彼女が死体の傷口から取り出し、ずっと握りしめている『何か』とはなんだ?」 ぽつりと、ムジカが云う。「《藍玉》よ。ドン・ディオンの愛剣の束に填められていた宝石。なぜそれがそんなところにあったのか、わからないけれど」「藍玉――アクアマリンか。《人魚石》とも云う」「人魚石?」「おれの世界の伝説では、『船乗りに恋をした人魚の流した涙』らしい」 † † † この事件は、ドン・ハウザーの最期を彷彿とさせる。 赤毛の魔女の様子をうががうムジカに、しかしフランチェスカは、婉然と微笑むばかりだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良久秀(cfvw5302)=========
ACT.1■鐘の音とシャッター音と 深夜のロトパレスに鳴り響く教会の鐘が、ひとりの海賊の死を告げる。 それは哀惜でも鎮魂でもなく、葬儀の合図ですらない。ドン・ディオンは、自身が如何なる死を遂げようと、墓も葬儀も涙もいらぬと常々言っていたからだ。海賊を名乗る者たちのほとんどがそうであるように。 だからそれは、ただの知らせなのだった。 「あのー、フランチェスカさまぁ? 今日、ここって営業やめちゃうんですか?」 「お客さんの喪に服すなんて辛気くさいこと、したくないんですけどお?」 「下手人はわかってるし、商売中とはいえ、男と女の間に起こったことなんて自己責任だと思うんですよねー」 「あたしたちは、仕事中は素っ裸でお客さんと密室にこもるわけで、いつだって命がけなんだよ。当然、お客さんにも、いつ敵娼(あいかた)に殺されるかわかんない覚悟は持っててもらわないと」 娼婦たちは鐘の音はおろか、事件の背景などにも興味はないようだ。さて今日のなりわいをどうしたものかと、次々にフランチェスカに聞きにくる。 「腹を切り裂かれた死体のある店で、一晩、初恋の夢を見たい酔狂なお客様がいらっしゃるなら丁重にお迎えすればいいわ」 フランチェスカはあっさりと、成り行きまかせの営業続行を伝えた。 店を閉めないのか、と、眉をひそめる由良に、どうせ開店休業になるでしょうけど、道徳より快楽を重んじるのがロトパレスの流儀よ、と、肩をすくめる。 ――Esmeralda……The Hunchback of Notre Dame. ムジカだけが目を閉じて、鐘の音色に耳を傾けていた。 鳴り止まぬ鐘は、パリに建つ旧い大聖堂を舞台とした物語と、エスメラルダの名を持つ娘を想起させたのだ。 「おれの知るエスメラルダは、冤罪の末に処刑された悲劇の娘だったが」 ゆっくりと目を開く。 魔女として処刑された美しいジプシーの娘との、奇妙な符合に触れる。 ……赤毛の魔女が、嗤った。 「冤罪だと思うの?」 「いや。彼女は自白しているのだろう? それで十分だ」 「……ねぇ、珊瑚の髪のお兄さん」 娼婦のひとりが身を屈め、ムジカの耳元に唇を寄せる。 「あんたのお仕事が終わったら、遊んでいかない?」 「ありがとう。既に楽しく遊ばせてもらっているよ。赤毛の美女とね」 「あらつれない。そりゃね、フランチェスカ様と張り合っても勝ち目はないけど」 にこやかにいなされた娼婦は、妖艶な流し目で軽く睨み、今度は由良にしなだれかかる。 「あんたはどうなの? しかめっ面の、黒髪のお兄さん」 「――頼みがある」 「ま、うれしい。何でも云って? あたしだけじゃ不満なら、もっと若い娘も呼ぶよ。……そうそう、さっき、あんたを最初の客にしたいって云ってた娘がいて……、コーラル(珊瑚)、コーラル!」 「なぁに、アゲート」 コーラルと呼ばれたそばかすの少女は、応接室に入るなり、由良を見て顔を赤らめる。 「……このひと、もしかして、あたしを指名してくれたの……? どうしよう、あたし、どうしよう……。うれしくて泣いちゃうかも」 「あたしとあんたをまとめて一晩買い占めてくれるってさ。良かったね」 「……うん! アゲートと一緒なら初めてでも安心だし……。いろいろ教えてね」 「勝手に話を進めないでもらおうか」 由良はしかめっ面のまま、アゲートとコーラルにカメラを向ける。 「あんたたちの写真を、撮らせて欲しい」 「……はん。わざわざロトパレスの娼館に来ておいて一線引くってか。そんな欲はないとでも?」 アゲートの表情が、険しく強ばった。 「いいかい、お兄さん。それは、ここでこうして生きているあたしたちを否定することなんだよ?」 「人並みに欲はある。あんたたちを否定もしない」 ただ……、この街や建物が露骨すぎて、少々、居心地が悪いだけだ。 うっそりと呟く由良に、アゲートが目を見開き、笑み崩れた。 「正直なひとだねぇ。……そういうことを直裁に云ってると世間の風当たりはさぞ厳しいだろう? 気をつけないと」 娼婦に妙な忠告をされながら、由良は無言でシャッターを切る。 徒花めいた娼婦たちの表情が、少しずつ少しずつ、素に戻っていく。 対象をありのままに写し撮る機械音は、意地と強がりを除去する効果があるようだ。 鐘の音が鳴り終わると同時に、アゲートとコーラルは、由良の聞き取りに応じることを了承したのだった。 ACT.2■藍玉と翠玉と 「……エスメラルダの出自と、娼婦になった理由? さてね、あんまり自分のことを話す娘じゃなかったからねえ。あんたは聞いてないかい、コーラル。年も近いし、それなりに打ち解けてただろ?」 「うーん、詳しいことは知らない。ここにいたら普通に暮らすよりも憧れのひとに逢える可能性が高い、みたいなことはいってたかな」 「ああ……、そういや、口数の少ないあの娘が、ドン・ディオンのこととなると、やたらムキになってたっけねぇ。『アゲートは何度かドン・ディオンに指名してもらったんでしょ? うらやましいな。どんなひとだった?』みたいに」 「アゲートはなんて答えたの?」 「別に、って。寝台のうえじゃあ、どんな男もさして変わりゃしないよ、ってさ」 「えー? あっさりしすぎ」 「エスメラルダも不満そうだったねぇ。ドン・ディオンに尋常じゃない思い入れがあったみたいだから」 ……けどねえ、娼婦の思い入れがお客さんの負担になっちゃ本末転倒だろ? 紅く染めた爪先で、アゲートは長い金髪を掻きあげる。 「普通の男で、普通の海賊だったよ。どうせ殺すなら、海のうえで死なせてやれば良かったのに」 † † † (……それにしても) 理解し難い事件だ、と、由良は思う。 何故、小娘が海賊の腹の中から宝石を取り出したのか。 ひととおりの聞き取り調査を終えた由良は、現場写真を撮りたいと申し出た。 フランチェスカとアンジェリカも立ち会うことになり、甘い香水の漂う廊下をムジカと進み―― はたと気づく。 「……おい」 「どうした?」 「……何で俺まで事件の調査をすることになってるんだ……?」 「……!」 ムジカは思わず、自身の喉を押さえる。 由良が唸った。 「笑うな」 「おれの首を絞めたがる暴霊が出ただけだ」 「ここはブルーインブルーだぞ」 笑いを堪えているムジカを見るのは不愉快だが、今更帰るわけにもいかない。 † † † 現場の状況を確認し、遺体の検分をした限りでは、血痕等に不自然さはない。 凶器の長さ、重さも、本来の持ち主を相手に少女が振り得るサイズであるようだ。物理的には自殺も不可能ではないだろうが、遺体の有様を見るに、それは考え難い。 そして遺体の表情は……、 決して、苦悶に彩られてはいないのだ。 「アクアマリンは、水夫の海の安全を祈って贈られる石だと聞く」 ムジカは確認する。凶器となった被害者自身の愛剣の束には、くだんのアクアマリンが嵌められていたとおぼしき空洞があることを。 「情婦のひとりから贈られたものを、彼はずっと大切にしていた」 もしそれが、エスメラルダの母だとしたら。 「問題は、何故男が石を呑み込み、それを、娘が切り裂いてまで奪わねばならなかったのかということになる。娘から護る為なら、呑み込む必要もなかったのだから」 「男が石を呑みこんだ……? だから娘は男の腹を切り裂き、石を取り出した?」 「殺害理由と手法に合理的な筋を通すなら、どう考えてもそうだと思うが」 「たしかに。……しかし」 ムジカの推理に、由良は眉間のしわをなぞる。 それは正しいのだろう。そのとおりなのだろう。 ……だが。 「フランチェスカ」 現場検証の様子を見ていた魔女を呼ぶ。 「珍しいわね、ご指名?」 「聞きたいことがある」 「どうぞ?」 「…………前か、後か」 「何が?」 「…………皆が駆けつけたときの、エスメラルダの格好がどうだったかでもかまわない」 「だから、何が?」 「犯行に及んだタイミングはいつだった?」 「だから、何の?」 「……、つまり」 口ごもり、ためらい、非常に云いにくそうに由良は問う。 「肌を合わせる前だったのか後だったのか」 「何故、そんなことを聞くの? 当事者にしかわからないことよ」 「そうだな」 由良は大きく息を吐いて、吸い込む。 「エスメラルダの自室を見せてほしい」 † † † そして。 自室に飾られたドン・ディオンの肖像と加害者の顔を見比べて、ふたりは気づく。 その相似に。 魔女に問い、アゲートに問い、コーラルに問い、仮説を補強する。 エスメラルダ(翠玉)の名は母親の命名であり、それは娘の瞳が父親譲りだったからであり―― 従って、ドン・ディオンはエスメラルダの父親で。 だから。 ――だから。 ACT.3■初恋のゆくえ 娼館の地下に設けられた狭い倉庫に、エスメラルダは隔離されていた。薄物一枚を羽織っただけの、素裸同然のすがただ。返り血さえ拭わずに、ただ、手の中のアクアマリンを見つめている。 倉庫を訪れた一同を確認しても、その表情はうつろなままだ。 「綺麗な藍玉だね」 だが、ムジカの声がけにはびくりと反応した。宝石を後ろ手に隠し、しきりに首を横に振る。 「……これは、わたしのなの。わたしのものなの」 「大丈夫、きみの藍を奪うつもりはないから」 「わたしの、藍……? そう思う?」 「ああ。きみは欲しただけなんだろう? 強欲な男の、藍と愛を」 † † † ――そうとも、あんたは私とあのひとの娘さ。この見事な翠玉の瞳が何よりの証拠だよ。 ことあるごとに母はそう云ったけれど、わたしはそうは思わなかった。 なぜなら母には他にも情人がいたし、誰の子かなんてわかりはしない……。 いえ、認めたくはなかった。 母が贈った藍玉を彼が大事にしていることも。 指名した時点では、ドン・ディオンは気づいてはいなかった。エスメラルダの可憐さが目に留まっただけだった。 だが部屋に入り、他愛のない身上話のなかで母親の名を明かしたとき、彼は豹変した。 ――おまえは俺の娘だ。寝るわけにはいかない。 ――そんなのわからないじゃない。それに、わたしはそれでもかまわない。 ――指名は取り消す。代わりに、そうだな、アゲートがいい。アゲートを呼べ。おまえはさっさと服を着てここから出て行け。 ――イヤよ、あなたはわたしを指名したの。撤回なんて許さない。 ――出て行け。おまえが俺の娘であろうとなかろうと、そんな重い女はまっぴらだ。 母親とは大違いだな、と、ドン・ディオンは愛剣から藍玉を外し、いとおしそうに見る。 ――あの女は見返りを求めず、ただ与えてくれた。好きな女にくれてやってもいいんだよ、と、云ってくれた。だから俺は、この藍玉を大切にしている。 ――ちょうだいよ。 ――何だと? ――その藍玉、わたしにちょうだい。母さんがあんたにあげたものなんでしょう? 誰にあげてもかまわないんでしょう? だったらわたしにくれてもいいじゃない。 ――おまえは欲しい欲しいと云うばかりだな。その強欲さこそ、俺譲りの気性だ。 おまえは俺の娘に違いない。 そんなに欲しいなら、俺を殺し、腹を裂いて持って行くがいい。 云うなり、ドン・ディオンは藍玉を呑み込み、そして。 † † † ――似た者親子であった、ということか。 報告を受けたアスラは、眉ひとつ動かさずにそう云ったらしい。 《海賊法廷》の判決は、早々に出ることだろう。 † † † 「この店のシステムが裏目に出たかしらね」 ことの顛末に、フランチェスカは考え込む。 「見直したほうがいいのかしら? でも、だからと云って最初のお客を選べないというのも」 「あなたは随分と、女性たちに慈悲深い」 それは今回だけでなく、幾つかの事件を通してムジカが感じたことだ。彼女はまるで、ブルーインブルーに暮らす全ての女達の為に暗躍しているようにも視える。 「買いかぶりよ。男に厳しいだけ」 赤毛の魔女は、紅唇を綻ばせた。 「それに、残酷だったときもあるでしょう? あの赤い小鳥に対しては」 ある旅人の少女については、計算外のことが多過ぎたとフランチェスカは述懐する。 「したたかで剛胆で、戦略に裏打ちされた冷徹な行動を取れる少女だと思っていて、だからこそ利用しようとしたのだけれど。……違っていたわ。繊細で傷つきやすくて、誰かの死を目の当たりにしただけで半狂乱になって自分を責め続けるような稚い娘だったらしいわね」 ……可哀想に。 「アスラ卿も彼女を案じているようなの。今、どこでどうしているのか知らないけれど、もし、会う機会があったら伝えるつもりよ」 もう逃げなくていいのよ。 もう自由になりなさい。 解けぬ呪いを負いながら、刃金の足を得て歩き始めた、人魚姫のように。 旅人たちはこの海から手を引くだろう、とだけ、ムジカは告げる。 「そんなふうに、女性に、……いや、悲劇を負った少女たちに優しいのは何故?」 「私にも、初心な小娘のころがあったのよ。好きな男に声ひとつ掛けられなくて、物陰から見ているだけで息が詰まりそうで、視線が合いでもしたら一晩中眠れもしなかったころが」 面白い冗談だ、と、由良はうそぶく。 ムジカは興味深げに、魔女の横顔を見た。 「あなたのプリメル・アモル(初恋)は、誰のものだったのかな」 「当ててごらんなさい」 「おそらく……、ひとりしかいない。この広い海の世界で、あなたを純情な少女にすることができた男など」 海賊王グランアズーロ。 その名を耳にしたとたん、フランチェスカの表情に動揺が走り――しかしすぐに、甘くほどける。 「当たりだね」 「……どうかしら」 「かつての四天王のひとりにして、グランアズーロを裏切ったドン・ハウザーは、情婦だった少女娼婦に殺された。その少女が大人になり、今、どこでどうしているのか、わかったような気がする」 「どこにいるの?」 「初恋の男の仇を打った彼女は、海賊として航海の真っ最中だ。剣と人魚の旗のもと」 ACT.4■無限の海洋・ブルーインブルー 剣を持つ人魚の旗が、潮風に翻る。 ロトパレスに停泊していたフランチェスカの旗艦は、船の出力や砲弾の威力を調整中だったのだが、その成果を確かめるため、外海へと試験航海をすることになったのだ。 「あなたも乗りなさい、アンジェリカ。客を取るわけでもないのに娼館に長居していると、身体がなまってしまうわ」 「はい……!」 アンジェリカは目を輝かせ、あつらえたばかりだというレイビアを持ち直す。 「きみの新しい生き方を讃えよう」 ムジカの祝福に、アンジェリカは頭を下げる。 「ありがとうございます」 「その旅路が善きひかりで満たされることを願う」 「はい。ムジカさんにも由良さんにも、本当にお世話になりました」 その佇まいは、すでに人外のものではない。 人間の美女に見えると、由良は思った。 シャッターが、切られる。 誇らしげに掲げられた旗に。 シャッターが、切られる。 炎のような髪と紅いマントを潮風になびかせる女海賊に。 シャッターが、切られる。 細腰にレイビアを携えた、凛々しい人魚姫に。 シャッターが、切られる。 祝砲代わりに、天に向かって詩銃を放つ、ムジカに。 シャッターが、切られる。 空と海のはざまに吸い込まれていく海賊船に。 † † † ムジカの手許には、剣を持つ人魚の意匠が刻印された、革張りの日記がある。 あなたのエンブレムの入ったものをひとつ頂きたい、以前の招待状は焼き捨ててしまったので、と請うたムジカに、フランチェスカが渡したものだ。 日記には何も記されていない。 これは魔女との契約の証として、秘密の匣に収めるつもりだった。 今ごろ、アンジェリカの元には、ターミナルで助力を得て創った、発光する藍玉の首飾りが届いているはずだ。 夜間となっても、ひかりがあるならば、彼女は石化しない。 彼女の呪いが少しでも和らぐように。 彼女の旅が安全であるように。 日記の表紙に、ムジカはキスを贈る。 ――Bon Voyage. 良き航海を。 その海は、あなたたちのものだから。 †† La Fin. (ありがとうございました)
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