ターミナル時間、午前十一時半過ぎ。 駅舎が一日のうちでもっとも賑わう時間帯のひとつである今、昼食前と言う事も相俟って、二階のトラベラーズカフェもまた、次々と席が埋まって行く。 そんな中、 「――では、始めからお願いします」 「はいなのです」 片隅の席で向かい合う二人組の会話が、ふと耳に入って来た。 ひとり――聴衆は食事を終えたばかりなのか、片付いていない食器類を脇に除けて、便箋に筆を構えている。隣の椅子に置かれた無闇に大きく分厚い書物から世界司書なのだと直ぐに気付く。 もうひとり――髪も肌も服も上から下まで真っ白の、未だあどけない少女の姿をした語り手は、目を見張るほど愛らしい面立ちをしていて表情も仕草もあどけなくて豊かなのに、何故だかその事に何の感慨も抱かない。 ターミナルにおいて彼女を知らない者は、恐らく居ない。一方で、この奇妙な違和感を伴う特徴と共に彼女の事を思い出す者は、決して多くはないだろう。 少女の側には小さなビンがちょこんと置かれていて、中には不規則な周波で輝く不思議な光を帯びた、奇妙な液体が入っていた。プリズム光を髣髴とさせる。 「依頼のあった大陸くらいある浮き島に着くと、とあるアニモフさんが困っていたのです」 なるほど――どうやら少女は仕事から戻ったばかりらしい。察するに、食事中だった世界司書を捕まえて報告書代わりに聞かせようとしたのではないか。 「どんなアニモフさんでしたか?」 「えっとね、白衣に聴診器を着けたうさぎアニモフさんなのです」 「兎の医師――失礼、『お医者さん』ですね」 「なのですー」 しかし馴れているのか、どこか子供をあやすように訊ね、聞き取り、先を促す司書に対し、彼女もまた実に子供らしい仕草でゆっくり思い出しながら、全身を用いて口頭のみより遥か何倍も分かり易く、熱心に語る。 だから、空腹の事など忘れて、つい聞き入ってしまった……。 ※ ※ ※ 「旅人さん、こんにちはなの」 「こんにちはなのです」 お辞儀を交わして顔を上げると、アニモフさんは両手をぱたぱたさせてこう言ったのです。 「この島の周りでは風邪がはやっているの」 「大変なのです! お医者さんも大忙しなのですー」 「頑張っているの。でも、なかなか直らないの……」 アニモフさんのつぶらな瞳がとても困っている風に見えたのです。ゼロは胸に棘が刺さったようなえもいわれぬ気持ちになったのです。実際に棘が刺さった経験は勿論ないのです。でもそんな事は些細な問題なのです。 モフトピアはゼロの考える安寧を体現している、理想郷とも言える素晴らしい世界なのです。それなのに風邪の流行がうさぎアニモフさん、引いてはアニモフさん達全員の安寧を脅かしているのです。本当に大変なのです。 だから、ゼロはお手伝いを申し出たのです。 全ての安寧を望むゼロが見過ごすわけにはいかないのです。 「風邪を直すにはどうすれば良いのです?」 「風邪シロップがあれば直ぐ治るけれど……物凄く美味しくてよく効く風邪シロップを作るためには色んな材料が必要になるの」 「詳しく教えて欲しいのです」 うさぎアニモフさんは暫く頭を左右に振って――その度に大きな耳がぽよんぽよんと揺れたのです――もじもじしながら、やっと思い出して教えてくれたのです。 材料は、“北の最果ての空のオーロラ”、“西に沈む夕日”、“東のアイスクリームの山脈の天辺”、“南のザラメの砂漠の一番お日様をたっぷり浴びたところ”それぞれ一さじ――更に“夜空の一番高い星”一個なのです。 ※ ※ ※ なかなか聞かせる内容である。それにしても―― 「途方もないお話ですね」 筆を走らせながら誰もが思うであろう至極もっともな感想を漏らす司書に、少女は暫し指を咥えて「えっとね」と考えていたが、やがて「それほどでもなかったのです」と本当に事も無げに言ってのけた。 その言葉は彼女を知る者にとり決して意外なものではない。しかし、如何にしてそれを成したのか――この点は非常に興味深いところだ。 何とはなしに司書の方を振り向くと、その背後にいつしか数名が立っている。そればかりか、いつしか二人のテーブルを囲むようにして、食事に来ていた筈の客が珍しい旅の話に耳を傾け始めている。 「続きをどうぞ」 そのつもりは無くとも、全ての聴衆の意を汲む形で、司書は先を促した。 ※ ※ ※ 「判ったのです。どーんとお任せなのです」 「ありがとうなの、旅人さん」 「えっとね、ゼロはゼロなのです」 「それじゃ、ゼロさん。これを持って行くといいの」 アニモフさんはポケットからゼロの目と同じ色に光るモノを取り出したのです。 傷ひとつない薬匙で、アニモフさんの小さな手に合わせられているからなのか、ゼロの手でも摘むのがやっとの、とっても小さな薬匙なのです。 このままだとほんの少ししかシロップを作れず、風邪を引いたアニモフさん皆に行き渡らないとゼロは考えたのです。 そこで、ゼロはアニモフさんから借りた銀の薬匙を持ったまま、とってもとっても大きくなったのです。 「す、ごぉーい」 ゼロはどれだけ大きくなってもお話に不自由しないので、細かいところも全部きちんと見えるのです。ゼロの足元でゼロを見上げながらびっくりしているうさぎアニモフさんのポケットの膨らみも、ばっちり把握しているのです。 「行ってくるのですー」 アニモフさんに手を振って、いざ出発! なのです。 一目で見渡す大陸は綺麗で賑やかで、不思議で。何ともいえない感じなのです。 薄紅色の綿菓子のようなふわふわの浮島では、あちこちでアニモフさんがくしゃみ鼻水鼻づまりに苦しんでいる様子が一望できたのです。 ぼやぼやしてはいられないのです。 その時、気がついたのです。 ゼロはうさぎアニモフさんからシロップを入れる器を受け取っていないのです。 きっとあのポケットの膨らみは小瓶か何かに違いないのです。 このままでは材料を揃えても持ち帰る事が難しいのです。 そこで、ゼロはまず浮島の誰もいない所を掬い、窪みを作ったのです。 掬った所はふんわりと甘い香りを漂わせて薬匙から浮かび上がり、新しい浮き島になったのです。 そして手を伸ばし、材料を掬って集めていったのです――。 ※ ※ ※ 「……待って。先程『出発』と、言いませんでしたか?」 「確かに言ったのです」 「では歩いたり?」 「していないのです。どうかしたのですー?」 少女の話が想像を超えていたのだろう、世界司書は小首を傾げる謎多き語り手の言を受け、暫し考え込んでいたが、程無く視線を便箋に戻した。 「…………いいえ。続けて下さい」 心成しか肩の力が少し抜けているようだ。 あるいは幾ら考えても仕方がないと思ったのか――他の聴衆の反応を確かめてみると、司書と同様の者も居れば、やけに神妙な面持ちの者、少女らしいとばかり微笑ましく聞いている者、目を丸くしている者など様々である。 そして、うっかりすると聞き流してしまいがちな圧倒されんばかりに巨大な事実のひとつひとつを仔細に渡り書き留めんと、最初の聴衆にして記録者はペン先を黒く濡らす。 「はいなのです」 彼女は髪と服をふわりとなびかせ、可愛らしい敬礼で応えた。 ※ ※ ※ うんと……どこまで話たのです? ああ、そうなのです、ゼロは手を伸ばして材料を掬い集めていったのです。 ひとすくいずつ零さないようにそうっと窪みに注いでいったのです。 北の果てのオーロラを掬うと、薬匙が竪琴の音色のように幻想的な光を帯びたのです。窪みに落とすと、きらきらと本当に音が鳴ったのです。 そのまま手を西に伸ばすと丁度日が沈む頃合だったので、薬匙の真ん中に乗せたのです。 窪みの中で赤く眩しい夕日がオーロラのカーテンに優しく巻かれて、ふたつの光が溶け合って不思議な輝きを発したのです。 じっくり見ていても飽きないのですがゼロは尊い使命を帯びているのです。 ここはぐっと堪えるのです。 振り向いて、ふんわりと光る匙の先で東のアイスクリーム山脈の天辺を掬うと、プディングみたいにほろっとした感触だったのです。きっと夕日の熱が残っていていたから少し溶けたのです。 夕日が溶けっぽい雪まみれになってとっても美味しそうなのです。このまま食べてしまいたいくらいなのです。でも今は我慢の子なのです。 今度は南なのです。 ザラメ砂漠のお日様はいつまでも動かないのです。その真下のザラメはすっかり日焼けしてほんのり赤味がかっているので、そこを掬ったのです。 たったそれだけで、薬匙に僅かに残っていたアイスクリームと熱いザラメが合わさって、さっと甘い香りの風が吹いたのです。窪みに入れると、もうすっかり大陸が甘くなってしまったのです。 ゼロの我慢も限界が近づいて来たのです。でもまだひと仕事残っているのです。 夕日が無くなった浮島は南以外とっぷりと暗くなったのです。 いつの間にか、ころころとした色とりどり大小様々なお星様がくるくると夜空を漂っているのです。高さは大体ゼロの鼻のあたりなのです。 一番高い星はゼロの視線と丁度同じ位置にあったので、ゼロは迷わず薬匙で掬ったのです。まるで量ったみたいにぴったりと薬匙に乗ったのです。 ところで、ゼロと一緒にとってもとっても大きくなった小さな銀の薬匙は、さっきの新しい浮島と同じ大きさなのです。 つまり匙で掬った窪みの容量と材料のひとつひとつも同じ分量になるのです。 という事は、その総てを窪みに注ぐと――溢れてしまうのです! ……と思ったのですが、流石はモフトピアなのです。 今まで材料を注ぐ度に、そして最後のお星様を落としても、その分窪みの底が凹んで綺麗に全部収まるだけの深さが確保されていたのです。 ゼロは安心して窪みに薬匙を差して、よく混ぜ合わせたのです。 ちょっと勢いがついて、かき混ぜる時に波が起きてしまったのです。 不思議に光り輝くシロップの波を浴びた大陸中のアニモフさん達はたちまち快方に向かい、ゼロの耳にずっと届いていたくしゃみはめでたく一掃されたのです。 「ありがとうなの。これでお医者さんごっこも終わりなの」 ゼロが元の大きさに戻ると、うさぎアニモフさんはもう白衣を脱いで聴診器も外していたのです。 賢明な判断なのです。風邪の脅威が去って安寧が取り戻された今、お医者さんは不要なのです。 いつの間にかゼロの周りには大陸中からアニモフさんが集まり、笑顔で一杯になったのです。 風邪が治ったアニモフさん達は口々に「ありがとうなの」「ありがとうモフ」などと言いながら、感謝の気持ちをスキンシップで表現してくれたのです。 ゼロはアニモフさん達から一杯もふもふされたのです。 ※ ※ ※ 「――そのシロップですが、大変な量になったのではありませんか?」 司書の問い掛けに、少女はこくりと頷いて次のように述べた。 「シロップを作るときゼロはとっても大きくなっていたので、完成したシロップは向こう岸が見えない湖になったのです」 見果てぬシロップの湖――聞いただけで甘ったるくなる話だ。 「それだけあればアニモフさん達が風邪に悩まされる事はなくなりますね。この先も」 しかし、記録者が幾分か声を和らげたのは、少女の意を汲んでの事なのだろう。 聞き入っていた者達も、誰もが優しい顔をしているように思えた。 まるで少女を囲んでいたアニモフ達――その図を再現するかのように。 「なのです」 少女もまた、小さな口をほころばせて、傍らの小瓶をついと前に差し出した。 つまり、 「これがそのシロップなのです。皆さんも風邪の時どうぞなのですー」 何度も話に出てきた、おそらくこの場に集った者達総てが一度は注目したであろう不思議な液体の正体を明かし、少女は話を掬んだ。 ほんの薬匙ひとすくいで如何なる風邪もたちまち治す、甘くて美味しいシロップ――報告の場に居合わせた私も、その後一度だけ世話になった事がある。 その味を語る野暮をあえておかすとするならば、こう言わせて頂こう。 『子供の頃思い描いた甘いお菓子』そのものだ、と。 今では医務室に常備され、底をつきかけると旅人がモフトピアのシロップ湖に派遣されている。 そして彼らは依頼される度、この話を聞かされるのだ。 シーアールシーゼロの名と共に――。
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