列車が轍を駆け抜ける音が響いて、振動が心地好く揺れる。 車窓の外に広がる景色が、ゆっくりと地上を離れていく。緑と青の広がる、自然豊かな大地を後に、列車は滑るように空を駆け出した。一瞬の浮遊感に包まれた後で、身体が振動に慣れる。 コンパートメントのボックス席に一人腰かけて、相沢優は小さく息を零した。安堵とも、嘆息ともつかぬ、胸の裡を吐き出すような呼気を。 最早地上の人の姿など判別付かないほどの高みへ来ても尚、彼の眼は列車の下を眺め続けている。 優の掌には、小さなパスホルダーが収まっている。彼の乗る列車と同じ臙脂色の、クラシックな装飾が為されたそれは、先程まで隣の席に座っていた友人の、存在の証だったものだ。 ふと、スピーカーから零れ落ちるノイズを聴いた。 これより《ディラックの空》に入ると、簡素な車掌のアナウンスが告げる。 視線を車窓に戻せば、青い空の向こうに消えていく車体が目に入った。螺旋の世界間を結ぶ列車は、折しも世界の境を突き抜けようとしている所だった。暫くして、優の目の前の景色も罅割れた夜空の色に変わる。 パスホルダーを握り締める。 たった今、世界は隔たれた。そんな実感を抱いて、優は静かに瞼を閉じた。 何度となく旅を共にした友人は、今し方還る場所を定めた。 この手の中に在るパスホルダーは、彼の旅の終わりを見届けた証だ。 異世界に流れ着いた彼を保護した縁から始まって、新たな旅路と故郷への切望とに戸惑うその隣に寄り添って何度となく相談に乗った。 異世界で、予期せぬ縁を得たと彼は困ったように、しかしどこか嬉しそうに優に告げた。自分には帰らなければならない故郷がある。しかしあの優しい人たちと別れる事も出来ない――と。心から悩み抜いているであろう友の顔は、しかし優の眼には目映いものに映った。 優は相談に乗りながら、訳知り顔をしてアドバイスを送るのは已めた。 ただ、その言葉を聞き届けるだけにした。 彼にも意志があって、彼が絆を築こうとしているひとたちにもまた意志があると優は知っている。人には心がある。心と心が触れ合って、生まれる旋律を聴く事が出来るのは当事者だけだ。――それは、よく知りもしない他人が首を突っ込む事ではないと思ったから。 悩みを吐き出して、幾分かすっきりしたような顔で彼はわらっていた。自分がどうしたいのか、見えてきたような気がすると。 それから、彼がどんな経験を経、最終的な決断を下したかは優には判らない。 しかし、久しぶりに優を異世界旅行へ誘った彼の頭上には、点滅する真理数が覗いていた。僅かに驚いたが、優はそれをすんなりと受け入れた。彼が何を思って自分を誘ったのかまで、見当がついていた。 ――これから僕はあの世界に帰属する、と。 はっきりと、晴れやかな顔で彼はわらった。 だから優もその表情に安堵を覚え、しっかりとした声で祝福を告げる事が出来たのだ。それが彼の決めた事であれば、後悔しないものであれば、それだけでよかった。 彼がその身を埋めると決めた街を案内してもらい、優はそこに確かに、彼の決意と絆の容を見て取った。ひと気の少ない、都から離れた場所にある小ぢんまりとした村は、暖かく新たな“家族”とその友人の来訪を受け容れた。 ふと、細やかな羽音が鼓膜を叩いて、内側へと向いていた優の意識は浮上した。 「――タイム」 客車の天井近くをぱたぱたと、忙しなく翼を動かして飛び回る青く丸い物体。ひどく見慣れた己のセクタンの名を小さく呼んで、此方に意識を向けさせる。 「おいで」 そっと指先を差し出せば、かれは覚束なく飛来してきて、小さな両足で器用に止まった。親指を啄むように突く嘴がくすぐったい。 己の愛する壱番世界を苛む存在の、断片のようなものでありながら、優にはその小さな生き物を憎む事は出来なかった。 かれもまた、優と共に永い旅を続けてきた“友人”のひとりなのだから。 駅舎へと見送りに来た友人から、彼のパスホルダーを受け取って、優は列車のタラップを登った。ついさっきまで彼の存在を繋ぎ止めていたはずのソレは、もう彼には必要のないものとなってしまった。未だにそれに繋がれる優と違い、彼は己の手で安住の地を選び取ったのだから。 列車の扉を挟んで、二人は向かい合う。何か言葉を掛けなければならないのに、優はここぞという所で悩んで視線を彷徨わせた。適した言葉が思い浮かばない。 降り積もる沈黙を吹き飛ばすように、友人は笑って、元気で、と云った。 別れの言葉に悩む優の心を見透かしたのだろうか。 今生の別れではない――自分からは会えずとも、優の側から会いに来ることはできる――事を理解し、敢えてさよならという言葉は使わなかった。 言葉は口にすれば真実に変わってしまう。ましてそれが、意図せず相手を傷つけ束縛する事もあるのだと、優自身も痛いほど知っている。 優もまた、その優しい言葉に心を決めた。 “さよなら”は心の裡に沈めて、また、と笑って手を振った。 二人の道は別たれた。彼と優の見上げる空さえも、繋がりはしない。 それでも、彼と共に旅した幾つもの記憶がある限り、二人の間の友情に変わりなどないのだろう。 彼の旅の終わりを見届ける事が出来てよかったと思う。 これから、彼は新しい絆を得て、時間の流れと共に成長していくのだろう。 自分はこうして、停滞を往く旅人の視点からそれを見守る事が出来ればいい。 胸に去来する感情を、降り積もる雪のように受け止めながら、優は彼の留まる場所である0世界の景色を見下ろしていた。 ◇ 0世界に還ってきて、友人のパスホルダーを世界図書館に返納してすぐに、優は踵を返して再び列車へと乗り込んだ。行先は此処から最も近い世界――壱番世界。彼の住む場所であり、彼の護りたいと願う場所だ。 駅舎を去れば、其処は冷ややかな大気を纏う都会の空の下。 季節の影響を一切持たない街に慣れてしまい、頭では判っていても温度の変化に身体が付いていかない。軽く鳥肌を立てて、慌てて手袋を嵌めた。吐き出す息が白い。 携帯電話を取り出して、連絡帳から目当ての名前を探し出す。未だ暗唱できるほどに慣れてはいないけれど、大切な相手へと繋がる数字を選び出し、親指で通話ボタンを押した。想いが電波に乗り、この東京の何処かへと居る相手に通じる。 スピーカーの向こうから数コールの呼び出し音が響いた後、ぶつり、とそれの途切れる音。一瞬の浮遊感。そして、環境音が耳に響く。ああ、繋がったのだと実感する。 小さく息を吸い、吐いた。 緊張に震えそうになる唇を叱咤して、口を開く。 「もしもし、奏(かなで)?」 数年ぶりに縁を繋ぎ直した幼馴染の名を紡ぐ。軽やかな風が吹き抜けるように、聲は受話器の向こう側と、澄んだ冬の大気に沁みていった。――想えば、彼の名を再び呼べるようになったのも、異世界での絆あってこそだった。 幼馴染は笑って、どうした、と問うた。その声に再会した直後のようなぎこちなさはない。ただそれだけの事実が、何よりも尊くて、何よりも愛しかった。 「いや……近くまで来たから、暇なら会わないかって、思ったんだ」 ロストナンバーとして生き続ける以上、彼や、彼の妹ともいずれ別れなければならないのだろう。世界から切り離され、時間の流れに置いていかれた旅人は、その世界に生きる者に寄り添い続ける事は出来ない。 ――それに、同じロストナンバーである友人たちとの別れも、これからやってくるのだ。ワールズエンド・ステーションの発見は、ツーリストたちにとっては心から願った故郷への道を開ける可能性に繋がる。先に別れた彼の友人もその話を聴いていないでもなかったのだろうが、彼は敢えて異世界への帰属を選んだのだろう。――そうして、幾つも提示された可能性の中から、ツーリストは旅の終点(ターミナル)を決めていく。未だ帰属の予定もない己は、その手伝いをし、見送る事しか出来ない。 だが、それを恐れて彼らとの付き合いを避ける事も、今の優はしたくなかった。畏れていては何も始まらない。何も進まない。今手の中に在る絆さえも喪ってしまう。それを強く知っているから。 「え? いいじゃないか、別に。それより楓(かえで)は元気にしてるか? ……そうか、よかった」 携帯電話を片手に、弾む会話に耳を寄せる。 奏と共に、彼の妹である幼馴染の名前を自然と口に出せるようになったことが、とても得難いもののように感じ、優は祈るように瞼を閉じた。 今までに得た沢山の出会いが、優の支えとなった。 此れから来るであろう沢山の別れは、優を強くするだろう。 ちらちらと舞い始めた粉雪が、東の空に昇る陽に照らされて光を跳ね返す。冬の朝の澄んだ景色を視界に宿しながら、靴底で霜を踏み締める。目に映る光景、これから出会うだろう経験のすべてが、今の彼には愛おしい。それらは紛れもなく、ロストナンバーとしての旅で得た価値観だ。 「――じゃあ、また、後で」 通話を切り、そっと携帯電話をポケットに戻す。 幼馴染との会話を鼓膜に再生しながら、朝方の、増え始める雑踏の中に身を任せた。 足取りが軽くなっていく。冬の風に乗るように、さくさくと霜を崩しながら、優は晴れやかな貌で空を仰いだ。粉雪が、光の粒子のように舞い踊る。まるで彼に降り注ぐ数多の未来のように。 ――だから、そう。 今、此処にある縁を大切にしようと思う。いずれ別れが来ると知っているからこそ。 <了>
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