イラスト/御子柴晶(ixem2224)
とあるチェンバーの朝、六時半。 「起きろー、お寝坊ー!! ……あれ?」 カルヴィネン家の目覚まし時計は、朝の鍛錬を終えて我が家に戻ったおなかぺこぺこアルウィンの元気な呼び声。……のはずなのだが、今朝はいつもと少し、様子が違う。 「イェンス、おはよう! 今日はおねぼうさんじゃないな!」 「ああ、おはよう。業塵はどうかな、起こしてきてくれるかい」 「おう!」 アルウィンが起こしにくる少し前にぱちりと目を覚ましていたイェンスは既に、寝間着から淡いグレーのタートルネックニットに着替えていた。今日は大事な約束がある日だから、だろうか。 「ゴウジン、起きろー!!」 「ぬ、起きておるわい」 「今日はみんなえらいやつだなー、隊長の手をわずわずしない! ほめてつかわす」 アルウィンはどうやら、『手を煩わせない』と言いたかったらしい。 いつもの光景。 いつものにぎやかな喧騒。 今朝も、いい天気だ。 これから出かける場所は、どうだろうか。 ◆ 既に起きてはいたけれど、まだ着替えていなかった業塵が身支度をもそもそ整え始めるのを見届けたアルウィンがぱたぱたとダイニングに二番乗り。いつもはイェンスとアルウィンと業塵、三人分のカトラリーが並ぶテーブルに、もう一人分が足されているのに気づいたアルウィンはぐぬぬとちょっぴり渋い顔。 「イェンス……あいつも来るのか?」 「そうだよ、今日は大事な日だからね」 「のぞむところだ! きょうこそけっちゃくだ」 四人分のスクランブルエッグを作るべく、ボウルに卵を五個割り入れるイェンスはアルウィンに笑いかける。肚を決めたアルウィンはふん! と鼻息も荒く、朝食のメニューもそっちのけで玄関ホールに仁王立ち。ここはアルウィンの縄張りだぞという気概でいっぱいだ。そしてそれを待っていてくれたかのように、カルヴィネン家のチャイムが鳴る。 「おはようございます、お迎えに上がりました」 「よくきたな! ここであったがひゃくねんめだ!」 「……おや、ランズウィック卿ではありませんか。随分とお小さくていらっしゃるから気づきませんでしたよ」 「なんだとー!」 はははと涼しい笑いでアルウィンの横をすり抜けるのはヴィンセント、まずはアルウィンに黒星ひとつ。 「やあおはよう、早くに悪いね」 「仕事ですから。……あの、私の分はお構いなくと申し上げた筈ですが」 「まあそう言わず、座ってくれ。食事は大勢のほうが楽しいに決まってる」 勝手知ったるといった具合でダイニングへ足を踏み入れたヴィンセントは、先ほどのアルウィンに同じく四人分のカトラリーに気づいて半ば呆れたような小さい溜息。だがそれも作家とエージェント、雇い主と雇われ者の様式美のようなもの、内心ではイェンスの作る朝食を楽しみにしていたに違いない。 「ではお言葉に甘えて。ところで」 「ああ、業塵なら着替えているんじゃないかな? ちょっと様子を見てくれるかい」 「承知いたしました」 きょろ、と辺りを見回したヴィンセントの視線の意味、この場にいるはずの業塵の所在を確かめようとした気遣いを察して、イェンスはコンロに向かったまますまなそうにヴィンセントへと頼む。座ってくれと言った後で悪いねと眉を下げられては、無碍に出来るヴィセントではない。上着と鞄をリビングのコートハンガーに掛け、再びダイニングのドアノブに手をかける。 ◆ 「おはようございます」 「ほお、おまえもか」 控えめなノックの音はアルウィンではありえない、イェンスは気安さからすぐに声を掛ける。こんな他人行儀な訪ね方はヴィンセントのものだと、業塵にはすぐに分かる。袴の紐を十文字に結び、さてダイニングに向かうかと襟元を整えたところで聞こえたノックの音に、業塵はヴィンセントがイェンスのエージェントたる所以を感じ興味深げに自室のドアを開けてやった。 「朝食の用意が整いつつありますよ」 「知っておるわ」 相変わらず、業塵の表情は感情の起伏がよく読み取れない。それについての苦手意識が無いでもないヴィンセントだったが、このごろはその中にもちいさな変化を感じることが増えたような気がするらしい。業塵がちらりと向けるダイニングへの視線は、何かを期待しているあらわれ。 「今朝は干し葡萄のヨーグルトが出るようですね」 「それも知っておる」 どうやら業塵は昨夜からそれを……プレーンヨーグルトに干し葡萄を入れて一晩冷蔵庫で寝かせておいたデザートを心待ちにしていたらしい。知り合った当初を思えばだいぶ分かりやすくなったものだとヴィンセントは心のなかで薄く笑う。それは業塵がこころをあらわにするようになったからなのか、ヴィンセントが業塵を少なからず理解し始めたからだろうか。 答えはきっと、両方なのだ。 「ヴィンセント! もう出来るよ、業塵も早く来るといい」 「すぐに参ります」 「御意」 イェンスのほがらかな呼び声が二人のこころをくるりと振り向かせる。 さぁ、みんなで朝ごはんを食べよう。 ◆ 今朝のメニューは近所のパン屋で買ってきた焼きたてバゲット、バターたっぷりのスクランブルエッグに厚切りベーコンのソテー、キャベツとキュウリのセサミドレッシングサラダ、オニオンコンソメスープにしぼりたてのグレープフルーツジュース。デザートにはストレートの紅茶と、業塵が楽しみにしていた干し葡萄ヨーグルトも。スープの湯気がダイニングテーブルで四人を早く早くと誘っている。 「ヴィンセント、おそいぞ! 騎士の子分たるもの、時間はまもるんだ!」 「私は時間通りにこちらを訪ねたつもりですが?」 「ゴウジン、きょういくがなってないぞー」 お皿を運ぶのが上手になったアルウィンは、イェンスからスープボウルを運ぶのを任されている。以前はバランスを崩してこぼしてしまったり、一度にたくさん運ぼうとしてやけどをしてしまったりと失敗も多かったが、今はちゃんと自分の手の大きさを知っているからか、ひとつずつ丁寧に運んでいた。 のんびり着替えていた業塵はアルウィン隊長の叱責もどこ吹く風、ちゃっかり席について朝食のサーブを待っているが、アルウィンが配膳をしやすいようにカトラリーの位置をそっとずらしてダイニングテーブルに空きスペースを作ってやってもいる。 「やあ、お待たせ。それじゃあ食べよう」 「おう! いただきます!」 四人がそれぞれのやりかたで食卓に感謝を捧げ、朝食は始まる。アルウィンが朝の鍛錬での出来事を思いついた順に喋り、イェンスがそれに優しく頷いて。ヴィンセントは正しい客人の見本のようにスマートにバゲットをちぎり、イェンスが自作したであろう苺のジャムやセサミドレッシングについてを控えめに褒めてみせる。その横では業塵が苺のジャムと蜂蜜をバゲットにこってりと塗りたくってにんまり笑う。 この食卓を囲むのは……家族、と表現するにはすこしいびつで、友人、と称するには首を傾げてしまう四人。だが、ここには穏やかでやさしい笑顔が揃い、美味しい朝食が載っている。交わし合う視線、誰かがちょっと離れた胡椒のミルを見やるのに気づいて、近くの誰かがさっとそれを取り手渡すささやかなやりとり。誰かが誰かと暮らすのに本当に必要なことは、たったそれだけなのだ。 白い大皿に盛られたスクランブルエッグとベーコン、そしてサラダをぺろりと平らげたアルウィンが紅茶に砂糖を入れようと、ダイニングテーブルの端に置かれたシュガーポットに手を伸ばした時。リビングの窓際、ソファに腰掛けてこちらを優しく見守る視線。アルウィンが『おばちゃん』と呼び慕う人のそれ。『おばちゃん』のことはイェンスには内緒、だけど子分そのニのヴィンセントにはこっそり打ち明けている。隣に座るヴィンセントの脇腹をちょんちょんとつつき、『あっちを見ろ』とこっそり目配せ。アルウィンから聞いてはいたもののそれが見えないヴィンセントは不思議そうに目を眇めるが、アルウィンの視線の先にほんとうにあのひとが居るのなら。そんな淡い想いが、薄くやわい笑みとともにヴィンセントの頭をすこし、垂れさせる。 彼女の前ではうまく笑えているかいつも心配だったけれど、今はもう大丈夫。そんな風に自然と下がった眉は、まるでイェンスがいつもアルウィンや業塵に見せる困ったような笑顔のそれによく似ていた。 ◆ ごちそうさまの後はみんなで後片付け。アルウィンは食器を一種類ずつまとめて手際よくシンクに運び、洗いやすいよう水につけるのも忘れない。テーブルを拭くのは業塵の役目で、皿洗いはイェンスにお任せ。いつもこのダイニングにいるわけではないヴィンセントはやや手持ち無沙汰だったが、エプロンをかけようとするイェンスに封筒を差し出して咳払いをひとつ。 「ミスタ、先日のインタビュー記事の第一稿が上がっておりましたのでご確認を。皿洗いは私が」 「ああ、じゃあお願いしようかな。アルウィン、手伝ってあげて」 「おう!」 仕事は必ず自室の机でと決めているイェンスがダイニングを出て扉を閉めるのを目で確かめ、ヴィンセントはちいさな踏み台を自分の隣にそっと用意する。 「ではランズウィック卿、シンクに手の届く私は皿洗いに専念いたしますので」 この家の食器棚事情に明るくないからと素直に言えば済むものを、ヴィンセントはアルウィンには何かひとこと言わずにおれないらしい。アルウィンもどこで覚えたのかあっかんべーとやって見せるが、素直に踏み台に乗ってヴィンセントが洗い終えた皿を水切り籠に入れるのを待っている。 しばしの間、水音と食器のぶつかる軽い音がキッチンを満たした。 「ところで、ランズウィック卿」 「なんだ、おばちゃんのことか?」 「ご明察ですね。彼女は今どちらに?」 ティースプーンを拭きながら、アルウィンはリビングのソファに向かってにこっと笑顔を見せる。 「ソファに座ってるぞ、にこにこしてる」 「……そうですか」 ヴィンセントはこの事を話したいがために、特に急ぎでもない仕事をイェンスに見繕ったのだろう。相変わらず彼女の姿が見えなくはあったが、アルウィンに倣って目を細めるヴィンセントの様からは、素直な思慕がうかがえる。だが、もうあの時のような生々しさや後ろめたい後悔は無い。あるのは憧憬と、尊敬と、ちいさな思い出を慈しむ優しい眼差し。 「おばちゃん、もう泣いてないんだ」 アルウィンの笑顔に嘘は無い。それが意味するところを自分が見届けられないのは純粋に残念ではあったが、同じようにイェンスもまたそれを見ることが出来ないことをヴィンセントは知っている。 彼女が、笑っている。今のヴィンセントにはそれで充分だった。 「(私の永遠の王妃グィネヴィア)」 だがヴィンセントを動かすのはもう、彼女との誓いだけではない。 ◆ 笑う、ということは、業塵にとって実に興味深い人間の所作であった。 快い感情をあらわすためにだけではない、例えば無用な情けをかけられぬようにとする気丈さからも人は笑う。思えば、イェンスはどちらかといえば後者の意味で笑顔を見せることがままあった。それはもちろんイェンスの人柄によるものなのだろうが、もっとどす黒い、いや赤い、イェンスの中に渦巻く名状しがたい激情を隠さんとするが為の顔なのだろうことを、業塵はどことなく感じ取っていた。そのような感情ならばこの身のうちに余るほど飼い慣らしている、馴染みのものだ。だが何故それを隠そうと笑うのか、業塵にはそれがいまひとつ分かりかねていた。 だが、イェンスと暮らすうち、たとえばアルウィンの素直な笑顔に触れるたび、業塵のいびつな疑問はほんの少しずつ、ゆっくりと氷解していった。今もぼんやりと、漠然としか感じられない気持ちだが、不快なものではないことは分かる。かつて鞍沢の国に在った頃、守久の身体で童たちと遊んだあの記憶。それを懐かしむこころと同じところから、この気持ちが湧き出るのを感じるからだ。 朝食に出た苺ジャムの残りをひとり占めしながら、業塵はヴィンセントとアルウィンがふたりで食器を片付けるところをぼんやりと眺める。イェンスを守るためならばと業塵に命まで差し出さんと言ってのけたヴィンセントの強い瞳、そこに宿っていた頑なな光はほんの少しやわらかく、優しいものになってアルウィンを見守っている。 「おちびさん、そのグラスは私が仕舞って差し上げても構いませんが?」 「ちびじゃない! それにかたづけるのはアルウィンのしごとなんだー!!」 ……優しいはずなのだ、言葉尻ではそうでなくとも。 うらはらな言葉と笑顔につられるように、自然と業塵の口角も上がる。 「ゴウジン、おなかいたいのか?」 「失敬な」 「?」 だがどうやらアルウィンからしてみれば、ちょっと気持ち悪い笑顔だったらしい。 ◆ 「ミスタ、よろしいですか?」 「ああ、今行くよ」 食器もフライパンもスープパンも洗い終えて、エプロンを外しきちんとジャケットを着込んだヴィンセントがイェンスの部屋のドアを控えめにノックする。先立ってヴィンセントから確認を求められていたインタビュー記事の原稿を封筒に仕舞い直し、イェンスは軽く伸びをして上着と帽子を手にとった。 「失礼ですが、タイは?」 「駄目かな? デートならもう少しめかし込んで行くけどね」 まるでいつも出版社へ打ち合わせに行くのと同じ、薄手のニットにコーデュロイのカジュアルなジャケット、千鳥格子のスラックスに中折れ帽といったイェンスの服装を見咎めるヴィンセント。今日は特別な日だからと聞いていたせいだろう。だがイェンスは軽く笑って業塵とアルウィンを見やる。 「家族で出かけるならこれくらいだろう?」 「失礼いたしました」 イェンスの意図するところを察したヴィンセントが軽く頭を下げる。 「おー、イェンスもしたくできた! もう行く? でかける?」 「ああ、お待たせ。みんなもいいかな」 イェンスに買ってもらったパーカーのジッパーを上げ、鏡の前で騎士の証である兜をきちんとかぶり直すアルウィンはイェンスにまとわりついて早く早くとそわそわ急かす。とっくに支度の出来ている業塵もダイニングの椅子に座りぼんやりと出立の合図を待っている。ソファに座ろうとしないのは、業塵にも『おばちゃん』の姿が見えているからだろうか? 「イェンス、どこ行くんだ?」 「まだ言ってなかったね。今日は僕の妻のお墓参りに行くんだよ」 「!」 おばちゃんの? と聞き返しそうになったのをぐっとこらえ、アルウィンはぱあっと笑顔を咲かせこくこくと頷く。口ごもったことを誤魔化すようにソファに目をやれば、穏やかな笑顔で座っていた彼女がすっと立ち上がり、同じ目線で四人をあたたかく見守っていた。 「およめさんきっとよろこぶぞ! はやく行こう!」 「そうだね、行こうか」 イェンスが、この四人で、家族で、妻の墓を訪ねようと思い立ったのは、いつのことだっただろう。アルウィンを、業塵を、そしてヴィンセントを家族として思い、ターミナルで過ごした日々。それを、妻に見せたかった。妻とは出来なかったこと、ただお互いの幸せを願うこと、ひとりの人間として対等でいること、変化をおそれずに言葉と心を捧げること、それを見せたかった。 イェンスがやっとそれを出来たこと、相変わらずどんくさい人ねとイェンスの妻は笑うだろうか。それとも、何故自分が生きているうちにそれをしてくれなかったのと嘆くだろうか。それは誰にも分からない。 だが、四人は生き続ける。そして、イェンスは彼女を思い、想い続ける。 それは決して寂しいことではないのだ。 __わたしも少しは大人になったのかしら そんな呟きが、どこかから聞こえたような気がして、イェンスははっとソファに目をやった。 だが、そこには誰も居ない。 「ミスタ、時間です」 「うん」 革靴の紐を結び直し、イェンスは中折れ帽を少し目深にかぶる。昨日のうちに買っておいて靴箱の上の花瓶に活けておいたシュシュの花束をそっと持ち上げ新聞紙にくるむと、花びらが揺れて甘やかな香りが玄関ホールを満たした。 「それじゃ、行ってきます」 「いってきまーす!」 玄関を出てゆく四人を見送る、見えない彼女の姿。 __また会いましょう 笑いながら手を振る彼女に振り向き、アルウィンが小さく手を振り返した。 彼女は初めて、心穏やかにイェンスの背中を見送ることが出来たのかもしれない。 少しずつ、少しずつ。うっすらと透け、消えてゆく彼女の姿を見届けて。 アルウィンはいつもの言いつけ通り、玄関の鍵を閉めた。 __行ってらっしゃい、気をつけてね 今日は四人の旅にひとつ、道程石を置いた日。 四人が確かに家族として在ったことを振り返るとき、きっと思い出すであろうたいせつな記憶。 旅はまだ、続く。
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