”覚えてるか? この間、合コンで会った劉だ。 どうしてるかと思っ――” そこまで書いてガシガシと文字を消す。 「オレらしくねぇ……」 咥えたタバコを無意識に噛んでしまっていた。 ヴァージニア・劉はトラベラーズノートを無造作に閉じ、苛立ちを紛らわすかのように投げた。ノートは薄い壁にぶつかり、そのまま床へと落ちる。 「……」 じっと、当然のごとく身動きひとつしないノートを見つめる。ダークブラウンの瞳が揺れ、脳裏に走ったのはあの日の彼女の姿。 「くそっ、女を誘う文句なんて知るかっ!」 口で言いつつもシーツが皺くちゃになったベッドの上から立ち上がり、ノートを拾いに行く。これで何度目だろうか。 何度書いても上手くいかず、消してはノートを投げる。それでもやっぱりまた書き始めようとするのは、彼女に会いたい、もっと知りたいと思うから。 この気持ちが何なのかはわからない。恋愛感情とはまた違ったものだと思う。相手は劉の苦手な女性であるのに、その『女性』ということを差し引いても、興味が上回ったのだ。彼女とならば、もっと話をしてみたい、そう思ったのだが……誘い文句が決まらない。そもそも一人で女性に誘いをかけることなど、未だかつてなかったにも等しいのだ。男友達を誘うようにする訳にはいかないということはわかっているが、ならどうすればいいのか、それがわからない。 「ああ……くそっ!」 髪をワシャワシャと掻いて咥えていたタバコを灰皿の吸い殻の中でもみ消す。そしてノートともう一度向かい合うのだった。 * ”こんにちは、劉さん。 先日の合コンでご一緒しました司馬 ユキノです。覚えていますか? 私は今度ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニーの仕事で……” 「って『仕事のついでに誘いました』感丸出しじゃ失礼だよね……」 机にトラベラーズノートを広げていたユキノは書きかけていた文章を削除して、ため息をつく。足下で遊んでいたドッグフォームセクタンのカリンが不思議そうに見上げてくるのに「なんでもないよ」と笑顔で返し、またノートとにらめっこ。この状態でどれくらいの時間が過ぎただろうか。 別にラブレターを書いているわけでも難しい企画書を書いているわけでもない。一度、一緒に時を過ごしてもう一度会ってみたいと思った相手へのメールだ。恋愛感情があるわけではない。そもそも一度会っただけ、数時間ともに過ごしただけでは恋愛感情を持つのはなかなか難しい(もちろん例外もあるとは認識しているけれど) 恋愛とかそういうのは別として、男女の垣根なく、もう少し相手のことを知りたいと思っただけだ。 けれどもこういう時はどうやって誘ったらいいのだろうか? どこに誘うのがいいのだろうか? こちらから誘って、相手の気を悪くさせないだろうか? 様々な思いがぐるぐると頭の中を回って……パタリ、ユキノは机の上に突っ伏した。 *-*-* 「劉さん!」 インヤンガイの『駅』を降りたユキノは指定された通りの道順で進み、視界に見覚えのある人物をおさめてほっと息をついた。鹿のような龍のような姿形をし、角を生やした銅像の土台に寄りかかるようにして、彼は気だるげに立っていた。 「ごめんなさい、お待たせしてしまいましたか?」 「い、いや、いま来たトコだ」 デートの待ち合わせの定番のようなこのセリフも、二人は別に意識して発したものではない。 ユキノはちらりと劉の足元に視線を移したが、そこにあったものを見なかったことにした。 (なんでわざわざ違うロストレイルに乗って、現地集合にしたんだろう?) それは現地で待ち合わせと聞いた時からの疑問だったが、ユキノは口には出さない。同じロストレイルに乗って一緒に来れば、劉の足下に煙草の吸殻が散らばることもなかったのに、と思いながら。 (とりあえず、現地集合にしたのは正解だったな。女と電車の中でサシで向かい合って目的地まで……なんて耐えられねぇ気がするもんな) まあ、劉の女嫌いの女性恐怖症が理由の現地集合だったのだが、ユキノはそこまで気にしている様子はなさそうだ。彼女は景色が珍しいのか、きょろきょろと辺りを眺めている。 「知ってる店でメシでも食おうと思うんだが、ちょっと距離がある。歩けるか?」 「はいっ」 劉がクイッと親指で示すと、ユキノは明るい笑顔で頷いた。その笑顔が眩しくて、劉は思わず目をそらす。緊張で嫌な汗が背を伝う。妙な動悸で胸が痛い。結構無理してみたが、限界は近いかもしれない。 「……行くか」 ユキノの笑顔を視界に収めぬようにしながら、劉は歩き始める。ユキノが早足でついてくる気配を感じる。 インヤンガイははどこの街区でも人が住み、店が出ているあたりはごちゃごちゃしていて、人もまた多いように感じる。ふと劉が振り返れば、ユキノはそれらを物珍しげに眺めながら歩いていた。時折、人にぶつかっては謝っている。 (この街区にはツアーの目玉となるようなものはあるかな?) ついつい、ツアーの行き先として相応しいかと目を光らせてしまう。ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニーの一員としての自覚がそうさせているのだろう。 (ああ、あそこは何を売っているのかな? あの人だかりと楽しそうな音楽は大道芸? 屋台の食べ物も美味しそう) きっちり調査したいな、ウズウズしてしまう。調査を疎かにしては、ツアーとして他の人に紹介などできないのだ。 なんて考えながら、しかもきょろきょろと、全てを見ようとでもするように意識をあっちこっちにやりながら歩いているものだから、立ち止まっている人や歩いてくる人にぶつかってばかりで。 「ご、ごめんなさい!」 そのたびに頭を下げて謝ってはいるけれど。 「あ~……クソッ」 後ろをついてくる気配がだいぶ遠くなったことに気がついて振り返った劉は、ガシガシと頭を掻いた。ガキじゃないんだから、ついて来いといえばついてくると思っていたのだが。仕方がない、ユキノにとってはこの街区のすべてが珍しい光景なのだろう。 (どうする? このままだとはぐれる方が早ぇな) だが女嫌いの女性恐怖症である劉に、女性のスマートなエスコート方法など思い浮かぶはずはなく。辛うじて思いついた案もあることはあるのだが……。 「あ゛ぁ゛っ」 背に腹は代えられない。だが最後まで心が少し抵抗を見せる。手が震えているのが分かる。 「おい、はぐれるぞ!」 ぐいっ。 「!」 大股でユキノに近づいた劉は、その手を彼女の腕に伸ばした。そして、引く。最後の最後に心の抵抗に負けて、手をとって引くことはできなかった。 「あ、私……ごめんなさいっ」 だが腕を引かれたユキノははっと我に返ったようで、ぺこり、頭を下げてきた。さらりと流れる黒髪が綺麗だと、不意打ちのように心が揺れる。 (そうだよね、劉さんと二人でいるのに違うこと考えているなんて失礼だよね) ちゃんと彼との時間を楽しもう、改めてそう思い直し、劉をしっかりと見つめた。 「っ……分かったならいい。行くぞ」 「はいっ!」 掴まれていた腕がパッと離されたことに少しだけ寂しさを覚える。けれども今度はユキノが劉を離さない。離れない。 *-*-* 劉に連れられてユキノがやってきたのは、街区のだいぶ奥にある建物だった。彫り模様のたくさん入った極彩色の柱、金銀の様々な装飾が施された壁や調度品。さすがインヤンガイということもあって、昔テレビで見た中華街にある格式高いお店のような雰囲気だ。この近辺も最初に降り立ったあたりとはだいぶ雰囲気が違い、行き交う人々もどことなく上品な格好をしている。 「入るぞ」 「え、でも、ここっ……」 高いんじゃ……言いかけて言葉を飲み込む。折角案内してくれたというのに値段の話を出すなんて失礼だ。堂々と入っていく(ようにユキノには見える)劉の背中を追いかける。 宮廷音楽風の華やかな曲がボリュームを抑えて流されている。通された席は個室ではないものの、仕切りで隣の席とは隔てられている。 渡されたメニューを見れば、高級中華料理店という風なラインナップだ。だが、どれを頼んだらいいのか迷ってしまう。大衆中華料理店と比べて量はどうなんだろう、なんて考え始めるときりがない。 「このおすすめは粥らしい。女に人気なんだとよ」 「お粥……!」 劉がこの店を紹介してくれた知人の言葉を思い出して告げると、ユキノはさっと再びメニューに視線を落とした。確かに粥のラインナップが豊富だ。日本の粥とは違って中華粥は味付けもしっかりしていて具材も豊富。かつヘルシー。ユキノも惹かれる。 「私、この白身魚と帆立のお粥にします。ああ、でも他の料理も美味しそうで……」 「粥だけじゃ腹一杯になんねぇだろ? 他にも点心とか皿盛りの料理とか頼んで分けりゃいいんじゃねぇの? 一人じゃねぇんだからさ」 「! そうですね。二人で分ければ、色々なものが食べられてお得ですね」 次々と運ばれてくる料理にユキノのテンションも上がる。さっと取り皿に取り分けた料理を手渡される劉。それを慣れない手つきで受け取って、少しだけ思う。 (こういうのも悪くないかもしれねぇな) 温かい料理に美味しい飲み物。適度な雑音に囲まれてはいるが、仕切りによってプライバシーはある程度守られている。状況が二人を打ち解けあわせるのに一役買ってくれていた。 「……ってなわけでオレは見ての通り、ろくな暮らししてこなかった。親にも恵まれなかったしな」 何気ない会話をしている間にも、ユキノは劉の皿に食べ物が無くなると何も言わずに自然に料理を盛り、グラスの中身が減るとピッチャーから注いだり店員に注文してくれていた。決して押し付けがましくないその気配りに、劉の心も動く。 「で、あんたの故郷はどんなとこだ」 「え? 私の故郷ですか?」 グラスの上部を鷲掴みにして揺らしながら劉は問う。一応こちらも気を使って、タバコは一時封印していた。問われたユキノは小籠包を載せた小皿を手に、劉を見る。 「私の故郷は自然がいっぱいで、空気や水が美味しくて、住んでる人の心が温かいとても素敵な所です」 一瞬の迷いも淀みもなく導き出された言葉。きっと彼女は故郷が大好きで、誇りを持っているのだろう。 「よかったら今度来てくださいね」 そう微笑む彼女が少し、羨ましい。ないものねだりをしそうになる自分が滑稽に思えて、ひねた笑いを浮かべそうになるのをこらえた。彼女には悪気はない。これっぽっちも非はないのだ。純粋に、劉にも自分の故郷で楽しんでほしいという思いが感じられるものだから、まっすぐに受け止めたくなる。 「……ああ、機会があったらな」 そんな社交辞令じみた返事でも、ユキノは笑顔で「案内なら任せて下さいね」と言ってくれる。 (こんなオレに対しても……) 分け隔てない振る舞い、さりげない気配り。好感を抱くには十分だった。 *-*-* 食事の後、商店街へと足を踏み入れた二人。インヤンガイだから、整然としてはおらず食べ物屋と服屋が隣り合っていたりもするけれど、逆に考えればそれがこの世界の特色とも言えた。 「なにか見たいものがあるのか?」 店の前を軽く冷やかしながら通り過ぎていた二人だったが、劉はユキノが時折店の前を通り過ぎる時、名残惜しそうにしていることに気がついたのだ。声をかけると嬉しそうに彼女が振り向いた。 「このお店、中に入ってみてもいいですか?」 「ああ」 ユキノが指し示したのは、衣類とアクセサリの店のようだった。アクセサリと言っても高級なものをおいているわけではなく、日常的につけられるようなものだ。 (女の好むものなんてわかんねぇからなぁ) 少し配慮が足りなかったか? なんて思いつつ、足取りの軽いユキノの後をついて店に入る。衣類とアクセサリがごちゃごちゃに陳列されているように見えて、よく見ればその衣服に似合うアクセサリが近くに陳列されているようだ。 「これもあれも可愛いですね。こういうところでお買い物も楽しいなぁ」 「……こっちのほうが似合うんじゃねぇか?」 原色で派手な刺繍の施されているものより、淡い色合いに刺繍がポイントとして使われているもののほうが似合うのではないか。劉がユキノの前に差し出したハンガーには、クリーム色のブラウスがかかっている。よく見ると襟元と袖口に花と蔓の刺繍が施されていた。 「選んでくれたんですか?」 「偶然見つけただけだ」 そっけなく言い放ったのはこういうことに慣れていないから。けれどもユキノは特に気にした様子もなく、服を自分の身体にあてている。 「似合いますか?」 服から視線を上げて無邪気に問うと、劉のダークブラウンの瞳と目が合った。そこで、ユキノは気がついてしまった。 (なんだかデートみたい……ち、違うのに……) かぁぁっと急激に顔が熱くなるのを感じる。一度思い始めるとどうしても意識してしまって。顔は赤くなっていないだろうか、変に思われていないだろうか。反射的に俯いてしまって。これでは余計変に思われてしまうのではないだろうか。 (失敗しちゃった……!) だが、今また顔を上げるのはかなり挙動不審に見えるかもしれない。 (変な女だと思われたらどうしよう……) 変に思われたくないというのは相手に好意を持っているから。嫌われたくないから。 どうしよう、困ってブラウスを抱きしめたユキノの耳に届いたのは、変わった様子のない劉の声。 「いいんじゃねえか?」 ユキノの内面の葛藤など想像すらしていない劉であったが、今回はそれが良い方へ転がった。 「どうせなら、スカートかパンツでも合わせてみたらどうだ?」 「は、はい、そうですね!」 彼が何事もなかったように接してくれるから、ユキノもすぐに普段通りの自分に戻ることが出来た。 (ありがとうございます) 心の中で告げ、ボトムスを選ぶことにした。 *-*-* 揚げたてのごま団子を屋台で買い求め、近くの広場の石段に腰を掛けて食べる。熱いけど、外はモチっとしていて中の餡子も美味しい。 「で、将来は決まってんのか」 会話の切れ目に差し込まれた無造作な問い。ユキノは故郷について話した時とは違い、少し迷ったような顔をしながら口の中の団子を咀嚼した。 「私、以前はずっと故郷にいるつもりでしたが、今気になってる世界があって……一年後もロストナンバーでいるかどうかは分かりません。劉さんは?」 「俺は信頼できる相棒と組んで仕事をするつもりだ。皮肉な運命を恨んだ事もあったが、覚醒してよかったと思ってる」 「そうですか。そんな過ごし方も素敵ですね」 もう一つごま団子を手に取り、半分口の中に入れる劉。咀嚼して飲み込んで。優しい甘さが口内に残る。 「どうするにしろ、やっぱり後悔しねぇ道を選ぶのが一番いいんじゃねぇか? 月並みな言葉で悪ぃけどよ」 「そうですね」 一度帰属したら、もう世界間を渡ることはできなくなる。元の世界に戻ることすら出来ないのだ。決断に慎重になるのは当然のことだが、やっぱり後悔しないと思えることが重要だと思う。 「困った事があったら力になる。頼ってくれ」 そんなことばが自然と出てくるほどに、劉はユキノに心を許していた。友人になれればいい、そんな夢想を抱くほどに。 「じゃあ……お願いがあるんです」 「なんだ」 「私の代わりに色々な世界を見てきて欲しい。素敵な所があったら皆にも紹介してあげてくれませんか」 もし自分がロストナンバーをやめることになったとしても、いろいろな世界の素敵な場所を紹介するツアーは続けてほしいから。素晴らしい考えだと思うから」 「わかったよ。だがオレの趣味で選んでも、あとで文句言うなよ?」 「文句なんて」 言うはずないです、劉さんを信頼していますから――言い切ったユキノの髪を風がさらっていこうとする。片手で流れる髪を抑えた彼女は、にこり、明るく微笑んでくれた。 *-*-* 帰りのロストレイルまでにはまだもう少し時間がある。 何を見ようか? 二人でなら何を見ても、楽しく思えるかも――そんな予感を抱いて二人は再び歩き始めた。 【了】
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