「断る」 にべもないいらえから、その戦いは始まった。「そこを何とか」「面倒だ」「"Nouvelle Vague"の新作を付けますので」「……割に合わぬな」 頑なだ。実に頑固だ。 手強い敵になるだろう予感を感じ取って、ヴィンセント・コールは蒼い鋼のような眼を眇め嘆息した。贔屓にしているはずのチョコブランドの名を挙げても、(僅かに眉を上げはしたが)取り付く島もない。「どうしても、貴方に“マーカス・ボイド”を演じていただきたいのです」 もう一度、何度目になるか知れない状況説明を加えても、業塵は聴く耳も持たなかった。 諸事情が重なり、どうしても、覆面作家“マーカス・ボイド”――即ち、ヴィンセントの主たるイェンス・カルヴィネンが貌を明かす必要が出てきてしまったのだ。「当人がそのまま往けばよかろう」「それが出来ないから頼んでいるのです」 ハッピーエンドを基本とした児童文学作家である“イェンス・カルヴィネン”と、苛烈な作風が人気を博す成人向けファンタジー作家の“マーカス・ボイド”。二者が同一人物である事は、関係者を除いて知られてはいない――即ちトップ・シークレットだ。 もしこれが公にでもなれば、児童文学作家としてのイェンスのイメージが崩れ去るであろうことは想像に難くない。それだけは避けなければならないと、彼の代理人たるヴィンセントがこうして恥(やら何やらその他色々なもの)を忍んで、この傲岸不遜なモノノケに頭を下げているのだ。 ヴィンセントが密かに愛するサブカルチャーに出てきそうな典型的な袴姿の男は、モノノケの典型として、変化能力を備えている。それを頼りにしたいのだが、当の本人が承諾してくれなければどうしようもない。項垂れて眉間を指で揉み始めたヴィンセントの耳に、ふと業塵の和らいだ声が聞こえた。「……では、一つ条件を付けよう」 顔を上げる。 蒼褪めてすら見える肌色の男は、その死霊のような形相に似つかわしい、兇悪なまでの笑みを湛えていた。――正直、気味が悪い。厭な予感しかしない。「画廊街に、し、ね、ま、とやらがあるだろう」「――ああ、シネマ・ヴェリテの事ですか。訪れた者に纏わる映画を見せるという」 小さいが、中々賑わっている映画館だと聞いた覚えがある。いつかは行ってみたいね、と作家が“映画”を知らぬ狼の少女に語っていた覚えもある。ヴィンセント自身は、然して強い興味もなかったので聞き流していたが。 業塵は頷くと、閉じた扇の先をヴィンセントへ向けた。「お主の過去を見せよ」「お断りします」 条件反射のように、そう応えていた。 落ち窪んだ眼窩の奥、暗い光を湛えた瞳は不穏な色に輝いている。明らかに好からぬ事を企んでいる。というか、これ自体が企みなのだろう。「何故だ。儂が受けねば困るのであろう?」「ただの退屈凌ぎでしょう。それをして貴方にどんな得があるのですか」「得も何も、ただの愉悦だが」「だから断ると言っているのです」「ならばいぇんすが表に出るしかあるまいのう」 ぐ、と言葉に詰まったヴィンセントを、開いた扇の向こう側から業塵の昏い目が見詰めていた。 その語尾が笑っている。否、目もにやにやと歪んでいるのが解る。果てはけけけという性格の悪い笑い声さえ聞こえてくる始末! こめかみに青筋を立て、ヴィンセントは己の胸ポケットから携帯電話を取り出した。「……仕方がないですね。カード会社にイェンスの契約を切るよう伝えてきましょう」「なっ」 あからさまに顔色を変えた。彼のカードを使って壱番世界の甘味を買い占めている事はリサーチ済みだ。此処は0世界、携帯電話は通じないが、業塵には効力があったらしい。 ひらひらと携帯電話を振りながら、その常よりも蒼い顔色を眺めていると、突如、開き直ったようにモノノケの目が据わり始めた。「其方が脅しに掛かるのであれば、替え玉せぬだけのこと」「なっ」「儂がやらねばいぇんすや仕事に差し障るのであろう?」「だからこうして頭を下げているのではないですか」「大人しくお主の過去を見せればよいのだ」「……生憎、容易く見せびらかせるようなものは持っておりませんので」「ならばよいではないか」「お断りします」「いぇんすが困るとしても?」「その時はカードの契約も切れているでしょうね」 ――埒が明かない、と。 恐らくは二人とも、同じことを思い始めていた。 ◇ 結局。『"Nouvelle Vague"の新作も付ける』『業塵の過去も見せる』 と云う条件を互いに加え、取引成立と相成った。「――はあ、そういう理由で、こちらへ……」 玄関前に立ち尽くして開店を待つ、釈然としない顔の男二人。鷹揚な筈の映写技師も思わず、付け替えようとしていた札を取り落したほどの珍妙な風景だった。とりあえずと館内に通し、簡潔に理由を告げられて尚、茫然とした様子が抜けていない。「すみません、御手を煩わせてしまい」「いや、かまわない。私たちも、御客の理由次第で断る事はないから」 エージェントとしての態度を取り戻したヴィンセントがそう謝すれば、元が道楽商売だから採算などどうにでもなるんだ、と映写技師は肩を竦めて笑った。 劇場の隅から五色のフィルム缶が並んだテーブルを引っ張り出しながら、問いかける。「では、五色のフィルムから一つを選んでくれ。御存知かとは思うが、説明は必要か?」「いえ」 端的に辞して、ヴィンセントは隣の男を一瞥する。死人のような顔色のまま、落ち窪んだ眼窩の奥の瞳だけが、爛々と輝いている。――どうやら興味を惹かれているらしい。 呆れの息を一つ吐いて、ヴィンセントは並んだ五色へと歩み寄った。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヴィンセント・コール(cups1688)業塵(ctna3382)=========
ざ、ざァァ――。 回り始めたフィルムから流れ出たのは、歪なノイズと砂嵐。画面は映像を結ぶことなく、暫く青いノイズに浸食された世界を銀幕に投影し続けた。 やがて、砂嵐の奔流の中、一瞬だけ映り込んだのは――冷ややかな色彩を湛えた、湖の如くに凪いだ青い沙漠。 そして――流麗な筆記体の文字が、青いノイズを伴って銀幕に綴られた。 《 Das Traumfresserchen 》 場面は切り替わり、或る邸の玄関前を映し出した。一人の少年が、男性に促されて玄関の敷居をまたぐ。 扉を潜る直前、大きく映り込んだ少年の貌。緊張したような面持ち。青い鋼の瞳に、追憶のノイズが散る。 両親を不慮の事故で喪って、ヴィンセント少年は叔父であるクリストファーに引き取られた。子供の扱いを心得ぬクリストファーは彼を持て余し、ヴィンセントもまた突然家族になった男に己から心を開く術を知らない。二人の間に存在した軋みが、短い場面の転換により露骨に銀幕に顕れる。 どうしてわからないんだ、と叔父が癇癪を起して怒鳴る。 どうしてわからないんだ、と少年は心を塞ぎ、自室に閉じ籠る。日中はなるべく叔父のいる居間を避け、書庫に逃げ込むようになった。物言わぬ本だけが、少年の遊び相手となっていた。 ざ、ざざァ。沙漠を吹き抜ける風のように、細かな青い粒子の群れがノイズとなって画面を駆け抜ける。 書庫に閉じ籠り、灯りを脇に本の海に没頭するその後姿はまるで。 まるで月灯りに照らされる、青い沙漠を一人、当て所もなく歩いているかのようだった。 その日もいつものように書架――カメラを覗き込んだ少年は、しかし目を丸くして首を傾げる。 昨日までは、こんな所に児童書など置かれてなかった。 訝しさよりも、初めて見るタイトルへの欲求が勝った。少年は爪先で伸び上がり、棚の本を手に取る。試しに本を開いて、そこから、憑りつかれたように頁を捲る。昏く、気弱そうに俯いていた少年の貌は、次第に明るく、本の中の世界へとのめり込んでいった。 鋼の青い瞳に、澄んだ月灯りのノイズがちらついている。 それから、ヴィンセントが書庫を訪れるたびに、新たな本が待ち構えるようになった。 初めは訝しんだ彼も、持ち前の聡明さですぐに気づく。此の書庫を利用するのは二人だけだから、この小さな変化を齎しているのは紛れもない叔父であるという事に。 本は基本的には幼いヴィンセントの読みやすい児童文学を中心に、季節や行事に合わせて的確なセレクトが為されている。作家のエージェントをしている叔父だからこそできる芸当だ。巻頭に綴じられた毎回柄の違う押し花の栞も、少年の心を紐解くには絶妙だった。 読んだ本をどうしようか、と悩んだ末に、少年は読み終わった本を書庫に備え付けの小さな机の上に置いておくことに決めた。栞は巻末に綴じておく。 ――未だ、感謝を言葉で伝えられるほど打ち解けてはいない。 贈られた本を読んだと示すには、それが一番いいと思ったのだ。 叔父もそれに気付いているのだろう、次にヴィンセントが図書館へやって来た時にはもう、机の上の本は片付けられていて、代わりに件の書架に新しい本が一冊加わっていた。 ぎこちない歩み寄りを続けていくうちに、叔父と甥は少しずつ距離を縮めていった。その内に、お互いに嫌っていたわけではなく、どう接すればいいかを探っているだけだったと悟る。其れからはまた、会話が増えるようになった。 青いノイズを巻き上げて、沙漠の風が吹き荒れる。 ひとときスクリーンを覆い尽くした砂嵐は、またすぐに過ぎ去っていった。 画面は切り替わって、少年の寝室の光景を映し出した。 青白い月の光が、カーテンの隙間から忍び寄る。 それから逃れるように身を捩り、少年はベッドの中で毛布を被って小さく震えていた。 ざ、ざざァ――砂嵐のようなノイズが吹き荒れて、銀幕に映るのは、月灯りに照らされる凍てついた沙漠。 不時着した小さな飛行機の隣で、途方に暮れて膝を抱えるヴィンセント。うとうとと重い瞼を擦っていた少年は、銀幕の向こうの何かに気が付いて立ち上がった。アングルが切り替わる。 一面の沙漠のなか、高い所に浮かぶ月へ目掛けて歩いていく、父と母の後姿が見えた。少年が呼ぶ声も聞かず、スクリーンの中央で、二人の姿は青い影に変わっていく。砂の海に点々と伸びていた二つの足跡は唐突に消えて、浮かび上がる身体。二人はまるで目に見えぬ階段を上るように、煌々と照る月の扉へと歩いていった。 ヴィンセントはそれを追いかけようと走り出したが、一歩足を踏み出すごとに、其の体は青い沙漠に呑まれていく。薄青のノイズが星空のように瞬く、凍り付くような色彩の夜の下で、ヴィンセントはまるで泳ぐことを忘れた魚のようにもがき続けた――。 ――画面は切り替わる。 薄青のノイズを瞬かせる空は変わらぬまま、銀幕はベッドの中で震える少年を再び映し出した。瞼をきつく閉じて、強張る彼の顔を。それだけで、先程までの映像が彼の視ていた夢の内容なのだと知れる。 子供じみた、しかし心の冷えるような光景だ。 幼いヴィンセントは光を遮らんと毛布に顔を埋め、泣き腫らした目を枕に押し当てる。すすり泣く声が、静かな宵闇に充ちていく。 『――ヴィンス?』 差し込む月光よりも控えめな、男の声が寝室の扉の向こうから聞こえた。小さく反応を示すが、ヴィンセントは応える事もなく眠ったふりをする。 暫くして、静かに扉を開く音が、布団に閉じこもる少年の耳に響いた。 『どうした』 そう問いかけてくる様子に、常の荒い表情はない。 少年は毛布から顔を覗かせて、叔父の姿を捉えた。その赤く腫れた眼に叔父はぎょっとして、しかしすぐに状況を把握したようだった。 『眠れないのか?』 『……こわい』 ヴィンセントもまた、其れ以上の説明はせず、再び毛布の中に潜り込んでしまう。 叔父は一度部屋を去ると、ヴィンセントが不安に思う間もなくすぐに戻ってきて、一冊の本を彼へ差し出した。 ミヒャエル・エンデの『ゆめくい小人』。 かつて両親に読んでもらった記憶を思い出し、僅かに怯えを忘れた少年は、ベッドの中で本を開いた。 叔父はそれを見届けて、立ち去ろうとしたが――窓から差し込む月光の下、ふと足を留めて振り返った。 『一緒に寝ていいか、ヴィンス?』 そろりと、躊躇いがちに掛けられた言葉に、少年もゆっくりと頷いた。 小さなベッドに二人、並んで毛布を被る。時間と共に方向を変えた月の灯りの下で、叔父はゆっくりと、ヴィンセントと共に絵本を捲っていった。 ――ゆめくい小人 ゆめくい小人 絵本の文字を指でなぞりながら、叔父が小さく呟く。 それは、悪夢を食らうとされる『ゆめくい小人』を呼び出すための呪文。まどろみの国の王様が悪夢に怯える娘の為、旅に出た末に見つけた心強い味方の名前だった。 ――ばっくり 大口 あけとくれ ――子どもを おどかす こわい ゆめ ――はやく はやく たべとくれ 幼いヴィンセントはいつしか泣く事も忘れ、絵本の世界へと惹き込まれていた。叔父の静かな聲に合わせ、共にその呪文を口ずさむ。 ――けれども きれいで やさしい ゆめは ――たべずに のこしておいとくれ ――ゆめくい小人 ゆめくい小人 ――まねきを うけて きておくれ これでもう大丈夫だ、と叔父はわらう。 不器用な、甥であるヴィンセントも初めて見るような笑みだった。芒と、その笑みを眺めているうちに、少年の瞳を寂しい月光のノイズが過ぎった。一瞬の回想。ベッドの傍らに寄り添う母親が、眠る少年の手を握りながら、優しく子守歌をうたっている情景。青い月光に充たされた、悼みを伴う《追憶》。在りし日の母親も、こうやって彼を慰めてくれた――。 だが、彼らはもういない。 暖かな交流と同時に、それを痛烈に実感させられて、ヴィンセントの息が詰まる。甥の変化に気づいた叔父が、驚いたように顔をゆがめ、しかし腕を回してその背中をさすってやった。叔父の腕の中で、少年の慟哭が徐々に大きくなる。 泣きじゃくる少年を抱き締めて、叔父もまた、密やかに一筋の涙を溢していた。 叔父と甥が寄り添って眠る寝室の光景は、青いノイズに包まれて次第にフェードアウトしていく。 穏やかなピアノの音色が、ざらざらと、雑音に蝕まれて――それは次第に、焔の爆ぜる音へと変わった。 宵闇よりも深い、群青のノイズが焔のように銀幕を躍り狂う。 その中央で巨体をくねらせながら、異形の大百足が村を破壊する光景だけが映った。 《 戯 》 (――此は如何なる事ぞ) 零れ落ちるモノローグ。時代がかった、大仰な言い回し。 幽鬼のような陰険な聲は、何かを倦んでいる。 (心地好くない) 深淵の淵より引き摺り落とされた者の絶望。護るべき里を蹂躙された悲嘆、聲を成さぬ慟哭。護り切れなかった己への悔恨。友と想っていた者への果てなき怨嗟。数多の負の感情が、大百足の背中に犇めく死者の貌から吐き出されていく。濁った紅のノイズの容を取って、銀幕の中で其れは視認できるモノとして顕れる。 (不味い) 吐き出されたノイズを自ら取り込んで、大百足はその濁り澱んだ味に辟易する。其れらは何よりも、彼の――蟲毒から生まれた大妖の好むべきモノであった筈だ。だと云うのに、味覚が其れを受け付けぬ。 其れも此れも、己の身体を操る男の所為だ、と大妖は内心で毒づいた。 (守久) 大妖が長く寄る辺としていた鞍沢の地をあずかる領主、天野守久。 最早人としての理性や知性を残さず、ただ怨嗟の侭に暴虐の限りを尽くす男の意識に内側から聲を掛けるも、其れさえも届かない。届く筈が無い。大妖は――業塵は、妖へ堕ちた人間がどうなるかを、よくよく知っていた。そして、此の身体を乗っ取る男も。 そうだ。 知っていた筈ではないか。修験道に通じるおまえならば。 ただの人が陰の力を求めすぎると如何なるかを。 ざァ、ざらら、まるでスクリーンに群がる羽虫の群れのような、群青色のノイズが画面を覆い尽くし。 『鞍沢の主。お前も、仲間殺しをしに来たか』 暗闇の中、背中の百貌で来訪者を嘲笑う大百足の異形が映し出された。冷ややかな洞穴をノイズの姿をした群青蟲が這う。 (引き返せ) 大百足と同じ聲で、モノローグが静かに諭す。 其れは態度とは裏腹のこころ。他ならぬ、目の前の男自身が彼に与えた情の芽生え。 (此処で頷いてしまえば、おまえは儂と同じに堕ちる) 常と同じ大妖の構えで以て男を歓迎し、しかしその実“業塵”は其れを望んでいない。此の男に陰は似合わない。其れを思い知らせようと、態と彼を逆撫でするような言葉を選んだ筈だった。 「帝が、『物の怪を操る奸賊』をご所望だ」 ――だが、言葉に成らない願いは届かなかった。 飛散した血のような、大百足の眼の奥に、鮮やかな赤のノイズが奔る。止められなかった。密やかな悔恨をその奥に閉じ込めて、大百足は身体を丸める。 『憤怒に身を任せ、儂を従えるというか。面白い……!』 嗤いを堪えようと身を捩らせる、何処か人間めいたその様子を、理性を失った男だけが見詰めている。 刀を構える其の瞳には、燃え上がるような怨嗟の色だけが映り込んでいた。 (戯け) 怨嗟の源である男――友であったと云う其れを切り裂いて尚、破壊を已めぬ大百足の内側から、業塵は静かにそう呟いた。朱いノイズが蠢いて、焔の容を織り上げて田畑を、農家を、山を覆い尽くす。その光に照らされて、大百足の頭部にめり込んだ、天野守久の面が映し出される。能面のように感情を喪ったその貌は、いっそ静かですらある。 (何故、人間のお前が為そうとする) 視たくもない光景だった。民の為に生き、民の為に戦った男が、討ち滅ぼすべき物の怪と同じ闇へと堕ちるなど。踏み躙り、焼き滅ぼして、討ち斃す。其れは物の怪が、己が為すべき事ではなかったか。 (儂とて彼奴らの行いは―せぬ) 業塵の心を映すモノローグを、いびつなノイズが遮った。 其れは嘗ての己が上げる咆哮。鞍沢で与えられ、住人や守久との交流の合間に芽生えた想い。その感情の名を知らなかった頃の己が放つ、有らん限りの情動。 ――噫。彼を止めなければならない、と。 己自身にも判らぬ焦燥が、大妖を駆り立てる。 朱のノイズが火の粉となって降り頻る下、銀幕を蹂躙する大百足がぴたり、と動きを止めた。 『この程度で乗っ取った気になるとは戯けが』 大百足の口吻から、業塵としての言葉が零れ落ちる。 僅かに支配を破り、自由を取り戻した物の怪は、己自身と同化している男を嘲笑った。 『心も物の怪と成り果て、守らんとした物も忘れ果て滅ぼすか?』 大妖の挑発を聴く耳もなく、大百足に呑み込まれたままの男はずるり、と異形の頭部から抜け出そうともがく。 (戯け) ――万一の時には、と。 男と交わした約束が、胸の裡に蘇る。 今はただ、と大妖は其れを遂げる事だけを考える。 ざら、ざらら。 其処から先は、電波の入らぬテレビのように、砂嵐に呑み込まれていった。羽蟲のように蠢く群青のノイズが、画面を貪り喰らわんと増殖する。 荒れ狂う嵐の中で、大百足の腹部がばくりと裂け、醜悪な牙並ぶ口を開いて男を呑み込む情景だけが映り込んでいた――。 ◇ 明転。 観客席を白光が覆い、闇に慣れていた二人はゆっくりと瞬きをしてその変化に馴染む。 映像の余韻から抜け出せぬまま、深く座席に腰掛けていたヴィンセントを差し置いて、業塵がぬるりと首を擡げる百足に似た陰険な所作で立ち上がる。そして、口許を奥義に隠したまま彼を見下ろした。 「あの子供が……よくもまあ、ここまでふてぶてしくなるものよ」 「……」 好奇を滲ませた眼差しを受けて、能面のように冷たい、端正な貌が静かに歪む。其れ以上の感情は窺わせないように留意しながら、ヴィンセントは軽く嘆息を零した。少しでも隙を見せれば突いてくる。全く忌々しい。 ――だが、業塵はその反応を愉しむように目を弓形に曲げたほかは、何もしてこなかった。 ヴィンセントは静かに訝しむ。てっきり、彼の叔父の事についても何かを言ってくるものだとばかり思っていた。ヴィンセントを困らせる事を最近の愉しみとしている彼の事、どんな些細な点も逃すまいとしてくるだろうと、身構えていたのだが。 業塵は予想に反して、扇の内側で何事かを考えている様子だった。真摯さを滲ませた静謐が、彼らしくもなく気味が悪い。 妖は暫しそうして口を噤んでいたが、やがて、ふと緩く横目を呉れると、「良い叔父御よ」とだけ口にした。 「……ええ」 青い鋼の瞳を一度見開いて、しかしすぐにヴィンセントは口端だけで微笑んだ。彼らしくもない素直な賛辞だが、それは純粋に嬉しかった。 誤解や、憤りの過ぎた時期もあったが、叔父は己にとって、紛れもなくもう一人の父だったのだ。イェンスに仕える先達でもあり、彼の手腕は今もヴィンセントにとって善き目標であり続ける。 彼が誇りに思えるような甥でありたいと、ヴィンセントは強くそう願った。 劇場に沈黙が降りる。自分たちらしくもない、居心地の悪い――しかし穏やかな雰囲気が場を包む。 「フィルムは、如何されますか」 「儂は受け取るが」 空気を払拭しようと何気なく振った話に、簡素な答えが返る。言外に自分は、と問われ、ヴィンセントは軽く瞼を閉じ思案した。 「……いえ。此方に預けていきます」 そして首を横に振る。優しくも懐かしい、悼みを孕んだフィルムを愛しく思うが、――いつか、己が路に迷った時、また此処へ来て支えにしたい。 「そうか」 また、簡素に応えた業塵の様子を窺い視る。その姿は、自らの過去を曝した照れなどはなく、ただ静かに記憶を反芻しているように見えた。 友を、里の人々を喪ってしまった事を悔やみ、嘆くその姿はまるでヒトのようだった。 怨嗟を喰らい、同属を食む事で顕現した此の大妖を変えたのは、紛れもなくただの人間だった。ヴィンセントや、彼の作家と同じ。それが誇らしく、ヴィンセントは彼らに深い敬意と感謝を抱く。 「生きてください、彼らの想いを無駄にしない為に」 ――彼らの情に触れたからこそ、今、此の妖は自分たちと共に在るのだから。 「――おまえに云われる事ではない」 乾いた血を想わせる褐色の瞳をゆるりと細めて、業塵はふと身を翻す。確かに差し出がましかったか、とヴィンセントは内心で省みる。領主から、領民たちから与えられた心は彼の中にしかと根付いている。彼らに報いるためには何を為せばいいのか、業塵は既に理解している事だろう。 「旅支度を致せ、つんでれ」 「誰がツンデレだ」 条件反射のようにそう突っ込んでから、ヴィンセントはその硬質な目をふと緩めた。業塵の聲は常と同じ陰気で淡々としたものに戻っている。だが、此方に背を向ける彼の後姿が、何処か充ち足りているように見えたから。 先に劇場の扉を潜ったその背を追いかけて、肩を並べる。 「“Nouvelle Vague”は向こうについてから手配しましょう」 「忘れるでないぞ」 「もちろん」 ノイズのように鮮やかな光を降らせる、青い空が彼らを出迎える。 互いに悼みを、郷愁を抱えながら、二人の旅人は駅舎へと向かった。 <了>
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