かねてからのアンリ・シュナイダーの招待を受け、司馬ユキノがヴォラース伯爵領に赴いたのは、《雪蛍館》にてクリスタル・パレスの営業が行われる、前日のことだった。 ラファエルの奨めにより、あらかじめヴァイエン侯爵邸でドレスアップをし、エスコートされての来訪である。「……これは」 ラファエルに手を取られ、馬車から降り立ったユキノのすがたに、出迎えたアンリは息を呑む。「おかしくないですか? 身分の高いかたのお住まいに伺うときって、どんな格好で行けばいいかわからなくて、ラファエルさんに相談して――、それで」「……とても、よくお似合いです」「霊峰ブロッケンの《迷宮》では、本当にその……、お疲れさまでした」 ユキノは丁重に頭を下げる。結い上げた黒髪に飾られた翡翠細工の花が光をはじいた。「いえ、ユキノさんこそ」「無力な私でも、少しはお役に立てたでしょうか?」「はっ、それはもう」 すっかり恐縮したアンリは言葉に詰まり、ああ、はい、などと言うばかりだ。「アンリ。いつまでそこでレディと立ち話をしているつもりだね?」 ラファエルが呆れ顔で促す。 アンリははっとして、ようやくユキノに手を差し伸べるのだった。「ヴォラースへようこそ、ユキノさん。ご来訪をお待ちしておりました」 * * ヴォラース伯爵邸《雪蛍館》を囲む木々を、沈みかけた夕陽が照らす。広葉樹の葉はすべて枯れ落ちているのに、伸ばされて重なり合う枝のかたちが、えもいわれず美しい。 賓客用応接室は、炎が揺らめく暖炉であたためられていた。ぱちぱちと薪のはぜる音がやさしく響く。「冬は日没が早いので。特に今日は冷え込みますね」 薪を追加するようにと、アンリはメイドに指示をした。 テーブルのうえには、たった今焼き上がり、釜から出されたばかりだという、木苺入りのバームクーヘンが切り分けられている。 紅茶がサーブされ、ささやかなお茶会が一段落したところで、ラファエルは、アンリとユキノを交互に見た。「それでは、私はおいとまするとしよう」「いや、待ってください侯爵。ふたりきりでは間が持ちません」「何を情けないことを」「女性のお客様を招待するなど初めてのことなので……」「ラファエルさん、ご予定がないようでしたら一緒にいてください」「……そうですか? ユキノさんがそう仰るなら」 ――それでも。 他愛のない会話を重ねるうちに、緊張は少しずつほぐれていった。 やがてアンリは自身のことを話し始める。 彼はシュナイダー家の四男として生まれた。母は、末っ子のアンリ出産のさいの産褥熱で他界した。だからアンリは、肖像画でしか母の顔を知らない。 妻を大層愛していた父は、母親似のアンリを見るたびに辛そうな顔をした。あまり思い出も語ってはくれなかった。ただ、絵画の才能に長けた女性であったといい、アンリがその才を受け継いでいることに気づくと、そのときだけは喜んでくれた。 いつかは首都ローゼンアプリールで画家になり、アトリエを構えたいのだと、おずおずと申し出たときも反対はしなかった。 あるとき――ヴォラース領を流行病が席巻した。 おまえは好きな道に進めば良いと言ってくれた、厳格な父も。 嫡男としてふさわしい風貌と人格の、父によく似た長兄も。 武勇にすぐれ、豪快な気性であった次兄も。 聡明で誠実で、学問の道をこころざしていた、すぐ上の兄も。 ――みな、流行病が奪っていった。「本来ならば家督相続とは無縁のまま、人生を送るはずでした。ですが、伯爵位を継ぐものは、私しか残っておりませんでしたので」 「では、絵はもう?」「手すさび程度でしたら、今でも続けております。アトリエとまではいきませんが、離れを改築いたしまして」 よろしければご案内しましょうか、と、アンリは微笑んだ。 ========= !注意! 企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。 この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。 <参加予定者> 司馬 ユキノ(ccyp7493)アンリ・シュナイダー(現地NPC) ラファエル・フロイト(cytm2870) =========
+:-:+:-:+:冬の鷹 (流行病で、家族を全員失うなんて……) それは想像にあまりある。 愛する家族がひとりずつ、自身の手をすり抜けていく。墓標がひとつずつ、増えていく。 その慟哭、その悲嘆、その絶望。 (そのとき、伯爵がどんなに辛い気持ちになったか) 胸が締めつけられる。生まれた瞬間に母を失ったアンリは、どんなにか、父を兄たちを愛していたことだろう。 思わず、ドレスの胸元を押さえた。しっとりと上質な布の手触りと繊細なレースの感触。とても心地良いが、まだ着慣れない。 この衣装も。 この静かな冬の館も。 すべてが、ユキノの知っている世界とはまったく違う。歴史も文化も風物も、ここに暮らすひとびとも。 あらためて、アンリの横顔を見る。 すっきりと通った鼻梁と、おだやかな眼差し。輪郭に柔らかさを添える、薄茶いろの髪。 そして、薄茶いろの――鷹の翼。 そこに嘆きのいろはない。生き残った以上は、ただひたむきに羽ばたこうとする、一羽の鷹がいるだけだ。 ……何故だろう。 ユキノの故郷にはいようはずもない、異世界のひとなのに。 どこかなつかしく、慕わしい気持ちになるのは。 たとえば、白く霜の降りた日の、きんと凍りつく冬の朝。 枯れ葉さえ残しておらぬ広葉樹の、ごつごつと節のある枝に止まる鷹。 寒さに羽根をふくらませるでもなく、悠然と前を見る、凛とした姿。 あの素朴な街のどこかで、そんな鷹に見とれたことがあったような気がする。 不思議だ。 ヴォラースを訪れたのは初めてなのに、ここの空気はとても身に馴染む。 +:-:+:-:+:秘めたる肖像 「伯爵の絵、拝見してもいいですか?」 「……はい、是非に。ユキノさんには見ていただきたいと思っておりました。侯爵にも」 「私に? 何故」 「良い機会ですので、お伝えしておきたいことが」 ヴォラース邸は主館《雪蛍館》の他に、ふたつの小館で構成されている。現在はアンリのアトリエになっている《夢月館》。温室として特化させた《花蝶館》。 雪で覆われた広い中庭を縫い、アンリに先導されて石畳の通路を巡る。要所ごとに配置された針葉樹はうっすらと白いヴェールを纏っていた。今日もいちど雪が降り、止んだものらしい。 「足元にお気をつけください。通路部分の雪は取り除いたのですが、少し氷が張っているようだ」 「大丈夫ですよ、これくらい」 「そういえば雪道を歩くことに慣れておられるような」 「私の故郷にも雪が降るんです」 「そうでしたか。――どうぞ、こちらへ」 《夢月館》は、煉瓦と漆喰で造られた、あまり華美なところのない館だった。階段状の屋根を持つ端正な佇まいは、ヨハネス・フェルメールが描いた街の建物に似ている。 「……わ」 厚い板張りの廊下を進み、簡素な無垢材の扉を開ける。絵具特有の匂いが漂う室内には、アンリの面影を宿したひとびとの肖像画が並んでいた。 厳めしさとあたたかさを併せ持つ初老の男性は前ヴォラース伯、アンリの父親。父親似の壮年の男性が長兄、豪快な笑顔の逞しい青年が次兄、聡明な眼差しを細めているのが三番目の兄であるという。 それぞれの肖像画の前に立つたびに、ユキノは、まるで家族に紹介されているような気持ちになった。 「初めまして。司馬ユキノです」 思わず挨拶をして、ふと顔を上げる。 ユキノを見つめていたアンリと、視線がぶつかった。 「……」 「……」 とっさに言葉が出て来ず、しかし顔を逸らすわけにもいかず、しばらく無言で見つめ合う。 ラファエルが咳払いをした。 「私はそろそろ帰っていいかな?」 「待ってくださいよ侯爵」 「そうですよラファエルさん。……あ、アンリ伯爵、お、お母様の肖像画はどちらに?」 そう言ってしまったのは、照れ隠しでもあったのだが、その場にそれらしき絵は見当たらなかったからだ。 しかし次の瞬間、はっと口を押さえる。 アンリは自身の出生と引き換えに母を亡くしている。母の顔を知らず、母との思い出も持たない彼に、母の肖像が描けようか。 「……ごめんなさい」 「お気になさらず。ユキノさんはとても頭の回転が早く、それが心配りに反映されているかたですね」 アンリは微笑んで、隣室への続き戸を開ける。 「今お見せした父や兄たちの肖像画は、実は完成してないんです。まだ完全な思い出にすることはできなくて」 ――こちらの部屋には、完成したものを置いてあります。 母の絵もここに、と、アンリは指し示す。 「……これって」 それは、肖像画ではなくひとつの情景だった。溌剌とした少女が絵筆を手に、キャンバスに向かっている。 「父から聞いた話をもとに描いた、結婚前の母です。当時の母は、ローゼンアプリールに本拠を置く画家のギルドに所属しておりまして」 「じゃあ、お母様は」 「将来を嘱望された職業画家でした。ですが父との結婚を機にギルドを脱退しました」 伯爵夫人となった少女に、口さがないものたちは辛辣なことを言ったという。画業で伯爵に取り入り、玉の輿に乗った後は絵筆を折るのか、と。 「そんな」 「けれど、父は申しておりました。『それらはすべて、彼女の才を惜しむがゆえ。私は、その新作を待ち望むひとびとから、ひとりの画家を奪ってしまったのだから』と」 「でも……、ご結婚後も絵を描き続けることはできますよね……?」 「もちろんそうです。職業画家としての活動を断念したところで、創作意欲が衰えることなどあり得ません。今の私がそうであるように」 ここはかつて、母のアトリエでもあったのです、と、アンリは言い添える。 「……アンリ伯爵の絵、とても心惹かれます。絵にこもった感情が伝わってくる気がします」 「ユキノさん」 「すごく絵が好きなんだなって感じます……。拙い感想でごめんなさい」 「とんでもありません。そう仰っていただけるだけで、私は――」 つと額を押さえてから、母を描いた画布を横にずらす。 「私には、母と――もうひとり。一方的な思い出として昇華した女性がいます」 一枚の絵が、現れた。 そこには―― ヴァイエン侯爵邸を背景に、春の陽光のなかで笑う、シルフィーラがいた。 「シルフィーラ様……」 「いい絵だ。きみでなくては、こうは描けまい」 ラファエルは静かに言う。 「ありがとうございます。侯爵はおそらく、私の気持ちなどお見通しだったと思うのですが」 「きみにも、つらい想いをさせてしまった」 「それは、侯爵も同様だったのではないかと。なぜなら、このころのシルフィーラ――呼び捨てをお許しください――が密かに愛していたのは」 「そうだね。私でもなければ、きみでもなかった」 オディール聖女王のもと、法規に反したものに懲罰を与える任についていた男。 《黒翼の処刑人》として、恐れられ、忌避されていた男。 ロック・ラカン。 いつ、どこで、何をきっかけとしてであったかは、定かではない。ただそれは、シルフィーラの片恋であったろう。 「これをご覧下さい侯爵」 広げたスケッチブックには、ロックを活写したデッサンがいくつもある。 「シルフィーラから、彼の肖像画、それも細密画(ミニアチュール)を依頼されたことがありまして。結局、あのようなことになり、依頼は立ち消えとなりましたが」 アンリはそっとスケッチブックを閉じる。 「おそらく彼女は自分の気持ちを押し隠し、侯爵に嫁ぐことを決心しながら、そうはできない気持ちがないまぜになっていたのだと思います」 ラファエルはふぅとため息をつく。 「思うんだがね、アンリ」 「はい?」 「自分を好いているかも知れない男に、他の男の肖像画を描かせるなど、シルフィーラの神経を疑うというかなんというか」 「そうなんですよねぇ。ロックを描いてもまったくもって楽しくなかったというか、大変不愉快だったというか。けれどそこがまた彼女の魅力でもあったような……、と」 そこまで言ってから、アンリはユキノに深々と頭を下げる。 「申し訳ありません。ユキノさんの前で他の女性の話など。ですがあなたには、知っておいてほしかったのです」 仄かな片思いと、その決別が、人知れず行われていたことを。 堅物のロックがどこまでシルフィーラの心情を汲んでいたかは、知る由もない。 彼は淡々と、自分の職務に則り、彼女の翼を切り落としただけだ。 何も言わず、何も語らず。 「それは恋の終わりであり、成就でもあったのではないかと思うのです。だからこそ、シルフィーラは迷いを断ち切ることができた。新天地でヒトの皇帝と新たなつながりを得ることもできた」 頷くユキノに、アンリは謝意を述べる。 「聞いてくださって感謝します。……そうだ、陽が沈まぬうちに《花蝶館》もご案内しましょう。ちょうど冬咲きの薔薇が盛りを迎えたようなので」 +:-:+:-:+:未来への翼 「……アンリ伯爵」 温室への道すがら、ユキノはアンリに向き直る。 「私、この歳までたいした夢も持たずになんとなく生きてきて……、自分が恥ずかしいです」 「そんなことは」 「でも、色々な世界で色々な方と出会って、もっと人として成長したいって思います。それが今の夢です」 「ユキノさん」 私はまだ世間を知らない。年齢だけは大人でも、中身は子供も同然だと思う。 大学も卒業しなきゃいけないし、ヘンリーさんやロバート卿に教わりたいこともたくさんある。 ――ちゃんと大人にならなきゃ。 「そうすればきっと、伯爵の横に立っても自然でいられま……、きゃっ」 「あぶない……!」 雪道に慣れているユキノだが、おろしたての靴は歩きにくい。 張りつめた氷に足を取られて滑りかけ―― アンリに抱き取られた。 手が触れる。さらりとした髪が触れる。 思わず掴まった翼は、たしかに鷹のものだ。 世界が違う。文化が違う。蓄積してきた時間が違う。 ……それでも。 ずっとそばにいたい。帰りたくない。 ――けれど、今は。 礼を述べ、アンリの腕をすり抜ける。 * * 「綺麗……!」 温室を席巻する冬薔薇の見事さに、ユキノは歓声をあげる。 「いちどきに咲きそろってしまったので、どうしたものかと」 「そうだ。花束にして、明日シルフィーラ様にお渡ししませんか。ご結婚祝いとして」 「それは素敵ですね。では、ユキノさんと私の共同名義といたしましょうか」 微笑むアンリの瞳を、真正面から見る。 「伯爵」 「……はい?」 「また、ここを訪れてもよろしいですか?」 「それはもう」 「ご迷惑でなければ、もっと色々なことをお話したいです」 * * 《雪蛍館》に戻った三人は、再び、暖炉のまえに腰を落ち着けた。 ラファエルはもう帰るとは言わない。 いっそここで飲み明かそうか、と、笑う。 (あの、ラファエルさん) (何でしょう?) (私、礼儀作法とか、この世界の流儀をちゃんと学びたくて。もし、教えてくださる場所があればご紹介を) (ユキノさんは今のままで十分に魅力的なレディだと思うのですが) (アンリ伯爵に釣り合うような女性になりたいんです) (……それは……。さぞ、アンリは感激するでしょう) (そ、そういう意味じゃないですよ!? 伯爵には内緒にしてくださいね?) (お気持ちはわかりました。では、《美と礼の規範》シュナイダー公爵夫人にお願いしましょう。私の叔母にあたるかたで、近衛騎士団長クルト・シュナイダーの母上でもあります) アンリがメイドに合図をする。 ヴァイエン産のホットワインが、運ばれてきた。 ――Fin.
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