追憶Lab.はウルリヒ・グラーニンが所長を務める研究所である。 白いタイルが敷き詰められた30畳ほどはある部屋で、『ヒトガタ』を自分の逢いたい人に変えて、共に時を過ごすことができるという。 その日、所長室というプレートの下げられた部屋のソファから身を起こしたウルリヒは乱れた髪を整え、ソファにかけておいた白衣を羽織る。それを見計らっていたかのように、内線電話が鳴った。「はい」 ――所長、大変です! ヒトガタが……わ、わぁっ!?「!?」 ウルリヒは彼にしては珍しく受話器を叩きつけるように置いて、所長室を飛び出した。向かうのは、実験室。 だがそこまで行く必要はなかった。曲がり角で向かいの廊下から走ってくる部下と鉢合わせしたからだ。「何があった!?」「しょ、所長、あっちです……外へ!」 部下が指した方向へ、ウルリヒは廊下を駆ける。 ヒトガタはヒトガタ遣いの魔力がなければ起動しない。次の予約の客のために数体のヒトガタを魔力は込めた状態にしておいたが、念じる者なしで起動するなんてことは考え難い。 ウルリヒが研究所の入り口に近づくと、入口の扉を半分開けた状態で立っている者がいた。 栗色の長い髪は軽くウエーブがかかっていて、手足は透けるように白い。「待ちなさい!」 ウルリヒの声に反応して振り返ったその瞳は綺麗な赤い色。彼女のまとっている長衣にウルリヒは見覚えがあった。かつて、彼が国に所属していた時、同じ意匠の長衣を着ていた事があったからだ。「……ニーナ?」「ウルリヒ」 彼の呼びかけに少女は名を呼ぶことで答えた。そして。「どうして私に『逢って』くれないの? 私には逢いたくないの?」「……!?」「私は、逢いたかったのに」 少女はそう告げると、外へと飛び出した。そして、羽ばたく音が聞こえ、遠のいていく。「な、ぜ……」 ウルリヒの足はその場に縫い付けられたように動かなくなっていた。なぜ、なぜ、そればかりが思考を占める。 ヒトガタが勝手に姿を変え、そして建物の外へ出る行動力を持つなんて――いや、わずかではあるが可能性はあった。そうなればヒトガタの持つ可能性が広がる、そう考えてもいた。だが。「なぜ、ニーナなんでしょうか……」 ヒトガタが模した姿は、かつてウルリヒの同僚でもあった少女。誰からも好かれた少女。人の記憶を操るごとに自分の心を狂わせていった、脆い心の少女。 もしもウルリヒがヒトガタを使うとしたら、彼女の姿にするだろう――以前、彼はメアリベルに対しそう語ったことがある。だが実際にヒトガタを使って彼女を具現化したことはない。ヒトガタか保存するデータには彼女のことは入っていないはずなのだ。 それなのになぜ。そしてあの言葉の意味は――。 そこまで考えてふるふると首を振る。一刻も早くしなくてはいけないことは、彼女の確保だ。これがヒトガタの暴走ゆえに起こったことならば、予期せぬ方向へ暴走を重ねることもある。 なんとかして、彼女を捕らえて元の姿に戻さなくてはならない――。 *-*-*「面白い、街」 背から伸びる赤い翼を使って追憶Lab.から移動したニーナは、上空から0世界を眺めた後、商店街へと降り立った。魔力でできた赤い翼は目立つのでしまうことにして。「ウルリヒはこの世界で暮らしているのね」 きょろりきょろりと辺りを見回しながら、彼女は0世界を移動していく。*-*-*-*-*-*※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。*-*-*-*-*-*
事態を聞いて、あるいはちょうど通りかかって。そうしてラボの前に集まったのは三人の男女だった。事態は理解しているものの心がついていかないという様子のウルリヒが三人の前に姿を現した。 「まずウルリヒさんに教えていただきたいのですが」 最初に切り出したのはヴィヴァーシュ・ソレイユだ。その冷静な物言いは、ウルリヒを幾分か落ち着かせた。 「ヒトガタが暴走したら鎮める方法があれば教えていただけると。万が一、その状況下になった時に対処できるので助かります」 「ヒトガタの暴走とは……『核』に蓄積された、それまで呼び出された人物の『情報』の混濁を主に言います」 ゆっくりと、だがしっかりした口調でウルリヒは語りだした。 「通常、ヒトガタを使い呼び出された人物の『情報』は、ヒトガタの中にある『核』に記録され、蓄積されます。つまり『核』が同じヒトガタであれば、前に呼び出した時の続きを行えるというわけです。独居老人が滅多に会うことのできない子どもや孫との触れ合いを定期的に望まれたり、傷病兵の気力を保たせるために、見舞いとして家族の姿を見せたり。ヒトガタ遣いごと雇えるような大富豪や王侯貴族などであれば、決まった一人を継続して呼び出したりなどすることもあります」 「つまり、普通の場合『核』は使い回しってことなんだな?」 その話を聞いて声を上げたのは坂上 健だ。彼の言葉にウルリヒは頷く。 「そうですね、基本は。使い回しというか、『核』は情報記録媒体ですので同じSDカードに幾つもの情報を記録する……という説明なら伝わりやすいでしょうか」 「なるほど、わかりやすいです。通常は独立した情報である記録が混ざってしまう……それが暴走なんですね?」 何故か健と少し距離をとって金町 洋が声を上げる。ウルリヒはそういうことです、と頷いた。 「いくつもの違う人格が混ざり合ってできた『暴走した人格』はどんな行動を取るのか予想がつきません。いずれこの『暴走』を解明して、ヒトガタの使用法をもう少し広げたいとは思っていたのですが……」 つまり、現状、暴走を抑える手段はないということだ――ヒトガタを、情報の塊である『核』を破壊する以外は。 「ニーナの宿った『核』の中に他にどんな情報が入っていたのか、それは守秘義務のためお答えできません。ですが、この世界の皆様に御迷惑をお掛けする可能性は確実にあります。その場合は、……迷わず破壊してください」 「本当にそれでいいのかよ」 伏せられたウルリヒの瞳を、健の声が引き戻す。 「そう言ってるあんた自身が迷っているんじゃないのか?」 「……」 「ウルリヒさんはヒトガタに彼女が宿った理由に心当たりや仮説をお持ちなのでは? 彼女に伝えたいことがあるのではないですか?」 唇を引き結んだウルリヒに、洋が柔らかく声をかける。本当に破壊してしまっていいんですか――? 「……心あたりがあるとすれば、私の未練でしょう」 引き結んだ唇を、ウルリヒはゆっくりと紐解いていく。 「私は彼女の良き同僚として、他の何人もの彼女に憧れるヒトガタ遣いの中にいられればよかったのです。優秀なヒトガタ遣いの彼女が、段々と心壊していくのにも気がついていました。けれども私は何もできなかった。何もしようとはしなかった。彼女を失って初めて、後悔したのですよ」 そんな自らをあざ笑うように、彼は笑んだ。 「今回のヒトガタを準備する前に仮眠を取りました。その時に、彼女の夢を見ました。その夢の印象が消えぬうちにヒトガタの整備を行ったことが今回の出来事を導いた原因かもしれません。自然、整備しながら彼女のことを思い出してしまったのでしょう」 「ならぱ尚更、壊すわけにはいきません。ウルリヒさん、私達がニーナさんを連れ戻しますので、貴方は彼女を迎えてあげて欲しいと思います。きっとニーナさんは、ウルリヒさんに送って欲しいと願うのではと思います」 ヴィヴァーシュの言葉にウルリヒは憔悴した顔にどこか光を宿して、ゆっくりと頷いた。 トラベラーズノートで連絡を入れると約束して、ウルリヒをラボの中で待機させることにした。彼がラボの中へ戻るのを確認して、洋が口を開く。 「あたしは壊すのは絶対ダメだと思っています。あえていえば『人様のモノ』です。何より今、人格が宿っているんですから」 「俺も、ニーナはウルリヒと繋がった、ウルリヒの希みだと思うから傷つけたくない。二人もウルリヒを傷つけるのは嫌だろ?」 同意する健の言葉にヴィヴァーシュももちろん頷く。 「ニーナさんは、ウルリヒさんが居る世界に興味を持っているようですから、無理強いをして戻す方法はあまりとりたくはないです」 「でも、時間切れでヒトガタに戻ればそれで良し……とも思えないんですよね」 「できれば宿った人格が自らヒトガタに戻ることを望むように、そしてウルリヒさんに会わせて差し上げたいですね」 洋とヴィヴァーシュが額を突き合わせるようにして悩んでいるのを見て、健は何かを決意したかのように息を吸った。そして。 「説得して戻ってもらって、今度、俺が呼び出す」 「呼び出すって……ニーナさんをですか?」 「一度会っていれば、理論的には可能だろ? その方がきっと、ウルリヒが冷静になれる」 健の決意は揺るがない。譲るつもりもない。だが今議論するのはそこではない。ニーナを壊さずに保護したい、そこに関しては三人の希望は合致している。 「わかりました、とりあえずニーナさんを探すのが先決です。手分けして探す、でいいですね? 連絡はノートでとり合いましょう」 「はい」 「わかった」 それでは、とヴィヴァーシュは一足先に動き出した。その場に残されたのは健と洋。だが二人はなんとなくぎくしゃくしていて、視線を合わせるのをためらっているような感じである。特に洋はここに来て健の頭上に夢浮橋の真理数の点灯を見つけて少なからず動揺して距離をとってしまっていた。 健はというと……。 『俺に甘えてみませんか?』 そう告白したことが思い出されて、微妙に挙動不審である。 どちらも、このまま何事もなかったかのように離れるのをためらっているようだった。だが、健が男を見せる。ぎゅう、と拳を握りしめて視線を洋に固定した。 「こ、この依頼が終わったら、返事はさておきお茶しませんか?」 「えっ!?」 その言葉に洋も弾かれたように顔を上げる。二人の視線が今日初めて、絡み合った。 「先にそう断って切り替えないと、俺、依頼の最中ずっと金町さんを目で追いそうなんだ」 バツの悪そうな、照れた笑いを浮かべて頭をかく健。その真っ直ぐさと心遣いに揺れる。 「……わかった。正直、そう言ってくれて助かったというか……あたしもちょっと、どうしていいのかわからなくて」 「じゃ、じゃあ!」 慌てて白衣やシャツ、ズボンのポケットをあさって健が取り出したのは一枚のメモ。ずっと持っていたのだろうか、ヨレヨレになっている。 「これ、俺の壱番世界の自宅住所と電話番号とメールアドレス」 「……うん、ありがとう。坂上君」 震える手が差し出してきたヨレヨレのメモを受け取る。メモからはほんのりと健の体温が感じられた。 *-*-* (ヒトガタに宿るほどの強い思い。それは、ニーナさんの残留思念のようなものなのか、それともウルリヒさんの言った通り彼がが望んだから宿った現象なのか) そのどちらかだとしても、ヒトガタに宿り言葉を交わすことのできる機会は、とても幸運だとヴィヴァーシュは思う。 それは以前、彼が実際にヒトガタに宿った亡き父と会った経験から出た考えかもしれない。彼にとって、あの対面は有意義なものだったのだろう。 (伝えられない言葉というのは、後できっと後悔をするでしょうから) もしウルリヒにそれがあるとしたら、やはり後悔はしてほしくない。だから、ヴィヴァーシュはそっと目を閉じる。そして、感覚を研ぎ澄ませて感じ取ろうとしているのは魔力。ニーナの持つ魔力を辿れれは、彼女に行きつけるだろうと考えたのだ。 ゆっくりと、ラボ周辺の魔力の残滓を探る。当然ながらウルリヒの魔力が一番強く感じられるが、彼の魔力はそれだとわかるため除外する。 この0世界で魔力を持っている者は多い。だが少し前までラボにいたとなればかなり限定されるはずだ。ラボの近くで魔力感知を試みる。 ふわり……。 不思議な香りが微かにヴィヴァーシュの鼻孔を、いや、感覚を刺激した。甘い中に何か刺激を含んだような香り。魔力の香りだ。ラボ付近の残滓はかなり薄くなっているが、ある方向に向かってまだ濃い目の残滓が続いている。 「あちらは……」 途中でどこかに降りたかもしれないが、方向としては商店街がある方だ。ヴィヴァーシュは近くのトラムの停留所から商店街行きのトラムに乗り込む。当然のことながらトラムは街を突っ切って直線で商店街まで移動するわけではないから少し遠回りにはなるが、魔力を辿るのはやめない。 * 「何かしら……動いているわ。ということは生きているのかしら?」 赤い翼をしまったニーナはきょろきょろ辺りを見回しながら商店街を歩いていた。何もかもが珍しく感じる。完全な獣人やいわゆる機械系の者達はニーナのいた世界にはいなかった。最初は驚いたが、彼らが街に溶け込んでいるのを見て、ここはそういうところなんだと納得した。 きょろきょろしていても誰も不審げに見たりなんかしない。ここは、そういう世界なんだろう。 「こんにちは!」 「? 私?」 ウェーブのかかった長い栗色の髪、赤い瞳。きょろきょろ物珍しそうにしている長衣の女性――あれがニーナさんだ、洋は確信を持って声を掛けた。だが捕らえに行くというよりも、お付き合いするつもりで。 「この世界は初めてですか?」 「ええ、さっき来たばかりなのよ。見たことのないものが多くて、びっくりしちゃって」 「はは、気持ちはわかります。あたしも最初は本当に0世界、珍しかったから」 これは真実。洋も最初の頃はやはり0世界が珍しくて仕方がなかったのだ。 「お困りですか? 分かるところは案内しますよ」 にこやかに話しかければ、ニーナは柔らかく微笑んでくれる。 「優しいのね。嬉しい。私の住んでいたところとは違いすぎて、ちょっと途方に暮れていたところなの」 彼女は洋より何歳か年上だろう。なのに笑うと、洋と同じか少し年下の少女のように見える。 「どこか行きたいところとかありますか?」 「それが……わからないの。この街を色々と見てみたいと思うけれど、どこに何があるのかもわからないし、何を見ればいいのかも分からないの」 下調べもなく突然知らない街に放り出されたら、確かにどうしたらいいのか迷うだろう。洋はまず自分の名前を伝え、彼女の名前を聞いたあとさり気なく切り出した。 「ニーナさんはさっき来たばかりということは、ロストレイルに乗ってきたんですよね。どうでしたか?」 「? ロストレイル? それってなぁに?」 当然のことながらニーナはロストレイルには乗っていない。それは洋にもわかっている。 「私はね、ずっと眠っていたみたい。眠っている間にウルリヒが……あ、同僚なのだけど、彼がここに運んでくれたみたいなの」 「そうですか。どちらからいらしたんですか?」 商店街をゆっくりと歩きながら洋は会話の主導権を握っていた。初対面の者同士として不自然でない形で聞きたいことを確認していく。 「どこから……難しい質問ね。私はシュテルナー国に属するヒトガタ遣いなの。だから多分、シュテルナーから来たんだと思うわ」 眠っている間に国から連れだされた、彼女はそう認識しているようだ。自分がヒトガタに宿っているという自覚はないのかもしれない。 「ここはお国とはだいぶ違いますか?」 「そうね……私の国は長く戦争をしているの。だから、こんなに綺麗でもなければ静かでも平和でもないわ。人も、こんなに穏やかな顔をしていないもの」 0世界の町並みや行き交う人々を見つめるニーナの赤い瞳にはどこか淋しさが宿っていて。洋は思わず彼女の細い白い手を取った。 「じゃあ、まずは甘いものでも食べませんか? 美味しいお菓子が食べられるお店を知っているんです」 「まぁ」 戦時中ならば甘いものは手に入りづらい嗜好品の可能性もある。そうでなくても女性はだいたい甘いモノが好きだと相場が決まっている。事実、ニーナも嬉しそうに瞳を輝かせたのだから。 * 「こんにちは、洋さん。相席させて頂いてもよろしいでしょうか?」 ニーナと初めに接触するのはやはり女性がいいかもしれない。洋がニーナと上手く接触したのを確認したヴィヴァーシュは、ノートで健に二人の居場所を伝え、そして自分もまたオープンテラスのテーブルへと近づいた。 「こんにちは、ヴィヴァーシュさん。あたしは構いませんよ。ニーナさん、こちらヴィヴァーシュさんです。相席をお願いしてもいいですか?」 「ええ、洋さんのお知り合いなら歓迎よ」 失礼します、断ってヴィヴァーシュは椅子に腰を掛ける。オーダーを取りに来た店員に飲み物を頼み、そして斜向かいのニーナを改めて見た。線の細い儚げな女性である彼女からは、ラボの前から辿った魔力の香りがした。 「貴方がニーナさんでしたか。ウルリヒさんから話をお聞きしたことがあります」 「えっ!? ウルリヒが私のことを話していたの?」 ココア味のフィナンシェをお上品に食べていたニーナの顔色が変わる。ここでウルリヒの名前が出てくるとは思わなかったのだろう。 「ええ。とても優秀で皆の憧れのヒトガタ遣いでいらっしゃると」 「ウルリヒったら……」 「でも彼はそれ以上は教えてくれなかったのです。硬派なのでしょうか、あまりご自身のことを話すタイプではないようで」 長い足を組み、運ばれてきたカップに手を付けるヴィヴァーシュ。彼女の目から見たウルリヒのことを聞けたら、そう思って言葉を選んでいた。彼女から見たウルリヒは、また違ったふうかもしれないと思うからだ。 「硬派……? そうね、硬派というか、真面目、だわ。仲間達が盛り上がっていても、一歩引いたところから静かに見ているタイプなのよ。そのせいか、細かい所によく気づくわ。他人の気持ちにも敏感だけど……あまり自分の意志を口にだすことはなかったわね。他人の悪口とかも言わないわ。その代わり自発的に褒めることもあまりなかったけれど」 タピオカミルクティーを物珍しそうに飲みながら告げられた言葉に、洋の頬が微かに緩む。 「ニーナさん、ウルリヒさんのこと、よく見ているんですね」 「え、特に深い意味は、ない、わよ。同僚のことだもの、そ、そりゃあねぇ……」 焦ったように取り繕って俯くその様子がなんだか可愛く思える。 と、足音が近づいてくることに気がついた。駆け足だ。音のする方向へ三人で視線を向けると、ニーナ以外には見覚えのある白衣姿の青年が、こちらへと向かってきていた。健だ。 「おそくなって、ごめん! あ、ちょっと水、貰うな」 走ってきた健はテーブルの前で足を止めると、誰も手を付けていなかったお冷を飲み干した。セクタンのミネルヴァの瞳を使いながら探していた所、ノートに連絡が来ているのに気がついて駆けつけたのだ。 「健君、座ったら?」 洋の勧める椅子にどがっと腰を掛けて、健は一息ついた。そして。 「ニーナさん、だよな? お願いがあるんだ!」 「えっ……? わ、私?」 健の真っ直ぐな瞳と勢いに押され、ニーナは怯えるようにして身を引く。 「絶対今のあんたを呼び出すから、あんたの事を教えてくれ」 「……?」 「健君」 「健さん、少し落ち着いたほうが」 洋とヴィヴァーシュに声を掛けられ、健ははっと我に返る。そういえば自己紹介もまだだった。 「ごめん。俺は坂上健だ。ウルリヒに頼まれてあんたを探しに来た」 「……さっきのはどういうこと? 私を呼び出す? 私のことを知りたい??」 ニーナは健の言葉の意味がよくわかっていないようだ。だが、それが健には非常にもどかしく思えてならない。 「男は打たれ弱いんだよ! あんたを無意識に呼び出したのはウルリヒだ、でもだからウルリヒは混乱してるんだ! ニーナとかけ離れた自分の望みを呼び出したんじゃないかって」 「健君!」 扉をバンッと叩いて勢いそのままに言葉を吐き出した健の名を、洋が鋭い声で呼ぶ。 場に、沈黙が降りた。 ニーナは驚いたように目を見開き、そして目を閉じた。その『間』はまるで健の言葉の意味や状況を咀嚼しているかのようだ。 「……なにかおかしいと思ったの。目が覚めたら知らない所にいるし、ある時からぱったりと会いに来てくれなくなったウルリヒもいるし……ここは、私達のいた場所とは違いすぎる」 「ニーナさん……」 淡々と告げる彼女。けれども声色とは反対にその瞳は揺れていて。ヴィヴァーシュは彼女の名を呼んだ。 「大丈夫よ、わかったわ。私……」 「私、ヒトガタなのね?」 彼女がそういった瞬間、あたりの騒音が全て消えたように静かになった気がした。 彼女はもう自分が何であるか確信している。ここで嘘を伝えても益はない。 「ごめんなさい、黙っていて」 「いいのよ、私の……ウルリヒのためだったんでしょう?」 申し訳無さそうに謝る洋に向けられた笑顔がすっきりしているようで、なんだか胸が痛む。 「俺は昔、その人本来の言動とは違う幻に会った事がある。そんな風に認めて欲しかったのかと、自分の醜悪さに眩暈がした。大事な相手だからこそ自分の主観で歪めたくない、違うか?」 健が思い出すのはフライジングで逢った幻。あの時抱いた後悔じみた苦い思いをウルリヒには味あわせたくないと思う。 「あんたの事を教えてくれ、あんたとウルリヒが素直に向き合える時間を作る手伝いを、あんたとウルリヒがきちんと語り合える手伝いをさせてくれ、頼む!」 がばっ……テーブルに額を突きつけて健は頭を下げる。ニーナは、考えているようだ。確かにいきなりこんなことを言われても、すぐに判断できないだろう。 「あたしからもお願いします」 その時健の意思を後押ししたのは、洋の声だった。 「もし、今何かしたいことがあるのならば出来る限りお手伝いします。のぞみがあるなら、それが叶えられるなら、お手伝いしたいんです。……会えなくなる辛さは知ってるから」 「私からもお願いがあります。ニーナさんの希みを叶えた後は、ウルリヒさんと会ってはいただけませんか? 彼も、今ならば少し落ち着いているでしょう」 ヴィヴァーシュも告げた。元々時間前にはラボへと連れて帰り、ウルリヒに合わせてあげたいと思っていたのだ。 再びしばしの沈黙。カラカランとカフェのドアベルの音が響く。 「……ウルリヒは幸せね。こんなにも心配してくれる人がいて」 くす……ニーナが微笑んだ。その笑みはどこか幸せそうだ。 「いいわ、私のことを話してあげる。ヒトガタを使って呼び出すには、情報が多ければ多いほどいいものね」 「! ありがとう!」 思わず立ち上がり、健は深く頭を下げた。それにね――ニーナは歌うように付け加える。 「私の希みは――……」 *-*-* ニーナを連れてラボに戻る――そう連絡を受けたウルリヒは、腕時計の示す残り時間を確認しながらラボの表で一同を待っていた。 「皆さん……ニーナ!」 「大丈夫、今のところ暴走はしていません」 洋の報告に彼がほっと胸をなでおろした。もしニーナが暴走して他者へ危害を加えそうになったとしたら、どうあがいてでもそれを阻止したいと洋は思っていた。暴走を止める方法が、『核』の破壊しかないのなら、尚更。 「ウルリヒさん、ニーナさんにはどうしても叶えたい希みがあるそうですよ。彼女の希みを叶えるのを手伝ってもらえませんか?」 「私にできることでしたら……」 ヴィヴァーシュの言葉に戸惑いつつも頷くウルリヒ。 「ニーナ、約束は守るからな」 「ニーナさん、ほら……」 健との約束が守られることを信じ、そして洋に背中を押されてニーナは一歩一歩、ウルリヒへと近づく。 長衣の裾と栗色の髪を揺らしながら近づいてくる彼女から、ウルリヒは視線を外すことも動くこともできないでいた。 「ウルリヒ」 50cmほど間を空けて立ち止まったニーナは、背の高いウルリヒを見上げる。その更に後方に立つ三人は、ニーナの希みが叶えられることを祈っていた。 「私、ね」 甘く、優しい声が言葉を紡ぐ。 潤んだ赤い瞳がアイスブルーの瞳を射抜く。 次の言葉が発せられるまでの間が、無性に長く感じられた。 「愛しているわ、あなたのこと」 「……!?」 ウルリヒの瞳が見開かれる。彼としては、そんなことを告げられるとは思っていなかったのだろう。 かちり 時計の秒針が残り時間を告げる。 ゆっくりと、ニーナの輪郭がぼやけていくのが離れている三人にも分かった。時間が来たからなのか、彼女が自発的に戻ることを望んだのか――。 「ニーナ!!」 ウルリヒが彼女を掻き抱くように腰に腕を回す。 力を失った彼女は崩れ落ちるように彼の腕の中へ――しかし。 彼の腕の中に残ったのは、ぐったりとした詰め物の人形、ヒトガタだった。 「ウルリ……」 彼に近寄った三人は、かけようとした言葉を飲み込んだ。 彼の仮面で隠していない方の瞳から、一筋、涙がこぼれ出ていたから――。 【了】
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