「親分、お待たせしたダス!」 新春運動会が無事終了した後のモフトピア。 馴染みのアニモフたちと話を済ませた使い魔ムクは、丸い体をコロコロと転がしながら、フェリックス・ノイアルベールの元へと帰ってくる。 「もういいのか」 「はいダス!」 普段と変わらない調子で聞いたフェリックスに、ムクの明るい声が返ってきた。表情も、いつもよりも華やいでいるように見える。 「親分?」 向かい合っていた顔がふいに反対側へと向いたので、その声は今度は怪訝そうな響きを帯びた。 「……少し、モフトピアを見て回るか」 フェリックスは呟くように言うと、背中を向けたまま、さっさと歩き始める。 ムクはきゅっと首を傾げてから、急いで主人の後を追った。 「今日はいい天気ダスね!」 「モフトピアは大体、こんなものだろう」 笑顔で漏らした感想には、素っ気ない言葉が返ってくる。 ムクもそれはよく知っているが、一緒に観光できるのが嬉しくて、何か言いたくなっただけのことだ。 フェリックスは小さな気配がついてくるのを感じながら、柔らかな青色をした空を見上げた。 日の光は強すぎもせず、弱すぎもせず、どこまでもあたたかい。 時折、かすかに甘い匂いのする風が、思い出したかのようにさわさわと吹いてきて、肌を心地よくくすぐった。 緑の草原は上質の絨毯のように柔らかく、歩く衝撃を感じさせることがない。 今日は、運動会に参加するために、ここへとやって来た。 けれども、せっかくの機会だから、しっかりと見て回らねばならない。 この世界が、大事な使い魔を預けるに相応しい場所なのかを見定めるために。 「あっ」 しばらく歩いたところで、何かを発見したムクは、突然走り出した。 「噴き出す泉ダス! こっちの浮島にもあるんダスね」 それは以前、駅の近くで遊んだ泉に似た場所だった。あの時と同じように、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。 ムクは早速、噴き出している水へと飛び乗った。すかさずコロコロと転がり、バランスを取る。 「親分、見て! 見て!」 「言われなくても見ている」 はしゃぎながら水流にあわせて回るムクの姿は、話を聞いた時に想像した通りで、それが何となく可笑しい。 フェリックスが表情を和らげたのが嬉しかったのか、ムクは得意げにジャンプをしながら高さの変わる水流を乗りこなしてみせ――そのうち足を滑らせて、下へと落ちた。 ぼちゃんという音とともに、大きな水の粒が、日の光を受けて輝きながら辺りへと飛び散る。 「注意を怠るからだ」 「忍者も水から落ちる、ダス」 呆れたような主人の言葉にもムクは笑い、水辺に上がってプルプルと体を震わせ、水滴を飛ばした。 そして、また興味深そうに周囲を見回し、一本の木のところで首の動きを止める。 「あっ、あれは!」 「今度は何だ」 「あの実、すごく美味しいんダスよ! 親分にも取ってきてあげるダス!」 言うが早いか再び転がり出し、木へと登ったムクは、すぐに黄緑色の木の実を二つ持って戻ってくる。 ムクの手には余る大きさではあるが、転がりながらお手玉のようにして運んでくるあたり、流石といえるかもしれない。 「はいダス!」 ポンと飛んできた実の一つを片手でキャッチし、フェリックスはそれをしげしげと眺めた。 涙滴型をした実は梨に似ていたが、光沢があり、グミのようにも見える。 「うまいダス!」 主人がそうやって観察している間に、使い魔はさっさと食べ始めていたので、フェリックスも一口かじってみることにした。 「……成る程」 瓜のような風味の実だった。果物というよりは、きゅうりに近い味だ。これならばムクが気に入るのも頷ける。 他の木も眺めてみると、様々な形状や色の果実が生っていた。フェリックスはモフトピアの食物を把握しているわけではないが、きっとムクが気に入るようなものが、他にもあるに違いない。 それから二人で、色々な場所を歩いて回った。 自分が知っている以外に、アニモフたちから聞いた場所もあるのだろう。ムクは時折、慣れ親しんだ土地のようにフェリックスを案内した。 「親分、見てダス! お盆の上にお日さまが乗ってるみたいダスね!」 白く平らな形をした山の上に、ちょうど太陽が位置している。その光が、徐々に、徐々に弱くなっていく。 流れる雲に乗って移動し、三つ目の浮島。二人はそこで、夜を迎えようとしていた。 「ああ」 フェリックスも夕日を眺めたまま、気のない返事をする。 今、隣に視線をやれば、目を輝かせたムクの姿があるのだろう。 「……お前」 少し躊躇ってから、また口を開く。 「この世界が、随分と気に入っているようだな」 それから実際に見たムクの表情は、想像とは全く違い、冴えないものだった。 こちらを見上げる黒い瞳が、明らかに潤んでいる。 「……親分は、そんなにワシが邪魔なんダスか?」 意外な言葉だった。 そして、今までムクなりに察するものがあったのだということに、フェリックスは初めて気づく。 「それは――」 そんなことでは決してない。 ムクから故郷への道を奪ったのは自分だから、新しい故郷を見つけてやるのが義務なのだと、ずっと思ってきただけだ。 「お前には、傷が舐め合える相手が居た方がいいだろう」 だが、口から搾り出されたのは、裏腹な思い。 「そんな言葉は欲しくないダス!」 それを聞いたムクは、かつて見たことがないほどに強い口調で、激しい感情をあらわにした。 「親分の気持ちは? 親分は本当に、ワシにいなくなって欲しいんダスか!?」 何か答えねばと思ったのに、今度は何も出てきてはくれない。 「……それが、答えなんダスね」 フェリックスを震えながら見ていたムクは俯き、それから何度か首を振ると、彼に背を向けて走り出す。 追おうとした足は、柔らかな地面に縫い付けられたかのように動きを止めた。 (これでいい) その足を動かせば、ムクの幸せをまた、壊してしまう気がした。 ◇ 「親分のバカ! バカ! バカぁ!」 ムクは子供のように泣きじゃくりながら、赤く染まった大地を駆ける。 その様子を見て、心配そうに寄ってきてくれるアニモフもいたが、気づかないふりで走り続けた。とにかく今は、一人になりたかったのだ。 ただの観光ではないことは、薄々わかっていた。 それでも、フェリックスと二人で一緒にモフトピアを見て回れるということが、何より嬉しかった。 涙がとめどなく溢れ、白い毛先に突き刺さっては弾ける。 激しい動きに加え、漏れる嗚咽が呼吸をさらに苦しくさせた。 「なんで、なんでダスか……!?」 ずっとずっと、一緒だったのに。 「ここ、どこダスか……?」 やがて疲れも出て、段々と走る速度も落ちて来る。足の向くまま進んだので、どこをどう来たのかもわからない。 「……でも、どこだっていいダス」 今まで、親分と呼びながら戻れば、文句を言いながらもフェリックスは迎え入れてくれた。 だけどもう、そうはならないのかもしれない。 その考えにぶるっと身を震わせ、ムクは行く当てもなく、とぼとぼと道を進んだ。 辺りはすっかり暗くなり、大きな丸い月が、立ち並ぶ木々へと優しい光を落としている。 その光景は幻想的でこそあれ、恐いと感じるようなものではなかったが、胸の中の寂しさを一層大きくさせた。 それからどれくらい歩いただろうか。 草むらをかき分けた先が急に開け、ムクは目を凝らした。 「……湖があるダス」 そこには、先ほどの泉とは比べ物にならないくらい大きな水が広がっている。 静かなその表面は、まさに鏡のごとく大きな月を映し出していた。 「綺麗ダスね……」 ムクは湖へと吸い寄せられるように近づき、ほとりにあった丸い石の上にぽつんと座り、空を眺める。 「お月見にぴったりの場所ダス。こんな眺めのいい場所で、きゅうりでも食べたら最高ダス。親分は――」 言いかけ、口をつぐむ。鼻の奥がつんとして、また涙が出そうになるのを、ぐっと堪えた。 口を閉じてしまえば、あたりには静寂が広がり、また寂しさも膨らむ。ムクが何か話し出すのを、世界が耳をそばだてて待っているかのようだった。 「……親分がワシをモフトピアに帰属させたがってること、わかってるダス」 気を紛らわせたくて、湖面の月を見ながらムクはまた呟き始める。 「ワシだって、バカじゃないダスよ。どれだけ一緒にいると思ってるんダスか。すました顔してたって、親分の考えなんかお見通しダス」 そういった思いを、主人が表に出すことはない。 けれども彼が何を考えているのか大体の察しはつくし、モフトピアに来てからも、なんだか様子が変だった。 「モフトピアは友達もいるし、好きなところダスが、ワシは親分のそばを離れたくないダス」 はぁ、と大きなため息が漏れる。 「……でも、親分はきっと違うんダス」 故郷にも思い出はある。けれども、もう自分の家だと胸を張って言えるほどに、フェリックスのそばで長い時を過ごした。 前足を何気なく動かすと、爪の先が何か硬いものに触れる。 それは、星型をした石だった。ムクはそれを遠くへと放る。 石は軽い音と波紋を残し、湖の中へと消えた。 「大体、ご主人様と呼べとか言うくせに、ちっとも使い魔の気持ちをわかってないダス」 また石を投げる。水の中に吸い込まれていく星を見ていると、悲しみが次第に腹立たしさへと変わっていった。 「そんなに気にするなら、もっと優しくしてくれてもいいダス」 今度は二つの星が空中でぶつかり、それぞれ軌道を変えて水へと飛び込む。 「毎日きゅうりづくしの食事が出てきたっておかしくないダス」 やがて手当たり次第に投げ込まれた星の数が、十にもなろうとした時――大きな丸い石が、それに覆いかぶさるようにして落ちてきた。 派手に湖面が叩かれ、水が大きく飛び散る。 驚いて振り返った先には――見慣れた男の姿。 「お、親分」 「随分と言ってくれるじゃないか」 その表情は、陰になってよく見えない。 ムクが何か言おうと口を開くよりも早く、フェリックスはぷいと背中を向けた。 「帰るぞ」 叱られるかと身構えていたが、降って来たのはいつもの調子の声だった。 それでも動けずにいるムクへ、フェリックスはつかつかと歩み寄ると、小さな体を鷲づかみにし、己の肩へと乗せる。 そして、無言で歩き出した。 少しの間、靴底が草を踏む音だけを聞いていた。 夜の闇はなお暗く、けれども月や星たちはより明るく、自らの姿を顕す。 「……ここは悪くない場所だ」 沈黙に耐えかねたように口火を切ったのは、珍しくフェリックスのほうだった。 「遊びに来るにはな。だが、どうもほのぼのし過ぎていて、私の肌には合わない」 その意図を掴みかねて、ムクは肩の上からぽかんと、主人の横顔を覗き込む。 「だからお前も、遊びに来るだけだ」 「親分……?」 「どうした。澄ました顔をしていても、私の考えなどお見通しなんだろう?」 向けられた目は、夜の明かりの下で、いつもよりも優しい色をしているように見えた。 じわじわと安心とも喜びともつかぬ感情が、胸のうちへと広がっていく。 「もちろんダス。お見通しダスよ!」 ムクはそう言ってもう一度しっかりと、フェリックスの肩を掴む。 そうしてまた、言葉は失われる。今度は心地の良い沈黙だった。 木々は風に揺れさわさわと、草は足下でさくさくと声を立て、空の明かりはこうこうと、導くように指し示す。 二人の家へと続く道を。
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