異界より至り、世界の内側に閉じ込められ、ありとあらゆる負の感情を刷りつけて消滅した神の残滓、『トコヨの棘』に関するものごとが一段落し、しばらく経ってからのことである。 帝国は、【箱庭】に対するすべての侵攻を取りやめ、兵を撤退させた。 同時に、全【箱庭】へ向け、『深部』やトコヨの棘に関する資料を添えてこれまでの経緯を発表、以後、帝国はいかなる【箱庭】への侵攻も行わない旨を宣言した。「まあ、そうは言っても『お前らの言うことなんか信じられるか!』ってなもんでな。まだまだ先は長いわ。時間をかけて向き合っていくしかないだろうな」 ロウ・アルジェントは膨大な量の資料や書類を前にげっそりした表情を見せている。俺、側近とはいえ武官なんだけどな、などと言いつつ、書類をひとつひとつ確認し、サインを書き添えてゆくロウの顔は、ぼやいてはいるが穏やかだ。「組み入れた【箱庭】に関しちゃ、棘の脅威がなくなったのもあって、帝国からの脱退を望むならって話をしたんだが、まあ、クルクスの治世は正直そこらの為政者の何倍も優れているし平等だからな。今のところ出ていきたいって声は聴かれない。特に一般の民がこのまま所属したいって言ってくれてるみたいで、俺としちゃそれは嬉しい」 至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレは、今日も、稀代の皇帝クルクス・オ・アダマースを筆頭に、帝国及び帝国領の【箱庭】を繁栄させるべく、全力で邁進している。 先の見えない戦い、シャンヴァラーラの民同士が争う構図は、ひとまず、落ち着いたと言っていい。「救いと言えばもうひとつ、ヒノモトの武将に好意的なやつらが多いことだな。あいつらが華望月全体の説得に回ってくれてるおかげで、かなり助かってる」 ――皇帝は、すべての棘の脅威が取り除かれたあかつきには、すべての責任を取って死ぬつもりでいたようだった。具体的に言えば、後継者を指名し、その後継者に自分を『世界を混乱させた大罪人』として処刑させようとしていたのだ。 しかし、彼は思いとどまった。 それがロストナンバーたちの功績であることは、今さらいうまでもない。「ん? クルクスか? たぶん棘の保管施設じゃないか。――帝都の外れにつくったんだよ。ルーメンが管理者っていうか、まあ、結界の核みたいになってる。あの棘もな、考えてみりゃ、憐れなもんだよな。俺ももとは異界の神だから、消えたそいつが抱いただろう気持ちは、ちょっとは判る」 ロウは、よければ皇帝やカイエに会いに行ってやってくれ、と言葉を継ぎ、「竜涯郷の古龍たちから、仔竜がずいぶん大きくなったから遊びに来ないかという誘いがあったぞ。あとは……」 シャンヴァラーラのあちこちで、旅人を待つ顔や声があることを知らせる。 『電気羊の欠伸』は、いつも通りの不可解さ理不尽さ不条理さでもって、旅人たちの訪れをいつでも受け入れているし、再誕都市アレグリアでは、美術展覧会が大々的に開かれているという。『華望月』の一角、ヒノモトでは、カミに感謝する祭の真っただ中であるそうだ。 もうじき春を迎える帝国では、その先駆けのように、帝都中で真っ白な花が咲き、それを喜ぶ人々が、露店を出してみたり旅芸人たちが盛大なショウを執り行ったり、楽団が音楽を響かせたりするという。「要するに、自由ってことだ。この世界は自由になった。これからも戦いや争いはどこかで起きるだろう、だけどそれは、世界ごと消えてなくなる絶望を孕んじゃいない」 消えた神の怨嗟から解放された世界は、正常な未来への道筋へ乗り、それぞれに繁栄し、いのちをつないでゆくことだろう。 ひとつの区切りが、そこには現れていた。「それに」 一心不乱にサインしつつ、「ワールズエンド・ステーションが見つかるかも知れないって言うじゃないか」 書類から目を上げることもなく、ロウがぽつりと言う。「あそこが見つかったら、もう会うこともなくなるやつも出てくるだろう。だけどそれは別に哀しいことでもないんだよな。ただ、そうだな、もしも許されるなら、あんたたちの門出を、どこかで祝わせてもらえたら嬉しいって思うんだ。なんせ、あんたたちは、このシャンヴァラーラの恩人なんだから」 別れの近づく人々も、旅はこれからという人たちも。 少しの間、この多彩で多様な、色鮮やかな世界でのひとときを、自由気ままに楽しんでほしい。 ロウは明確な安堵の表情とともにそう笑い、旅人たちを送り出すのだった。====================このシナリオは、ロストレイル13号搭乗者決定以前のできごととして運営されます。====================
1.自由 帝都アウルム・ラエティティアは、偽りなき平和を享受し、瑞々しい活気を持ってにぎわっている。旅人たちが肌で感じていた、じんわりと腹の底に響くような、昏い影はどこにもない。 とはいえ、帝国がこれまで行ってきた侵攻を発端とする、【箱庭】間の緊張が消えたわけでもない。 帝国は、至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースの性質ゆえに、自国領へと組みこまれた【箱庭】に対する理不尽な搾取などいっさい許さず公平に扱っているが、それでも、「故郷を奪われた」と憎しみを抱き続けるものも、自分の身勝手な支配権を取り上げられたと憤るものも、皆無ではないのだ。 よって、帝都をはじめとした帝国領のあちこちには、いまだものものしい武装に身を包んだ兵士たちの姿が見られるのだった。 「まあ、そうは言っても」 ロウ ユエは美しく整備された帝都の道を歩きつつ、ぽつりとつぶやく。 見渡せば、白亜の街並みと、そこかしこに自然と存在し心を和ませる緑がゆったりと溶け合った、洗練されていながら冷ややかさはない、理想的な街並みが目に入る。 「ん? どうしたの、ユエさん」 「……トコヨの棘でばたばたしていたからな、それどころではなかったが」 黒燐の問いに、かすかな笑みを浮かべる。 「うん、ほんと、ごったごただったからねー」 「ああ。だからこそ、なおさら思う。……帝都は、美しいところだな」 目を細め、言えば、黒燐はにっこり笑って頷いた。 「そうだね。この美しさが護られることに、ほんのちょっとでも貢献したんだと思うと、僕は何だかうれしいよ。何と言っても、僕は北都の守護者黒燐だからね」 胸を張る黒燐を、ユエは好ましげな笑みとともに見ている。 「好きなように行動していいとのことだったが、黒燐はどうするんだ?」 「ん、僕あっちこっち行ってみたいんだよね。その辺散策するだけでも楽しそうだし。でもまあ、まずは一衛さんに会いに行こうかなって」 「ああ、そうだな。俺も、あの後どうなったか気になっていた」 連れ立って歩き、帝都の賑わいを目や耳で楽しみながら進めば、帝国から別の【箱庭】へと移る際に利用する『扉』――これは『電気羊の欠伸』から贈られた簡易移動装置であるという――が設置された区域には、見知った顔がいくつも勢ぞろいしていた。 「あ、一衛さんお久しぶり。元気にやってる? ……って、夢守にも使える言葉なのか判らないけど、ロストナンバー生活、満喫してるんだって?」 黒燐がぶんぶんと手を振ると、黒羊プールガートーリウムの意思によって覚醒し、黒燐たちと同じ旅人となった黒の夢守は頷いてみせた。 「元気という概念は夢守には難しいが、変わりなく存続しているという意味では『元気』だ」 「シャンヴァラーラ以外にも出かけてるの?」 「そうだな、先日はブルーインブルーに行った。私は、シャンヴァラーラほど広大な世界は存在しないと思っていたが、その考えは改めなければいけないようだ」 「ああ、満喫したんだね」 「メモリの上書きに少々手間取る程度には。黒燐、お前は?」 「うん、僕も満喫してるよ。それに、今日は、シャンヴァラーラのいろんなものごとを思う存分楽しむ気で来たからね!」 そうかと頷く一衛に、声をかけるのは歪だ。 「ブルーインブルーへはいっしょに行ったから判るとして、一衛、そういえば『電気羊』以外の【箱庭】にも行くのか?」 「いろいろなところへ行っている。我々夢守は、行かずとも知覚できるが、やはり、実際に行って確かめるのは、違う」 「ああ、百聞は一見にしかず、っていうことわざと同じだね。百の知識も、一の経験があってこそ活きる」 おっとりと笑う蓮見沢理比古と、先述の歪は、現在、覚醒したてで不慣れな一衛の世話役というか、教育係というか、指導役を依頼されている。もちろん、黒羊および夜女神ドミナ・ノクス直々に、だ。 「たくさんの経験をさせてやってほしい、ということだったが……一衛、お前は何が見たい。お前の手伝いなら出来る限りのことをしたいとは思うが、俺も、それほどいろいろなものごとに精通しているわけではないから」 歪は、一衛が覚醒し、ロストナンバーとなったこと、本体である黒羊と、『電気羊の欠伸』という世界から解き放たれて自由になったこと、これまでに培われた心が無意味なものにならずにすんだことをとても喜んだひとりだった。 彼にとって、一衛は『見知らぬ友人』だ。幾重にも連なる世界群の片隅で出会い、判れた『もうひとり』の面影を残し、どこかにつながりを感じさせる、『懐かしい他人』だ。だからこそ、歪は、あの時、消えたくないと、生きたいと――存続したいと願った一衛を貴ぶし、その変化を、そして自由を喜ぶ。 それゆえの、歪の言に、 「どこでも、何でもいい。何を見ても、感じても、許されることこそが、私の歓びだから」 返る言葉は朴訥だ。 「そうか。なら、ヒノモトや竜涯郷、その他の【箱庭】も回ってみるか。理比古、あんたはどうなんだ」 「俺? とりあえず、皇帝陛下には会いに行きたいって思ってる。あと、アレグリアの芸術祭?」 「ああ、ミゲルが行くと言っていたな。そこには、俺も興味がある」 「あっみんなも芸術祭、行くんだ? 僕も気になってるんだよねー。僕の故郷にはさ、ガラスっていうの? ああいうキラキラしたものがなかったんだけど、そういうものを使った芸術品もあるかな、って」 「そうだね、あると思うよ。俺が仲よくしてもらっている人たちが、すごい細工をやる職人さんなんだよね。もしかしたら、そういう細工を出展していたり、しないかなあ」 誰ともなく、めいめいの目的を果たしたあと、アレグリアの芸術祭を見に行こうという話になり、灰羊の領域に用があるというユエが『扉』をくぐる。黒燐も、じゃあ先にヒノモトを観に行って来るね、と笑い、出ていった。 「理比古、アポ、取れたぜ。皇帝陛下はやっぱり棘の保管施設らしい。カイエもいっしょにいるってさ」 そこへやってきたのはアキ・ニエメラだ。 彼もまた、堕ちて消えた神にまつわる一連の事件に、深くかかわったひとりだった。 アキは特に、シャンヴァラーラへと流れ着いた世界計の破片を身に受け、『たったひとり』のために世界さえ敵に回そうとした青年のことを気にかけていて、今日はその様子見も兼ねているとのことだ。 「そっか。じゃあ、挨拶に行こう。一衛、歪さん、またあとでね。あと、一衛、今度いっしょにヴォロスに行かない? あそこも、メモリが混乱するくらいすごいところだよ」 「そうか。なら、チケットを取りに行かなくてはな」 頷く一衛に手を振り、アキと連れ立って歩きはじめようとしたところで、 「ああ、そうだ、もうひとつ」 『電気羊の欠伸』へ移動しようとしている歪と一衛の背へ、ふと思い立ったという風情で理比古が声をかける。 どうした? とばかりに、どこかあどけなくすらある仕草で首をかしげるふたりへ、理比古は微笑んだ。何とも微笑ましい、和やかな光景だ、などと思う。双方、外見で言えば二十代前半から半ばといった様子なのに、どうにも、頑是ない童子を髣髴とさせる。 「うん。一衛、あのね」 「ああ?」 「ありがとうって、改めて言っておかなくちゃって」 それが突拍子もなく感じられたのか、一衛がまた首をかしげる。 「礼を言うべきなのは私だと思うが。……礼、というものへの、私の理解が、間違っていないのなら、だが」 「ううん、想彼幻森で、かけてくれた言葉。一衛、教えてくれたでしょ、いろいろ」 0世界とシャンヴァラーラの行き来が始まったばかりのころ、理比古の未来は定まっていなかった。精神もまた、ふらふらと揺れ動き、弱さと苦しみを繰り返していた。それを掬い上げ、希望を与えてくれたのが、一衛だったのだ。 「あの時、一衛が俺に、道を指し示してくれたから、俺は絶望せずに済んだし、あの子に逢うことが出来たよ。俺の糧、生きる意味が、一衛の言葉のおかげで鮮明になったんだ。だから、ありがとう」 ここで言うべきことでもないけどね、と笑う理比古に、一衛は真っ直ぐな目を向け、そして、 「……そうか」 はにかんだように、微笑んだ。 その、微笑みの貴さを、ここにいる人々ならば、理解出来るだろう。 * タリスは、ミケランジェロとともに、早々にアレグリアへとやって来ていた。 タリスの頭上を見つめ、ミケランジェロが顎を撫でる。 「ぼくのあたまのうえ……数字、出てる? ほんとに?」 「何度見ても真理数だな」 ミケランジェロの応えに、タリスはパァッと顔を輝かせた。 「えーと、それって、もしかして」 「おう」 「ぼく、ここに……アレグリアに、『還って』も、いいの?」 「そういうことになるだろうな」 更にミケランジェロが応えると、タリスの眼は喜びにきらきらと輝いた。 それから、鴉猫は大きく大きく頷く。 「うん……還るよ。ぼく、還る。クレオのいる、このまちに! ぼく、アレグリアのひとになる。アレグリアで、絵を描いて、生きる!」 ぴょんぴょんと跳ぶタリスは、とても嬉しそうだ。 かつて居場所をなくし、打ち棄てられていたAIは、今、自分の生きるべき場所、寄る辺を手に入れようとしていた。 「そっかぁ……ぼく、ただいまって言えるんだ。なんだろう……すごくどきどきする。同じくらい、わくわくもする」 不思議だね? と小首をかしげるタリスを、――この、鴉猫が『還る場所』を選び取ろうとしていることを、 「まァ……そうだな、悪くねェ世界だ。ここに根を張るのだって、悪くねェだろうよ」 非常に判りづらいやり方で祝福するミケランジェロである。伝わっているかどうかは、さておき。 「おおい、タリス、ミケランジェロ! 来てくれたんだね!」 そのとき、遠くのほうからふたりを呼ばわる声がした。そのとたん、タリスは満面の笑みを浮かべて走り出した。 「クレオ!」 そして、獅子型獣人の姿をしたロボットへ駆け寄ると、勢いよく飛びつく。 「いらっしゃい、タリス。ミケランジェロも。話は聞いてる? 今日からしばらく、アレグリアでは芸術祭が行われるんだよ。描いても創っても、見て楽しんでもいいんだ」 「おう。俺も、何かやろうかと思ってる。で、お前の絵は?」 自分の、大きな身体をよじのぼるタリスの尻を支えてやっていたクレオは、ミケランジェロの問いに照れくさそうな顔をした。 「中央の広場に飾ってもらってるんだ。この辺りじゃ一番の細工師兄弟が、すばらしい額縁をつくってくれてね。自分で言うのもなんだけど、すごいものが出来上がったよ。ぜひ、見てほしいな」 照れつつも、自分のつくりだした作品への愛着や誇りを感じさせる風でクレオが言えば、彼の肩でタリスが跳ねる。 「ぼく、クレオの絵、見たい! 見に来た!」 「うん」 「それとね、ぼくも絵を描きたい。いっぱいいっぱい、描くよ!」 「そうか……楽しみだな。タリスやミケランジェロの絵を、また観られるなんて」 「うん、うん。ぼくね、ヴォロスの緑とか、ブルーインブルーの青とか、たくさん描いてみたいんだ。インヤンガイの黒とか、カンダータの灰色は少しこわかったけど、それでもたくさんの色があったよ」 「ああ、そうだ。世界には、色が満ちているね」 「うん、壱番世界もそう。ゆきかうひとの数だけ、色があるんだ。ぼくはそれ、すごいことだと思うんだ」 命や事象、ことがら、想いの数々が、世界を彩り、色づかせ、輝かせる。 掬い上げられ、救われ、旅人としての存在を許されたおかげで、タリスはたくさんの色を見ることが出来た。 「ぼく、その色を描いてみたい。それでね、たくさんのひとに、観てもらいたいんだ。誰かが、その絵をすてきだねって言ってくれたら、そのとたん、絵はもっとたくさんの色をもらうんじゃないかって思うから」 全身から、絵への愛と、それを描くことのできる喜びをにじませ、タリスがにこにこと笑う。 無論、否定の声の、上がろうはずもなかった。 2.後日談 川原撫子は、帝妹ローザ・オ・アダマースのもとを訪れていた。 撫子もまた、先の、カイエ・ハイマートが切実な願いによって引き起こした、反逆とも言えぬ反逆に深くかかわったひとりだった。 「お城に入るとき、たくさん相談に乗ってもらっちゃったのでぇ」 そのお礼がしたかったのだ、と言えば、ローザはまさに薔薇の如くに微笑んで、撫子を居宅へと招き入れてくれた。 ここへは何度か訪れているが、自宅内部へ足を踏み入れることは初めてだ。彼女の住まいは、帝国でもっとも貴い女性とは思えぬほど小ぢんまりとしていて、簡素で、それでいて色鮮やかだった。 「わあ、素敵ですねぇ」 上り口に、廊下に、それぞれの部屋に、ローザ自身が育てたのであろう、さまざまな花が飾られている。それらは瑞々しく、華やかで、眼に潤いをくれた。 あちこちの壁――しかし、決して目にはうるさくない間隔で――には、犬や猫、小鳥が花といっしょに描かれた、和やかな印象の絵画がかけられている。帝国軍総帥ゼヴィラスの直筆で、これは彼の趣味であるという。 「なんだか、幸せっていうものが凝縮されている気がしますぅ」 帝妹ローザは四十代後半、独立しているとはいえ子どももいる、妻であり母でもある女性だ。しかし、撫子は、この住まいから、ローザの持つ、凛々しい、いわゆるキャリアウーマン像と同時に、少女のように可愛らしい空気を感じ取ってもいるのだった。 「ええとぉ、あの。これ、お礼というか、お土産に……」 何にするか、正直言って、最後まで悩んだ。 使い勝手を考えて、結局、シルクのハンカチに刺繍をし、レェスをかがって贈ることにしたのだった。 「あら、すてき」 撫子は手芸や裁縫に特化した才能は持たないが、丁寧にやれば、そこそこきちんとしたものが出来る程度には器用だ。それが幸いした。 ローザ邸で見た紋章や、庭に咲き誇っていた薔薇を組み合わせて意匠化し、刺繍した。外周には繊細なレェスを飾り、一枚よりは二枚あったほうが、と思い直してもう一枚には撫子の花を刺繍した。 「これは、あなたと同じ名前の花ね。可愛らしいわ」 「えっ、そうですかねぇ……可愛くならなかったかもぉって、ちょっと焦ったので、そんなふうに言われると嬉しいですぅ」 『可愛くないかも』と慌てて桜の花びらも刺繍したのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。 「あと、パウンドケーキも焼いてみましたぁ。私の住んでいる辺りでは、今、りんごがとってもおいしいのでぇ、キャラメリゼしたりんごと、香ばしく炒ったくるみを使ってみたんですがぁ」 「りんごとくるみはとてもよく合うわよね、撫子さん、よく判ってらっしゃるわ。すてきなものをいろいろと、ありがとう。ケーキは、夫とお茶の時間に頂くわね」 「いえ、そんな。ノート借りたり、相談に乗っていただいたりしたので、お礼がしたかったんですぅ☆」 「お礼をしなきゃいけないのはわたくしのほうなのに、律義ね」 万感の思いが込められた一言に、 「陛下もカイエさんもロウさんもみんな無事で、本当に……よかった」 ぽつりとこぼれたそれには、撫子の、素の言葉がこめられている。 ローザが微笑み、うなずいた。 この世界はもう、心配ない。 完璧な世界などはどこにも存在しないだろうが、心ある人々がいる限り、よき方向へとまわってゆくだろう。 それが判るから、撫子は話題を変えた。 少し、照れつつも。 「えぇとですねぇ、おめでたいついでの言い触らしなんですがぁ……私、結婚することになりましたぁ☆」 「まあ、そうなの? おめでとう。最近は吉報ばかり耳に入るから、なんだかうきうきしてしまうわね」 うふふと笑うローザは、恋の話に花を咲かせる少女の表情をしている。 「どんな方なの?」 「軍人さん……下士官さんなんですぅ。いろいろなお仕事や事件でごいっしょしている間に、そのぉ」 「まあ、じゃあ、わたくしといっしょね。わたくしとあの人も、実は恋愛結婚なのよ」 「わあ、そうなんですかぁ? ローザ様くらいの方なら、フィアンセがいらっしゃるんだと思ってましたぁ」 「人に決められた相手なんてまっぴらごめんだわって、両親には最初からお断りしていたから。わたくし、若いころは騎士団に所属していたのよ。軍とは違う側面から国を護るお仕事についていたのだけど、その関係で夫と出会ったのよね。最初は、それはもう険悪な仲で、あの兄にまで心配されたくらいだったわ」 「それが今や、ですかぁ? やだ……ロマンス……! そういえば、私もですねぇ……」 ひとしきり恋の話で盛り上がったのち、 「結婚したらたぶんもうここには来られなくなっちゃうのでぇ、きちんとご挨拶をしたかったっていうのもあるんですぅ☆」 そう締めくくる。 「ところでローザ様にお尋ねしますがぁ……軍人の旦那さんと仲よくする秘訣、何かあるでしょうかぁ?」 撫子の問いに、ローザはいたずらっぽく笑った。 「秘訣なんてものはきっとないわ。それぞれがお互いを尊重しつつ、お互いのよさを認め合いつつ、自由であればいいと思うの。ただ、」 「ただ?」 「そうね、許すことと許されること、譲ることと譲られることが、同じバランスで存在すれば、佳い暮らしは長く続くのじゃないかしら」 「ふむふむ、なるほどぉ……肝に銘じますぅ」 真面目に聞き、しっかりメモを取る。 その様子に、あなたやっぱり律義ね、とローザが笑った。 そこからしばらく談笑し、ローザの住まいを辞したのち、撫子はトコヨの棘の管理施設へと向かった。もちろん、すべての大元である《異神理(ベリタス)》のその後を確かめるためである。 「よう、撫子」 そこには先客がいた。 撫子に片手を上げて挨拶してから、アキ・ニエメラは施設長の説明を熱心に聞き入る。 詳しい原理をすべて理解することは、専門家ではないアキにはなかなか難しいが、要するに、多重神威を持つルーメンを核に、多重多層の結界を展開し、それを、神威の増幅効果を持つ金属を使用した建物によって覆っているということだった。神威の中に『浄化』『緩和』『治癒』『正化』などがあるため、負の感情の塊である棘は、徐々にやわらいでゆくのだという。 「この子たち、きちんと浄化されるにはどのくらいかかるんでしょうかぁ?」 「我々の常識が通じない存在だからな、正確な数値は出ていない。この棘の完全な浄化を見守ることが、これからの帝家が代々引き継ぐべき重大な役割になるのかもしれない」 撫子の問いに、クルクスが答える。 今日のクルクスは、ものものしいバトルスーツや軍服ではなく、簡素ながら品のいい、動きやすい出で立ちである。 「陛下、施設の管理状況、問題ありません。すべて安定しています」 きびきびとした動作で、カイエ・ハイマートがやってきた。 そして、おや、という顔をする。 世界計の破片と融合し、世界計のエネルギーに引きずられて変質しかけていたところを、破片と切り離すことでことなきを得た彼の、本来の腕はすでに失われている。カイエには、皇帝が手ずからつくった義手が装着され、それはすでに、生まれたときからカイエの腕であったかのようにしっくりと馴染んでいるようだった。 カイエの『謀反』は秘密裏に処理され、不問にされた。 それを知るものがごく一部のみということも、カイエが私利私欲でそれに走ったわけではないということもあるが、もっとも大きな理由は、彼の『反逆』によって命を落とした者がいなかったからだ。 その功労者は、結局のところ、人命を優先したロストナンバーたちということになるだろう。 「こんにちは、カイエ!」 ティリクティアが元気に挨拶をすると、カイエは目を瞬かせたのち、穏やかに微笑んだ。 「元気そうね」 「ああ、きみたちも」 そこには、敬愛する皇帝を裏切り、自分の命と引き換えにしてでも彼を生かそうとしていた反逆者の、哀しいまでに張り詰めた空気はない。 「腕の調子は?」 アキが問うと、カイエは少しくすぐったげな表情すらした。 「皇帝陛下につけていただいた腕だと思うだけで、身体が軽くなるような気すらしている」 「なるほど」 アキは笑い、カイエの肩を叩いた。 「他の誰でもない、あんたたちが生きてくれて、本当によかった」 言って、まっすぐにふたりを見つめる。 「俺や相棒はさ、故郷では、末端の、いつでも取り替えの利く部品だったんだ。命や人生がままならないなんてことは、どうしようもないくらい判ってる」 「ああ」 「だけどさ、あんたたちみたいに、影ながら、自分を犠牲にして世界や誰かを護ろうとしてきた連中が報われるのは、嬉しいことだとも思うんだよな。――ってことは、今度はあんたたちが幸せになる番だ、そうだろ?」 あまたの戦場を渡り歩き、人間の汚い、醜い面も見てきたであろう強化兵士は、しかし屈託なく言うのだ。それでも人間を信じる、とばかりに。 「そうだね、俺もそう思う。クルクスさんもカイエさんも、自分以外の何かのために必死に頑張って来たんだもの。これからは、少しくらい、自分のために楽しんだっていいと思うよ。……せっかちで一生懸命な人って、そういうの、難しいかもしれないけど」 理比古がアキに同意する。 「……君たちにそれを言ってもらうと、何というか、救われる思いがする。ありがとう」 カイエが深々と頭を下げるのへよしてくれと笑い、アキは鋼晶ガラスと呼ばれる、強化されたガラスの向こう側を見つめた。 そこは競技場のような広々とした場所で、地面にはやわらかな土が敷き詰められ、そこかしこに植物が植えられている。光る『匣』に収められたトコヨの棘が――回収時より小さくなったような気がするが、目の錯覚だろうか――整然と並んでいた。ガラス越しに差し込む陽光を浴びるそれらは、心なしか、あの胸が痛くなるような血の赤を和らげさせているようにも思える。 「なるほど、浄化……か」 ガラスの向こう側を見つめ、黒燐がぽつりとつぶやく。 「苦悩も憤怒も、誰の身の内にも存在するものだ。僕にとっても懐かしいものだし、いつまでも付き合っていくものでもあるよね。――そして、それは、確かに、温かさや優しさによって、和らいでゆくものでもある……か」 黒燐の言葉は、外見とは裏腹に大人びている。 「逆に言うと、和らぐ素養を持ってたってことだよな、この棘の大元は。ほんと、どんな神さまだったんだろうなあ?」 「だねー。ロストしてしまった同属だから、ゴウエンさんも、あまり詳しいことは判らないみたいだったけど。ゴウエンさんも、闇属性の鬼神にしてはいいひとだし、彼ほどじゃないにせよ、邪悪の塊みたいな存在ではなかったのかもね」 「そもそも、邪悪の塊だったら哀しみとか後悔とかの感情が大きく育つことはない気がする。強い力を持っていて、世界を意のままに出来たとしても、その内面は、案外俺たちと近いものだったのかもしれないね」 アキと黒燐、理比古が言葉を交わす傍らで、ティリクティアはカイエと話をしている。 「あのね」 「ああ?」 「私、もうじき遠くへ旅に出るの。北極星号に乗って、世界の果てを目指すのよ」 「そうか」 「一年間、戻らないわ」 「……そうか」 旅人たちの存在は、異世界においては希薄だ。 かかわりの薄いものたちなら、拭い去るようにその記憶から失われてしまう。 「だから、その間、ここへ来ることもないの。……もしかしたら、カイエたちは、私を忘れてしまうかもしれないわ。旅人というのは、そういうものだから」 ティリクティアはそれを哀しいことだと思う。しかし同時に仕方のないことだとも思う。 「だけど……私は何かを選ぼうとしているの。それは、何かを失うリスクをも負うということだわ」 言って、カイエを見上げると、透き通ったラヴェンダー・ブルーの双眸がティリクティアを見つめた。 「だから、もう一度、きちんと伝えておこうと思って。声に出して伝えることは、私たち、言葉を得た生き物のつとめでもあると思うから」 「……ああ?」 「カイエ、皇帝陛下と、皆と、いっしょに、いつまでも元気でね」 言いつつ、手を差し出す。 小指を立ててみせると、カイエはまた首をかしげた。 「もう、無茶しちゃ駄目なんだから。――ね、指切りげんまんしましょう」 「指切り……それは?」 「約束。破ったら、針を千本、飲まなくちゃいけないんですって」 ティリクティアが片目をつぶってみせると、カイエは微苦笑した。 そして、小指を立てた手を、自分も差し出す。 「――約束よ、カイエ。あなたの幸せを願い、想う人がいること、忘れないでね」 絡み合う小指と小指の約束を、そこにいた人々は、微笑ましく見守っている。 * そのころ、ユエはひとり、『電気羊の欠伸』の一角、灰羊カリュプスの司る領域へとやって来ていた。 「へえ……ここも、不思議な場所だな」 『電気羊の欠伸』でユエが訪れるところと言えば、その大半が黒羊の領域だったので、神秘と静寂、不可解の同居する黒のそれとは違う、鋭利さと洗練されたシンプルさによってかたちづくられたこの場所には不思議な心地を覚える。 「これは、植物なのか。間違って突っ込んだらとんでもないことになりそうだ」 葉がすべて鋭利な刃で出来ているという鋼の樹を見上げ、葉の一枚をつまみつつつぶやいて、ユエはその先へと歩を進めた。 「客人か」 灰の夢守・八総は、無愛想ながら客の訪れ自体は喜んでいるようで、不思議な質感の茶や菓子を出してユエを歓待してくれた。 「……道具を望むか?」 本題は、すぐに、八総から切り出される。 ユエは居住まいを正し、頷いた。 「理由を訊いても?」 「望みがある」 「どのような」 「仲間や民が安全に暮らす土地を得、ともに暮らすことだ。夜都の襲撃に怯えることなく、日々を営める世界をつくることだ。土地を獲得することは、おそらく可能だ。その仕込みは、偶然ながら出来た。だが」 「その完遂前に力尽きるようでは困る、か」 八総の言葉に、頷く。 「そうだ。そのために打てる手はすべて、打っておこうと思っている。具体的には、医薬品や保存食品の調達や武具防具の調達という辺りだが」 「ふむ」 「ただ、武器の問題がある。再帰属が叶えば、トラベルギアは使えなくなる。能力制限も外れるから、手札も増えるんだが……」 「能力は使い続ければいずれ限界が来る、ということだの」 「そうだ。特に、このトラベルギアというのは本当に便利でな。これ以外の得物を使ってこなかったんだ。他に手持ちもないし、向こうではそう簡単に武器を手に入れることはできないだろう」 ユエは、闇黒に支配された故郷へと戻るのだ。 希望は、少なからず残されているとはいえ、激しい戦いや、予断を許さぬ状況が続くだろうとも予測される。 「散り散りになった仲間や民の、生存や安否確認を確実に行い、務めを果たすためにも、向こうで使える武器が欲しい」 「なるほど、それがぬしの願いか」 「武器ならたいてい、一通り何でも扱える。が、一番使い慣れた剣であるとありがたい。……それと、刀身に異能を載せたり溜めたりできると、もっと嬉しい」 お願いできるだろうか? と問えば、八総は目を細めて顎を撫でた。 「ん、そうだ。確か、味見……手合せが必要だったか」 細工師八総から道具を受け取るには、己が内面を見せねばならぬと聞いた。 武具を欲するならば、戦いを見せねばならぬとも。 それゆえの言に、八総はしかし首を振った。 「否、要らぬ」 「そうなのか? しかし」 「ぬしは我らが同胞、黒の夢守の恩人じゃ。それに、ぬしの生き様や心根、戦いぶりは存じておる。――よかろう、ぬしの思う得物、差し上げようぞ」 八総は膝を打ち、立ち上がる。 この領域の住民たちだろうか、ユエたちとは性質を異にした、しかし命という意味ではなんら変わりのない人々が、八総を手伝うべくわらわらと寄ってくる。 それは、大がかりな作業となった。 どこからともなく引き寄せた巨大な石を、不思議な技で凝縮し、熱し、叩き、磨いて、ユエのための得物はつくられた。そうして出来上がったのが、壱番世界で言うところの日本刀に近いつくりの、片刃の長剣だ。 八総から受け取り、鞘より引き抜けば、それは月光のように静かな輝きを放った。 「うつくしい輝きだ。手にすると、力が湧いてくるような気がする。――銘は、何と?」 「ぬしらの未来を護る力になればよい。――祥守丸(サキモリマル)とでも銘付けようかい」 厳つい面立ちをほころばせ、 「灰羊カリュプスと、灰の夢守八総は、他者のために戦うものを重んじる。壮健であれ、異界の若武者よ。ぬしの戦いが、ぬしと、ぬしの貴ぶ誰かの幸いにつながるように」 八総は、そう、祝福の言葉を向けた。 ユエは唇を引き結び、頷く。 「ありがとう。俺は、俺の責務を全うする。それを、この刃に誓う」 故郷は近い。 それが判るから、ユエの気持ちはなおさら引き締まる。 ――還る。そして、護り、つくる。 ユエの、真実の戦いは、まさにこれから始まるのだ。 3.サンサーラ 「いやあ……しかし、驚いたな」 枝折流杉は、ガラスに映る己の頭上を何度も見やり、感慨深げにつぶやいた。 「やっぱり、アレグリアでの出来事が大きいのかな。まあ……そうだろうな」 彼は今、アレグリアの街をそぞろに歩いていた。 街は、芸術祭の真っただ中だ。誰もが楽しげに道をゆき、あちこちに飾られた芸術品を――そう、アレグリアの芸術祭とは、街中が美術館と化す催しなのだ――、感嘆とともに鑑賞している。 美術品、芸術品に彩られた街のそこかしこに、舌を楽しませる芸術品も必要だろう? とばかりに食べ物の出店が並び、まさに、五感で楽しむ芸術祭と言えた。 「そういえば……あの時、クレオから連絡があった絵って」 人を探す体で、あちこちを見やりながら、流杉はつぶやく 「今回の、このお祭りに出展するもの……だよな。どんな絵なんだろう」 楽しみだ、と流杉の内面が言う。 絵を楽しめるようになった自分の変化、落ち着きと言えばいいのか、収まるべきところに収まったと言えばいいのか、ともかくそれを感慨深く思いつつも、流杉の脚は止まらない。 「うーん、何か、目印みたいなのがあればいいんだけど」 流杉がタリスたちに同行しなかったのは、ひとを探していたからだ。 それは、ヒトといっていいのかも判らない、アレグリアに再誕しているのかすら判らない存在だが、流杉は、ぜひ、ひとめなり会いたいと――言葉を交わしてみたいと思い、わずかな可能性に賭けて、街を歩いているのだった。 「面識もないし、ここにいるとも限らないし、見つかるかどうかなんて、怪しいけど……棘に付随する感情の残滓、これを頼りに探してみようかな」 鳩を数羽、実体化させ、空へと羽ばたかせる。 鳩が送り込んでくる、地上の、平和な営みの映像から、何か手がかりがないか情報を精査していると、そこへ、 「よう、あんたも人探しかい」 かかった声は、アキのものだ。 「……きみも、あの神さまを?」 「あんたの言うことが、気になってさ」 アキは頷き、大股に流杉へと歩み寄る。 「出会ったとして、何が言えるとも、思えねぇけど」 「うん。『かれ』からどんな言葉が発せられるのか、僕は考えていたよ。だけど、その言葉が、憎悪でも絶望でも構わない、とも思ったんだ」 声に出し、口にすることで、軽くなる気持ちは確かにあるだろうと思うから、流杉は、かの、負の感情に飲み込まれたまま砕けて消えた神と、もう一度会いたいと願うのだ。 「けど、まあ……難しいよな。消えたのは神さまらしい、ってだけで、詳しいことなんかは何も判ってねぇんだから」 「そうだね、消失の運命とは、そういうことだからね」 流杉の放った鳩と、アキの有する精神感応能力をもとに、消えた神が、もしくはその欠片が、何らかのかたちでここへ再誕していないか、確かめてまわる。街は広大で、隅から隅までを一日で歩くなど到底不可能だが、それでも、出来る限りの場所を訪ねた。 ――そして、彼らは、『かれ』を見つけたのだ。 ひときわ光にあふれる広場の片隅で、緑と花と小鳥に囲まれた『かれ』を。 『かれ』は、そのロボットは、ヒトの姿をしていた。決して大柄ではない青年の身体に、緑色の眼と金の髪を持っていた。それが、生前の姿を写しとったものなのかは判らない。ひとつの世界を好き勝手に支配した邪神とは、とても思えない姿かたちだった。 しかし、なぜか、ふたりには判ったのだ。 『かれ』が、トコヨの棘に連なる何ものかの、ほんのわずかに遺された欠片によって再び生まれた、『もういちど』であるということが。 「なんだろう」 「……ああ」 「僕には、彼が『そう』だと、なぜか判る。だけど……なぜかな、もう、『それだけでいい』とも、思うんだ」 かれは、ぼんやりと広場に腰かけて、真っ青な空を見つめている。 その周りには――腕にも肩にも、頭にも――、たくさんの小鳥がいて、親しげな囀りを聞かせている。ふわりと舞った羽毛を、かれの視線が追う。 かれの唇には穏やかな笑みがある。 かれから、トコヨの棘が孕んでいたような、激しく狂おしい感情を感じ取ることは、できない。 通りすがりの住民に聞けば、彼は、つい最近現れたのだという。 はっきりとした記憶は残っていないらしく、はっきりとした覚醒もまだ起きていないようだったが、『かれ』が現れた日がいつだったか尋ねると、それはちょうど、トコヨの棘がすべて集められ、大地が解放された日と一致するのだった。 「そうだな」 同感だと頷き、アキは流杉の肩を叩いた。 首肯とともに踵を返し、流杉は広場を離れる。 「……観に行きたい絵があるんだ。きっと、歓びにあふれているだろう、絵だよ」 「そっか。なんだろうな、皆、そこにいる気がする。俺も、つきあうぜ」 『かれ』はここで生きるだろう。 街とともに、新しい命を営むのだろう。 いかなる罪も、苦しみも、今の『かれ』には遠い。 それでいい、と、ふたりは思った。 * ティリクティアは、零和と雨鈴に会いに来ていた。 アレグリアの街は、いつにもまして賑やかで、空気が華やいでいる。 「久しぶり。ふたりとも、元気にしている? 仲よくやっているのかしら」 問うと、ふたりははにかみ、うなずいた。 連れ立って歩くうち、ふたりが自然と手をつないだのを見れば、一目瞭然というやつだろう。 「あのね、私、しばらくここへは来られなくなるの。だから、今のうちに、おいしいものを食べ尽くしたいと思って」 ティリクティアが言うと、ふたりは、芸術祭ににぎわう街の中、さまざまなお勧めの店を教えてくれた。 具体的に言えば、甘くてふわふわの綿雲甘藷を使った焼きケーキ、百万年前の紫晶氷から削り出した爽やかなフラッペ、蜂蜜駒鳥が産む玉子からつくられる上品な甘さのエッグタルト、空に浮かぶ風船林檎のパイ、太陽のように輝く天体柑を滑らかなソルベにし、甘露草の蜜で焼いた素朴なビスケットを添えたパフェ状のものなどなど、アレグリアは、おいしいもの、甘いものにはこと欠かない場所なのだ。 「あれもこれもおいしくて、どうしようかって思っちゃうわ」 「いろんな知識や技術を持つひとがいるからね、おいしいものの開発にも、皆、余念がないんだよ。あれは本当にすごいと僕も思う。執念みたいなものなのかな」 他愛ないおしゃべりに花を咲かせつつ街を歩く。 そのさなか、ティリクティアの眼は、前方からやってくる女性の姿に釘付けになった。 「サラ」 小さなつぶやきは、賑わいに紛れる。 ティリクティアのほかには誰も知らない。すらりとした、優しげな女性の姿をしたロボット、サーリオーラという名で日々を営む彼女が、ティリクティアが過去に喪った教育係の『もういちど』だなどということは。 ティリクティアの唇に浮かんだ親愛の笑みの理由もまた。 「こんにちは」 なにげなく挨拶すると、サーリオーラはにこりと微笑み、 「こんにちは。いいお天気ね」 穏やかな答えを返してくれた。 「そうね、こんなにいいお天気だと、何もかもがいいことだらけに思えちゃうもの」 「判るわ。わたし、今は充分に幸せだけれど、もっと幸せな気持ちになってしまって、なんだか申し訳なくすら思うわ」 言って屈託なく笑うサーリオーラからは、人生を謳歌していることが伺え、ティリクティアは微笑んだ。戦乱の暴虐の中に命を落とした彼女が、今、幸いを享受していることが、本当に嬉しかった。 「じゃあ……また。よい一日を」 自分もまた幸せだと、あなたとの約束は絶対に護り続けると、胸の内でつぶやき、別れを告げる。 「ええ、あなたも」 笑顔で去ってゆく彼女の背を見送り、ティリクティアは充足の笑みを浮かべた。 4.彩躍る タリスは、楽しげに絵を描いていた。 中央広場の一角、驚くほど巨大なキャンパスが張り巡らされた場所でのことである。 ここでは、訪れたものが、好きなように、好きなだけ絵を描けるようになっているのだ。今も、タリスとクレオを始め、十人以上の絵描きたちが、めいめいに――それでいて、どこか調和した――絵を、心の赴くままに描いている。 「そういえば、タリス、流杉は?」 太陽と蝶の絵を描きながらクレオが問う。 タリスは海と魚の絵を描きながら小首をかしげた。 「んーとね、探してるひとがいるんだって。だから、あとで来るって。今日は、追いかけっこ、要らないね」 「どんな人なんだい?」 「んー、ずっとずっと昔に忘れられたひと、って言ってたけど、ぼく、よくわかんない。でも、流杉が、探しているひとと会えるといいなって思う」 タリスの言葉に、そうだねとうなずき、クレオが傍らを見やった。そして、感嘆の声を上げる。 「わあ、ずいぶん出来上がってきたね。すごいな……空の翼、か」 傍らでは、ミケランジェロが存分にその腕を揮い、キャンパスを圧倒的な色とかたちでもって埋めている。 それは、多様なあおで描かれた空だった。 胸に迫る、狂おしい、そのくせ泣きたくなるほど愛おしい空のあおだ。 そしてそれは、空であると同時に翼でもあるのだった。 空いっぱいを埋める、今にも羽ばたき遠くへ飛び去ってゆきそうな翼だ。 その翼を持つ鳥は、いったいどれほど壮大な姿を持っているのかと、誰もが唸るうつくしい翼だった。 「ミケ、これはどんな鳥なの? おおきい?」 「そりゃ、空が鳥そのものなんだと想像したら、視界にも入りきらねぇんじゃねェか?」 空の翼の傍らには、白い鳩の群れを描き、アレグリアの、ゼロ領域の空へと羽ばたかせる。 「わ、ぼくのいたところと同じだね!」 「そうだな、お前と出会った世界みてェだ」 頷きつつ、手は休めない。 空は絶え間なくあおによって変化し、重なり、深く、それでいて透明度を増してゆく。 「わあ、すごいね」 いつの間にか、流杉が来ている。 傍らには、アキの姿がある。 「……皆、集まっているようだな。見えるか、一衛?」 「ああ。これを、見事というんだろうか。心の奥底に、何かが積み重なってゆくような錯覚を覚える」 すぐに、歪と一衛も姿を現し、 「うわ、皆、うまいな。うまいってだけじゃなく、何か、心に訴えかけるものがあるよね」 「うん、すごいよねー。荒々しさや厳しさもあって、胸を打つんだけど、それはすごく心に気持ちいいんだ」 理比古と黒燐もやってきた。 続いて、見慣れない刀を手にしたユエ、紙袋いっぱいに菓子を抱えたティリクティア、道すがら数々の芸術品を見てきたからか目をキラキラさせた撫子も姿を見せる。 近くに、クルクスとカイエの姿もあった。 怠けてんじゃねぇぞまだ書類仕事が云々と毒づくロウもいるが、彼のもっともな主張は華麗にスルーされていた。側近がふたりに増えても、ロウの苦労は変わらないらしい。 「はは、賑やかになってきたもんだ」 笑い、ミケランジェロが筆を揮う。 クレオの太陽が、タリスの海が出来上がってゆく。 彼らの一筆ごとに感嘆の声が上がり、辺りは歓声に満たされ始めた。 流杉はそれらを穏やかに見つめつつ、 「……どれも、色鮮やかな風景だね。さて、僕はどうするかな」 筆と、墨を取り出した。 一番に気づいたミケランジェロが、へえ、という顔をする。 「黒の造形絵師、そう呼ばれた身としては……」 彼の手の中で、筆と墨が躍った。 「黒、という色は、ひとつじゃないってことを、描くよ」 灰に近い薄い黒。 少しずつ重なってゆく濃灰。 藍にも似た黒。 純粋な一色でありながら、どこか透明感のある漆黒。 それらが少しずつ重なって、遠大な風景をかたちづくってゆく。 「わ、水墨画だ。森と、川と、泉かな。これも、見事だね」 理比古が感嘆に目を瞠る。 そんな中、自分の作業を終えたミケランジェロは、歪と一衛のもとへ歩み寄っていた。 「よう」 片手を挙げ、近寄って、違和感に気づく。 ――歪は、目元に包帯をしていない。 「お前……?」 「今だけだ」 言いつつ、歪は、ミケランジェロの描いた空や、タリスやクレオ、流杉の仕上げてゆく風景をじっと見つめている。眼球の動きを見ていれば、彼が、『視て』いることが判る。失われていたはずの視力が、今の歪には、戻っているのだった。 「……誰が」 「私だ。あまり長くはもたないが、それでいいと言われた」 ミケランジェロが物問いたげに見やれば、歪は静かに微笑んだ。 「視ておきたかった。お前が描いたあのまちの――そう、鉄塊都市とも、ダークラピスラズリとも呼ばれたのだったか、あのまちの絵も、今、この街を彩り、飾っている絵画の数々も。――お前や、一衛や、今までに関わってきた人たちの姿も。記憶の中に、刻みつけておきたかった」 「お前はそれでいいのかよ? 『電気羊の欠伸』なら、完全に視力を取り戻す方法もあるだろうに」 「後悔はないんだ、光を失ったことに。これは、俺と、鈴兼の、約束のあかしだから」 歪の眼差しは静かで、穏やかだ。 そこに、ただ、描き出された世界への感動と感嘆だけがにじんでいる。 「……そうかよ」 ミケランジェロは、溜息とともに頭を掻き回す。 「お前がそう言うんなら、俺に何を言うつもりもねェや」 ミケランジェロにとって、歪の視力というのはそれほど大きな問題ではない。 歪という相棒が、変わらずに己の傍らにいる、それ以上に大切なこと、重要なことなどないのだから。 「そういや、黒……いや、一衛」 「なんだ。今、黒いのと呼びかけなかったか」 「気のせいだ、忘れろ。お前、覚醒したらしいが、その場合黒の領域の夢守ってのはどうなるんだ? お前がそのまま継続してるのか?」 「継続は可能だ。私と黒の領域はまだつながっているし、何かあれば他の領域の夢守たちが肩代わりをしてくれるだろう。が、脅威の大半が喪失している現在、特別切羽詰まってなさねばならない案件はない」 「ってことは、今すぐ再帰属しなきゃならねェってことはないのか。……いずれは電気羊に戻るんだろう?」 「そうだな。いつまでに戻って来いとは言われていないから、必要な時がきたら、戻る」 「面倒じゃねェ?」 「?」 「あんな、羊たちの世話すんのも」 ミケランジェロは肩をすくめる。 「シャンヴァラーラが平和になったってェんなら好都合だ。いっそ、完全に自由になってみるってのはどうだよ?」 「……ミゲル、お前はまた、そんな軽々しく」 「いいじゃねェか。自由ってな、そういうもんだろうが。だいたい、お前だって、こいつが自由になって、どこまでもいっしょに行けるってなったら、嬉しいんじゃねェのか?」 「否定はしない。だが、ヒトには果たすべき務めというものがある。その務めは、ヒトによってさまざまだ」 「お前って、相変わらずくそ真面目なのな」 一衛は、たしなめる歪と肩をすくめるミケランジェロ、双方を交互に見ていたが、ややあってかすかに笑った。 「シャンヴァラーラを棄てる気はない。最後に還る場所は、やはりこの地であってほしい。私はやはり、黒の領域を司る夢守なんだ」 一衛の言葉に、歪が深くうなずいた。 肩を叩き、キャンパスへと歩み寄ってゆく。 「そういうお前はどうなんだ、堕ちた神よ。いや、ミケだったかタマだったか」 「タマは確実に違うんじゃねェかな! ってのはさておき、俺はどこかに再帰属する気はねェよ。また、ひとところに囚われるのは、ごめんだ」 言ってから、ミケランジェロはちらりと歪を見やる。 歪は、一大叙事詩のごとくに描きあげられてゆくキャンパスを、憧憬と感嘆を持って見上げていた。 「――あいつと別れんのもな」 「お前の行く末は、彼次第か」 「そういうこった」 中央広場では、まさに美の共演が繰り広げられている。 「ふわあ、すごいねぇ。ありとあらゆる美が、ひとところに集められているような気がするよ」 黒燐は先ほどから感嘆することしきりだった。 先述の通り、彼の故郷にはガラスというものが存在しなかったため、それらを用いた工芸品や芸術品には特に心惹かれているようだ。 「ところ変われば品変わる、って、ほんとだね」 「うん。ここはいろいろな世界からやってきた魂の坩堝だから、いろいろな芸術があるんだろうね。だとしたら、すごくお得な世界なのかも」 「確かに! 僕の世界の芸術も、どこかにあるかなあ」 黒燐は先ほどからずっときょろきょろしている。 興味を惹かれるものが多すぎて、視線を一か所にまとめきれないのだ。 と、 「あっ、フィムさん、ゼグさん!」 不意に、ぱっと顔を輝かせた理比古が、さまざまな細工物を飾りにやってきた、大柄なアンドロイドたちへと走り寄ってゆく。フォーアネームとゼーゲンという名の、この辺りでも一番と噂の細工師兄弟である。理比古の姿を視界に認め、ふたりが笑みを浮かべるのが見えた。 一衛が、そんな理比古を見守っている。 「知ってンのか?」 「……ああ。求めたものに少しずつ辿り着く、人間とはしなやかで強い生き物だな」 「まあな。どこからその強さが出てくるのかって、時々不思議に思うのは、確かだ」 ミケランジェロが頷く。 彼らの視線の先で、人々が思いを凝らしたキャンパスは、今にも完成しようとしていた。 5.道、それぞれに 「俺の行き先?」 巨大キャンパスの絵が完成し、それが皆に、歓声をもって称賛されたあとのことだ。 流杉とタリスは、クレオがすばらしい評価を得たという、とっておきの絵を観に、広場を移動していた。 それは、夕日に照らされる街を描いた、郷愁と憧憬の溶け込む、金の色をした絵だという。 そんな中、ミケランジェロは、歪に水を向けたのだ。ここからどうするつもりなのか、どこへ行こうと思っているのかと。 答えは、あっさりと示された。 「俺の還る場所は、すでにターミナルにある。他の世界へ行きたいとは思わないな」 「0世界に再帰属ってことか?」 「違う。ロストメモリーになるつもりもない。このまま、旅人でいたいということだ」 ロストメモリー化そのものを拒否するわけではない。 そもそも、すでに、歪の中から覚醒前の記憶は失われているものの、もしも歪がロストメモリー化するとなれば、間違いなくミケランジェロもその道を選択するだろうから、彼からそれを失わせるのが嫌なのだ。 「俺は、このまま、家族や図書館、世界を護るための刃であり続けたい」 「……そうか。なら、俺も、もうしばらくは好き勝手に絵を描いていられそうだな」 などと、ともに過ごせる喜びを、少しひねくれた言いかたで表現するミケランジェロである。 判っているのかいないのか――大まかな部分では伝わっていても、細かいところでは気づいてくれないのが歪という人物なので――、そうかと真顔で頷いたのち、歪は黒の夢守へと向き合った。 「一衛は、どうなんだ? さっきも、しばらくはこのまま旅を続けると言っていたが」 「どう、とは?」 「世界から解き放たれて、自由を得たことは、人によっては苦ともなるだろう。お前のことだ、心配してはいないが……」 これから、この世界とどう向き合い、どう関わってゆくのか、と問えば、 「心の赴くままに、自然にありたい。と、思う」 穏やかな答えが返った。 「黒の夢守は強大な力を持つ分、暴走すれば未曾有の被害をもたらす。それゆえに、私は感情を希薄に設定された」 「ああ」 「逆に言えば、それは、感情というものへの経験の薄さがさせるものだとも取れる。――というのが、羊たちの出した結論であるらしい」 危険だから遠ざけるのではなく、ある程度の距離を保ちつつ、学び、経験すること。それを、羊たちは、黒の夢守に課すことにしたようだった。 「なら、お前も、しばらくは?」 「そうだな。歪や、理比古の、世話になると思う」 「ああ、そうだ」 ふたりの話の途中、ふと思い出したという風情で、ミケランジェロが胸ポケットを漁った。 そして、手の中へと転がり込んだものを、 「返しておくぜ。もうなくすなよ?」 半ば強引に、歪へと手渡す。 「……これは?」 手渡されたほうは、不思議そうに手の中のものを見つめている。 それは、鮮やかなワインレッドの色をした、卵のようだった。 「お前と再会する前だ、手に入れたのは。俺には判らねェが……なんでだろうな、お前のものだっていう、確信だけがある。覚えてるか?」 「いや」 記憶の大半は、未だ歪から失われたままだ。 しかし、 「だが、なぜだろう」 彼は、掌の卵をそっと握り締める。 「……とても懐かしい気がする。どこか、温かいような」 声音には、慈しみめいた感情がにじんだ。 その肩を、ミケランジェロは叩く。 「まあ、アレだ」 「うん?」 「……これからも、よろしくってことだよ。どうせ、長い道のりになるんだろうから」 「ああ。そうだな……」 まだ光を宿したままの、歪の眼差しは、穏やかに凪いで、にぎわう広場を見つめている。 その視線の先で、ティリクティアが、零和と雨鈴とともに菓子をつまみ、笑いあっている。撫子は完成した絵画に見入っているし、ユエは灰の夢守にこしらえてもらったという刀を傍らに、勧められた菓子を口にしている。 理比古もまた、その光景を静かに見つめていた。 彼の唇には、充足の笑みがある。 「皆、新しい道をゆくんだね」 黒燐が頷いた。 「そうだね。ワールズエンド・ステーションの発見は、きっと遠い未来のことじゃない。じきに、皆の運命が動き出すよ。新しい未来へ向けての、たくさんんの道が開かれる」 「黒燐は、どうするの?」 「僕? そうだね、故郷へは、帰りたいと思っているよ。そう遠くなく還るだろうとも思ってる。帰ってからの、身の振りかたは、迷っているけど……でも」 「でも?」 「うん。たぶんだけどね、きっと……帰ったら、『成長』すると思うんだよ」 言って、その場でくるりと回ってみせる。 そこに、背の伸びた、青年の姿をした黒燐の幻が重なったような気がするのは、きっと錯覚ではないのだろう。 「理比古さんは、どうするの?」 「そうだな……蓮見沢当主としてのつとめを果たしたいっていう気持ちと、自由な旅人になって異世界をずっと旅し続けたいっていう思いの両方があるんだよね、実は。……ロバートさんのこともあるし、あの子がうちに来てくれたから、しばらくは壱番世界を拠点に行動するつもりでいるけどね」 答えは、前向きで意欲的だ。 ようやく出会えた探し人と、同じ時間を歩んでゆけることへの歓びがそこかしこに滲み、黒燐に微笑させる。 「いろんな道があるね。もう、交わらなくなる道も、もちろんあるんだろうけど。不思議と、僕は、寂しくないんだ」 「ああ、それは判るぜ」 白銀麦から仕込まれたという、厳冬の雪の色をしたエールを片手に、アキが笑った。 「俺たちは遠い世界の果てで出会って、何か得て、また旅立って行こうとしてる。すげえ壮大で、偉大な縁だと思う」 「本当に。僕は、その縁のおかげで、変わることが出来そうだよ」 「まったくだ。俺は相棒と再会できたし、生きる意味や喜びを知ることが出来た。……口に出して言うと、おとぎ話みたいだよな」 故郷へ戻り、世界を変えるという大願を、笑い飛ばすでもなく抱くことが出来たのだと、アキは憧憬を込めて言うのだ。彼らは、大いなる力になるのだろう。停滞し淀んだ世界を変える、鮮烈な風のように。 「ロウの言うとおり、もう会えなくなる奴もいるんだろうけど。でも、なんでかな、きっとどこかで心はつながってるって思うんだ。世界がつながってることを知ったからなのかな」 「きっと、そうだよ。故郷に帰って、頭の上に数字が浮かんでも、空を見上げたら、思い出すんだ。今も、あの空を、ロストレイルが走っていくのかもしれない……ってね」 大団円を迎えた、ひとつの世界で、時間は穏やかに、賑やかに、鮮やかに過ぎてゆく。世話を焼くことがすでにデフォルトと化しているアキが、理比古と黒燐のために、甘い菓子と茶を手に入れてきて供する。 「アキの相方さんは幸せ者だね。ふたりでいれば、故郷へ帰っても、全部巧く行くんじゃないかな」 「実は、俺もそう思ってる」 てらいなく笑うアキへ、理比古はやさしい目を向ける。 「皆がそれぞれの道をゆくように、俺は俺の道を進むよ。ロストナンバーとして覚醒したお陰で得た、かけがえのない未来だもの」 それはどこか厳かな宣言にも似て、貴く、ゆるぎない。 「ねえ、流杉」 タリスは、流杉の頭上にまたたく数字を見つめている。 「ぼくね、決めたよ」 晴れやかに言って、クレオの傍らに立つ。 ――流杉は、微笑んでいる。 「そうか。答えはもう、出ているんだね」 「うん。ぼく、この世界に還りたい。ぼくに“想い”を教えてくれたクレオのいる、ここに」 告げると、クレオははにかんだ。 嬉しいような、困ったような、そんな顔だ。 「0世界とお別れするのは、やっぱり、寂しいけど」 「うん」 寂しいと言いつつ、タリスの笑みに曇りはない。 「また、会いに来て。――来てくれるでしょ?」 「うん」 「いっぱいいっぱい、お話、聞かせてね! そしたら、流杉のお話が教えてくれた色を、たくさんたくさん、描いてみせるから!」 ぴょこんと跳ねるタリスの頭上で、また、真理数がつよく瞬く。 流杉は大きく頷き、タリスに手を差し出した。 すでに、彼が決めたことに気づいている様子で、タリスがぎゅっとその手を握る。 「真理数は顕れた……けど。僕はまた、旅に出るよ。世界の色を、彩りを見にゆく旅に」 「お別れじゃない、よね?」 「もちろん。何度だって会いに来るよ、たくさんの土産話といっしょに」 世界は常に優しくはなく、きっとまた、流杉を傷つけるだろう。 彼に、生きる苦しみと哀しさを突きつけることだろう。 「いろいろな理不尽が、牙を剥くだろう。確信はある。僕は、何度も痛みを経験するだろう」 以前の彼、『物好き屋』なら、それに耐え切れず、心を閉ざそうとしたかもしれない。否、もはや旅に出ようとすら、思わなかったかもしれない。 「だけど、僕は、知ったから。世界には、痛みを凌駕する貴いものが、たくさん存在するってことを」 だから、畏れずに進むよ。 静かに、しかしきっぱりと告げる流杉を、タリスもクレオも、まぶしいものを見る眼差しで、見つめている。 「信じてるよ、流杉。何度でも、また会えるって。俺やタリスに、たくさんの色を届けてくれるって」 クレオの言葉には確信があった。 「――……うん」 頷く流杉は、どこか少年めいて、瑞々しい。 芸術祭はまだ続く。 賑わいも、人ごみも、まだしばらくは続くだろう。 それも、この世界が獲得した、平らかさあってのことだった。 そして、世界を知る人々は、決して忘れはしないのだ。 この平らかさをもたらした、異世界からの旅人たちのことを。 元管理AI・タリスが、儀式を経て正式にシャンヴァラーラへと帰属し、再誕都市アレグリアの住民としての生活を始めるのは、そこから数か月が経ってからのことである。
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