▼0世界、世界図書館の屋根裏部屋にて 「メルチェさんは、他のひとのように司書室は持たないのですかー?」 「時々間違えられますが、私はあくまで世界司書のお手伝いをしているツーリストですからね。司書室のようなお部屋はさすがに貰えません。でもメルチェは大人なので、ほとんど物置同然のこの屋根裏部屋でも、作業用としてあてがってくれたことには感謝をしているんです」 そんなやり取りをするシーアールシー・ゼロとメルチェット・ナップルシュガーは、世界図書館のとある狭苦しい部屋にいた。 屋根裏部屋を改装したそこは、久しく読まれていないであろう古びた本を収めた棚や、飾られず無造作に束ねられた額付きの絵画、ぴくりとも動かない柱時計、丸い球体で形作った不思議な地図など、どこか古めかしく味のある物品や調度品で溢れている。 ごちゃごちゃしたそれらをできるだけ隅に押しやり、かろうじて作った空きスペース。そこに、無駄に柔らかく沈むだけで心地よさはあまりない使い古しのソファーを置いて、テーブル代わりの小タルを前に配置すれば、客間のような役割を果たせる程度にはなる。 「さ、今日はどんなお話をしましょうか」 「昔話がいいのですー」 ゼロとメルチェのふたりは、そのくたびれたソファーに並んで腰掛けている。小さな体躯のふたりが伸び伸びと座るには充分な広さがあるけれど、あえてふたりはお互いの膝がくっつくくらいに寄り添っている。ふたりは仲良しなのだ。 「では、まずはゼロがお話をするのです。これはゼロが、世界図書館に保護されるちょっと前のお話なのですー」 ソファーの上でぴょんこぴょんこと身体を弾ませながら、ゼロがのんびり語りだす。 真理数を失って放逐された転移先の世界のこと、そこであった不可思議なこと。たくさんの硝子の建物、透明な文字、言葉のわたあめ、園丁おばけ、ゼリーのからだ、虹色のたまご……。 ゼロがゆるりまったりと紡ぐのは、そうした単語の数々。 「なるほど、ゼロさんはそのような世界に飛ばされていたのですね」 メルチェは穏やかに微笑みながら相槌を打ち、優雅な仕草でティーカップを傾けている。 けれど、それはあくまで表向きだ。 (な、何を言ってるか全然分かりません……!) メルチェは大人なので、どのような内容にもきちんと耳を傾け、それを理解せねばならない。 でも、分からない。何が何だか分からない。砂糖とミルクをたっぷりいれた紅茶の甘さを、のほほんと堪能している余裕もない。 とりあえず「虹色の線の上を走りながら空から降りてきて、知らない文字の詰まった不思議な赤い物」が、きっとロストレイルを示すものなのだろう、ということだけは理解できた。 「ゼロはいったい、あの場所で何をし、何を得たのでしょうかー」 天窓から差し込む0世界の弱い光を見上げながら、ゼロはぽーっとした様子で呟いた。 「て、哲学ですね」 当たり障りの無い返答をして受け流そうとするメルチェだが、ゼロはいきなりこんなことを言い出す。 「メルチェさん、ゼロに教えてくださーい」 「えっ」 「ゼロが出会った不思議を、メルチェさんの言葉で解釈・説明して欲しいのですー」 「ええっ」 「メルチェさんは何でも分かる大人だと聞いています。彷徨える子羊のゼロに、救いの御手を差し伸べて欲しいのですー」 「えええっ」 むしろその子羊が囁く言葉で惑わされ、逆にメルチェが出口の見当らない思考の迷路を彷徨うことになっているのだけれど。 メルチェは己の無知と焦燥が悟られぬように、顔と視線を逸らしてとりあえずの緊急回避。 心の内を知ってか知らずか、ゼロは無遠慮に近づき、メルチェの頬に鼻先がくっつくくらいに顔を寄せてくる。すごく近い。 「え、えっとですね……」 メルチェが顔を逸らす。ゼロが顔を近づけてくる。 「あの……」 メルチェが顔を逸らす。ゼロが顔を近づけてくる。 「つまり……」 メルチェが顔を逸らす。ゼロが顔を近づけてくる。 逃げられない! 仕方がないので、メルチェは身振り手振りを加えながら、必死に言葉を搾り出そうとする。 「ええ、えっとですね……! ま、まだ子どものゼロさんには早すぎる内容、なんです。そ、そう、メルチェは大人なので分かりますが、ゼロさんはまだ子どもですし、それを理解できるのはずっと先のことと思うので、状況を混乱させないためにも、今は説明をしてあげられないんです!」 「そうなのですかー」 ゼロはメルチェの心を察しているのかいないのか、ただただじーっと見つめてくるばかり。責めたり馬鹿にしたり疑ったりといった感情の欠片を一切漂わせない、無垢を通り過ぎて無感情にも思えるゼロの瞳が、メルチェを真っ直ぐに観察・観測・傍観している。 「ゼ、ゼロさん。あなたは不思議なひとですね」 こほんと咳払いをしつつ、メルチェは良いことを言う振りをし、話題の転換を試みた。 話を誤魔化したい気持ちはもちろんあったけれど、それ以上に、この幼女の問いかけに大人な回答をしてあげられないことが申し訳ないと思っているのだ。一応は。少しだけ。だからせめて、言葉を紡ぐ。 「メルチェは大人であるがために、ゼロさんの疑問には答えてあげられませんが……それだけでは何だか大人ではないので、ゼロさんについて語ってあげようと思います」 「ゼロのことを、ですかー?」 「そうです。自分という存在を客観的に知ることによって、自分が抱いていた疑問の答えを自らの手で導き出せるようになることだって、あるんです」 ゼロは小首を傾げて、メルチェの言葉を待った。 メルチェは得意げに指を立て、すました顔で話し出す。 「あなたは、例えるなら山のように大きく、海のように深く、星空のように広くて……その広大さに、私は……そうですね。くらくらしてしまいます」 「くらくらですかー」 ぽやっとした表情のまま、ゼロがゆらりゆらりと身体を傾ぐ。メルチェはこくりと頷き返して。 「奥深くて広くって、無限を思わせる深淵をたたえるあなたの魅力は、大人のメルチェでもうまく言い表すことができません……話は逸れますが、ゼロさんにとって〝世界〟とは何ですか?」 「ゼロにとってのセカイ……ですかー?」 瞬きをぱちくりとしながら、きょとんとするゼロ。その仕草のひとつひとつが愛らしくてたまらないので、メルチェは自分の太ももをぺしぺしとはたき、ここへ来るようにと合図をする。 ゼロがのそのそと彼女の太ももの上に移動し、メルチェと正面から向き合った。ゼロのほうが頭ひとつぶんくらい小さいため、メルチェからは膝の上のゼロを少し見下ろす感じとなる。 メルチェはゼロの銀髪に指を差し入れ、ゆっくり優しく梳いてあげながら言葉を続ける。 「世界は海のように広く大きく、たくさんのものが漂っています。そして人の心には、私にとっての世界はこれなんだということを示す、カップのようなものがあるんです」 「ゼロにはゼロの、メルチェさんにはメルチェさんのカップがあるように、ですかー?」 テーブル代わりの小タルに置いてある、ふたりのティーカップをゼロが指し示す。 「その通りです。人は世界を、自分の心にあるカップで掬ったぶんでしか把握することができないんですね。そしてゼロさん……あなたはそんな世界そのものと言えるくらいに、不思議で不可思議で奇妙でおかしくて、広くて捉えきれない、とても魅力的なひとなんですよ」 「なるほどー。それがメルチェさんの、メルチェさんによる、ゼロという人物の観測結果なのですねー」 メルチェが、膝上でちょこんと佇むゼロの髪の毛を弄んでいると、ゼロもそのまねっこを始めた。互いが互いに、他人である互いの髪の毛で戯れる。さわさわと撫でて梳いたり、結んでり解いたりして秘めやかに遊ぶ。髪が長いふたりだからこそできる戯れだ。 「心のカップ……深い言葉なのですー」 「そうでしょう? メルチェは大人ですからね」 「すごいのです。ゼロは、そんなメルチェさんの言葉にとても興味があるのです。もっともっと観察して欲しいのですー」 「もっと、ですか?」 メルチェはゼロの髪を弄ぶ手をとめて、不思議そうに目を瞬かせる。 ゼロがメルチェを見つめていた。瞬きもせずに、じっと。 そのつぶらな瞳から、メルチェは目が離せない。ゼロの双眸には、深淵を思わせる底なしの深みが佇んでいる。それは闇でもなく光でもない何か。 いや違う。それは、何かですらない。何であるとも言えない。何でもない。何もない。皆無。ゼロ。0≒無限。 「まどろむのですー。まどろんだままに、すべてを口にするのですー」 (あれ……何でしょう、これ……不思議で、変な……夢のような、心地で……ふわふわと、浮かんでるみたいな……) 薄紙に滲む水のように、しっとりと染み込んでくるゼロの言葉が、メルチェに極度の安寧をもたらす。身も心もふにゃりとなってしまう。素敵な大人であれと常に言いきかせている固い志すら、口に含んだ綿飴みたいに溶けてなくなってしまうように感じる。 恍惚とした気持ちが溢れてきて、余計なことは何も考えられなくなる。ただゼロの幼くて舌足らずな声音だけが、ぐわんぐわんと脳内に反響し、その言葉に従うほかなくなっていく。 「えっと……ゼロさんは……可愛いです」 メルチェはゼロに言われるがまま、己が抱くゼロという人物について語り始めた。 自分の存在すら曖昧になりかけ、手足が存在することすらまどろみの中で忘却してしまいそうな中で。すべての感覚と神経をゼロに向ける。 「こうまでに不思議なことを喋ったり、変な行動をしたりしなければ……本当に愛らしい女の子ですのに……ちょっと勿体無いです。でもそうして不可思議で……捉えきれないふわふわしたところが、またゼロさんの魅力なのかもしれません……」 膝の上にまたがっているゼロは、メルチェを見つめ続ける。凝視する。 メルチェはとろんと惚けたままゼロを眺め、さらにじっくりと観察してみた。 緩く波打つ銀色の長髪は、シルクのような高級感を思わせる艶があり、屋根裏部屋を満たすランプの灯りを上品に反射させている。 ふっくらとした頬の膨らみは、瑞々しい花弁のような曲線を描いている。メルチェは思わずふらふらと手を伸ばして、ゼロの頬に触れてみた。きめの細かい肌は赤子のようにもちもちっとした弾力で沈み、そして跳ね返ってくる。 「あぁ……ほっぺが、ぷにぷにですね。触ってても飽きません……」 「それがメルチェさんによる、ゼロという対象の観測結果なのですねー」 ゼロがおもむろに両手を伸ばし、熱に浮かされたような面持ちメルチェを抱き寄せた。ゼロの唇がメルチェの耳元に近づく。そこで幼い唇が妖しく蠢く。 「では今度は、ゼロがメルチェさんを観察した結果をお伝えするのです――」 そして、ゼロがゼロにしか分からない言語情報でゼロ自身のことを口にし始めた、その瞬間。 ゼロが紡ぐ無限の深淵情報は、メルチェの心のカップをあっという間に満たしてしまった。その負荷に耐えるため、メルチェの本能は本体の意識を強制的にシャットダウンさせる。 つまり、メルチェは気絶してしまった。 † ゼロは、全世界がモフトピアのような楽園になることを志向している。 それを体現する力が備わりつつあった。次の日にはもう無くなってしまっているかもしれないほど、ささやかに。僅かに。けれど確実に。 対象の意識や思考回路を、対象からの抵抗なくすんなりと書き換えてしまう、物理法則を無視した高次の現象。どこかぼんやりとしていたメルチェが、今回のそれだ。 メルチェはゼロの力に気づかない。ゼロにも力の自覚はない。 「ゼロはまどろむ人であって、夢見る人でも眠る人でもないのですが――」 ふにゃーと目を回しながらソファーの上で横たわるメルチェに、ゼロはぴったりを身体をくっつけて、膝を抱えて丸まった。 「でも今は気持ちよくまどろむため、眠るメルチェさんのまねっこをするのですー」 そして、まるで本当に眠っているかのように目を閉じ、寝息のような呼吸をし始める。 そこには、メルチェがゼロという深淵に触れた時、深淵もまたメルチェに触れた……という結果だけが残っている。 結果とはすなわち、少女と幼女が仲睦まじそうに、粗末なソファーの上で一緒に眠りこけるこの図、そのものである。 <おしまい>
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