一面の黄金の海。 風に靡き、ざわりと鳴きながら波紋を描く稲穂の群れを、緑の瞳が焦がれるように見上げている。 小さな鎌を手に、少女は稲穂の田へと駆けていく。己よりも背の高い穂が一斉にこちらへと頭を垂れている様子が、まるで出迎えられているみたいで、情動の赴くまま高らかに歓声を上げた。 はしゃぐ娘を見守り、ヒトの姿をした父親が先んじて稲穂の中へ踏み込んでいく。手際よく穂を刈るその姿を見つめ、娘は先達の様子からやり方を学ぶ。 まだまだ幼い彼女も、漸く農耕の手伝いをさせてもらえるようになったのだ。両親の真似をしながら小さな鎌を稲穂に当て、引く。乾いた音を立てて、稲穂は地面と分離された。容易くも確かな手応えが返って、心が弾む。 「気を付けなさい」 母の穏やかな声がかかり、ソアは額の汗を軽く拭ってから、素直に頷いた。弧を描いた鋸のような刃を己に向けて引くのだから、細心の注意が必要だと、幼い彼女にもよく判る。同時に、そうやって己を気に掛けてくれる母や、見守ってくれる父の視線がとても嬉しかった。 刈り終えた穂を並べ、秋晴れに干す。 沈むのが早くなった陽は既に南天を過ぎていて、小さな少女の影を西に伸ばし始めていた。 「今日はここまでにしようかしらね」 母がねぎらうようにそう言って、田の端にいる夫へと駆け寄っていく。それを送りながら、ソアは己の手で刈り取った稲穂の黄金を魅入るように見つめている――その耳に、異変が届く。 がさり、と。 森の奥で、小さな音が聞こえた気がした。 ソアははたと振り返るが、深い黄と紅の森はざわざわと風にそよぐのみで、奥を窺わせない。枝葉の擦れる音が、蠢く木陰が、まるでいざなっているように――何かを隠しているようにも見えた。 振り返る。父と母は視界の隅で、まだ何やら話をしている。 ソアは小さく、意を決したように頷くと、茂みへ分け入っていった。 積もる落ち葉を踏み締め、まるで新雪を踏むのにも似た乾いた音を立てながら、少し踏み入った所に“其れ”は落ちていた。 ソアと同い年程度の、小柄な少年だった。 短い茶色の髪が軽やかに跳ね、まるで鳥の羽毛を連想させる。瞼は閉ざされ、肌は蒼褪めて、凍り付いたように動かない。白と黒の、細やかな刺繍の為された小袖を羽織っている。と言うよりも、ふわりと地面に広がる裾から、袖を通しただけで帯は結んでいないように見えた。 (この子……鳥だ) 獣人であるソアは、直感的にそう察する。 此の世には、十二の獣人族と、それらを支配するヒトの十三種が混在して暮らす。ソアの棲む緑の大陸には主として牛の獣人が棲むし、また田舎に暮らす幼い娘は都会や他国へなど出かけた事もない。こうして他の獣人と出会うのは初めてで、ソアは驚きに動けずにいた。 「――ソア?」 母の、心配するような声が田の方向から聞こえてくる。 その声が耳に届いたのか、少年が僅かに身じろいだ。呻き声を上げ、息苦しそうに草を掻き毟る。 はたと我に返ったソアは、幼い少女の見目にはそぐわぬ怪力――牛獣人は力仕事を得意とする――で少年を軽々と抱え上げると、かかさま、と叫んで走って行った。 ◇ 暫くして目を覚ました鳥獣人の少年は、サバネ、と名乗った。 彼の一族は“旅鳥”らしく、毎年春と秋に緑の大陸を訪れ、夏は北へ、冬は南へと向かう性質があると言う。彼は今年の夏生まれたばかりの幼鳥で、初めての長旅の最中、体勢を崩してそのまま墜落してしまったようだった。 近所に暮らす世話好き小母さんたちの援助(と言う名の口撃)を貰い、ひとまず羽の処置を施した後、サバネは春が来て群れが戻ってくるまでこの村に――ソアの家に逗留する事となった。 力はあるが温厚な気質を持った牛獣人の村は、異種族の者にも優しい。夏、生まれたばかりの雛鳥の逗留を、事あるごとに皆が気に掛けた。初めは警戒に身を強張らせていた少年の方もその心配りを聡く察して、次第に、村の住人たちと打ち解けていった。 やがて、季節は黄金を湛える秋から白に鎖される冬へと変わり、ソアの棲む村にも人を容易く呑み込むほどの大雪が降り積もる。 雪国の朝は早い。 其処彼処の民家から住人が起き出してきて、皆で協力して雪を降ろし選り分けて路を作る。生まれてこの方この村から出た事のないソアにはその光景が当然であり、また子牛としてそれなりの力を有する彼女も数年前からその輪に加わっていた。家の前に溜まった雪を荷台に乗せて違う場所へと運ぶ手伝いをする。村は賑やかに聲を交わしながら、冬の一番の仕事をこなしていく。 早朝の慌ただしい気配に、種族として寒さに弱いサバネも流石に目を覚ましたようだった。毛布を被りながら、目を細めたまま玄関先へとやってくる。 「なに、してるの」 最も近くにいたソアを呼び止め、小さく声を掛ける。 山と積まれた雪を載せた荷台を曳いていたソアは立ち止まり、夏の稲穂を思わせる瞳で朗らかに応えた。 「雪掻き!」 「ゆきかき?」 「屋根の雪を降ろさないと、重みで屋根が抜けちゃうんです」 そう言ってソアが指し示した先を、少年も振り仰いだ。一面の白に覆われた屋根の上にはソアの母が登り、鋤を使って屋根上の雪を降ろしている。家周辺の雪を選り分けたり、踏み固めるのは父親が担当していた。 南国で越冬する旅鳥の少年にとっては初めて見る光景、そして初めて見る大雪なのだろう。首を傾け、時折落とされる雪の塊に驚き、しかし急いで着込むとソアの隣にやって来た。 「おれも手伝う」 「でも、サバネくん、怪我してるし」 「手伝う!」 困惑と心配に言いよどむソアを押し切って、サバネは父の元まで駆けていくと、その力強い足捌きに倣って小さな両足で雪を踏み固め始めた。 村の人たちに暖かく迎えられて、少年は寒さに震えながらも指南されるまま足を動かす。その頬は桃色に染まり、見守るソアの眼にはとても満足そうに映った。 ◇ 村を塞いでいた雪は次第にその猛威を収め、雪を掻き分けた地面から芽吹いた緑の片鱗が覗くようになると、村の外れにぽつんと佇む蝋梅の樹が一足早く蕾を付けた。 その花を確かめに、短い陽が南天へと昇り出した頃、ソアはサバネを伴って村の外れへと出かけた。 枝先に点々と現れた、淡い黄色の蕾が綻び始めると、村にも春の気配が訪れる。未だに残雪に覆われてはいるが、風の冷気も何処となく和らぐように感じるのだ。 「もうすぐ?」 「……うん」 太陽の昇る南の空を仰いで問えば、何処か複雑そうないらえが返って、ソアは其方に視線を向ける事もなく、すとん、とその言葉を受け止めた。 「この國に来るときはいつも、桜の花が咲いていた」 「じゃあ、もうすぐだね」 蝋梅の花が咲いてから、雪が融けて、桜が山を覆うまでは体感的にはあっという間だ。その頃にはもう、村は新しい田の準備を始めている。 雲一つない天の端に鳥影を探すように、冬晴れの蒼穹を見極めようと目を凝らした。 「空の向こうにはなにがあるの?」 夏の稲穂と同じ、光を孕む緑の瞳が、高く澄んだ冬の空を見つめている。山の向こうを一目見てみたい。母や父の言う、海を。この村に訪れた旅人――ソアの名付け親が話してくれたという光景を。 翼持たぬ牛の少女には、いつ叶うともしれぬ夢だ。ソアも、村人たちも、ここで稲穂の成長を見守っていかねばならない。それは幼い彼女とて理解している。 だが、緑の瞳にその光景を思い描くだけならば、誰の制止を受ける事もない。 「山の向こうに海があって、その向こうに新しい大陸があるんだ」 「大陸?」 「ここよりもずっと寒い、白い大地。おれたちは夏を其処で過ごす」 「冬は、どこへ行くの?」 「海を渡るんだ。何日も何日もかけて、羽を必死で動かして、ここよりも暖かい南の地を目指す」 おれはその途中で落ちてしまったけど、とはにかんで、サバネは牛の少女の素朴な問い掛けに答えた。少女は無垢な目を輝かせてその言葉に聞き入る。 冬になれば白に鎖される、この村で生まれ育ってきた。 ――ここよりも寒い場所があるなどと、考えた事もなかった。 「もっと、聴かせて。北の街の話!」 思わずそう口にしてしまって、少女ははたと両手で口許を抑える。我が侭としか思えない語調だ。少年は目を丸くして、しかしすぐに微笑むと頷く。 幼い旅の少年が言葉で描き出す、北の光景を、ソアは夏の瞳で写し取っていた。 「また、旅に出るよ」 「うん」 「それで、また、どんな街に行ったかを聴かせてやる」 「……うん!」 楽しみにしてるね、と。 涙のような一滴の寂寥を振り払い、ソアは輝かんばかりの笑顔を浮かべた。 「見てて」 頷いて、サバネは大きく両手を広げると一歩、二歩足を踏み出した。 帯を解くとともに、毛の薄い人の肌が瞬く間に羽毛で覆われる。 ソアの視界を覆うように小袖が翻り、空気を含んで膨らむ。その奥から茶と白の翼を備えた渡り鳥が現れて、細い足で地面を蹴り風を捉えた。 両腕が変じた翼に着物を引っ掛けたまま、サバネはぎこちない動きで翼をはためかせる。その様を、地上から夏の稲穂の瞳が不安そうに見つめている。小さな鳥の身体が傾ぐ度、つい受け取ろうと足が出てしまう。だが、未だにふらつきはするものの、低い空を羽撃くには問題ないほどにまで回復しているようだった。 薄氷のような蒼い空を、鳥の旅人が舞うように滑る。 無垢な少年の描くその軌跡を、少女は静かに見上げていた。 「……!」 「――!」 そして、地上と上空の二人は、同時に其れを捉えた。 鋭くも冴えた陽射しの向こうから、飛来するモノ。 淡い黒を纏った、幾つもの鳥影。 そして、幾重にも連なる鳥の鳴き声。まるで、同胞を呼ぶような。 「――母さん!」 異国訛りの言葉で、空を往く千鳥が叫ぶ。 両翼をもがくように羽撃かせ、傾きながらも進路を変える。南の空からやってきた影は徐々に大きくなり、それがサバネと同じ種の鳥の群れである事が、地上のソアにもわかった。 サバネの羽撃きが次第に滑らかな動きになる。 ――やがて、ソアが地上から見守る中、逸れた幼鳥は群れと合流を果たす。地上の少女の事を顧みる余裕もなく、鳥たちはそのまま真っ直ぐに山の向こうへと飛び去って行った。 旅鳥は群れに還り、北の地へと向かった。 新たな寄辺を求め、翼で空を駆けていく数多の鳥影。 大地を往く牛には、それを見送る事しか出来ないと知っている。 だからせめて、唐突の別れであっても、笑顔で見届けたかった。 ◇ それから季節が一巡りし、再び蝋梅の咲く季節になっても、千鳥の群れは現れなかった。 毎日のように蝋梅の樹の許へと向かう娘を見送り、戻ってくる彼女を母親は慰めるように撫でる。幼くしてよく出来た娘は、恨み言の一つも云わず毎朝の雪掻きを手伝い能く働いた。 ――そして、山が、一面の薄紅色に染まる。 燃えるような山の麓、舞い上がる花弁の下で、田の準備を始めていたソアはふと空を振り仰いだ。 薄紅色の花弁に、違う色彩が混ざり込んだ気がした。 ――否、それは錯覚ではない。 「わっ……!」 彼女が小さく零した聲に、他の皆もつられて空を振り仰ぐ。 まるで、光が降り注いでいるようだった。 桃の花、蝦夷躑躅の紫、竜胆の青、椿の赤――空の向こうに掛かる橋と同じ、七色の花弁が雪のように里を覆う。紗幕のように視界を覆い尽くす虹の吹雪の向こうに目を凝らせば、其処にはいつか見たのと同じ、茶白の鳥影が群れを作って村の周囲を旋回していた。彼らが嘴に加えた花を降らせているのだと判る。 何事か、と家々から飛び出してきた村人たちの前で、群れから離れた一羽の鳥が地上へと翼を滑らせた。鋭く美しい航跡を描いて、千鳥は大地へ降り立つと、ひとりの男の姿を象る。 短く切り揃えられ、鳥の羽のようにぴんと跳ねた茶色の髪。虹彩の大きな黒の瞳。懐かしくも新鮮な、闊達そうな面差しの青年。 ――大地を緩やかに生きていく牛と違って、鳥は成長が早いという。 青年は周囲を見渡していた瞳をふとソアたち三人の前で止め、微笑んだ。 「ただいま」 その一言に、約束は果たされたのだと確かに悟り、ソアは表情を明るくする。 千鳥の群れは今年も、牛たちの村を訪れた。 旅鳥の見る世界を、海の外の景色を、空の向こう側の話を、無数の虹の花弁と共に携えて。 <了>
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