▼0世界、ターミナルにて「ん? 鞄なんぞ抱えてどこに行くんだ、メルヒオール」「あぁ、ちょっと休暇にな」 知り合いのロストナンバーにメルヒオールはのそりと返し。チケットを手に、ロストレイルの発着場へと向かっていく。(……そういえば、例の件も随分と落ち着いたな) メルヒオールは思い出す。ほんの少し前までは、息をつく間もないほどに忙しなかった日々を。何度もミスタ・テスラに赴いていた日々のことを。 ひとの心に取り付き負の感情を増幅させ、怪物を生み出して人を襲うなどの怪事件を引き起こす、魔性の宝石――断章石。ヴォロス世界における竜刻と似た特性を持つそれ。ミスタ・テスラ世界のものでありながら、自らの世界に歪みを生じさせるもの。 つい先日まで、この断章石がもたらす怪事件が相次ぎ、ロストナンバーは何度もミスタ・テスラへと派遣されていたのだ。メルヒオールもその隊に加わった一人である。 けれどここ最近になって、断章石の事件はとんと落ち着いた。特に目立った介入はなく、変わったことは何もしていないにも関わらず。 世界司書のリベル・セヴァンをはじめとした何人かは、その平穏に何かの影を感じ取っていたようだけれど。(ま、俺が気にしても仕方ないか……) メルヒオールは寝癖だらけの頭を掻きながら、大きなあくびをひとつ。車輌に搭乗して発車時刻を待つ。 眠そうに細められた眼をこすりつつ、懐から取り出したチケットに目を落とす。 乗車するロストレイルの行き先は、夢想機構ミスタ・テスラ。これといった目的のために訪れるわけではないが、逢う人物だけは明確に決まっている。 その世界で出会った少女。メルヒオールが名づけ親にもなっている、機械仕掛けの少女。オートマタのイーリスだ。▼ミスタ・テスラ、コルロディ島、オートマタの館にて「イーリスなら疲れたと言って、ずっと自動整備機関の中に篭りっきりですけど」 オートマタの子ども達が集うこの館で暮らす、機械人形のひとり――マヤという少女型のオートマタは、庭園の花壇に水遣りをしながら涼しげに答えた。肩にかかっている長い黒髪がさらりと揺れる。「……何かあったのか」「いいえ。前のように、どこか大きく損傷をしたわけではないです。最近はよく都市部の方に出かけているみたいで、そこで色々やっていて疲れたから――とは言ってましたけど」「そうか……」「せっかく来てくださったのに、イーリスったら間が悪いですね、まったく……。とりあえず、こちらでは自由にゆっくりしていってください」「……つまり、お茶をするなら自分で淹れろってことか」「まぁ、そういうことです。私は花の世話に忙しいので」 悪びれる様子も無く、マヤは客人のメルヒオールに背を向けたまま、黙々と花の手入れを続けている。(ある意味では気を許してくれているんだろうが、この扱いはもう少し何とかならないのかよ……まぁいいか) 地面に下ろしていた手荷物を持ち直すと、メルヒオールは館へと入っていく。 そこでは瑠璃、ジング、ミオ、ティンカーベルといった馴染みの顔ぶれである機械人形の子ども達が、賑やかに来訪を歓迎してくれた。 しかしその中には、長い金髪を後頭部で丁寧に結い、修復された継ぎ接ぎだらけの白いエプロンをつけ、皆の世話を焼きながら忙しなく立ち回る、あの少女型オートマタ――イーリスの姿はなかった。 メルヒオールは、後でイーリスが休眠しているという整備機関の様子を見に行った。しかし真鍮製の金属は内部の人物をすっぽりと包んでしまうため、彼女の姿を見ることはできなかった。 やがて夜になり、イーリスはひっそりと活動を再開した。 仲間の機械人形がメルヒオールの来訪を知らせるが、イーリスは彼に顔を合わせに行くことはなかった。ばたばたと支度を済ませるとすぐに館を飛び出し、どこかへ出かけていってしまったのである。(何なんだ、あいつは……) 次の日、いつの間にか帰宅していたイーリスはまた全自動の整備機関の中で眠りについていて。メルヒオールと顔を合わせる気はないのか、ただタイミングが悪いのか。 その後もそんなすれ違いが続き、メルヒオールはイーリスとまったく言葉を交わすこともなく、滞在期間を過ごしてゆく。他の機械人形の子ども達とゆったりとした余暇を堪能する一方、イーリスのことが気がかりでならなかった。 †(ったく、なんで俺がこんなこと……) 忍び込むのはいけないと思ったが、やはり様子がおかしければ気になった。 ある晩のこと。 オートマタの仲間達も把握していないイーリスの不可解な行動の理由を突き止めるため、メルヒオールはイーリスの部屋へ探りを入れることに決めた。 メルヒオールは幸いにも魔法の使い手である。姿を消す魔法、足音を消す魔法、灯りなく暗闇でもしっかりと目が見える魔法……数々の魔法を使えば、館に住む機械仕掛けの子ども達の目を欺くのは、たやすい。(元々は、魔法で小癪な悪ふざけばかりしやがる生徒への対抗策として身に着けたんだが……変なところで役に立つもんだな) ただし役に立つとはいっても、それが年頃(?)の乙女の部屋へ侵入するなどということでは、情けないことこの上ない。これについてはあまり考えすぎると自分が嫌になるので、メルヒオールはそれ以上考えることはやめた。 イーリスの自室には難なく侵入することができた。中はしっかりと整理整頓されている。そのぶん、どこに何があるのかは分かりやすかった。 故郷世界で賢しい生徒のクセは掴んでいたから、子どもが何処に何をどうやって隠すかは何となく知っていた。そしてやはり、イーリスもその例にあてはまっていて。「世界も違うし、ヒトとオートマタという違いはあっても……子どもってところはどこでも同じもんなんだな」 変な部分に感心をしつつ。 衣裳箪笥のように大きく、小さな引き出しがいくつもついているそれに探りを入れる。決まった場所の扉だけを開閉させておくことで内部のからくりが作動し、秘密の引き出しを開くことが出来るというもののようだ。 その仕掛けを難なくかいくぐり、隠された引き出しをあける。 中には時代がかった風味に褪せた、金属製の筒があった。人間の腕くらいの大きさだ。 それには、数式のパズルに暗号めいた難題をも折り混ぜた、数字入力式の鍵が備え付けられていた。よく調べてみればそれは、開錠に失敗すると内部にある薬品が溶け、中にしまってあったものが自動的に処分され、鍵も自ら壊れるという懲りようの代物で。「ったく、どっから仕入れてきたんだこんなもの……」 時代がかった金属筒に仕掛けられていたそのパズルを、何とか解く。 筒に秘蔵されていたのは、様々な情報が記された手帳や紙の資料、モノクロの篆刻写真など。 それらは、ミスタ・テスラで起きた怪事件についてのもの。どれもが、この世界の警官隊や探偵には手に余る難事件。それらについて、とても丹念に調べてある。 調査されている事件の傾向を見て、メルヒオールはすぐに分かる。これらはすべて断章石が関わった事件だ。そこにはかつて、自分達ロストナンバーが秘密裏に関わり解決させた事件の記事もあれば、自分達が関わることなく解決されていた事件もあって。狼男、透明人間、鉄枷ジャック……そういった奇怪な名が並ぶ。(断章石が関わっているようだが、俺達はこんなの相手にした覚えは……ん、待てよ) 少し前には、ミスタ・テスラでは断章石の事件が異常に相次いでおり、何度もロストナンバーが派遣されていた。メルヒオールも少なからずそれに関わった。 しかし事件の発生件数が急に低下し、不自然なくらいに落ち着きを取り戻した……という流れがあったのだ。そのおかげでメルヒオールはこうして休暇を取れているのだが、一部の世界司書があの件についてどうも気にかけていたことを思い出す。(……まさかイーリスが関わっているのか?) しかし何の力もない機械人形の子どもひとりが、自分達ロストナンバーが接触する必要のある非日常的な怪事件に、そうそう関わりを持てるものだろうか。断章石がもたらす怪異に遭遇し、撃退することができるだろうか。(それは、まずありえない〝はず〟だが……しかし) メルヒオールは眉根をひそめながら、あごの先を指でいじる。 関わったとしても無事に生き延びられる可能性は少ないだろうし、世界に異変が生じる可能性があれば、世界司書が導きの書を通じてあらかじめ預言しているはずだ。 預言に現れないということは、例えそれが大きな事件であっても、〝こちら側〟からして見れば世界の根源を揺るがすのようなものではない、ということと予想される。あるいは未来予知すらもすり抜けた異常事態であったのか。 ともあれイーリスの不可解な行動、綿密に調査されている情報、件数に異常な増減を残して収束した断章石の怪事件……これらを顧みるに、イーリスが何かしらの形で一連の出来事に首を突っ込んでいることは事実だろうと思えた。「やれやれ……こいつは無理やりにでも引っ捕まえる必要が……いてッ」 ちくり。 いつもの癖で首元をぼりぼりと掻いていたとき、首筋に小さな痛みが走った。 痛む箇所へ慎重に指を這わせ、指先に引っかかったそれを抜き取る。棘のようなものだ。薔薇のそれにも似ている。「ったくどこで刺さったんだ……ん、マヤの庭園に居たときか? いや、でも花なんて触ってないんだがな……」 まぁいいか、とそれ以上は気にしない。オートマタの子ども達、例えばぼーっとしているようで賢しいミオあたりがした悪戯だろうと適当に決め付けておく。 ……そんな思考をしていたから、メルヒオールは気づかなかった。 呪われた故にいかなる干渉も許さないはずの石の肌に、棘が刺さっていた不自然さに。 抜いて捨てた棘が、床に落ちると同時に一瞬にして石化して、すぐに崩れて粉になり、風も無いのに霧散していったその奇怪さに。その時は、気づくことができなかったのだ。 しかし例え気づいたとしても、この後に待ち構えている出来事を、正確に予測することは叶わなかっただろう。 † 一方、ここは0世界の世界図書館。「つい最近まで騒がしかったですが、ミスタ・テスラにおける断章石の事件も落ち着きましたね……大人の私もさすがに骨が折れました」 猫耳フードを被った女の子、メルチェット・ナップルシュガーはカップにお茶を注ぎながら、安堵した様子で溜息をついた。 ここは世界図書館にある、とある休憩室。メルチェは知り合いのロストナンバーやロストメモリー達とお茶をしている最中だ。皆、どこか表情の端に疲れを滲ませている。 少し前まで、ミスタ・テスラでは断章石が起こす怪事件が多発しており、その支援などに色々と忙しなかったのだ。「ラエリタム、フライジング、朱昏……色々な世界で何かしらの動きがあって皆さん忙しいですから、ミステスにはこのまま静かでいてもらいたいところですけど……」 開け放たれたままになっている、休憩室の扉。その廊下を早歩きで横切ったのは、リベル・セヴァンや何人かの世界司書達。「導きの書に――」「ミスタ・テスラで――」「世界計の破片がまだ――」「すぐに派遣を――!」 緊迫していて刺々しい空気を身にまといながら、世界司書達が休憩室の前を足早に通り過ぎていく様子が見えた。「な、何か……あったのでしょうか……?」 メルチェをはじめ、休憩室にいた面々は不安そうに顔を見合わせていた。▼ミスタ・テスラ、夜間、雑踏街エリアにて 一旦コルロディ島に戻ってきたイーリスは旅支度を整えると、すぐさま定期便の船に乗って都市部へととんぼ返りをした。誰とも顔を合わせないように。 メルヒオールが訪れていたことは、仲間から聞いていた。本当ならば会って話に花を咲かせたいところだったけれど。(でも今はまだ、だめ。〝あいつら〟をきちんと抑え込んでおく必要があるから――!) 今日は休日前の夜。休みに備えた食料やその他の品を買うため、街頭市場は無数の露天と人々とで盛況している。 そんな雑踏の賑わいを遠くに感じる、ひと気のない路地裏。イーリスはそこを一人で行く。 本来ならば犯罪に巻き込まれてもおかしくない場所、時間、状況。けれどイーリスの表情には怯えなど欠片もなく、唇は決意を示すかのように固く結ばれていた。足取りにも迷いはない。「何をすればいいかは分かってるわよね、イーリス……もう一度おさらいよ」 乙女は自分に言い聞かせるように呟く。「……この世界の平和を脅かす存在、それが断章石。私やオートマタの仲間達を襲って、旅人の先生や他のマスター達を傷つけたこともある、悪い悪い御伽の宝石。私はそれを知った、把握した、認識した。……この、魔法の白い歯車で」 胸元に手を添える。人間の皮膚を模したそのボディの内部は精巧な機械仕掛けが詰まっている。しかしそのさらに奥は、本来ならば無かったはずのものが2つ、秘蔵されていた。 ひとつは緑色に輝く宝石。人の心に巣食い、怪異という化け物を生じさせる魔の鉱物、断章石。イーリスの身体にはそれが宿っていた。 もうひとつは、純白に輝く小さな歯車だ。それは、この世界には無かったはずのもの。在ってはならないもの。知りえない世界の仕組みを理解し、願望を実現させる力を持つもの。 ロストナンバーが『世界計の破片』と呼び、速やかな回収を指示している、極めて重要な代物だ。 無論、ロストナンバーではないイーリスがその重要性を把握していることはない。 ただこの歯車がもたらす大いなる力で、イーリスは様々な異質を認識するに至っていた。「これのおかげで、私は断章石という存在を知った。世界の仕組みと在り様を知った。私達が暮らすこの世界に、断章石は害を及ぼすと知った。……だから私は決めた。私が断章石と戦うって……そうよね、イーリス」 胸の奥に宿る断章石は、その戦いの最中、なんとイーリスの味方に付いてくれたものだ。歯車が与えてくれる知識によれば、負の感情より正の感情に意味を見出した断章石が自らを変質させ、イーリスを宿主に選んだらしい。「断章石が生まれた事情とかはよく分からないけど……とにかく、あの石がもたらす怪異は、人を傷つける。止めなくちゃ。そうしないと、また前のときみたいに……」 イーリスは顔をしかめながら思い出す。かつて断章石がもたらす事件に巻き込まれ、仲間のオートマタや旅人のマスター達が怪異に襲われたときのことを。皆が傷つき、痛みと恐怖に悲鳴をあげていた。 ……こうした事件の記憶は、本来ならば、思い出せないはずの事実だ。不思議と感じることもなく、不自然な部分を都合よく解釈してしまったことにすら気づけないはずもの。ロストナンバーがもつ特性により、そう修正されるもの。 けれどイーリスは気づいていた。把握していた。理解していた。魔法の歯車がもたらす、深き知識によって。「今思えば、不思議なことばかりだったわ……なんで気づかなかったんだろう? それがあの人達……私達が〝旅人〟と呼ぶ、謎の人達の秘密に関係するのかな……」 メルヒオールを初めとする、何人かの人間達。「旅人」と呼ぶけれど、どこから来るかも分からない人達。皆、一風変わった個性があるけれど、悪くはない人達。 彼らにまとわりつく、幾つもの不自然な事柄、疑問。例えばどこからやってきたのか。その奇抜な服装はなんなのか。見たことも無い道具や武器を持ち、魔法のように不可思議な力を使えるのはどうしてか。 それらに対して、今まではなぜか全く意識が向かなかったことを、イーリスは疑問に思う。歯車は「彼らが異質であるから」としか回答はしてくれなかったけれど。「でも分かったことがある。あの旅人の皆はどこからかこの世界にやってきて、怪異や色々なものと戦って、私達の暮らすこの世界を守ろうとしてくれていたっていうこと……そう、だから決めた。決めたんだよね、イーリス。そうでしょう?」 イーリスは立ち止まり、両方の掌を見下ろした。ぐっと強く握り締めて拳をつくると、内部の球体間接が僅かに軋むのを感じる。身体の底から湧き出てくる、力の源泉を感じる。「旅人の皆は、とてもいい人達。だから、戦わせるわけにはいかない。私はオートマタ。いくら壊れても大丈夫。けれどあの人達は違う……壊れたら、直せない」 思い浮かべるのは、旅人の面々。おかしな格好、おかしな道具、おかしな価値観を持った、愉しくて優しくて強い人達。 その面々の中で一際、はっきりと認識できる顔がある。寝癖だらけの髪、覇気の無い背中、脱力してどうでも良さそうにしている言葉尻の、あの男性の顔。先生。「だから、私が代わりに戦うわ。私がこの世界で、御伽噺の英雄になれば……大切な人達が、誰も傷つかなくて済むから」 イーリスは顔を上げる。暗くて狭い路地の向こうは闇に包まれ、何も見えない。けれども月にかかっていた雲が過ぎ去ったとき、月の光が路地を青白く照らし出した。「そうよ。もう誰も、あんな風に戦わなくていいようにする……!」 決意を秘めたイーリスの視線の先には、長套に身を包んだ大柄な人物の背中が、ひとつ。 そしてその先には、腰を抜かして地べたに尻をつけ、恐怖で目を見開く若い女性がひとり。「断章石がもたらす、人の心の怪物! 私、機械人形のイーリスが相手よ!」 機械仕掛けの乙女が、凛とした声を響かせる。 それを耳にした長套の人物が、イーリスのほうへ向き直る。長い髪はおぞましいまでに真っ白で、顔もまた同じように白かった。一見には劇場の道化師に施された化粧にも見える。しかし、よく見れば違和感を覚える。 それはおそらく、長套の人物の顔が彫像のように無表情で、あるべき双眸が存在せず、その眼窩が底なしの闇をたたえているからだろう。(うっ……!) イーリスは思わず、自分の腕で己の身体を抱く。 あの闇に見つめられただけで、全身が硬直するのを感じる。内部の回路までもが動作を拒絶し、恐怖に嘆いているのを感じる。人間であればきっと、悪寒や吐き気を伴うであろうと想像できる。 あの闇色の眼窩はそうして人々の意志を冒し、抵抗する力を喪失させるのだ――胸の奥の歯車が、イーリスに認識をもたらす。 現に襲われかけていた女性は、いつの間にか仰向けにぐったりと倒れ、気を失っていた。「クダサイ……」 長套の人物は、かすれるような声で弱々しく囁いた。 そしてゆらりと身体を傾げさせながら、イーリスのほうへよたよたと歩み寄ってくる。 片手には、月明かりを反射して輝く金属製の大きなスプーンを持っている。もう片手には、紐で吊るした大きな硝子瓶。 瓶の中には、無数の。大小さまざまな。生々しい艶を放つ人間の眼球が、とっぷりと詰められていて。「貴女ノ 綺麗ナ 瞳……」「そう、あなた……そうやって目をくりぬいて、集めているのね」「私ニ クダサイ……」「でも、やらせない。これ以上は、やらせない。誰も傷つけさせない――」「クダサィィィ!」 長套の人物――白い肌をした人型の怪異は奇声を上げ、急にその歩みを速くさせた。全身の間接をちぐはぐに動かしながら、狂った玩具のような挙動でひたひたと迫り来る。 異質な脅威が、イーリスを襲う。けれど機械仕掛けの乙女は一切の動揺を見せなかった。ただ静かに、右腕を前に差し出して。掌を向けて。「さあ断章石、緑色のきみ……御伽噺の如き幻想の力が必要なの。力を貸して」 イーリスは告げる。静かに、厳かに。ゆるぎない決意を。「敵はあいつ。常闇に潜み、無関係な人々の命を喰らう人型の怪異――」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 伸ばした右手の周囲に生まれる、小さく儚い緑の光球。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。速やかに数を増しながら、イーリスの右腕を包むように、急速に旋回して。 やがて眩いまでに緑色の輝きを放って、膨れ上がる。スプーンを突き出し、瞳をえぐろうと飛び掛ってきた人型の怪異を、受け止め、圧倒するかのごとく。膨大な光が、緑の右腕から溢れて押し寄せて。「輝きと共に、敵を屠れ!」 緑に輝く、乙女の右腕。そこから放たれた光は、怪異の全身を包み込み。音も無く、塵ひとつ残すことなく――怪異は、瞬時に、消滅した。 † どこかに広がる、底無しの闇。 何も存在しないそこに生じる揺らぎ。水面に踊る波の花の如く、波紋は静かにそうっと広がり、密かにそうっと消えていく。 闇の水面の中心から、ずるりと這い出てきたのは、手。棒切れのように細く、病的なまでに色白で。何かを掴むかの如く、艶かしく指先を蠢かせる。 闇の大地に爪を立て、腕、肩、頭、胸と人間のそれが徐々に浮かび上がってくる。やがて一糸纏わぬ姿の少女が、舐めるようにぬるりと湧き出てきて。 光の無い闇の中でも輝く金髪は、冒涜的な眩しさで煌いている。 双眸は、片方が閉じられていた。開かれた方の片目は真紅の色をたたえ、飢えた獣のように爛々と輝き、暗闇の中に赤を滲ませていて。「ふぅ……やっとぜんぶ、食べ切れたァ」 裸の少女が億劫そうに顔を振り動かすと、長い黄金色の髪が闇の中で妖しく躍った。「緑色のおまえ……そう、おまえよ……断章石、というのね。ふぅん……面白い子。人の自我を拡大変質させ、現実事象として変換・具現化する数式の塊……」 闇黒だけが佇むその空間で。確かめるように腕や脚を動かしながら、少女はひとり納得する。「感謝しているわ、緑色のおまえ。〝坊や〟に残留させた根源体の欠片はあまりにも矮小過ぎて、表面的に肉体を侵蝕させるだけだった……。本来ならば、あのまま〝彼〟の中で永遠に寄生するだけの、惨めな存在に過ぎなかったはずだけれど……でも茨に変じたおまえが〝坊や〟を取り込もうとしたとき、愚かにも私に干渉してくれた……」 閉じた片目に手を添えて。愛しげに撫でながら。賞賛と侮蔑の混じった言葉を、誰もいない闇へと投げかける。「緑色のおまえは、どうやらヒトではないようね。故に私がただのヒトなら、おまえの新たな棲家になっていたことでしょう。けれど……」 くすくす。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。「な ん て 無 様 で し ょ う !」 謳うような響きもって、少女は断章石を見下した。 楽器のように美しい声音でありながら、それは猛禽類が死体の臓物を喰い散らかす音にも似ていて。「私もどうやら、ヒトではないの。私は魔女なのよ。ヒトを支配し、蔑み、貶め、我が物にする魔女。すべてを凍てつかせる石の魔女……その欠片。どれだけの数の緑色で押し寄せようとも、石の魔女は冒されない。あなたの行為は無駄、無駄、無駄よ。可愛く惨めなお馬鹿さん」 両手を左右に広げ、少女はくるくると舞い踊る。愉しげに、妖しげに。 金の糸を思わせる、欲深い輝きに満ちた髪。暗闇の中で翻しながら。 少女は話しかける。蔑む。断章石という幻想を。「逆に私に取り込まれた、哀れな哀れな緑色。おまえのおかげで、私はカタチを得ることができた。まぁ所詮は欠片だから、今のままでは根源体には及ばない……でもこうして、次元の狭間で断章石という面白い玩具も手に入れたことだし、すぐにでも根源体に追いついてみせるわ。石の魔女は、私ひとりで充分」 鎌のように目元と唇を歪めながら、異郷の果てに居るであろう自らの元型へ邪悪な想いを馳せる。 しかし――と。 舞うのをやめて、立ち止まる。ふと何かを思い出したといった表情。「……何もできなかったとはいえ、〝先生〟に残留している間、色々な真理に触れられたのは幸運だったわね。異世界、真理数……世界にはまだまだ面白い玩具がたくさん在ることを、私は知った。ああ、そうよ。玩具はたくさんある……なんて胸が高鳴るのかしら。全部、そう全部……遊んで壊してみたいィ……だからまずは、そう……手始めに、この世界から壊してしまいましょう」 理想の破壊と絶望の様を妄想し、少女は恍惚に頬を紅潮させて。待ちきれんとばかりに、己の指先へと艶かしく舌を這わせる。「……あら?」 けれど、今度は違う何かに気がついて。ゆらりと首を傾ぎ、何も無い闇の彼方へきょとんとした視線を向ける。不思議そうに。興味深そうに。「残留している緑色に魅入られた愚者がいたようね……どなた? それは返して頂戴。緑色はもう全部私のものなの。それは私の玩具なの……」 地面につくほどに長い金髪を、蛇のごとく脚に絡ませながら。少女はじりじりと獲物を追い詰める獣の足取りで、闇の中をゆっくりと歩き始める。「ふぅん……へぇ、機械仕掛けのお人形? 断章石で断章石を屠る? その根底にはどんな想いがあるの……?」 ひとつ、ふたつ。裸足を踏み出すごとに何かを認識し、感じ取る。そのたびに少女はひとり、面白そうに笑みながら。「あら……偶然ね。そう、あなた〝彼〟と所縁があるのね……緑色を宿す機械仕掛けのお人形さん。それに……ふぅん、なるほど……〝素敵な時計〟を持っているのね。でも――」 双方の瞼が見開いて。艶かしいまでの濃い光が、闇に漏れる。 ひとつは赤。鮮血のような赤。 そうしてもうひとつは――緑。閉じられていた瞼の下には、緑。すべてをごくりと呑み干すような、深くて底の無い緑色。断章石の緑色。「そう、ただ取り上げるだけじゃ……美味しくないわよねェ」 それぞれ異なる色に輝く双眸が、邪な色をもって鋭く歪んだ。 †「輝きと共に、敵を屠れ!」 イーリスの叫び、意志。それに応じて緑に輝く、乙女の右腕。放たれた光が怪異の全身を包み込み、音も無く、塵ひとつ残すことなく――怪異を瞬時に、消滅させる。「ふぅ……」 数日前に人型の怪異を仕留めてから、イーリスは既に5体めとなる怪異を無に還していた。 ひとつ、重い溜息をつく。 人間で言う「疲労」が蓄積したイーリスの全身は、内部の球体間接や骨格、糸のように細い導力管などを含めて、すべての部位が軋みをあげていた。どこか動作に時間差を感じる。拳を作る動作ひとつにも、僅かな誤差があると感じる。 けれど、もう少し。せめてもう1体の怪異は倒してしまいたい。これまでに数え切れないくらいの怪異を駆逐してきたとはいえ、まだだ。まだすべての怪異を屠れてはいないから。 だから限りある活動時間のうちに、少しでも多くの怪異を撃退できれば。怪異の被害に遭って、傷つくひとが僅かにも減ると信じて。「もう少し動きなさいよ、私の体……!」 内部の計算機構が弾き出す結果に、バグが混ざり始めているのは無視する。イーリスは動作不良を起こしかけている体を引きずるようにして、朝焼けの日が差して明るくなり始めた狭い路地を戻ろうとする。 その、歩こうとした方向に。肩を弾ませるほどに荒い呼吸をする、見知った男性の姿を見つける。 その男性は、いつもよりもさらに毛をぼさぼさにさせ、脱力した猫背に疲労をも滲ませている。そうしながら、安堵の溜息をひとつ洩らして。「やっと見つけたぞ、イーリス……」 メルヒオールはほとほと飽きれたいった様子で近づいてきた。彼女の部屋で得た情報を手がかりに、都市から都市を渡りつつ、怪事件の跡を追いかけていたのだ。そうして今、ようやくイーリスに追いついたのである。 一方、予想外に居所を突き止められたイーリスは慌てふためき、怪異を倒すためにもうひと頑張りしようどころではなくなっていた。 どうして。なぜ。ここにいるの。ここが分かったの。モノはすべて隠してあるし、調べられるわけないのに。「せ、先生……! ぐ、ぐぐっ、偶然ねっ。きょ、今日はいい天気っ、お、お夕飯は何にしようかしらー、ららー」 イーリスはあははと乾いた笑いをもらし、落ち着かない様子で顔を背けた。挙動不審が極まったような様子。「何言ってんだおまえ……」 メルヒオールは不信そうに目を細める。「ここに来たのは偶然じゃない、必然だ。おまえが調べた資料を辿って、ここにきたんだよ……」「……」 一転してイーリスは不機嫌な表情になる。顔をそっぽに向けたまま、頬をぷーっと膨らませる。足元の小石をつま先で憎らしげに弄ぶ。 メルヒオールはてっきり「私の部屋に勝手に入ったの? この変態教師!」と罵倒されるくらいは想定していたので、ちょっと予想外だ。 ひょっとしたら自分が行動している事に、少なからず後ろめたさを抱いているのかもしれない。 メルヒオールはやれやれ、と言った様子であごの下を掻きながら。「この街で怪事件が減っているのを仲間達は不思議がっていたが……まさかおまえが関わっているなんて思わなかったぜ。ったく、一体何やってるんだ……ほら帰るぞ。こんなこと、わざわざおまえがたった一人でやることじゃない」「……」「……なんだよ」「私が、何してるか、知ってるの?」「まぁ、何となく……な」「じゃあ手伝ってよ」 吐き捨てるように言うイーリス。 何が「じゃあ」なのか。結論までが飛躍しすぎていて、メルヒオールはよく分からない。(だから女は苦手なんだよ……) メルヒオールは面倒くさそうに髪をわしゃわしゃと掻きむしって。「いや、だからそういう問題じゃないんだ。おまえが、何を、どこまで、きちんと〝理解〟しているかは知らないが……とにかく、こういった汚れ仕事は俺達が引き受けるようになってるんだよ。だからおまえは気にしなくていい」 このままこんな路地裏に立ち尽くしていても、らちが明かない。促す意味も込めて、メルヒオールは彼女に背中を向けて歩き出す。「……私なら、大丈夫なの」 その背中に、ぽつりと。イーリスが言葉を投げかけた。そうされれば、メルヒオールは立ち止まるしかない。「私が皆を守るって決めたの。私が皆のために戦うの。ジングにミオ、ティンカーベルと瑠璃、マヤ……それ以外にも、たくさんの。他の仲間のオートマタ達全員が、人間と一緒に仲良く暮らしていけるように」 皆をいつも心配し、皆の世話を焼いていたイーリスらしい考えだな、とメルヒオールは思う。純粋で、健気だ。でもそれ故に厄介だな、と顔をしかめた。「志が立派なのはいいんだが……たった一人で世界を守れるわけないだろ。今でさえ、断章石と関わって生きているのが不思議なくらいなんだ……とにかく、言うことを聞け。帰るぞ」 メルヒオールは背中を向けたまま、ぶっきらぼうに言い放ち。すると間髪入れずイーリスが切に叫ぶ。「私にはできるのっ!」 メルヒオールはがくっと肩を落とす。よろよろと後ろに顔を向けると、両手に拳を作りながら、今にも泣きそうなばかりに訴えるイーリスの膨れっ面があった。 メルヒオールは宥めるように手をひらひらさせて。「あのなぁ、イーリス……」「できる! 私の中には魔法の歯車があるの、すっごい力があるんだからっ」「歯車ァ? おまえ何ワケの分からないこと言って――」 しかしメルヒオールの頭の中で、何かが揺れ動く。 力がある、と誇示する彼女。自分の中にあるという「魔法の歯車」なるもの。 何の前触れも無く激減した怪事件。 忘れているはずの断章石を追いかけ、特別な力もなしにそれに関わりながらも、なぜか生きているイーリス。 そして世界図書館から与えられていた、共通情報。世界樹旅団との衝突を機に破壊され、各世界に散らばったという世界計の破片。それが宿主にもたらす。『世界のしくみを理解し』『望むように世界を作り変える力』を与えるという性質。(イーリスが……まさか世界計の破片を?) だとしたら何故、世界図書館の未来予知に捕捉されていなかったのか。関わった断章石が何らかの影響を与えているのか、それとも――。(専門じゃない俺が考えても仕方ない、そんなことは後回しだ) メルヒオールはなるべく平静を装いながら、けれども迫るような足取りでイーリスに近づき、その細い手首をつかんで。 イーリスはそれに負けじと、強い眼差しでメルヒオールを見据える。「だから、私は――」「おい、イーリス! その歯車ってやつは一体どこで……いや、それはどうでもいい」「ねぇ、先生――」「イーリス、その歯車は危険なんだ。おまえの手には余る代物なんだ。だから、俺に渡せ」「――もういいっ!」 イーリスの言葉を遮り続けた果てに、彼女は言葉を荒げ。両手でメルヒオールを突き飛ばし、勢いのまま数歩後退した。「先生、いつもそうやって私の話、聞いてくれないんだね……」 顔を俯かせながら、イーリスは悲しそうに呟く。「私が一緒に居たいって言ったときも、そう。はぐらかして、誤魔化して、流して……ちっとも私と向き合ってくれなかった」「ちょ、ちょっと待て。今はそういう話をしてる場合じゃ……」「場合じゃ、ある!」 強く、強く。想いぶつけるように、イーリスは叫んだ。片足で地面を思い切り踏みつけた。メルヒオールも思わず言葉を止める。「なんで? どうして? 私の言うこと、しようとすること、なぜ全部否定するの」「いや、否定って……そんな大げさに」「言ってる!」 メルヒオールはぐ、と怯む。押され気味だ。 イーリスは痛みに耐えるかのように、胸に手を添えながら訴えてくる。「先生、教えてよ。私はもう教えたでしょ。前に言ったよね。私が何をしたいか、望んでるか。知ってるでしょ……どうなの?」「どうって……」 なぜ今、そんな話を持ち出してくるのかが分からない。その思考の過程がまったく理解できない。 だが確かに、自分はそういえば彼女についてどう考えているのだったか――というところで、いやいや違うだろと首を左右に振る。 彼女のペースに巻き込まれてはいけない。まずは世界計の可能性がある「魔法の歯車」なる情報を引き出さなくては。危険度や重要性については一応、認識している。 こほんとひとつ咳払いをし、話の流れを掴もうと試みる。「ん、こほん。あー、その、だな」「先生は、いっつも理由がないじゃない。ただ、とりあえず・とにかく・いいからダメだ……いつもいーっつも、その一点張り」「なぁ、イーリス。その歯車ってのは――」「黙って!」「あ、はい……」 無理だった。「私、それじゃ納得しない。私を納得させる答えを言ってよ。はぐらかしたり誤魔化したり、そーゆーのはもう禁止っ」 立てた指を口元で交差させながら、イーリスは急きたてるような視線を向けてくる。 つい先程とは立場が逆転し、なぜかメルヒオールが相手から目を逸らす流れになっている。そんな状況と自分に情けなさと面倒くささを感じ、どうしようかと頬を指先で引っかいていたところに――。「お人形遊びと人間ごっこにお忙しいところ、お邪魔してごめんなさいね。おふたりさん」 とん、と。 二人の間に、悪魔が舞い降りた。 † 忘れようとして記憶の隅に追いやっていたはずの、甘ったるく禍々しいその声音を、耳にして。「が、は――っ」 まずメルヒオールは両手両膝をつき、地面に吐瀉物をぶちまけた。「ごきげんよう……くすくす。私が誰だか分かる? 魔法使いの坊や」「な、ぜ……」 吐くものも無くなったところで、口についた胃液の残滓を拭いながら。メルヒオールはようやくその言葉だけを搾り出す。 ありえない。なぜ、こいつが。自分が死に掛けて、ロストナンバーとして覚醒するきっかけにもなった、こいつが。どうして、異世界のここに存在しているのか。 四つんばいになった状態からでも、この人物の素足だけは視界の隅に見えた。地面につくほどの長い金色の髪を、両脚にまとわり付かせている。腐肉の塊を見せ付けられているかのように、吐き気と嫌悪しか沸きあがってこない、その素足。 見ているだけで正気を失いそうになる。意識が混濁して糸が切れそうになったとき、「先生!」と呼ぶ声がかかって、メルヒオール気を失わずに耐えることが出来た。 駆け寄ってきたイーリスの支えを受けて、何とか立ち上がるメルヒオール。ようやく相手の全貌を捉える。 少し離れた場所で、それは悠然と佇んでいた。 衣服を纏わず、幼い裸体を恥じらいも無くさらけ出している少女。神々しいまでに美しく輝く金髪は、官能的な湿り気を帯びて少女の裸に張り付いている。 なぜか片方の瞼を閉じたままでいる裸体の少女は、にやりと酷薄な笑みを浮かべ。「逢えて嬉しい? でも残念。私はあなたの知る魔女じゃないの。私はあくまで拡大した欠片に過ぎない」「何を……言って……」 メルヒオールの言葉を遮るように、ちくりとした痛みが首筋に走った。 よろよろと手を伸ばし、指先に引っかかった何かをつまみ取る。茨のそれにも似た、棘。見下ろしているとすぐに風化して微塵となり、溶けて消えていく。まるで石になって朽ちていくように。(これは……) 茨、棘。かつて関わった断章石の怪事件で、そんな怪異を相手にしたことがあったのを、なぜか思い出す。あの時は推理を違えて、危うく飲み込まれそうになっていた。 覚醒する以前、魔女に石化された右上半身。 断章石に取り込まれかけた、あの事件。 刺さっていた棘。石と化したそれ。 まさかこれらの要素が絡み合った結果、あの忌々しい魔女が今になって再び姿を現したとでも言うのか。(くそ、次々とワケの分からないことばっかり起こりやがって……)「……誰なの、この人」 そんな思考をしていると、イーリスが怒気をはらんだ重い声で呟いた。でもその矛先は目の前の少女でなく、なぜかメルヒオールに向いていて。「どうして先生の近くには、そうやって女の人しか寄って来ないのよ! ばか! 女好き! 女ったらし!」「うっせぇ、そんなのこっちが知りてぇよ! 好きでやってるんじゃないッ」 傍で支えてくれるイーリスへ、自暴自棄に投げやりの返事をする。 けれど、今は漫才をしているときではない。石の魔女の恐ろしさは身を以って体感している。メルヒオールはイーリスを庇うように前に立ち、魔女を睨みつける。「ったく、世界を超えてまでわざわざ出張とはご苦労なことだな。けど、手出しはさせないぜ……生徒にも、この世界にも」「体と心とが、そんなにも震えて怯えているのに?」 くすくす。片目の赤を意地悪く歪ませながら、魔女は哂う。 実際にメルヒオールの体は、恐怖で震えてしまっていた。イーリスという護るべき存在を背後に控えさせているという支えでもなければ、魔女にこうして返答することもなく、狂気に頭を抱えながら絶叫していただろう。 魔女はひとの精神を侵蝕するのだ。その視線で。その存在すべてで。「強がる様が可愛いわね……根源体も遊びたがるわけだわ。すぐ壊れちゃう玩具より余程、遊びがいがあるもの」「生憎だが、おまえと遊んでいる余裕はないんでな。またの機会にしてもらえるとありがたいんだがね……」「だめよ。あなたを食べたくて仕方なかったのに、ずーっと傍にいて、ずーっとお預けされていたんだもの」「ずっと、だと……」「だから遊びましょう。そう、今回は……そのお人形さんを使ってみましょうか」 魔女の腕が差し上げられ、華麗な手つきでイーリスを指し示した。魔女の目に彼女を晒したくなくて、メルヒオールはイーリスを隠すように己の背後へと押しやる。 肝心のイーリスは「お人形お人形ってさっきから失礼ね!」と立腹しているが、それに構っている余裕はない。「ルールは簡単……どちらがうまく、お人形さんの心を惹き寄せられるか」「ふざけたこと言ってんじゃ――!」「ダメよ先生。ルールを守ってくれなきゃ、今すぐ二人とも石に変えて砕いちゃうからねェ」 ぱん、と魔女が軽く手を叩いた。すると朝が訪れようとしていた空は一瞬にして漆黒の闇色に変貌し、路地裏の景色は消失して、メルヒオールは黒と赤が滲む異質な空間に取り残される。後ろに居たはずのイーリスも姿を消していた。「な、イーリス……? どこだ、イーリス!」「じゃあ最初は私から。先生は余興に、まずはこれで遊んでいて頂戴」 魔女が今度はふたつ手を叩くと、石の壁が足元の闇からせり出して、二人の間を遮った。前方だけでなく四方八方に生成されていく壁は、ある場所では行き止まりになって立ちはだかり、ある場所では左右に分かれて道を作っている。闇の空間に、石の迷宮が顕現したのだ。「くそ、こんなもの……!」 メルヒオールはすぐさま魔法で破壊しようとしたが、かすり傷一つつかない。『ズルはダメよ先生?』 くすくす。子どもの悪戯を遊び半分で叱るような声音で、魔女の声が迷路に残響した。「イーリス! 大丈夫なのか、おい!」 返答はない。返事はない。何も返ってこない。 魔女から庇っていた時に触れていた、イーリスの腕の感触――人の腕とは違い、どこか変に固いのに柔らかな弾力があって、乾いた熱をもった機械仕掛けの腕の感触――が、石化していない掌に残っている。僅かに。少しだけ。 彼女は無事なのか。どこにいるのか。この迷路を脱出することはできるのか。脱出したとしても勝機はあるのか。なぜ魔女が今になって姿を現したのか。考えることは山ほどあって。「……だああ、くっそォ!」 髪を引きちぎりそうな勢いで掻きむしりながら、メルヒオールはやけくそに走り出した。▼イーリスの心の声 マスター。 人間。 私達オートマタが仕えるべき存在。ご主人様。 マスターは、オートマタの私達に色々なことを教えてくれる。何が良くて、悪いだとか。愉しいこと、嬉しいこと。難しいこと、大変なこと。たくさんたくさん、教えてくれる。 でも。 そう、でも。 あの人は違うの。あのマスターは違うの。 先生。メルヒオール先生。私のマスター。 ……あの人は 最 悪 ! ……気がつけば寝てばかり。ごはんを食べにもそっと起きたら、あとは書斎に閉じこもって本ばかり読んでる。 私のことは放っておいて、好きなことしてるの。自分だけ。もう最悪よ。 すぐに服は汚すし、使った食器は片付けないし、お風呂にも入ろうとしないし。 頭だってぼさぼさ。少しはカットしてもらって小奇麗にすればいいのに。もう、自分の衣食住にはほんっっと興味がないんだから。 きっと私達のところ以外でも、そうやってずぼらな生活を送ってるに違いないわ。うん、絶対そうだ。そうに決まってる。違いない。 いつも不思議な仲間のひと――「旅人」のひと達と一緒にいるけど、きっとお仲間さんにも迷惑かけているに違いないと思うの。 だってそうでしょ? 自分のことに気がつけなくて、気がついても面倒くさがって改善しようとしないんだから、きっと先生は仲間のひとのお世話になってるに違いないわ。絶対そうよ、うんうん。 ……。 そうやって、普段はとぼけているのに。私のメンテナンス時間は絶対に忘れたりしなかったわ。きちんと定期整備用の機関装置に入るよう言ってくれた。 聞いてないだろうし聞いてても忘れてるだろうって思ってたようなことだって、なぜか覚えていて。後できちんとお出かけに連れて行ってくれたりもしたの。 変なひと。変な先生。ほんとにおかしな、せんせ。 ねぇ、せんせ。 せんせ、は。私のこと、どう思ってる? 私のこと、見てくれてる? 邪魔だとかうるさいとか、思ってないのかな。思われていないかな。大丈夫かな。 私は、オートマタ。機械仕掛けの人間もどき。人間とは違うもの。人間の生活得を優位にするための、動く道具。 私、役に立ててるかな。オートマタとして。 私ね、役に立ちたいんだ。先生のね、役に立ちたいの。この気持ちは、他のオートマタ仲間のみんなにも負けない自信があるんだから。 それに私は、オートマタの中でも特別に優秀よ。生まれてまだ何年も経っていないけど、もう人間の社会の中で色々な仕事ができるんだから。頭も使えるし体も動かせる。痛いのも汚れるのもへっちゃらよ。 私、マスターが先生じゃなかったら、たぶん、今の私になってなかった。 先生は確かにずぼらだし面倒くさがりだし、他のマスターさん達とは比べものにならないくらい、マスター向きじゃないわ。教師とは名ばかりの反面教師。 でも先生は、私のことをすごく大切にしてくれたよね。「女子なんて扱うのは苦手だ」なんて言いながら、何も分からない私に色々なこと、四苦八苦しながら教えようとしてくれた。 ……何の予備知識もない私に、高等な数学理論とかいきなり教えるのは頂けなかったけどね。もちろん、当時の私には何がなんだか分からなかったわ。 でもそうやって不器用なりに、私に体の動かし方、字の書き方、本の読み方、詩の愛で方……色々教えてくれたね。 ……私がひとりで何かしようとするようになってからは、すっかり放置しっぱなしだったけど。もうちょっと面倒見てくれても良かったんじゃない? まったく。ふーんだっ。 ……きっと、だからこそ。 私はそんなマスターを支えてあげなくちゃって、思ったの。頑張って私を大切にしてくれたマスターに、何倍もの恩返しをしなくちゃって。 そうやって思考したとき、私の中の回路のどこかがカチッと切り替わった。 それから、私は頑張ったわ。他のマスターさんの手も借りて、色々と教えてもらったの。先生を支えてあげられる、立派なオートマタになってあげるために。その一心で頑張ったの。 前まではひよっこだったけど、今はもう違うんだから。お茶だって丁寧に綺麗に、品良く静かに淹れてあげられる。掃除も洗濯も料理も、ずっとずっと上手になったわ。必要なことは全部、ここの中にあるぜんまい式記憶フィルム機関の中に入ってる。 人間の役に立つことは、名誉なこと。 でもね。最初から設定された行動原則とかは関係ないんだよ、今の気持ちは。これは、私が私だから持っている気持ちなんだよ。 ……先生は、いつもどこに帰っていくの? どんなコトをしているの? やっぱりそっちでも先生なの? 連れて行ってとお願いしたとき、一瞬だけ変わった先生の表情。辛いような苦しいような、でもそれを抑え込んでるような顔。 私、わがままかな。せんせ。 先生は私のこと、嫌いじゃないって言ってくれたけど。それは本当に? 私のことを傷つけないために、わざと嘘を言ってくれてるだけ?先生は自分の本心、あんまり言ってくれないよね。いつも面倒くさがって、言いよどんで、誤魔化して。 先生。私は先生と一緒にいたいよ。先生の傍にいたいよ。 先生は〝旅人〟だもんね。先生の傍にいるためには、この島を離れなくちゃいけないことも分かってる。 都市部を離れて、さらに奥の辺境の、そのまた奥の、ずっとずっと先にまで行かなくちゃいけないのかもしれないって。 そうすれば、私は島の皆と離れ離れになる。見知った仲間とは逢えなくなる。ひょっとしたらその先ずっと逢えなくて、そのうちに互いに互いを忘れてしまうことになるのかも、しれない。 でも、それでもいいんだ。私達オートマタは、人の道具。機械仕掛けの便利な道具。誰かの傍について役に立つことが至高の喜びなの。オートマタ同士で暮らすのも愉しいけれど、それはそれ。これはこれ。 道具は、誰かに使われて求められて、初めて価値が生まれるの。存在意義を見出すの。 ……それは、人がオートマタの回路へ刻んだ、呪いなのかもしれない。でも私達には「自由な心」がある。役に立つための誰かを、どこかを、選ぶことができるの。 これは呪いなんかじゃない。これは生きる道なの。選択肢なの。自分の手で掴む未来なの。 それが、私には、旅人の「先生」だったっていうことなんだ。 ……先生は、どうなの? 私じゃだめ? 迷惑? 教師と生徒だからとか、大人と子どもだからとか、人間と機械だからとか……そんな表面的な理由で、誤魔化さないでね。 私、先生の本当の気持ちが聞きたいんだ。 私と一緒に居てくれる? 私が一緒に居てもいい? 私のお願い、許してくれるかな。認めてくれるかな。 私と一緒には居られない? 私が一緒ではだめ? そうなったら残念だけれど……ううん、それならそれでいいんだ。その理由、教えてくれるなら。不器用でもいいから、きちんと教えて。私に言ってよ。 未熟だって、子どもだって言うのなら……もっともっと立派に成長して、いつかきっと、納得させてみせるんだからっ。 ……それとも、まだ何も考えられないし、想うことも無かったりするのかな? ……だったら! ついていったって構わないでしょ? ね、せんせ――。 † 何もない闇黒だけが拡がる、その空間で。 恥らう乙女の心が、透明感のある響きをもって、優しく優しくこだまする。 けれど、けれど、けれど。 それを嘲笑う者の姿、ひとつ。「ふぅん、それがあなたの心の声なんだァ」「……」「お人形なのに、まるで一人前の人間のよう。うふふふ、愉快だわァ」 くすくす。小さく薄い肩を揺らしながら、石の魔女が哂う。 そんな魔女の背中へ、怒りを込めた視線を向けるイーリス。「ひどい」「ん? 何か言ったかしら?」「ひどい……私の気持ち、そうやって無遠慮に全部、表に引っ張り上げて……人の心を覗き見て、哂って……最低ッ」 イーリスは魔女を睨みつけながら、拳を振るわせる。 けれど魔女は気にも留める様子なく、美しく長い金髪を肩から背中に払いのけ。後方のイーリスを振り返ると、腕を組みながら涼しげに彼女を見下ろす。「あら、随分とご立腹のようね」「当たり前じゃない。なんでこんなことするのよ」「だって、愉しいから」「……は? あなた、何言ってるの……。他人の気持ちを、隠しておきたい気持ちまで裸同然に曝け出させて、嘲笑うことが? そんなのが愉しいの?」「えぇ、そうよ」「なんで……」「ん? だって、玩具で遊ぶことがそんなに悪いことかしらァ」 イーリスは頬を引きつらせた。ああ、もう〝これ〟は話の通じる人間ではないのだと、そう確信する。 人型をしていて、人の言語を口にするけれど。その中身は、異質以外の何ものでもない。これは、人に、すべてに。害悪しかもたらさない存在だ。「……あんた、ヒトじゃないわ」 そう、こんなものがヒトであっていいはずがない。こんなものが人間と同じ姿をしていることすら、イーリスには耐え難い。「あんたなんか、ヒトじゃない! あんたは、皆とは……違う……!」「当たり前じゃない。だって私、魔女だもの」 くすくす。魔女と名乗る裸の少女は、嘲笑った。 イーリスは決意した。心でくすぶっていた怒りが、炎となって荒れ狂うのを自覚した。 相手が人間であれば、少しは手加減しなくてはと想う部分もあった。けれど、そうではない。これは、もう、ヒトではない。「私の中の断章石が囁いている……あんたも断章石を持っているんでしょう。それも、うんと大きな断章石。あんたを倒せば、怪異はもう現れなくなるって……そう言ってる。そうよ、あんたは私達の生活を脅かし、破滅の危機をもたらす、世界の敵……」「なら、どうするの?」「決まってるでしょう。あんたを倒すわ!」 イーリスの挑戦的な言葉を受けて、魔女の目と口が不敵に歪む。赤い舌先で物欲しそうに唇を湿らせる。「随分と立派な志ですこと」「傷つくのは機械仕掛けの私だけで充分。だからもう、皆が傷つかなくていいようにする!」「くすくす。可愛らしいわァ……まるごと食べちゃいたいくらいに」 魔女の片目の赤が輝き、周囲の闇を侵蝕し始める。赤が暗闇を侵蝕していく。 胸の奥の歯車がイーリスに告げる。あの赤に触れたものの精神は凍てつく墓標と化してしまう。あれに抗うことは、ひとにはできない。しかし、負でない正の断章石を内包し、御伽噺の力を得た己ならば、あるいは――と。イーリスはそうした情報を認識した。(そうよ、こいつさえ倒せば。皆が危険な目に遭うこともない。先生達が戦う理由もなくなる) あのときの事件で傷ついたオートマタの皆を、血まみれのマスターの姿がよぎる。(あんなこと、二度とあってたまるもんか) 石の魔女という怪異から染み出る赤が、急に侵蝕を速くさせた。深淵の赤が蠢き泡立ち、上下左右から迫り来る。 魔女の赤が、イーリスを襲う。けれど機械仕掛けの乙女は一切の動揺を見せなかった。ただ静かに、右腕を前に差し出して。掌を向けて。「断章石、緑色のきみ……御伽噺の如き幻想の力が必要なの。力を貸して!」 イーリスは告げる。静かに、厳かに。ゆるぎない決意を。「敵はあいつ。先生にまとわりつく、意地の悪い魔性の女――」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 伸ばした右手の周囲に生まれる、小さく儚い緑の光球。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。速やかに数を増しながら、イーリスの右腕を包むように、急速に旋回して。 やがて眩いまでに緑色の輝きを放って、膨れ上がる。光を目の前にしても、どこか愉しげに微笑む魔女を、拒絶し、圧倒するかのごとく。膨大な光が、緑の右腕から溢れて押し寄せて。「輝きと共に、敵を屠れ!」 緑に輝く、乙女の右腕。そこから放たれた光は、魔女の全身を包み込み。音も無く、塵ひとつ残すことなく――魔女は、瞬時に、消滅した。 けれど、けれど、けれど。 なぜか、声が響いた。魔女の甘く怠惰な声が反響する。「輝く緑色を内包するおまえは、どうやらただのお人形ではないようね。故に私がただの怪異なら、おまえの緑色に屠られていたことでしょう。けれど……」 くすくす。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。「な ん て 滑 稽 で し ょ う !」 謳うような響きもって、魔女はイーリスを見下した。 楽器のように美しい声音でありながら、それは猛禽類が死体の臓物を喰い散らかす音にも似ていて。「私はどうやら、ただの怪異ではないの。私は魔女なのよ。ヒトを支配し、蔑み、貶め、我が物にする魔女。すべてを凍てつかせる石の魔女。そして――」 消滅させたはずの魔女の声が、すべてを嘲るようにこだまする。 緑に発光する右腕を抑えながら、信じられないといった表情で周囲を見渡すイーリスの目の前に。最初かそこに居たかのように、何も無い宙から魔女が姿を現して。鼻先が触れ合うほどにまで、一瞬のうちに肉薄する。 石のように冷たい両手で、イーリスの頬を包み込む。優しく、愛でるような手つき。 魔女が、閉じていたもう片方の目を開いた。 そこには、吐き気を催すほどに色濃く輝く、緑の宝石がはまっていた。それは断章石の輝きだ。「そして――そう。私は、断章石の概念を手中におさめた石の女王……」「なっ――」 イーリスは感覚で理解した。計算回路が結論を導き出すまでもなく理解した。胸の中の歯車が囁くよりも前に。 瞳に断章石を秘蔵する、この魔女。自分と同じく断章石を行使する者と思っていた。 けれど、違う。断章石の力を利用している自分とは、もはや枠が異なる。断章石を利用して、もっと異質な存在に成り果てた何か。名状しがたい何か。それが、これだと。イーリスは理解する。「あ……あ、く……うぁ……」 驚愕か絶望か。目を見開いたイーリスの水晶瞳機関に、魔女の双眸が映し出される。赤と緑の瞳。それに見つめられるだけで、何も出来ない。動けない。 目が覚めるように淡く透き通った、緑色の輝きを放つイーリスの右腕。巧みで精巧な機械仕掛けの右腕。 石の魔女は、尊いものを扱う手つきで触れてきた。指先が触れた途端、イーリスの右腕の緑は色を失う。肌が艶を失い、ひび割れ朽ちて、みすぼらしい灰色と化す。 そして魔女が、まるで蝋燭の灯を消すように吹きかけた、ささいな吐息ひとつで。 イーリスの断章石が、右腕が、イーリスの決意が。投げ捨てられた砂糖菓子のように、あっけなく瓦解した。「いくら希望の火を灯らせた緑色であっても。おまえの行為は無駄、無駄、無駄よ。可愛く惨めなお馬鹿さん」 魔女の両手がイーリスの胸に伸び、服の中へするりと差し込まれた。左右に押し開いて衣服を破り取る。人間を模した擬似皮膚層があらわになり、年頃の少女を思わせる胸の膨らみがさらけ出される。「おまえの心に、冷たい石をあげましょう」 魔女が、イーリスの胸に掌をあてがった。「――!」 人間でいう心臓にあたる重要な機関部品が、ぎちっと生々しく軋んで悲鳴を上げた。魔性の瞳に見つめられ固まっていたイーリスの表情が、苦痛に歪む。 そしてイーリスの両目の水晶瞳機関には、とある幻が像を結んでいた。(殺セ) 機械をめちゃくちゃにつなぎ合わせたような人型が、人間に群がっていた。 人間とひとつになろうとし、機械が人間を喰らっていた。機械が人間に、むりやり機械をねじ込んでいる。機械化させようとしている。(殺セ) 瑞々しい果実の皮を剥き、果汁の滴る果肉を摘み取るように。機械は人間の皮膚を鋼鉄の爪で裂き、鮮血の滴る肉をえぐり取る。蠢く芋虫の塊のように胎動する機械を、人の体へ押し込んでいく。(ヒト ト ヒトツ ニ ナルタメ ニ) シネマという名で界隈に広まってきた、最新の映像技術。連続写真を次々と見せることで、写真の中の人物がまるで動いているように見えるそれのように。 残酷で残忍な光景が、イーリスの目の前で展開されていく。 殺されていく。人が、無残に。ゴミ屑のように。鋼鉄の爪が、人間の肉と命を弄んでいる。 コマ送りで、それらの惨状を見せ付けられる。「違う、違う違う! やめてよやめて、私はこんなこと望んでなんかいない!」 悲痛な叫びをあげる。己の願いと祈りを、魔女に冒涜される恥辱を味わいながら。「寄り添いたかった、傍にいたかった。そうは、願った。でも違う、こんなの……絶対に、違う……!」 イーリスは懇願する。やめてと願う。違うと否定する。 けれど魔女はやめない。聞かない。聞き入れない。 イーリスの胸に冷たい手をあてがいながら、潤った唇を彼女の耳元に近づけて、囁く。「解き放ちなさい。すべて、すべて。心のすべて」「閉じた想いに、意味などないのよ。心を解き放ってしまいなさいな」「すべてを望むがままに。すべてを想うがままに」 紡がれる闇色の誘惑に、イーリスの心が冒されていく。自分がじわじわと闇黒に侵蝕されていくのを、イーリスはどこか他人事のように感じていた。「御伽噺とは、人々の秘められた想いそのもの。心の深淵に潜む願い。希望、野望、欲望。心の鏡」「断章石とは、心を拡大させるもの。想いをかたちにするもの。想いが世界へ降り立つためのよりしろ。心の器」「すなわち。紡がれた闇色断章とは、人の想いと夢とが生み出した、人の本心そのもの。人の心の結果」 魔女の囁きは、イーリスの正をすべて否定し、負のすべてを肯定する。 イーリスは首を左右に振った。弱々しく。みすぼらしいまでに。「これが……私の心なの……私が想ったことの結果なの……」「そうよ。お人形風情が人間の真似ごとをした結果。人間なんて、冷たく固い石のようなもの。どのようにあたたかい想いをあなた達が紡ごうとも、凍てついた石にそのぬくもりは伝わらない」 愛しいわが子を諭すよう口ぶりで、魔女は片手でイーリスの頬を愛撫する。 けれどその表情には慈しみなど微塵もない。恍惚に蕩け堕落した表情で、そう囁くのみ。 胸に当て続ける片手を通じて、魔女は彼女の心に触れ、いやらしい手つきで想いのすべてを露にし、弄び、蔑み、支配しようとする。「人間には。機械が想い描くような心など。無いの」「機械の心は、決して人間には届かない」「だから、分からせるの。その身を以って――」 分かり合えないから。だからひとを喰らえと。そう言うのか。 イーリスはそれを否定する。矛盾している、ありえない。そんなことをしたって意味などない。あるはずがない。ひとと機械が一緒に居るということは、そんなことではないはずだ。イーリスは必死に抗った。 けれど、こうも思う。 今、自分が抱いている想いも……意味なんてないのでは。無駄なものなのでは、と。「機械と人は、相容れない……」 自然と、闇に充ちた想いを口にしてしまったことに、思わずはっとなるイーリス。口元を両手で抑えたくなるが、もはやそのような余力も残されていない。小さく首を横に振るだけだ。「だめ。諦めたら、だめ。こいつの冷たさに屈したら、いけない……負けちゃだめ、そうしたら世界は、皆は……」 精神回路が通常の稼動限界を超えて、軋みをあげる。焼け付くような痛みでイーリスを苛む。「でも、だめ……私、抗えない……気持ちは通じ合えないって想いが……ひとを信じられない気持ちが、どこかにあるから……」 ぜんまい式記憶フィルム機関が、本来ならば呼び出さないはずの記憶領域を刺激し、イーリスの水晶瞳機関にとある像を浮かび上がらせた。 手入れのされていない、ぼさぼさの髪。 猫背気味に傾ぎ、脱力した背中。 覇気に欠けていて、やる気のない表情。 溜息混じりの、飽きれるような声音。 目を逸らし曖昧に口ごもりながらも、そっと差し伸べてくれる片手。「先生……せん、せ……!」 魔女によって砕かれ、二の腕より先が無い右腕を、イーリスは伸ばして。何かを掴もうと、弱々しくもがく。 けれどイーリスの目の前で、彼女が先生と呼ぶ男性の幻は、悲しそうに背中を向けて遠ざかり、闇に溶けて消えていく。 もつれ合う魔女とイーリスの二人も、徐々に漆黒の中へと溶けてなくなる。 そんな中、赤と緑の双眸だけは、暗闇の中に残って。醜悪な三日月を思わせる弧を描いて歪み、くすくすと笑む。『あきらめなさい』 甘い堕落の囁きが、すべてを優しく溶かして、壊す。 † メルヒオールは闇黒の地面を蹴って、迷路を進んでゆく。行き止まりに進行を遮られながらも、決して立ち止まることはなく。 そこには音がなかった。何の音もしない。床か地面かも分からない暗闇を蹴っても音はなく、風の音も何もない。 ただ、羽織った外套の裾が翻り、擦れる音はあった。走るごとに荒くなっていく呼吸の音もあった。(くそっ、ただの休暇だったはずなのに……何なんだもう!) 何をすれば良かったのだろう。どうあれば良かっただろう。どうしてこんなことになった。 魔女はなぜ今まで動きを見せなかった。あれは魔女そのものなのか、それとも似た何かなのか。 今、自分ひとりで魔女とやり合うことはできるのか。この事態を世界図書館側は察知しているのか。救援は来るのか、来ないのか。 どうすればいい? どうすればいい? 答えは出ない、答えは出ない。けれど、ひとつだけ、わかっていることがある。 迷路を進んでゆくたびに、イーリスの心の声が聞こえた。イーリスの想いを知った。このような形で自分の気持ちを知られてしまうのは、きっと彼女には不本意だろうけれども。(イーリス、俺は……) 考えはまとまっているかもしれないし、まとまっていないのかもしれない。 けれどもまず、彼女に。イーリスに会わなければ。たくさんの思考の中で、それだけははっきりとしていて。「どうすればいいかも分からないし、どうなるかも分からないが……今、行くからな……イーリス!」 † ぴしり。 石化した右腕に、ほんのわずかな、亀裂が走った。メルヒオール自身も気づかぬほどに、小さな、些細な亀裂が。 闇色の御伽噺が、幕を開ける。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>メルヒオール(cadf8794)=========
▼怪異の生み出した幻想空間にて 闇の地面を踏みしめて、石の迷路を彷徨って。 走って走って、走り続けて――そしてその果てで、ついに石の回廊を抜ける。 そこに、イーリスは居た。 上半身の逞しい大きさとは不釣合いに、矮小な下半身を持つ黒の巨人。表面のすべてが、漆黒の機械部品で構成されている巨体。首から上を持たぬ代わりに、四肢を拘束したイーリスを首の根元に差し込んでいる、機械仕掛けの怪異。それに、イーリスは囚われていて。 「イーリス!」 メルヒオールが切に声を上げ、騎士の巨躯に走り寄る。彼に普段の脱力した様子はない。口調もどこか早口で焦りをにじませている。 「先生……来てクれたん、だ……でモ私、だメ……心の回路が、冷タい石になっちゃっタの」 磔にされているイーリスの声は、ギチチ、と金属が擦れるような軋みをあげていた。 髪留めを失って結いの解けた金色の髪は、どこか生々しい湿り気を帯びて、乙女の頬に張り付いている。その髪の隙間から覗く彼女の瞳は、断章石が放つ淀んだ緑色の輝きに明滅していた。 「だかラ、お願イ……逃げテ、せんセ」 巨人が、手に持っている戦斧をゆっくりと掲げていた。酷く緩慢に。処刑の執行をじらすように。 あまりに大きすぎるその戦斧が振り下ろされれば、己の身体は微塵に吹き飛ぶだろうと、メルヒオールは理解できる。 「逃げろ……か」 でも。彼は逃げない。 「そうは言ってもな。はいそうですかって素直に言うこと聞いて、おまえを置いていけるわけないだろ……」 黒い巨人と同化してしまったイーリスを見上げながら、メルヒオールは溜息をつく。呆れるように。微笑ましそうに。 「でモ……私、ダめナの……信じルこト、できナイ……何モ、誰も……」 「そうさせちまったのは俺のせい、だろうな……すまない、イーリス」 イーリスに向ける双眸は、後悔と悲しみに溢れている。けれどそこには、暖かみのある優しさも灯っていた。 「なぁ、イーリス。おまえの願いを聞いてやれなかったのは、おまえに辛い想いをさせたくなかったからなんだ」 メルヒオールはそっと語る。 自分の気持ちを口に出すことは不得意で、面倒で、いつもなら濁していた。 けれど、今はそうしない。イーリスの心の声を聞いたのだ。真っ直ぐな想いを聞いたのだ。 だから自分も、それに報いなければいけないと。そう思っているから、メルヒオールは自分を語ることができる。 冷たい闇で満たされた空間に、メルヒオールの優しい声が拡がる。 「おまえが何を、どこまで理解しているかは知らないが……おまえ達が言う〝旅人〟というのは、危険と隣り合わせなんだ。この世界で平穏に暮らしているおまえを、そこへ飛び込ませたくなかったんだよ」 「だメだよ、先生……逃げテ……私、先生のコと傷ツけちャウ」 「イーリス……」 「ごメんネ……私、先生ト一緒に居たいナンて願ったカラ、こンナ姿になッちャった……コんナ私、酷イヨね……こンナ私、嫌イだヨネ」 「嫌いじゃ、ない」 それはいつかも、彼女へと送った言葉。 そのときは肯定も否定も出来ず返答に迷った挙句、妥協のひとつとして紡いだものだ。 けれど、今は違う。明確な意思があった。だから、はっきりと口にする。闇に堕ちかけているイーリスの存在を、しっかりと肯定するために。 「もしおまえのことが嫌いだったり邪魔だったりしたなら、俺が何度もここへ足を運ぶことはなかっただろう。今回だってそうだ、今までもずっとそうだった。来ないことを選べたにも関わらず、そうはしなかったんだ。その理由は――」 そこでメルヒオールは口ごもる。けれど今までのように、苦そうな表情を浮かべて顔を逸らすようなことはしない。メルヒオールは、自嘲を含んだ苦笑いを浮かべ、小さく肩を揺らして笑いながら、こう返した。 「正直、よくわからん」 メルヒオールは肩をすくめる。 この世界を訪れるたび、考えていたのだ。自分はなぜここに来るのか。世界図書館からの依頼があるわけでもなく、何度も足を運んだ理由は何なのか、と。 「俺は何せ、面倒くさがりでずぼらだからな。考えるのも面倒くさい。けど俺にとって〝行く〟ということは、当たり前のことだったんだよ。あぁそうだ、理由なんて……いらなかったんだ」 イーリスへと想いを告げる中で、自分の答えを探し出せた。メルヒオールの気持ちは今、青空のように澄み渡っている。 メルヒオールはイーリスを見上げながら、凛とした声で言い放つ。 「イーリス、俺はいつか必ず故郷に帰る。今までも今もこれからも、それは絶対に変わらないし揺るがない。人とか機械とか、そういうのを言い訳にするつもりはないが……俺の故郷に、おまえの同胞はいない。そこはオートマタのいない世界だ。おまえにとって、生きやすい世界かどうかは分からないぞ」 「生きやすいかどうカ……決めるのハ、先生でモ他の誰でもなく……私だよ……先生……」 イーリスから聞こえる、金属の軋む音が小さくなっていく。彼女の双眸に宿っていた、冒涜的な緑色が薄くなっていく。 「生きやスいから行くとか、行かないとかじゃないの……どんな場所でモ私はそれを受け入れて、できるだけ良いものにしよウとしていくつもり」 乙女の声音が、少しずつ生気を取り戻していく。いつもの、勝気で強気でお世話焼きで、鈴を転がしたように明るい、イーリス本来の声に。 「だって私は……仲間の中で誰よりも優秀な、立派なオートマタなんだもん。どこだって、なんだって……先生を、支えてあげたい――っ」 「それがおまえの、本当の気持ちなんだな。石の魔女や断章石に、惑わされ歪められた気持ちではない、おまえの〝答え〟なんだな」 「……うん」 「なら決まりだ」 涙ぐむイーリスを仰ぎながら。メルヒオールは口許を僅かに緩め、こう言った。 「ついてくるか、イーリス――いや、一緒に行こう」 「……!」 乙女を拘束している闇の束縛が緩んだ。 イーリスは、もがくように右手を伸ばす。彼の言葉に応えて。 メルヒオールは、そっと右手を伸ばす。乙女の右手に応えて。 無論、メルヒオールの右腕は石化してしまっている。自分で動かすことはできない。できなかったはずだ。 けれど、けれど。 イーリスが想いに応えて伸ばしてくれた、そのか細い右手を。同じ右手を伸ばして、掴みたかったのだ。同じ手を伸ばして、同じものを掴みたいと思った。 メルヒオールの石の腕に、亀裂が走る。そこから溢れてくる輝きは、曇天の隙間から差す陽光を思わせる輝きだ。 二人が手を伸ばしたもの。二人が掴みたいと願ったもの。 それが、それこそが―― 希望という名の、輝きだった。 内側からあふれ出す輝きが、石の魔女がもたらした石化の呪いを解く。右腕を中心に侵蝕していた石の呪縛が、あっけない程に容易く剥がれ、崩れ落ちていく。 希望の光に照らされた黒の巨人も、煙のように霧散して消え失せる。 光の膜のようなものに包まれたイーリスが、両手を広げながらゆっくりと降下してくる。 メルヒオールは、イーリスを。正真正銘の自分の両腕で、強く優しく、抱きとめた。 「せんせ……!」 「すまなかったな、イーリス」 ――くすくす。 黒の巨人は消失した。けれど、まだ敵は、居る。抱き合うふたりを嘲笑する魔女が居る。 「感動の光景だわ……あぁ、先生はお人形とハッピーエンドを迎えたのね」 闇の深淵から這い出てきた魔女は、自分の腕で自らを抱きしめながら、恍惚の表情で語る。 「その続きも知っているわ――気持ちを通じ合わせたふたりが、幸せの絶頂を迎えたそのとき、魔女の手によって石にされてしまいました。ふたりは冷たい石の中で、永遠に暖かな気持ちでいられるようになりましたとさ。めでたしめでたし――」 くすくす。 金属同士が擦れる耳障りな音にも似た哂い声、洩らしながら。 「な ん て 傑 作 で し ょ う !」 尊ぶような響きをもって、少女はふたりを見下した。 喜びを詠う詩人のように美しい声音でありながら、それは噛み千切った指の肉と骨を口内で舐め転がす音にも似ていて。 「失礼な女……! 私達は、こんなところで終わらない。まだ終わりなんて迎えない」 「それに残念だが〝俺達〟は旅人なんでな。ここにいつまでも留まっているわけにいかないんだよ、石の魔女」 ふたりは反論する。けれど魔女は、ただただ嗤うばかり。 「そう、私は魔女なのよ。ヒトを支配し、蔑み、貶め、我が物にする魔女。すべてを凍てつかせる石の魔女」 両手を左右に広げ、少女はくるくると舞い踊る。愉しげに、妖しげに。 金の糸を思わせる、欲深い輝きに満ちた髪。ふたりの前で翻しながら。 「先生……!」 「心配するな、イーリス。あんな奴、すぐに……」 目の前で踊り狂う魔女を睨みつけながら、腕の中にいるイーリスへそう返す。 でも、強がりだ。勝てる自信はなかった。けれどあわよくば、相討ちにでも持ち込めれば――逆境に思考を沈めていく彼の中に、乙女が声がしゃんと響く。 「ううん、違うの先生。私にも手伝わせて」 「イーリス……?」 「私は、先生を信じてる。だから、先生も私を信じて欲しいの」 イーリスの真っ直ぐな眼差しが、メルヒオールの視線と交錯する。 「ふたりで、あいつ。やっつけよう」 「……!」 そう、今はひとりじゃない。 ただ一方が守るだけではなく、互いが互いを守り、支え合うのだ。 生活力に乏しいメルヒオールを、イーリスが支えた。イーリスの日常を守るため、メルヒオールは非日常に身を投じ、世界を支えた。 今も同じだ。イーリスの闇をメルヒオールが払ったように。メルヒオールが逆境の闇にくじけそうな今、イーリスが光をもたらしてくれたように。 「……そうだな」 だから信じる。 だから戦う。 「やるか。ふたりで、一緒に」 「うん!」 優しさをにじませる彼の笑みを見て、イーリスは強く頷いた。 向き直り、魔女を正面から見据えるイーリス。その背後にメルヒオールが寄り添う。 「くすくす。どれだけの輝きで照らそうとも、石の魔女は冒されない。ふたりのあがきは無駄、無駄、無駄よ。可愛く惨めなお馬鹿さん達」 魔女の瞳が見開き、邪な輝きを走らせる。鮮血を思わせる赤と、底なしの深さを持つ緑。石の魔女という怪異から染み出る、深淵の二色が蠢き泡立ち、上下左右から押し寄せる。 けれどふたりは一切の動揺を見せなかった。ただ静かに、右腕を前に差し出して。掌を向けて。 「イーリス、機械仕掛けのおまえ……御伽噺の如き幻想の力が必要だ。力を、貸してくれ」 メルヒオールは背後で告げる。静かに、厳かに。ゆるぎない決意を。 「もちろんだよ、先生」 腰に回された彼の腕を感じながら、イーリスは返す。静かに、愛しげに。揺るぎない決意を。 「敵は、誰?」 「敵はあいつだ。世界を超えて人々に害を成す、赤と緑の瞳を持った石の魔女」 「分かった。それなら――」 言葉に、祈りに、願いに応じて。 メルヒオールが持つ魔法のちからと、イーリスに宿る断章石のちから。そしてふたりが抱く、希望のちから。それらが混ざり溶け合って、ふたりの右腕は白の光を纏う。それは魔女を切り裂く光の剣。 「輝きと共に!」 「敵を屠れ!」 ふたりが同時に腕を振るう。優しくも眩い純白の輝きが柱のように長く伸び、山のように膨れ上がる。巨大な光の剣、その一閃。白き光が、赤と緑の魔を退ける。魔女を打ち据え、包み込む。 「くすくす。そうよ、この輝きよ。根源体が追い求めるのも理解できる。ああ、素晴らしい、素晴らしい……!」 輝きを身に受け、急速に全身を崩壊させていく中で。魔女は愉悦に満ちた面持ちで、甘く妖しく哂っている。 「私の負けね……でも根源体は未だ健在している。それがいつしか、輝くおまえ達を、きっと凍てつく石の墓標へと――」 愉しげに微笑む魔女を、拒絶し、圧倒するかのごとく。光の奔流が魔女の身を両断・分断・破砕して、その言葉を遮った。 そして音も無く、塵ひとつ残すことなく――魔女は、消滅する。 ――こうして。 闇色断章、外伝詩篇は終わりを告げた。 † 御伽噺の最中、ロストナンバーとして覚醒したひとりの乙女がいた。 名前はイーリス。ミスタ・テスラ出身の、機械仕掛けの女の子。 この一件の後、彼女の名はひっそりと世界図書館の旅客名簿に刻まれることとなる。 <了>
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