おぼろげな光源がふわりふわりと、夜のターミナルをゆるやかに舞っている。 蛍のように見えるそれは、壱番世界のゲンジボタルに似た、ごく小さなロストナンバーたちだった。 壱番世界のとある大都会に大挙して転移した彼らを遺漏なく保護せよ、という、壮大にして無謀な依頼の遂行は、それはそれは困難を極めたらしい。膨大な枚数になるはずの報告書を、いったい誰が提出することになるかは謎のままだが、それはさておき。 その日から急遽、臨時の『夜』が設定されたのは、暗がりを好む彼らへの配慮もあったが、やはり蛍観賞の夕べは夜じゃないとね、という、声なき声を反映したのかも知れなかった。 ともあれ、ヘルウェンディ・ブルックリンは、蛍の飛び交う街の光景を眺めながら、ひとり歩いていた。 目の前をつい、と、蛍が一匹、横切る。 思わず目で追いかけたその先には、【~CLOSED~】の看板が出されたクリスタル・パレスが、蒼を帯びた夜を切り抜いて、佇んでいる。店内の照明は落とされており、最小限の灯りだけが、それこそ蛍のように、ぼうと光る。 グラスを手にしたラファエルが肩肘をつき、何ごとかを思案している様子が、硝子越しに見えた。 ◆◇◆ ◆◇◆ 「おや、ヘルウェンディさま。どうなさいましたか?」 扉を開けたヘルウェンディを、ラファエルは驚く様子もなく、穏やかに迎えた。「お父様と喧嘩をなさった――というわけでもなさそうですが」「通りかかったついでに、その父親が壊した劇場扉の修理費を精算しようと思ったの。ナレッジキューブも貯まったことだし……。あれから、ずっと立て替えてもらったままなのよね?」「それはそれは。ご苦労なさいますね」「まったくだわ」 ため息をつくヘルウェンディに、ラファエルは椅子を勧める。「よろしければ、お掛けになりませんか? 何か、飲み物でもお作りしましょう。ノンアルコールのカクテルなどは、いかがですか?」 答を待たずに、ことりと、クリスタルのタンブラーが置かれる。レモンの皮が手際良く螺旋状に剥かれてタンブラーにセットされ、氷とグレナデンシロップ、そしてジンジャエールが注がれた。「これは?」「『シャーリー・テンプル』です。何でも、1930年代に禁酒法が廃止になり、親御さんがお酒を楽しんでいるとき、お子さんたちも一緒に飲めるようにと考案されたソフトドリンクだそうですよ」「親と、子どもが、一緒に飲むために?」「ええ」 タンブラーを手に取り、ヘルウェンディは、立ち上る泡を見つめる。「――悩みごとでも、おありですか?」「聞いてくれる?」「私で、よろしければ」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヘルウェンディ・ブルックリン(cxsh5984)ラファエル・フロイト(cytm2870)=========
◆◇◆◇◆Dirty Shirley 「もうすぐ、妹が生まれるの。パパと、ママに」 グラスを両手で包み込むようにして、ヘルはカクテルを飲んでいる。あどけなさが残る頬と口もとを、ガラス越しにゆらゆらと蛍が照らす。 おぼろであたたかな光源は、店内のわずかな照明と相まって、いつもは勝ち気なこの少女の、抑制された淋しさを浮き彫りにする。感情を反映しやすい瞳には、決意と迷いが交差しており、親の庇護を必要とする年ごろ特有の揺らぎを、持て余しているように見える。 迷って、動揺して、それでも前向きに顔を上げようとしている少女は、ロストナンバーになっていなかったとしても、まだ人生の旅路の途中だ。 「それは、おめでとうございます。お姉さまになられるのですね」 ことここに至るまでの、ヘルが抱えている事情を、ラファエルは把握している。複雑に揺れ動く少女の感情を理解しながらも、ただ、そう言った。 「……ありがとう。それでね。名付け親を頼まれちゃったの」 「素敵ですね。妹さんのお名前を、お姉さまがお考えになるというのは」 「うん。だけど……」 シャーリー・テンプルを飲み干し、ヘルは睫毛を伏せる。大きく息を吸う。 ――そして。 「私が妹を僻んで拗ねて、そのせいで帰ってこないんじゃないかって、パパもママも変に気を遣って……。ばっかみたい!」 ひと息に、吐き出した。 「シャーリー・テンプルというノンアルコールカクテルは、名子役だった女優さんの名前を取ったものだそうです」 空になったグラスを持ち上げ、ラファエルは言う。 「……?」 「アルコールが入るレシピもあるのですよ。ダーティ・シャーリーというのですが」 「……ダーティ・シャーリー」 「お飲みになりますか?」 「えっ、でも私、未成年」 「冗談です」 ヘルは一瞬、ぽかんと目を見張り、次いで、吹き出した。 「ラファエルも冗談をいうのね」 「はい、たまには」 ◆◇◆◇◆Virgin Mary 少し気持ちがほぐれたヘルウェンディは、改めて、命名の相談に乗ってほしいのだと言った。 「私でよろしいのですか? 大事なかたにお聞きしたほうが」 「そうなんだけど。カーサーのネーミングセンスじゃ不安だし……」 頬を染め、口ごもるのは、彼女なりの照れくささもあるのだろう。 「そうだ。ラファエルって天使の名前よね? 出身世界でも同じような謂れがあるの?」 話を逸らしたヘルに、ラファエルは素直に乗った。 「そうですね。壱番世界の『ラファエル』という天使は、ミカエル、ガブリエルと比較しますと、捧げらた教会や修道院ははるかに少なく、エピソードも少なめの、その、地味な存在ですね」 『ラファエル』は、苦難の道を往くひとびとの前に『旅人』となって現れる。出身世界においても、癒しを司る天使とされているらしい。 「……ぴったりね」 「はあ。両親揃って、杓子定規な堅物でしたので」 「じゃあ、もし、ラファエルに子供ができたら、何て名付ける?」 「あの、子供以前に、その前の段階として」 「それはいいから、もしもの話よ」 「……男の子でしたら、パルシファル。女の子でしたら、エリスと」 「パルシファルって、アーサー王伝説の円卓の騎士のひとりよね。エリスって、響きはキレイだけど、ギリシャ神話の、争いの女神の名前じゃ?」 それでいいんですよ、と、ラファエルは笑う。 「娘は従順ではないほうがいい。振り回されるくらいが、面白いじゃないですか」 「それも、冗談?」 「いえ、素で申し上げています」 少々、お待ちを、と、ラファエルは席を外し、カウンター奥へ行く。ほどなく、新しいカクテルが満たされたグラスを持って、戻ってきた。 その鮮やかな赤色は、ヘルとて知っている。ウォッカをベースに、トマトジュースを用いた有名なカクテルではないか。 「これ、ブラッディ・マリーじゃないの?」 「いいえ、ブラッディ・マリーからウォッカを抜いた『ヴァージン・マリー』です」 「……それって、ただのトマトジュースなんじゃ……」 とはいえ、ミントの葉とレモンがあしらわれたヴァージン・マリーは、思いのほか美味しかった。 「それで、妹さんのお名前はどのように」 「一応、候補をメモしてきたんだけど、率直な感想を聞かせてくれる?」 キアラ。 コンスタンツァ。 ジュリア。 モニカ。 セレネ。 シルヴィア。 テーブルに、いくつもの女性名が、華やかに散った。 ◆◇◆◇◆Faux Kir Royal 「どれも捨てがたいですね。そういえば」 候補名を前にラファエルは考え込む。 「イタリアのかたは、お子さんに伝統的な名前をつけるケースが大半だと聞き及びますが」 「そうね。キリスト教の聖人や歴史上の人物とか。古代ローマのころから存在する名前も多いみたいね」 たとえば、と、ヘルは、「ジュリア」と「キアラ」のメモを指さす。 「男性名だと、ジュリオ。ユリウス・カエサルに由来するの。キアラは『清らかな』って意味で、女の子の名前として人気があるの」 そう言いながらも、ヘルは、しっくりこない、という表情を見せる。 「でも、こう、これは、っていう決めてに欠けてて」 「……ご両親は、お姉さまのお気持ちを尊重したかったのではないでしょうか? どれをお選びになっても、また、ここにある候補以外のお名前でも、喜んでくださると思いますよ」 静かにラファエルは言い、ヘルは頷いた。 「うん。……ホントはわかってる。私も含めての家族だと言いたくて、そのあかしとして、パパとママは妹の名付けを頼んだってこと」 ……あのね。 こないだ風邪で寝込んでる時、アイツに初めてウェンディって呼ばれたの。 くすぐったくて恥ずかしくて、でも、すごく嬉しくて。 子供の頃からの夢だったの。 ウェンディっていう、可愛い愛称で呼ばれることが。 この世界はキレイごとばかりじゃないけど。 あなたが生まれてきてよかったって、あなたと逢えてよかったって、心から言ってくれる人と出会えるなら――きっと生きるに値する。 「私にはママとパパがいたけど、アイツにはそんな誰かがいるのかな……?」 ヘルはふと、実の父親に思いを馳せる。 「どうなのでしょうね。お父様は魅力的なかたですから、惹かれる女性はたくさんいるでしょうし、いつかどなたかに、心を開くかも知れませんね」 「ラファエルにはそんな人、いた……?」 「え、あ、、、さあ」 いきなりふられて、ラファエルは目を逸らす。 「さて、それは。両親以外にということでしたら、……いたような、いなかったような」 「ちょっと。はぐらかしかたが、なんだかアイツに似てるんだけど!?」 「大人にはいろいろあるんですよ。多感な年頃のお嬢さんのお気持ちを汲むのは難しいですが、お父様のほうでしたら、より共感しやすいもので――ちょっと失礼」 ラファエルは、追及をかわすために席を立った。 すでに飲み終えたヴァージン・マリーの代わりに、ヘルが手渡されたのは。 ラズベリーシロップをサイダーで割ったノンアルコールカクテル――フォー・キール・ロワイヤル(偽物の王のキール)。 ひとくち飲んで、グラスを見つめる。 「いつかはうちに帰りたいけど、今はまだその時じゃない。それにほら、アイツってば私がいないと何もできないじゃない!」 ――私はね、ここしかないからここにいるんじゃなくて、自分の意志でここにいるの。 ◆◇◆◇◆Stradivarius Grappa 「妹の名前だけど、ベルはどうかな」 美味しかった、と、フォー・キール・ロワイヤルのグラスを置いたとき、ヘルの声には凛とした力があふれていた。 「ベル――鐘の音ですね。祝福の」 「ミスタテスラで出会った、自動人形の女の子と同じ名前なの。あの子みたいに、元気で優しい子になってほしくて」 頷くラファエルに微笑みを返し、ヘルは帰り支度をする。 「カクテルご馳走さま。貴方にも、天使の祝福がありますように」 ドアを開きかけたヘルを、ラファエルが引き止める。 「少々お待ちを。私も、ご一緒します」 「え?」 「夜道は危険ですし、万一のことがあったら、お父様に申し訳が立ちません。ご自宅までお送りいたしましょう」 「いいわよ、そんな」 「それに、お父様には、立替金の精算書もお届けしたいですし」 せっかくですのでこれをお土産になどと言いながら、カウンターからそそくさと、美しい瓶を取り出す。 「それは?」 「ストラディヴァリウス・グラッパです。マスカットの香り高い蒸留酒で、きっとお父様もお気に召すかと」 「アイツと飲む気ね」 「飲む気です」 そして、ふたりは、店をあとにする。 つい、と、蛍が横切った。
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