砂漠が人を愛でることは、極めて稀だ。 赫灼たる日差し。普く焼けた砂粒。見果てぬ先まで昇る陽炎――無風故の。 一方で、それらが、この道無き道を往く漂泊者を脅かすことは無い。 熱砂も日照りも、その雪花の如ききめ細やかな肌を焼くことはおろか、汗ひとつ滲ませることも適わない。鳩の血に似た透き通る赤色の瞳は、僅か愁いを帯びながらも陽光など意に介さず確と前を見据え。石畳の上と同じ軽やかな足取りで砂地を歩く様は、まるで蜃気楼のように現実感が乏しい。 人々は、蜃気楼を善と識の精霊――イルファーンと呼び慣わし、敬愛した。 蜃気楼もまた、人々を愛し、神にも等しい力を人々の為にこそ揮った。 けれども今、奇特な蜃気楼は独りきりだった。 最後に人を見たのはいつだったか。そう言えば数日前、キャラバンの鈴を耳にしたように思うが、姿を確かめていないことに今更思い至る。 広大な砂漠を、ただ、当て所無く。日は何度巡った? 月は? 年は? 最早灰燼と焦土しか残らぬあの国を出て。むせ返るほどの―― ※ ――焦げた匂いがする。 それに、名前を呼ばれた気がした。 月が昇り始めたばかりのオアシスで汲んだ水のように涼やかで、日が昇り始めたばかりの空のように温かで、子守唄にも似た、優しくて、素敵な声。 先程から、同じ言葉を繰り返している。 名付けたばかりの赤子を愛おしげにあやすように、サダフ、サダフ――と。 名前から察するに、きっと女の子に違いない。 ――私が生まれた時は、きっとこう。 少女は母の腕に抱かれる夢の中で、ゆっくりと目を開けた。そこには、雪花石膏の像と見紛う美貌の持ち主が、鳩の血液にそっくりな目に慈愛を満たして、こちらを覗き込んでいた。顔が近い。 「サダフ」 微笑を形作る唇が三度上下し、またその名を静かに口ずさむ。 ――そう、私の名はサダフ。 「良かった。気が付いたんだね」 そう、サダフは、足枷の重みと、踵が砂に埋まる感触、背中から肩を包む温もりをいっぺんに感じて、漸く気が付いた。自分が抱き起こされていることに。 そして、思い出した。 荷馬車の外から聞こえた盗賊の怒号と、人買いの悲鳴を。 その混乱に乗じて逃げ出したことを。 たどたどしい足跡が続いている。ここで力尽きたサダフ自身の軌跡。 それを目で辿れば、やがて遠くに蟻のような黒い点が幾つか、認められた。 「皆、焼かれてしまったの……?」 麗人は痛ましげに目を伏せて、何かを堪えるように告げた。 「生きているのは君だけだった」 「そう……」 何故だろう。娘達に対する憐憫の情も、助かったと言う安堵も無い。あの場に盗賊がいたのなら、逃げ果せると言うだけで、ほとんど奇跡なのに。 そんなことよりも、今気になるのは――、 「ねえ」 「うん」 「貴方は私を知ってるの?」 「もちろん知っているよ。ほんのついさっきから」 「そうだけど……そうじゃなくて。名前」 「ああ」 それはね――。 ※ サダフは、イルファーンが精霊だと知っても物怖じしなかった。 幼さ故の無知が為せる業なのか、わざとそのように振舞っているのか。 何れにせよ、イルファーンにとっては敬服されるより余程嬉しかった。 久しく忘れていた喜びを齎した娘に、何かしてやりたいと思う。 「どうかしたの?」 サダフは不思議そうに訊ねる。どうも知らぬ間に口元が綻んでいたらしい。 「……サダフ」 イルファーンは応える代わりに名を呼び、立ち止まる。 「君の望みは?」 「え?」 サダフは唐突で真意の掴めぬ精霊の物言いに、言葉を失う。 無風だった砂漠に、ふわりと砂塵が舞い上がる。日が、翳り始めていた。 雨でも降るのだろうか。湿り気を帯びた空気が纏わりついて、俄かに閉ざされた少女の口を、更に重くしているかのようだ。 イルファーンは、黙して耳を傾けた。 「私、は」 暫しサダフは俯いていたが、やがて、おずおずと告白した。 「村に――家族のところに……帰りたい」 やっと言い切った頃、サダフの足元に大粒の涙が零れ落ちていた。 肩を震わせて堪えても、止め処無く溢れて流れる。 イルファーンは、娘の頬を伝う土砂降りを、しなやかな指で優しく拭う。 そしてその手を胸にかざし、慇懃なようで道化染みた、不思議な礼をした。 「承知」 イルファーンが初めて定めた目的地、サダフの故郷。 そこへ至るには、漂泊の最中に辿った道を逆戻りしなくてはならないらしい。 半神の追跡という一抹の不安は、砂埃と共に振り払った。 そもそも、あれはイルファーンがどちらへ向かったのかさえ知らぬはず。 砂漠は広い。数日引き換えしたとて、どれほどの確率で鉢合わせると言うのか。 今はサダフを護り、二親の元へ無事送り届けよう。 そんな誓いを立ててから幾日――旅は順調だった。 「きゃっ」 不意に後ろで声があがり、すぐにがちゃりと鎖の音が続いた。 サダフが砂に足を取られて転んだのだ。これで三度目だった。 イルファーンは彼女の足元に屈み込んで、少女には重過ぎる足枷を見た。 「外してあげるよ」 「待って!」 印を切り始めたイルファーンを、サダフは慌てて制止した。 「どうして?」 サダフはもう自由なのに――拒む理由が判らず首を傾げる蜃気楼に、少女はかぶりを振ってから、どこか誇らしげに言った。 「私の父さん、腕のいい鍛冶屋なの。この足枷は父さんに外してもらうわ」 なるほど――善なる識者は了解する。 足枷の原因となった親が足枷を外すことで、初めて娘を迎え入れることができる――それは、サダフよりも、むしろ父にとってこそ必要な、ある種の通過儀礼。 ――なんて健やかで美しい心の持ち主なのだろう。 「だから、ごめんなさい。せっかく貴方が――」 サダフの謝罪を手をかざして遮り、イルファーンはふと微笑んだ。 「イルファーン?」 そうしてぽかんとする少女に、傷ひとつ無い掌を返して差し出す。 「なら手を繋ごう」 「え?」 「たとえ君がつまずいても、きっと転ばなくて済むように」 サダフは躊躇いながら、精霊の細面と掌を見比べていたが、やがて、 「…………うん!」 雪色の手に小麦色の手を重ねて、元気良く応えた。 再び歩き出してから、サダフは殆ど常に喋り続けていた。 「ここまで来れば、もう目と鼻の先よ」 それらは故郷の暮らしぶりや風土といった他愛の無いものばかりだったが、イルファーンはいちいち感心したり笑ったりと、日々の営みに纏わる話を大いに喜び、楽しんだ。活気に満ちた村の様子。貴く、愛しい命の輝き。 「サダフは話すのが上手だね。目に浮かぶようだ」 「ありがとう」 その眩しい笑顔からも、両親の、取り巻く人々の愛情が見て取れる。 「私の村はとてもいいところなの。……早く貴方に見せてあげたい」 旅の最中、サダフはことあるごとにそう言って、彼方を望んだ。その度に繋いだ手に力をこめて。熱っぽい視線に望郷の念を宿して。 イルファーンは、そんなサダフをとても好ましく思った。 それが彼女に対する特別な感情なのか、ただ単に、自ら断ち、けれど望んでいた繋がりを得たことへの喜びなのかは判らない。ただ、 「貴方のこと、みんなに紹介しなくちゃ。父さんと母さんにも」 失いたくない――そう、願いを叶える者は、何者かに強く願った。 「楽しみにしているよ」 本当に楽しみだった。この娘が里帰りを果たして喜ぶ顔が、本当に――。 ふたりが出会ってから、数えて丁度ひと月目の、日が傾き始めた頃。 「イルファーン!」 小高い砂丘。その頂で、サダフが声を上げた。 「ほら」と少女が指し示す先に、小規模なオアシスを望むことができる。 ほとりには、これまた小振りな建物が幾つも点在しているようだ。 しかし――何かおかしい。夕餉の時間だと言うのに煙ひとつ昇らない。 「あれが君の?」 蜃気楼の問いに、健気な少女は力強く頷く。瞳には既に涙を溜めていた。 「行きましょう!」 「……うん」 照れ隠しと喜びがないまぜになったものか、サダフはイルファーンを引きずるようにして、返事も待たずに丘を下り始めた。美しい守護者のぎこちない反応には、どうやら気が付かぬまま。 白亜の漆喰はところどころが煤けて穢れ、崩れて土壁が内部へ向かったのだろう、自重で潰れた建物もある――と言うより、無事な建物を探す方が難しい。 それでも辛うじて原形を留めた家屋の内外、そして通りのあちこちや裏手、挙句の果てには湖の中に至るまで、半ば以上炭と化した骸が、一様に今際の際の姿勢を留めて、己が死の所以を、無言で物語っていた。 「お、とうさん…………おかあ、さん……?」 サダフの家は、ただの煤けた瓦礫の山と化していた。 父母の姿はおろか、生者の気配など微塵も感じられない。 「うそ」 ある者は腹を穿たれ、ある者は斬られている。四肢や場合によっては首が欠けている者もおり、女子供に至っては着衣の形跡がみられず、手足を縛られたような不自然な姿勢のまま、横たわっている。 はじめ、イルファーンの脳裏に半神の歪んだ笑みが過ぎるが、すぐ思い直した。 小刀や三日月刀、矢などが無造作に落ちている。村人の抵抗によるものか、外敵が置き忘れたのかは知れぬが、何れ争いの後には違いあるまい。 人間――それも盗賊による、略奪の爪痕。 だが、誰の仕業であろうと、サダフにとっては同じことだった。 「うそ」 焼け爛れている。なにもかも。 「うそよ、こんな――」 今や村唯一の生存者となったサダフは、うわごとのように繰り返す。 繋いでいた手はいつしか力無く滑り落ちて、儚い支えを失したその身は、大地に溶けるようにへたり込んだ。常に何かしらの情動を秘めていた瞳は一切の彩りが抜け落ち、今や暗黒のがらんどうへと成り果てた。 イルファーンは涙さえ忘れた娘に掛ける言葉を識らない。 君を救うすべは無いのか――自らもこれに等しい絶望を味わい、未だ乗り越えられないイルファーンは、その解を持たない。愛しい名を声にすることも、頼りない肩に手を置くことさえできそうにない。 ――ふふ。 俄かに、場違いなほど愉悦に似た、自嘲が聞こえた。 「ふふふ。ばかね」 それを発したのがサダフだと一瞬判らぬほど、抑揚の無い声。 少女は徐に立ち上がり、両手をだらりと広げて漂うように歩き出す。 「私、勘違いしてたの」 歩みを止めず、愛らしい仕草で翻り、虚ろに微笑み掛ける。 鎖がちゃらちゃらと哄笑した。 「サダフ……?」 イルファーンは、やっと名を呼ぶことができたが、それだけだった。 あとは、ただ見守っていた――否、眺めていた。少女の豹変ぶりを。 やがてサダフは、折り重なるようにして果てていた、あるふたりの遺体の傍らで、ふわりと立ち止まった。 その小さな手には、黒ずんだ―― 「止すんだ」 「帰る場所なんて……どこにも無かったのに――」 小刀が握られている。 「止せ!」 その刹那、イルファーンは自らが精霊であることを忘れて駆け出していた。 だが、たとえ風を喚んでいたとしても間に合わぬことを、善なる識者は識っていた。小刀が彼女の傍に落ちていたことも、全てに絶望した人が何をするのかも、心得ていた筈だった。 諸手で押し込まれた刃は、淡く膨らんだ双丘の間を突き破り、柄と同じほどの丈まで食い込んだ。貝が自ら真珠を砕くには、それで充分だった。 駆け付けたイルファーンの白い肌に、ばっと赤い飛沫が飛ぶ。 「サダフ……サダフ」 イルファーンは、崩れ落ちるサダフの肩を抱き止めた。 出会ったあの日のように、名を呼んだ。 「ふふ――に」 ――二回目ね。 声にならぬ呟きを聞き取り、イルファーンは笑みを浮かべた――つもりだった。 だが、どうしたことか。視界が蜃気楼のようにぼやけて、サダフの顔が良く見えない。 困惑する精霊の頬に幾度も繋いだ手の温もりが触れ、下瞼をなぞった。 何かがぽろぽろと転げ落ちた途端、目に映ったのは、サダフの優しい笑顔。 なんて綺麗なんだろう。なんて愛おしいのだろう。 「いっ」 ――イルファーン。 「うん」 「 」 末期の言葉は砂塵に紛れて、二度と戻ることは無かった。 イルファーンは亡骸を横たえると、足枷の鎖を、そっと断ち切った。 サダフの寝顔は不思議と満ち足りていて、その理由がどうしても判らない。 蜃気楼は、ただただ哀しくて、覚えたばかりの涙を沢山零して。 泣いた。
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