――キサ 雨が降ると、湿気につられて黴が繁殖し始める。 胞子が眠りから甦る。 霊巣からやつらは菌糸を伸ばしていくが、残念なことに俺の体はこの矮小な生物に対抗してくれない。 だから――かゆい。骨の、特に関節の隙間がかゆく感じる。そういうときは、関節を叩くことにしている。どうしようも無くなったら串を刺すこともある。 串を引き抜くと、血の代わりに粘ついた液体が漏れ出す。 菌糸だ。 八つ当たりとばかりに火をつけるとぱらぱらとした白い粉になって消えてしまった。――キサ 味も臭いも、痛みも失ってしまった俺にとって、このかゆさは生を感じるよりどころだ。 耳を澄ませるとぷちぷちと菌が進む音が聞こえてくる。だから、串を刺すのは……あんまりしたくない。 たぶん、脳にも侵入してきているのだろう。 痛みは感じないがきっとそうだ。 俺が殺してきた中にも、頭を刺されても本人は気付いていない奴がいた。 左右の脳を引っ張って、脳梁を伸ばしたらすごく気持ちいいんじゃ無いのかと思う。――キサ 耐えられそうに無い。 あのかわいらしい花の妖精に、防黴剤でも貰っておけば良かったかな。 そして、今すぐできる対策に思い至った。 暖房を切り、窓を開ける。 雲を貫いて流星が流れ墜ちるのが見えた。 すると部屋の中で悶々としていた湿気と入れ替わりに乾いた雨滴が入ってきた。 確か……冷えれば黴も活動が弱まるんだったな 電話が鳴っていることに気がついた。「なんだリュウか、次は誰を殺ればいい……」 † 心臓の辺りを押さえる。 ザ、ざ、ザ-、ザザァーー。 螺旋は宇宙。 だから、リショルムを宿した僕にはこのちっぽけな世界をお母さんに捧げる資格がある。 お母さんには僕に見えない世界が見えているんだ。 お母さんが言うには キサと言う赤子が必要らしい。 ははっ、赤子の相手に僕、笑っちゃうね。 そんなことはアメリにでもやらせればいいのに……。 あばずれにはちょうどいい仕事だよ。 ああ、キサ……いい名前じゃなーい? なんかこうぐるぐる、くるね。 キサって響きからはさ、螺旋を感じるんだ。 なんかね。こう僕のリショルムによく響くんだ。 この仕事を任せてくれるってことは、 やっぱり、お母さんは僕のことを愛してくれているんだ。 だってママほど僕のことを理解してくれているヒトはいないもん。 僕のリショルムが僕が僕であることをかき立てる。 血が巡り、身体が破裂しそうだ。 ぐるんぐるん。 はて、僕の名前はなんだったかなぁ 付き従う部下に聞いてみる。 うぃんうぃん駆動音が、返事として帰ってくる。 まったくこいつらは無口でこまる。 おっとこいつらの口を縫い付けたのは僕だったかな。 懐を探ると、探偵の登録証が出てきた。モゥ《無》……か。気にくわない。 とっとと名前を変えることにしよう。 †――キサ 事務所の焼け跡に立つ。 焼け残った残骸は腐汁を浄化して灰色だった。 とうに枯れた花の灰。 どうしようも無く汚い。 こんな掃きだめを事務所にしていたかと思うと吐き気がする。 この街の人たちは瓦礫なんか気にもしない。 どうせ金目の物はとうに持ち去られているだろうよ。 街はこんなにも煩いのに、ぷちぷち――ぷちぷち菌が進む音しか聞こえない。 なんて不便な体だ。 でも、キサ。 ああ、そうだ。 火は全てを浄化する。 火をもってして菌を焼き払えばいいじゃないか。 キサの思い出を燃やしてしまう心配ももう無いしな。 袖から裾から火が噴き出す。 熱さは感じない。 ただ、こうなってから始めてすっきりした。すごくすっきりした。――キサ 赤に青にぎらぎらする店達。 人々の息づかい。 なんだ。この街も捨てたもんじゃ無いじゃ無いか。――キサ 道行く、 早くキサの おっと誰かにぶつかってしまった。「クソ」 そいつはこちらを見てはぎょっとし目を逸らした。 この顔はよほどの凶相をしているようだ。仮面を捨てたのは間違いだったな。――キサ クソ、またかゆくなってきたじゃねーか 目がかゆい 目の奥が……片目玉をくりぬいてみる。どろりとした腐汁が神経からしたたり落ちる。 ぺろりと舐めてみたが、味がしない。 目の奥が熱い。 ざけてんじゃねーよ。悪意を抑えきられないのは……この世界だろ。 † 黒耀重工にキサが狙われているという予言が出た。目的は不明。ただ、優先度が高いと導きの書に出ている。 黒耀重工とは武器密売組織で、独自開発した武器を商っている。武器を貸し与えられた傭兵達の中には肉体を改造している者も多い。支配者は神曲煉火と名乗っていることが知られている。 あの百足兵衛の遺した麻薬『夢の上』を巡って図書館と抗争を繰り広げたこともあった。 キサとは、総会屋・ヴェルシーナの頭領であるハワード・アデルの娘だ。 キサは赤子で、その誕生に際しては図書館のロストナンバーが一働きしている。また、彼女は以前図書館に協力していた探偵の転生体だと見込まれている。 現在は母親の理沙子のもとにあるが、ヴェルシーナはインヤンガイの五大勢力のなかではもっとも戦闘力が弱い。他の組織と官憲の間に立つ独自の立場を堅持するためである。 ロストナンバーが駆けつけるまでに時間を稼ぐべく、世界図書館は五大勢力の鳳凰連合に協力を要請した。 凶手フェイが派遣されることとなった。フェイは一時期探偵として図書館に協力していた。 信用がおけると判断している。 脅威を撃滅せよ。
流星が流れた。 引き裂かれた天はなにごとも無かったように元の雨空に戻っている。しとしと冷たいかんに障る雨だ。 ママの話しではインヤンガイの空には本当はたくさんの星があるそうだ。ただ、星のまたたきはあまりにささやかで、ぎらぎらした街に照らされて輝きが維持できないのだと。 旅人たちによると人が全然住んでいない世界の方が多くて、そこでは星が黒檀にまいた砂のように輝いているのだという。 インヤンガイは人が多すぎる。人が多すぎるから養豚場のように病ばかり繁盛するんだ。 方角を確認する。 ママの仕事は早い。 だから僕はこうして、流星を探しにいける。 僕のリショルムが興奮してうなりを上げ、体中の血を奔らせる。対の螺旋が、旅人達の列車のように世界から飛び出ようとした。 はて、僕の名前はなんだったかなぁ。 確かちょっと前まではモゥ《無》だったはずなんだけど……。 † ――ロストレルはまもなくインヤンガイに到着いたします。 レールノイズだけが響いていた室内にアナウンスが響いた。 「ねぇ、みんなどうしたの? ボクの戦闘能力なんて、一般人に毛が生えた程度……だから、みんながこんなだとちょっと困るんだけど」 ベルファルドは我慢できなくなった。白いジャンパーの裾に手を絡ませている。 「これから協力して戦うんだよね」 「ああ、協力するサ。俺が神曲煉火をぶち殺す。リーリスがキサを守る。お前は幸運をくれる。文句あっかヨ?」 「黒耀重工の傭兵は……」 ベルファルドは自身が戦力に組み込まれている現実から逃避したくなった。しかし与えられた役割は中心だった。なにせいびつな三角の真ん中に自分が立っているからだ。 「俺が神曲煉火をぶち殺す。リーリスがキサを守る。問題ねーヨ」 物わかりの悪いチンピラに言い聞かせるようにジャックは繰り返す。 この乱暴でがさつな戦士はベルファルドの肩を叩き、背後の少女リーリスに目配せをする。 魔術師の彼女は静かに椅子に座ったまま瞑想している。見習いだと聞いているが底知れない。ベルファルドにとっては目の前の狂戦士よりも怖ろしく感じた。 「司書から聞いた。キサは理沙子とともにハワードの隠れ家の一つにいる。フェイは駅で合流だゼ」 「百足兵衛がキサさん……探偵だったキサさんを殺した事件の後。魂になったキサさんがフェイさんのところに現れたって報告があったけど……」 鴉刃は三角の鋭角になる遠くに離れて窓の外を眺めていた。彼女の潰れた右目で睨まれた気がする。 震えが走った。 百足兵衛との戦いで鴉刃はこの二人と対立している。間に挟まれて、へらへら笑って誤魔化すことにした。 「ベルファルド、テメェの幸運貸してくれ。煉火の隠れ家知ってる黒耀のチンピラとすぐ行き会うような極上の幸運をナ。さっさと煉火をぶっ殺してェンだヨ」 ――インヤンガイ、インヤンガイ ロストレイルいつものように駅に滑り込み。扉が開く。 雨の中をリーリスは真っ先にふんわりと降りたった。 みんな行ってしまう。 「まってまって、ダイスでもっと運がよくなるよ♪ 投げるから、投げるから♪」 ダイスは彼女の手にした指輪にこつんと当たって、プラットホームに転がった。 「あらっ、4《死》ね。ありがと……。先にキサの所に行くから」 そのまま、魔術師は無数の鳩の群れに転じて、灰色の空に飛び立っていった。 ジャックに当たったダイスは6だった。 「ありがとヨ。こいつァ幸先いいぜ」 プラットホームでは白の唐装が待っていた。片目は閉じられ、不吉な体液が糸を引いていた。残された目はほの朱い。 「お前、誰だ? ……いや、違う。フェイ、お前……もしかして死んだのか? ハオ家の呪石使ってンのか。てめェ。目、どうした」 「腐ったんだ」 彼が元暗殺者元探偵現暗殺者のフェイのはずだ。仮面を捨ててずいぶん雰囲気が変わっている。 「よく来てくれた。キサ……キサを助けたい」 「守護神は鳩だ。俺は煉火を殺らせてもらうゼ」 「キサを」 「……俺にも自分の命より大事な相手くらい居る。テメェの気持ちが分からねェ訳じゃねェ。……少なくとも俺ァテメェをツレの一人だと思ってた。テメェが少しでも長くキサを守れるよう、出来る範囲で協力する……この後も、だ」 獰猛な申し出にフェイが後ずさるが、フェイが取り直す前に、ジャックは転移してこの場から去ってしまった。 残された龍人が静かに降りてきた。 鴉刃の一つ目がフェイの一つ目を見上げ視線が交錯する。 「お前から感じとれる気配は異質、いや、純粋過ぎるな。……三つだけ確認したい」 ――一つ、お前が言うキサをどうする気か。 ――二つ、旅人が、世界が憎いか。 ――三つ、お前を未だに慕っている者がいる、どうでもいいか。 唐装は、かぶりを振った。 「キサはなによりも大切」 龍人の望んでいた答えでは無いことはベルファルドにもわかった。しかし、暗殺者同士通じるものがあるのだろうか、鴉刃はそれ以上の追求はしなかった。 「そうそう、鴉刃さんにもダイス♪」 鴉刃の肩に当たったダイスは地を滑り、柱に当たって止まった。 ―― 1 † ベルファルドと鴉刃、フェイの三人がすえた街区を急ぐ。ハワードの別邸が見えてきたときには既に戦闘が始まっていた。 降りそそぐ雨に逆らって、爆発音が街を揺るがし、火の手が上がる。 手慣れた役者のように住民達が悲鳴を上げて逃げていった。 「始まっちゃっているね。急がないと」 ベルファルドは急くが、鴉刃、フェイは歩調を変えない。 全ては予定通りと言わんばかり。 焦燥。ベルファルドだけ先行したところでなんの意味も無い。 「みんなが頼りなんだから。リーリス一人じゃ」 「問題なかろう。それよりも……」 鴉刃がベルファルドを商店の陰に引きずり込むと爆風が通りを薙いだ。店の中にはおびえた人たちが身を小さくしていた。それら一瞥すると、鴉刃は跳躍し、そのまま壁をつたい屋根の向こうへと消えていった。 ゆらりとフェイも歩みを再開する。胸を押さえている。足下ではびちゃびちゃ水がはねた。今の攻撃でダメージを負ったのだろうか。 「キサ……。必ず」 ベルファルドはその白い背中に言いようもない違和感を感じた。鴉刃の懸念に同調しそうになり、敵地だというのに視線で追ってしまう。 「ジャックくんも鴉刃さんも、キミを大切に想っている人がいるって言っていたけど」 「そうらしい。……俺にはよくわからない。彼女が俺にかまう理由がわからない」 「わからないって……」 嘆息をする間はない。 断続的な爆発が起き、瓦礫と人の形を失った残骸が目の前を転がっていった。 たたらを踏む。 「黒耀の机人だ」 フェイに言われてみてみると、死体からは血の代わりに油が流れ、雨水と汚水と入り交じり廃油臭い。肉と骨として、歯車と軸が破れた皮膚から覗いていた。ロボット、あるいはサイボーグ。黒耀重工の不吉な噂を思いだす。 フェイがにらみつけると、残された眼窩から紅蓮が噴き出し、まだ動ける机人を炎にくべた。倒れる残骸に降りそそぐ雨は真っ赤に焼けた鉄板に触れてじゅうじゅう蒸気となってベルファルドの鼻先を流れる。 キサと理沙子が立てこもる家屋は、小さい割りに塀は高かったが、正面玄関は大型卡车に門柱ごとなぎ倒されていた。 ここはインヤンガイ、マフィアといえども城塞に住めるわけでは無い。むしろ、広すぎる居城は裏切りと敵を呼び込む。 卡车のトレーラーはひしゃげ、熱くなっている。ベルファルドは手をブルゾンの袖に引っ込め、慎重にトレーラーをつたって中に入ることにした。 雨がトレーラーの屋根を鳴らす。 襲撃者達もここから家屋に侵入したに違いない。 廊下に出ると、电脳を打ち貫かれ機能停止した机人、电池を引き抜かれた机人が転がっていた。どれも背後から一撃で仕留められている。鴉刃の仕業だろう。 しかし、彼女の気配はしない。 悲鳴。 「……に何かする奴は敵よ……絶対許さない」 濃厚な死の気配がし、ベルファルドは駆け出した。 軋む空間。 廊下を抜けると破壊の嵐が渦巻いていた。 ベルファルドはぬかるみに足を滑らせる。 水。 広間の天井は打ち破られ、雨滴がそそいできている。壁は倒壊し部屋は中庭と連結されていた。中庭の向こうの建物は恐竜に踏まれたようになぎ払われていた。破壊から取り残された柱が寂しそう。 リーリスはその柱に赤子を抱いている女性を隠していた。 台風の目だ。 立ち上がろうとしたら、唐衣の元探偵に頭を押さえられた。水たまりがはじける。それが銃弾によるものだと理解するのに心臓はたっぷり十回鼓動を打つ必要があった。 ここはホットな戦場だ。 火線がリーリスの全面で不自然にはじかれると、間髪入れず青竜刀を担いだ凶手達が、中庭の向こうから駆けてくる。 ベルファルドはひざまずいた姿勢のままダイスを投げる。先頭の黒衣が庭石に蹴躓いて転倒した。そして、後続の隊列が乱れる。 その隙を突いてリーリスは庭の小石を拾って凶手達に向かって投げつけた。 魔術師の表情は苦しげでなにかにあがいていた。 だが、その嗜虐心を煽る唇の端がつり上がると、凶手達から細かい煙が吹き出し、体を浸食すると灰と変じた。わずかに逃れた機械部品がちらばり、灰は雨に流された。 「爆発前のミサイルや建材は楽勝だけど、爆風の完封は辛いかな……。部屋はだめになっちゃった」 リリースは赤子を抱く女性に振り返ると小さくほほえんだ。 「理沙子さんは頭を撫でてくれたわ。お姉ちゃんって言ってくれた。キサが大事、キサを守るわ……でも理沙子さんも守るから」 理沙子と呼ばれた女性の安堵が伝わる。第一波は片付けられたようだ。キサと呼ばれた赤子は気丈にも静かにしている。 ここまでベルファルドを案内した元探偵も中庭に出て、気を巡らせた。 とても場違いなところに来てしまった感覚を覚え、せめて自分の居場所を確保しようと、当たり前の言葉を口にした。 「敵はこれだけじゃないと思うから。がんばろう」 「ベルファルドお兄ちゃん、キサに幸運を分けて!」 いつも通りへらへらとした口調にリーリスが同調してくれたので安堵した。 リーリスに破壊された人形達は、腐り落ちて半身をえぐられた廃墟を思わせ。ベルファルドの理解を超越していた。彼女を警戒していた鴉刃の姿が見えないのが心細い。 結局、ベルファルドがキサに当てたダイスは数字が読めなかった。庭石とがれきの隙間を滑り、机人の残骸に引っかかったからだ。 水たまりに油が流れ込んで、インヤンガイでは下にしか見えない虹を作っていた。 「4と5の間……かな」 現実は振り直しを待ってくれない。 しゅーっと音の尾を引いて导弹が天を疾る。リーリスが軽口で予言したミサイル攻撃だ。 ベルファルドは着弾に備えて顔を腕で覆った。リーリスは手で払う仕草をする。 すると导弹は見えない糸に引っかけられたように隣家に墜ちた。想像通りの爆音が響き、がれきが中庭にも降ってくる 爆心地での犠牲について思いを巡らせる余裕はない。 「キサとは大事な約束をしたの。誰にも邪魔させないわ」 ベルファルドにもはっきりと囲まれているのがわかった。 そして、リーリスの隠してた強大な実力は……誰かを守るためのものではないこと……も理解できた。彼女はキサを守るためだったら理沙子ですら切り捨てるだろう。 異様な気配を漂わせているもう一人、フェイもそうだろう。 「ボクの戦闘能力なんて、一般人に毛が生えた程度……じゃなくて、一般人以下だから、できたら護ってほしいなぁ」 場違いなところにきたことをせめて自己欺瞞で乗り越えようとした。 凶手達の刃が迫る。 しかし、持って産まれた幸運はベルファルドに反省の機会を許せない。 紫電が視界を横切ると、前方からの敵は一掃されていた。 「焼け焦げろサンダーレイン! イヨォ、待たせたナ? こっちのパーティにも来てやったゼ?」 部族戦士は手に持っていた女性の首を無造作に放り投げた。 雨が戦いのにおいを押し流して現実感がしない。 † ははっ、必死の形相で赤子を守ろうとするなんて旅人達はなんてマヌケなんだ。 赤子を襲うのにこんな手間をかけている僕も滑稽。 失笑失笑。 旅人達は本当に強いね。 キサと戦うために準備してきたんだけど、このままじゃそれどころじゃないよ。困っちゃうな。 あの神曲煉火の首が飛んできたときはどうしようかと思ったよ。 あのジャックとか言うのは他の旅人達と同時にこのインヤンガイに到着したんじゃなかったのかなぁ。 ロストレイルがついてから半刻も経っていないはずなんだけど。 おっとこの旅人達は心を読むのだったかな。 用心用心。 それにしてもキサはかわいいな。 リショルムが興奮して仕方が無いよ。血がたぎる。 † リーリスさんも険しい表情を緩めて、キサちゃんと理沙子さんを雨の当たらない屋内にエスコートしていた。 ジャックくんが戻ってきたことでボクもだいぶ安心したんだけど。本当はまだ油断したらいけないんだよね。 ここに転がっている死体のようなものたちは全部ロボットで、本物の死体はジャックが持ち帰った生首だけだ。なんか、ロストナンバーになってから死体を見てもあんまり動じなくなったよなぁ。その首は、派手目の化粧した女性のもので、血に汚れているから年齢ははっきりしない、30以下ってことは無いと思うんだけど。 そうそう、それで油断だった。ボクはちょっと、フェイって人を警戒している。 今もキサに熱い視線を送っていて……因縁があるって聞いているんだけど。 「黒耀のマシーナリー如きに俺サマが遅れ取るわきゃねェだろォ!」 ジャックくんはフェイに武勇を語っている。 黒曜の傭兵達のたまり場になっている店を襲撃し、チンピラ下っ端の精神を読んで、組織上層のへの糸を上に辿ったらしい。黒曜には、電話よりも早く迫ってくる戦士に対応できなかったようだ。 ボクもキサちゃんをだっこさせてもらう。リーリスちゃんはちょっと渋い表情をしたけど、理沙子さんは許してくれた。 こういうのは得意なんだ。 キサちゃんは天使のようで、やわらかかった。首もまだ据わっていなくて本当にちっちゃい。騒ぎの中、目をきゅるんきゅるんさせている。それでも泣かないのは確かな意思の芽生えがあるからかもしれない。 インヤンガイでも赤ちゃんはちゃんとかわいいんだなと思えた。ここはそこまで悪い世界じゃない。 「なんで、黒曜はキサちゃんを狙ったのかな」 ボクの何気ない一言が場を凍らせた。いくつもの殺意に貫かれる。 フェイの赤目がじろりとこちらをにらむ。 まだ火が噴かれていないのに、汗が背をつたう。 やっぱりこの人おかしいよ。 「キサ……以外にはこの世界に価値はない」 彼は法悦を浮かべていた。 「この死んだ体でできることはキサを守ることくらいだ。キサを殺したこの世界と、世界の外の旅人達も敵だ」 キサと彼女を取り巻く世界を守ろうとしていたフェイは、腐りおちた視界とともに世界を狭くしていたようだ。 それでもボクは言わないといけない。そうじゃないと報われない人がいるから。 「この街はキサさんが護ろうとした街だろ? それに……あなたも! 街や人がキサさんを殺したとしても彼女がそれを望んでいると思っているの?」 フェイが放った炎はジャックくんに遮られた。 フェイはロストナンバーも、ロストナンバーに協力していた自分も憎んでいるのだろう。だから探偵をやめて暗殺者に戻った。 それなのにキサが危ないときはロストナンバーに頼った。黒曜のアジトの情報はフェイが調べてきたもののはずだ。 それはどうしようもない甘えだ。 笑いがこみ上げてきた。 「あ、やっぱり、フェイくん。キミはダメな人なんだね。ボクと同じで」 「ああ、この世に美しいものなどキサしかいない」 その執着はボクにはよくわからないや。ボクには大切な人なんかいないから。 でも、この人は一人にしたらダメな人なんだね。いつものペースが戻ってきた。 「……これだけキサキサ言っているのに、なんで近寄ろうとしないの? 自分がキサのためになっていないって思っているの?」 怒りの奔流にさらされた。 ボクは殺されるかと思ったんだけど、急にフェイは胸をかきむしりだした。 袖から漏れ出た炎が部屋の家具を焦がし、火をつける。 「ちっ」 ジャックくんの舌打ちが聞こえた。 そのときだ。 目の前、三方の壁が吹っ飛び。 爆弾!? 衝撃波は不自然にボクには届かなかった。 そんなこと考えている場合じゃないんだけどリーリスちゃんの結界だと思う。キサちゃんの安全を優先させたんだろう。 そして案の定、倒壊した壁の向こうからロボット兵達がなだれ込んできた。恐怖がボクに殺気を錯覚させる。 だが、それは黒耀の悪あがきだったようだ。彼らは一瞬のうちに倒された。リーリスの服の中から無数の鳩が飛び、ジャックの電撃が縦横無尽に駆け巡る。それだけで十分だった。 「理沙子さん」 リーリスが駆け寄る。ボクがキサを抱いていたから、理沙子さんが結界を外れ、彼女は爆風にさらされたのだ。 やっぱりボクは運がいい。 このボクの浅ましい考えが、ジャックくんにも伝わって彼をいらつかせてしまう。 でもね。リーリスちゃんは人を守るのが得意じゃない。ジャックくんもだ。キサちゃんを守ったのはボクだから。 安心していいよ。彼女は無事。 そうして、みんなの視線が理沙子さんに集まったとき……ボクは…… † 僕の計画通り。 ――おお、キサが無事で良かった 僕のリショルムはがまんできない。 ――キサを抱きたい だから、僕は言う。 「……なんか、キサにさわると壊れてしまいそうで……怖かったんだ」 ――キサ、キサ 「でもどうせ僕がすぐに死ぬのなら……せめてその前に……よかったら……抱かせて欲しい」 ――キサ、キサ 甘ちゃんのベルファルドは微笑み、ジャックはあきれたように視線を外に向けた。 だってこれはフェイの本心だから。 こうして僕はキサをこの手に抱いた。 もう我慢しなくていいよ。 フェイ リショルムの二重螺旋が血を圧縮。高圧噴流がフェイの全身をめぐらせる。 おはよう僕。 ここまでありがとうフェイ《緋》……きみはもう用済みだ。 僕の名前はなんだったかな……。 ……そうそうフェイ《非》だ。ママに貰った大切な名前。キサの中の世界計は僕のモノだ!! 手刀に炎をまとって、流星の一撃が赤子の柔らかい頭に突き刺さる。 せんべいのように脆い頭蓋骨を貫通し、指は硬い感覚をよこした。 事態の急変にベルファルドは対応できない。 この螺旋。沈んでいくばかりの世界を象徴する螺旋。 コイル状のバネだ。 世界計の部品。 このインヤンガイでさんざん好きにやってくれた旅人たちとの因縁もこれで終わらせることができる。 このキサが死んだのも、フェイが狂ったのも全て旅人たちが発端、僕が君たちの吼噦を引きうけて因果律を正そう。 「フェイ、お前……」 僕の背後に殺気が膨れあがる。 「百足、貴様の蒔いた芽、今になり再び発芽するか。ならば良かろう、全て間引いてくれる!」 僕は必殺の一撃をよける必要すら無い。 因と果が逆流し運命は正される。 鴉刃とかいった凶手はジャックに阻まれた。 ジャックは愚かにも、可哀想なフェイがようやく最愛の生まれ変わりを手に抱けたと認識している。 殊勝にも鴉刃の疑いをその身に引き受けたつもりのようだ。仲間想いなことだ。 振り返ってみれば。 あらら、鴉刃はジャックの胸を貫いて貫通している。 鴉刃と目が合う。 僕はにやり笑ってやった。 僕の計画は完璧だ。 † 「やめてよ! フェイさん!」 ボクは目の前で起こったことが理解できなかった。 フェイが突然、小さなキサの頭に指を突き立てたと思ったら、鴉刃さんが突然。それでジャックさんが割り込んで……。 確かにフェイさん様子がおかしかったけど……。 ああ、どうしようもないボクは理解してしまう。霊に日常的にまとわりつかれるインヤンガイならこんなことが可能……可能だと信じられるのかもしれない。 「このキサちゃんを殺しても、もとのフェイさんの妹のキサさんに戻す手段は無いんだよ!」 フェイが壮絶な笑みを浮かべて鴉刃さんの方に振り返った。まるでボクなんかいないみたいだ。そりゃ、ボクはなにもできないけど。 それでもかまわない。 「ボクは生きているキサさんに会ったことはない。けど彼女の魂と話したことはある! 彼女は街を、人を……そしてあなたを最後まで愛していた! だからあなたがそれをしちゃいけない!」 ボクは何を言っているんだ。頭を割られたんだよ。キサは……キサは死んだに決まっているじゃないか。 でもでもだよ。 なんだっけこんなことするのさ。 † 爪はジャックに阻まれた。死体まで庇おうとはたいした仁義であるな。 困った予感ばかり当たりおる。ジャックの暴走癖は度しがたい。 すんでで魔力を抑えこみ破内爪の発動を抑えた。 返り血を盛大に浴びたが、ジャックならば心の臓を貫こうと致命傷には及ばないであろう。 「ロストナンバーは……ボクのような例外もあるけどすごい力を持ってる!」 ベルファルドはフェイだったモノに演説をぶちかましていた。彼は既に死んでいるにもかかわらず。 「なんでもできるかもしれないでも、ほんとに世界を救うのはそこに住む人たちなんだだから、あなたは負けちゃいけない!」 インヤンガイの住民は我々などよりよほど怪物とみえる。 そこのリーリスのように。 私は戦慄を押さえ込み飛びすさった。 弾丸のように鳩が脇をかすめる。 ――お前に恨まれるようなことをした覚えはないが? 「キサは私と約束したの! 生まれる前から約束したの!」 今の魔王は本性を隠そうともしない。 竜星で見たとおり、自分とは比べものにならない魔力。 「キサを傷つける奴は赦さない! 舐めるな塵族!」 ――魔王、取り乱すか 無数に沸き上がる白い鳩に触れたものは始めからこの世に無かったかのように消え去った。 やっかいな 壁に柱に冒涜的な穴が穿たれ建物が揺らぐ。 フェイにも無数の致命的な穴があけられた。死体にむち打つとはまさにこのこと。臓腑であった腐敗が流れ、そして、胸からは許されざる塊が墜ちた。 「殺してやる殺してやる殺してやるっ! 機械だろうが死体だろうが私と同じモノだろうが……全て等しく殺してやる」 暴風が過ぎてみれば、フェイだったモノは残骸となって横たわっていた。 既に倒されている機械兵に……フェイに……巻き添えを食ったベルファルドとジャックも折り重なるように倒れ伏している。彼らの体もえぐり取られている。腕に足に胴が肉食獣に囓り盗られたよう。 機械兵だった部品もこぼれ落ち、ネジと歯車と弁と転がっていた。 ベルファルドが小刻みに痙攣している。かろうじて息はある。 「……最後に会ったキサさんはフェイさんになんて言ったの……それだけは忘れちゃダメだ……」 彼は小声でまだつぶやき続けている。あきらめの悪いよう。 その中。 場違いな赤子の泣き声が上がった。 死体の山の上で頭部を失ったはずのキサが元の姿を取り戻そうとしていた。 リーリスは茫然としたようにその前にへたり込んでいる。 破壊の嵐は静まり、冷たい雨滴がかかってくる。 ――世界計の部品、黒耀重工の狙い リーリスの細い白い手が弱々しく持ち上がり、キサの方にさしのべられた。 その禍々しい手に触れられると、キサはますます火がついたように泣き出した。 いとおしそうにキサを抱きしめる。かくもらしからぬ。 と、リーリスが苦痛に顔を歪ませた。 畏怖すべき光景。 刹那。 リーリスは赤子を抱く両腕を失っていた。 その瞬間を脳裏で整理する。 そして、私は現象を理解した。キサ……とその世界計がリーリスをエネルギー源もしくは敵と認識して、リーリスに喰いついたのだと。 「ああぁぁあぁぁ――――――っ!!」 リーリスの体が無数の鳩に分解し、めいめいが出鱈目に逃亡しようとしたが、不可視の力場に囚われ、引き寄せられる。鳩は赤子の手に触れられるとばりばりとおぞましい音をたてて粉砕された。細くて軽い骨も、血しぶきもキサの小さな手に吸い込まれていく。 視界の隅で、リーリスの一羽だけが格上の捕食者から逃げおおせたのが見えた。 あたりにしとしとした静寂が戻る。 骸の山がもぞりと動き、機械兵の一体が息を吹き返した。 フェイの体からこぼれ落ちた悪意が、地を這い機会兵に乗り移ったのだ。 それを駆動したのは、心臓が収まる位置にあった一つの機械部品。 私は今度こそ背後から貫いた。 機会兵は鉄くずとなって崩れ落ち、私の手の中には――一対の絡み合う螺旋――があった。 不吉な魔力を感じ、その霊のうめきを理解した。 ――霊装、双絡螺旋リショルム型人工心臓。 これに魂を封じることによって体を渡る簡易転生機関。 黒耀重工の呪われたデバイス。 フェイの奇行はこれを心臓に埋められていたからと理解された。狙いはキサの世界計の部品であったのであろう。 双対螺旋はうねりをあげ、内部に残された血を吐き出す。 不憫な。 不定形の魔力を手にまとい、握り込み圧壊させる。双対螺旋の精密な曲面は互いにぶつかり、その力で軸が折れ、無機能なばらばらとなった。 これに囚われていた霊も解放されたであろう。 そして、残されたのはただ泣きじゃくるだけの赤子。 赤子は世界計の部品……螺旋バネを有している。確保が任務だが、リーリスを粉砕した圧倒的な力。 敵意を向けられてはかなわん。 「残念であるが、置いて逝けぬ者ができた身だ……」
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