ゼシカ・ホーエンハイムはその日、朝からそわそわと落ち着かなかった。 長期の依頼へと赴いていたハクア・クロスフォードが、久々に帰宅をすることになったからだ。 彼が帰ってくるまでにまだ時間はある。けれどもじっとしてはいられない。部屋も綺麗にしておきたいし、夕食の準備など、やることが色々ある。 まずは掃除からしようと、ゼシカは居間へと向かう。 全て木の家具で揃えられた空間は、自然の温もりを感じさせた。大きめの窓からは、庭が見える。 まず箒で床を掃き、雑巾がけをする。ぴかぴかと輝きを増した床に、ゼシカは満足そうに息を吐いた。 部屋には大きな書棚があり、本がずらりと並べられている。彼女は続いてそこをハタキ掛けする。ゼシカのスペースも少しあって、そこには絵本が並べられていた。居間の大部分の壁を占領している書棚でも蔵書は収まりきらず、脇に積まれているものもあるため、それもハタキで優しく払った。大切な本たちだから、丁寧に扱わなければいけない。 部屋には、本が持つ独特のにおいが漂う。それは、何だか安心出来るにおいだった。ゼシカもハクアも本が好きで、二人を繋いでくれた良い思い出も沢山ある。 書棚から少し離れた壁際にある、アンティーク調のキャビネットの上には、手のひらサイズの硝子の兎や天使像などの小物が置いてあり、その上の壁には、ゼシカが画用紙に描いた絵が飾られている。 ゼシカはそこも気をつけながら掃除をし、壁の絵を眺めた。汚れてしまわないようにと、ハクアが木の額縁に入れ、綺麗に並べてくれている。描かれたハクアや友達、モフトピアやブルーインブルーの風景は、どれも自信作だったけれど、さらに立派な作品になったようで誇らしい。 最初にこの家へとやって来た時、嬉しさと同時に、客として招かれた時のような居心地の悪さも感じていた。でも、こうやって二人の好きなものを並べて行く度に、ここが二人の家になっていくのだという実感が湧いてきて、その感覚は次第に心地良いものへと変化していった。 この家でハクアを待っているのは、多少の寂しさはあっても、それほど苦にはならない。 ゼシカはただ待っているのではなく、家を守っているのだから、その間にやることはたくさんある。掃除だって、洗濯だって、庭の手入れだって。 帰ってきた時にゼシカが家を綺麗にしていると、ハクアは家が綺麗だと褒めてくれる。庭の花が元気だと、世話をしていたことを褒めてくれる。だからまた、ゼシカは頑張ることが楽しくなる。 それに、今のゼシカには、ターミナルにもナラゴニアにも沢山の友達がいる。本が読めるようになりたくて、字の勉強だってしていた。友達と遊んだり、勉強をしている間にも時間は過ぎて行く。もしかしたら寂しいと思うこと自体、減ってきているのかもしれない。 そして、ハクアは出かけたとしても、またここへと戻ってくるのだということを、ゼシカは知っている。だから、ただいまと言われたら、おかえりと言うだけで良かった。 それでも久しぶりに会うということで、何だかやけに緊張していた。さっきも掃除したところがまた気になってしまい、ハタキを持って行ってはパタパタとやる。 その時、緊張した顔が姿見に映った。それに気づいたゼシカは、笑顔を形作る。すると、鏡の中の女の子も笑った。 だいじょうぶだよ、ゼシ。そうやって笑顔でおむかえしたら、魔法使いさんもきっとほっとして、お仕事おつかれさまっておもてなししたら、ぜったいぜったい、喜んでくれるから。 そうして語りかけると、鏡の中の女の子もやる気が出てきたようで、力強い表情になった。 ◇ ハクアは家路を急いでいた。思ったよりも依頼が長引いてしまい、予定よりも遅れている。 エアメールでゼシカに連絡はしたものの、ずっと留守番をさせていたので、早く帰って安心させてやりたいという思いがあった。 いや――と、ハクアは思う。自らも、安心したいのだ。 ゼシカはしっかりとした子だ。ロストナンバーとなり、普通の子供とは違った経験を数多くしているということも、勿論あるだろう。 それでもやはり、自分が留守の間、寂しくしていないだろうかとか、危険はないだろうかとか、様々なことを考えてしまう。 彼は内心で苦笑した。 自分がゼシカに対して甘いところがあるということは自覚しているつもりだったが、これほどまでとは。 一緒に暮らし始め、長期の依頼で離れていたことで里心でもついたのだろうか。そうだとすれば、やはり待っている人がいるからこそだろう。 父を失ったゼシカを、これ以上悲しませたくないという思いもあった。 彼女はまだ父の帰りを待っている。だから一緒に待ってやりたかったし、そばに居て寂しさを和らげてやりたかった。 そしていつか、帰ってこない理由を理解した時も。 ターミナルのあちこちから様々な料理のにおいが漂ってくる。レストランの席も人で埋まり、旨いと評判の店には行列も出来ていた。 空の色には変化は見られないが、そろそろ夕食時だ。 ゼシカが夕飯を作ると言っていたから、それに間に合うように帰りたい。ちゃんと出来ているかどうかも、少し心配だった。 またか、と思考がすぐにそちらへと向かってしまう自分を窘めながら先を急ぐ。 やがて、馴染みのある一軒家が見えてきた。壱番世界に建っていたら、レトロな洋館と形容されるかもしれない。 門をくぐると、大きくはないが小さくもない庭があり、そこに咲く花やハーブは元気そうにしていた。ゼシカがしっかり世話をしてくれていたのだろう。 ハクアはドアの前にたどり着くと、ノブに手を掛けた。 ◇ ドアについたカウベルの音が聞こえ、ゼシカははっと玄関の方向を見る。 彼女は汚れた手を急いで洗い、そちらへと向かってぱたぱたと走った。 「ただいま」 深緑の目が細まり、こちらを見る。長い白髪がさらりと揺れた。 そんなに長い間ではなかったのに、何年かぶりに会ったかのように、とても懐かしい姿に感じる。 「おかえりなさい!」 ゼシカはハクアに駆け寄って抱きついた。 エプロンについた粉が彼の服に移ってしまったのを見て、慌てて離れて手で払ったが、ハクアは気にしていないようだった。大きな手で、ゼシカの頭を撫でてくれる。 「元気にしていたか」 「うん、ゼシ、とっても元気よ!」 「そうか、良かった。……これは土産だ」 「ありがとう!」 ハクアから渡された小さな箱を、ゼシカは早速開けてみる。 中には透き通った青い石で出来た、猫の置物が入っていた。 「わぁ、ねこさん!」 ゼシカはきらきらとした笑みを浮かべ、自らの瞳と同じ色の猫を見つめる。 そして居間へと早足で向かい、硝子の兎の隣へと置いた。 「みんな、新しくねこさんが来たわ。仲良くしましょうね」 顔を上げると、こちらを見ていたハクアと目が合ったので、ゼシカはにっこりとする。 あんなに緊張していたのに、いざ彼が帰って来たら、全部吹き飛んでしまった。 話したいことも色々あるし、旅の話も聞きたい。 「ゼシカ、料理はどうだ?」 「あっ」 ちょっとだけ話して、すぐにキッチンに戻るつもりだったのに、時間はあっという間に過ぎていた。 慌てた表情で駆けて行くゼシカの後を、ハクアも追う。 「たいへん!」 「待て、危ない」 煙を上げるオーブンへ近寄ろうとするゼシカをハクアが引き止め、自らが先に行って火を止めてから、窓を開ける。 少し様子を見てからオーブンの扉を開いてみると、ゼシカが生地を頑張ってこねて、ハクアに焼きたてを食べてもらうつもりだったパンは、無残にも真っ黒焦げになっていた。 「パンプキンスープはへいきよ。焦げてないわ」 小さな台の上に乗り、鍋の中を覗き込む。底が少し焦げつき、分量が多少減ってはいたが、それほど問題はなさそうだった。 ゼシカはおたまですくって味見をしてみる。 「うぇ……」 しかし、こちらは味付けを間違えてしまったようだ。 「……だいじょうぶ、今からふわふわのオムレツを作るわ。ゼシ、とっても上手になったのよ」 そう言って今度は卵を手に取り、割ろうとした。でも動揺のせいか、手が滑ってしまう。 べしゃり、と音を立てて床に広がった卵を見て呆然とするゼシカに、ハクアは優しく声をかけた。 「一緒に作るか?」 布巾で床を拭うハクアを、彼女はぼんやりと見ている。 「久しぶりに一緒に作るのも楽しいんじゃないか? また今度、ゼシカがご馳走を作ってくれるのを楽しみにしている」 またチャンスがあるとわかって少し安心したのか、彼女はこくりと頷き、表情を和らげた。 そして自分も布巾を持ってきて、床を拭くのを手伝う。 「よし」 床が綺麗になるとハクアは立ち上がり、材料を眺めた。 「まずはクリームソースを作るから、手伝ってくれ」 それから二人は、作業へと取り掛かる。 ゼシカ一人で、ハクアの喜ぶ顔を思い浮かべながら作る料理もわくわくしたけれど、一緒に作る料理も楽しかった。 失敗したパンプキンスープが、美味しそうなクリームソースのパスタへと、魔法のように変わっていく。 焦げてしまったパンも、ナイフで外側を切り落としたら、中身はふわふわで美味しそうだった。 葉野菜をちぎって、トマトやフルーツを乗せてサラダも作り、オムレツもハクアに見てもらいながら綺麗にできた。 「いただきます」 予定よりも遅れて始まった夕食の席で、ゼシカは、ハクアが留守の間にあったことを話し始める。 友達と遊んだこと、新しい字を覚えたこと、庭のハーブが大きくなったこと……穏やかに相槌を打ち、真摯に聞いてくれるハクアへと、話したいことが次から次へと出てきた。 二人を囲む家も、じっとその話に耳を傾けているかのような、優しい時間が過ぎていく。 ◇ 「魔法使いさん」 寝室のカーテンを閉め、自分のベッドへと入ったハクアの背中に声がかかる。 振り向けば、枕をぎゅっと抱きしめたゼシカが青い瞳でじっとハクアを見上げていた。 「いっしょに寝てもいい?」 そう言って彼女は少し恥ずかしそうに、大きな枕に顔を隠す。 「ああ」 ハクアはそれを微笑ましく見ながら頷き、手招きをする。するとゼシカの表情は満面の笑みとなった。 彼女はとてとてとベッドへと近づいてよじ登り、ハクアの隣へと滑り込む。それからぎゅっと抱きついた彼女の頭へと、ハクアの手がそっと置かれた。 「ねぇ、魔法使いさん。旅のおはなし、聞かせて」 ゼシカに言われ、彼は今回の依頼の話をし始める。 一緒に仕事をしたロストナンバーのことや、現地の景色、どんな動物がいたか――本の話が出てくるのもハクアらしく、物語は淡々と語られたけれど、ゼシカにはとても面白く感じられた。 やがてぱっちりと開いていたゼシカの目は段々と閉じていき、ハクアの声も遠ざかっていく。ゼシカの意識も、旅を始めていた。 その世界の地面はとてもふわふわで弾力があり、一歩進むごとに、ゼシカの体は空中へと投げ出された。 でも、飛び方も落ち方もゆっくりだったので、全然恐くない。体をねじるようにしたら、くるくると世界が回転し始める。いつの間にか地面に落っこちていたけれど、また柔らかい地面に抱きしめられ、再び空中へとゼシカは舞った。 下に見える花畑の中に、ハクアの姿を見つける。魔法使いさん、とゼシカが呼ぶと、彼は笑顔でこちらに手を振った。 ゼシカも手を振り返している間に、ハクアの姿はどんどん近づき、大きくなる。彼は空から落ちてきたゼシカを受け止め、地面へと下ろしてくれた。 色とりどりの花が咲くその場所で、二人で花を摘む。ゼシカが大きな花輪を作ってプレゼントすると、ハクアは満面の笑みを浮かべ、大喜びしてくれる。 その後も、教会で歌を歌ったり、湖で泳いで遊んだりした。 二人で水と戯れて大はしゃぎしている時、急に世界の色がにじんだような気がして、ゼシカは目をぱちぱちとする。 ハクアも、湖も、空も、どんどん淡く、薄くなって消えて行き、痺れるような感覚が体を包み込んだ。 「ひゃっ」 皮膚に布の感触と共に嫌な冷たさを感じて、ゼシカは小さく声を上げる。 「どうした?」 先に起き出していたハクアがそれに気づき、近づいてくる。 朝だ。そして夢を見ていたのだということを認識し、ゼシカは上掛けを両手でぎゅっと掴むと、口のあたりまで引き上げてハクアの方を見た。 昨日夕食で失敗してしまった分、本当はもっと早起きして、朝食の準備もして、彼を起こしてあげたかった。 でも、それよりも今は、もっと気がかりなことがある。 「なんでもないの。ゼシ、だいじょうぶよ。ちょっとこうしていたい気分なの」 明らかに様子がおかしいゼシカを見て、ハクアは少し考える。 そっと手を伸ばし、額へと当ててみるが、熱はない。なぜかハクアの手から逃げようとする彼女が、また何かを堪えるような顔をしたので心配になり、ハクアは上掛けをめくった。 するとゼシカは顔を赤くし、恥ずかしそうに体を丸める。パジャマやシーツに、染みがついていた。 「ごめんなさい……」 事態を理解したハクアは、顔を背けたまま謝るゼシカの肩に優しく触れる。 「気にするな。それより早く起きて着替えろ。風邪を引いてしまうからな」 ゼシカは頷いてベッドから起き上がると、着替えを持ち、急いでバスルームへと走っていった。 ◇ 「……ごめんなさい。ゼシのこと嫌いになった?」 温めたミルクをちびちびと飲みながら、ゼシカが言う。 シャワーを浴びて体はさっぱりしたけれど、気持ちはそうすぐには行かなかった。 ハクアは首を振り、いつものように穏やかな口調で告げる。 「そんなことはない」 でも彼の言葉にも、ゼシカの表情が晴れることはない。 「何かあったのか?」 ハクアが帰って来た時から、ゼシカの表情は硬かった。もしかしたら、自分が留守にしている間に何か気がかりなことがあったのかもしれない。 けれどもゼシカは、ふるふると首を横に振る。 「ゼシ、魔法使いさんがひさしぶりにおうちに帰ってくるから、喜んでもらいたかったの。だからがんばったんだけど……ダメだったみたい」 そうして彼女は、また肩を落とす。 「ゼシね、魔法使いさんの喜ぶ顔が見たいの。どうすればいいのかな……」 その一生懸命さが伝わってきて、ハクアは思わず彼女へと近づき、抱きしめていた。 ゼシカは、驚いたようにハクアを見る。 「すまない。俺のために、辛い思いをさせてしまったな」 ハクアが内心の感情を表情に出すことは滅多にない。 だからゼシカに余計な気遣いをさせてしまったのだと、彼は思った。 「ううん、そんなことない」 ゼシカはハクアの腕を小さな手で握り、首をぶんぶんと振る。 「魔法使いさんは、なんにも悪いことしてないもの。魔法使いさんが謝るのはヘンよ」 それでも、彼女の小さな胸を痛めさせてしまったことは、ハクアの同じ場所にも痛みを生む。 「俺は、十分嬉しかった」 ゼシカが精一杯の気持ちで迎えてくれたこと、料理でもてなそうとしてくれたこと、甘えてきてくれたこと。 それはとても微笑ましく、嬉しく、喜ばしいことだった。 自分自身、どんな時に喜ぶ顔をしているのか自覚が全くない。それで誤解を生むことがあったとしても仕方がないが、ゼシカにはきちんと伝えておきたいと思った。 「喜ぶ顔をしていないように見えたとしても、俺はゼシカが笑顔で、楽しく日々を過ごしているのならば、それがとても嬉しい」 ゼシカはそれを聞き、ぱちぱちと大きな目を瞬かせる。 そして、今朝のことを思い出した。 きっと鏡とおんなじね。ゼシが笑えば、鏡の中の魔法使いさんも笑うんだ。 「それならゼシ、かんたんよ」 だって毎日、楽しくて、嬉しいもん。 ゼシ、魔法使いさんのこと、大好きだもん。 「ゼシ、これからもいっぱい、いっぱい笑顔になる!」 ゼシカがそう言って笑顔を見せると、ハクアの表情が優しくなる。 それは、ゼシカが良く知っている喜ぶ顔とは少し違ったけれど、魔法使いさんのとびきりの笑顔なのだと思った。
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