張り詰める程の寂けさが充ちている。 門構えから片隅の藤の樹、草や石、土塊、そして邸に至る迄、誰も物云わぬは当然なれど――尚、業塵は其れを異変と捉えた。何故ならば先に挙げし何れもが、騒いでいたからだ。音も立てず。微細に振え。泡立ち。騒騒と、揺揺と、風も無いのに蠢いて、此方を窺っている様だ。恰も――蟲の如くに。 旧雨声藩藩邸――。 其の日、業塵は最早定例と化した訪問を敢行した。此処でしか手に入らぬ、業塵の糧のひとつたる特別の酒を手に入れる為、月に一度は必ず門を潜る。 これ迄一度たりと姿を見せぬ主は中々の性悪と見えて、客があれば惑わし、脅かさんと、邸の随所で訪れた者にあれやこれやと気色の悪い罠を仕掛けてくる。とは云え、所詮は悪戯の域を出ず、命を脅かす危険が潜んでいる訳でも無い。大妖にとっては少しばかり面倒臭い事を除けば取るに足らぬ場所。 故に、この度、業塵は彼を慕う童女を伴って――当人からすれば寧ろ「子分を連れて来てやった」心算なのだろうが――兎も角来参したのである。然したる危急に見舞われる事無きなれば大事には至らぬ、己もついている、と。 処が、この有様は如何だ。 元より陰の濃い化け物邸ではあったものの、今や邸其の物が一匹の物の怪と化したかの如く、不穏な意識を二人に向けているでは無いか。敵意か、殺気か、否、より根源的な――欲の情に近しい気配。業塵は何処か懐かしくもある、併し得体の知れぬ其れを本能的に感じ取った。「……今日のすあまとはんぺい、なんかヘンだ」「怖いか」「ア、アルウィン怖くないぞ!」 傍らの童女――アルウィンもまた、動物的な勘――なのか否かは不明乍ら――胡乱な気配をそれと無く感じたのか、平時ならば誇大誇張全開の一挙手一投足凡てが、今は軽く四割程減退し縮こまって何かとぎこち無い。 ――如何したものか。 其の震える小さな手のに握られた、開花したばかりの梅の枝を一瞥し、ゴウジンはさてなと沈思する。 酒は不可欠、だが如何やら邸には不穏な気配が漂っている。となるとアルウィンを連れ歩くのは危険であり面倒だ。併し口で帰れと云って素直に聞く娘では無い事は、以前一人で来させた折の様子からも明らかだ。ならば一旦戻って同居人に預けるか。寝かしつければしめたもの。出直すも業腹なれど詮無き事ぞ。ゆくゆくは―― ――!「っ――おぉおおおおおおおおおー!?」 次の瞬間、業塵はアルウィンの襟首を鷲掴みにして勢い善く――放り投げた。取り敢えず「ゴーージーーン!」という塀の外からの抗議声明はさて置き――継いで自身へと投げ飛ばされた包丁を見向きもせずぞんざいに掴む。 更に包丁が、薙刀が、邸の側から、あるものは切っ先を真っ直ぐに、あるものは回転して、数本――否、数十本にも及ぶ刃が、次々と大妖目掛け飛来し、放たれ、貫かんと切り裂かんと襲い掛かる、業塵は其の悉くを腕の如き黒い粒子の影を恐るべき迅さで振り回して打ち落とし、弾き飛ばし、掴み取って無力化した――「……っ」 ――ひとつを除いて。 包丁の一本がまるで眼前より突き立てられた様に深く、業塵の左胸に食い込んでいた。「…………」「こらー! 子分のバンザイ(分際)で何するかー!」 懼らく大の字の姿勢で腕をばたばた振り乍ら怒りを露わにしているのだろう、見ずとも判るアルウィンの様子を朧げに思い浮かべつつ、業塵は、「足手まといぞ、小童が」「え――」 素っ気無く云った。 陰気でぼそぼそとしているのに、塀越しでも不思議と善く通る聲で。童女は絶句したか。「儂を何者と心得るか」 構わぬ。当初の腹積りとは趣が些か異なるが、何れ帰す心算では居た。危険から遠ざけねばならぬし、其れに――業塵は横槍で遮られ埋れた思考を掘り起こす。 ――ゆくゆくは別離を迎えよう。 然れば来るべき時に備え、己への愛着を捨てさせねばならぬ。……そう、徐々に慣らす必要がある。今が頃合やも知れぬ。此度の件は丁度善い切欠となろう。 業塵は胸に刺さった包丁を引き抜いて無造作に藤の木へ放った。幹の中央へ正確に穿たれた刃はびぃぃんと震えて、其れに呼応するように左胸から蟲の屍骸と、懐に仕舞っていた梅の花枝が、ぽろぽろと零れ落ちて、無残な姿を地面に晒す。「去ね」 仕舞いに其れだけ云って、業塵は邸の中へと消えた――。 ※ ※ ※「バカ、でべそ」 一方塀の外では、アルウィンが概ね業塵の想像通りの姿勢で両腕をばたつかせながら塀の向こうに遠吠えしていた。なんだか顔が赤いのは業塵に放り投げたれた際、顔面で着地したせい。 いきなり外に追いやられ、顔はぶつけ、挙句足手まとい呼ばわりされ、さすがの隊長も今度ばかりは腹に据えかねたのか、「もうしらん! ゴウジンのでべそ」 精いっぱいの罵倒――しかもリサイクル――以外なにを言う事もできず、ただ鼻息を荒くして――結果としては業塵の言いつけ通りに――帰途へと踵を返した。「……~~~~」 が、歩き出す事ができなかった。振り向いた瞬間、僅かに気持ちが切り替わった。 一度は、しかも一人で訪れた事があるアルウィンから見ても、今日の藩邸は怖い。絶対に前よりも怖い! つまり――ゴウジンが危ない! ――足手まといぞ、小童が。 同時に子分の不遜な態度への憤りが再燃する。「ブレん桃(無礼者)! アルウィン、隊長だぞ!」 アルウィンは業塵への気遣いと怒りで、俄かに恐怖を忘れた。だから、再び門をくぐる事に躊躇する事は無かった。「あっゴウジン!」 前庭に入ると、なんと玄関口に子分が立って、こちらをじっと見つめていた。「????」 違う。顔や背格好は全く一緒。なのに、アルウィンはそれが別人だと感じた。何故なら、しょんぼりしていないから。でも、どこかさみしそうに見えた。「誰だオマエ! ゴウジンのニセモノか!」 アルウィンは槍の穂先を突きつけて詰問する。「…………」 業塵と同じ姿の男は、く――と笑ったかと思うと、既に目の前には居なかった。「お、おのれチョコ菜(ちょこざい)な! どこ行った!」 あっという間に勢いをそがれまたしても薄ら寒くなってしまったので、アルウィンは自らを奮い立たせる為にあえて大声でわめいた。しかし、男の姿はどこにもない。 前にもこんな事があった気がする――以前ここに来た折に出会った少年の事を思い出し、何故かそれは業塵を心配する気持ちに転じる。 ――待ってろゴウジン、今助けるぞ! いつの間にか子分がピンチに陥っている事になり――かくして小さくも勇敢なる騎士は、業塵の後を追って邸へ飛び込んだ。 二人は未だ知らない。単純で酷な罠が待ち受けている事を。己が腹の中に入り込んだ力――アルウィンと業塵を、邸が取り込もうとしている事を――。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>業塵(ctna3382)アルウィン・ランズウィック(ccnt8867)=========
蝗の大群が通り過ぎたが如き穴だらけの障子と襖とボロボロに抉られた家財調度の類に囲まれているのは、男唯独り。明らかに争いの跡なのだが、彼と渡り合う心算で襲い掛かり瞬く間に蹴散らされた筈の何者かの姿は無い。 其れを陰気な眼差しで認め、業塵は掛け軸の元へ歩み寄る。痩せぎすで骨の浮いた青白い手で布袋絵図を剥ぎ取ると、邸内に放った蟲共の一匹が戻り――主の耳元で聲を欹てる様に羽音を立て、そのまま穴の中にもぞもぞと入り込んだ。 「……左様か」 羽音は告げる。塀の外に置き去りにした隊長を称する童が、懼らくは子分の身を案じて此方へ向いつつある事を。――そんな気はしていた。否、知っていた筈だ。あの程度突き放した処でおめおめ引き下がる童では無いと。 業塵は巻き取った掛け軸を懐に収めるなり逆手の袖をひゅっと振る、袖口から黒い影が凄まじい迅さで飛び立ち、瞬く間に入り口の方へと消えた。 「狭くてごめんな」 アルウィンは引っ繰り返した兜に梅の枝を入れる。ずれないようにと何度も入念に位置を確かめてから、両手で素早く兜をかぶり直す。 門の内側で梅が散ってた。きっと業塵の分。お花がないとお酒がもらえないのは覚えてる。だから自分が無くしたらダメだ。アルウィン隊長だもんな。 「……ゴウジン」 子分を思い出すとさっきの事も思い出す。少し寂しいのは、いきなりお外にポイされたから。業塵に信用されてない? 隊長なのに。……友達なのに。 ――ともだち。 アルウィンは頭上を仰ぐ、高い高い咆哮で身を奮わせる、力が充足する。邸の嫌な空気と匂い、物音がはっきり解る。 業塵は子分で、大事なお友達。お友達だから心配。お友達だから――護る! 「行くぞアルウィン!」 小さな手を力いっぱい握って歩き出して、直ぐ気が付いた。 障子や襖が殆ど開かれていない。確か前に来た時習ったお約束で全部開けると言われたのに。ひょっとして業塵は知らない? まさか。 ひとつひとつ両手で勢い良く引っ張る、どんどん開けながらどんどん進む。 でも後ろは見ない。ヤな感じする。……こわいからじゃない、約束だから振り向かないだけ。何かあって怪我したら業塵助けれないからな。 「れ?」 ――誰か、みてる? 「わっ!?」 覚えのある気配がして思わず後ろを見そうになった事にびっくりして、アルウィンは慌てて前へ走り出した。気配は業塵のようでもさっきの偽者のようでも、前会った子のようでもあった。もしあの子なら、本当に振り向かなくても良いのだろうか。 ……ウゥゥー……ン。 不意に羽音が耳をかすめて、つい、こする。手を見ても虫はいない。 「??」 「何を呆けておる」 「うわあっ!」 前から童の声がした。だん、と立ち止まる。でも――やっぱりいない。 「あ」 開いてる部屋があった。掛け軸の部屋だ。廊下から首だけ突っ込んで覗いてみる、ぐちゃぐちゃで蜂の巣みたいになったがらくただらけ。掛け軸もない。 ――ゴウジンだ。 そう直観した。子分がひと足先にここに来て掛け軸を回収したに違いない! ならこの先にいる、あのちんまい庭だろうか。すんと嗅げば子分の匂いがした。もうすぐ追いつく。 「ほれさっさと往け」 「~~~~!?」 と、やる気を出した矢先に、また。何処にも見えないのに。 「……? いるのか? 元気か?」 アルウィンは云われた通りにする、けれどさっきより少し遅めに走って、戸を開けては覗いて進んで行く手に目を凝らして――それでも童の姿は見えない。返事もない。 後ろのヤな感じがどんどん増えていく。前みたく悪戯して来ないけど前と違って怖い感じがする。 もし今振り向いたなら、少女はどんな顔をしただろう。どんな悲鳴を上げるだろう。 何故なら其処には嘗て業塵が郷里で屠った物の怪数多の魑魅魍魎、五体の何れかが決まって欠けた亡者の群れの白い手が、聲も無く口をぱくぱくさせて哂う生首に率いられ、今か今かと其の時を待ち焦がれにじり寄って居たのだから――。 でも、そんな事よりも、アルウィンは童と業塵の無事が気懸かりだった。 女が眼を血走らせて鞍沢の主に刃を向け飛び掛る。平時ならば女性に相応の気を遣う業塵も、一切の情け容赦無く化け物染みた腕を奮い、これを文字通りに、潰す。 「御館さまあっ!」 今度は後ろから。振り向きもせず蟲を放つ、山姥もかくやとばかり黒髪を振り乱し包丁を振り上げた女が、無数の羽虫に射抜かれ其の姿勢の侭壁に張り付く。 間髪入れず次々と怨嗟の聲が刃を向ける。 アルウィンが追い付く迄少しでも危険を排除せんと先へ進む度、この有様。 手間が省けると考えれば好いか。併し、キリが無い。 「おヤカたさぁマあああああ」 「なぜ護って下さらなかったのオぉ」 「……」 扇子を薙ぎ払い、或は顔面を鷲掴みにし、一息に振って断ち、叩き付ける。 「ア――あ。ナ、ゼ、」 仕損じたモノを踏み拉き、黙らせた。 ――……仕損じた? 儂が? つい掌を見る。疲労は無い。ある筈も無い。 手傷も負うておらぬし、そも、幻如きに遅れは取らぬ。 ならば――手心を加えたと。何故か。肌に心地好き怨嗟に情け等。 取り止めも無い思考が浮かんでは消え――併し薄々気付き、懸念していた事を想う。 幻の女共の言、そして其の姿。気配。覚えがある。此の邸の記憶では無い。 業塵の――守久の記憶が、邸の一部と成り果て業塵を襲っている。 元より得体の知れぬ域。足繁く通う内、読まれ写し取られたか。 然も無くば己が陰気が邸の怪を惹き付けたか。 「…………?」 己が裡に妙な「空き」がある――業塵は腹にずぶりと手を差し込み、其れを握り潰してから引き抜いた。煤けた様に黒ずんだ手を開くと、粉々に果てた蟲の遺骸が、すう、と霧散した。眷属に迄忍び寄るとは、幻と云えど侮れぬ――。 何故、殺した 「――、」 執拗な攻めが漸う止んだと思えば、次は己の聲――「敢えて」そう想う。 何故、護れなかった 聴き紛う筈の無い、地の底から響く様な粘り付く陰鬱。併し大妖は斯様な物云いをせぬ。怨嗟は喰らい糧とする物。自ら発する折は言に非ず、穿ち、殺す物ぞ。 然るに聲の主は――。 何故 嘗て業塵を其の身に封じし偉大なる験者。鞍沢藩主――天野、 「守久」 立ち尽くす業塵の前に何処からとも無く浮かび上がり、鏡合わせの如く向き合い、俯き加減に胡乱な、其れで居て悲壮で恨みがましい眼差しを業塵に向け。 鞍沢藩主は、何故、何故と問い続けた。刹那、 「む!」 あらゆる方位より独鈷杵が、鳴杖が、金剛杖が、一斉に業塵を突き刺した。 「っ、…………」 灼たかなる術具は妖を討つ。幻だと判って居ても「苦痛」を感じる。だが動けぬ程では無く――併し、守久を前にして、業塵は動く事が出来ずに居る。 人の心が物の怪に干渉する。守久の中に封じられた業塵から残忍な性が薄れた様に。そして、逆も然り。業塵を宿した守久はどうなった。 “もし己が正気を失い、堕ちた時は討て” 奸賊の嫌疑を掛けられる前。業塵の正なる変化を感じ、信じて頼んだ守久は。 大妖とは全く逆の、併し大妖を宿した故に負へ傾きつつあった彼を、業塵は正気づかせようと試みもした。 だが、業塵より移りし怨嗟と己が怨嗟が結び、正の聲は届かず――業塵は苦渋の想いで約定を果たした。即ち守久を、喰ったのだ。 あれから時は過ぎ、鞍沢を離れ、掛け替えの無い存在を得た。 置き去りにした童女を、気の良い家主を、其の付き添いを、灯火の様に想う。 「……儂には過ぎた安寧だったか」 其の様な資格がある等と露程も想いはせなんだが。 業塵は守久の口から漆黒の液体を血の様に吐き出した――。 「ゴウジーーーーーン!」 絶叫しながら箱庭に飛び込む童女を見た、序に其の背に控え舌なめずりする痴れ者共の群れも認めたが……まあ其れは先ず捨て置くか。 「ゴウジン! ゴウジン!」 蝉の方が余程大人しい。これだから童は。 隊長は子分に駆け寄る、涙を浮かべて、大事なお友達が痛くされてるから、自分の事と同じくらい辛くて。 着物にしがみ付いた。号泣して、鼻水で汚れた顔を埋めて、わんわん泣いた。 「ゴウジン! ゴーゥジィーン、しんじゃヤだあぁーあ」 狼と云うよりは子犬が笛の様な音色で鼻を鳴らすのと同じ。ぴぃーぴぃーと涙混じりの言葉尻が庭に響く。業塵は陰気な眼を向けて、ぼそっと訊ねた。 「……何を哀しむ」 「う、ひっ。だって、だってゴウジンがー……ゴウジンのばかああああ」 説明なんかできない。気持ちがあるだけだから。 失くしたくない。ケンカしたまま離れたくない。業塵、大好き。大好き――! 「…………」 アルウィンの兜に、ぽんと何かが乗った。 「うひっ、く」 しゃくりあげがてらの驚声はみょうちくりんになった。 「ゴウジン……?」 アルウィンは大好きな友達を見上げる。頭に載ったのは彼の手だった。相変わらず口周りが真っ黒に汚れてたけど、苦しそうじゃなかった。全く同じ顔の、 「あああ!? ニセ桃!」 もとい偽者を見据えて、業塵はなんだか難しい感じのする感じで言った。 「責めは甘んじて受けよう。許しを請いもせぬ。だが、守久よ」 そして、アルウィンを見下ろす。 「未だ滅ぶ訳には往かぬ」 寂しそうな眼だと、アルウィンは想った。 ※ ※ ※ 始めは孤独と寂寥を自らへの罰としながら、無念の中で果てた守久達を弔う為だった。 生くる事こそがそうなのだ――と、恰も人の如き感傷を擁き、闇しか知らない己に安らぎをくれた彼らが健気に生き、非力でありながら業塵を変えた事、彼らに憧れた事を想い。 だが、今はそれだけでは無い。 『隊長』達の為――そう、自然に覚えた。 物怖じせず世話を焼かれ、幾度も驚かされる。 寂しがる暇もなく、穏やかな日々を齎された――故に。 「失いたくない」 …………………… 守久の影が霞む、また確たる物へと移ろい、また薄れ。 「あれ……ゴウジンのお友達か?」 隊長がずびっと鼻をすすりながらきょとんとまこと忙しなく訊ねた。 「左様」 「じゃあ、ちゃんと思い出せ」 「…………?」 「お友達の事、ちゃんと思い出せ!」 意外な言葉に業塵は僅か眼を剥く。 よもやこの童は幻を幻と判じたのか。あまつさえ其の性質をも。 「…………そうさな」 守久が、これ迄襲撃して来た女や鞍沢の者達、尚背後に控える直隆や物の怪共が、――其の最奥に蠢く巨大な百足の影が、悉く業塵の記憶から呼び起こされた物ならば。 「然れば子分の所業、とくと見届けよ」 業塵は己が成り立ちから鞍沢に至る迄、守久と直孝との邂逅、両者の確執と直孝の姦計、其の顛末を、ほつり、ほつりと、只想った。 「おおお……!」 箱庭の中は目まぐるしく変化する。寄り添う二人の周囲に、次々と情景が浮かぶ。 其の多くは凄惨を極め、無慈悲と、残忍と、非道とに只管彩られていた。アルウィンは其の都度顔を顰めたり、怯えて業塵の袖をむんずと握ったりしていたが、決して目を逸らさず、真剣に見続けた。 直孝の昏い嫉妬、裏切り――鞍沢を襲われた憤りに任せ、大百足の力を吾が物にせんとした守久。奇妙な共生関係は友情を育み、業塵の心に温もりが宿り。 あの約束を交わし――、 「わっ?」 箱庭は突如業火に巻かれる。鞍沢が滅ぶ日の情景だ。 守久は悲哀と憤怒に狂った。世を呪った。だから、 「――ゴウジン、約束守ったんだ。友達だから」 守久を咀嚼する、眼を覆わんばかりの様を。 焔が映り込んで赤くなったアルウィンの顔は、其の瞳は、真摯に見つめ続けた。 一筋の涙で、ふくよかな頬を濡らして。 そうして幻は雲散霧消し――後にはまた、守久達の幻影が立ち尽くしていた。 業塵に刺さっていた無数の術具も、消え去っていた。 業塵の中には人が沢山居ると、アルウィンは以前聞いた気がする。 偽者はその一人なのかと想った。やっぱりそうだった。あの子も? 皆、業塵のお友達? ならアルウィンと同じだ! 「ゴウジン心配か? ……それとも怒ってるか?」 子分の友達はお友達。アルウィンは物怖じせず、守久に話し掛けた。 …………………… 守久の幻は何も答えなかったが、アルウィンはそれを肯定と捉えた。 「ごめんな。アルウィンゴウジンの隊長――お友達だから謝る。ごめん」 百度程頭を下げて、精いっぱい謝る。そして、 「でも、アルウィン一緒に頑張るから。ゴウジン許して欲しい」 「…………」 業塵もまた、守久同様黙りこくっている。アルウィンは構わず続ける。 「教えて。なんで邸ヘンなんだ? どうしたら戻る? いつもゴウジンのお酒くれてカンシャしてるんだ。ヘンは直したい。教えてくれ」 然れば業を絶つべし―― 「え。なに? ゴーダチーズ?」 まるで業塵の物云いのように判り難い、守久の齎した解にアルウィンは首を傾げ口をすぼめた。 「心得た」 かと思えば業塵が応え――守久が微笑んで――消えた。 「業塵ゴーダチーズするか? どうやる? それ。食うか?」 目いっぱい顔を上げて、後ろに立つ業塵を見る。 「当らずとも遠からず」 「え?」 突然童の声がした。慌てて首をぶんぶん振り回すと、どこからともなくあの子がふわりと庭に舞い降りて、一足飛びで業塵の――袖の中に消えた。 「ああー! やっぱりだ!」 アルウィンが叫ぶのを尻目に、業塵は掛け軸をぽちゃりと水盤に落す。 そしてバっと扇を広げ、云った、 「後ろを見よ」 「でも振り向いたらダメなんだぞ」 「最早詮無き事、見よ」 「お、おう」 子分の尊大な態度にちょっとびびりながら、アルウィンはそろり、振り返った。 「……~~~~~~!!!!!!!!」 旧雨声藩藩邸に子狼の絶叫が木霊した。 「恐れるな」 長い長い悲鳴に業塵が割り込む。 「御主も見たであろう、……あれぞ吾が業也」 ケタケタケタと哂う生首が巨大な蟷螂の頭と挿げ替えられている。 「ウウウウ……」 其の後ろに控える夥しい数の物の怪と亡者達は、僅か身動ぐだけでうじゃうじゃと音が鳴る様に想える程、異様だ。 堪らず身震いするアルウィンに、業塵はきっぱりと告げた。 「されど所詮幻に過ぎぬ」 故、業塵が己を保つ限り、アルウィンに危急は無い。 ――否。 仮令己が雨の如き情にほだされようと、アルウィンが傍らに在る限りは見失うまい。恰も太陽の如き思い遣りと性を宿す、この童在る限り。 「背中は任せる」 「おっおおおおお?」 懼らくまるで事態が飲み込めていないアルウィンは、併し兎に角ぶきっちょに槍を構える。既に異形共は二人を囲みつつある。だが、何するものぞ。 往く末を見届けるべく鞍沢に戻る日迄、其の後も穏やかな記憶は支えになると教えてくれた。鞍沢にて過ごした、あの愛しい毎日と同じ、けれど代わりではない、掛け替えの無い安らぎをくれた。 其のアルウィンと共闘するのだ、大妖に二度の敗北は在り得ぬ。 「―ー征くぞ『隊長』」 「おお!」 大百足の化身と小さな騎士は、獲物を番え躍り出た。 殆ど凡ての幻を瞬く間に業塵が撃砕した事、でもアルウィンも『真月』を以って自身より圧倒的に強大な数体の化け物と渡り合い、特に大百足とは激闘を繰り広げた事は、懼らく、云う迄も無い。 ※ ※ ※ 「これでいいか?」 兜を脱いでぼさぼさな髪を露わにしたアルウィンが、梅の枝を刺した花瓶を両手でぺちぺち叩く。 応えこそ無いが、邸からざらついた空気が徐々に抜けていくのを、アルウィンは肌に感じた。 尋ねた相手は既に嬉しそうに一升瓶を手にしている業塵ではなく、邸其の物――正確には花瓶の掛けられた、大黒柱に対してだった。 「お邸がすろっと南蛮(ロストナンバー)か?」 戦いを終えて後、アルウィンが業塵に言った物だ。 成る程と業塵は箱庭でのアルウィンの言動を思い返し、頷いた。 邸中に放った蟲が何処を探しても、幻以外の住人を認める事は出来なかった。 一時は、只性質の悪い仕掛けが施され、捨てられただけの場所と思った。 併し、それにしては季節の花を巡る仕組みや無人であるのに酒が用意される点などまるで神の家の如く不可解な事象も多く、疑問を感じていたのだ。 アルウィンの意見を聞き、手分けして様々な検証と反応を確かめた結果、導き出された解は、この柱がロストナンバーであると云う事だった。 どうやら彼(?)は自らが支える邸のみ想いの侭に出来る様で、過去の悪戯は凡て出来心に拠る物らしい。 此度の件に関しては、0世界の情勢と常連客とも云える業塵の観察を重ね、何某か想う処があったのか――併し業塵に怒りは湧かなかった。 帰途に着いた折、アルウィンは業塵の手をわしっと握って、見上げた。 「ゴウジン、寂しいか? ……一緒にアルウィンの家帰るか?」 自身こそ今にも泣き出しそうな寂しさを湛えて、けれど優しさを向ける童の申し出は有り難く、嬉しかったが、 「――否。儂にも帰らねばならぬ『家』がある故」 ぼそぼそと、併し邸に来た折の様に突き放しはせず、只云った。 「そうか……」 アルウィンはとっても残念そうに暫くの間俯いて。 「じゃあ明日遊ぶか! みんなで!」 やがて日向の様に眩しい笑顔で、実に画期的な提案をした。 (了)
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