楽園がその楽譜の存在を知り、コピーを手に入れたのは、アリッサが催したベイフルック邸ガイドツアーの折だった。 『凍った星』と題されたセレナーデ。 自身の中にある《エイドリアン・エルトダウン》像からは離れたセンチメンタルなタイトルだと感じた。 楽譜を追いかける限り、とても切ない曲調である。 誰を想い、誰に捧げられたのか。 音楽家はそこに何を見出していたのか。 赤の城の花宴でその存在を知り、クリスマスでは繊細で美しい彼のピアノを聴いた。 かつて妻以外に心を移すことはないと言ったその言葉とともに、まだ耳に残っている。 楽譜を手にした時、そして自身で弾きながら、叶うなら彼の手でその曲を聴きたいという想いはつのっていく。 しかし、それ以後、彼に会ってはいない。 赤の城で執り行うクリスマス会の参加も辞退していた。 人前に出ることを厭い、妻と2人きりで静かに静かに過ごすことを望み続けている。 それでも楽園は、彼に会いたかった。 では、どうすればいいのか。 思いついたのは、チェンバーへの訪問だった。 エルトダウン家の年長者にしてベイフルックの血脈を受け継ぐエイドリアンのチェンバー《ネモの湖畔》は、ガラスに描いた水彩画のように透き通って現実感が薄いのだという。 そこで聴く《音》はきっと赤の城で聴く以上に素晴らしいモノであるのだろう。「エイドリアンおじさまに会いに行くの?」 世界図書館のホールに居合わせたアリッサへ、ネモの湖畔へ向かうつもりなのだと告げた東野楽園に、彼女は幾分難色を示した。「ええ、そう。楽譜を届けにいこうと思っているのよ」 さらりと肯定で返せば、彼女の表情は更に戸惑いの色を濃くする。「……んー、エイドリアンおじさまは本当に人付き合いがお好きじゃないの。奥さんの調子があまりよくないらしくって、なおさらね。ご自身のチェンバーに人が来ることそのものを受け入れがたく思っているんじゃないかしら」 だから、と続ける。 「ただ訪問しても、もしかすると中には入れないかもしれない……」 会えないかもしれない、門前払いになるかもしれない、その可能性をファミリーのひとりとして、館長として、正直に伝えてくれる。 けれど、そこで彼女の表情がふと変わる。 抜け道を教えるいたずらっ子のような、そんな顔で笑みを浮かべる。「エイドリアンおじさまが『音』の蒐集家であることは知ってるよね?」「ええ、もちろんよ。小鳥の歌を蒐集しに行ったこともあるもの」「それだよ。なにか『音楽』にまつわる手土産があるといいかも。頑張って」 彼女は彼女なりに想いを汲み取ってくれたらしい。 だから、楽園は微笑む。 優雅に、強い意志を込めて。「ええ、ありがとう。それじゃあ、行ってくるわ」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>エイドリアン・エルトダウン(cwvc3640)東野 楽園(cwbw1545)=========
――湖畔にて待つ オフィーリア * 「エイドリアンおじさまは、来てくださるかしら」 楽園はひとり、楽譜を抱いて湖畔を歩く。 ここはガラスの板に描かれた水彩画の如く、すべてが静止した透明度の高い美しい場所だった。 現実感から遠く、まどろみの中で見る夢よりも尚儚い光景。 イングランドの気候に会わせているのなら、湖畔もまた季節は冬となる。凍えることを覚悟で訪れたのだが、しかし、《ネモの湖畔》には暑さも寒さも存在していなかった。 自分は本当にここにいるのだろうかと不安になるほど、温度も湿度も、肌は感じない。 一切が停止しており、まるで絵画の中に佇んでいるかのようだ。 視線を向ければ、広い水面にはいくつもの睡蓮が咲き誇っている。 かの花言葉は、“滅び”なのだという。 では、この静謐さは《滅び》へと向かう故のモノなのか。 あるいはもうすでに、ここには《生》ある物はないということなのだろうか。 すべてが深い眠りの淵に落ちているのかもしれないと想いながら、楽園はそっと足を止めた。 ちょうど屋敷の裏手にあたるのだろうか、薄いカーテンが引かれた二階のバルコニーが目に入る。 あそこに、もしかするとあの人はいるのかもしれない。 あるいは、彼の奥方が。 わからない。 けれど、やるべきことは決めていた。 「……おじさま、おじさまにプレゼントをお持ちしたわ」 厭世的な気難しいエイドリアンと会うためには《音》の手土産があるといい――そうアリッサは言った。 では、かのヒトはどういったものを好むのか。 何を持って美しい、良い《音楽》と認めるのか。 かつてヴォロスへと、彼の依頼で《幻影の小鳥》の歌を蒐集しには行ったが、あのような幻想的な音楽を残念ながら楽園は知らない。 ただ、楽園自身が持っているモノで、この世で最も美しいと思える《音》ならばたったひとつだけある。 「……おじさまに届くと信じているわ」 そして、楽園は歌い出す。 繰り返しピアノで弾き続けた《凍った星》の旋律に、愛しい人への想いを言の葉に変え、己の喉だけを楽器にして。 伴奏は、楽園の心臓。 鼓動。 禁忌を犯した両親が、血の繋がったふたりが、身を挺して娘を守り抜いた彼らが、事切れる最期の瞬間まで自分に聞かせてくれた《命の音》を添えて、エイドリアンへ捧げる。 セレナーデに乗せて綴っていくのは、愛しい人への想い。 愛しくて、殺したくなって、追いかけて、追いついたと思って、でも結局何も変わらないまま、近づくことも、離れることもできないままに、惑いながらも募らせていった隻腕のあの人への想いが詩となる。 手を伸ばしても、届かない。 手を伸ばそうとしても、これ以上にはもう伸ばせない。 手を伸ばして、触れたと思えたその瞬間、指先が切り裂かれるような鋭い痛みに襲われる。 手を、伸ばせなくなりそうだった。 手を伸ばすことの恐怖に、心が複雑に揺らぐ。 あの人のすべてを自分のモノにしたい、自分のモノにならないのなら壊してしまいたい、なのにどちらも為し得ないままに、揺らぎ続ける。 楽園は歌う。 愛するとはどういうことなのか。 愛が伝わるとは、どういうことなのか。 はじめは、ただひたすらにピアノを弾き続けた。一音節、一音も違えず、完璧に演奏できるまで繰り返し繰り返し。 次には、エイドリアンの《詩》を曲に乗せた。 《湖畔にて》――彼の詩集は、雪と氷に閉ざされた光景から、穏やかな光の射し込む春へ、そして夏、秋と、移りゆく四季を美しく繊細に描き出していたから。 そこに彼の想いを見出せはしなかったが、彼のひどく静かで真摯な眼差しは感じた。 けれど、やがて唇をついてあふれ出てきたのは、あの人への想いだった。 この感情が恋なのか依存なのか、もっと別の何かであるのかすら分からず、見失いながら、どうしようもない孤独が募り続けるままに織り上げられていったのが、今の歌だ。 エイドリアンは、愛する妻に曲を捧げるのだという。 妻以外に心を移すことはないのだとも。 愛する妻とは、前妻のことなのか、それとも今の妻のことなのか、エイドリアンが見ているのは一体誰なのか。 誰かの代わりに、相手を好きになる。 代償のように誰かを求めることは罪とはならないのか。 エイドリアンに重ね見るのは、亡き父の面影。 隻腕のあの人に重ね見るのもまた、行き場を失ったままの慕情を始まりとしていた。 そうして始まった自分の恋情は、歪み、捩れて、もう元には戻せない。 塀から落ちたハンプティ・ダンプティのように、一度壊れた心はもう、二度と元には戻らない。 エイドリアンはどうなのだろう。 彼女たちは手を伸ばしたのだろうか。 彼女たちなりに、必死に彼に向けて手を伸ばしたのだろうか。 では、エイドリアンは、どちらの手を本当の意味で取ったのだろうか。 前妻を愛しているのなら、再婚した意味が分からない。 今の妻を愛しているのなら、前妻の存在とは一体何だったのか分からない。 矛盾に満ちたその行動、その心の所在はどこにあるのだろう。 凍った星は、誰に捧げられた想いなのだろう――? 「……歌っていたのは、きみだったか」 歌と歌の間、ほんのわずかな間隙へ差し込まれた静かな声に、楽園は弾かれたように振り返った。 「おじさま!」 いつの間にそこに居たのだろうか。 求めてやまなかった相手が、自分の背後に佇んでいる。 「何故ここにいる? あの気の触れた娘のように、水面にでも浮かぶつもりか?」 言葉だけを聞くならば、責めているようにも取れる。 けれど、楽園を見つめる音楽家の瞳は、どこか哀しげな痛みを湛えていた。 「エイドリアンおじさま? どうしてそんなカオをなさっているの? 私はただおじさまに会いたくて、どうしてもお話がしたくって、それだけだったのに」 そのためならば、いつまでも歌い続けよう。 例え喉が切れたとしても、想いを捧げひたすらに歌い続けると、ただそう決意しただけなのに。 エイドリアンが自分に向ける眼差しが深く傷ついた色をしており、それが自分に向けられていることに戸惑う。 だが、彼は明確な言葉では答えない。 かわりに静かに告げる。 「手を伸ばし、掴みたいと望むのならば、きみは力の入れ方を考えなければならない。手に入れたいモノがあるのならば、握りしめて窒息死させない加減を学ばねばならない」 不愉快であると怒っているのではないことは分かる。 諭されているのだとも、分かる。 楽園には分からない深い哀しみを湛えた眼差しで、まるで遠い過去から湧き上がってくる切なさが寄り添っているかのように、彼は言葉を繋ぐ。 「でなければ、自身が意識しないままに、あらゆるモノを、最も大切にしたいと思うモノを、その手で握りつぶしてしまうだろう」 「おじさま、それは……」 それは、あなたの経験が言わせていることなの。 そう言葉になりかけたけれど、ソレより先に、エイドリアンが視線を湖へと逸らし、問いかけてきた。 「……きみはナイチンゲールを知っているか? アンデルセンという男が作った童話だ」 不意に変わった言葉の行き先。 けれど、あえて楽園は頷きで返す。 「ええ。昔、母が読んでくれましたわ」 返してから、ふと胸に去来する懐かしさとともに、心に突き刺さった喪失の棘が小さく疼いた。 ナイチンゲール。 贅の限りを尽くした中国の皇帝は、宮廷を訪れた誰もが口を揃えて《もっとも素晴らしきもの》だと告げるナイチンゲールの、その歌声を求め、彼女を迎え入れた。 宮廷でさえずる彼女の歌声に誰もが深く感動する。 けれど、日本から贈られた精緻な細工である《小夜啼鳥》が来てから、宮廷の誰もが疲れることを知らない絡繰の歌声に心を移してしまった。 美しい声を持ちはしても煌びやかさのカケラもない小鳥より、同じ曲を同じように歌い続けるカラクリを、宝飾で彩られた見目麗しい細工を、絢爛豪華な宮廷に棲まう人々は求めたのだ。 ネジを巻き、歌うカラクリを彼らは讃える内に、いつのまにかナイチンゲールは宮廷から姿を消してしまった。 だれもがその《喪失》の重みを、犯した過ちを、認識してはいなかったのだろう。 だが、皇帝が病の淵に立ち、歌を望みながらもそれを叶えられずにいた時、彼女は再び姿を現した。 彼女はただ歌う。 自身の歌に涙してもらった喜びを糧に、彼女は誰を疎うでもなく、何を恨むでもなく、ただひたすらに聴くモノの心に歌を届け続ける。 彼女の歌だけが、死に神に魅入られた皇帝を救ったのだ。 「この童話の意味を、君はどう捉えるのか分からないが」 そう前置きして、エイドリアンは再び楽園に視線を戻した。 「妻が、小鳥が歌っていると私に告げてきた」 「え」 「愛らしい金糸雀が湖で哀しく歌っているのだと。きみの歌は、彼女の耳に届くようだ」 「奥様に……」 「このような場所に己の命を捧げることはない。だが、魂の内から迸り紡がれる《音》は、確かにヒトの心に響く」 もしかすると、楽園の選んだ方法は誤りだったのかもしれない。 会いたいと望み、病床の奥方を煩わせたくないと願い、そうして選び取った行動は、正解ではなかったのかもしれない。 本当なら、もっと穏やかに、優しく、お茶を飲みながら話せるような方法があったのかもしれない。 それでも、彼は楽園の《音》を認め、ここまで来てくれたのだ。 彼に会えたのなら、聞きたいことはまだあった。 「……おじさまは奥様を愛してらっしゃるのね……でも、静謐を望まれるおじさまが、なぜ人生最大とも言える転機を、結婚という変化を受け入れたのか、知りたいと思ってはいけないのかしら? 奥様との馴れ初めを、聞かせてはいただけないかしら?」 ソレはまるで、自身の想いの行く先を見失った揺らぎに惑い、両親の出会いを知りたがる子供のようでもあったのだろう。 しかし、彼はゆっくりと頭を振った。 「きみが期待するものは何もない……答えとなるべき答えを、きみが望んでいるのだろうものを、私は持ち合わせてはいない」 踏み込んではいけない領域がそこに在るのだと、言外に告げられる。 そして、気づく。 もっとも聞きたいことは、彼の想いの所在、愛の所在、愛する妻という存在をどこに置いているのかという問い。 歌に乗せて綴った問い。 だが、静かな拒絶が見て取れてしまって、彼が抱える傷の深さが見えてしまって、その質問を口にすることができなくなった。 エイドリアンは、絶望している。 深く、静かに。 理由は分からないけれど、すべてはこの場所に答えがあるのかもしれない。 「……おじさま」 滅びの予感に満ちた静謐の湖は、そのままエイドリアンの心象風景でもあるのだろうか。 現実感の遠い、時の止まった世界で、彼は二百年という時を妻と2人きりで過ごしてきた。その重みを感じながら、楽園はじっと彼を見つめる。 ガラス細工の景色の中で、彼と正面から見つめ合う。 初めて真っ直ぐに、彼と向き合ったような気がした。 「そういえば、ヴォロスから《幻影の歌》を届けてくれた礼を、私はまだきみに直接言っていなかったな」 エイドリアンの瞳が、ふ…、と柔らかな色を宿す。 「ありがとう、良い曲だった」 「どういたしまして。おじさまの依頼でしたら、私は喜んでいくらでもどこへだって参りますわ」 だから、そっと楽園も微笑み返す。 そして、 「おじさま、この曲を奥様に弾いてさしあげて。私、この楽譜をおじさまにお渡ししたくて待っていたんですもの」 胸にずっと抱いていた《凍った星》の楽譜をエイドリアンへと差し出し、彼が手に取ったのを見届けると、 「奥様の回復を心から祈っているわ」 くるりと黒いドレスの裾をひるがえし、長く艶やかな黒髪を踊らせて、楽園はエイドリアンの脇をすり抜け、駆けだした。 今度会う時は、優しい音を手土産に、彼の元へ訪れよう。 そう決めて。 想い人と過ごす銀幕の時を経て惑いの森を抜けた少女は、髪を切り、そうして鮮やかに過去への決別を果たしてみせるのだが。 そして、偶然にもエイドリアンのピアノに合わせ、新たなる歌をターミナルで披露する機会を得ることになるだが、ソレはまた別のお話。 END
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