それはいつも通りの朝でありました。 いつものように主であるルーサー・クロウリー様の朝食をご用意し、日課である新聞を手渡しました。 そして、近頃話題沸騰の通り魔殺人の記事に目を通し、徐に主は仰ったのでございます。 「これだけ被害者がいるのなら、この先一人位欠けたとて、捜査の邪魔にはならないよねえ」 どうやら主は稀覯の魔導を求道する崇高なる知的欲望の為、新鮮な死体をご所望のご様子。 用途は愚昧たる我に知れる由もなし。 「ヤードより先んじ、一つ拝借してくるといいよ。くれぐれも僕には迷惑を掛けぬよう」 拝命した私は、その日に下層階級の住まう混沌とした地区へと赴いた次第にございます。 ラグレスが向った先は、屋敷のあるウエストエンド地区とは正反対に位置するイーストエンド地区であった。 足を進めるほどに、都会的に洗練された街並みは生活臭が溢れる乱雑な街並みへと変貌していく。 イーストエンド地区には河が曲流しており、至るところにドックが建ち並び、雑然と軒を連ねる家々からは話声や笑い声が漏れる。 (主がご所望しておりますのは新鮮な死体。となれば、犯人の殺害を見届けた後、速やかに死体を回収しなければなりませんね) 貧困層の住人が多いここでは、表情こそ乏しいが紳士然とした出で立ちのラグレスような人物は嫌でも目立ってしまう。 しかし、周囲から浮いていることをラグレスは全く気にしないで思うままに足を進めていた。 ラグレスは被害者として上がった浮浪者へと聞き込みを始めた。 (さて、どの浮浪者から話を聞けばよいものですかね) 良案が思い付かなかったラグレスは、目に付いた浮浪者に片端から声を掛けてみることにした。 「なんだぃ、あんた?」 その浮浪者は警戒心を剥き出しにしていた。 「この辺りで起きている殺人事件について、ご存知の事があれば教えて頂きたいと思った次第であります」 「ボタン買ってくれ。そしたら知ってることを教えてやる」 「畏まりました。幾らお支払いすればよろしいのでしょうか?」 その言葉を真に受けたラグレスは躊躇せず提示された金額を支払った。 「この先のドッグの近くに、事件があった時に傍にいたらしいヤツがいるはずだ。まだいるかは知らねぇ」 打って変わって上機嫌になった浮浪者の口は軽くなった。何せ浮浪者が提示した額は相場の倍以上であったのだ。 ラグレスは丁重に礼をすると、早々にその場を後にした。遠ざかるラグレスの背に、浮浪者は声を張り上げた。 「Mr.何かあればまた遠慮なく聞いてくれ!」 数日後、ラグレスは大量のボタンや縫い糸を前に頭を悩ませることになった。 娼婦も被害者にいたことから、ラグレスは娼婦にも話を聞いて回った。 娼婦が街に出始める日没前から聞き込みをするため、主に早めの夕食を用意してからラグレスは出発した。 道端に立ち並んだ娼婦たちを前に、誰から話を聞くべきかと娼婦たちを眺めていると、それを品定めしていると勘違いした娼婦が秋波を送ってきた。 しかし、娼婦を買いに来たわけではないと知ると、たちどころに興味を失くして立ち去っていく。 そんな中、かえって興味をもった物好きな娼婦から話を聞く事が出来た。 「知り合いっていえば知り合いだよ。でもねぇ、あたいたちはお互いの過去の詮索はしないよ。ワケありでこういう商売してんだからさ、好き好んで吹聴してるのは別として普通は喋らないね」 姐御肌の気風の良い娼婦であり、今までの娼婦のように体を絡ませようとしてこないのがラグレスには有難かった。 「それにしてもさ、死んだ女なんかより生きてる女に興味ないのかい? あんた綺麗な顔してるじゃないのさ。やだ、ほんと綺麗な肌してるわ。まるで人形みたいじゃないの」 艶やかに笑って顔を近づけてきた娼婦は、不思議そうに呟いた。 「身に余る光栄ですが、わたくしでは貴女をご満足させられないと思います。心苦しいですが失礼させて頂きます。貴重なお話をありがとうございました」 ラグレスは一礼すると早々にその場を離れた。 数日後、娼婦は互いの過去に深く干渉しないことをラグレスは知った。 日が沈む少し前、いつものようにラグレスはイーストエンド地区に訪れた。 今日はどの辺りの娼婦に話を聞いてみようかと考えるラグレスの前に立ち塞がった者たちがいた。 「失礼」 気にする素振りもなくラグレスは横を通り抜けようとしたが、肩を掴まれて足を止めざるを得なかった。 「私は何もしていませんよ。最近は歩いているだけで取り締まられるようになったのでございますか?」 「最近、通り魔殺人について聞いて回っているのはMr.ですか?」 「まだ質問に応えて貰っていませんが?」 ラグレスは振り向こうとはしなかった。 「いいから応えろ!」 「嘆かわしい限りです。街の治安を守る番犬でありながら、恫喝紛いの行為をするようではヤードの品性が窺い知れるというものでございます」 声を荒げる若い警察官に、ラグレスは大仰に肩を竦めた。それに詰め寄ろうとしたのを止めたのは、もう1人の壮年の警察官だった。 「歩いてるだけで罪になりませんよ。話を聞きたいだけです」 「通り魔殺人について聞き回っているのは、私です。不都合でもございますか?」 肩を掴んだままの手を振り払いながら、ラグレスは振り返った。 「ああ、不都合があるんだよ。娼婦や浮浪者ならともかく、Mr.みたいな人に万が一があれば事が大きくなり過ぎる」 「それなら御心配は要りません。自衛手段もなく治安の悪い場所を歩き回るほど私は愚かではありません。ご忠告は感謝致しますが、私の身を案じる暇があるのでしたら、犯人逮捕に力を注いで欲しいものですね」 前に出ようとした若い警察官を、壮年の警察官が手で押えた。 「ご意見ごもっともですな。それではMr.良い日を」 「ごきげんよう」 その日、ラグレスは早々に主の下へと戻った。 「ヤードの世話にはならないようにしろと言ったんだけどね」 「申し訳ありません」 頭を下げたまま微動だにしないラグレスに、ルーサーは見向きもしなかった。 「それで、これからラグレスはどうするんだい?」 「殺害が行われるのは、夜半から明け方に掛けてのようでございます。ルーサー様にお許し頂けるのであれば、本日より夜半から明け方に渡り網を張ろうかと思います」 「いいよ、いってらっしゃい。ただし、次はないからね」 「畏まりました」 ラグレスはその言葉の意味を正しく理解していた。 夜の帳が下りた頃、ラグレスはゲル状となり屋敷を抜け出しイーストエンド地区へと向かった。 ガス燈の儚い光が照らす道を避けて、水溜りのように広がったラグレスが滑るように動く。 (この姿の方が余程早く移動できますね。主に給仕するには都合が良いですが、人の姿は不便なことも多いものです) ガス燈の設置が間に合っていないイーストエンド地区は、大半が闇に沈んでいる。 その一画に身を置いたラグレスは、ゲル状の体から小さな塊を無数に切り出して街中へと走らせた。 (主のためとはいえ、全域を見張るために一晩中動き回るのは大変そうでございます) 東の空が白み出す頃、ラグレスは全ての体を回収すると主の朝食を用意するために屋敷へと急ぎ戻った。 数日間、夜半から明け方にかけての殺人犯の探索は続けられた。 (今日も事件は起きそうにありませんね。ヤードが警戒している中で、事件を繰り返すほど愚かではないのかもしれません) ともすれば緩慢になりそうな思考に喝を入れながら、無数に分裂した自分の体をラグレスは動かしていた。 夜は探索、日中は主の身の回りの世話と雑事、今のラグレスには休憩する時間がなかった。 いつも通りの食事で養分は賄えているが、仕事量はいつもより遥かに多い。この程度で行動不能にはならないが、疲労は溜まる。 そのため、ここ数日、ラグレスにしては珍しく空腹を覚えるようになっていた。 周辺に分散している体から入ってくる情報を大人しく整理している時、その一つが血の匂いを感じ取った。 すぐに向ったその場所には、娼婦が春を売る時に利用しているであろう古びた家屋があった。 辺りに人の気配がないことを確認したラグレスは、ゲル状の体まま扉や窓の隙間から忍び込んだ。 狭い部屋の中には、簡素な作りの寝台と衣装掛けであろう台が一つずつあり、血の臭いで満ちていた。 その原因は寝台の上で横たわる一人の女性。腹が切り裂かれており、寝台はじくじくと血で染まっている。 家屋の隙間から次々と侵入してくる自分の欠片を集めつつ、ラグレスはいつもと同じ姿に擬態を始めた。 (新鮮な死体は見つかりましたが、破損している可能性は考慮しておりませんでしたね。これ以上主の不興を買うわけにはいきませんし、どうしたものでしょうか) 臓器の一部が持ち去られた凄惨な死体を前に、ラグレスとしては至って真剣に悩んでいた。 そのせいだろうか、扉の鍵を開ける音がするまで何者かの接近に気が付いていなかった。 振り向いたラグレスが見たのは20代の若い男であった。目の前の光景が理解できないのだろう、彼は目を見開いたまま止まっていた。 「こんばんは、静かな夜ですね。御呼び立てしたのですが、どなたもいらっしゃらないようでしたので。失礼とは思いながら、勝手にお邪魔させていただいております。無作法の程はなにとぞご容赦くださいませ」 ラグレスは帽子を手に取り、優雅に一礼した。そこだけ切り取れば、社交界の一場面のように見えただろう。 しかし、ここは血の臭いの満ちた古びた家屋、ラグレスの後ろには目を背けたくなるよう無惨な死体が横たわっている。 その異常性が、扉を開けた男の意識を無理やり戻した。 それに気づかず、頭を上げたラグレスは男に交渉を持ちかけようとした。この部屋と同じ血の臭いをさせている彼が犯人だろうと予測はついた。 「そして、ものは相談と申しますが、この女性の死体をゆずっ」 ラグレスの言葉は胸に突き立ったナイフに無理やり刺し止められた。何故いきなり刺されたのか理解できないラグレスは不思議そうに首を傾げた。 男はナイフを引抜くと、慣れた動作でラグレスの首を掻き切って素早く離れた。倒れるラグレスの返り血を避けるためだったのだが。 「無作法をお怒りなのはよく解りました。それでは、無礼のお詫びを兼ねそちらの提示した金額で買わせて頂きたいと思いますが、いかがでしょうか?」 ぱくりと開いた首を手で一撫ですればラグレスの首は元通りになり、返す手で胸元を撫でれば傷はおろか服まで元通りになっていた。もちろん、血など出ようはずもない。 「ば、化け物だと!?」 「違います。わたくしは、とある偉大な魔導師の手により生み出された存在でございます」 「そんなもの迷信のはずだ!」 「迷信でも与太話でもございません。そうでなければ、わたくしめは生まれておりません。話を戻させて頂きますが、如何ほどお支払いすればよろしいのでしょうか?」 「化け物に私の芸術を奪われてたまるか!」 興奮した男が再びナイフを構えてラグレスへと突進してくる。 しかし、ラグレスを避けもせずナイフを体で受け止めると、そのまま体の一部をゲル状にして男の体に巻き付いた。 そのまま体を伸ばし、男の口も縛り付け声を封じる。 「少し声を抑えて頂けますでしょうか、ヤードも巡回しているというのに貴方の言動は些か思慮に欠けていると思われます」 男は抜け出そうと暴れながらくぐもった声を上げている。 「ここは落ち着いて話合いましょう。貴方はこちらの死体を譲りたくない、わたくしは新鮮な死体を必要としている」 必死に暴れる男を尻目に、ラグレスは冷静に話合おうとしていた。 「そうなりますと、もう一つ新鮮な死体があれば問題は解決するのですね」 そして、あることを思い付いた。 「そういえばご所望なのは新鮮な死体であって、女性である必要はありませんね」 感情の読めない三白眼が暴れる男を静かに見詰めた。 その夜以降、同一犯によると思われる通り魔事件は収まった。 その代わり、未解決事件として資料庫に保管される書類が一つ増えた。 「主のご所望する新鮮な死体に、久しぶりの食事。やはり真面目に仕えていれば、報われるものでございますね」
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