「……お願いします」 ただそれだけを、無名の司書は言った。 *-*-* 比翼というならば、比翼には違いない。 しかしこの《比翼の迷宮》は、何という哀しい佇まいだろう。 黒曜石で形成された巨大な翼が互い違いに鋭い破断面を――黒曜石の破片は古来より「刃物として使える」鋭さを持つ――見せている。 この大陸を空から俯瞰したならば、両翼を広げた鳥にもたとえることができる。しかしこの迷宮は……。 鳥の両翼を強引にもぎ取ったうえで、それを交差させたようにも見えるではないか。 その異様な形状を前に、旅人たちは立ちすくむ。 まったく似てはいないのに、破壊された世界図書館をさえ思い起こさせる無惨さだ。 ぴしり、ぱしり。黒曜石の翼は鋭利な刃物となり、じわじわと浸食を広げている。 霊峰ブロッケンを、いや、フライジング全体を覆いつくし、比翼の大陸をすべて巨大な迷宮にしてしまえと言わんばかりに。 ――そして。 迷宮への入口とおぼしき場所からは、次々に、黒曜石の刃が繰り出されているのだった。「なによ……。何なのよ」 白雪姫が、がくりと膝を突いた。自身の持つ強大な魔力を全て解き放った彼女は、すでに満身創痍だった。「入口通路へ入るのも大変って何なの。戦闘力0なシラサギだったくせに。生意気よ」 酷使が過ぎてヒビだらけのトラベルギアに、泣きそうな顔が映る。その肩を、ジークフリートが叩いた。「おまえはよく頑張ったよ。もう十分だ。皆も来てくれたことだし、帰って医務室に行ったほうがいい」 そういう彼もまた、切り傷だらけで血まみれの状態である。トラベルギアの剣はとうに折れていた。 旅人たちが《比翼の迷宮》への路を開いてくれたという報を聞くや否や、白雪姫とジークフリートは現地に駆けつけ、対応にあたっていた。だが、世界計の欠片を手にした《迷鳥たち》のちからは圧倒的だったのだ。「……勝てないわ。どんな旅人だって《力》じゃ勝てない」 白雪は唇を噛み締め、とうとう、ぽろぽろと涙をこぼす。 その頭上に、この世界の真理数が点滅しているのを、ジークフリートは痛ましげに見た。 *-*-* 迷宮の最奥で、シオンはゆっくりと身を起こす。(あれ……? おれ、なんでここに……?) ところどころ、記憶が飛んでいる。(つーか、今、クリスマスディナーの仕込みで一番忙しい時期じゃんか。早く店いかねぇと店長にどやされ……) 髪を掻きあげ、ふと、手を見る。 べったりと血糊がついていた。彼自身の血だ。 全身を見回し、黒く変化した翼を確認し――、 すぐ隣で、放心状態で宙を見つめているオディールを確認し――、 美しかった銀の翼を、とうに黒く変えてしまったオディールが、気を失ったラファエルを抱きしめているのを見――、 その髪に、ラファエルの翼と同じいろの青いクリスタルの羽根飾りが――世界計の欠片があるのを見――、 そして、ようやく思い出す。「ああ、そうだっけ。おれ、侯爵を開放しろ、つって、おまえと戦闘して玉砕したんだっけ」 代わりにおれが、そばにいるから、と。 しかしそれは、受け入れられなかった。 だめか。やはりだめか。 同じ魔物になったなら、おまえの気持ちを汲めるかもしれないと思ったのだけれど。「ちっくしょー、パネェなあ世界計め」 わかってる。 おれじゃだめだ。 おれじゃだめなんだ。 おまえが欲しかったのは、その男だけなんだから。「けどさぁ。いい加減、許してやれよ」 許してやれよ。おまえを愛せなかった、その男を。 愛してやれよ。その男に愛されなかった、おまえ自身を。 でないとおまえは執着という怪物に囚われたまま、この世界を滅ぼすことになっちまう。「殺して気が済むのなら、そうすればいい。だけどおまえは、結局誰も殺せないままに苦しんでいるんじゃないか」 どこでもないあの世界でも、何人も見て来た。 苦しみ続けている旅人たちを。 あれは、よるべない迷子たちの街。 あの街こそ、その奥底に怪物を内包した、おそろしい迷宮だ。 矛盾だらけでも。綻びだらけでも。 それでもおれは、あの歪んだ街が好きだった。 自分勝手でわがままで、無軌道で残酷で、もろくてやさしい旅人たちが好きだった。「……ねぇ、シオン」 宙を見つめたまま、オディールが口を開く。「シュテファニエは、誰が、殺したんだと思う?」 「さあな。何でそんなことを?」「……わからない。でも、気になるの……」 シルヴェストとシュテファニエは、黒鳥の兄妹だったと聞くけれど――【注意】(1)このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。(2)長編シナリオ【最後の迷宮】は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。(3)このシナリオは、プレイング受付期間終了後、結果を先に「判定」いたします。結果によっては、パーティシナリオや関連するシナリオが、今月中に運営されるかもしれません。
誰かを想うということ。 それは他人にいくら阻まれたからといって容易に諦めることのできる行為ではない。 阻むのが自身の持つ『何か』であったとしても、それは容易に止めることは出来ないものだ。 否。誰に、何に阻まれたからとはいえそれをやめる必要はないのだ。それは本能、それは呼吸。ごくごく自然なことだというのに。 なぜ、認めてあげないのですか。 なぜ、受け入れてあげないのですか。 なぜ、あなたはそうして自らの呼吸を止めようとするのですか。 それを御しきれないことに恐れを感じておられるのですか? そんなこと、誰にも出来はしないのに。 恐れるだけ、無駄なのに。 それと一番相性の悪いものを教えてあげましょうか? ――『挟持』です。 挟持はすべての『想い』に覆いをかけ、すべての『想い』を深く沈めてしまう。 時には『生きること』さえ封じてしまうのです――。 トリの吟遊詩人 ヴェンツェル・エルンスト *-*-* 黒曜石で出来た迷宮は、まるで喪服を纏っているかのようだった。 誰の死を悼んでいるのか――シュテファニエ? それとも……『己』の一部? 冷たい熱しか宿さない黒曜石はその熱と鋭さをもって、迷宮内に侵入を果たした旅人たちを拒絶する。 それはそのまま《迷鳥》たちの心を表しているようで。 二重螺旋の階段を降りつつ、この先に待つ『彼女』心境を想像する。 そもそも他人の気持ちなど、簡単に理解すること叶わないもので。完璧に理解することなど出来ぬもので。 けれども心沿わせて『想像する』ことは可能だ。 「――俺は、シオンさんの許へ行きます。どうか皆さん、オディールさんとラファエルさんをお願いします!」 片方の道を往く若いコンダクターがこちらの道を往く者達に声を掛けた。一部の者を除いてそれに頷いたものの、心中は穏やかではなかった。 あちらの道を往く者達は少なからずシオンと面識があるのだろう。だがこちらは――情報としては知っていても、初対面だ。そんな自分達の言葉や心が、全てに心閉ざしたように《迷鳥》となってしまったオディールに届くのだろうか――……一抹の不安は拭えない。 ただ、諦めてはいなかった。諦めていたら、はじめから足を運んでいやしない。 一歩一歩階段を降りていくにつれ、旅人たちを包む空気が彼らへの拒絶を強くする。 女王にも女にもなりきれなかった憐れな鳥が、心絞って啼いている。 ――わらわに近づくな。帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れかえれかえれかえれカエレカエレカエレカエレ…… 全力の拒絶の中にひと欠片だけ、見つけたから。 ―― タ ス ケ テ ―― 己を己自身でがんじがらめにしてしまった彼女が、口にだすことを自ら禁じてしまった想い。 想うことさえ、禁じてしまったのだろう、だから。 心の叫びを凝らせたかのような黒い刃が旅人たちを襲う。 己の中に棲む相反する感情の制御を手放したかのように、刃は飛び交い、旅人たちを傷つける。 刃を避け、あるいは叩き落とし、旅人たちは最奥へと足を進めていった。 * 「……変ですね」 「あんたも気づいたか?」 ヴィヴァーシュ・ソレイユの呟きに反応を示したのはヴァージニア・劉だ。ええ、と頷いたヴィヴァーシュは続ける。 「階下に向かうにつれて、明らかに攻撃が減っています」 「ああ。あれだけ抵抗していたのが、てんでおとなしくなりやがった」 確かに、上方にいるときはあれほど激しかった攻撃が、最奥に一歩一歩近づくにつれて弱くなっている。頻度も減っていた。 「先程まで満ちていた殺気が、感じられん」 飛天 鴉刃はその職業柄とでもいおうか、殺気を感知するのには長けている。その彼女がそういうのだから、これは確かなのだろう。 「オディールさま……いかがなさったのでしょうか」 「大丈夫ですよ、きっと」 我が身のことのように悲しげに表情を歪めた黒嶋 憂の肩にそっと手を置き、ローナは共にきざはしを降りていく。 「女王様が諦めきってしまう前に、急がないとねー」 いつもの様に軽い調子で言葉を発したのはマスカダイン・F・ 羽空。けれども彼は笑顔の下に、オディールに教えたい、気づかせたいことをたくさん抱いている。先の言葉は自分にあてたようなものだ。 「急ぎましょう!」 タタタッと軽快に数段降りて、司馬 ユキノが仲間達を振り返る。頷き、軽い返答、視線での承諾――様々な形で同意を示すロストナンバー達。 しかしただ一人、ずっと視線も合わせず会話にも加わらず、下を向いたままの少女がいた。 他者を拒絶したような彼女、吉備 サクラ。 皆の関心は当然のことながらオディールに向いている。 だから誰一人、彼女の様子に触れようとし者はいなかった。 誰にも触れられないよう、彼女は振舞っていた。 * 最後の迷宮の最奥――そこに迎え入れられたロストナンバー達は、その場の異様な空気感に息を呑まざるを得なかった。 血まみれのシオン、気絶したラファエルを抱いて放心したような黒い翼の女性――オディール。 黒く染まった翼に、毛先に近づくにつれて黒く染まっていく銀の美しい髪が映える。常であればその魔性のもののような美しさに見とれてしまいそうなものではあるが。 掻き抱いていたラファエルの上半身を自分の膝の上に乗せ、乱れた彼の髪を優しく撫でるオディール。 白く細い指先で頬を撫で上げ、そっと目尻に触れて。 彼女は心を手放してしまったのだろうか。一瞬、ロストナンバー達の間に浮かんだ疑問。けれどもその解は、彼女のすみれ色の瞳を見れば明らかだった。 ラファエルを見つめつつも時折揺らぐその瞳には迷いが浮かんでいて。 まるで足枷のせいで自由に飛び立てぬ小鳥のよう。 (心を手放して、この御方のことだけ見ていられればどれだけ楽だろうか) さらさらと指の間からこぼれる青い髪は、まるで彼女の手に入らぬこの人を表しているかのよう。 想い募って『迷鳥』となってしまった今でも心のままに振る舞えぬのは、恐らく挟持と優しさのせい。 (今、まさに手の中にあるこの御方をこのままわらわだけのものにしてしまえれば――) 今のオディールにはその力があるはずだ。耳に揺れる世界計の欠片が彼女に味方してくれる。けれども。 保ってきた挟持が、虚勢を張るのに力を発揮していた挟持が、最後の最後で邪魔をする。 意のままに、欲のままに、本能のままに動こうとする心を押しとどめている。 そんなもの、全て捨てて彼だけ見ることが出来たならば、きっともっと楽になれただろうに。 けれどもオディールは、彼女のすみれ色の瞳は正気を捨てられていない。 (嗚呼、苦しい、苦しい、苦しい――) 漸く彼を手にしたというのに。今のうちに自分のものにしてしまえばいいのに。けれども好き放題してようやく彼に手を触れた今だから思う。 (わらわが欲しいのは……) * ロストナンバー達がある程度近づいても、オディールが攻撃してくる気配はなかった。ラファエルを離す気配もなければ、迷宮内への侵入者へ意識を向けようともしなかったが。 それはまるで殻に閉じこもっているようにも見えた。 どうする――ロストナンバー達は一部を除いて無言で視線を交わし合う。それぞれオディールに言いたいことはある。けれども一度に見ず知らずの者達が多くの言葉を投げかけても効果的ではないだろう。一言ずつ言葉を投げ合うよりは、一人ひとりじっくりと思いを伝えたほうが染みこむに違いない、そう判断して誰もが自分の出るタイミングを推し量っていた、その時。 ひとり、オディールに近づいた者がいた。誰とも決して目を合わせようとしなかった少女――サクラだ。 ■ 吉備 サクラ ■ オウルフォームのセクタンゆりりんを肩に乗せ、ロストレイルの中でも意識して皆と離れて座っていたサクラは、何があろうとも抱きしめるようにして守っていた保温水筒を今一度ぎゅっと握りしめた。深呼吸をする。迷宮内の空気が、深く深くサクラの身体に入り込む。恐らく皆が感じているのとは別の緊張感が、サクラを満たしていた。 ゆっくりと足を動かす。オディールへ向けて。 もしオディールの気が立っているようなら、この時点でさえ自分の接触を拒むようならば、攻撃されても構わなかった。何をされたとしても、サクラがしたいことは変わりないのだから。 「オディールさま、お寒くありませんか。毛布と紅茶を献上させていただけませんか」 保温水筒と羊毛毛布を手に近づきつつ、サクラは声を絞り出す。 「貴女を害するつもりは欠片もありません。貴女のお話を伺いたいです」 「……わらわの話、じゃと……?」 「はい、そうです。会ったばかりの私に話しづらければ、まずは私がお話をします」 キュッ、保温水筒の蓋を開けて、コップ代わりになるその蓋にこぽこぽと紅茶を注ぎ込む。乾いた血の匂い漂う殺伐とした空間に、暖かい湿った湯気が漂った。 「どうぞ」 サクラは笑顔でコップを差し出したが、オディールは受け取ろうとしなかった。しかたがないので「冷めないうちにお飲みくださいね」と声を掛けて彼女の前に置いた。そしてサクラは膝をつき、オディールの喉元あたりを見つめる。これで相手には顔を見て話しているようにみえるだろう。 なんとなく、オディールとも目を合わせづらかった。考えていることを読み取られては困るという無意識がそんな気持ちを抱かせるのか。 「迷鳥は想いを昇華することで卵に還り、もう一度生まれ直す事が出来ます。そうして新たに家族を得て愛され慈しまれて育てられ昇華した想いを完全に満たす術を得るのだそうです」 「……」 ぴくり、オディールの指先が一瞬跳ね、ラファエルの髪を梳くのをやめた。興味を持ってもらえた、サクラの中に確信が生まれる。 「シュテファニエ――《始祖鳥》の話を聞きました」 「……シュテファニエ」 「その方は、迷鳥になって生まれ変わられたのではないでしょうか」 サクラはそのまま持論を展開する。それが、オディールにどのような思いを抱かせるか、考えてはいないのだろう。否、考えてはいたとしても――。 「新たな生と名前を授かり、一番愛しい方の娘になられたのでは? だからシュテファニエとしては消えてしまった。私は1番深い愛は親子の愛ではないかと思います」 「それは――わらわも卵に還って生まれ変われということか」 「そ、それ……は」 オディールの発した声は冷たかった。サクラの背筋をぞわりとなで上げるような威厳、威圧感。女王の御前であることを思い出させるに十分であるもの。 「わらわも生まれ変わってヴァイエン候の娘となって親子の愛を注いでもらえばいいということか? わらわが《迷鳥》を……『あの女』を羨ましく思うたから、同じ道を辿ってヴァイエン候の愛を得ろ、そういうことかえ!?」 「お、落ち着いてください。た、確かにそれもひとつの方法かもしれません」 すみれ色の瞳は拒絶を宿している。それがサクラには感じ取れただろうか。憤るオディールをなだめるために立ち上がり、羊毛の毛布を広げてサクラはオディールの背後へと回る。 「貴女は優しい方です、今でさえ侯爵がお寒くないよう庇っていらっしゃいます。独り占めしたいだけなら手元から逃がさぬようにするだけなら、幾らでも酷い手段が取れました。貴女はそれを1つも良しとしなかった」 そっとオディールの肩に羊毛の毛布を掛ける。拒絶はされなかったが、オディールはサクラを振り向こうともしない。拒絶されなかった、それは受け入れられたとは違う。サクラはそのまま毛布のかかったオディールの肩にそっと手を触れ、優しくささやいた。 「貴女の想いを満たせる方法を一緒に考えさせていただけませんか」 だが。 バシッ! 乾いた音が空間に響く。鋭い痛みが自分の手が叩かれた故のものだと、サクラはすぐに気付けなかった。 「そなたにはわらわの気持ちはわからぬ。もとよりわらわの気持ちに寄り添って、同じ視点で物事を考えようなどというつもりはあるまい」 「そんなことありませんっ!」 「何を狙っているかは知らぬが、そなたは自分の思い通りにわらわを導きたいだけじゃろう? 痴れ者が! 心半ば呆けていても、そのくらいわからいでか!」 「違います、私は、ただ……」 叩かれた手を反対の手で庇い、サクラは必死に言い募る。けれども最後まで言葉を紡ぐことができないでいた。心の中に潜む暗い部分が、サクラの言葉を詰めさせる。 「呆けたわらわを意のままに導くことなどたやすいと思うておったか? それとも、自覚がないのか、己のしたことに、しようとしていることの」 言われている言葉の意味が分からない。サクラはただ、オディールの為を思って……。 ホントウニ? もちろんです!! オディールが羨ましかった。 オディールに幸せになって欲しかった。 だから……。 けれども彼女は、自分の発言がオディールに侮辱ととられたことが理解できない。 こんなにも貴女を思っているのに、貴女のために何かしたいのに受け入れられない、その気持ばかりが大きくなっていく。 『共感』でも『理解』でもなく、ただの気持ちの『押し付け』であることがわからないのだ。 「そなたの瞳……合わせなくとも分かる。そこには猛禽のそれが宿っておる」 「……!」 冷たい声。拒絶。サクラにはオディールの告げた言葉の意味はわからない。けれども、自分が拒絶されたことは分かった。 「わらわから何を奪おうと考えているのかまではわからぬが、そのような輩の言葉に耳を貸すほど人を見る目は錆びついておらぬ」 なんで、なぜ、どうして。 私は、ただ――。 受け入れられなかった、その衝撃がサクラの心に深く突き刺さる。 自分の昏い部分にある衝動を見て見ぬふりをしているサクラには、自分の放った言葉がその影響を受けていることにも気がついていない。 ふらり、ふらり……数歩後ずさって。壁に背を預けてずるずるとその場に座り込んだ。足から、身体から力が抜ける。 両手で顔を覆う。頭を左右に振って。 迷鳥になりたい。 私が私を、一番要らない――。 * 今のオディールがあそこまではっきりと判断し、言葉を紡げるとは他のロストナンバーにとっても予想外だった。 ただ逆に言えば、そうさせるほどサクラの言葉は彼女の『プライド』を刺激してしまったのだろう。現にサクラを拒絶した後のオディールは長くため息を付き、そして疲れたような表情に暗い影を落としていた。 誰にも自分の心はわかるまい――どこにも味方はいない、そんな風に心を閉ざしかけているのが見て取れた。 自分の中の『女王』と『女性』の心が溢れだして、オディールの中の居場所を奪い合っているのだ。もう、自制できぬ所まで来てしまっているのだ。 自制できていれば、あるいは昇華させられていれば、このような事にはなっていないだろう。 ひとり、想いを匣に閉じ込めてきたから、そうせざるを得なかったから、きっと彼女は追い詰められてしまったのだ――カツカツと靴底を鳴らしてオディールの前に進み出て、片膝をついたのはヴィヴァーシュ・ソレイユだった。 ■ ヴィヴァーシュ・ソレイユ ■ 「オディールさん、新たな望みはありませんか?」 「……新たな望み……?」 「はい。ですが私は、全て忘れろと言うつもりはありません」 ヴィヴァーシュのその言葉に、オディールはすみれ色の瞳を上げる。そして、不思議そうにヴィヴァーシュの、眼帯で覆われていない方の緑色の瞳を見つめる。 「……忘れろと、忘れて新たなる望みを抱けと、そう言うのではないのか」 「ええ、違います」 全て忘れて新たなものに意識を向ける――それは常にオディールが要求されてきたことだ。 終わったことを引きずらず、益にならぬことは切り捨てて。ただでさえ王族というものはその手に抱えるもの、その目に映さねばならぬ物が多い。だからこそ、余計な負担をかけさせぬための言葉だったのかもしれない。けれども彼女には違う意味にとれたのだ。 ――叶わぬ想いは捨てて、早く伴侶をお決めください。 ――それが、御役目でございます。 ――女王様のお目にかけるほどのものではございません。 ――このことはお忘れになって、一刻も早くお心安らかに。 頭の中に回るのは、『女王』を押さえつけてきた言葉。ここでもそれを聞くことになるのかと思ったが、どうやら違うようだ。 「過去への執着を捨てよとは申しません。苦しんだ想いはそのままでいいのです。いつか蓋を開くことができるようになるまで、箱に入れて大事に保管なさる、それも選択肢の一つだと思います」 「……わらわにも、その選択肢があるの……?」 「当然です」 間髪いれずに答えたヴィヴァーシュ。それがどれほどオディールの心を動かしたことか。何か言葉を紡ごうとして声にならないようで、オディールの口は小さく開いたり閉じたりを繰り返していた。 「オディールさん、怒らないで聞いてください。オディールさんは女王という立場の公人であるご自身と、一人の女性としての立場である私人であるご自身との切り替えが、あまりお得意ではなかったのではありませんか」 「……」 「勘違いしないでいただきたいのは、それを責めているのではないということです」 再び瞳を伏せてしまったオディールに、ヴィヴァーシュはそっと優しく声をかけ続ける。弱っていても彼女は聡明な女性だ、伝えれば届く、ヴィヴァーシュはそう核心していた。 「心が悲鳴を上げてしまったのは、そのせいでしょう。迷うのは誰しも同じです。人の上に立つ者は迷ってはいけないと教えられるかもしれません。けれども、迷わない者に他人の心がわかるはずもありません」 語りかけながらもヴィヴァーシュはオディールの様子をしっかりと確認している。もしなにか不穏な動きを見せればすぐに対応できるようにと身構えていた。だがはたから見れば身構えているようには見えなくて。自然体に近しい彼の佇まいに、オディールは攻撃態勢を見せなかった。 彼女は落とした視線でずっとラファエルを捉えている。これが恋人たちの時間ならば、疲れて眠ってしまった彼に膝を貸しているような甘い時間だったらどれほど良かっただろうか。 「女王だからと躊躇いなく決断できている様に見えたとしても、それは表面だけで、その内側にある真実の感情はまた別でしょう。民を安心させる為に見せる嘘も必要です。そのような嘘を、私は悪いと思いません。ラファエルさんとて、批判することはないでしょう」 ただ、彼は――ラファエルは、オディールの纏った『女王』という表面の衣だけしか知らなかったのかもしれない。否、その中身を知ろうとはしなかったのだろう。オディールが求めて差し出した腕を、ラファエルは視界に収めることすらできなかったのだろう。 「自身の心もだまし続け、心に澱の様に蓄積してしまったのなら、私人としての気持ちを受け止めてくれる存在があれば随分と救いとなったのではないでしょうか」 「そのような者……」 「わかっております。そのような相手を作ることの難しさを。ましてやオディールさんは女王として君臨する身。幼き頃ですら、誰にでも心を許すわけにはいかなかったのでしょう。心許せる存在が周りに居なかったからこその今の状態だと推察します」 ヴィヴァーシュはオディールの置かれていた状況を考え、彼女の過ごしてきた時間を想像し、彼女の心中を慮って言葉を紡いでいく。彼女の心に、沿うように。 「公人としての矜恃が邪魔をして、傍にて欲しいと気持ちを伝える事が出来なかったのではと思います。優先すべきものがあれば、自分の気持ちなど二の次ですし、普段口にする事さえ稀な状況なら尚更」 周りが、状況が彼女を追い詰めていったのだ。為政者はある意味犠牲者である。『私』に走る為政者は、民を苦しめ、地を腐らせる。故に良き為政者という者は、とことん『私』を犠牲にした者が言われることが多い。 つう、とオディールの白く長い指がラファエルの頬を撫でていく。彼女が今穏やかなのはきっと、ヴィヴァーシュが彼女の心に寄り添っているから。 「強くない自分を、認めてあげてください。強くない自分を、甘やかしてもいいのですよ」 「……!?」 がばりと顔を上げたオディールは、真っ青な顔をして小刻みに首を振った。何か恐れているように、ヴィヴァーシュを見る瞳は恐怖に満ちている。 「大丈夫ですよ。ご存知かと思いますが、私たちはこの世界の住人ではありません。貴方の民ではありません。貴方が女王を演じなくてはならない相手ではありません」 自分の素直な心を抑えこむことに慣れざるを得なかった彼女には、もう、その呪縛から己の心を解き放つことは難しくて。そんなことをしては、良き為政者ではいられなくなる、そんな恐怖にも襲われているのだろう。 しかしここは王宮ではない。彼女の言葉に耳を傾けているのは、異世界の者達だ。 「私たちになら、気持ちを吐露してもご自分を許せるのではないでしょうか?」 「――!」 そうだ、最初はどうだったかわからないが、今、オディールを縛り付けているのは、彼女が『私』を外にだすのを禁じているのは――オディール自身なのだ。 「わらわ、は……」 恐らく彼女は初めてそれを自覚したのだろう。口をパクパクさせて小さく震えている。 「わらわは、ただ……」 ヴィヴァーシュは、彼とオディールを離れた位置から見守っているロストナンバー達は、ゆっくりと彼女の口から言葉が絞り出されるのを待っていた。 いくらでも待つつもりだった。強引に続きを言わせるつもりはなかった。 「人、を……」 まるで吐息でそれを破いてしまわぬように、慎重に言葉を紡いでいるようだった。 「……好きになった、だけなの……」 時間を掛けて紡ぎだされたその言葉を、誰も否定はしなかった。誰も、責めはしなかった。 たっぷりとその余韻を黒曜石の迷宮に吸い込ませた後、ヴィヴァーシュは口を開いた。 「シュテファニエは誰が殺したという疑問は、犯人が誰にも思いつかないのなら、自死なのではと思います。死、というのは救いの様に見えますし」 ゆっくりと立ち上がりながら、ヴィヴァーシュは続ける。オディールがきちんと聞いているかどうか、それはどうでも良かった。一番伝えたいことは、もう伝えたのだから。 「迷いという思考からの解放を望んでいるのか、比翼連理であったのに片方と仲違いをし、比翼の鳥ではなくなったのか。私には分かりませんが」 立ち上がったヴィヴァーシュを、オディールは目で追わない。視線は再び眠ったままのラファエルを捉えていた。 (わらわは……この御方を……好きになっただけなの……) * じぃ、とラファエルの顔を見つめるオディール。 そう、彼女は彼を好きになっただけで。 人を好きになることを悪というならば、彼女は罰せられるべきだろうけれど。 果たしてこの世界ではどうなのだろうか。 愛は、時に人を狂わせる。裏を返せば思いが強いということ。 ざっ……オディールの前に足を踏み出したのは、漆黒の竜人だ。 彼女は、狂おしいほどの愛に苛まれた者を知っている。 ■ 飛天 鴉刃 ■ (確かに、愛というのは人を狂わせる) ピンと伸ばした背筋、威厳を持った風体。キビキビした動作でオディールの前に立った彼女は、膝を折らない。 そのまま、オディールを見下ろす。彼女は、媚びへつらわない。 (私の故郷で私を愛してくれた者も、今はどうなっているかは分からぬ。だが、彼女は弱い) 思い返すのは昔の記憶。ほろほろほろほろ、溢れる涙。 (前に神託の夢で見た彼女は、泣いていた。烙聖節で会った彼女の幻影は、私を殺してでも取り戻そうとしていた。愛は、それ故に己の立場等他の事と絡まり人を狂わせる) 自分の前に立ち、見下ろす影に、オディールはのろのろと顔を上げた。 「分かるとも言わぬし、同情する気もない」 鴉刃の鋭い言葉と鋭い視線。オディールが一瞬肩を震わせる。常の彼女であれば、怯えること無く鴉刃と対峙したであろう。だが、今は……。 「他者の心というものは例え覗けたとしてもそれをその本人その者として解ることなど不可能なのであるからな」 きっぱりと、はっきりと言う鴉刃。その割り切った物言いが、オディールの興味を引いたようだ。 「己を通すことは、全て他者からずれる主観となる。そのような物で理解した風に言われても、哀れられても、だからどうだというのだ」 「え……?」 優しくラファエルの頬に触れたままで、オディールは鴉刃を見つめる。その言葉の続きが、気になっているようだ。 その様子を見て、鴉刃は小さく息をついた。まっすぐにオディールを見下ろして、片方の瞳で視線を絡める。 「悪いが私は歯に衣を着せる物言いは苦手なのでな。心を抉るかもしれぬが覚悟しろ。はっきりと、私の思うことで言う」 「……」 こくり、ゆっくりと、オディールが頷いた。それは、本能が欲したのかもしれない。 はっきりと物を言う者がオディールの周りにいなかったわけではない。けれども恋愛に関して、はっきり口を出す者は殆どいなかったのだろう。第一、オディール自身がラファエルへの想いを持ち続けていることを、誰にも漏らせなかったのだろうから。 鴉刃の言葉は心を抉るかもしれない。それでも自身にとって益となるかもしれないと本能が判断したのだ。 彼女は、受け入れる決意をしたのだ。だとしたら、鴉刃が躊躇う必要も、元よりそのつもりも全くない。 「お前は身分の差と愛に挟まれて苦しんだのか。推測にすぎぬがな。身分の差の愛。私のような下で生きてきた者にはそれがどれほど辛いのか、見当もつかぬ」 オディールは黙って、鴉刃の言葉を全身で受け止めている。 「私を以前愛してくれた者も、その差に苦しんでいたであろう。だが、お前は女王である。頂点であろう」 ぴくり、『女王』という言葉にオディールは身体を震わせる。だが、鴉刃は言葉を止めはしない。 「そこまで身分が突き抜けているのならば、逆に迷っていてはいけまい。突き抜け、己の傲慢を貫き通し行かねば」 「それは……」 「誰が、女王が正しい身分の者と愛せねばならぬと決めた? 誰が、お前がそいつを愛してはいけないと決めた?」 「……」 口を開こうとしたが再びつぐんでしまったオディール。鴉刃はそれにも構わず、刃に近い言葉を突き立てる。 「暗黙の了解であるならば、それを壊してしまえば良かろう。国を決めるのはお前だ。お前には、その決定権があるのであろう」 「……」 確かに鴉刃の言うことはある意味正論だ。オディールがこの相手と結婚したい、と言えば最終的には誰一人逆らえない。そういう位置に彼女は居る。しかし実際にそうすることはただの傲慢だ。命令すれば誰も逆らえぬことをわかっていてそうするのは、そうしてまで手に入れたものは、本当にオディール自身の欲しいものであるのだろうか? 鴉刃は何も本当にオディールに権力をかさにきて好き勝手しろと言っているのではない。そうすることも出来る立場であるのに何を迷っているのか、何を悩んでいるのか。 身分を気にしているのだとしたら、そんなこと瑣末なことだろう、そう言っているのだ。 人を愛するのに条件などいらない――裏返せばそういうこと。 誰も、オディールがラファエルを愛することを禁忌としてはいないのだから、堂々と愛すればいいだろう? 「身分なんて……どうでもいいと途中で気がついたのよ……」 弱々しいオディールの声。覇気を失った、『女王』ではなく『女性』の声。 確かに身分の差という問題もあった。けれどもラファエルは王女であったオディールの婿候補として、末席にでも名前が挙がる身分だ。オディールが選んだとしても、婿候補として名が上がっている以上、大きな問題にはならない。 だが一番の問題は、ラファエルが養子であるシルフィーラを愛したこと。婚約者候補を丁重に辞退したこと。オディールにとっては愛した人の心が他の人へと向いてしまったことにある。自分は受け入れられなかった、拒絶されたと思ったことだろう。それも、《迷鳥》に負けたとあっては彼女の心は収まるところがない。 「わらわは……この御方が欲しかった。けれども気持ちのない入れ物が欲しかったわけではない……」 怒りの矛先を見つけられず、悲しみを嘆く相手もおらず、全てを自分の中に溜めこむしかなかった彼女。 命令すれば、ラファエルは逆らえぬはずだ。けれどもそれですんなり手に入るとも思えない。彼ならば、どんな形を取ろうとも自分の心を、愛した相手を守ろうとするだろうから。それこそ、地位や財産をかなぐり捨ててでも。 「……わらわは、愛されたかった……の……」 言葉にして初めて自覚したように、オディールは目を見開いた。 それを言葉にしてはいけないと、心の何処かが押し留めていてのかも知れない。 それに気づいてはいけないと、プライドが囁いたのかもしれない。 ほろり、オディールの右目からこ溢れた雫が、彼女の白磁の頬を伝った。 * ロストナンバー達は気がついていた。 先程から、オディールの口調が揺らいでいることに。 それは、『女王』としての彼女と『女性』としての彼女が入り混じり、混沌としているからなのだろう。 彼女自身にも制御できていないのかもしれない。 ただ、分かるのは。 彼女も一人の『女性』であること。 誰よりも、一人の『女性』として見て欲しいと、願い続けていること。 言葉にならぬ悲鳴を表すかのように、黒く染まった翼がふるふると震えているということ。 「……」 そっと、彼女は歩み出た。そして、着物の裾を捌き、オディールの前に跪いた。 ■ 黒嶋 憂 ■ 「双子の始祖鳥のお話をここへ来る前にお聞きしました」 そっと、ゆっくりと語り始めたのは憂だ。優しげな表情で、けれどもどこか悲しげにオディールを見つめながら言葉を紡ぐ。 「兄は人を愛し愛される事を知って、人と共に国を治めた。妹は人に愛されない事を知って、霊峰にこもってしまった。けれど人を愛す事は、シルヴェストと同じように知っていたのではないでしょうか」 だから深く悲しみ、傷ついた――そう告げ、言葉を切る憂。頬に涙の跡を残したまま、オディールは濡れた瞳で憂を見つめた。 「私は……彼女を殺したのは彼女自身の悲しみではないか、と思っています。悲しみはいつか姿を変えて、他者への妬みや憎しみになります」 憂の語り口は柔らかい。けれども告げている内容は鋭い真実だ。ラファエルの頬に触れるオディールの指先が、カタカタと震えを起こしているのに憂は気がついていた。それでも、言葉を止めない。ここで止めては、意味がなくなってしまうから。 「けれど彼女は自分を愛さなかった夫にそれをぶつけず、ひとりで姿を消して……抱え込むことを、選んでしまった。その苦しみは身を、心を滅ぼすのに十分すぎる程だったのではないか、と私は思うのです」 「そなた、は……」 オディールは指の震えを厭うかのように自分のもう片方の手で抑える。けれども震えは彼女の腕を伝い、肩まで届いていた。 「わらわ、も……同じ、だと……」 絞りだすように告げたオディールの顔は若干青ざめていて。気づきたくなかったことに気付かされてしまったかのようで。そんな自分を認めたくない、見られたくないのだろう、彼女は勢い良く視線を黒曜石の床へ落とした。 「オディール様は、聡明な方ですね」 床についた足から冷たい熱が、着物越しにも伝わってくる。オディールもさぞかし寒い思いをしているだろうと憂は心配になった。けれども、彼女をいたわるのはもう少し先。大切なことをしっかりと告げてからだ。 「オディールさま、貴女も愛する人に愛されず、彼女のように迷い、苦しんでいるように見えます」 「……!」 出来ることなら触れられたくない、指摘されたくないことをずばりと言葉にされて、オディールの身体は痙攣するように大きく揺れた。その拍子に膝からずり落ちそうになったラファエルの上半身を、彼女は必死に掻き抱く。 「……このまま迷い続けたら、貴女が貴女自身を殺してしまうように思うのです」 その様子に憂とて思うところがないわけではない。けれども憂は、オディールを救いに来たのだ。もちろんラファエルを助けたい気持ちはある。けれどもオディールを救えなければ、何の意味もないとも思っていた。 「女王としての気高さはお話を伺っただけでわかりました。そして会ってみて、女性として本当は心優しい方という事もわかりました」 幼い子どもがお気に入りのぬいぐるみを取られんとでもするように、オディールはラファエルを胸に抱いている。少しきつく抱きしめすぎたのだろう、小さくラファエルが身動ぎした。それに気づいたオディールは、腕を緩めて彼に視線を落とす。 (やはり、お優しい方……。私、この方にお伝えしなくてはなりません) すう、息を吸い込んで覚悟を決める。背筋をピンと伸ばして膝に手をおいて。 「それと、もうひとつ」 もしかしたら、女としての勘がなにか感じ取ったのかもしれない。オディールが、ゆっくりと視線を上げ始める。 「私は……」 最後の躊躇い。憂は小さく言葉を切って、そして。 「ラファエルさまを、お慕いしております」 絡んだ視線。オディールの瞳が驚愕で見開かれる。無意識だろう、ラファエルを抱く手に力が入ったように見えた。 「住む世界が違う者として許されない想いだと思うこともありました。けれどこの気持ちを偽るつもりも、後悔するつもりもありません」 宣言する憂は堂々と自信に満ちていて、気品すら感じられる。 自分の想いに自信と誇りを持つこと、それが憂を更に美しく見せているようだった。 「そなた、は自由、だか……」 「私は、貴女にも素直になってほしい」 吐き出されかけたオディールの言葉を遮る。気高く、優しい彼女に言い訳など口にしてほしくなかった。 「しがらみや迷いはすぐ言い訳になります」 一言一言染み入るように、伝わるようにと思いをこめて。 「それを乗り越え自分の気持ちと向き合わなければ、一生迷いや苦しみに囚われたままなのです」 「わらわは……」 「そのままの貴女を一番理解し愛すべきなのは、貴女です、オディールさま」 * ぴしゃり、言い切った憂は数拍そのままオディールを見つめた後、深々と頭を下げた。そして背筋を伸ばしたまますっと立ち上がり、皆の待つ位置へと下がる。 「……」 誰も言葉を発しなかった。 憂の指摘を受けたオディールは、呆けたように宙を見つめている。 誰が、どう触れるべきか、沈黙の中で探り合っている。 「♪」 そんな中、場違いなほど軽い足取りでオディールの前に出たのは、道化師ことマスカダインだった。 ■ マスカダイン・F・ 羽空 ■ 「あなたは幸せだよ」 マスカダインはオディールの前にひょいとしゃがみこむと、その顔を覗き込むようにして告げた。 「誰かの代わりなんかじゃないって、自分を自分として見てもらえている」 歌うように言葉を紡ぐ。けれどもふざけてなどいない。それは紡がれる言葉からも明らかだ。 「あなたが好きになったのは、そこで眠っているだけの、男の顔をした人形じゃないだろう?」 小さく指をさして。オディールの視線がその指先を追う。そこにいるのはもちろん、眠ったままのラファエルだ。 「本当に好きになったのなら、その心が選んだことも含めて、その人を愛しているはずだよ」 「……そんな……わらわは、わらわはっ……」 彼の選択を受け入れるなんて、辛すぎる――。 悲鳴を上げる心、誰にも打ち明けられぬ孤独。あんな思いをしてまで受け入れなくてはならないのか? かぶりをふるオディールの瞳は、溜まり始めた涙でゆがんでいる。 「愛した人が、選んだ人に出会えて幸せになってるのなら。それを見たらこんなにうれしいはずだよ」 「そんな綺麗事で処理できる想いでは――」 「なのにつらいんなら」 反論しようと口を開いたオディールを、マスカダインは笑顔で封じた。その笑顔に何かを感じ取ったのか、オディールが口をつぐむのと同時にマスカダインは言い放つ。 「貴方が愛してるのは『自分』なんだよ」 「あなたは『自分』を愛してるんだよ」 重ねられた言葉。それはまるでオディールを断罪するようで。 彼の浮かべている笑顔が、何よりもオディールを追い詰める。 ぽたり、ぽたり。 透明な涙がラファエルの顔を濡らす。 マスカダインは立ち上がり、そっと、オディールの頭に手をおいた。 彼女はそれを厭わなかった。 「代わりになってやるって言われたって、腹が立つよね。取替えの利く玩具みたいに、そんなつもりで人を愛したりなんかしない。自分の気持ちなんだと思ってるんだって思うよね。自分を愛せなんか言われたって、こんな気持ちじゃどうすればいいかわかんないよね」 オディールを『突き刺した』彼は、声色こそ変わらぬがその表情を変えていた。見上げたオディールは、マスカダインが泣きそうな笑みを浮かべて自分を見ていることに気がついた。そして、頭に乗せられた手は優しく、慈しむようだ。 「あなたが『堕』ちるんじゃなく『迷』っているのは……本当はまだ、立派な女王として、誇れる女性としてありたいんじゃないのか?」 「! ……わらわは、捨てられぬ。女王である自分も、女である自分も。中途半端だと言われようとも……それがわらわなのじゃ……」 「じゃあまず自分が愛せる自分になんなよ。そんな自分を自分で認めてあげなよ。人の幸せを願える、素敵な人になんなよ」 くしゃっと銀の髪を撫で、マスカダインは手を離す。その熱が去りゆくのを惜しむように、オディールは視線を揺らした。 「あなたはもう『自分』を愛せてる。そんな自分がこんなところで、人の幸せを奪って暗い場所で不幸を振撒いて……みじめに嘆いているだけの存在でいいのか?」 「……わらわは、惨めか……。そうじゃの……わらわは惨めじゃ。手に入らぬからと駄々をこねて、挙句の果てに自分が一番不幸じゃと、不幸な自分ならばこの御方が優しくしてくれるかもしれぬと思ったのじゃ……。これのどこが惨めでないといえよう……」 「じゃあ、立ちあがんなよ。なんだってやりなおせる」 一歩、オディールから離れたマスカダインは、笑顔を浮かべる。それは最初に浮かべた時の笑顔とは違う、裏のない笑顔。 「片翼なんてないんだよ。人は最初から自分で飛べる二つの翼を持ってる」 その笑顔は、言葉は、卑屈になりそうなオディールを繋ぎ止め、引き上げていく。 「人を愛したのなら、あなたにはわかるはずだよ。自分が本当にすべきことは、人の幸いを祈り、祝福する事だよ」 「……祝福」 すぐには無理かもしれない。そんなに簡単に気持ちを切り替えられたならば、今、こんな事にはなっていないはずだから。 けれどもいつかはきっと、時間は掛かるかもしれないがいつかきっと、彼女は彼の選択を祝福することが出来るだろう。そうあって欲しいと、マスカダインは思う。 「立ちあがって歩き出せば、迷いの迷路は、目的地へ向うための旅路にかわるんだ」 だから、ゆっくりでいいから立ち上がろう、歩き出そう、マスカダインの言葉がオディールの心を揺らしていた。 * (一番辛いのは、それを誰にも理解されないこと。そう何かに書いてありましたっけ) オディールの表情が、顔つきが段々と変わっていっていることにローナは気づいていた。 ロストナンバー達がオディールに与えたのは、傷を舐める上辺だけの優しさではない。事実を指摘する優しさ、理解しようとする優しさ、寄り添おうとする優しさ、導こうとする優しさ。 望めば何でも手に入るだろう立場の彼女が、得ることができていなかったもの。 恐らく、この世界の住人ではないロストナンバー達だからこそ、与えられしもの。 (彼女自身とまずは向き合わないと。立場を考慮に入れるとそこに囚われてしまう気がします) ローナは数解深呼吸を繰り返し、そして歩み出た。 ■ ローナ ■ (レポートを読んだ限りではラファエルさんへの思いと嫉妬が主体に思えますが、実際どうなのか。本人の話を聞きたいですが……一筋縄ではいかないでしょうね) そう思うものの、今、オディールの心はロストナンバー達の言葉によって、時には叩かれ、時には優しく撫でられ、受け止められ、心を覆う黒曜石の鎧はひとつひとつ剥がされていっているように思える。 (この迷宮が彼女の心なら、理解されるはずが無く打ち明けた所で自身も否定されると思ってしまっているか、あるいは本人すら自身の気持ちを否定してしまっているか) くるり、首を巡らせてこの空間を感じ取ろうとする。はじめに感じていたような重苦しさや異様な空気は、今は薄れているように思えた。 ちらりと視線を移せば、シオンを救出に来た者達もそれぞれ言葉と行動で彼を、動かそうとしているようだった。 (でもそこには迷いもあるわけで、そこに望みがあるのかも) わずかでも、そこに望みがあるのなら、やらない手はない。ローナはオディールの前にぺたんと座り込み、彼女と視線を同じくした。 「オディールさん、今、私とあなたは対等です。こうして、対等に向かい合っています。貴方は民を統べる女王でもなく、ただの『オディールさん』です。私も、ただの『ローナ』です」 立場や善悪常識諸々全部取っ払って、オディールの本心を聞きたい。だから、無理矢理にでも自分達は対等だと言い聞かせる。 「お話しましょう、オディールさん。聞かせてください、貴方のことを」 「わらわの、こと……」 「私は否定しに来たのではありません。私は、オディールさんと一緒に悩みに来ました。教えてください、ラファエルさんのことを、どう思っているのか」 黒目がちの瞳をまっすぐ向けて、ローナは願う。 友達同士が、恋の話をするように。 普通の女性が、するように。 女王が恋をしてはいけないなんて、女性としての自分を捨てなければいけないなんて、誰が決めたのだろう。 「みんな普通にしていることです。変だなんてことはないです。誰も、咎めません。陰口をたたいたりも、しません」 「……」 一歩踏み出せないでいる様子のオディールを、ローナは急かさない。ゆっくりと、優しい表情で語りかけ続ける。オディールの動きに集中し、彼女が口を開こうとしたら邪魔しないように、と構えながら。 「……わらわは、王の娘として生まれた時点で、自由な恋愛など望めなかった。いつか、父上の決めた相手とつがいになると、そう、教えられてきた。これは、どこの王族とて同じかもしれぬが……」 ぽつり、ぽつりと語り始めたオディール。ローナは彼女が思うままに想いを吐露できるように、余計な口は挟まないつもりだ。 「恋情など、抱くだけ無駄だと思っていたのじゃ……そんなもの、抱いたとて、自分が苦しむだけだとわかっていたのじゃ……だが、わかっていたというのに、わらわは……この御方に心を奪われてしまったのじゃ」 俯いたオディールの視線は、依然眠ったままのラファエルへ。その瞳に抱かれているのは、心から愛おしい人へ向ける感情。 「その時初めて気づいたの……いくら心を強く持ったとしても、恋に落ちるのは止められないのだと……」 恋愛の機微に疎いローナでも分かる。オディールは本当に、心からラファエルを愛しているのだと。 「初めて、つがいになりたいと思う相手に出逢えた……」 けれども彼女を覆う様々なものが、その心を表に出すことを妨げていたのだ。 「……叶わぬ想いだと、知っていた。口にすれば、迷惑がかかると知っていた。だから、時折、そっと姿を視界に収められるだけで満足だったの……」 言葉だけでなく、表情も、『女王』のそれではなく『女性』のそれに変化している。優しい手つきで、ラファエルの額から頭へかけてを撫でる彼女。 (きっと、オディールさんは知っているのですね) これが、最初で最後の機会だと。 「思えば、この御方は誰のものにもならない、そう思っていたから、わらわは気持ちを抑えられていたのかもしれないわ……。誰のものにもならぬならば、わらわのものになら無くても仕方がない、そう、言い聞かせていたの……」 指先から、想いの熱よ伝われ――この切なさよ、身を切る程の想いよ、貴方に届け――。 「だから、父上の選んだ婿候補にこの御方が入っていると知った時、……言葉に言い表せないほどの感情に支配されたわ」 言葉を選ぼうとして、その時の気持ちを表す適切な言葉が見つからなかったのだろう。その時の気持ちを思い出したのか、オディールの頬に朱がさした。 「……でも、この御方は辞退なさった。誰のものにもならない、それなら私も耐えられた。密かに思い続けるだけなら、許される……元よりこの想いを打ち明けられる相手なんていなかったのだけれど」 でもね、言葉を切った彼女の顔から表情が消えて。 「この御方には愛する相手がいたの。養い子……それも《迷鳥》」 誰も選ばない、ではなく、オディールを選ぶことは永遠にない、に状況が変わってしまった。それも、相手は――。 「こんな気持になった時、どうしたらいいのか誰も教えてはくれなかった……誰にも相談できなかった……」 両手で顔を覆ったオディールは、肩を震わせて泣いた。 ローナはゆっくりとオディールの後ろにまわり、そっと、彼女を抱いた。 孤独が彼女を狂わせ、迷わせたのならば、こうして温めてあげることで、少しは孤独が癒やされるかもしれない。 「きっとわらわは、無意識のうちに願ったのよ……わらわも《迷鳥》であったなら……わらわも、《迷鳥》になれば……」 涙声で紡がれる言葉は、心締め付ける。 こうなってしまった責は、オディールだけにあるものではないとローナは思った。 環境が、側にいた人が、そしてラファエルにも、その責の一端はあるのではないか。 「わらわは醜い醜い醜い……愛されなくて当然……」 「そんなこと、ありませんっ!」 ぎゅ、抱きしめる腕に力を込める。 聡いオディールは、その感情の持つ醜さという側面に気がついてしまった。けれども。 「嫉妬なんて誰でもします! 嫉妬のままに行動を起こした人ならば、こんな風に相手を優しく扱ったりしませんっ! 自分を顧みて、涙をこぼしたり、しません!」 「いっその事、この御方を殺めてしまえば、わらわだけのものに……と思わなかったわけではないの。でも、でも……でき、なかっ、た……」 恐らくシオンが止めに入らなくても、彼女にはラファエルを殺すことは出来なかっただろう。 自分を女として見てくれないラファエルに対して、こんなにも心傷ついている彼女なのだから。 ラファエルを物言わぬ骸にして、喜べる女性ではない。 「いいんですよ、それで、いいんです」 * ローナはオディールがしゃくりあげるのをやめるまで、ずっと彼女を後ろから抱きしめていた。 (シュテファニエを殺したのは……透明人間なのかも) 答えは用意してきたが、あくまでローナの想像で。明確な答えではないと言われるかもしれなくて、口に出来なかった。 (明確な誰かじゃなくて、恐怖という名の透明人間が排除という名の拳を振るった、とか) 愛されぬ恐怖、孤独という名の恐怖、悲しみという名の恐怖――挙げ始めればきりがない。 (オディールさんは神話の登場人物を誰に見立てているのかな?) もしかしたら、問うた時と今では、彼女の見立ても変わっているかもしれない。 彼女が泣き止んだ気配を感じてローナが腕を離すと、近づいてきたのは――。 「ったく、自分勝手な女は嫌いだ。女ってのはどうしてこう業が深くて情が強い生き物なのかね」 「劉さんっ!」 悪態をつく劉と、それを止めようとするユキノであった。 ■ ヴァージニア・劉 & 司馬 ユキノ■ 「フライジングの世界の成り立ち、資料で見てきました。どうしてそんなことになったのか……悲しいお話ですね」 ゆっくりと膝を折り、そして黒曜石の床へとつくユキノと対照的に、劉はポケットに手を入れたままオディールを見下ろしている。 「私、シュテファニエは自ら命を絶ったと思うんです」 その言葉に、オディールは反応を示した。ユキノは続ける。 「心の底まで醜い悪魔になって、誰かを、世界を傷つけてしまう前に、綺麗な心のままで、天国に行けるように……この世界にも天国と地獄って、あるのかな」 「シルファニエは自分で自分を追い込んだ」 ユキノの言葉を追うように、劉が自身の見解を述べる。ぶっきらぼうな物言いはいつもの通りだが、いつもよりも若干苛ついているようにも感じられる。 「実際手をかけたのが誰だろうが、その前に心が死んだ。生きる抜け殻だよ」 「……だとしたら、今のわらわも生ける抜け殻なのじゃろうな」 だらりと降ろされたオディールの左手を、ユキノは膝立ちで拾い上げた。そして、綺麗なその手で包み込む。 「シュテファニエも、オディールさん……あなたも、大切な人には『始祖鳥』『女王』として見られて……一個人として接してもらえていなかったように見受けられます。辛かったですよね……」 心臓に杭打たれるような痛みにこの女性(ひと)は耐えてきたのだろう。包み込んだ掌から伝わる熱、それは想いの熱さ。 「そなたは……」 ユキノの手からもユキノの温かい心は熱となってオディールに伝わっているはず。オディールはのろのろと視線を上げてユキノを捉えた。 「私、気が弱くて自分に自信ないから……誰かに冷たくされると、すぐ不安になってしまうんです。だから、ずっと耐えてきたオディールさんのこと、尊敬します」 オディールと同じ立場に立たされたとしたら、きっとユキノには耐えられぬことだらけだろう。民にとって孤高の女王は誇りであり、羨望の的であろう。けれどもユキノにはなれるとも、なりたいとも思わない。 きっと、オディールはユキノが思っているよりも何倍も強くて、そして何倍も辛かったのだろう。だから、だから、助けたくて。少しでも寄り添いたくて――心を軽くしてあげたくて。 「一人で抱え込んでしまうのは、オディールさんが優しいから」 語りかけるユキノを、劉は黙って見ていた。他人の説得に余計な口を挟む気はない。だから、機を待っている。 「でも、女王だから自分を出せずに、辛い思いするなんて間違ってる。それならそんな身分、何の価値もない……私はそう思います」 「なんの、価値も、ない、と……」 国のトップである女王の地位をこの娘は意図も簡単に否定してみせた。それは、オディールにはない発想。思いもよらなかった考え方。 「ならば、わらわは……もう、わらわとこの御方を繋ぎ止めるものは、なんにも、ないのう……」 「そういうっ……」 「おい」 オディールの、尻すぼみな言葉にユキノが声を上げた時、劉がそれを遮った。相変わらずイラついた様子である。 「こいつが言ってるのはそういう意味じゃねぇだろ。いい加減諦めろ。てめえは選ばれなかったんだ」 「劉さっ……」 発せられる鋭い言葉に抗議の声をあげようとしたユキノを、劉は視線で抑え、続ける。 「愛を乞うても返してくれねえ報われねえ。苦しかったろうさ、切なかったろうさ。妬み嫉み孤独……俺にも覚えがある感情だ」 「……」 発せられようとしている言葉が、ただオディールを一方的に傷つけるものではないと気づいて、ユキノは浮かしかけた腰を下ろした。手は、オディールの手を包み込んだままで。 「でもそれが現実なら受け止めて這い上がるっきゃねーんだよ」 それは、劉だからこそ実感をこめて紡げる言葉だろう。報われず、様々な見難い感情を経験して、孤独を抱いて。そして――自分なりに這い上がった。 「世の中にゃ欲しい欲しいと駄々こねたって手に入らねえモンがある。眼前で自殺すりゃラファエルは生きてる限り永遠にてめえを忘れねえ。それも一つの復讐だ」 「……じ、さつ……」 オディールの乾ききった唇が劉の言葉を復唱する。手が、小さく震えだしたから、ユキノは彼女を支えるようにぎゅっと、握りしめた。 「でも、俺はお前を助けたい。だからここまで来た」 一歩、劉はオディールに近づく。 「忘れろとは言わねえ。どんなに苦しくて生き地獄でもラファエルへの恋情はお前の一部。ならそれを抱えて生きろ」 もう一歩、足を踏み出す。視線は、まっすぐにオディールを捉えたままで。 「もっとイイ女になってこのオッサンに自分に惚れなかった事をとことん悔やませてやれ。んでざまあみろって高笑いするんだ」 一歩、二歩、近づき、そして手を伸ばす。彼女が抵抗して、傷つけられる可能性も考えていた。それも、覚悟の上だった。 そっと、頭に乗せられた手。 優しく、撫でる手。 (こいつは、ガキの頃の俺に似てやがる) だから、助けたいと思ったのだろうか。真意は劉にもわからない。 けれど、一つだけ言えることは――劉は、オディールを否定しない。誰よりも、似た人間をしっているのだから。 「誰も誰かの代わりになんてできねえ。てめえの代わりも誰もいねえ」 (自分勝手で嫉妬深い 最低の女王サマ。そしてどこにでもいる一人の女。俺の中にも 母さんの中にもいた女) オディールに、幼いころの自分や母親の姿が重なってみえる。 ああ、女というのは厄介で――いや、心を持った生き物というのはなんと厄介なのだろう。 だが、それを救えるのは、やはり心を持った生き物なのではないか。 「ちゃんとラファエルに気持ちを伝えたのか? 面と向かって好きと言ったのか?」 ふるふる、左右に振られる首の動きと共に銀糸が揺れる。 「ラファエルの心がわかってたって、ちゃんとフラれて失恋しなきゃ前に進めねえ」 「そうです! ラファエルさんを助けて、そして、ちゃんと一個人として向き合ってお話するんです」 ユキノは握ったままのオディールの手を胸元に持って行き、背中を押すように語りかける。やはり、はっきりと向かい合うことが必要であるとユキノも考えるからだ。耳に入ってくる状況だけで判断を終わらせては、スッキリすることは出来ない。 「ラファエルさんの本心をぶちまけてもらうんです。ラファエルさんにも、もう逃げさせませんから」 「……でも」 「その時に振られてしまったら、どうするか考えましょう? 失恋の自棄酒とか付き合いますし、愚痴だっていくらでも聞きます」 結果はもう見えている、そう諦めようとするオディール。だったら悲しい結果の先に、支えとなるものがあればどうだろうか? 「そうだ、旅行にも行ってみませんか? ヴォラース領の冬の景色は素晴らしいそうですし、オディールさんの行ったことない所でもどこまでも付き合います」 けしかけておいて放置なんてしない。寄り添うならきちんと、彼女の心を軽くする手伝いをしたい。ユキノはオディールに迷いを挟ませないように、提案を続ける。 「私はまだ旅人ですから、身分なんて気にしないで」 「……」 「逃げるな」 ぽん、優しくオディールの頭を叩く劉。 「立ち向かえ」 震える瞳で彼女は、劉を見上げて。 「俺達は、お前の覚悟を見届ける」 オディールの視線はぐるりと、自分の前に立つロストナンバー達の前を滑る。 「てめえならできるさ、きっと」 最後にもう一度オディールの視線は劉へと戻り、そして。 劉の浮かべた不器用な笑顔につられるように表情を和らげ、オディールは頷いた。 *-*-* 今までで一番穏やかな表情でそっと、オディールがラファエルを見下ろした時だった。 「おいラファエル」 シオンの近くにいた、メガネを掛けた黒髪の男がこちらに近づいてきて。 取られる、そう思った。 手を離したらもう、二度と触れることは出来ない、そう、わかっていた。 だからオディールは反射的にラファエルを抱え込み、その男を、きっ、と睨みつけた。 「近づくでない。……渡さぬ」 「こいつを返せ」 「侯爵は誰にも渡さぬ。どの女にも渡さぬ。異界の旅人にも渡すものか」 オディールははかぶりを振り、奪われまいとする。しかしその抵抗は弱々しかった。 もう、心の半分以上でわかっていたから。 自分がここでラファエルを抱えていても、どうにもならないと。 前にも進めずに、引き返すことも出来ないと。 「俺はまだこいつに用があるんだよ。こんなところで心中はさせねぇ」 こいつを返せ、と、男は繰り返す。 やがて……。 ラファエルが、目覚めた。 「ファレロさ……」 「よう」 「……。あなたに出迎えられるとは、もしやここは地獄ですか。どうぞこの世界でもよしなに」 「寝ぼけんなバカヤロ。勝手に地獄に帰属してんじゃねぇよ」 男が手を差し伸べる。 「ガキが死に損なってんのにくたばってんじゃねーぞ、それでも父親かよ」 「……それは。大変なお手数を」 「一緒に飲みに行く約束だろ」 「そうよ。うちのクソ親父とNYのバーに行く約束してるんでしょ。こんな所でくたばったら承知しないんだから」 その男の娘なのだろうか、黒髪のスレンダーな少女が言い、ラファエルは苦笑する。 「そうでしたね」 「お義父さんと飲むんなら俺も混ぜてくれよ。面白い話をいっぱい披露するぜ!」 金髪をオールバックにした青年が、駆け寄って来た。 半身を起こしたラファエルを、オディールは抱きとめる。 「……行かないで」 「女王陛下……。申し訳ありません」 二人の男性の肩を借り、ラファエルは立ち上がる。 「待って……!」 絞りだすような呼びかけも聞こえているだろうに、ラファエルは一切振り返ろうとしない。 「お願い、これで最後だからっ……!」 「ラファエルさん、オディールさんの声を聞いてあげてください! 逃げないでください! これではオディールさんもラファエルさんも……辛いままです!」 ずっと冷たい床に座っていたからだろう、よろよろと立ち上がるオディール。ユキノは慌てて彼女を支えた。 ロストナンバー達の瞳が、ラファエルに集中する。 「ファレロさん、カーサーさん、お願いします」 「……いいのか?」 「はい」 両脇を支える二人に告げて、ラファエルはオディールと距離を挟んで向かい合う。 「わらわは……」 ゆらり、オディールが足を踏み出した。ユキノは手を離し、そっと彼女の行方を見守る。 「……あなたを慕う心を捨てることは出来なかった……」 先ほどと二人の距離は縮まった。それでもオディールはラファエルと距離を保った状態で、足を止めた。 まっすぐに瞳を見つめ、今まで誰にも告げたことのない愛を告げる。 「あなたを、愛しているの……」 絞りだすように、震える声で。 今の彼女は初めての恋を告げる、か弱き乙女。 けれども彼女の心には、覚悟がある。 もう、この告白が受け入れられないことはわかっている。 だから、傷つくことは覚悟しているのだ。 「あなたと、つがいになりたいと……切に願っていたわ……」 緊張で彼女が震えているのが、誰の目から見ても明らかだった。 「わらわの気持ち、知っていたのよね……?」 目を細め、悲しそうに笑みを浮かべて首を傾げる。 「……申し訳ありません、女王陛下」 それは、全てに対する答え。 ラファエルはこの期に及んでも、臣としての態度を崩さない。 つれない態度を取るのは、徹底的に臣として接するのは、恐らくラファエルの最大限の優しさ。そして彼の持つ性格と信念のようなものが、そうさせるのだろう。 それ以上、彼が言葉を発することはなかった。 「ありがとう……わらわに人を愛することを教えてくれて、ありがとう……」 ゆっくりと、オディールが表情を変える。 「好きでいさせてくれて、ありがとう……」 もう、感謝こそすれ恨みはしない。『女王』ではなく『女性』としての笑顔が、オディールを彩る。 辛い思いもしたけれど、その分、知ることが出来たことも多い。 「今思えば、愛したのがあなたで、よかった……わたし、あなたを愛せて幸せだったの……」 ラファエルは何も口にしなかった。 その代わり、彼の顔に浮かんだのは――儚げな笑顔。 数瞬の間笑顔を交わし合い、ラファエルは頭を下げる。そして、二人の男性に連れられてオディールに背を向けた。 シオンを含めたロストナンバー達がオディール達から遠ざかっていく。 ゆっくりとその背は小さくなり、そして、彼らは階段を登っていく。 オディールのそばにいるロストナンバー達は、最後まで涙しなかった、恨み言を述べなかった彼女を見守っていた。 誰もが、彼女に声をかけるタイミングを伺っていた。 「う……あ……」 女王の美しい声が、悲しみを絞りだす。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……」 嘆きが嗚咽となり、体外へとこぼれ出る。 顔を両手で覆ったオディールは、憚らずに泣いていた。 今まで我慢していたものを、全て吐き出すように。 迷いごと全て、流してしまうかのように。 「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」 がくり、崩れ落ちたオディール。 床に広がる、半分黒く染まった髪が、元の銀色を取り戻していく。 翼の色が、輝きを取り戻していく。 「オディールさん!」 それは誰の声だったのだろう。判別することは叶わなかった。 オディールを、光の帯が覆い始める。 「これは……」 異様な光の発生を感じて、シオンやラファエル達階段を昇っていた者達も急いで階下へと戻ってきたようだ。 けれども、近づこうとしたロストナンバー達は、その光景に魅入られ、そして近寄ってもいいものかという迷いが生じていた。 これはきっと、オディールが元に戻るその過程なのだろうから。 だから。 *-*-* 誰も、止められなかった。 当然だ。 まさかサクラが『そんな行動に出るとは』誰が予測できただろう。 ここに至るまで、サクラは自身の心のうちを誰にも明かさなさった。 ロストレイル車内においてさえ、誰とも目を合わせず、誰とも口を利かなかった。 話しかけられても、聞こえなかったふりをした。 そして、彼女の心情を慮った一行は、打ち合わせたわけでもないのにサクラと距離を置いた。この時点においては、それこそがせめてもの配慮であったろう。 だが、それゆえに止められなかった。 オディールの翼がゆっくりと、もとの美しい銀を取り戻し―― その身体を光の帯が覆い始め、やがて。 光が銀の卵の殻となりかけた――その瞬間。 ほろり、と、髪から落ちた青い羽根の髪飾りを、 すなわち、世界計の欠片を、 サクラはすばやく、飲み込んでしまったのだった。 * (……ここは?) 光の坩堝の中で、サクラは目覚める。 (卵のなか、のようじゃ) サクラの前には、一羽の雛鳥がいた。 気品に満ちた、銀の孔雀の雛だ。 (良かった……。卵に戻れたんですね。助かったんですね、オディールさん) (馬鹿者!) 女王の威厳を取り戻した雛鳥は、サクラを叱咤する。 (『あれ』を飲み込むとは……、何と云う考えなしの愚かなことを!) (……私、自分が「いらない」から……) (華々しく自滅したかったのかえ? シオンの目の前で。さぞやシオンは嘆くであろう。そなたを追って自害するやもしれぬて。それも一興ということか?) (そんな……。ちがう) (『あれ』の力を知っておろう? たかだかそなたひとりが自滅するだけでは済まぬ。わらわも、シオンも、侯爵どのも、旅人たちをも皆殺しにし、この世界を滅ぼしでもしたかったのか!?) (ちがう) (違わぬな。そなたの絶望はそれほどに深い。いや、深かった) (……?) (だが、その『絶望』の大いなる深さも、『あれ』の力によって消えたか) (……え?) (自分自身に問うが良い。おぬしの心に、今、自滅の衝動は残っているかえ?) サクラは、自身が驚くほど平穏であることに気づく。 それだけではない。 どんどん、自分自身が希薄になってゆくのを感じた。 (ここに及んではもはや致し方ない) 雛はかぶりを振る。 (もはやそなたはそなたにあらず。絶望の中にいた娘ではない。ここは卵じゃ。卵から生まれるものは――) * 走馬灯のようにサクラの眼前を、記憶が走り抜けていく。 己が忘れてしまったはずの、幼い頃の記憶も、忘れてしまいたかった、辛い記憶も。 (……あれは) 幼稚園児の頃だろうか。小さな制服に身を包んで、斜めがけのバックを下げて、帽子をかぶって。家に辿り着いたサクラの前に親が差し出したのは、飾り気のない箱。 不思議そうに手を伸ばした小さなサクラは、その箱のなかから聞こえる小さな声に破顔する。 チチチチ、ピピピピ……。 (……そうだ、子供の頃、私は鳥を飼いたくて親にねだったんだ) いい子にしていたらね、そんな子供だましに近い親の言葉を信じて、親のいうことも聞いたしお手伝いも進んでした。 そんなサクラを見て、親はその約束を子供だましでごまかしたままにはしなかった。 幼いサクラが箱を開けてみれば、そこにいたのは可愛らしい十姉妹の番い。 まっすぐなくちばし。背中に丸い斑点があるこの子たちは、模様によって『更紗』と呼ばれるのだと知ったのはもっとずっと後だけど。 かわいくてかわいくて、ずっと眺めていた。 すぐに巣いっぱいに増えて、元気に鳴いていた。 巣の中で積み重なって、下になったら潰れちゃうんじゃないかと心配したけれど。 ケージも大きなものに変えて、これでみんな一緒でも狭くないねと笑いかけた。 手を差し出しても文鳥やインコのように噛み付いてくることもなくて、幼いサクラにもよく触らせてくれた。 大家族の鳥。 彼らは喧嘩をせず、仲間はずれにもせず、皆で仲良く暮らしていた。 「私、十姉妹がいいな……誰とも喧嘩しないで、みんなで仲良く暮らすの……今度こそ、あんな楽しい家族を作るの……」 今度こそ、今度こそ。 みんなで仲良く。 みんなで笑って。 みんなで幸せに。 『サクラ』が果たせなかった望みを、今度こそ――。 *-*-* 銀の卵にヒビが入る。 誰も、言葉を発しはしなかった。 何を言っても、何を問うても、答えを持ち合わせている者はここにはいないのをわかっていたから。 ピ……ピシシ……。 亀裂が段々と大きくなっていく。 殻が割れて何かが出てこようとしているのは明らかだった。 オディールは、そしてサクラはどうなったのだろう。 《迷鳥》となったオディールは殻に戻れてよかったのかもしれない。けれども、世界計を飲み込んだサクラは――。 ピシ……ピシシシシシッ! 大きな亀裂が走って、中から殻が砕かれる。 くちばしが、覗いていた。 「生まれるのか」 鴉刃がつぶやく。皆の視線は卵の亀裂に釘付けだった。 だのに、『それ』は一瞬のことだった。 広がった亀裂から、何かが飛び出たのだ。 「きゃっ……」 何かが近くをかすめ、驚いてよろめいたユキノを劉が支えた。 「サクラ!?」 シオンが叫んだ。なぜそれをサクラだと思ったのかはわからない。縁の紡いだ直感のようなものだろうか。 パサパサと小さな羽ばたきで、それは空を目指す。迷宮の外を目指す。 「鳥……だねー」 「十姉妹、ですね」 それを目で追ったマスカダインの言葉を、鳥好きの憂が補足する。 十姉妹は、高く高く飛び上がっていく。 自由を求めて。 サクラは、生まれ変わったのだ。 今まで抱いていた悲しみや虚無感や、逃れられない絶望を脱ぎ捨てて。 そして、新たな世界へと羽ばたいていく――。 「殻の中に、まだ……」 「オディールさん!?」 ふと、殻に目をやったヴィヴァーシュは、その中で小さくピイピイと鳴く何かを発見した。よく見ればそれは、銀色の孔雀の雛だ。ローナが慌てて殻に駆け寄る。小さくても威厳のある佇まい、オディールに違いない。 「オディール!」 慌てて駆け寄ってきたシオンが二人を押しのけて、殻の中をのぞき込んだ。雛のすみれ色の瞳と、目が合う。 そっと、手を伸ばしてシオンは、壊れやすい宝物にそうするように、両手で優しく雛をすくい上げ、そして、目を閉じて頬を近づけた。 *-*-* シオンが雛を抱くと、ゆらりと迷宮の輪郭が歪んだ。 この迷宮が存在する意味がもう、無くなったからだ。 「……帰るか」 オディールを救うことが出来た。きっとあとはこの世界の奴らが何とかするだろう、そう思いポケットに手を突っ込む劉。早く煙草を吸いたい。 「ん……?」 そんな彼の視界の端になにか光るものがあった。訝しげに思ってそちらをみる。 「あれは……」 殻の残骸に近づき、「それ」を拾い上げる。 それは、サクラが飲み込んだはずの世界計の欠片だった。 「仕方ねぇ、届けるか。ったく面倒な」 こんな危ないもの、さすがにこの世界に放置していく気にはなれない。0世界に戻ったら図書館に届けよう。 「劉さんー、みんな行っちゃいますよー?」 「ああ、今行く」 だいぶ先から振り返ったユキノに答え、劉は世界計の欠片をポケットにしまいこんだ。 そしてそのまま距離を縮めようとするそぶりもなく、『駅』へと向かい、歩み始めた。 【了】
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