宮中では十月初旬ごろに残菊の宴という催しがある。 菊の花を眺めたり菊酒を飲んだりして去りゆく秋を惜しむ行事だ。 ニワトコの希望を受けて季節の行事を楽しもうと、二人で夢浮橋を訪れた夢幻の宮は花橘殿の女房頭である和泉に菊と料理の手配を命じた。すると和泉は少し戸惑ったような表情を見せ、二つの文箱を差し出したのだ。「今上帝からの文でございます。宮様と、ニワトコ様が残菊の宴までにこちらにいらっしゃったらお渡しするようにとのことでした」「……帝が? わたくしだけではなくニワトコ様にも……?」 不審に思った夢幻の宮は自分宛の文箱を開き、中の文に目を通す。そこには宮中で行われる残菊の宴への出席を乞う内容が書かれていた。帝から直々の誘いだ、断るという選択肢はほぼない。「ニワトコ様、こちらの文をご覧ください」 几帳の向こう、円座に座って聞くとはなしに夢幻の宮と和泉のやり取りを聞いていたニワトコは、文箱を受け取って結ってある紐を解く。夢幻の宮が近くに座り、心配そうに様子を窺っているのがわかった。さすがに他人宛の手紙を勝手に見ることはしないが、差出人が差出人だけに気になっているようである。「ちょっとまってね」 そっと蓋を開け、中の手紙を取り出して開くニワトコ。するすると目を通していくが、思わず声を上げてしまう。「えっ……」「どうかなさいました?」「これ……読んでみて」 さらりと黒髪を揺らして、夢幻の宮は手紙を受け取った。その拍子に触れた指先は暖かくて、少しだけニワトコの驚きを中和してくれる。「……どういう意味でございますか」「ぼくには、心当たりはないんだよ、本当だよ」 夢幻の宮の低い呟きに慌てて否定をしてみたが、彼女は文から目を上げて申し訳ありませんと告げて苦笑を浮かべた。 ニワトコ宛の文に書かれていたのは、『前に約束した通り、宴に招待する』ということと、『自分亡き後の暁王朝とロストナンバーの関係の保証について』話をしたいということが記されていた。「約束なんてした覚えはないし……」 ぽつりと告げるニワトコ。彼が帝と顔を合わせたのはただ一度きりである。それも、呪の邪気に当てられてニワトコは弱り切っていて、会話の半ばからは意識が朦朧としていた。「あ……でも」 その朦朧としていた時に約束が持ちだされていたとしたら、ニワトコの記憶に無いのも頷ける。「お兄様……いえ、帝は朦朧としていらっしゃったニワトコ様に、宴に招待するお約束をなさったのかもしれません。けれども……」 気になるのはもうひとつの方。『自分亡き後の暁王朝とロストナンバーの関係の保証について』なんてものはロストナンバー達と暁王朝をつないでいるような状態の夢幻の宮に話すものではないのか。「あの方のことですから……なにかお考えがあることと思いますけれど、良からぬ事にならなければよいのですが……」「なんで僕に話すんだろうね……ふしぎだなぁ」「ともあれ、出席の返事をして、参内の準備をいたしましょう」 女房を呼び、墨と硯を持ってこさせる。夢幻の宮が二人分の返事を書くのをニワトコはじっと眺めていた。「……不安でございますか? だいじょ……」「不安なのはぼくじゃなくて、霞子さんの方でしょう?」 筆を置いた彼女の手にそっと触れると、小さく震えていた。だからニワトコは両手で彼女の手を包んで、そして。「だいじょうぶ。きっとだいじょうぶだよ」 幼子にするように言って聞かせた。 *-*-* 残菊の宴当日。 参内したふたりは帝の座所近くに席を与えられた。御簾は降ろされており、酒や肴、お菓子などが準備されていた。御簾の向こうの庭には菊の花が並べられ、どれもこれが最後とばかりに咲き誇っている。 宴が始まると招待された貴族達はそれぞれ酒を酌み交わし、楽の音に良い、去る秋を惜しんでいた。ふたりも酒の代わりに水や茶を飲んでいたが、夢幻の宮はどうも落ち着かない様子で、時々帝の座す方向を伺っているようだった。「夢幻の宮さん、お水は美味しいし、菊は綺麗だね」「え……そ、そうでございますね」 ニワトコはどこか落ち着いて宴を楽しめない様子の彼女を何とか落ち着かせられないだろうかと思案した。せっかくの宴なのにもったいない。また大丈夫と言ってあげるのがいいだろうか――そう思ったその時。「失礼致します」 背後に置かれた几帳の向こうから声がかけられた。女房が何か料理を持ってきたのかと思ったが、続けられた言葉は期待とは違うものだった。「ニワトコ様、帝がお呼びでございます。ご案内いたしますゆえお出ましくださいませ」「「!!」」 ついにきた。ニワトコは夢幻の宮と顔を見合わせて、そして大丈夫だよと頷いてみせる。「いまいきます」 几帳の外に声を掛けて、立ち上がる。こちらの装束にはまだ慣れぬが、衣冠はそれでも動きやすい方に感じた。「ニワトコ様……!」「行ってくるね、夢幻の宮さん」 几帳際で振り返り、ニワトコは笑ってみせた。 *-*-* 女房に案内されて連れて行かれたのは、なんと帝のおわす御簾の内だった。宴の時の御簾の内というのは密談にもって来いなのだと、確か夢幻の宮が言っていた。「失礼します」 おそるおそる几帳の内に歩み入ると、畳で一段高くしたところに、脇息にもたれ掛かって座している人物がいた。ニワトコはその斜め前に座るように示され、半身を御簾へ、半身を帝へと向ける形で座った。「よく来てくれた」「お誘いありがとうございます」 ちらっと視線を向けて見れば、帝は中務卿宮よりも少し年上で、夢幻の宮にはあまり似ていないように見えた。「!」 視線が合ってしまい、慌てて頭を下げる。確かじっと顔を見つめるのは失礼に当たると聞いた。「面をあげよ」「……」「私と女五の宮は似ていないだろう?」 くつくつくつと帝は笑った。肯定してもいいのか、顔を上げたニワトコは少し迷う。「御簾をのけてみると、姫君のようにもみえる。姫が男のなりをしているようだ」「似合わない……かな?」 夢幻の宮が用意してくれた衣冠だ。やっぱり似合っていると言われたい。自身の身体を見下ろしてニワトコは首を傾げる。「いや、なかなか様になっている。単刀直入に言おう。そなたは女五の宮と添い遂げるつもりは?」「もちろん! ずっと、夢幻の宮さんと一緒にいられればいいなと思うよ」 間髪いれぬ答えが面白かったのか、帝はまたくつくつと笑った。やっぱり不思議な人だなぁとニワトコは思う。「私とて、可愛い妹宮の幸せを願わぬつもりは毛頭ない。祝福したいと思う。ただ」 盃を傾けて中身を飲み干した帝は、ちらりとニワトコへ視線を向けて。「ロストナンバーという得体のしれぬ存在に、ようやく戻ってきた妹をやすやすと渡すほど私は愚かではないよ」「……!」 表情は穏やかだがどこか鋭さを感じさせる言葉にニワトコの心臓がドキッとはねた。続けて何を言われるのかとつい身構えてしまう。「けれども私も鬼ではない。妹の選んだ相手を頭から否定するつもりもない。そなたに一つ、頼みたい仕事がある」「お仕事……?」 帝は手酌で盃を満たし、透明な雫を喉に流し込んでから再びニワトコを見つめた。酔っているような瞳ではないことはわかった。酔っているふりをしているのだ、ニワトコは思う。「私が退位した場合、私達の末の弟が次の帝となる。今は東宮という地位にあるが……奴と心打ち解けあう仲になってほしい」「え……」 もっと難しいことを言われるのかと思っていたニワトコは目をパチクリさせて。「お友達になるってことだよね……? それでいいの?」「東宮の信頼を勝ち得たら、そなたに官位を授けよう。宮仕えをしろと言っているわけではない。自由に宮中で過ごせる、そして姫宮を娶るのに支障のない程度の身分だ」「どうして……」 帝の真意をはかりかねて、ニワトコは多少混乱している。帝はそんな彼を面白そうに見つめながら続けた。「次の帝に好印象を与えておけば、私にもしものことがあった場合もこの国とロストナンバーとの関係を続けることができるだろう。それに東宮には派閥に依らない後ろ盾がほしい――中務卿宮の所の姫が東宮妃になれば話はそれで済んだのだが、鬼に攫われたとあってはな」「!!」 そういえば露姫は東宮妃になると決まっていた所、鬼に攫われたように見せかけてロストナンバー達が恋の成就を手伝ったのだった。「東宮妃には最初、添い臥しを努めた姫が内定していたのだが、その姫は事故で儚くなってしまった。その後、漸く決まった東宮妃である中務卿宮家の一の姫が今度は鬼に攫われたとあって、東宮は気落ちして塞ぎこんでしまっていてな。元々草花の好きな気の優しい子で、だが頑固な部分もある。自分のところに来ると決まった姫は皆不幸になると言って、次の東宮妃の選定をやめさせてしまった。自らの命を盾にして」 人の上に立つ者のすることではない、帝は苦笑したが十五歳の少年の負った心の傷は深いのだろう。「下手に側にいる者よりも、知らぬ者相手のほうが心ほどけることもある。そなたを試させてもらうぞ」 くつくつくつ、帝は笑う。「ああ――年は離れてしまうが後々そなたらの姫を入内させても構わぬぞ」 冗談とも本気ともわからぬ言葉を添えて。「えっと……その」 ニワトコは戸惑っていた。とても一人では解決できそうにない。宴など楽しんでいる余裕はない気がしてきた。「……夢幻の宮さんと相談してもいいかな?」 一人で悩むことはない、自分には彼女がいるんだ、そう思い出すと少し心が落ち着いて、言葉を紡ぐことが出来た。「構わぬ。東宮は女五の宮が行方不明になってからすぐに生まれたゆえ、面識はない。二人で協力しても構わぬ」 私が生きているうちに頼む――冗談のような事を言って、帝は笑った。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ニワトコ(cauv4259)夢幻の宮(cbwh3581)=========
宴の場である。楽の音と招待客達が交わす雑談がひっきりなしに聞こえてくるはずなのに、ニワトコと夢幻の宮の耳にはそれは届いていなかった。 自分達に与えられた室(へや)で帝からの命を伝えると、夢幻の宮は表情を固くした後ため息をついた。彼女も複雑なのだろう。ニワトコを厄介なことへ巻き込みたくないという思いと、異母弟を助けたい思いとで。 「霞子さん、ぼく、東宮さんに会いに行くよ」 「ニワトコ様……」 優しく、いつもと変わらない調子でニワトコは向かい合った彼女に告げる。けれども続けられた言葉の奥からは強固な決意も感じられた。 「官位とかそういうのを抜きにしても、東宮さんの心の痛みを和らげてあげたいと思うんだ。宴の中で大勢の人に囲まれていたとしても、きっとひとりぼっちなんじゃないかなって思う」 「……」 「ひとりぼっちは哀しくって心が痛いから」 ニワトコはひとりぼっちの辛さを知っている。だからこそ、ひとりぼっちのときに差し伸べられた手がどれほど嬉しいものかも知っている。 ニワトコは今、ひとりぼっちではない。だからこそ、かつて自分がされたようにひとりぼっちの東宮に手を差し伸べたいと思う。 「それにね、東宮さんは草花が好きで、でも頑固なところもあるんだって。ぼくと似通っているかもしれないって思うんだ」 霞子さんにも一緒に来てほしいと思うんだ――ね? 小さく首を傾げるようにした愛しい人を見て、夢幻の宮は薄く笑みを浮かべる。 「わたくしは、どこへなりともお供いたします」 「ありがとう!」 きっと一緒に来てくれると思ってた、ニワトコは夢幻の宮の手をとって包み込むように握りしめた。 *-*-* ――先触れのあった者達が到着いたしました――案内の女房が東宮の室の几帳越しに声を掛けた。二人が失礼しますと断って几帳の向こうへ入ると、畳で一段高くなった所に座っているのはまだ幼さの残る少年だった。黒髪は軽く結いあげて冠の中へ納められている。訪れた二人に視線も向けずに几帳に凭れたまま御簾の向こうを見つめる瞳は咲き誇る菊の花を映しているのだろうか。 「初めまして、東宮さん。ぼくはニワトコだよ。こっちは夢幻の宮さん。東宮さんのお母さんの違うお姉さんだよ」 ニワトコはいつものニワトコのままで気さくに声を掛けた。それでも東宮は御簾の向こうを見据えたままだ。 「えっと……ぼくも東宮さんと同じで植物が好きなんだ。だから、菊の話でもできたら――」 「――私の側にいると不幸になるぞ」 女房の用意した円座に腰を下ろそうとしたその時、感情の籠らない酷く虚ろな言葉が二人の耳朶を打った。思わず動きを止めてしまう。 「聞こえなかったか。私の側にいると不幸になるぞ」 ゆっくりと首を巡らせた東宮の視線がニワトコと夢幻の宮の間あたりを掴む。初めて正面から見た東宮は、黒目がちの瞳がとても夢幻の宮に似ていて、まるで同母の姉弟のように見えた。 声変わりを終えたばかりだろうやや低くなった声が発するのは、悲しみよりも諦観の籠もった言葉。 「春の宮……」 扇で顔半分を隠している夢幻の宮が搾り出すように東宮の別称を口にした。少年が背負うにはあまりにも大きな絶望と諦観が彼を包み込んでいるのはニワトコにも分かった。自らそう口にして人を遠ざけて、まるで自然に枯れゆくのを望んでいる花のようだ。 けれども彼がそう口にするのは優しさからだとニワトコは思う。もう誰にも不幸になってほしくない、身近な人を不幸にしたくないという思いが彼にそうさせているのだ。 ニワトコはじっと東宮の瞳を見つめた。怯えもせず、怪訝にも思わず、面倒そうにもせず、ただ真正面から東宮を見つめるニワトコの視線と巧妙に避けられていた東宮の視線が絡んだ――その時、黒目の奥にチラリと見えたような気がしたのは、かつてニワトコが抱えていたような孤独。ひとりぼっちの闇。 だから迷わなかった。 「だいじょうぶ、ぼくは不幸になったりなんかしないよ」 「っ……」 東宮の視線を捉えたままにっこりと笑んで。その言葉と笑みに揺らいだのは東宮の方だった。瞠目して、息を呑んで。 「だが、知ってるだろう? 私の元に来る筈だった姫が……」 「あ、ごめんなさい、間違えちゃったよ」 東宮の言葉を遮ったニワトコの衣冠の袖を、夢幻の宮がきゅっと掴んでいる。 「『ぼく達は』東宮さんのせいで不幸になったりしないよ。もしも不幸になるとしたら、それはきっと、自分達のせいだから」 ニワトコは決めていた。絶対に東宮の心の痛みを和らげてあげるのだと。だから、引かない。それは官位のためではなく、ニワトコ自身と東宮のためだ。 「だからぼく達に、東宮さんと一緒に時間を過ごす許可をもらえないかな?」 「許可などしない――と言ったら?」 「どうしようかなぁ?」 試すようなその言葉にもニワトコは笑顔を崩さない。 「ぼく達、困っちゃうよ」 そんなニワトコの態度は東宮にとって珍しかったのだろう。この世界の身分制度に固く囚われないがゆえの自然体な態度。それが東宮には新鮮に映った。少年の、頑ななまでに他者を遠ざけようと纏った空気がかすかに緩んだのを、夢幻の宮は感じ取っていた。 「……勝手にするがいい」 先に折れたのは東宮の方だった。ニワトコから視線を外し、再び御簾の向こうを見据えた彼。その横顔に浮かんでいるのは諦めや呆れではなく、僅かな期待のようなものに見て取れた。 「うん! じゃあね、折角だから菊のお話をしようよ。御簾越しでもわかるくらいに立派な菊がいっぱいだけど、東宮さんはどれが好き? ぼくは花弁が中央に向かってこんもりと盛り上がっているああいうのも好きだし、花弁が管状になってるのも素敵だと思うよ。ここにはない小さい菊も可愛いよね」 ニワトコは東宮の近くに座り、同じ方向を向いた。返事が返ってこないのも覚悟の上であれこれ菊を指さして話しかける。夢幻の宮は弟のために親身になってくれる愛する人の姿を後方から見つめていた。すると。 「……。大菊の厚物と、管物だな。一文字や大つかみも素晴らしい。菊だけに限らず、花はどれも美しさに貴賤はないと思っている」 少しの間を置いてからぽつ、ぽつと独り言のように紡がれた言葉。そこからは植物に対する愛情が十分に感じ取れて、少年の心が全て凍ってしまったのではないとわかる。 「うん、そうだよね! みんながんばって成長して、がんばって咲いているんだもの。誰が一番かなんて決めなくてもいいよね」 東宮の反応を引き出せたこと、それに植物に対する愛情を感じられたことが嬉しくて、ニワトコは懸命に話しかける。十のうち一でも反応が返ってくればいい、その為には沢山話しかけようと思っていたが、不思議と無理をして話題を探さなくてもするりするりと言葉が口をついて出てきた。 (なぜだろう、やっぱり東宮さんはぼくと似ているところがあるのかな?) 東宮はニワトコ達を室から追い出すこともなく、ニワトコの言葉に耳を傾けては時折思い出したようにぽつりぽつりと返事をして。 宴の終わりには、今度東宮御所を訪ねてもいい? というニワトコの言葉に彼は根負けしたとでも言うように頷いてくれた。 *-*-* 残菊の宴から数日の後、ニワトコと夢幻の宮は東宮御所を訪れていた。ニワトコが自分で運ぶよと両手に持った大きな籠の中には、庭師の源蔵に頼んで用意してもらった、今の時期に植えられる花の種や苗が何種類か入っていた。 「……東宮御所ですのに、人が少のうございますね」 御所付きの女房に案内されてニワトコの後ろを歩く夢幻の宮が小さな声で呟いた。恐らく東宮自身が自分の周りから人を遠ざけようとしてるのだろう――不幸にならないようにと。 「でもね、夢幻の宮さん。ぼく思うんだ。それだと一番不幸になってはいけない人を不幸にしているんじゃないかって」 だから――こちらでお待ちを、と女房に告げられて立ち止まったニワトコは夢幻の宮を振り返って。 「ぼくは彼を助けてあげたいと思うんだ」 「……はい」 今のニワトコは東宮を支えるように添う枝であり、東宮を照らそうとするおひさまのようだ……夢幻の宮は自分の心がいつも照らされている暖かさを改めて実感して、瞳を潤ませて微笑んだ。 *-*-* 「草も花も私のせいでっ……!」 「「!?」」 そんな苦しそうな声とともに聞こえてきたのは、どんっという鈍い音。小走りに廊下をかけてきた案内の女房が「東宮様は今、ご機嫌が」と口ごもるのを制してニワトコは廊下を進む。 「後はわたくし達にお任せくださいませ」 慌てる女房を夢幻の宮が落ち着かせ、彼女も後を追った。 「東宮さんっ……!?」 東宮が立っていたのはニワトコ達が案内された対の庭。庭の木の前に立つ彼の右腕は握りしめられていて、強く木の幹に押し当てられていた。先ほどの音は彼が木に拳を打ち付けた音だろう。 その原因は庭を見れば明らかだった。花が植えられていたと思しきその場が、見るのも痛々しいほど荒らされているのだ。花弁は散らされ、茎や葉は踏みにじられて、根っこは掘り出されている。 「酷い……」 夢幻の宮が呟いた通り、酷い有様だった。けれども荒らされたのは庭だけではない。植物を大切に思い、その日々の移り変わりを楽しみにしていたであろう東宮の心も同時に踏みにじられたのだ。 誰がやったのかはわからない。けれども今は犯人を見つけることは重要ではなかった。 「人だけにあらず、私は植物までも不幸にしてしまうのかっ……」 「そんなことないよっ!」 ニワトコは階を使わず、沓も履かずにそのまま庭へと飛び降りて東宮へと駆け寄った。 「東宮さんのせいじゃない、自分を責めないでってこの子達は言ってるよ」 「そんなことない! 私を恨んでいるはずだ!」 「植物はそんなことしない。与えられた環境でせいいっぱい成長して、頑張って綺麗に咲くんだって東宮さんだってよく知っているでしょう?」 「……!」 はっと気付かされたようにニワトコの瞳を見つめる東宮。だから、と口にしてニワトコは籠を置いてしゃがみこんだ。そして横たわる草花の残骸を一箇所に集める。 「この子達によく頑張ったねって言ってあげて欲しいんだ。そして怖がらないで新しい種を育てよう? 植物が好きなんでしょう?」 「――好きだ。だが……」 「だいじょうぶ、ぼくも手伝うよ。だから」 少しずつ、少しずつ東宮の心がほぐれていくのが、廊下から様子をうかがっていた夢幻の宮にも見て取れた。ニワトコの隣にしゃがみ込んだ東宮は命を散らされた植物達に撫でるように手をかざして、小さく「守ってやれなくてすまぬ。今までありがとう」と呟いた。 「東宮さんの愛情は、きちんと伝わっているよ」 「ニワトコがそう言うと本当に植物達の気持ちが伝わってくるようだ」 東宮は泣きそうな顔をして笑んだ。 ニワトコが持参した植物を二人は協力して植えて、荒らされた庭を修繕していく。種や球根が多いので花が咲くのはまだまだ先。元通りになるのは遠いけれど。 (秋が去って冬の寒さを耐えて。そして春になって花が咲くように。彼の心も温かくなる日がくればいいと思う。すぐじゃなくても、少しずつでも) 百合の球根や撫子、矢車草や菜の花を植えていく東宮の横顔を見ながらニワトコは思った。彼の表情からはいつの間にか諦観が薄れていて。 「この花が土に根付いて、春を待てるのは東宮さんのおかげだ。だれかを幸せにできる手だよ」 柄杓で手ずから水をやる東宮の動きが止まる。何か言いかけたのを封じるようにニワトコは言葉を続ける。 「だから、自分で自分をふしあわせにしては駄目。少なくとも、ぼくも夢幻の宮さんもそれは哀しいから」 はらり……種を植えたそこに降り注いだのは、少年の心の雫。自ら零してはいけないと戒めていたであろうもの。 「……もしよかったら、これからも御所を尋ねてもいいかな? 東宮さんと、この花の成長を見るために」 「ああ……むしろ私の方からお願いする」 ありがとう、心からの笑みを浮かべてニワトコは夢幻の宮を振り向いて。彼女が何故か驚いた顔をしている理由がその時はわからなかったけれど。 帰りの牛車の中で『それ』を指摘されて慌てて確認したのは彼女の頭上。 そう、二人の頭上には夢浮橋の真理数が明滅するように浮かび上がっていた。 【了】
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