色のない世界だった。 スタンリー・ドレイトンが真っ先に思い浮かべたのは、水墨画だ。どこまでも無彩色だが、あの絵のように強弱や濃淡はある。 そこに、にやにや笑いを浮かべた猫がいた。 いや、正確には猫のようなもの、だろうか。まるで子供が被るお面のように、厚みのない顔だけがそこにある。 そして、その猫には色があった。アメシストを思わせる、深みのある紫だ。艶々とした毛並みも見る事が出来た。 よく来たね! ようこそ! 色のある旅人! 女王様のゲームは 佳境に入ったばかり チェス? リバーシ? 結局は陣地取りさ 君が何の駒なのか おいらは知らないけどね! 突然、猫が歌を歌った。 歌というよりも、言葉に奇妙な節をつけただけとも言える。それが直接頭の中に響いてくるかのように聞こえてきたのだ。 「きみ――」 声をかけようとすると猫の顔は、木の葉が風に吹かれて飛ばされるかのようにひらひらと舞い、遠ざかり始めた。 スタンリーは、それを追って歩みを速める。 茸のような形をした木々の合間を行く間、猫はこちらのスピードが緩めば待つように漂い、また速まれば逃げる。 やがて、森の暗がりは終わり、視界が開けた。 広場のようになったそこには、大きなテーブルがあり、様々な動物たちでひしめき合っていた。皆、ティーカップを持っている。 そして、無彩色の動物たちの中に、一人だけ色のある者がいた。 ほっそりとした体に黒いエプロンドレスを着た彼女は、まるで荒れた地に一輪だけ咲く花のように、麗しい存在感を放っている。 彼女はスタンリーに気づくと、優雅な微笑みを浮かべた。 「失礼。もしやアリスというのが、貴女のお名前では?」 問われ、彼女は少し首を傾げてスタンリーを見る。 「その名前、わたくしには少々幼すぎはしませんこと?」 確かに、彼女の持つ雰囲気は、あの物語の少女とは重ならない。 「でも、今はそう呼んでいただいて構いませんわ」 彼女はそれから、動物たちが集まるテーブルを手で示した。 「お茶会をしておりますの。良かったらご一緒にいかが?」 スタンリーは招待を受ける事にし、彼女に導かれるままテーブルへと向かう。動物たちは、人が増えた事には興味がないようだった。 「この前は帽子屋だ! 帽子屋が死んだ!」 突然、ネズミが大きな声を出す。すると、嘆く声があちらこちらで上がった。 スタンリーがアリスを見ると、彼女は少し迷うようにしてから、話し始める。 「先日、わたくしたちの仲間である帽子屋さんが亡くなりました」 そこで一旦言葉を切り、意を決したようにまた口を開く。 「影の女王の手にかかって」 その名前が出た途端、騒がしかった周囲の声がぴたりと止んだ。そして皆一様に、怯えた顔をする。 「いきなりこんな話をしてごめんなさい。……どうぞ」 アリスに促され、スタンリーが席に着こうとしたその時、目の前を何かが横切った。 あの猫だ。 猫の足先にティーポットとカップが引っかかり、そのまま倒れてしまう。中身が零れ、陶器の割れる乾いた音が周囲に響いた。 猫は、ついうっかりしていてね、とでも言うかのようにこちらを振り向くと、にやり、と笑ってその場を去る。 「すみません」 アリスがこちらに背中を向けたまま、小さな声で言う。 「これは特別なお茶なんですの。せっかく用意しましたのに……」 彼女は、まるで猫などそこに存在しなかったかのように振舞い、チェックのテーブルクロスの上に散らばった欠片を拾うと、手のひらの上に載せた。 「このカップ、ウサギさんの目の濃淡が素敵でしたのに」 「ウサギの目は赤いって決まってるさ!」 アリスの言葉を聞き、心外だとでも言うように、ウサギが口を出してくる。 「そうね、綺麗な赤だったわね」 アリスが微笑んで答えると、ウサギは満足そうに頷き、またお茶を飲み始めた。 しかし。 「アァ! あべこべ! あべこべだ!」 突然、ウザギは両手で頭を抱え、大声を上げる。周囲の視線がそちらへと集まった。 ウサギは目をぎょろぎょろと忙しなく彷徨わせてから、何かを言おうとして口を開きかける。 ぽん。 だが、空気の抜けるような間の抜けた音とともに、ウサギの頭が破裂した。黒と白の液体と断片が、びしゃり、と辺りに飛び散る。動物たちは悲鳴を上げてテーブルを離れた。 皆が遠巻きに見る中、ウサギの残骸はちりちりと縮み、消えてなくなる。 アリスは動物たちとは違い、ただそれを静かに見守っていたが、やがて悲しげに目を伏せた。 「また……女王の仕業ですわ」 彼女はスタンリーの方に向き直った。 「わたくしには、色があるでしょう?」 そして、揺れる眼差しで彼を見る。 「それはまだ、影の女王の支配下にはないからです。ですからわたくしは、女王を倒す計画を練っていました。帽子屋さんは皆を集め、率先して協力してくださったんです。でも、いざ実行という段階まで来て、殺されました」 彼女は、堪えきれなくなったかのようにスタンリーに縋りつき、胸に顔を埋めると、声を殺して泣きだした。 「わたくしも、いつ殺されるかわかりません……とても怖いのです。どうか、助けてください」 スタンリーは思わずアリスを抱きしめる。 彼女の体は見た目よりもずっと細く、頼りなかった。 その夜、アリスに呼ばれ、彼女の住む家へと向かう途中、スタンリーの前に、あの猫がまた姿を現した。 猫は、相変わらずのにやにや笑いを浮かべている。 「きみも、影の女王の支配下にはないのだね」 スタンリーの言葉に、猫はまた奇妙な歌で応えた。 おいらは そこにもいないし ここにもいない 誰の指図も受けない風来坊さ ああ でもあの娘が またお茶会に誘ってくれたら そこに行くかもしれないなァ! 「きみは、何かを知っているのかね?」 さかさま さかさま 空は真っ黒 影は白 あべこべ あべこべ 光が眠って 影が遊ぶ 女王はアリスを殺せない アリスも女王を殺せない そこにいるのは だあれだ? 「来てくださったのですね」 アリスはスタンリーの顔を見て、ほっとしたように言い、家の中へと迎える。装飾品もほとんどない、簡素な家だった。 部屋の中を、白いランプがぼんやりと照らす。 「お茶をどうぞ」 スタンリーがソファーに座ると、テーブルに湯気の立つティーカップが置かれた。 「ほう、これが特製のお茶かね。良い香りだ」 彼はカップを手に取ると、静かに傾ける。 「葉巻を吸っても?」 「ええ、どうぞ」 アリスの許しを得、彼はシガーケースから葉巻を取り出すと、火をつけた。 「早速だが本題に入りたい」 煙を吐き出し、スタンリーは単刀直入に切り出した。 「アリス、きみこそが影の女王だ。違うかね?」 「まぁ、冗談が過ぎるわ」 アリスはそう言って笑い、窓の外を手で示した。 「では、あの城に住んでいるのは誰なのでしょう? 実際に沢山の人たちが殺されていますわ」 その先には、影の女王が住むという城が、そこだけライトアップされたかのように白く、夜に浮かんでいる。 「あべこべ、だよ。アリス」 一向に姿を見せない『影の女王』と、『真実』を語るアリス。 「きみはお茶会の時、割れたカップを見て、ウサギの目の『濃淡』が素敵だと言ったね」 「だってそうでしょう? 実際にウサギさんの目は濃淡で表現されていましたわ」 アリスの言葉に、スタンリーは静かに頷く。 「確かに、私にも白黒のグラデーションにしか見えなかった。でも、元々の色を知っている者には、その記憶がある。もちろん、ウサギ君が知っているアリスにもあるはずだった。色の記憶を持たないのは、『余所者』だけなのだよ」 彼はそのまま話し続ける。 「今見えているのは、影の女王のいる世界の風景だ。影の女王の世界には、無彩色しか存在しない。だから女王は、それ以外の色を理解できない。それで、ウサギ君もきみの正体に気づいたのだろう」 「忘れていたという事だってあるでしょう?」 「ああ、それももっともな言い分だ」 そう笑い、スタンリーはスーツの胸ポケットに手を入れる。 「では」 そして、小さな手帳を出してみせた。 「この革製の手帳は、何色かね?」 アリスはじっと、その手帳を見つめる。 「それは」 暫くの沈黙。 やがてアリスは、ふっと微笑んだ。 「茶色ですわ」 スタンリーはアリスを見据えたまま、首を小さく横に振る。 「違うね。正解は、黒だ」 アリスは目を見開き、そして唇をきっと引き結んだ。誘導された事に気づいたのだ。 スタンリーはまた葉巻を口にし、煙を吐き出す。 「あの城には、恐らく本物のアリスが囚われている。きみの力では、彼女を殺す事が出来ない。だから民衆に殺させる。そうすれば、この世界は完全にきみの物だ」 彼が語るのを止めると、部屋の中は静寂に包まれた。 夜は、ただ佇んでいる。 「ふふっ」 アリスは花の蕾が綻んだかのように、小さく笑った。 その笑いは大輪の花となり、咲き乱れ、弾ける。呼吸を荒くし、目に涙を浮かべ立ち上がり、体をくねらせ、足が踊るように動き出す。 「なんて」 ひとしきり笑った後、肩で息をし、髪を乱しながら、アリスは天を仰ぎ、そしてこちらを見た。 「なんて愚かなのかしら、貴方って。そこまでわかっていながら、こんな所まで来るなんて。そのお茶は特別だと言ったでしょう?」 「どういう事かね?」 あくまで静かな物腰を崩さないスタンリーに、苛立つような目を一瞬してからアリスは言った。 「そのお茶は、わたくしの一部で出来ていますの。ウサギさんを壊した仕掛けですわ」 それはつまり、自ら影の女王を体内に取り込み、侵食を許すということだ。 「命乞いをなさるなら、貴方をわたくしの一番の奴隷にして差し上げるわ」 青い瞳に見つめられ、スタンリーは小さく息をつくと、言葉を発した。 「アリス、きみはとても美しい。それに、中々の役者だ」 アリスは目を細め、口の端を上げる。だが、その表情はスタンリーの次の言葉で凍りついた。 「だが、詰めが甘い」 「何ですって?」 アリスは、今度は顔をはっきりと歪めた。 「そんな事を言える立場なのかしら? いいわ、ならば確かめてみましょう。――まずはその右手から壊すわ」 彼女はそう言い、勝ち誇った笑みを浮かべる。 しかし、スタンリーもまた微笑むと、ゆっくり葉巻を吹かした。 アリスの顔が訝しげに歪み、やがて焦りを浮かばせる。体から力が抜けていくのを感じ、彼女はよろめくと、床に片膝をついた。 頭を何度も振り、彼女はスタンリーを見る。 「何を、したの……?」 彼は葉巻をアリスに向けてみせた。 「実は私の葉巻も特別でね。ああ、それと」 そして世間話でもするかのように、穏やかに言葉を続ける。 「特製のお茶は飲んでいないよ。せっかく招かれたのだから、失礼のないように飲むふりはしたがね」 「何……ですって……」 煙の強力な催眠作用によって、アリスの意識はどんどんと遠のいていく。 もう体を支えているのもままならない彼女に向かい、スタンリーは言った。 「私はきみを殺さない。女王を裁くのは、民衆の役割だ。――もっとも、私自身の経験から言っても、独裁者というのは碌な末路を辿らんがね」 影の女王は歯を食いしばり、憎悪に満ちた目でスタンリーを睨みつけたが、やがて深い深い眠りに落ちた。 彼女が目覚めると、動物たちは喜びの声で迎えた。 カナリアは黄色く、ネズミは茶色で、トカゲは緑だ。 「失礼。もしやアリスというのが、貴女のお名前では?」 スタンリーが穏やかに尋ねると、彼女は笑顔で頷いた。 「ええ、そうですわ」 金の髪が、降り注ぐ陽光を掬って眩く跳ね、空と同じ色の瞳が輝く。 白いエプロンドレスを着た彼女は、もう一人のアリスが持たなかった、瑞々しい生気を放っていた。 「そうだわ。せっかくですから、ご一緒にお茶でもいかがですか?」 アリスに誘われ、スタンリーは優しく微笑んでから、こう口にした。 「喜んで」 ふと気がつけば、アリスの後ろには、あのにやにや笑いの猫がいた。アメシスト色の太い尻尾が、ぴょこんと立っている。 「おや、きみもこちらに来る事にしたようだね」 スタンリーがそう言うと、猫は今度は奇妙な歌ではなく、しゃがれた言葉を発した。 「お茶会に呼ばれたからなァ!」 そして、にんまり、とスタンリーが今まで見た中で一番大きな笑みを、その顔に浮かべた。
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