ターミナルはいつものようにざわざわと活気に満ちていて、騒いでいる子供や、仲の良さそうなカップルや、忙しそうに歩く人が行き交っていた。 そんな中を、ヘルウェンディ・ブルックリンは気だるげに歩く。 広場に出ると、ジューススタンドでジュースを買い、何気なく噴水のある方を見た。 そこには若い両親と幼い娘が、ジュースを飲みながら並んで座り、楽しげに話している姿がある。 ヘルは少しいたたまれなくなり、視線をそらす。その先に、血を吐く男がいた。 ――二度見した。 やはり、男が血を吐いている。立ってはいるが、足もとが怪しい。 「ちょっとあんた大丈夫!?」 考えるより先に、体が動いていた。 ◇ 「サンキュー! 嬢さん」 とりあえずベンチに横にならせ、買ってきた水を渡す。 男は体を起こし、それを一気に飲み干すと、また咳き込んだ。慌てて背中をさすってやるが、案外元気そうだった。彼はヘルに興味深げな視線を投げかけてくる。 「嬢さんは、誰かと待ち合わせかい?」 「いいえ」 男の問いに、ヘルは首を振る。 「学校は? サボりか?」 「別に、そういうわけでも……何だかあんた、先生みたい」 「ビンゴ! 先生だぜ!」 何気なく漏らした言葉への反応に、ヘルは目を丸くする。 カーサー・アストゥリカと名乗ったその男は、高校の教師をしているとのことだった。 そのまま世間話をしているうちに、わけあってヘルが家出中であることを知ったカーサーは、ニッと笑って提案をする。 「嬢さん、家庭教師は要らないかい? 助けてもらった礼に教えるぜ?」 少し迷ったが、勉強はやっぱりきちんとしておきたいし、教えてもらうのも良いかもしれない。ヘルはその申し出をありがたく受けることにした。 「HAHAHA! 俺は超スパルタだぜ、覚悟しな嬢さん!」 その妙なテンションの高さに、ちょっと失敗したかなという思いがよぎったりもしたが、ヘルは覚悟を決めて頷いた。 ◇ ◇ ◇ 最初の授業の日、まずテストが行われた。ヘルの実力をある程度把握するためだ。 テストは教科も幅広く、簡単なものから難しいと感じるものまで様々だった。 良く意図はわからなかったが、問題をやった感想も書けと言われたので、問題を解きながら、それも適当に書いていく。 テストの最中、ふと顔を上げるとカーサーと目が合った。サングラスをかけているから合ったというのも違うのかもしれないが、その度に手を振ったり、笑みを見せたりする。試験監督にしてはこちらを見すぎのような気もした。 妙なことを考えていなければ良いがと思いつつ、何かしたらぶっ飛ばしてやると決意を固め、ヘルは気持ちを切り替えると、テストに臨んだ。 「オーケー!」 テスト用紙をヘルから受け取ると、カーサーはそれにざっと目を通し、言った。採点する気はないようで、何がオーケーなのかさっぱりわからない。 「じゃ、本格的に始めるぜ! 覚悟はいいな!」 カーサーのその言葉にただならぬ気迫を感じ、ヘルは思わず息を呑み、頷いた。 「まず立ち上がって片足をアップ!」 「は?」 「アップ!」 とりあえず言われたままに席を立つと、片足を上げてみる。 「両手を広げて! 体を前に傾ける!」 納得が行かないものの、何か意味があるのだろうとやってみるが、中々バランスが取りづらい。 そこでカーサーは親指をぐっと立てると、眩しいほどの笑顔を見せた。 「セクタン・オウルフォーム飛翔のポーズ!」 「はっ? ふざけ――」 「キープ!」 カーサーの真剣な表情に圧され、ヘルはそのまま踏みとどまる。 それを確認すると、カーサーは手に持っていた封筒からフリップを取り出した。 「第1問!」 フリップには『1+1=?』と書かれている。 「バカにしてんの!? 2よ2!」 「グレート! 続いて第2問!」 フリップには『3279+2558=?』と書いてあった。 「え、ちょ、ちょっと待ってよ」 ポーズのバランスを崩さないように注意しているため、普段よりも時間がかかってしまう。 「5837!」 「ファンタスティック!」 そんな状態のまま、問題は続けられた。 「第20問! 『ターミナルの広さを計算せよ!』」 「無理無理無理無理!!!」 また別の日には「今日は登場人物の心情を読み解いていくぜ!」と、台本を渡された。 「ボク、都会に行きたいポン……ポン」 「もっと大きな声で感情込めて!」 「ボク、都会に行きたいポンポン!」 「ムーヴメントもつけて! もっとアグレッシブに!」 「ボク、都会に行きたいポンポン! ポンポンポン!!」 「クール! 嬢さん女優になれるぜ! ――さて、ポン太は何故都会に行きたかった?」 「えっと……ポン太は、きっとダメな自分がイヤで、変えたかったのね」 「残念! 正解は、ローストビーフが食べたかった、です!」 「わかるかぁぁぁぁぁぁっっっっ!」 そんな独創的――といえば聞こえがいいが、ハッキリいって変な授業が続いた。 そればかりだったらもう断っていたかもしれないが、時々間にマトモな授業も挟まるので、そこまでは踏み切れないものがある。 もしかしたら、それがカーサーの手なのかもしれない。 「あれ? この問題、思ってたより簡単」 今日もカーサーの授業が終わり、彼が帰った後も少し問題集と向き合っていたところ、苦手だった問題が、いつの間にか解けるようになっている。 何気なく時計を見ると、始めてから大して時間は経っていなかった。 そういえば――と、ヘルは思う。 ここのところ、ずっとそうだった。僅かな時間で問題を沢山解けていることもあるし、逆に時間を忘れて勉強をしている時もある。 どちらも、とても集中できているということだ。 考えてみれば当たり前なのかもしれない。ハイテンションなカーサーに喋りかけられながら問題を解くわけでもなく、変なポーズのまま解かされるということもない。 大体、授業の大半がよくわからないものなので、せっかく家庭教師に来てもらっているのに逆に不安になってしまい、自主的な勉強の時間を前より取るようにもなっていた。 「なんだかなぁ」 ヘルはそう呟き、苦笑する。 カーサーは、ずっと「出来ないって言葉は禁止だ!」と言っていた。ただの精神論かとげんなりもしたが、その一方でヘルは気づいていた。 引き出しをあけ、紙の束を取り出す。一番最初にやったテストだ。 出来なかった問題の横には「こんなの出来ない」「私には無理!」などと書かれていた。 そうやってずっと、自分自身に言い聞かせてきたのだということに。 ◇ ◇ ◇ 「今日はサービスデイだ!」 次の授業の日、唐突にカーサーが言い出した。もうヘルはそんなことでは動じない。「サービスデイって?」と淡々と聞き返す。 「可愛いくて素直でプリティで女神のような我が教え子に、デートの極意ってやつを教えてやるぜ!」 それから、カーサーのバイクに二人乗りし、映画館やゲームセンターに出かけ、思い切り遊んだ。 遊ぶ時のカーサーは、いつもとは違い――ということもなく、いつも通りだった。 きっと彼は、ずっと自然体なのだろう。 家の前まで送ってもらい、ヘルはバイクから降りると、ヘルメットを外す。 今日は、とても楽しかった。それだけで良いはずなのに、少し気を許すと暗い気持ちがいつの間にか忍び寄って来て、隙間へと潜り込んでくる。 「おいおい、そんな暗いツラしてちゃ、せっかくの可愛いさが台無しだぜ!?」 「私、そんな暗い顔してた……?」 「してたしてた! 『私すっごく悩んでるから、先生に聞いて欲しい!』ってな」 「ひどい。人が真剣に悩んでるのに」 ヘルが膨れっ面でカーサーを睨むと、彼は芝居じみた動きで両手を広げた。 「奇遇だなぁ。俺も超真剣に教え子の話が聞きたくてさ!」 「何それ」 カーサーがそんな風だから、ヘルの口からも思ったよりも軽く、言葉が滑り出してくる。 「どうしても許せないヤツがいるの」 何か茶々を入れられるかと思ったが、カーサーは黙っていた。 ヘルは大きく息をつくと、話を続ける。 「で? 嬢さんはどうしたいんだい?」 話を聞き終わり、こちらを見て笑んだカーサーの表情が、いつになく柔らかい。 「どう……って?」 「たった一度きりの、ビューティフルでワンダフルな人生を、そんな男のために棒に振るのかってことさ! 俺みたいにイイ男も世の中にはめっちゃくちゃいるんだぜ!」 ヘルは、小さくため息をつく。 「それはそうだけど……許せるはず、ない」 実父のことを思うと、怒りと憎しみがない交ぜになった感情が、どろどろと出来損ないのスープのように焦げ付き、胸の中を悪臭で満たす。 両親の顔が浮かび、温かい気持ちが湧いても、すぐに申し訳ない思いと一緒にスープの中に混じり、余計に気持ちを重たくする。 そして自分も、そんな男の血を間違いなく引いているのだ。 「ポン太の気持ちなんてわからない――だろ?」 「え?」 唐突な言葉に、ヘルは目を瞬かせる。 「『わかるかぁぁぁぁぁぁっっっっ!』って言ってたよな」 サングラスの奥でウィンクしている目を見、ヘルは数日前の授業を思い出していた。 「ポン太の気持ちを考えたトコで、必死で演じたトコで、ポン太の本当の気持ちなんてわかりっこないよな! 俺がポン太なら、あなたはこう思ってますね! 配点は40点! とか言われるのは真っ平ごめんだぜ!」 カーサーの言いたいことが良く理解できず、ぽかんとしているヘルに、「そうそう!」と今度は別の話題が投げかけられる。 「嬢さんの将来の夢は?」 少し戸惑ったものの、それは自信を持って答えられた。 「警官よ」 大好きな養父の、誇り高き職業だ。 「警官は足で捜査するって言うだろ? 現場百篇、証拠きっちり揃えてさ。俺は警官じゃないからわかんねーけどな!」 そしてHAHAHA! と陽気に笑うカーサー。 それを見ているうちに、ヘルの中で、彼の今までの言葉がすっと繋がった。すると感情がどっと湧き出してきて、思わず声が荒くなる。 「私が思い込んでるだけだって言うの? あんな酷い目にあったのに!?」 周りの人達の冷ややかな目。疎んでいて、蔑んでいて――怯えている目。 耳をつんざくような銃声と、飛び込んでくる銃弾。 抱きしめてくれた母。悪へと立ち向かう父。 「いや」 けれどもカーサーは、静かにかぶりを振る。 「嬢さんの思ってる通りなのかもしれねぇ。だが、違うかもしれねぇ。俺が聞いた限りで判断できんのはその程度だ。だがもし、まだ知らないことがあるなら、自分でとことんまで調べてみるこった。勉強だってそうだろ? それから悩んだって、怒ったって遅くない」 「それは……」 セピア色の写真。 青い石の指輪。 死亡記事。ぐしゃぐしゃになった灰色の新聞。 自分が見て、感じて来たこと。知っていること――事実。 ――事実? たわんだ背広の背中。肋骨の折れる音。 ヘルをかばい、満身創痍になった身体。 銀縁のメガネ。 自分が知っていることは何で、知らないことは何だろう。 実父を許せたわけでは、勿論ない。 でも何か、今までとは違った扉が開いたような感じがして、気持ちが少しだけ楽になったように思えた。 「ま、わかるまでお預けにしとくんだな! わかる問題から解いて行くのも基本だぜ! HAHAHA!」 「そう……なのかも」 大声で笑うカーサーを見ていると、自然と顔がほころぶ。 最初はテンションの高さについていけなかったし、周囲の注目を集めるのも恥ずかしかったが、慣れると元気が出てくるのが不思議だ。 「見た目はチャラ男だけどイイ男……いいえ、いい先生ね」 微笑んで、ヘルは借りたヘルメットをカーサーに投げて返す。彼はそれをキャッチすると、手の上でくるくると回してみせた。 「でも、嬢さんって呼ばれるのはイヤだわ」 ヘルは腰に手を当て、カーサーに強気な視線を送る。彼は大げさに首を竦めて見せると「俺としたことが失礼!」と、これまた大げさにお辞儀をした。 「先生と認められたトコで、改めて宜しく頼むぜ! ――ヘルちゃん」 また『ヘル』か。 そう思いつつも、納得はしていた。その愛称が自分に似合っているということなのだろう。自分が思っている自分と、人から見えている自分は違うのだ。 「それならまあ、悪くないわね」 そう言って腕を組んだヘルを見て、カーサーはまたHAHAHAと笑う。 つられてヘルも、いつもよりも少し大きな声で笑った。
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