● チャリン 硬貨を空に放り投げる。 人混みの中、カモの足をこっそり引っかけて自分の方によろめかせて、それを親切に支えてやったフリをして懐の財布をスリ盗った。チョロい仕事だった。 「本当によくやるよ。お前は」 「褒めたって分け前なんてやらねぇよ」 「お前はそういう奴だよ」 「わかってるのに聞くなよ」 「へいへい。どーせスリの技術のない俺はかっぱらいにでも精を出しますよ」 「お前、足も遅いけどな」 「本当にそういう奴だよな、お前」 母親が死んで、まあ色々とあって。生まれ育った娼館を飛び出してからはスリやかっぱらいのその日暮らし。そんな暮らしをリエ・フーは悪くないと思っている。 この辺は官憲に目をつけられぬように徒党を組まずにひっそりやってる奴らが多かった。それでも、そういう界隈でうまい事やっていく為の顔見知りくらいは出来る。リエと同じように身軽な立場の男と軽口を叩きあう。 自分のねぐらの廃墟手前のボロボロの家屋――酷いあばら屋だけれど、これでも対価を支払って手に入れていたりする――に帰って一眠りしようかと思ったリエは、ふと道の先に倒れている女を見つけた。小柄な身体、色褪せ煤けた服、白髪交じりの長い髪。 (行き倒れか……) あまり関わり合いになる気のないリエは足早に通り過ぎようとしたが、違和感を感じ立ち止まる。それは違和感というよりは既視感。 髪に刺さった櫛。さほど高価には見えない何て事のない櫛だったが、リエには見覚えがあった。リエがしゃがみ込んで櫛に手を伸ばすと、追い剥ぎにでも遭うと思ったのか女がびくりと身を震わせた。 「あんた……」 そうではないとリエが声をかけると、その声にハッとしたように女が顔を上げた。 (やっぱり) 「リエ……」 ベテラン娼婦だった女だ。リエが娼館にいた頃はあれこれリエにかまってきていた。だから、リエにはその女の櫛に見覚えがあったのだ。 「シャンリィ……あんたどうして? いや、わかった」 「わかるだろ? ざまあないね」 何故こんな所にと尋ねるまでもなく、女の顔色を見れば一目瞭然だった。流行病だ。そうでなくとも年をとって客を取るのが難しくなってきていた頃合いだ。そこに病と来たら、あっという間にお払い箱だ。 「家は?」 帰る故郷はないのかとリエは問うたが、女はふっと笑った。 「帰る場所なんてないさ。だからここに流れてきた。そう……こんな所にいたんだね、リエ」 「……」 「元気そうでよかったよ……」 自分が酷い状態だというのに、心底ホッとしたというような声音で女は呟いた。 「よかった……」 囁くような細い声で再び呟くと女は重たそうに瞼を閉じた。娼館を追い出されて行く当てもなく彷徨って、病に蝕まれた身体はもう動く気力も尽き果てたようだった。 リエはそんな女をひょいと担ぎ上げた。女は何かを呻いたけれど、リエは気にしなかった。大柄ではないリエには少々重たい荷物だったけれど、元より小柄で更に痩せ細った女を担ぐ事が出来ない程ひ弱ではない。そのまま遠くはない自分のねぐらへとリエは彼女を運びきった。 「ちょっと我慢しろよ」 玄関先で泥やら埃を少し乱暴に叩いて落としてから、立派ではないがこんな所にしては清潔な寝床に女を寝かせる。 「どうしてこんな……」 戸惑う彼女など気にもせず、リエは手近にあった顔拭きに使っていた布を水につけた。固く絞った布で手足を拭いてやりながらリエは答えた。 「借りは返す。それだけだ」 そう、彼女に対してリエは借りがあった。奪い取ったならそれでいいが、借りっぱなしなのは気持ち悪い。 娼館にいた頃、小さなトラブルをリエが起こすたびに、彼女はそれとなく助け船を出してくれていた。 大した見返りもないのに、面倒見よくリエに接してきた。お節介だ、煩わしいと思う事がなかった訳ではない。でも、この女がいたから自分の娼館時代は少しだけマシなものだったと思う。 「……ありがとう」 礼には何も答えず、リエは尋ねる。 「腹、空いてるだろう? 食えるの?」 「喉に張りつくから、ぼそぼそしたものはあまり……」 「そ」 リエは短く答えると食事の支度を始める。ヒビの入った竈に火を点ける。こういう事が出来るのも、まだ元気だった頃の彼女がリエに根気よく教えたからだ。まだ客の相手を出来ない子どもだったリエには雑用の仕事が常に与えられていて、それらのやり方を頬も尻もひっぱたく事なく笑って教えていたのは彼女くらいのものだった。 たまたまあった米。リエはガラクタのような鍋に水を足す。こんな風に粥を作るのは久々だったが、昔は何度も何度も飽きるほど作っていた。美容にいいだかなんだかで、娼婦達は粥を好んで食べていたのだ。当時は大鍋で大量にだったが、やる事はそんなに変わらない。 リエが出来上がった粥を運んでやると、女はそれでも自力で半身を起こしていた。 「ほら、冷める前に食えよ」 「焦がさなかった?」 「……あんたが教えてくれたんだろう?」 「覚えてるのね、焦がさないコツ」 「あれだけ言われて忘れるほど馬鹿じゃねぇよ」 「そうだね。あんたは何一つ忘れていやしないくせに、忘れたフリばかりするんだよ」 「……」 「まったく、躾のなってない困ったガキだったよ」 実母は(よく言えば)放任主義だった。忙しかったせいもあれば、性格もあっただろう。だが、とにかく代わりに子守をしてくれていたのは彼女だったのだ。 「あんたは手の焼けるガキだったよ」 噛みしめるように女は言う。 「そうか」 「おっかさんを恋しがって火がついたように泣いていた」 当時の姿を瞼の裏に思い浮かべているのか、女の口元には微笑が浮かんでいる。 そう、そんな頃もあっただろうか。 泣いて泣いて、泣きわめいて。五月蠅いと怒鳴られて泣いて、更に喧しいと殴られて泣いて。泣きやまないと酷い目に遭うのだけれど、泣きやむことが出来なくてどうにも出来ない時。そんな時に優しく頭を撫でた柔らかな手のひらの感触。 「……昔の話さ」 昔の話ねと女は囁く。 「昔……私の子供は流れちまってね」 それは知っている。更にはその時に子どもを産むことが難しくなってしまった事もリエは知っている。 そして、彼女はきっと子どもを望んでいたであろうことも、あんなところにいたけれど家族を欲していた事も、リエは知っていた。わかっていた。 「色々うるさく言ったけど、あんたの事、本当の息子のように思ってたんだ。嗤いなよ」 「嗤わねえよ」 嗤わない。嗤えない。 それに何かを言おうとして、けほっと女が咳き込んだ。小さな咳は止まらず、次第に苦しそうな大きな咳となる。なんとか咳を押さえ込むも、ひゅうひゅうとかすれた吐息が漏れる。 「……寝たら?」 「悪いね。あんたの寝床を奪っちゃって……」 「あんたみたいなばーさんじゃないから、何処でも寝られる。ばーさんは床で寝かしつけたりしたら、後であっちが痛いこっちが痛いって五月蠅いだろ?」 「ふふっ……本当にあんたはろくでもない」 「躾が悪かったんじゃねーの?」 「そうだね」 ――あんたは最高にいい子だよ―― 声は小さく本当に小さなものだったけれど、口の動きだけでもそう言ってるのがリエにもわかってしまった。女はそのまま苦しそうな吐息を漏らしながらも目を閉じて眠りについてしまったけれど。 「ホント、以外な程に面倒見がいいわね」 目覚めた女にリエが粥を運んでやると、感心したように彼女は言った。 「借りは返すといったろ?」 「そう。たくさん貸してた甲斐があったわね」 「まあ、いつ踏み倒してもいいんだけど」 「死んでしまう前に返してくれよ。さもなきゃ化けて出るよ」 冗談めいた口調でさらりと女は言った。死んでしまう前にと。 「……払いきるまで死ななそうだな」 「そうだね。回収しなきゃもったいないもの」 「守銭奴」 「……有銭能使鬼推磨」 「あんた、当分死なないんじゃないか?」 そんな軽口を叩き合えていたのば本当に最初の内だけで。 女はみるみるうちに症状が悪化していき、瞼を閉じている時間の方が長くなっていった。熱も高く、苦しげなうわごとを吐き続ける。 「ごめんね、お母さん、ちゃんと産んであげられなくって。貴方を死なせてしまったの……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」 うなされながら、両手で顔を覆っている。辛そうな声。母から子への懺悔。 「ちゃんと生まれられなかったんだ。仕方ない」 「ごめん、ごめんね……」 女の閉じられたままの瞼から涙が溢れていた。しばらく謝り続けていた女は、ふと目を覚ました。 「……私、五月蠅くなかったかい?」 自分がうなされていたんじゃないかと女は思ったようだが、リエはあえてきちんと返事をしない。 「いつもの事だろう、口うるさいのは」 「まったく……」 くすくすと女は笑った。楽しそうに笑うが、それすらも今の彼女の体力では辛いようだった。 その晩、女はリエが粥を口元まで運んでやっても、ほとんど食べることが出来なかった。リエは重湯を用意してやりながらも、食べ物が食べられないという状態に小さく顔を顰めた。 「坊や坊や、何処にいってしまったの……私のかわいい子……何処、何処へ」 寝台に横たわったまま、虚空へと突き出される両腕。筋肉も痩せ衰えて腕を上げるのもしんどいだろうに、女の両手は大切な子どもを探して宙を彷徨う。 「……ここにいるよ。母さんのかわいい子はちゃんとここにいる」 リエが片手を差し伸べると、その骨と皮ばかりの手でしっかりと握られた。強い力。この手を離したら、もう二度と我が子に会えなくなると怯えているのだろう。 瞳には既に何も映っていないはずだ。この声が誰のものかもわかってないかもしれない。聞こえていないかも知れない。 女に握られた手は熱く力は少しも緩まない。リエは空いていた片手を女の手の甲に添えた。 「母さんが起きるまでここにいる。どこにも行かねえ」 両手が熱い。リエは振りほどいたりせずに、じっとしていると徐々に安心したのか、握られた手の力が緩んでいく。そっと両手を外して立ち上がる。 「……リ……エ…………」 「え?」 その場を離れようと背中を向けかけていたリエは振り返るが、女はひゅうひゅうと掠れた寝息を立てるだけだった。 肌は乾燥して唇はカサカサで、頬は熱で紅潮しているけれど、表情だけは本当に赤子の寝顔のように穏やかだった。そのまま眠っているのを再び確認すると、リエはそっとその場を離れた。 「ただいま……」 「……」 返事なんていつもあるわけじゃない。でも、感じる違和感。寒々しい空気。人のいない、冷たさ。 寝台の女を見て、リエは全てを悟った。 艶の失われた髪、深く皺の刻まれた目尻、痩せこけた頬。辛く苦しい旅路を終えた彼女の最期の表情は、何故か不思議な程に穏やかだった。 「おやすみ」 母さんと彼女の為の最後の言葉をリエは口の中で呟いた。
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