胡乱な月光が格子窓からぬるりと筋を立てている。 その影に稚児が一人、だらしなく開け放った口蓋から長く伸びた舌を垂らし、血泡の混じった涎をこぼしながら臥していた。 濁った眼球に生気は無く、その魂はとうの昔に陽へと転じ、魄のみが残り稚児の身体を繰っていたのだ。もっとも、その魄ですら、稚児のそれのものではなかったのかもしれないが。 稚児は動く屍として遣わされたものにすぎない。つまるところ、この家――インヤンガイという街において名の知られた泰后家に係わりを持つ者でも、泰后家に稚児を遣わした術師に係わりを持つ者でもないのだ。術師が道行く稚児を捕え殺したものなのかもしれない。あるいは墓で眠っていた稚児を術師が掘り起こしたのかもしれず。いずれにせよ、そこには稚児の意思の介入など皆無なのだ。 泰后の当主・柳寛は横たわる見知らぬ稚児の屍を見下ろしながら、白いものの混じる眉をしかめた。 この稚児は柳寛の命を狙い、泰后家を襲撃したのだ。現に門番と使用人が合わせ八名ほどが喉笛を噛み砕かれ死んでいる。稚児の口に溢れる血泡が稚児自身のものであるはずがない。噛み砕き殺した者達のそれなのだ。 もっとも、この稚児が纏っていた呪は、柳寛の手により打ち負かされた。呪は呪をかけた術師のもとに返り、術師の魂魄を喰らい呪っただろう。 ――だが、柳寛の危惧は別のところにあった。 柳寛の命を狙った術師は何者なのか? 否、術師自身は恐らく柳寛とはさほど係わる者ではないかもしれない。問題は、その術師の裏にいる何某かが誰なのか、だ。 柳寛には心当りがある。そしてその通りであるとするならば、彼は彼の息子に罰を加えねばならないのだろう。 ◇ リエ・フーと業塵が請けた依頼は、半年ほど前より行方をくらましている柳寛の一人息子の捜索だった。流祥という名のその若者は名門を冠する泰后家の本家に生を受けながら、父親・柳寛との折り合いが悪く、長い確執を経た後、ある夜突然失踪してしまったのだという。 恐らく今回柳寛の命を狙い術をかけてきたのは流祥であるのだろう。表情固くそう告げる依頼主に、リエは薄い笑みを浮かべて「ふぅん」と返し、業塵は聞いているのかいないのか、どこ吹く風といったふうに表情ひとつ浮かべもしない。 そも、依頼主は柳寛本人ではない。名を佑元と名乗る眼前の男は、柳寛の腹違いの弟、その息子だという。腹違いゆえであるのか、あるいは単に長子ではないからという理由のゆえか。佑元の父は分家に甘んじ、鬱々とした暮らしを送っているらしい。 しかし、佑元自身は分家に生まれついた事を気に留めてはいないという。一見すれば色香すら漂う面を持つ優男でありながら、佑元は切れ長の目をすらりと細め、笑みを浮かべた。 「流祥とは齢も近く、子どものころは親の目を盗み遊んでいたものです」 懐かしげに頬をゆるめ告げる声音はひどく静かだ。リエは工芸茶を口に運びながら依頼主の乱れぬ表情を見つめ、小さくうなずく。 「で? 話を聞く限り、あんたの親父さんは分家筋に甘んじている身に不満があるみてえだけど。あんたはどうなんだ?」 「僕ですか」 リエの言葉に、佑元は顔をあげた。欠けた月のかたちにも似た双眸は、やはり糸ほども表情を変えない。黒壇のような眼にリエの姿が映されている。 「僕は大仰な名になど興味はない。父は確かに柳寛様の存在を疎ましく思ってもいるようだけど――。しょうじき、泰后という家名が代々継いできた荷は重過ぎて」 負おうという気にはなりません。 そう言って、佑元もまた茶器の中でゆらゆらと波打つ茶葉の花を見つめた。 「ただ、本家に協力したいとは思う。本家も分家も、いがみ合うばかりではいずれ泰后という家名ごと衰退もしてしまうでしょう。それは僕も望むところではない」 葉の上に宿る蟲のごとく身じろぎ一つ見せずにいた業塵が、ようやくわずかに眉を歪める。落ち窪んだ目をひょろりと動かし、黙したまま、佑元の顔を盗み見た。 リエは業塵が見せた小さな動きを察しているのか否か、かまうことなく茶を干し口を拭う。 「そうかい。まぁ、依頼は請けてやるよ。流祥って野郎が生きていようが死んでいようが、消息はあんたに報告してやる」 勝気に笑うリエに、佑元はやはり笑みを貼り付けたままの面をあげて口を開けた。 「お願いします」 分家筋とはいえ、やはり泰后という家名の大きさのゆえなのだろう。豪奢な造りのなされた家の門を後にして、リエは小さく首を鳴らした。数歩ほど後ろを歩く業塵を振り向き、声をかける。 「で? てめぇはどう思う」 佑元が発していた、ごく微量の違和感。それはあの崩れぬ表情が醸し出していたものなのだろうか。あるいは、纏う空気の異質感か。 業塵はリエの言を受けわずかに視線を持ち上げた。色濃い隈をつけた眼が虚ろな表情を浮かべ、リエを見据える。 「……儂か」 「ああ。てめぇ、さっき、ちらっと表情変えただろう。あん時、何を考えた?」 「……うむ」 手にしている扇子を畳み、それで己の首をひたひたと叩きながら、業塵はわずかに押し黙った。 インヤンガイの猥雑とした風景とは逸した閑静な風景が周りに広がっている。上流階級に値する家系にある泰后家は、昔からインヤンガイの一郭を有し、そこに住んでいるのだ。 白壁の屋敷と広い畑や川が並ぶ風景は、暮れゆく薄い闇の中に沈みかけている。柳の木が風をうけひっそりと葉擦れの音を落とし、川は流れる水の気配を伝えていた。 しばしの沈黙の後、業塵はようやく顔をあげて応えを述べる。 「彼の男……中々に面白い」 「面白い?」 「匂いが濃い」 「匂い?」 業塵の応えにリエは首をかしげた。それから頬を歪めて数歩、業塵の傍に近寄る。 「そいつぁ、血の匂いってやつか」 業塵の顔を覗きこむように顔を近付けて、囁いた。業塵は眼前近くに迫ったリエの顔に関心を寄せるでもなく、しかし、小さく首肯する。 「分かるぜ。あの佑元って野郎、血の匂いがしてやがった。平和好きそうなこと謳いやがって、……あいつぁなかなかの曲者だ」 言って、リエは後にしてきた佑元の屋敷に目を向けた。 白壁の向こう、仰々しい門戸に、今はちらちらと揺れる灯火が薄闇を照らしだしている。 業塵もリエに倣い、振り向いてその火影に視線を向けた。 まるで薄闇を舐めるように揺れている。 佑元は父である玄楼とは棟を別とし暮らしているのだという。とは言え、この一帯が玄楼の有する土地なのだ。分家とはいえ棟をいくつか有することの出来る程度の財力を持っているということなのだろう。 佑元曰く、玄楼は数ヶ月ほど前から身体の調子を崩し臥しているのだという。限られた者との面会しか得られないという旨だ。すなわち、リエと業塵は玄楼に会うことは不可能に近いということになる。 「分家筋の側にあるヤツからも話を聞くのが本筋ってもんなんだろうがなあ」 玄楼の棟を前に、リエが頭を掻く。門扉は閉ざされ、ひっそりとした空気だけが漂っていた。 長子・柳寛とは腹を逸し生をうけた玄楼だ。あるいは、その内に抱え持つものもあるかもしれない。 ふと、業塵が砂利を踏みゆらゆらと歩き出した。リエが業塵の歩みの先にあるものを検めると、そこには畑の帰りであろうと思しき風の女が数人立っていた。 「……問うが」 何の前置きもなく口を開け訊ねかけた業塵に、女たちは訝しげに顔を曇らせる。 「あんたたち、本家の遣いかなんかかい」 「……否。佑元より依頼を請けた者なのだが」 隈の深い眼光をわずかに閃かせ、業塵は女たちを見やる。女たちは業塵が佑元の名を口にしたことで幾分か表情を和らげた。 「いくつか訊きてえんだが」 もそもそと口の中で言を編む業塵に代わり、リエが歩みを進めた。 女たちが互いの顔を見合わせる。リエは艶然とした笑みをのせ、懐こい目を作り女たちの顔を覗きこんだ。 ◇ 業塵が扇子を宙で揺らしている。ともすれば舞踊のそれに見えなくもない所作ではあるが、眼を凝らせば扇子の先より数匹の蟲が薄闇の中に飛び立っていったのが知れただろう。 その蟲の行く先を見つめながら、リエは女たちから聞いたいくつかの情報を反芻した。 玄楼は兄・柳寛との長い確執の末、己の息子佑元を泰后の主として立てる事を願っているのだという。 聞くに、玄楼は実際に術者としての力はさほどには持たず、代わりに商才を有していたらしい。元々泰后家は大きな力を保有する家系ではあったのだが、そこに玄楼の商才が足され、この数十年でより強固な力を付けたらしいのだ。 しかし、佑元は父とは異なり、術者として天才的な能を持ち、生まれた。一方で本家筋の跡取りとして生まれた流祥は術者としての才も商才も何にも秀でず、ただ無駄に泰后の財を食うばかり。 これを疎んだのは玄楼であった。なぜ天才的な能を持つ息子ではなく、流祥のような阿呆が泰后を継ぐのか、と。 ――つまり、怪しむべきは玄楼か。 考えながら、しかし、頭の隅に息衝く違和に眉をしかめながら、リエは視線だけを業塵に投げやった。 業塵は茫洋とした視線を宙に投げたまま、根の生えた草木のように身動きしない。 陽は西に沈み、空は今や夜のそれへと沈んでいる。ちりちりと響くのは夕闇に目を覚ました虫どもの唄だ。かさかさと柳の葉が風を受ける。 「……成程」 やがてぼつりと口を開けた業塵は、扇子で口許を隠しながらかくりと首を曲げ、リエに顔を向けた。 「流祥と思しき者が見つかった」 「へぇ。で? 阿呆は今どこにいるんだ?」 訊ねたリエに、業塵はゆらりと眼を細ませる。 「この川の袂に」 「……川?」 「既に骸と化しておる」 ◇ 業塵が放った蟲どもが川の上を滑るように飛び交う。 川の澄んだ水の下、蛆に食まれる肉すら無くなった骸の穿った眼孔の中、糸蚯蚓が川の流れをうけさざめいていた。 ◇ 数刻の後。本家――柳寛のもとへと赴いたリエと業塵は、佑元に支えられ、杖をつきよろめき立つ壮年の男の姿があるのを見とめた。柳寛曰く、その男こそが玄楼なのだ、という。 「依頼はこなしたぜ」 重い沈黙を破り口を開いたのはリエだった。 流祥の屍は川の底に沈んでいた。川底でもさらえば見つかったのだろうが、何分にも川があるのも玄楼の敷地内なのだ。あるいは、誰かひとりぐらいは彼の屍を見つけていたのかもしれない。 沈黙は金。その諺はどの国に伝わるものであっただろう。 下手に騒ぎを起こせば己の命も危ぶまれるかもしれない。そんな状況下で、誰が流祥の屍を見つけたなどと報告するものか。 苦虫を潰したような表情を浮かべるのは老いた当主と、病に臥す異母弟だ。互いに目を合わせるでもなく、砂利の上に敷かれた布、その上に置かれたされこうべに目を落としている。 「……泰后が築いてきた歴史がどれほどの厚みを持つか、分かっているか? 大兄」 やがて口を開けたのは玄楼だった。 「泰后は屍を繰る能に長け、旅路の先で死んだ者の帰郷を促したりもする。あるいは屍を遣い暗殺を手掛ける術にも長けている。そうして長の時を経て、こうまで強固な家を編み出したのだ」 「何の能も持たぬお前が何を唱えようと、戯言にすぎぬ」 「その歴史を、斯様な阿呆が継ぐは愚の極み」 「戯言よ」 「我が息子が阿呆に代わり泰后を継ぐが正当たる結論!」 「黙れ! お前のような無能、そもそも泰后に生まれ落ちた汚らわしい胤が!」 柳寛が声を荒げる。次いで喉を震わせたのは玄楼だった。 「本家など消え失せよ!」 呪を吐き、玄楼は押し止めようとする息子の腕を払い、残る力の総てを用いて柳寛に襲いかかった。 眼前で繰り広げられる安い喜劇を、リエも業塵も留めようともしない。 リエの足もとで楊貴妃が砂利を踏み鳴らす。 血飛沫があがった。 砂利の上に鮮血の雨が降る。 されこうべが玄楼の首に喰らいついたのだ。むろん、されこうべは流祥の変わり果てた姿に他ならない。骨ばかりとなったその指で玄楼の頭を抱え、欠けた口蓋を喉笛に突きたてる。 玄楼は事態を把握することも出来ないまま、何事かを呟き、そしてそのまま崩れ落ちた。 その向こう、涙で頬を濡らす佑元の姿があった。 「我が父は咎を犯した」 嗚咽を洩らし、膝をついて、佑元は柳眉をしかめとめどない涙で頬を濡らす。 「本家の跡取りを疎み命を奪うなど、あってはならない悪行。……柳寛様、ご覧の通り、咎を犯した父はこの手で討ち滅ぼしました。……願わくば、どうかお情けを」 口もとを覆い嗚咽をもらして肩を震わせる佑元に、柳寛がわずかに歩み寄りかけた、そのときだ。 「玄楼は術を行使する能を持っていなかったんだろう?」 リエの声が闇を揺らす。 佑元に向け手を伸ばしかけていた柳寛の動きが止まった。リエはどこか愉しげに肩を竦める。 「仮に流祥を殺したのが玄楼だとしても、だ。だったら、屍を動かすっていう能を持つのは、少なくとも泰后の中には柳寛と佑元、ふたりだけってことになるんじゃあねえのか?」 うたうように告げたリエの言に、佑元の動きも止まった。 「……可笑しな話よ。……死者が術を使えるはずもない。ならば柳寛を狙いし稚児を繰ったの術師は何者であったのか」 「玄楼は数ヶ月前から病床に臥してたらしいな。そいつは急な病だったのか? で? 柳寛、あんたが稚児に狙われたのはいつだったんだ?」 業塵とリエが交互に言を落とす。 「時に、佑元」 業塵が視線を佑元に向け移ろわせた。 「佑元は、返された呪を他者に降ろす事は可能か?」 問うた次の瞬間。 佑元の哄笑が闇を裂いた。 「うまくいくと思ったのだがなあ! ハハハハハ! 何ら能のない阿呆どもは生きているだけで咎! ならばせめて死して贖罪するが務めだろう!?」 親父も、能無しのごく潰しも、老い先短い当主も、すべてが消え失せるが最善。そうしてその座には自分が収まることこそが相応しい。 そう言って嗤い、佑元はゆらりと立ち上がった。 夜の闇を落とした双眸がまっすぐに柳寛を捉えている。 「老いぼれ、お前も死ね」 柔らかな笑みを浮かべたまま、佑元は静かにそう告げた。玄楼を喰い殺したされこうべが砂利を踏み、柳寛を定めて歩み出す。 血泡を垂らしながら、かぱりと口蓋を開いた。 カ、カカカカッ カカッ 嗤ったのは、誰だっただろうか。 業塵が胡乱な視線を持ち上げる。リエがその視線に気付き、その先にあるものを捉えた。 「死ぬのはあんたみてえだな」 ゆらりと持ち上げた指先で、リエは佑元の後ろを差した。 そこには暴霊と化した玄楼の姿があった。粘つく闇を纏い、泥の底を思わせる黒々とした眼光を閃かせ、腸の垂れた唇には愉悦を浮かべ、嗤っている。 「――なんだ」 佑元は肩越しに振り向き、背に迫る暴霊の姿を見る。 真なる闇が嗤っている。
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