「ああ?」 リエ・フーは、不覚にも瓢箪から出た駒でも見たような、頓狂な声をあげた。 たまたま小耳に挟んだ、閑静な水の街に囁かれる噂話。 その内容は、子供の姿をした亡霊が地下水路を彷徨うという――、「ンな話に今時ビビる奴が居んのかい?」 リエが一笑に付すのも無理からぬ、怪談と呼ぶにもお粗末な代物だった。 だが、全くあり得ぬことでもない。 ツーリストの中には幽体離脱をやってのける者や、そのもの霊と言って差し支えない者も、多くはないが確かに居る。むしろ数が限られれば周囲からは認知され易いはずであり、その環境下で、例えば彼らが人を脅かすような悪戯を企てたとしても、容易に看破されてしまうだろう。 また、ツーリストである以上は旅客登録されているのだから、現行犯で捕らえられなくとも目撃者が世界図書館で照合すれば特定できるはずだ。 よって――可笑しな言い草だが――0世界においては、霊性の顕著なツーリストほど幽霊騒動とは縁遠い存在、ということになる。 皮肉ってのも少し違うか。リエは、埒もない己の思考に口の端を吊り上げようとして――結局笑わぬまま――代わりに眉根を寄せた。 そうだ、違う。その手のオチなら誰でも気付く。 ならば、とうの昔に収束していても良さそうなものではないのか。 だが、聞けば未だ亡霊の噂は囁かれ続け、目撃談も後を絶たぬという。「…………」 その話をした人物と別れてから、リエは遠くを見据えた。幾つもの建物に隔てられ、凡そ目視の及ばぬ遥か向こう――水路の街まで貫くように。 ――暇潰しにゃなりそうだ。 ターミナルの一角に、閑静な水路街区がある。 元々は、あるコンダクターが望郷の念に駆られて水路を敷いたという、ただそれだけの場所だった。しかしその後、水辺を好むロストナンバー達が寄り集まり、徐々に建物が増えて、やがてひとつの市街地を形成するに至った。 奇しくもそれは、水路を建立した人物の故郷――すなわちヴェネツィアに、良く似ていた。 そして、現在。水路街区は知る人ぞ知る、ちょっとした穴場である。 日々の喧騒を忘れてのんびり過ごしたい時などはうってつけの場所だし、評判のカフェやグリルもあると聞く。他にも住宅の合間に様々な店が点在しており、中には水路を経由しないと絶対に辿り着けない、偏屈なところまであるらしい。 食事や買い物はそこそこにして、街を探索してみるのも良いだろう。 楽しみ方は人それぞれだ。 だが、そのせいなのか、さして広くもないはずのこの区域について誰かに尋ねてみても、話す者によってまちまちな答えが返って来る。 尚も興味が増すのなら、行って確かめるしかない。 自分なりの水路の街を、見出すために。「ってわけで、地下水路を孩子がうろついてやがるのは間違いねえらしい」 だが、それだけだ。 その子供が何者で、何の為に地下水路に潜み、何をしているのか。この点は誰に訊ねてみてもひとつとして同じ答えがなく、およそ荒唐無稽なものを除いてさえ可能性の枝が分かれていくばかり。 中でも比較的ありそうなものを挙げるとすれば、まずはリエ自身真っ先に考えたツーリストの悪戯説。過去にも一部の者から疑われ、実際にひとりのツーリストが槍玉にあげられたらしいが、結局解決には至っていないのだから、この線は薄いだろうか。 もうひとつは、水路創立者の連れ子という説。こちらは、真偽のほどは置いておくとしても場所柄と結び付けて考え易く、一応ありそうな話だ。 しかし、そもそも『幽霊』と称される必然性が見出せない。噂とはそうしたものと言ってしまえばそれまでだが、目撃者全員が揃って嘘を吐いているのでもない限り、必ず何かしらの原因があって然るべきである。 今のままでは、まるで噂それ自体が、幽霊のようだ。「ま、ここで四の五の言っても始まらねえ。まずは行ってみねえか?」 リエは、向かいの席に座る男を見上げるようにしながら、気安く言った。 男――ディガーのほうはと言えば、当初より地下水路(の特に地下というか『地』の辺り)に惹かれていたか否かは余人の与り知らぬところだが、ともかく誘われるなり、大柄な体躯に似合わぬほど目を輝かせながら何度も頷いて、同道の意思を表明した。「……でも、ターミナルじゃ珍しいね。地下なんて」「かもな」「地下……」 温和で邪気のないこの男、こう見えて地下に類する場所での働きには侮れぬものがある。伊達に日頃から穴掘りばかりしていない、ということか。今しがた自らが発した言葉にときめく様が微笑ましくもあり、少々不安にもさせるが。 今回のような探索行には、まさにうってつけの人材である――、「ねえ、そこって掘ってもいいのかな……?」「硬えだろ」 ――と思いたい。 始めはちょっとした肝試しのつもりだったが、なまじ考えるほど、水でも掴もうとした気にさせられる。掴めないのなら、いっそ――飛び込むのみ。 早々にささやかな希望を打ち砕かれて涙目のディガーを伴い、リエは好奇心に身を委ねることにした。!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>リエ・フー(cfrd1035)ディガー(creh4322)
水の向こうには塵ひとつ見当たらない水底、面に抑揚の無い青空とのんびりした街並みを背景に、シャベルを担ぐ大柄な青年の立ち尽くす様が映る。彼は、振り向いて嬉しげな顔を浮かべたり、その後首を振ったかと思えば時折左右を見渡したり、また振り向いたりしながら、とにかく落ち着きが無い。何か待っているのか、あるいは自制しているようにも見える。 そのツナギに覆われた肩にやがて波紋が広がると、水面に映る虚像の本体――ディガーは、ゆらゆらと訪れる一隻のゴンドラを、これまた明るい表情で迎えた。 パイプを咥えたゴンドリエーレの老人が小舟を岸に導くと見るや、唯一の乗客である少年はそれを待たずに立ち上がるなり、無造作に丘へ飛び移る。 「ここで宜しいですかな?」 「おう、世話ンなったな」 客の奔放さを気にした風でもない老人の声に短く応じ、少年は、その年恰好に似つかわしからぬ世慣れた目を肩越しに向けた。 ゴンドラは完全に静止している。 「なんの。……時に、帰りはどうされるおつもりで」 少年――リエは、やはり年齢不相応の子供染みた感情表現ばかりする相棒を一瞥してから、不要の旨を告げる。 「なにしろいつ『出て来る』のかも判らねえ」 ディガーには、その顔がどこか浮かないように見えた。 老人も何か心得たように「そうですか、そうですな」と帽子のつばを下げる。 「では、爺はこれで失礼しますよ。……ご縁があると宜しいですな」 またとは言わず、客の居ないゴンドラがゆったりと去るのを見送ってから、ふたりはやっと互いの顔を見合わせた。 「待たせちまったな」 「大丈夫、楽しみは後に取って置いた方がいいって言うしね……! リエさんこそ、何か収穫はあった?」 「色々な。……ま、ここに突っ立って長話も無ェだろ。とっとと行こうぜ」 「う、うん!」 尚も物憂げなリエは心配だがやっぱり今すぐというか先に到着して以来落ち合う約束とさっさと中に入りたい狭間の葛藤で苦しんでいたディガーは、どうやらその一言をこそ渇望していた。 更にリエが漸く少し笑いを零したことで、僅かな憂いは彼方へと消え去り、ディガーは喜び勇んでその第一歩を踏み出すのだった。ひょっとしたらリエが地下に興味を抱き始めているのでは――と、何やら奇妙且つ主に彼にのみ都合の良い予感及び待ち焦がれた地下探索の実現に、胸を高鳴らせながら。 清かと言うには寂しげな水音はくぐもって響く地下水路の内部は暗く、外の明るさも相俟ってリエの目にはとりあえず何も見えない。だが、それも傍らを往く楊貴妃が点けた灯火でふわっと橙色に染まり、すぐに輪郭を得る。 「石造りだから音が響くね」 そう言うディガーの声、ふたりの靴音、どこか遠くで絶え間無く続く放水や小さな滝の音――悉くが、どこか湿り気のある木霊を返す。 ディガーは壁に掌を突き、何か確かめるように上を見上げていた。 「水音がなければ、もっと遠くまで聞こえるんだけど……」 「へえ」 そいつは凄え――リエは『聞こえる』ことの意味を即座に理解し、感心する。ならば水音があって尚、ディガーには音の響き方だけである程度の構造が把握できるということか。あるいは人の動きさえ察知できるのかも知れない。地下が得意だとは聞いていたが、これは幽霊探しも思いの外捗りそうだ。 「これでも結構アテにしてんだ。頼むぜ相棒」 「えっ、……うん!」 汚れを知らぬ少年そのものの仕草で力強く頷いた大男は、やや先行して鷹揚に歩く。リエとて怯みはしないが、身に備わる習性もあって無警戒とまではいかないのに。仮にも幽霊の徘徊を噂される現場に居ながら、ディガーはまるで闇に頓着しないようだ。 「少しぐらい怖くねえのか?」 「……多分あんまり。だって、襲ってくるんじゃないみたいだし……」 「そういうもんか」 そもそも霊という存在に馴染みが無い為か、ディガーは居ても良いと思うとしながら「でも」と続けた。 「間違えて吊るし上げられた人……すぐ下ろしてもらえたのかな?」 彼が気に懸けているのは幽霊よりも、むしろその濡れ衣を着せられた人物の処遇であり、引いては一連の出来事の顛末のようだ。どうも吊るし上げを言葉通りに捉えているらしいディガーにあえて合わせる形で、リエは応えた。 「どっちかってえと無理やり下ろされた、ってとこかな」 トラベラーズカフェでの打ち合わせの後一旦ディガーと別れたリエは、まず世界図書館へと向かった。特に水路建立から街区成立の間に起きた事案をリストアップし、やがてある報告書に辿り着いた。僅か数編の紙切れに纏められたそれは、かつての幽霊騒動とその顛末。0世界にて知らぬ者は無い、真面目が服を着て歩いているような世界司書の署名が添えられている。 「昔あった亡霊騒動の報告書さ。大体は聞いてた内容と被るんだけどよ」 発端は水路建立者の失踪。彼は水路沿いに街ができた頃に見かけなくなり、数年経っても目撃報告が無いので、そのうちどこかで野垂れ死んだのだろうと誰もが思うようになった。だが――、 「暫くしてから、水路建立者を見掛けたって奴が出始めた。普通なら帰って来たと思いそうなもんだが……知っての通りそうはならなかった」 水路建立者の亡霊が彷徨っている――そんな噂が住民の間で実しやかに囁かれるようになった。 「なんで亡霊なんだろう? 透けてたのかな?」 いかにも妙だと言わんばかりのディガーに、リエは「さあな」と肩を竦める。そしてナイフで壁に印を刻みながら、こうも言った。 「ロクに確かめもしねえで鵜呑みにする奴が多かったんだろ」 最初の目撃者は『死んだはず』の人物が街を徘徊していると吹聴した。目撃者は徐々に増えていき、噂はターミナル全域にまで広がって、ついには世界図書館に知らせが入る運びとなった。 実害は無いが不安を募らせる住民も居る以上放置すべきではない――そう判断した図書館は、ロストナンバー達に真相の究明と事態の収束を依頼した。 「解決に乗り出したロストナンバーは、あるツーリストを真っ先に疑った」 「どうして……?」 「そいつが幻惑能力の持ち主で、おまけに水路建立者のダチだったからさ」 「でも、それだけじゃ……」 「ああ。短絡思考もいいとこだ」 しかし、他に――積極的に調査したのかも甚だ疑問だが――有力な手掛かりも見つからず、彼らは最初に見出した容疑者の身柄を拘束した。当人は、少なくとも0世界で他者に幻覚を見せたことは無いと容疑を否定したが、事情聴取されている間に亡霊の目撃報告が無かったことも災いし、身の潔白を証明するには至らなかった。 鬼の首でも取った気になったロストナンバー達はそのツーリストを0世界から連れ出して、壱番世界のさる人里離れた極寒の地に置き去りにした。事実上の追放である。 「もしその人が犯人だったとしても、止めるようにお願いすれば済むことなんじゃないのかな……」 「何が何でも口を割らなかった――実際やってねえんだから当然だが――その上、まあ結構な騒ぎになってたらしくてよ。そいつらなりに考えた『事態の収束』なんだろ」 リエは、冷ややかに応えた。ディガーに対してでは無く、おそらくは当時のロストナンバー達に向けて。 「で、莫迦どもが意気揚々とターミナルに戻ってみると――」 彼らが沈静化したはずの亡霊騒ぎは尚も続いていたと言うわけだ。 自分達の過ちに気付いた何名かがツーリストを迎えに行ったものの、どこにも居らず、幾ら探しても、トラベラーズノートで連絡を入れてみても、決して見つかることは無かった。 「……酷いね」 ディガーの沈んだ声は、水音と混ざり合った。リエは尚も続ける。 「そんなこんなで結局事件は解決しないまま終わっちまった」 あれほど広まっていた噂話も新たなロストナンバーを迎え入れているうちにターミナル市中から聞こえることは無くなった。一方水路街区内においては、真相が不透明なまま、亡霊に関する様々な憶測が飛び交うようになった――。 「あれ? でも、亡霊は子供って言うのは……」 ひと通りの事実を聞いて浮上した疑問に、ディガーは振り向く。 「だからよ――水路を造った奴のガキじゃなくて、『水路を造ったコンダクターがガキ』ってこった」 ディガーはその解に、あっと声をあげた。考えてみれば0世界では当たり前のことだ。時間的な制約から解放されたロストナンバーである以上、その気になれば幾らでも建築技術や工法と用水の知識を学び、蓄えられるのだから。外見が幼くとも、その心や知識がいつまでも未熟なままとは限らないのだから。例えば――リエがそうであるように。 既に齢数十年は過ぎようかと言う少年は、ポケットから四つ折に畳んだ紙片を取り出して、ディガーの眼前に広げた。楊貴妃が前に跳ねて明かりを照らす。そこにはハンチング帽にオーバーオール姿の利発そうな少年が描かれていた。そして人相書きの下部には、同じ綴りがふたつ肩を並べている。 「『トリスターノ・トリスターノ』……?」 かの人物の名前をたどたどしく読み上げるディガーに、リエは頷く。 「ダメ元で例のツーリストのねぐらにあたってみたが、案の定誰も居ねえ。ついでにこの界隈でも聞き込んでみたが役に立たねえ情報ばっかだ。強いて言うならトリスターノとか言う奴と亡霊の姿が人相書きでほぼ一致したってことぐらいか。裏が取れたって意味じゃ実にはなったけどよ」 「じゃあ、ここは幽霊とかじゃなくて、その子が住んでる……のかな」 顔を見合わせていたふたりは、徐に未だ踏破していない遥か先を見た。 もう随分歩いたようにも思え、未だ入り口付近に立っている気もしてくる。リエが度々壁に目印を刻みつつ羅針盤を確かめ、ディガーがその構造を聞き分けていなければ、とうに迷っていたことだろう。もっともディガーに言わせれば、 「大丈夫。石だからちょっと時間かかるけど、出口なら作れるよ!」 とのことだ。リエはそんな状況にならぬよう、密かに誓いを立てておいた。 しとしとと方々で流れ落ちる水さえも寂しさを誘う。 「……こんな場所にガキがひとりぽっちってのは寝ざめが悪ィ」 「僕ならそんなことないけど…………あ! 判った!」 いつになく藪から棒に大きなディガーの声にフォックスセクタンが身を強張らせる。その様を確かめながら、リエは「あん?」と眼を細めた。 「何か気が付いたことでもあンのかい?」 暗がりの中でディガーの目が妙にきらきらしているように感じられる。 「きっと、その子は地下が大好きなんだ。それでこんな噂を立てて……人を集めて地下の魅力を伝えてる!」 「…………」 突如展開された超理論に俄か絶句したリエの態度を否定と受け取ったのか、ディガーは「あれ? 違う?」などと困った顔で腕組みをする。 「じゃあ……地下水路を一人占めしたくて、他の人に近付いて欲しくない!」 とか――今度は逆の可能性を示す。但し、地下好きと言う点ではぶれない辺りがディガーらしさか。つくづく変な奴だとリエは思わず笑ってしまった。 「ま、面白くていいんじゃねえか」 「面白い? 地下が? 良かった……」 ディガーの拡大解釈については放って置くことにしたものの、特に後者の意見には何か引っかかるものがある。閉塞感の強い場所に好んで長居する壱番世界人は珍しい。何かあるはずなのだが――少しばかり材料が不足しているようだった。 「ところでよ。今のところ何か聞こえたりはしてねえのか」 もう角を幾つ曲がり、水路を何度飛び越えたのかも知れない頃、リエは問うた。 「それなんだけど……おかしいな……?」 ディガーは壁面を小突いたりしながら、何事かを感じ取っていたようだ。 「どうした?」 「実は……」 聞けば、先刻より時折小柄な人間の足音らしきものが聞こえては消え、また全く別の場所で聞こえては消え――と言ったことが断続的に起きていたと言う。それもあろうことか、遥か後方かと思えば、次は向かう先から聞こえたりする。 「それを先に言ってくれよ」 「ごめん……。はじめは勘違いかなあって思ってて……でも」 「でも?」 「今話してる間……すぐ後ろの角のところに居たみたい」 「ンだと!?」 ディガーが全てを言い終えた時、リエは既に振り返っていたが――誰も居ない。 「もう……居ないんだけど……」 おずおずと言い添える相棒の声が、虚しく響いた。 「へっ……亡霊ってわけか」 しかし、此処に至るまでの間、リエは隠し通路の類いが無いか念入りに調べても居た。それらしい仕掛けが方々にあるのなら気付いていそうなものだが。 近くに居たのなら、向こうもリエ達に気付いているはずだ。 「言いてえ事があんなら聞いてやっから出て来い!」 「あっ」 「失礼な連中だな」 「!?」 突如、抑揚の無いボーイソプラノが微かな不服を示す。発信源は水路を挟んで向かい側の曲がり角――ハンチングを目深に被った少年だ。小振りなとんかちを片手で担ぐように肩に掛け、もう一方の手は無造作にポケットを膨らませている。 「どうだ、僕が透けて見えるか?」 水じゃあるまいし――少年は人相書きと一致する背格好で、溜息混じりに肩を竦める仕草をして見せた。 「……てめぇがトリスターノか」 「いかにも。そう言う君らは? 何しに来た? あまりうろついて荒らして欲しく無いんだが……特にそっちの大きい方。頼むからシャベルで石畳を掘るような真似は止してくれないか。修繕する身にもなれ」 「えっあ……は、はい」 トリスターノは鼻につくほど大人びた口調で次々と言葉を浴びせてくる。そして後半取り上げたのは先刻のディガーの言葉。 聞かれていた。 「いつからだ?」 「君らの来訪を基準とするなら、最初から」 「ここで何をしているのかな……?」 「どんなものも造って終わりとはいかない。それだけだ」 「本当にそれだけか?」 淡々と返答する少年の目を見据えてリエは食い下がる。彼と同質の目を良く見知っていた。それはリエが鏡と向き合う度、冷めた視線をこちらに送る。 だから、引き下がるわけにはいかなかった。 「他にも心残りがあるから此処にいるんだろ」 「……例えそうだとしても君に答える意味が見出せない」 トリスターノは帽子のつばで目を隠すと、身を翻した。 「亡霊と会えて満足しただろう。もう帰ってくれないか? 僕は忙しいんだ」 「あんた、それでいいのかよ」 立ち去ろうとするトリスターノに、リエは鋭く言い放った。トリスターノも聞き捨てならなかったのか、背を向けたまま歩みを止めた。 「……何が言いたい」 「すっ呆けてんじゃねえ。『言いたい』のはそっちだろ?」 「…………」 ディガーがたじろぎながら見守る中、やや感情的な物言いを自覚したリエは一呼吸置いた。 「……誰かに伝えたい言葉があるなら代わりに届けてやる」 「………………な」 糸がふつりと切れたようなか細い何かが、リエの耳をかすめた。そしてそれは次の瞬間――堰を切った激情となって乱暴に、浴びせられた。 「軽はずみなことを言うな! 居場所も生死も判らない誰かに何をどう伝えるんだ? 探す手段は? 大体彼女が消えたのは世界図書館の責任だろう? それが今更何だ? 代わりに届けてやるだと? 恥を知れ!」 振り向くなりいっぺんにまくし立てたトリスターノは、直後はっとなり、「少し興奮した」とばつが悪そうにそっぽを向いた。 「君らふたりには関係の無いことだったな。……とにかく帰ってくれ」 「待ちやがれ!」 「もう話すことは無い」 少年はとんかちでごんごんと壁を叩く。この隙に追い付こうと慌てて対岸に渡ろうとするリエと、一拍遅れで追従するディガーは、しかし目の前で起きた出来事に逡巡を余儀なくされた。なぜならばトリスターノの動作に呼応するようにして壁面がスライドし、その奥の遥か向こうから――激流が押し寄せていたからだ。 「てめえ!」 「僕は……二度とごめんだ。報告書のことは纏めた世界司書に聞け。あの堅物の――」 鉄砲水に飲まれたふたりは押し流され、気が付けば街区外周の水路に放り出されていた。 「リエさん、大丈夫……?」 「なんとかな。……? 何笑ってんだ」 「嬉しくて。やっぱりトリスターノさんは地下が好きだったんだ……!」 「あー、まあそうだな」 最前の遣り取りを独自の解釈で捉えるディガーに生返事を返しながら、リエはトリスターノの最後の言葉を――あの報告書の署名を、思い出していた。 ――担当司書、リベル・セヴァン。 「なんだってんだ、一体」 岸にも上がらずはしゃぐディガーには目もくれず、リエはトリスターノの声のように抑揚の無い青空を、ただ見上げていた。
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