気がついた時には、ティリクティアは男の後を追っていた。 ヴォロスのとある地方の町ですれ違った時、その男の未来を垣間見たからだ。 日差しはじりじりと強く、肌には汗が滲む。 道は入り組み、やがて周囲には家すらもなくなり、乾いた土のにおいが、生い茂る緑のそれへと変わって行った。 もう男の姿は見えなくなっていたが、ティリクティアは男がどこに向かっているのかを知っている。 ――そして唐突に、建造物が現れた。 かなりの古さを感じさせる建物だ。町に並ぶ家とは趣が異なり、砦のようにも見える。所々、真新しい材質で補強された部分があった。 家の前に作られた小さな花壇の近くに、先ほどの男が立っている。 その隣には少女が寄り添うようにして立ち、二人は咲いている白い花を眺めながら何かを話しては、楽しそうに笑っている。母親と思しき女は、その様子を微笑みながら見守っていた。 さわさわと吹いた風が、ティリクティアの髪を揺らす。 こちらにまず気づいたのは、女だった。表情を一転険しいものへと変えると、急いで少女に近づき、抱えるようにして家の中へと入っていく。 男もこちらを振り向いた。 ティリクティアの姿を認め、その表情は少しだけ和らいだように見える。 「君は?」 「あの、迷子になっちゃって……」 問われて、ティリクティアはそう答えた。 「そうか。……誰かと一緒に?」 「ううん、お母さんの具合が悪くて、一人で薬草を探してたの」 その答えで、また男の緊張は少し解れたようだった。 「それは心配だな。君は優しいのだね」 そう屈託なく笑う男の灰色の瞳の中に、今度はより鮮明に未来が映る。 男がこれまで為してきたこと、そしてこれから為すこと。 周囲の者たちの嘆きと辛苦。そして、そこから解放された笑顔。 ――男の死。 「どうした?」 かけられた声に、ティリクティアは我へとかえる。男の目に宿る光は、心配そうなものへと変わっていた。 「いえ……綺麗な花ね」 ティリクティアはそう言って、白い花に視線を向ける。 「ああ、私もね、好きなんだよ。正確には妻がね。何と言ったかな……名前を教えて貰うのだが、何度言われても忘れてしまう」 「そう」 彼の着ている衣服は一見粗朴だが、生地や仕立てなど、明らかに上等なものだ。この場所には、それは不釣合いな気がした。 「お邪魔しちゃってごめんなさい。私、もう行かなくちゃ」 「一人で帰れるかね?」 「うん、多分」 男は少し考えるようにしてから、再びこちらを見た。 「お母さんは、どこが悪いのかね?」 「えっと……頭が痛いって言ってたわ」 それを聞き、男は懐から青い液体の入った小さな瓶を取り出す。 「それなら、これを持っていきなさい」 「これは?」 「頭痛の薬だ。私も頭痛持ちでね。良く効く。お近づきのしるしに贈ろう」 「でも……」 躊躇いを見せるティリクティアに向けて、男は優しく微笑んだ。 「いいんだ。その代わり、ここへ来たことは内緒だよ」 「ありがとう。ええ、もちろん内緒にするわ」 彼女は笑顔で頷くと小瓶を受け取り、会釈をしてから庭を出た。 振り返ると、もうあの家はどこにもない。竜刻の力により、周囲から隠されているのだ。 ティリクティアは溜息をつくと前を向き、歩き出す。 あの家族が幸せそうに笑う顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。 ◇ ◇ ◇ ティリクティアが宿泊している宿は、質素と表現するのは憚られる程、みすぼらしかった。 この地方は貧富の差が激しい。富は一部の者たちへと集中していた。 有力な貴族であり、領主とも強い結びつきを持つことにより、最も大きな権力を握っている者が、あのゾーダという男だ。 苦しんできた民が、その現状を変えようとしている。――まずは、あの男を殺すことによって。 部屋に置かれた化粧台の前に座る。きちんと掃除され、清潔には保たれているようだが、所々の木は剥がれ、穴が開いていた。 質が悪く、歪んだ鏡を覗き込むと、自らの顔もぐにゃりと歪んで映る。 金の瞳がこちらを見ている。迷いに揺れる目だ。 それをぼんやりと眺めていると、まるで鏡の中の自分が問いかけてくるような気がした。 ――あの男を助けるつもり? それは、いけないこと? ――あの男が、ここの民を苦しめているのに? そんなこと、知ってる。 ――知ってるって? 嘘ばっかり。あなたは結局、部外者でしかないのに。 それでも、私はここにいる。それって、もう物語の一部ってことじゃない? ――今まで見捨てて来たくせに、今度は気まぐれで助けるの? じゃあ、同じことを繰り返すの? 前に助けないことを選択したから、今度も見て見ぬふりをするの? 人の死を。 その人を大切に思っている人たちが、苦しむ様を。 ――だけどあの男が死ねば、沢山の人が苦しまなくて済むようになるのよ。 わかってる。でも、あの人の家族はどうするの? ――家族には罪がないなんて本当に言える? あなたが殺すわけじゃない。ただ、見なかったことにすればいいだけ。 「……私は、後悔したくない」 口に出して言う。鏡の中の歪んだ自分は、ぐにゃぐにゃと笑う。 故郷で守護者としての役割を担い、王国を背負う者としての自分は、個人の命よりも、国としての益を優先する必要があった。 だがそれだって、自分で選んだことなのだ。 ティリクティアは立ち上がり、窓へと近づく、床が、ぎしぎしと音を立てた。 この宿にティリクティア以外の客はいない。彼女が滞在したいと申し出た時、宿の主人は泣きそうなほどに喜んでいた。この部屋だって、一番上等な部屋だ。 町には、人がいるのかどうかもわからないほど荒れた家や商店が立ち並ぶ。腹を空かせた子供の泣き声が聞こえる。道端に、行く当てもなく蹲っている人がいる。 見上げれば、そこにはただ青い空があった。 ◇ ◇ ◇ 「君か。……どうしたんだね?」 ゾーダは訝しむようにこちらを見たが、それでも邪険に扱われなかったのは、ティリクティアが彼の娘と同じような年頃に見えるからかもしれない。 「早くここから逃げて」 ティリクティアは硬い表情のまま告げる。 彼は驚いたように眉を動かした後、顔の筋肉を引き締めた。 「何故、そんな事を言う?」 声音も一段低く、そしてざらついたものとなる。 ティリクティアは迷った。警戒されるのは当たり前だ。真実とて、伝え方を間違えれば届かない。 「町の人が話してたの。今日、ここを襲うって」 その言葉を聞き、ゾーダの目に迷いが生まれた。心当たりは勿論あるだろう。その可能性だってずっと考えてきたはずだ。 「本当に、そんなことを聞いたのかね?」 当然、聞いてはいない。予知の能力で得られた情報なのだから。そしてそんなに大事なことは、子供が聞けるような場所では話さないかもしれない。 「それとも、君がここを教えたのかね?」 じり、と足が踏み込まれる音がした。 周囲の誰も信用していない男は、愛する家族を守るために、この隠された場所を利用することを考えた。 彼自身はなるべく表舞台に出ないよう巧妙に立ち回っていて、そもそもゾーダという人物の顔を知るものはそれほど多くはいない。 「そんなことするはずないでしょ! それならこんなことわざわざ伝えに来たりしないわ! 家族はどうするの!? だから早く逃げてよ!」 「慌てて動いた所を待ち伏せされるという事だってあるんだよ、お嬢さん」 だが、ゾーダは疑心暗鬼に満ちた目で、こちらを見ている。右手の指先は、油断なく腰の剣に触れていた。 争っている暇はあまりない。護身術に長けたティリクティアとて、襲撃してくる民の全てを傷つけることなく抑え、彼を守りきることは難しいだろう。小さな家の中には、無防備な家族もいる。 未来を知らない男は、事態を甘く見ている。 この砦には抜け道が作られている。たとえこの場所のことがばれたとしても、そこを使えば逃げられると考えているのだろう。 だが、それが使えるのもあと僅かだ。もう少しすれば、そちらの出口にも監視がつく。 ――ほら、同じじゃない。見捨てる道を選んだって、助ける道を選んだって。 歪んだ顔の自分がまた、ぐにゃぐにゃと嗤う。 (文句あるの! 私が選んだ道よ!!) ティリクティアは大きく呼吸をすると、ゾーダの目を真っ直ぐに見、再び言葉を発した。 「この場所は周囲からは見えないし、人が迷い込んでくることも滅多にない。貴方の顔すら知らない民も多くいる。でも今回のことに、貴方を良く知る人物がかかわっていたら?」 彼はまだ、油断なくこちらを見ている。 「ハウルシュ。首に大きな痣がある男の人。貴方との思い出が詰まった本を、ぼろぼろになってもずっと大切にしてる。――そしてここは、幼い頃の貴方たちの秘密の場所だった」 これからこの場所で二人は対峙し、そしてハウルシュは苦悩に満ちた表情で言うのだ。こんなことはしたくなかったと。 その名前を聞いた途端、ゾーダの顔がさっと青ざめた。 「何故、それを……君は何者だ?」 「貴方はどうしたいの?」 男が睨みつけても、ティリクティアが動じることはない。彼女は巫女姫として人々に未来を伝え続け、それによる人の生き死にもまた、見守って来た。 未来を伝えた時、それでも笑顔で戦地へと赴いた強い女性のことを思い出す。ティリクティアが泣いて止めても、それでも彼女は己の信念を貫いた。 自分が立ち入れるのはここまで。後は彼自身の領域だ。 「……何故、私を逃がすんだね。知っているのだろう? 君も。私の行いを」 ティリクティアの毅然とした佇まいは、男の疑念を突き崩す。彼は絞り出すように声を発した。 「人が死ぬのを見過ごすのが、もう嫌だっただけ」 ティリクティアは静かに答えを返す。 また、少しだけ時が流れた。 「ハウルシュならば、そうするだろうな。奴は正義感の強い男だから。何度も言われたんだよ、悪辣な事は止めろと。私は突っぱね続けたがね」 ゾーダはそう言って寂しげに微笑み、息をつく。 「君を信じよう」 彼はそれ以上何も聞かず、踵を返すと家の中へと急いだ。 ティリクティアも何も言わず、その背中を見送る。 程なくして、家の中の気配は消えた。 「……これで良かったのかな」 ティリクティアは誰もいなくなった庭で、白い花に向かって呟く。結局この花の名は聞けずじまいだった。 この場所に初めて来た時のような柔らかな風が、頬をそっと撫で、去って行く。 「わからないわよね、そんなこと」 そう。 ティリクティアが葛藤の末選択したように、民も、あの男や家族も、これからを選択することが出来るはずだ。 未来は、自らが切り拓いて行くものなのだから。
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