時計塔の鐘が朝を告げる。 深夜から発生し始めた霧は日の光を遮り、未だ暗い街を、より曖昧な様相へと変える。 表通りから一歩脇へと入れば人通りはなく、夜にはあれほど嬌声や騒音に満ちていた歓楽街も、何事もなかったかのようにひっそりと佇んでいた。 「誰……かっ……!!」 そのねっとりとした霧と静寂の中、女は満足に声を上げる事も出来ず、履き古した靴を石畳に躓かせ、細い体を倒れ込ませた。 悲鳴のかわりに喉元から噴き出す真っ赤な血は、白のスクリーンの上で、はかなく散っては消える。 女の見開かれた目が最期に捉えたのは、喜びに歪む口元だった。 ◇ 『不可視の殺人鬼、また現る』 そのような見出しが新聞を飾った。那智は煙草をふかしながら、その記事を見る。 既に昼を過ぎた窓の外の街は、陽光の下に活気を見せていた。 ――不可視の殺人鬼。 老若男女の区別なく殺す、連続殺人犯。 とは言ってもその者が自ら名乗った訳ではない。当局の捜査は進展を見せず、立ち込める霧に紛れて全く犯人の足取りは掴めない――そのような事が続くうちに、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。 人々は殺人鬼の一報が届く度に、次は誰かと騒ぎ、恐ろしさに身を縮める。今では身持ちの固い者は暗くなれば早々に家に戻り、放埒な者達は、歓楽街でこれまで以上に快楽に溺れた。 今は笑顔で行き交う人々も、時計塔が夕刻を告げる頃には、濃くなる霧に流されるかのように姿を消している事だろう。 那智が短くなった煙草を灰皿に押し付けた時、ドアがノックされる音がした。 彼はそちらに視線を向けると、静かに近づき、ドアを開ける。 そこに立っていたのは、年の頃は二十歳前かという女だった。 ほっそりとした白い首に、整った骨格を持つ顔が乗っている。緊張の為か目を所在なげに動かしてはいたが、その奥には芯の強さを感じさせる光があった。 「あの!」 迫り来る勢いの彼女を、那智は穏やかな態度のまま部屋の中へと誘導する。 「どうか、不可視の殺人鬼を探して、捕まえるのを手伝ってください!」 だが彼女の気持ちはソファを勧めるまで持たなかったようで、震える口から一気に溢れ出した。 女――シルヴィアの姉もまた、不可視の殺人鬼に殺害された一人だった。 捜査当局は全く当てにはならず、痺れを切らして独自に手がかりを探し始めたものの、何も掴むことが出来ない。その間にも、不可視の殺人鬼の被害者は増える一方だ。 姉は既に『殺人鬼に殺された、大勢の可哀相な被害者の一人』に過ぎず、そして、あっという間に世間からも忘れられて行くだろう。 自分が覚えていてあげなければ、そして、仇を取ってあげなければ、姉が報われる事などない。 そのような思いで彼女は街を歩き回り、その途中で、このインゲルハイム探偵事務所を見つけ、思い切って訪ねる事にした。 探偵に依頼するのに、どれだけの金がかかるのかは見当もつかなかったが、安いという事はないだろう。だが、何年かかっても必ず返すつもりだった。 捲くし立てるように言った彼女を見、探偵の表情がふと緩む。 呆気に取られたような彼女に彼は言った。 「まずは座って、お茶でもいかがかな?」 彼女は目を瞬かせ、興奮の余り酷く礼儀を欠いていた自分を恥じ、縮こまって詫びた。 だが探偵は再び穏やかに微笑むと、ソファに座るようにと言い、温かな紅茶を出してくれる。 礼を言って一口飲むと、とても良い香りがした。 「さあ? 見てないね」 「そうですか、ご協力に感謝します。――行こう」 「え、でも……」 那智は彼と靴職人の男を交互に見遣るシルヴィアを促し、足早に歩き始める。仕方なく彼女も後へと続いた。 「彼は何も知らない」 そう言う那智に、シルヴィアは疑問をぶつける。 「何故、わかるんですか?」 「彼の作業場を見ただろう? 彼は窓に背を向けて座っている。ただでさえ街には街燈が少ないのに、あの窓の近くにはなく、逆に彼の傍らには灯りがあった。おまけに窓は煤だらけと来てる。あの状況で、果たして目撃など可能だろうか?」 「私、全然見ていませんでした……」 男の方ばかりに意識が向いていて、他の部分を全く気にかけていなかった。 そう言って俯くシルヴィアを見て、那智は表情を綻ばせる。彼女の熱心さに押され、彼はこうして依頼を引き受ける事となった。 「落ち込む事はないよ。もしかしたら君が思うように彼は何かを知っていて――そして、隠しているのかもしれない。しかし、今それを聞いた所で無駄だし、今はより多くの情報が必要だ」 彼はシルヴィアの方を見て、彼女が遅れれば自らも歩みを緩める。そんな彼を見、そして晴れやかな空を見て、シルヴィアの心も少し明るくなった。 彼と一緒ならば、きっと不可視の殺人鬼を見つけられる。 しかし、連日聞き込みを続けても、目ぼしい手がかりは得られなかった。 勿論昼の街だけではなく、夜の街も歩き回り、二人でも、また単独でも捜査を続けた。 だが、得られるのは混乱し、錯綜する情報ばかりだった。 その間にも、不可視の殺人鬼は殺害を重ねていく。 「どうか、もう一度だけお話を聞かせてください!」 シルヴィアが何度も頭を下げると、白髪の老婦人は重い口を開いた。 「もう、お話し出来る事は全てお話ししました」 「でも、他に何か――」 「こういう事は、あまり申し上げたくないのですけれど」 彼女は大きく溜息をつき、言葉を続ける。 「貴女のお姉様は帰りが遅い事も度々あったようですし、品の宜しくない方とご一緒の事もありましたし……」 シルヴィアとは目を合わさず伝えられた言葉に、彼女は一気に頭に血が上るのを感じた。 「姉が悪いって言うんですか!?」 「そんな事は言っていないわ。ただ――ねぇ」 シルヴィアは暴れ出しそうになる気持ちを必死で抑える。老婦人に無愛想に頭を下げるのが精一杯だった。そして背を向け、逃げるようにしてその場を離れる。那智も老婦人に挨拶をし、その後を追った。 「あの人も、恐いんだよ」 穏やかな那智の声が、シルヴィアの耳に届く。 「わかってる……けど……」 彼の言うように皆、関わりたくないだけだろう。 でも、彼女が事件や犯人の事を調べ、掘り起こして行く度に、被害者である姉が、ただ何も出来ずに殺された姉が、段々と悪者にされていく。 先程の老婦人だって、姉が生前、親切でとても良い人だと話していた。実際そうだったに違いない。 けれどもこうして彼女の嫌な面を垣間見ることになり、そして自分は、姉の大切な思い出さえも汚してしまっているのではないかと思えてくる。 それならば、全く足取りも掴めない『不可視』の殺人鬼を追う事は、果たしてどれだけの意味があるのだろう。 たった一人の姉を奪われた悲しみも、これから先の不安も、ずっと押し殺して気丈に振舞ってきたつもりだった。 だが、もうわからなくなっていた。ただ、疲れ果てていた。 途中通った橋の欄干に腕をかけ、ぼんやりと川を眺める。 その緩やかな流れを見ているうちに、シルヴィアは全てがどうでも良くなっていくのを感じていた。 そして、体が下へと吸い込まれるかのように揺らぐ。 手首を力強く掴まれ、はっとして振り向くと、那智の紫の瞳が彼女に向けられていた。 「君は頑張ると言ったじゃないか。必ず犯人を捕まえてみせると。その為に私の協力が必要だと、そう言ったろう?」 「でも、もうわからないのよ! どうしたらいいのかわからないの!!」 「それでいい」 「……え?」 彼女の体はそのまま引き寄せられ、那智の温もりの中に包まれる。 「もう、強がらなくていいんだ」 今までもずっと。 挫けそうな時、こうやっていつも那智は励まし、慰めてくれた。 シルヴィアは彼の広い胸の中に顔を埋め、大声で泣いた。 ◇ 「那智、まだ寝てるの?」 シルヴィアはベッドに横たわる那智の格好を見て、呆れたような声を出す。 「お客様がいらしたらどうするつもり?」 「お客様も、私よりも君みたいな美しい女性に迎えて貰ったほうが喜ぶさ」 「お上手だこと。さ、顔を洗って! 朝食も用意したから」 寝惚け眼で言う那智にシルヴィアは微笑み、テーブルに置いてあった新聞に目を通す。 『止まらぬ、不可視の殺人鬼による被害』 那智とこうして一緒に暮らすようになってからも、不可視の殺人鬼による残虐な殺人は行われ続けた。 それに心を痛める自分、那智との生活に幸せを噛み締める自分、それを姉に申し訳ないと思う自分――様々な思いが葛藤し合う。 そして、もし不可視の殺人鬼が見つかってしまったら、せっかく結ばれた那智との絆も解けてなくなってしまうのではないか――そんな考えすら浮かんできては、慌ててそれを打ち消す。 「手紙……だわ」 それは、新聞に挟まるようにして届いていた。差出人の名はない。 封を開けてみると、そこには不可視の殺人鬼の情報が記されていた。 「来ないわね」 幾ら待っても、未だ誰の姿も見えない。 夕刻の鐘はとうに過ぎ、街燈の頼りない灯りが暗がりに淡く滲む。 「ねぇ、那智」 シルヴィアは遠くを見たまま、ぽつりと言った。 「もし不可視の殺人鬼を捕まえられたとしても、貴方は私を見守っていてくれる?」 言ってからすぐに後悔の念が沸き上がった。そんな事、今言うべきではなかったかもしれない。 「ああ」 だが、背後から返された那智の優しい答えに、気持ちが楽になった。 そして今回も、不可視の殺人鬼は現われそうにない。 「どうやら、悪戯だったみたいね」 帰りましょう。 振り返った彼女の言葉は、口から発せられることはなかった。 代わりに喉に鋭い痛みが走り、肉が裂かれ、骨が削られる音が、体内に大きく響く。 驚きに見開かれた彼女の目が見たのは、ナイフを持ち、顔に返り血を浴びて笑みを浮かべる那智の姿だった。 「だって、私がその不可視の殺人鬼とやらだからね。君を初めて見たときから――」 呆然としているシルヴィアの目の前で、男の手に握られたナイフが振り上げられる。 その時彼女を動かしたのは、ただ逃げなければという本能だった。悲鳴を上げることも出来ず、震える体を何とか動かして、その場を離れる。 足はレンガを幾つも縛りつけられたかのように重く、走っても走っても、景色は一向に変わらない。 いつの間にか、辺りはねっとりとした霧に覆われていた。それは驚愕と恐怖にたじろぐ彼女の肌に纏わりつき、体温を無慈悲に奪っていく。 混乱のあまり滅茶苦茶に振り回す手は空を切り、助けを求めて伸ばす指先は、何も掴むことはなかった。 胸が苦しく、上手く息が出来ない。先程切られた箇所は、もう痺れて感覚がなくなっていた。 妙な音の混じった、自らの荒い呼吸だけが聞こえる。後ろを振り返る余裕も、勇気もなかった。 愛した男だった。――そしてそれは、姉を殺した男だった。 自分を優しく抱きしめてくれていた手には、今、赤くぬめるナイフが握られている。 夢の中で恐怖から逃げ惑うような、鈍重な時間が永遠に続くのではないかと思えた頃、体が何か固い物にぶつかった。 それを壁だと認識したのと同時に、全身全霊を込めて再び足を動かそうとしたが、片方の手首をしっかりと掴まれる。 あの感触だ。 自暴自棄になり、川へと身を投げそうになった自分を引き止めてくれた感触。 ――今ならまだ引き返せるのかもしれない。 そんな根拠のない希望が湧き上がり、そして振り返った次の瞬間、男の冷酷な眼差しによってあっという間に砕かれる。 涙は流れるまでもなく一瞬にして乾き切り、嗚咽も漏れない口は、空気を求める魚のようにむなしく動いた。 「そう、そんな顔が見たくて仕方なかったんだ」 ナイフを持った手が、白い空間を切り裂く。 彼女が最期に見たのもまた、喜びに歪む口元だった。 立ち込める霧は二人を俗世から隔て、特別に用意された部屋のようだった。 『不可視の殺人鬼』――那智・ベーリンガー・インゲルハイムは、力を失い横たわる女の傍らに膝をつき、なお白さを増した細い指先を、自らの手で優しく包み込み、優雅に口づける。 そして瑞々しい唇が色を変えていくのを、 しなやかな体躯が変化を止めるのを、 たおやかな面差しがここを去っていくのを、 静かに、見守っていた。
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