初めの予兆に気づいたのはゼロ領域の夢守、零和(レイハ)だった。 黄羊テッラの化身、二桐(フドウ)は、『電気羊の欠伸』へ迫る悪意の存在を感じた。 金羊ゲンマの化身、三雪(ミソギ)は、それが人間の塊であることに気づいた。 緑羊ナートゥーラの化身、四遠(シオン)は、それが機械をまとった人間たちであるのを見た。 青羊アクアの化身、五嶺(ゴリョウ)は、彼らの魂がひどく硬直しているのを見た。 赤羊イーグニスの化身、六火(リッカ)は、何者かの歪んだ介入を感じた。 紫羊アエテルニタスの化身、七覇(ナノハ)は、その人間たちを覆う不気味な波動を知覚した。 灰羊カリュプスの化身、八総(ハヤブサ)は、人間たちがいびつに戦意を高められ、狂戦士と化しているのを知った。 銀羊フルゴルの化身、九能(クノウ)は、彼らの狙いが『電気羊の欠伸』の蹂躙なのだということに気づいていた。 白羊アーエールの化身、十雷(トオカミ)は、それが至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレから派遣されてきた兵士たちだと理解し、眉をひそめた。 ――しかし、黒羊プールガートーリウムの化身、一衛(イチエ)だけは、想彼幻森(オモカゲもり)にいて、何ごとかの物思いに耽っており、夢守たちから呼び出されるまで、敵が迫っていることにも気づいていなかった。 * 奇妙な襲撃だった。 空間ひとつ隔てた『向こう側』に、通常の【箱庭】ならば十回でも二十回でも滅ぼせるほど強大な武器で武装した兵士たちの存在を感じつつ、十雷は首を傾げる。「……あいつら、なんだってここへ?」 帝国ほど、『電気羊の欠伸』の恐ろしさを身に染みて理解している【箱庭】はない。帝国は、過去三百年の間で、実に数千万の命を喪っている。『電気羊』には、かくも恐ろしい番人、守護者が存在するのだ。 とはいえ、彼らが何度かここを狙ってきたのは事実だが、それも数代前の皇帝までだ。現皇帝クルクス・オ・アダマースの曾祖父アポストルスはむしろ友好的な関係を結ぶことを望み、羊たちはその望みを叶えた。それゆえ、帝国は繁栄したのだ。「彼らが何代時を重ねようとも、ここは武力によって制圧することがもっとも困難な【箱庭】だ。それが理解できないとは思えない。ましてや、現皇帝クルクスとその側近ロウが、無駄と知って力ずくで来るはずがない」「……何かある、ということだの」 難しい顔をする白の夢守 十雷の傍らで、灰の夢守 八総が目を細める。「ああ。おそらく、オレたちの認知の及ばない何かだ。トコヨの棘のこともある、ロストナンバーたちに調査を頼むべきだろうな、これは」「連中はどうする。今にも攻め込んで来そうな様子じゃ、彼奴らが民に害をなす前に策を講じねばなるまい。――いつも通り、我らで蹴散らすか」 十雷は頷き、それから、「……それで、一衛はどうした。いつもなら、オレたちが準備を終える前に半分以上『仕事』をこなしているような奴が、姿すら現さないとは」 近くに黒の夢守の姿がないことを訝しむ顔をした。 『いつも』といっても、前回の殲滅戦ですらすでに百年が経過しているが、億を超える年月を変化なく存在し、『忘れる』という機能を持たない彼ら夢守にとってはごくごく最近のことにすぎない。「最近、変だよね。まあ……判らなくもないんだけど」 青の夢守、五嶺がくすりと笑い、「また、あのときのようなことにならねばよいがな」 赤の夢守、六火は、過去を見る眼をして、何かを案じる表情で腕を組む。 と、そこへ、「……すまん、遅れた」 くだんの、黒の夢守がようやく顕れ、十雷はやれやれとばかりに一衛を迎えた。「アレにも気づかないほど奥にいたのか。何をしていたんだ?」「……考えごとを」「考えごと? それはいわゆる、思索に耽るというやつだな。――お前が、それを?」「ああ」 何より、感情を希薄に設定されているはずの、黒の夢守がそれを行う不可解さに、よりヒトに近く設定されている他の夢守たちが気づかぬはずはなかった。それは、悪条件が重なれば、あまたの【箱庭】を巻き込みかねない、暴走という最悪の状況を引き起こしもする重大な『変化』だ。 しかし、「……そうか。なら、仕方ないな」 九色の夢守の間をかすめたのは、わずかながら、ほとんど安堵に近い色だった。その理由を知るものは、おそらく、十色の夢守と羊たち、そして年経た旧い龍たち以外にあるまい。「それで……ああ、なるほど、帝国か。しかし、いったいなぜ?」 『向こう側』で高まってゆくいびつな戦意と殺意をスキャンしつつ、どうにも理解しがたいとばかりに一衛が問うと、同意の頷きが返った。「判らん。判らんから、ロストナンバーたちに頼んで調べてきてもらおうかと」「依頼は?」「もう、してある。ロウと連絡がつかない、案内役がいないというのが若干の不安材料だが……面白い助っ人もいるようだし、仕方ない、彼らに何とかしてもらおう」 相当な丸投げだが、そのことに気づいているのかいないのか、十雷は淡々と自分たちの『仕事』へと話を映す。「だから、その間、オレたちで連中のお守りだ。事情が判らないまま殲滅というのも連中には気の毒な話だが、夢守は夢守の仕事をするしかない」 十雷の周囲を白い風が吹いた。 それは鋭く尖った、無数のナイフの形状を取りながら、解き放たれる時を待っている。 *「案内もなし、詳しい状況も不明、派手な行動は不可、誰が味方かも判らない……って、けっこうな無理ゲーじゃないかな、これ……」 かすかな呟きすら、やけに大きく聞こえて、思わず口をつぐむ。 救いは、どうにか帝国首都の地図を手に入れられたことと、降り立った帝都が、数万の兵士たちが『電気羊の欠伸』へ不可解な侵攻を行おうとしているとは思えないほど、普通の、通常の活気に満ちていることだろうか。 街に憲兵が立って、不穏分子を警戒している様子もない。 帝都アウルム・ラエティティアは今日も、他の【箱庭】や異世界となんら変わりのない、ごくごく平凡な日々の営みによって賑やかに動いている。「報告では読んだことあるけど……確かに、想像より生きた感じがする」 進んだ科学技術を持つ近未来的な国家と聞いて、清潔に整えられているけれど無機質な街並みを想像するものは少なくないはずだ。 しかし、街は機能的に整いつつ、無機質な冷たさよりも、理知によって律された美と確かな活気によって彩られていて、ここだけ見れば、帝国が他の【箱庭】を力尽くで我がものにしているとは想像出来ないし、今が戦争中だとも思えない。 城を中心に整然と通った道と、幾何学的に配置された建物、一定の間隔で設置された樹木や広場や緑化公園、噴水などによってかたちづくられた街からは、壱番世界の24世紀程度の発達度合いと言いつつ、街並や建造物にどことなく古代ギリシャを思わせる様式美が伺える。 それは、数百年に渡って続くアダマース帝家の理念なのだそうだ。 どれだけ技術が発達しても、人間は大地と緑から離れて生きることはできない、という。 だからなのか、ちょっとした森の規模がある公園や、街を貫き流れる川――たくさんの鳥や魚の姿が見えるから、豊かな水場なのだろう――、よく手入れされのびのびと育つ街路樹のほか、ガーデニングという趣味の概念がこの【箱庭】にあるのかは判らないが、個人の住宅にも豊かな緑がある。 それは、重要な任務のはずなのに盛大に丸投げされ、右往左往感が否めないロストナンバーたちにも安らぎと和みをもたらした。「……とにかく、全体的に調べてまわろう」 気を取り直して、一行はそれぞれの行動を話し合う。 首都は、一般市民の住まう静かな住宅街、活気に満ちた商店街及び職人街、企業街、娯楽施設、一貫して帝国民の教育を行う学校の巨大施設、貴族や富裕層の住まう上流階層区画、さまざまな軍事施設など、人々が日々を営むに必要とされ、またそれらが存在することで心を豊かにするであろうものの大半がそろっている。 それらの中心に位置するのが、光神ルーメンが祀られた神殿と、至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースの御座す白亜の巨城アルバウェールスである。「軍部が不穏なんだったら、やっぱり軍事施設に潜入すべきか? 危険は危険なんだろうけど……」「城へも行ってみたほうがよさそうだよな。皇帝とロウを探す必要もありそう?」「何だっけ……他人の能力を奪って自分のものにする、みたいな技術があるらしいから、城や軍事施設では、あんまり派手に力を使うのはやめといたほうがいいのかも」「そういうの、感知する装置とかもありそうだもんなあ」 住民たちから話を聴くことも、街の噂を集めることも必要かもしれない。 神殿の様子を見に行くのもいいかもしれない。 在り得るはずのなかった、帝国から『電気羊』への襲撃、その理由や原因の一端を、どこかから探し出すのが彼らの仕事だ。 ロストナンバーたちがめいめいに意見を出し合う中、不意に、「ふむ……奇妙に懐かしい空気を感じる」 万の年月を重ねた霊峰のごとき静けさと、空を砕く万雷のごとき重々しい激しさを有した声が落とされる。その声がここに響くことを不可解ととる向きもあろうが、今回においては、これもまた『救い』のひとつと言うべきなのかもしれない。「懐かしいって……来たことがあるってこと?」 誰かが尋ねると、「否。そうではない……帝国のみならず、シャンヴァラーラ全体にその懐かしさを覚える。が、この感覚を他者へ説明することは難しかろうな」 禍々しいほど赤い髪と、猫科の猛獣のような金瞳、褐色の肌、そして五本の黒い角を持つ男が答えた。鍛え上げられた長躯の、四十路半ばと思われる渋い男前だ。 彼は、名を、清 業淵という。 悪徳に満ちた頽廃の世界で、わずかに残った清らかな人々によって目覚めさせられたのち、その人々を喪うことで己が世界を滅ぼし、結果覚醒した荒ぶる鬼神である。 世界図書館と激しく争った世界樹旅団に拾われ、紆余曲折を経てふたつの集団が共存の道を選んだあとは、自身の率いる小集団とともに、気ままな0世界暮らしを続けているようだ。 籍そのものは旅団に置いているが、図書館のロストナンバーたちには恩義や親しみを感じているそうで、時おり、乞われて依頼の手伝いなどしているらしい。 今回の同行も、その一環である。「隠密行動ならば、他に秀でたものがおったのだがな。彼奴らは彼奴らで忙しいらしいゆえ」 世界をひとつ滅ぼして覚醒したような鬼神に情報収集が出来るか否かは悩ましいところだが、腕は確かなので、いざというときには盾代わりにもなってくれることだろう。 また、同じ神ということで、神殿の様子など見てもらい、神としての視点で何かを調べてもらうのもいいかもしれない。「俺に出来ることは、ぬしらの気配を希薄にすること、一定時間、ぬしらをヒトの影へ潜めるようにすること、一定回数、ぬしらを建造物のすり抜けが可能な身にすること、ぬしらを高所へ転移させること、ぬしらに飛行の能力を貸すこと、――あとは、この【箱庭】とやらを破壊すること、であろうかな」「最後は物騒すぎるんでなるべくっていうか絶対やめてくださいお願いします」 誰かが思わずツッコミを入れる中、ひとまず行動開始となる。 と、誰かのトラベラーズ・ノートにエアメールが入り、「うわ、なんか『電気羊』組も大変なことになってるっぽい」 向こうののっぴきならない状況が伝えられると、自然、誰もが早足になった。 帝都は、何でもない日常の顔をして、急ぐロストナンバーたちを飲み込んで行く。※大切なお願い※『【電気羊の欠伸】Heart and Soul Rhapsody』と『【至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレ】聖骸の叛逆者 一ノ幕』は同時系列のできごとを扱っております。同一PCさんでの、双方への同時エントリーはご遠慮いただけますようお願いいたします(万が一エントリーされ、当選された場合は、どちらかもしくは双方の描写が極端に少なくなる可能性がありますので、重ね重ねご注意くださいませ)。
1.整然たる違和感 街はどこまでも穏やかで、それでいて活気を孕んでいる。 「……妙だな」 ハルカ・ロータスは、街をひとまわりしたのち、その不可解さに首を傾げた。 同じく、一般市民のふりをして街を見て回ったティリクティアも思案顔だ。おそらく、ひととおり街を探索し調べてきた全員が、この平和さ、ありふれた日常の様子に不可解な思いを抱いていることだろう。 「何もかもが普通だわ。普通すぎて、拍子抜けするくらい」 街にはいっさい戦争の影がないのだ。 他の【箱庭】から来た不慣れな住民を装って、街をゆく人々に近況や国の動向などを尋ねてみたが、返ってくるのは平和な事柄ばかりだ。 こうしてみる限り、行き過ぎる人々には不安の影もなく、あちこちの店は繁盛しているし、勤め人はそれぞれの仕事に精を出し、子どもたちは勉学や遊びに勤しんでいる。文化や文明の質こそ違えど、そこには愛すべき日常の姿がある。 そのこと自体には安堵するものの、やはり、疑念はぬぐえない。 「それとも……穏やかなのは表面上だけで、実は箝口令が敷かれているとか?」 「いや、偽りの波動は感じなかった。彼らは本心からあの言葉を発していたし、少なくともそう信じている」 覚醒してのち、ギアのお陰もあって所有しているESP能力がやや強化されたハルカは、相手の発する真偽程度なら能力を発動させずとも感じ取れるらしい。そこに軸を置くとすると、街に不穏は存在しないということになる。 「街の人たちはごくごく普通に生活している。それは……何も知らされていないから?」 巫女姫の、独白めいた問いに、ハルカが頷く。 「それに、『電気羊の欠伸』へ攻め込んでいる兵士たちの様子がおかしいっていうじゃない。それも気になるの。――何者かの力が兵士や軍に介入しているんじゃないか、って」 「俺もそう思う。問題は、誰がそれを行ったか、だ」 「ええ。私は、こんなことが出来るのは、権力と、神やそれに近しい力を持った人しかいないと思うの」 「それは……つまり? ああ、口を差し挟みまして申し訳ありません」 思案しつつ言葉を紡ぐティリクティアに、ドアマンが声をかける。 ティリクティアはいいえと首を振った。 「ルーメンと、皇帝。棘に関する何かが進展して、それで……っていうことじゃないかと、私は思うんだけど。ドアマンさんには、何か考えが?」 「わたくしは……そうですね、少なくとも、『電気羊の欠伸』へ送られた兵士たちは、何者かに操られてのことと思います。トコヨの棘のことを思えば、皇帝陛下がそれをなされたとしてもおかしなことではないかと。しかし……」 ドアマンもまた何かを思案している。 「あなたも、誰かの干渉、介入を疑っている? それは皇帝以外の誰かということ?」 「はい。それを確かめに行きたいのです。トコヨの棘の影響が帝国に及んでいないかの調査もしたいですし、皇帝陛下がそれをなされたのだとしたら、事情をお訪ねしたい」 「……本当に、そうなんだろうか?」 そんな中、ハルカから上がるのは疑問の声だ。 「どういうこと、ハルカさん?」 ティリクティアが小首を傾げる。 愛らしくも美しい巫女姫にその仕草はとてもよく似合うが、武骨で素朴な強化兵士は、故郷の妹を思い出して少し和んだだけだった。何より、ハルカにとって、この場所に集う人々は全員仲間ないしは戦友である。 ゆえに、物言いは直截で、何かを隠そうという意識もない。 「俺は、今回の件は、皇帝が意図したところにはないと思っているんだ」 覚醒を機に、考えること、自分の意志で戦うことを『習得』したハルカである。正誤はともかく、自分の判断や想い、願い、主張というものを出すことの大切さを理解しているし、実践せねばとも思っている。 「皇帝やロウが侵攻を行うはずがない、という部分を起点に考えるなら、第三の力が何かを引き起こしたと考えるべきだと俺は思う」 「ええ、それは判る。だけど、人間は変わるわ。特に、この世界の行く末がかかわってくるのなら、変わらざるを得ないこともあるでしょう」 「ああ。だから……俺も、調べに行きたい。誰の、どんな思惑が、あの不可解で無意味な侵攻を強いたのかと」 それぞれが、情報の共有を兼ねて、自分が調査に向かおうとしている場所を挙げてゆく中、 「……神と皇帝の様子が知りたいですね」 街をひと回りしてきたあと、ずっと黙りこくっていたラス・アイシュメルがぽつりと言う。 何かしら思うところがあるようで、 「ティリクティアさんは、『皇帝と会う未来』について予知できますか?」 巫女姫に問う眼は真剣そのものだ。 乞われて、意識を集中させたティリクティアだったが、 「……いいえ、今は視えない。おそらく、何らかの力が絡んでいるのね」 薔薇色の唇から、ラスの願いを叶える言葉が紡がれることはなかった。 「では……まずは、地道に探すしか、なさそうですね」 誰が、なぜ、何の思惑で。 それが見えてこない限り、調べるべき部分もはっきりしない。 ならば、今は、少しずつ有用な情報を集めていくしかないのだろう。 「頑張らなくちゃ。火城と、ボク自身のため……あの、理想の『死』を嘘にさせないためにも」 「ラス、何か言ったか?」 「……いいえ。では、私は行きます。こまめに連絡を取り合って、情報を共有しましょう。ハルカさん、テレパスによる中継は可能ですか?」 「ん? ああ。といっても、俺のテレパスはあまり強くないんだ。あまり細かい伝達は難しいかもしれないから、基本的にはノートを使って、俺の中継はとっさの連絡に限ったほうがいいかもしれない」 「そうですか……判りました。危険が近づいているときの注意喚起などにはいいかもしれませんね」 ハルカへ頷いてみせ、ラスが踵を返そうとしたところで、 「私、思うんですよねぇ」 唯一のコンダクター、川原 撫子が声を上げた。 「……なにをですか?」 「はい、確か以前、お茶会があってぇ、帝国軍総帥ゼヴィラス様と奥方の帝妹ローザ・オ・アダマース様はロストナンバーと接触していたはずですぅ☆ 帝国一の貴婦人で実妹ですからぁ、そんな方がクルクス様とロウさんの行方、欠片も知らないってことはないんじゃないかと思いますぅ」 「ああ、なるほど。撫子さんは、そちらに?」 「はい☆ 今回は、すでに大規模な軍事行動が起きてますからゼヴィラス様も出征してらっしゃるかもしれませんがぁ、ローザ様から糸口くらいは掴めるんじゃないかと思いますぅ☆ ってことで、清さん、影へ潜める力と壁抜けの力、貸して下さいぃ☆」 鬼神がうなずき、希望するものたちに力を貸し与える。 それを合図に、調査は開始された。 「……ドミナ・ノクス様、そこにおられますか」 五人がめいめいの方角へ向けて歩み去ったあと、ドアマンは物陰に立ち止まり、空を見上げた。 それと知っていたわけではないが、半ば確信めいて呼んだ名は、すぐに大いなる気配をドアマンの傍へと降臨させる。 「ええ、いつでも」 どこからともない返答とともに、つい先ほどまで誰もいなかったはずのそこに、静謐な夜を髣髴とさせる、艶やかな美貌の女が立っていて、ドアマンは唇をほころばせた。時おり足元が透ける様子からして、通信用の分体を一時的に顕現させたものであるらしい。 「ひとつ、お尋ねしても?」 「もちろん、わたくしに答えられることならば」 夜女神の欠片は静かに微笑むと、 「緋のアルカディア、マナ・エリスの糸という言葉に何か思い当たることはございませんか」 「『緋のアルカディア』は【箱庭】のひとつね。運命の三女神ファートゥム、モイラー、ファタリタによって総べられているわ。マナ・エリスは『花園』と呼ばれる機関を司る神属の存在で、『糸』とは彼女の“仕事”に関する力を差すわ」 ドアマンの問いに答えてくれた。 それが何か? と問い返され、ドアマンは首を振る。 「いえ……資料にて伝え聴いただけなのですが、少し、気になりまして。これが、今回のことに何らかのかかわりを持ってはいないか、と」 謎だらけの中の、手探りの調査である。 少しでも手がかりを、という思いから、聞き慣れぬ言葉をしらみつぶしに調べてみようとしたのだが、しかし、ドミナ・ノクスからは、 「あそこは帝国とも華望月とも距離を取っている、『電気羊の欠伸』や『竜涯郷』と同じ異質な【箱庭】のひとつよ。三女神の力が強大で、帝国も華望月も寄せ付けず、ひとつの【箱庭】で完結している、少し閉鎖的なところ。だから、『緋のアルカディア』が帝国に何かを仕掛けているとは、考えにくいわね」 今回の事件に関わる、重要な情報は得られなかった。 「そう、ですか……」 ドアマンが思わず落胆したのは、有体に言うならば皇帝が心配でしかたなかったからだ。 資料でしか読んだことのない、実際に会ったことがあるわけではない人物だが、彼の行動理念、真摯な思いや誇り、他者への厳しくも深い愛情などには、心を打たれざるを得ない。 ドアマン自身、ヒトというものの、儚くせわしなく、時に弱く身勝手な、しかし総じて言えば強く美しい生き物に魅せられ、彼らの営みの傍らにあることを選んだ身だ。 それゆえに、謎ばかりが垂れ込め、手探りで進むしかない今の状況は、とてももどかしい。 「あなたは、この世界の命を案じてくださっているのね」 ドミナ・ノクスの言葉に、ドアマンは小さくうなずく。 「……命への悪意ある干渉も、誰の犠牲も認めたくないのです」 報告書や資料を読んだだけのものが何を、と嗤われるかもしれない。 「ふたりは、なんとかしてこの世界を救おう、犠牲を抑えようとしておられます。その努力を無駄にしたくない……後世、黒幕と呼ばれるかもしれない人々にも、悲痛な思いがあるのかもしれない。そう思うと、いても立ってもいられぬ気持ちになります」 しかし彼は魅せられてしまった。 この、シャンヴァラーラに満ちる命の美しさに。 そして、この世界を護ろうと奔走し、己が命すら賭けて悔いぬ人々の気高い強さに。 「何が正しく、何が間違っているのか、わたくしには判りません。いえ、おそらく、誰にも判らないのだろうと思います。ゆえに、今は……出来ることを。ご降臨に感謝いたします、世界の半分たる貴い女神よ」 恭しく一礼し、ドアマンもまた踵を返す。 その背後へ、 「いいえ、感謝するのはわたくしのほうよ、異界の貴き方。あなたの想いとご尽力に報いて、どうか世界が力を貸しますように」 消え去る寸前の、女神の欠片から、祝福の言葉が届けられる。 2.不揺の沈黙 撫子は、一般市民を装って街を行きながら、人々の様子を観察していた。 さすが帝都というべきか、店はどこもにぎわっていて、買い物という経済活動も活発だ。戦時下においては、このような経済活動はストップする場合が多いのだが、街はやはり、平凡な日常を謳歌している。 「あのぉ、ひとつお尋ねしたいんですけどもぉ」 撫子は、買い物客のふりをして商店のひとつへ入り、世間話を装って、帝妹ローザとその夫であるゼヴィラスの住まいを特定すべく調査活動を開始した。帝国一の貴婦人であるから、そう簡単なことではないだろうと思いつつも。 「私、帝都に来てまだ間がなくって。ローザ様に憧れてここへ移ってきたんですがぁ、彼女はどこにお住まいなんでしょうかぁ? お会いするのは無理でも、せめてお家をひと目拝見してみたくってぇ」 ……の、だが。 ふたりの居場所はあっさりと知れた。 むしろ、なぜ知らないのか判らない、というくらい不思議そうな眼で見られたほどだ。 「ローザ様のお宅なら文化区画の一角にあるよ。質素な暮らしをお好みの方だから、規模は小さいけれどね」 店主は、道順を説明するのに必要な電子機器を撫子が持っていないことに溜息をつきつつ、何かの紙に地図を描いて手渡してくれた。 「ローザ様はそりゃあ素晴らしい方だ。兄上様を支えるため、文化や教育方面での活動に力を入れていらっしゃるし、我々市民にも分け隔てなく接してくださる。あんたが憧れる気持ちは判るけど、お邪魔をしちゃいけないよ。あの方は、兄皇帝様と同じくらい、いつでもお忙しいんだからね」 諭され、神妙に頷きつつ、礼を言ってその場を離れると、地図を頼りに住まいへと向かう。 ほどなくして辿り着いた住居は、驚くほど小ぢんまりとしたものだった。土地が狭いことで知られる壱番世界の日本でも、『ちょっと大きめの一戸建て住宅』くらいの認識だろう。 丁寧に手入れをされた庭と、愛情をこめて育てられているのだろう花や木々、ちょっとした野菜などが、陽光を受けて鮮やかに光っている。そんな、ごくごく普通の住まいだ。 撫子としては、侍従や使用人などのたぐいがいて、人の出入りが絶えない場所という想像でいたため、それに紛れて潜入しよう、などと考えていたのだが。 「あれぇ……なんだか、すっごい日常の香り……」 こっそりと――『帝妹ローザに憧れすぎてついお庭に踏み込んじゃった一般人』を装いつつ、ぐるりと家の周りをまわり、じっと気配を探ってみれば、キッチンと思しき場所からは煮炊きをする音や匂いがする。 そういえば、ずいぶん前の報告書には、夫妻は使用人のひとりも置かず、ふたりだけで生活している、と書いてあった。 「無防備な、というよりは……それだけ護られている、ということ?」 ローザがあれだけ慕い、案じる兄皇帝が、たったひとりの肉親に対して危機管理を行っていないとは思えない。 予想を二重三重に裏切る事態に小首を傾げつつ、立ち止まっていても仕方がないので正面へとまわる。門扉に呼び鈴と思しきスイッチを見つけ、意を決して押してみると、 「どなたかしら?」 軽やかな足音とともにドアが開き、女性が顔を覗かせた。 まぶしい金髪に碧眼、高貴であり理知的でもある、華やかな美貌の女性は、資料で見た皇帝陛下と非常によく似た顔立ちをしている。帝妹ローザその人に違いあるまい。 しかし、これにはさすがの撫子も沈黙せざるを得ない。 なにせ撫子は、もっともっと深刻な事態を想定していたのだ。 「ええと、あのお……」 どう切り出したものかと思っていたら、 「あら、あなたもしかしてロストナンバーの方? 何となく、雰囲気で判るわ。何かご用かしら?」 ローザのほうで気づいて話を向けてくれたので、ありがたく乗っかることにする。 「はい、私、ロウさんの知人のひとりで、撫子といいますぅ。今日は、お加減を伺いにきたんですがぁ」 「加減? そうね、調子ならすこぶるいいわ。あんまり調子がいいものだから、赤羽鳩の薬草詰めローストと、十種ハーブのスープと、庭で育てた七色苣のサラダ、デザートには紅玉さくらんぼのパイまで焼いてしまったくらい」 うふふと笑ったのち、ローザは表情を改めた。 撫子の胸中を読んだかのようだ。 「……と、いう答えを求めていらっしゃったわけではなさそうね。何か不測の事態でもあったのかしら?」 苦笑しつつ撫子は頷いた。 予想以上に聡明な人だ。 もしかしたら、戦いの心得さえあるかもしれない。 「ごまかすだけ無駄な気もするのですべてお話ししますぅ。実は急にロウさんと連絡が取れなくなって、『電気羊の欠伸』へ無茶な侵攻が始まったと聞いたので、あなたが人質に取られたのかと思いましてぇ」 「ロウと、連絡が?」 「はいぃ。皇帝陛下が現在どうしていらっしゃるのかも判りませんしぃ、そのくせ街は穏やかなので、いったい何が起きているのかと……」 「……そう、変ね」 ローザが、顎に白い手を当てる。 「何か……?」 「ええ。だって私、昨日、兄に会ったもの」 「えっ、そうなんですか? 何か、おかしなところは……」 「ごくごく普通だったわよ? だけど彼、そんな大規模な侵攻のこと、ひとことも言わなかったわ。確かにロウはいなかったけれど……彼があちこち飛び回っているのは、普通のことだから、特に何も思わなかった」 それから彼女は、思案顔のまま、右手の人差し指で、左手の人差し指の爪に触れた。何を、と思っていたら、桜色の爪が淡い光を発し、彼女の眼前にちょっとしたトレイサイズの『画面』を浮かび上がらせる。 「それは?」 「最新の通信機器よ、わたくしの息子が開発したの。電子端末もいいけれど、これだと場所を取らないから助かるわ」 言いつつ何ごとか操作をしていたローザは、しばらくののち、再び首を傾げた。 「……確かに変ね、つながらないわ。そんな規模の大きい侵攻が行われている最中なら、お昼寝の時間……というわけにもいかないでしょうし」 「ゼヴィラスさまはどうなさってるんですか?」 「彼は今、各地の軍事施設の視察に行っているのよ。明日には帰ってくるはずなのだけど……でも、だからこそ、なおさらおかしいの」 「判ります。いかに皇帝陛下が絶対とはいっても、総帥を差し置いて、総帥が知らない間に兵を動かすなんて」 「ええ。権限を委譲するにせよ、それならばゼヴィラスが何か言っていたはず。 ――撫子さんとおっしゃったかしら、あなた、腕に覚えはあって?」 その先、ローザが何を言うか、撫子にははっきりわかった。 だから彼女は、返事の代わりににっこり笑うのだ。 「ロウさんは私たちに、クルクス様は親友で家族だっておっしゃってましたぁ。友だちがそこまで言う相手なら、私が命賭けるのは当然ですぅ。私はロウさんもクルクス様も、この世界や【箱庭】の人たちも全員助けたいですぅ」 撫子の言葉にローザは目を瞠り、それから両手を伸ばして彼女を抱きしめた。ふわり、と、薔薇と思しき香りが撫子の鼻腔をくすぐる。 「ありがとう、撫子さん。あなたと、よき友人を持ったロウに感謝するわ」 そのあと家の中へ引っ込んだローザは、何ごとかを書きつけた手帳を撫子に手渡した。近未来の、ハイテクに満ちた帝都において、少し微笑ましくなるくらいレトロな、しかし精緻な刺繍が施された美麗な手帳だった。 「城へ行ってみてくださる? この手帳があれば、たいていの場所へは行けるはずよ。わたくしは夫と連絡を取ってみるから、そちらをお願いしてもいいかしら。危険なことかもしれないのに、頼んでしまって申し訳ないのだけれど。――何かあったら、すぐに逃げてちょうだいね」 ローザの気遣いに、撫子は晴れやかな笑みを見せる。 「大丈夫ですぅ、これでも逃げ足は速いですから! 吉報を待っていてくださいね!」 ぺこりと頭を下げ、彼女は弾丸のごとくに飛び出す。 ――助けられるものは助ける、その一念を強く抱いて。 * そのころハルカは、ゴウエンから拝借した各種能力を駆使して軍の施設を探索していた。 帝国兵は志願制だが志願率は高く、的確な訓練が行われているのもあって練度も高い。 そんな、よく訓練された軍内でも、この、皇帝のお膝元である帝都に常駐する兵士たちは、特に精鋭ぞろいの猛者集団だと聞く。技術の粋を凝らしてつくられたバトルスーツ、『神』の残滓でこしらえたという最新鋭のそれをまとい、戦場を駆ける彼らは、常に畏怖と尊敬、憧れをもって語られる存在であるという。 「妙……と、言えば、妙だ」 シャンヴァラーラの各地へと兵士を運ぶ転移装置を調査してまわり、それが確かに兵を運んだことを確認し、ハルカは首を傾げる。 実に六万もの兵を派遣しながら、この施設にすら、戦争の影がないのだ。兵はいつも通りの鍛錬を行い、時に談笑し、憩い、休んでいる。死地へ同胞を送った悲壮感もない。 ほんのわずか、ハルカの超感覚受容器官とでも言うべき部分が、軍事施設全体をごくごく薄く包み込む、不可思議な『力』を感知したものの、おそらく上位のエネルギーであるがゆえに解析することは難しく、それが何なのか捉えることはできなかった。 たくさんの【箱庭】からたくさんの神を集め、使役している場所だ。その欠片を感じ取っただけなのかもしれない。 それにしても、この、奇妙で静かな違和感は何なのだろう。 行き過ぎる兵たちの顔は、ごく普通の生きた人間のもので、同じ兵士であるハルカに親近感を抱かせる。 ここもまた、誰かの故郷なのだ。 だからこそ、何かしたいと思う。 ――想彼幻森で記憶の果実を手にした。 曖昧だった記憶のいくつかを取り戻し、帰郷の念を強くした。 「いつか必ず故郷へ帰る。だけどその前に、人や世界を助ける手伝いがしたい」 自分自身が、たくさんの善意に助けられてここまで来ただけにその思いは強い。 「時期的に、原因は世界計かもしれない、とは思うけど……」 ぐるりと周囲を見渡す。 施設にはこれ以上得るものがなさそうだと判断しそっと抜け出す。上空から帝都の全体像を見てみよう、と移動しつつ、ハルカの思考は違和感の主へと向かう。 「だとしたら、誰がそれを手にして、何のために?」 誰かが今回の侵攻を指示したのだとして、皇帝とロウはどうなっているのだろう。クーデターという言葉が一瞬脳裏をよぎるが、それにしてはおかしい、と思い直した。 「街に不穏な空気がない。クーデターとは雰囲気が違う」 そもそも、クーデターが行われたとして、それは私利私欲によるものなのか。勝ち目のない、何ら益のない侵攻は一体何のために行われようとしているのか。考えれば考えるほど判らない。 「それとも……『誰』のために、なんだろう……?」 直接的な手掛かりにつながる情報はなかったが、ハルカは、誰かの切なる願いを漠然と感じ取っていた。 * ティリクティアは上流階級の人々が住まう区画へと赴いていた。 「ごめんなさい、あのね、父様が王城へおつとめしているのだけれど、会いたくて来てしまったの」 愛らしさと高貴さを持つティリクティアの言葉は疑われることなく、むしろ箱入り娘が父親に会いたくて発奮した、という風に捉えられたらしかった。偶然出会った貴族の男は、私にも君くらいの娘がいるんだ、とティリクティアを親切に王城へと案内してくれた。 その道中、ティリクティアは情報収集に勤しむ。 「父様は陛下が大好きなのですって。だから私も、あこがれてしまって。おじさま、陛下やロウさんのことを教えてくださる? 最近は、どんなご様子なのかしら」 「そうだね、おふたりとも精力的に活動しておられるよ。ああ、陛下は少しお疲れのご様子だったかな」 「お疲れなの……大丈夫なのかしら」 「君はやさしい子だね。大丈夫、陛下はシャンヴァラーラ一素晴らしい方だ、あの方が我々を導いてくださるかぎり、悪いことなんて起きやしないよ。それに」 「それに?」 「先だって、側近を新しく抜擢されたんだそうだ。ロウ様に負けず劣らずの優秀な方で、帝国はさらに繁栄するだろうと噂されているよ」 「まあ……それなら安心ね。どんな方なのか訊いてもいい?」 「私は貴族といっても末席だから、あまり詳しくは知らないけれど、まだ若い男性で、もともとは軍部におられた方なのだそうだよ」 「そうなの……ねえ、最近父様の帰りが遅いのだけど、王城で何か変わったことでも起きているの?」 「おや、そうなのかい? 特に大きな行事も戦いもないはずなんが……」 男の言葉に、ティリクティアは胸中で首を傾げた。 六万の兵を派遣する侵攻は『大きな戦い』にあてはまるはずだ。王城を出入りする貴族にさえ気づかせず、それを行うことが可能とは思えないし、またその意味や意義も判らない。 (王城で何が起きているの……これは、皇帝とロウが引き起こしたことなの? 何のために……トコヨの棘のせい?) 手がかりが少なすぎることが、むしろ手がかりだった。 やがて帝都の中心へ到着し、男に礼を言って笑顔で別れると、ティリクティアはゴウエンから借りた能力で気配を希薄にした。様子を伺いつつ神殿へと向かう。 (『電気羊』の棘……アレは確か、まだ除去されていなかったはず) トコヨの棘の危険性は理解できる。 ティリクティアは、皇帝とロウが、何らかの手段か理由で『電気羊』内に発生した棘の、今まで以上の危険性を知ってしまい、それゆえ今回の侵攻を行ったのだと考えていた。 (だけど、あまりにも強引で無謀すぎるわ。これまでのように、ロストナンバーを頼ってくれればよかったのに) もどかしさを覚えつつ歩いた先、王城のすぐ横に神殿はある。 神殿は常に開かれているとかで、今日も、光神ルーメンのもとを訪れる一般市民があちこちに見られた。中へ足を踏み入れると、神聖にして静謐、清浄にして凛冽な空気がティリクティアを包み込んだ。 神殿の最奥部、大理石によってしつらえられたひときわ高い壇上に、白く輝く青年神の姿を認め、ティリクティアは首を傾げて思案する。皇帝もロウもここにいると思っていたが、どうやら外れていたらしい。 「あなたは……何をご存知なの」 ひっそりと声をかけてみたが、ルーメンは身じろぎひとつしない。ただ、目を閉じ、そこへ座すのみだ。 (なぜかしら。なぜ私は、彼を、殉教者のようだと感じるのかしら……) 気高い面にものがなしさを覚え、そっと息を吐いたところで、 「彼奴は我らに語りはせぬ。皇帝の、誰にも背負わせぬという願いのゆえに」 万雷のごとき声がティリクティアの耳を打った。 振り返れば、そこにはラスとゴウエンがいる。ラスはティリクティアと似たような思案顔をしていた。 「私が頼んだんです。神としての目線で神殿を調べてほしいと。判ったのは、街と同じくここも正常だということだけですが。それと、撫子さんから連絡がありました。帝妹との接触に成功したと」 ノートを確認すれば、撫子が得た一連の情報が書き連ねてある。ごくごく普通だった様子の皇帝、行方の判らないロウ。ハルカからの報告でも、街にも軍にも戦の影はなく、侵攻が行われたことを誰も知らない。 ますます違和感が募った。 しかし今は、その違和感こそが答えのような気すらする。 「皇帝に会いに行きましょう。ドアマンさんが向かっているのよね?」 「撫子さんもです。私も、行かなくては」 「何かあるの?」 「……伝えたいことがあります。何も、明かすことはできませんが」 謎めいた返しとともにラスが歩き出す。 ティリクティアはそのあとを追った。 3.深く深く沈む ドアマンはホッと息を吐いた。 ローザに会いに行った撫子からの報告を受けてのことである。 「兄を案じての、彼女の行動かと思いましたが……わたくしの思い過ごしだったようです」 撫子が手に入れた手帳のお陰ですんなりと王城へ入ることが出来たし、皇帝やロウの私室がある居住空間へもすぐに通してもらえた。皇帝は現在、休息を取っているところだという。 気がかりなのは、ロウに面会を求めたところ、任務についていて不在との答えが返ったことだった。皇帝の側近が、軍部が奇妙な動きを見せる中、傍から離れるなどということがあるだろうか? 考えていても始まらないので、まずは皇帝の安否を確認すべく、皇帝の私室へと向かう。 ノックをすると、奥から返事があった。 すぐに扉が開き、至厳帝国皇帝クルクスその人が顔を覗かせる。 ドアマンは無言で、持参した自作のぬいぐるみを差し出す。 犬と猫と熊と兎と小鳥、イルカとマンボウとオパビニアとアノマロカリスという魅惑の取り合わせである。 それらを見つめる皇帝も無言だ。 「ええと……」 撫子がツッコミを入れるより、皇帝の両手が伸びて、色とりどりのファンシーなぬいぐるみをむんずと掴むほうが早かった。真顔だが、喜びのオーラが感じ取れたから、お気に召したらしい。 「……正気のご様子ですね」 「わあ……そこで量っちゃうドアマンさんが輝いて見えますぅ」 そこへ、ラスとティリクティア、ゴウエンがやってくる。 彼らも、特に怪しまれることなく通されたらしい。 戦時中の対応ではない、というのが共通した感覚だ。 「あなたが皇帝陛下ですか」 ラスは、そうだと頷くクルクスをじっと見つめる。 本当は、火城の持つ剣を彼に渡したかった。 この持ち主は信じた道を今も生きていると、だからあなたも信じた道を貫けと激励したかった。記憶を捧げてまでこの世界を、皇帝を護りたいと願った彼の想いを届けたかった。 しかしそれは、混乱を招きかねないことに思い至り、断念せざるを得なかったのだ。ラス自身、詳細を求められても、納得がゆくような説明をすることはできない。 だから、 「あなたが失った友人にお世話になった者です」 「……そうか」 言葉を濁し、ぼかしながらも、 「彼はあなたの幸いを望んでいました。誰よりもまず、あなたが幸せであるようにと。だから……だから、どうか」 『彼』があの時、最期に願ったことを、万感の思いに載せて伝えるしかなかった。 「そう、だな」 皇帝の青い目がやわらかい光をたたえてラスを見つめる。 「それもまた、私の義務なのかもしれないと思いもする。あいつの言葉を届けてくれたのだな……感謝する」 穏やかに返す彼は、報告書などに見るいつもの皇帝だ。 ならば、と、 「ひとつお尋ねしてもいいですか」 「何だ?」 「なぜ、『電気羊』へ侵攻を?」 ラスが問うと、クルクスは眉をひそめた。 「侵攻? そのような指令を出した覚えはないが。いったいいつの話だ?」 「え? いや、現に今――」 奇妙なほつれを訝しみつつ、ラスが説明を重ねようとしたところへ、唐突に、 『皆、来てくれ!』 わずかな焦り、狼狽を含んだハルカの声が脳裏に響く。 それと同時に、ドアマンの感覚を『危機』という言葉が撫でてゆき、彼は半ば反射的に扉をつくりだしていた。 「皆さん、お早く!」 この局面でハルカやドアマンの言葉を疑う者はなく、全員が扉へ飛び込んだ瞬間、背後で強大な何かの気配が膨れ上がる。 それはヴェールのように皇帝の私室を包み込み、 「陛下も、」 ドアマンが手を差し伸べるより早く、彼らをあっという間に断絶させてしまう。 扉が閉まる直前、それを見たのはラスだった。 先ほどまで自分たちと話をしていたはずの皇帝が、何ごともなかったかのように寝室へと戻るのを。机に置かれたぬいぐるみを、『いつからここにあったのだろう』という不思議そうな眼で見るのを。 帝国を覆う、第三の力の影が、そこには顕現していた。 * 転移した先は、ハルカの傍ら、つまるところ空中だった。 ハルカは王城の一角を凝視している。 「あれは……!?」 彼が見ているものに気づいたのはティリクティアだった。 王城の屋根、すみのほう、意識しなければ目を留めることもないような物陰に、ロウがいた。 鈍く光る鎖に全身を絡め取られ、動きを封じられてぐったりと横たわっている。意識はないのか、その目が開かれることはなかった。辛うじて、生きていることだけは見て取れる。 助けなければ、誰もがそう思った瞬間、 「――何かが来ます。今、この状況で戦うのは得策ではないと思いますが、いかがか」 ドアマンが再度、大きな扉をつくりだした。 何の準備も心構えも出来ておらず、しかも目の前ではロウが囚われている。 強大な力の介入が確認された現状で、無理をして戦うことは危険性を高めるだけだと判断し、全員が速やかに扉をくぐる中、 「教えてくださいゴウエンさん。なぜあなたはシャンヴァラーラに懐かしさを覚えるのですか。それは、あの棘が、あなたの故郷をも蝕んでいたから?」 ラスは、危機感めいた疑念を問いに変えてぶつけていた。 しかし鬼神は首を振る。 「否。あのようなものは、我が闇黒なる故郷にもなかった」 「では、何が?」 「棘を生み出した何ものか。そのものの残滓に覚えがあるだけだ。この感覚を明確に語るすべを、俺は持たないが」 「それは、いったい」 ゴウエンは答えない。 否、答えるすべを持たないのだ。 「今考えるべきことではない、か」 独白し、迫りくる力を感じつつラスは扉をくぐる。 ドアマンが、全員が『渡った』のを確認して扉を閉めた。 この先に続く、静かな騒乱を暗示するような、重々しい音だった。
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