開店前のクリスタル・パレスに、いくつかの人影が動く。温かな木漏れ日が差し込む窓辺では大きな赤い猫、灯緒が適度な力加減のブラッシングにごろごろと喉を鳴らし体を伸ばしている。サッサッと手際よくブラシを扱う無名の司書も鼻歌交じりでにっこにこの笑顔だ。彼女の膝の上では赤い熊の縫いぐるみと白いフェレット、アドが並んで置かれ、ぷすーという寝息が聞こえる。 ふわりと食欲をそそる香りが鼻をくすぐり、無名の司書が視線をそちらに向けると、四人の美男子が談笑しながら朝食の準備をしていた。背中に羽をもつ青髪のイケメンと武人の様な凛とした佇まいのイケメンが新年に相応しい朝食を、儚げな雰囲気を纏う銀髪のイケメンとがっしりとした体躯に褐色の肌が健康的な男らしさを思わせるイケメンが朝食に相応しいお茶の葉を選び、淹れる。 見目麗しい、揃いもそろって180越えの美男子~美壮年に給仕され、ふわもこ司書を存分にもふる無名の司書の顔は幸せいっぱいだ。「あ~~。新年から良いことばっかりだわ~」「さぁ、朝食にしますよ。アドも起きてください」 無名の司書の膝の上から声が聞こえ、ヴァン・A・ルルーがもふもふの手でアドを揺さぶり起こしていた。 運動会からクリスマス、そして年越し特別便2012というベントが続きこれから怒涛の書類整理もある。お疲れ様と今後も頑張ろうという労いも込めて、営業終了後のクリスタル・パレスを借りて司書の新年会を昨夜、行った。集まれる司書だけとはいえこうやって集まる事があまり無かったせいか大いに盛り上がり、今日の仕事が特にない司書は夜遅くまで話に花が咲き、気がつけば泊り込んでしまったのが、今ここに残っている司書達だ。 家主であるラファエルに、無名の司書を始めとする世界司書達、贖ノ森 火城、モリーオ・ノルド、灯緒、ヴァン・A・ルルー、アドがそれぞれテーブルに着席すると楽しい朝食パーティが始まるが、少しして無名の司書は腕を組み考え込んでしまう。「どうかしたのかい? 難しい顔をして」 穏やかな声色でモリーオが囁きかけると、皆の視線が無名の司書へと向けられた。「いえね、こんな幸せ、お裾分けしないとバチがあたるわよね。うんうんって思いまして、ねぇてんちょー、今日って通常営業?」「そうですよ、いつもどおりシオン達が来たら店を元通りに……あぁ、まだ時間はありますから、朝食はゆっくりで結構ですよ」 ラファエルがそういうと、無名の司書はまたうーん、と考えながら店内を見渡す。昨夜の新年会でテーブルや椅子が何箇所かにまとめられ、広いスペースができている。「新年会の続きでもしたいのですか?」「もっと人を呼んで大人数でか? 食材足りるだろうか」「壱番世界にサトガエリをしてるんじゃないのか? ハツモウデをするんだろ?」 ルルーの言葉に火城と灯緒が続けて言うと、無名の司書がぱん、と手を叩く。「それそれ! 初詣! 里帰り! 新年会はもうやったから、そういったのしましょうよー! ほら、なんか歌にもいろいろあるじゃないですか、凧揚げとかこま回しとか」『あー、羽つき、双六、福笑い、書き初め、ひ……』 すぱーんとルルーが看板を叩くと、アドの看板はくるくると回転した。「そうそうそんなの! ねーねー店長! どうせならテーブル戻す前にイベントやろうよー」「今から準備して、ですか?」「いいんじゃないかな。楽しそうだよ」「流石に羽つきや凧揚げなら外でやることになるな」「福笑いならつくれそうだ」「世界図書館にも何かあるでしょうし、なんとかなるんじゃないですか?」『なんだったら持ち寄りでもいいんじゃねぇの』 気がつけば、司書達も巻き込んだクリスタル・パレス新年初イベントとなっていた。 * * *「うん、樹木の調子はいいようだね。じゃあ、わたしはこれで」 こんなときでさえ、モリーオは植物の手入れに余念がなかったのだが、やがて、一段落したあたりで辞するそぶりを見せた。「え~!? 帰っちゃダメぇ。もっと遊ぼうよお」 だが無名の司書は、白いシャツの裾をしっかと掴んで離さない。その手を、ラファエルが押さえる。「いい加減にしなさい。モリーオが困ってるじゃありませんか。子供じゃないんですから」「じゃあさ、大人っぽい、雅な遊びならいいのよね? 百人一首しようよ百人一首!」 何をどう解釈したやら、司書は名案とばかりに、むふん、と、胸を張る。 ラファエルは、そっと自分のこめかみを押さえた。 ……幸か不幸か、クリスタル・パレスには、百人一首セットが常備されていたのだ。 それは取りも直さず、新年にカフェを訪れてくださったお客様への、もてなしの一助としてだったのだが。 悩める店長と困惑するモリーオをまるっと無視して、司書はどんどん話を進める。 「チーム戦にしない? 店長組とモリーオさん組に分かれるの。で、勝ちチームにはモリーオさんがハーブティーを淹れてくれて、負けチームには、健闘をたたえて、あたしがコーヒーを淹れます! 大サービスで巨大マグカップ使っちゃおっと。あ、コーヒーは全部飲み干してね! 噴いちゃったり残したりするの禁止」 司書の淹れるコーヒーは、奇跡的に極上の場合もあるのだが、一定の確率で壮絶檄マズ地獄味になることを、ふたりは知っている。年明け早々、何というロシアンルーレットか。 そして、ラファエルは覚悟を決めた。すう、と、息を吸い込む。「……モリーオ」「うん」「申し訳ないが、私は負けたくない」「わたしだって」 いつもは穏やかなふたりの男性の目線が、激しくぶつかった。凄まじい火花が散る。「じゃあ決定ね〜! 読み手はあたしがつとめます~~」 ご用意よければ 空札一枚、 東海のぉ〜 小島の磯の 白砂にぃ〜 我泣き濡れて 蟹と戯る〜〜〜 のんびりのどかに、空札が読み上げられ……、 そして戦闘の幕は、切って落とされた。!注意!【新春遊戯会】は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる【新春遊戯会】シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
~~~いざ、戦闘準備~~~~ 灯緒が多めに持ち込んでくれた畳の上に、取り札百枚がはらはらと白く散らされた。いわゆる「散し取り」の形式である。 その周りを、ラファエルとモリーオと、8人の参加者が取り囲む。 ラファエルのあお組は、南河昴、日和坂綾、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ、逸儀=ノ・ハイネ。 かたやモリーオのみどり組は、ボルツォーニ・アウグスト、有馬春臣、虎部隆、一條華丸というメンバーであった。 畳を覆うように広がる取り札の眺めに、華丸の口元に笑みが浮かぶ。ポピュラーな散し取りは、彼にとって馴染み深い。 「懐かしいなー。昔、よく遊んだもんだぜ」 大衆演劇の花形ゆえ、華麗な女形になることもできる華丸だが、今日は、正月らしく紋付の羽織と袴を身につけている。 「……三つ子の魂、百までっていうじゃん。随分時間が経ってっけど、今でもちゃんと覚えてる。覚悟しろよ、絶対負けねぇ」 着物の袖をまくり、鮮やかに襷がけをした。勝負ごとには、真っ向から挑む性分なのだ。 「あ、俺、レモングラス入りがいい!」 と、モリーオに早くもハーブティーのリクエストをする。コーヒーを飲む気など、さらさらないのである。 「さても見事に分かれたものよ」 自陣の顔ぶれと、敵陣の顔ぶれを交互に見て、逸儀は、低く、しかし澄んだ声で笑った。 図らずも、男性チーム対女性チームの紅白戦となったことを面白がっているのだ。 品良く扇子を構えなおすや否や、逸儀はすがたを変えた。それまでの中性的な風情から、華やかな晴れ着をまとった、美しい少女へと。 「愛らしき花々に囲まれて、おぬし、嬉しいかえ?」 変化するなり、逸儀は、ラファエルにそっとしなだれかかる。 「もちろんですとも、逸儀さま! なんとお美しい!」 普段なら紳士的なリアクションをするであろうラファエルは、今日は様子が違っていた。逸儀の手を思い切り握りしめたのだ。 「頼りにしています!」 さらにその勢いで、昴の手もぎゅっと握る。 「昴さま。がんばりましょう! 男どもなど蹴散らしてやりましょうね!」 「まかせてください。百人一首は得意なんです!」 昴はにこにこと応じた。古書店『モロイ』の店長と遊ぶ機会が多かった昴もまた、散し取りには慣れているのだ。 「和歌は好きなので、全部そらんじてはいるんですけど。むこうのおじさまたち、博学そうだし、手強いかもですね」 小首を傾げ、昴は、みどり組をみやる。 視線の先にいるのは、春臣とボルツォーニ、モリーオの、壮年男性3人だった。 「噂のコーヒーは御免蒙る。全力で挑ませてもらう」 春臣の周囲1メートルあたりを、凄まじいオーラが席巻している。 きりりとした袴姿だけでも迫力があるのに、春臣もまた襷がけで気合を込めるあたり、その覚悟のほどが見て取れた。 春臣は、百人一首というゲームを好んでいる。大学病院を退職後、地方の村で開業医となってから、老人会の面々と盛んに行ったものだ。 だから、できることならば今も楽しみたい。楽しみたいと思う。思うが……。 戦場の闘気をゆらりと立ち昇らせているという点では、ボルツォーニも同様だった。 なんと、彼は黒紋付の正装に身を包んでいた。ちなみに紋は「丸に違い剣」という渋さ。さらにこちらも襷がけ。一分の隙もない。本気度全開である。 歌意。決まり字。競技かるたではないというのに、その公式ルールまで、ボルツォーニの予習は完璧だった。一字決まりの「むすめふさほせ」札は血を見ること必至。 いきなり、クリスタル・パレスのガラス窓を激しい雨粒が叩き始め、雷鳴が轟いた。すわ、何かの予兆かと一同は緊張したが、すぐに雷雨はおさまった。どうやら天候操作間違いらしい。こんなときでもボルツォーニは雨男なのだ。 ボルツォーニの後ろでは、黒い小さな使い魔がきゅっとねじり鉢巻をしている。これから何が始まるのかは全然わかってなさそうだが、まあその、意気込みだけは伝わってきた。 「でもでも、私もモリーオさんのハーブティー、是非飲んでみたいので頑張ります」 「私もですよ!」 壮年男性3名に凄まじい一瞥を投げてから、昴に大きく頷き返し、次いでラファエルはジュリエッタの手を握った。 「これはジュリエッタさま。よろしくお願いします! 桜紋様のお着物がとてもお似合いですね」 「おお、嬉しいのう」 それまでジュリエッタはにこやかに、自陣の皆と挨拶を交わしていた。振袖を褒められて、素直に微笑む。 「ちと桜の季節には早い気もするが、古来、正月といえば春じゃからのう」 「一足早く、春が訪れたようです。我々の勝利、間違いなしです」 「うむうむ」 「ジュリエッタちゃん得意そうだよね~。私、中学まで百人一首は坊主めくり専用だと思ってたからなぁ」 そういう綾も、赤が基調の振袖に袴を合わせた、雅なすがたである。散らされた札をざっと見て、「1人11枚以上GETかぁ……。頑張ります!」と宣言する。 「綾さまの情熱と戦闘力、期待しています。今日はまた華やかなお姿で」 「かるたならやっぱり袴かなって思って……。って、ラファエルさん、手、手ぇぇえええ~~~!」 手をしっかと握られ、顔を近づけられて、綾はあせってあわあわする。 「わ、私このたびKIRINを卒業しまして、だから、イケメンウォッチングも卒業しよう、か、と思……、で、でも」 「素敵な交際をお始めになられたそうで、おめでとうございます。当店もデート場所の末席にお加えくださいね。……それはそれとして、向こうにいる男性陣にはご友人が混ざっていますが」 綾の手を握ったまま、ちらりと隆を一瞥する。 「今日のところは敵ですのでよろしく」 『敵』という言葉に、武闘派・綾の背筋がすっと伸び、隆をぐっと睨む。 「ウン。隆には負けないからね!」 「ふふーん。相手は女ばっかりじゃん? はっはっは、余裕余裕」 精神攻撃のつもりか、隆はわざと、ジェンダーなことを言ってにやにやしている。 そんな隆に向け、まるで野球選手の予告ホームランパフォーマンスのごとく、綾はぴしっと人差し指を突き出した。フォックスフォームのエンエンも、まったく同じポーズをする。 綾とエンエンが指さしているのはいわゆる場外で、つまり、取り札をそこまで飛ばしてみせるということらしいのだが、おりしもその場所では、しゃげえええええーーーな奇声を放つ餅との阿鼻叫喚戦闘絵巻&めくるめくツッコミ合戦が喉も枯れよとばかりに繰り広げられている真っ最中。うっかり取り札が紛れこもうものなら即ディアスポラされてしまうだろう。そして56億7千万年後の未来に広隆寺の弥勒菩薩の手から発見されるのだ。オン・マイタレイヤ・ソワカ。 最初から波乱含みの暗雲が、空調完璧なはずの店内に立ちこめる中、読み上げられた空札に、隆は思わず、うぷぷっと吹き出した。 東海のぉ~ 小島の磯の 白砂にぃ~ 我泣き濡れて 蟹と戯る~~~ 隆の脳裏にありありと浮かんだのは、どっかの無人島の砂浜でがっくりポーズ中のむめっちが、たぶんシオマネキかなんか、片方のハサミが大きいカニにちょっかい出してがしっと指を挟まれてアイタタタで目幅泣きな図だった。 (何があったんだ、むめっち!) 「隆くぅん~?」 「あ、しつれい。いや、なかなか可愛い光景じゃないかうぷぷ」 ひと笑いしてから、隆は居住まいをただす。 「さ、真面目にやりましょうかね!」 ~~~戦闘開始!~~~~ ごう!と空を裂く黒い旋風――。 一陣の強風がクリスタルパレスの観葉植物の葉をゆらす。そのもとはボルツォーニである。 「すごーーい」 無名の司書が素直に感嘆の声をあげた。 「なに今の! 魔法!?」 「むぅ、まったく動きが見えんかったぞ」 「やるな……。これは気を引き締めてかからねば」 「強敵ですね! でもがんばりましょう!」 あお組に動揺が走った。 驚く綾とジュリエッタ。かえって上等、と居住まいを正す逸儀に、仲間を励ます昴。 「『あはれ今年の秋も去ぬめり』。お見事です」 モリーオが、ボルツォーニがはね飛ばした札を拾って渡す。 「ちょっと待って」 ラファエルが言った。 「今、無名の司書さんは『ちぎり』までしか言いませんでした」 彼の言わんとするところを皆、解する。百人一首の勝敗を決する重大な要素が『決まり字』だ。すなわち、読まれた時点で、取札を決定することのできる一字。 「『ち』ではじまる歌は3首。ひとつは『ちはやぶる~』なので除外できたとして、『ちぎり』では、次の文字を聞くまで絞れないはずだね」 うっそりと、有馬が言った。 「あ? えーと」 「『契りきな かたみに袖をしぼりつつ』と、『契りおきし させもが露を命にて』の2首があるってことだな」 首をひねった隆に、華丸が教える。 「そっか。ちぎり、のあと、『き』か『お』まで聞かないとわからないはずだ。……勘?」 「バカを言うな」 ボルツォーニは心外な、とばかりに応えた。カンで札をとりにいくことはルール違反ではないが、お手つきのリスクを考えると得策とは言えない。 「唇の動きを読んだまでだ」 おお、と一同からどよめきがあがった。 無名の司書が次に発する一音を唇の動きから予測して札をとりにいったというのだ。しかも目にも止まらぬスピードで。 「まァ。ということは歌を読む瞬間、ボルツォーニさんの熱い視線があたしのくちもとにじっと注がれ――むぐぅ!?」 かなりの拡大解釈で頬を染める無名の司書に、ラファエルが襲いかかった。 「司書さんにはマスクをつけて札を読んでもらいます!」 「なんて大人げない……!」 モリーオが制止しようとするが、 「この際これくらいのことは仕方ない! だって勝負ごとに負けるの悔しいんだもん。相手方に隆が居るから、余計負けたくないし!」 「はっはー、べつにいいじゃないの。どうやらこっちが有利そうだしな。ハンデやるよ!」 綾が立ちふさがり、隆が軽口を叩く。 そのあいだに、ラファエルに取り押さえられた無名の司書に、ジュリエッタがマスクをかけるのであった。 「すまんのぅ。勝負の世界は非情じゃからの」 読む声がくぐもっては聞き取りにくくなるので、口元に空間のできるタイプのマスクだ。 以後、あやしいカッパのような姿で札を読むことになる司書であった。 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな 夜の貴族――不死者たちにとっても、朝と昼のめぐりは特別な意味をもつ。 死してなお滅びぬものがかりそめの生を生きられるのは、夜の闇の中だけだ。無慈悲な太陽の、その光のもとで闇の生命はながらえることはなく、強い力を持つ夜の貴族であっても、死に等しい眠りから逃れることはかなわない。 その絶対のことわりに抗うことができるようになったのは、不死者として実に九百年を数えた頃だった。 一介の夜の貴族から不死の君主へ。生命なきものに君臨する王と呼ばれる頃になってようやく、膨大な魔力を蓄えた肉体は、死すら乗り越えることができるようになった。 (大いなる時の果て、死もまた死するものなれば) それでも、ボルツォーニは忘れることはない。 暁が空を染めるとともに、おのれが再び死の手触りにとらわれていったことを。 どれほどの、人を凌駕する力、魔力を得たところで、朝がくれば棺のなかに帰らなくてはならないのだ。 たとえまた夜がくることがわかっていても、朝がきてしまうのは恨めしいことですよ。 そう詠ったいにしえの壱番世界の歌人は、恋い慕う相手とひきさかれる痛みを託して詠った。かれにしてみれば、それもまたひとつの死であったのかもしれない。 「これはいかんのぅ」 逸儀がすう、と目を細めた。 ボルツォーニの猛攻で初戦から差がつくばかりだ。 綾、ジュリエッタ、昴ら、あお組の娘たちは気合は充分だがいかんせん戦力としては厳しい。 逸儀自身は、狐の反射神経で善戦しているものの、相手方は、ボルツォーニをのぞいても、有馬は囲み手で自陣の防御も固く、華丸は歌をよく覚えているようだ。隆も決してあなどれない。 なにか策を、と逸儀が考えを巡らせていたそのときだ。 てしっ。 軽い音とともに、札が一枚、ちいさく跳ねた。 「あ」 誰かが小さく声を発する。 一同の視線が、ボルツォーニの傍らへと集まった。すなわち、そこにちょこんと座っていた彼の使い魔に。 影からできた黒猫の輪郭をもつ使い魔は、終始、御行儀よくそこに座って、あるじの猛攻を眺めていた。いつもの漆黒のインバネスを紋付の袖にかえ、闇色を翻して次から次に札をはねとばしてゆくボルツォーニ。 使い魔に百人一首は理解できない。 ただ、なんとなくあるじをまねて、目の前のふだを、肉球めいた黒いみじかい手でぺしっと弾いてみただけだ。 まだ札は読まれていなかった。 「お手つき! お手つきですね!」 勝ち誇ったようにラファエルが宣言した。 「ちょっと待って。これはボルツォーニさんの使い魔でしょう? いわゆる『おまめ』にあたる存在だと言えるだろう。参加者ではないからお手つきではない」 モリーオが反論する。 「いいえ。使い魔の行動は主人の責任です!」 「やむをえまい」 ボルツォーニは潔くおのれのミスを認めた。 「すまないが、少し外す」 そして、傍らの使い魔に視線を落とした。 「躾が必要なようだからな」 瞬間、気温が数度、下がったようだ。使い魔ははっと目を見開いて状況を理解するや、カタカタカタと小刻みにふるえだし、影でできているはずの体表から正体不明の汗のようなものをたらたらと流しはじめた。それをかまわず、ボルツォーニがむんずと掴んで、どこかへ連れてゆく。 逸儀はふっ、と微笑んで、扇を広げる。 逸儀のうしろから、童子の装束の子狐たちが3匹ばかり、ひょっこりと顔を出した。逸儀の《式》である。扇の陰で、ひそひそと逸儀が囁くと、子狐たちはこくこくとうなずいて、ボルツォーニのあとを追う。 お茶を出したり、なにかで気を引いたりしてすこしでもボルツォーニが戻るのを遅らせるよう命じたのだ。 「では、続けようではないかぇ」 そして、艶然とした笑みを浮かべる。 「そうだね、敵の主力がいないうちに!」 綾たちが色めきたつ。 「そう簡単にいくかな?」 有馬が不敵な笑みを浮かべた。 ある意味、本当の勝負はこれからだ。 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ その歌を、有馬は贈られたことがある。 かつての患者のひとり――彼女の名は、「みゆき」と言った。 「みゆき、ってね。帝が行く、っていう意味なんですって」 「ああ……行幸と書くのだろう。幸いが行く。平安の人々にとって帝は神に等しい存在だ。ただどこかに出かけるということでも、特別なことだったんだろう」 「私は特別でもなんでもないけど」 「そんなこと――」 「紅葉は、待っていてくれるかしら」 「……」 難しい、病気だった。 そして有馬はまだ若い医師だった。 彼女が山に紅葉を見に行けるまで……どうか紅葉よ散らないでくれ、と有馬は思った。 今思えば青臭い感傷と笑われても仕方がない。 けれども。 (もう一度、会いに来るから待っていて) 最期に、彼女がそう言ったことを今でも覚えている。 みゆきという名の女。 助けられなかった患者の名はすべて覚えている有馬だが、ひときわ、特別な名前になってしまった。 あの翌年に見た紅葉の美しさとともに、有馬の記憶に刻まれているのだ。 ひとり、突出していたボルツォーニがいない間、戦いはかえって熾烈になった。 「『有馬山――』」 「……っ」 すんでの差で、逸儀が有馬より早く札を勝ち取る。 「……『有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする』。おぬしも有馬であったな。我がいただいたぞぇ」 扇の向こうで、くくくと笑った。 「結構。さし上げておこう」 有馬は平静に応じた。そして、 「『うら――』」 次の歌は、決まり字を確実におさえて有馬が勝ち取る。 「あ~、今のわかったのに~。『恨みわび ほさぬ袖だに あるものを』ですよね。残念~」 昴は取札はわかったけれど、スピードで負けたようだ。 「やば……レベル高っ」 綾が汗をぬぐう。 「『わが庵は――」 「うりゃーーー!」 次の一枚は隆の手柄だ。 「やった。これは最初に覚えた歌だからな!」 「『わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり』だっけか」 華丸が諳んじる。 「そうそう。よく覚えてるな」 「三つ子の魂ってやつだ」 少年たちは笑い合った。 「……どうする。なにかよい策はないものか」 ジュリエッタが言うのへ、逸儀はふぅむ、と考えこみ、彼女の耳元で囁く。 「次、いきますよ~」 そして次なる札が読み上げられた、そのとき。 「マルゲリータ!」 「っと、そうはいくかーー!」 札のうえで、セクタン同士がすれちがう。 逸儀の授けた策は、ジュリエッタのセクタン・オウルフォームなら、見渡しにくい相手陣地の札もミネルヴァの眼で見通せるだろうということ。そして、セクタンを飛ばして相手を撹乱することもできるだろうというものだ。 だが同じようなことを隆も考えていたようだ。 ときならぬセクタンのドッグファイト。 その隙をついて、 「そこだーーー!」 と華丸が突っ込んでゆくが、 「はいっ!」 一瞬先に、より近いほうにいた昴が札をとっていた! 「やった! とったよーーー!」 「昴ちゃんナイス!」 「だーー、負けたーーっ」 「はいっ、一條さんお手つきですね!」 鋭くラファエルが指摘する。 「ラファエル……。なんか性格変わっているような……」 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む ――この上の句はすべて、「長々し」にかかる序詞になっています。 記憶のなかの古典の教師の甲高い声。カツカツ、とチョークが黒板を叩く音。 覚えろというから覚えたけれど、おかしな歌だ、と隆は思った。この歌が言っていることはつまるところ「長い夜にぼっちなう」。それだけだろ。 序詞というのは、あることを言うために引き合いに出す前置きのようなものだと説明された。 人麻呂は、夜が長い、ということを言うために、歌の半分を使って、山鳥の尾が長い、と言っているわけだ。ヘンだ。とてもヘンだが、面白い。 人麻呂という人物は謎が多いと聞く。 いったい何者なのか定かではなく、どこでどう生き、いかに死んだのか、諸説あるそうだ。 (ひょっとしてロストナンバーになったんだったりして) ふと浮かんだ着想に、隆はにやりとした。 真偽はむろんわからないが、ひとつだけ確かなことは。 長い夜の一人寝がさみしいということを、ただ率直には言いたくなくて、ちょっと捻って言いたがるような人物だということだ。 (カッコつけやがってなあ) そう思うが、しかし、和歌とはそういうものだ……。 勝負は続く。 昴は、さっきの一枚で満足したように、手元の札を大事にしている。 天津風 雲の通ひ路(かよひじ) 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ。 彼女が獲得した僧正遍照の歌は、美しい少女たちの姿を天女にたとえ、その姿を今ここにとどめておきたいと詠っている。 昴もまた、今この楽しいひとときをここにとどめておきたい。そんなふうに思いながら、にこにこと戦いのゆくすえを見守っている。 だが、そのように穏やかなのは彼女だけだったかもしれない。 あとのものは闘志むき出しであったからだ。 「おい、綾!」 「なによ」 隆はニヤリと笑って、綾のそばの札をぴしりと指さす。 「それ、とるつもりだろう」 「あたりまえでしょ! 一字決まりは確実に獲っていかないと、私、『むすめふさほせ』と『うつしもゆ』までは何とか。『いちひき』と『はやよか』は結構ボロボロ。それより先は運の世界なんだから!」 「綾殿、そんなに手の内を明かしては」 「ハッ! ひ、卑怯だぞ!」 「そうじゃねー。ってか、その札な!」 隆は一枚を指すと、声を低く落として告げる。 「想像するんだ……その札を叩き取ると怨みで歌人の幽霊がニンジンを持って襲ってくるぞぉ~」 「な!?」 綾のニンジン嫌いを知って、隆の仕掛ける精神攻撃(?)である。 「誰がそんなバカらしい脅し……!」 「わはは、そりゃいいぜ!」 華丸が食いついた。 そして次の瞬間! 「ニンジンを食わぬのはそなたかー!!」 一條華丸。大衆演劇の花形。 たわむれであっても、その演技力は一瞬、そこに虚構の存在をあらしめる。 一同は、衣冠束帯の平安装束に、手には笏のかわりにニンジンをもった平安貴族の亡霊の姿をたしかに見た――ような気がした。 「ひい!?」 「なんと、そのような方法でレディを脅かすとは」 思わず腰がひける綾を見て、ジュリエッタが憤る。 「友人とはいえ勝負は非情なのさ」 隆は悪びれた様子がなかった。 その後も一進一退の攻防が続いたが、その戦局もボルツォーニが戻ってきてからは再びみどり組の優勢にあっさり戻ってしまった。 有馬はふたたび防御に徹し、隆と華丸が果敢に攻める。 逸儀は健闘を続けるも、もはや如何ともしがたいのであった。 これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 旅の一座の役者として、全国を転々としてきた華丸だ。 壱番世界という世界の、ちいさなひとつの国のなかを移動していたにすぎないが、それでさえ、地方地方には異なる風景があり、それぞれの風物があり、またとない出会いと――そして別れとがあった。 いつしか、一期一会、という言葉が身にしみるようになっていた。 そして、今。 (ターミナルが、俺たちの逢坂の関、ってわけだ) 世界を超える列車にのって、日々、違う世界へと旅をする。 ターミナルで知り合った仲間たちは、もしかしたら、明日にもどこか別の世界に帰属するかもしれないし、危険な冒険旅行から帰ってこないかもしれない。 そう思えば、まさしく一期一会ということを、これほど強く感じるときはないだろう。 だから――。 今・ここでの、出会いを大切にしたいと華丸は思うのだ。 (逢ったり別れたり忙しない事だぜ。だがそれも一興) 華丸は、いよいよ佳境に入ってきた勝負のさなか、真剣に札を見つめる面々を見やって、ふっと頬をゆるめた。 今日ここに集まったのも、一期一会だ。 戦いは、みどり組優勢のまま。だが油断はするまい。 どんなときも、そのひとときに真剣で、全力であろうと、華丸は決めているのだから。 ~~~かくして~~~~ 取得枚数は、以下の通りとなった。 【あお組】 南河昴→11枚 日和坂綾→12枚 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ→10枚 逸儀=ノ・ハイネ→7枚 ラファエル・フロイト→0枚(敵陣を大人げなく牽制するのに必死だったので) 【みどり組】 ボルツォーニ・アウグスト→21枚 有馬春臣→14枚 虎部隆→12枚 一條華丸→13枚 モリーオ・ノルド→0枚(大人げない店長を諌めるのに必死だったので) ~~~Go To Heaven~~~~ ふわりと甘い、りんごに似た、カモミールの香り。 フルーティで飲みやすい、ほんのり黄色の可愛らしいお茶は、ボルツォーニのリクエストだった。 使い魔の前に、それは置かれる。 きょとんとしたあと、小さな手をおずおず伸ばし、ふぅふぅと吹いて口をつける使い魔を見て、「や~ん。かんわいい~。さらって逃げたぁい」などと、無名の司書は呑気な感想を漏らす。 無表情のボルツォーニからは伺い知れない。 勝ったから良かったものの、万一、使い魔のお手つきが原因で負けでもしていたならば、むめっち特製地獄味コーヒーを一気飲みさせられたあげく、雑巾絞りの刑に処せられたであろうことに。 華丸に渡されたのは、リクエスト通りの、すがすがしいレモングラスのハーブティーだ。 「ペパーミントとの相性が良いので、少し加えてあるけどね」 笑顔のモリーオに、華丸は上機嫌で答える。 「こいつぁ春から縁起がいいわい!」 月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)の、お嬢吉三の台詞だった。 オレンジ色の花びらが浮いた、春先の野山を思わせるお茶を、春臣は受け取る。 野に咲く花に似た、ほんのりとした香りと味わい。かすかに残る後味は、どこかほろ苦い。 「これは?」 「マリーゴールドのお茶だよ。少し味が薄いので、ラベンダーをブレンドして引き締めてみたんだ」 儚げなのに芯の強さを感じる香りは、手強い少女を思わせた。 隆に渡されたのは、ローズヒップティーだった。 ひとくち飲んで、怪訝そうな顔をする。 「あれ? 酸っぱくない」 「ハイビスカスをブレンドすると、赤い色になって酸味も強くなるんだよ。ローズヒップ100%だと、それほど酸味は強くないんだ」 「そっか。けっこういけるな」 ティーカップを手に、隆は、あお組の様子を伺う。 「俺、別に、むめっちのコーヒー飲むのに抵抗ないけどなー。どこが罰ゲームなんだろ?」 自身の幸運に、隆はまだ、気づいていない。 「ふんふん~♪ ふふんふ~ん♪ おいしくなぁれ、おいしくなぁれぇぇぇぇ~~♪」 厨房へ行った無名の司書が、鼻歌まじりにコーヒーを淹れている。 あお組5人は、判決を言い渡される被告人のような面持ちで、車座になっていた。 「わたくしは以前、司書どのの、地獄味コーヒーを飲んだことがあるのじゃが……」 沈鬱な表情で、ジュリエッタが声を落とす。 「それはそれはアレであった。コーヒーなど、この世から滅びてしまえば良いと思ったほどじゃ。あのときはつい、マグカップに向かって電撃を放ってしもうた」 「私も飲んだことあるよ。天国味も地獄味も。天国味のほうは、もーね、すっごい美味しいんだけど、地獄味のほうは……、ちょっと、よく覚えてないなぁ。飲んだあと昏倒しちゃったから……」 綾が言いよどむ。綾が言いよどむくらいだから、しかも昏倒するほどなのだから、よっぽどなのだろう。 「うぅむ。あまり刺激が強くない匂いだとありがたいが」 「でも、ちょっと楽しそうですね」 地獄コーヒー未経験者の逸儀と昴は、そっと顔を見合わせる。ちなみに、逸儀の式である小狐3匹は、お手伝いと称して厨房に行ったきり戻ってこない。 なんでも厨房には、料理長であるペンギンが早出してこもりっきりだそうだ。フクロウのラファエルを美味しそうに見ていた小狐たちは、料理長とどのようなコミュニケーションを取っているのであろうか。 「何にせよ、司書どのとは一度、酒など酌み交わしたかったところじゃ。この場をしのぐことができたなら、声を掛けようと思っておったに」 くくく、と、逸儀は忍び笑いを漏らす。 「よし、決心した!」 綾が、拳を握りしめて身構えた。 「むめっちおねぇさまのコーヒーは、全部私が飲む! 5人分、残さず飲み干す!」 「綾さま……! それは、あまりにも……!」 ラファエルの顔が蒼白になる。 「だって、楽しかったんだもん。久しぶりに百人一首読み直したし、卒業予定のイケメンウォッチングもしちゃったし……。だから」 「いいえ、綾さまを犠牲にするくらいなら、私が!」 「どうせなら、最後までみんな笑顔がイイんだもん」 「仰るとおりです。ですから私が飲みます。綾さまにもしものことがあっては、大切なかたがどんなに哀しまれることか」 「ならば、わたくしが司書どのに電撃を放つとしよう」 ジュリエッタが、すっくと立ち上がる。 「気絶するやも知れぬが……。まあ、ハグ&キスなどで気付けをすれば回復しようて」 「いえ、ジュリエッタさま。それではせっかくの晴れ着が司書さんの鼻血で台無しになってしまいます。クリスタル・パレス一面が血の海になり、掃除と原状回復に時間がかかりますし、灯緒さんに畳代の弁償もしなければ」 などと、美しい自己犠牲の応酬を行っていたところ―― しゃげえええええーーーーー!!! とっとことっとことっとこと、一同の前を、凶暴にして美味な餅であるところの『喪血ノ王』、いや、ミニサイズの『喪血ノ王子』が横切った。 急遽、あお組とみどり組は一致団結し、美味しい雑煮と安倍川、もとい、ターミナルの典雅な新年を寿ぐため、対応にあたることになったのである。 無名の司書の淹れたコーヒーが、天国味だったか地獄味だったかは―― その場にいた誰もが、黙して語らなかった。
このライターへメールを送る