伽藍崎紗耶(がらんざき・さや)の美しい姿は、燃え盛る炎の中に消えていった。 漆黒の髪と白磁の肌。当世風とは言えない容貌だったが、紗耶が美しい女であったことは間違いない。もとは地方の劇団員だったというが、類稀な演技力によってまたたく間に日本映画界になくてはならない存在となった。 まだ二十歳をいくらも過ぎていない時期に、薄幸の娼婦を演じてから演技派女優の名を欲しいままにした。実際、銀幕のなかで彼女は、さまざまに姿を変えた――。血まみれの予言者の生首にくちづけする妖姫……神の啓示を受けて騎士を率いる可憐な少女戦士……余命いくばくもないなかごく平凡に、しかし懸命に初恋を追う娘……財閥の令嬢……離れてゆく夫の心をつなぐために奔走する主婦……彼女はいくつもの顔を持ち、かつ、それぞれが凄絶なまでのリアリティを持っていた。どんな年齢の女でも演じることができるのがとりわけ、彼女の強みとされていた。 彼女は孤独な身の上だったという。 認められて財をなしてからは、奥多摩に屋敷を構え、ひっそりと暮らしていたそうだ。 華やかな芸能界にあって、友人は少なく、そのため醜聞はまったくなかったし、どこか、そうした世俗的なことを超越したような雰囲気の女であった。 そんな女優、伽藍崎紗耶が亡くなったと報じられたのはひと月ほどまえのことだ。 東京郊外の撮影所が突然の火災に見舞われた。 その日の撮影が深夜を過ぎて終わり、紗耶を含む出演者たちが帰宅する一方、スタッフは後片付けに勤しんでいた。突然、火災報知機のサイレンが鳴り響き、かけつけたところスタジオのひとつが、その内部をすでに猛火に包まれていた。 そのとき、火と煙の向こうに、紗耶が消えていくのを、何人ものスタッフが目撃している。 彼女は自宅が遠いので、近くのホテルに投宿しており、撮影がはねたあと部屋に戻ったはずだった。だが、後日、彼女を載せたタクシーの運転手が、撮影所を出ていくらもしないうちに、忘れ物をしたから戻る、ここでいい、と言って彼女が降りたのだと証言した。 焼け跡から見つかった遺体は、当然、消し炭のような黒焦げで、その美貌は跡形もないどころか、男女の別さえつかないほどであったが、そのときスタジオ内にいたのが紗耶ひとり、遺体もひとつとあっては、それが国民的女優の末路であると断定せぬわけにはいかなかった。 遺体は床に仰向けになってまっすぐに横たわり、手を左右に広げた状態で、さながらそれは黒い十字架のようにも見えたという。 自殺を囁く声もあったが、出火原因が電気系統の故障であることがあきらかになった。 紗耶は、タクシー運転手の証言通り、スタジオに忘れ物を取りにもどり、そこで火事に巻き込まれたのではないか――警察はそう結論づけた。 葬儀は彼女の所属事務所によって執り行われた。 それからひと月ほどが経ち――、薄情なメディアと民衆は、すでにして彼女のことなど忘れかけていたころ。 幾人かの人々のもとに、招待状が届いたのだ。 奥多摩の緑に抱かれてまどろむように建つ紗耶の私邸――特別につくらせた庭に咲く花ゆえに『黒百合館』と呼ばれる屋敷からの、誘いであった。 *「『黒百合館』、か。黒百合は育てるのが難しいと聞くが」 奥多摩へと向かう途上。特急列車のボックス席に対面にかけて、由良久秀が言った。「庭師と契約して面倒をみさせていると聞いたな。1階のリビングと、ちょうどその真上にあたる彼女の寝室から、黒百合の咲く庭を眺められる。嵌め殺しのガラス越しにだが」 とムジカ・アンジェロ。「行ったことがあるのか?」「以前に一度。彼女の舞台の音楽をやったことがあって」「そうか。……嵌め殺しと言ったか?」「黒百合の花は悪臭を放つ。家の中から見て愛でるためだけの仕掛けなのさ」「ほう。姿は美しいが匂いは酷い。……彼女自身のように?」 由良の言葉には、ムジカは肩をすくめるだけ。 駅には迎えの車が来ていた。 ふたりを乗せた車が曲がりくねった山道を行けば、やがて前方に、独特のモダンな建築があらわれる。『黒百合館』などという大時代的な呼称のわりに、風貌はむしろ前衛的と言える建物だった。「遠いところをご足労をおかけ致しまして」「いえ。はじめてお目にかかります。ムジカ・アンジェロです。こちらは由良久秀」 車椅子の上品な老婦人が、ムジカたちを迎えた。「紗耶さんは天涯孤独と聞いていたので、驚きました」「ええ……。あの娘が生まれるまえに私は夫と別れてしまっていたものだから。祖母らしいこともちっともしてやれなくて」 紗耶の祖母だという婦人は、山村京子と名乗った。 この女性が、人々を招いたのだった。生前の紗耶の話を聞かせてほしい、と。 ほかに係累がいないため、さかのぼってこの老女が紗耶の遺産を相続することになるようだ。 客は7人、いた。 城田正則。老婦人の車椅子を押している壮年の男。 浅黒い肌にがっしりした体格の四十路で、身なりがよい。映画会社のプロデューサーで、紗耶の映画を何本も手掛けた。紗耶が死んだ日も撮影所にいた。紗耶の映画はすべてが成功しているとは言えないが、彼がかなりの投資をしており、そのせいで会社における立場が微妙になりはじめてもいたらしい。それほどまでに紗耶に入れ込んでいた。 江藤茉莉香。非常に恰幅の良い中年女性。 フリーの映画ライター。毒舌で知られ、紗耶の作品もこきおろしたことがある。にもかかわらず、紗耶はあまり彼女を嫌っていなかったようで、何度もインタビューを受けている。 佐々木敬悟。地味なスーツを着た眼鏡の男。 紗耶の事務所の社員で、彼女のマネージャー。紗耶のマネージャーは何度も変わっているが、彼が最後の担当者になった。紗耶は非常に人使いが荒く、わがままなところも多いため、かなり苦労させられていたらしい。紗耶が死んだ日、炎の中に彼女が消えるのを目撃した一人。 津田史郎。金髪の男。 メイクアップアーティスト。紗耶のヘアメイクをよく担当していた。腕はたしかだが感性が合わないのか、何度か紗耶ともめたことがある。ある仕事を境に、紗耶が彼には担当させないでほしいと言っていたらしい。 有川みのり。 新人女優。撮影中だった紗耶の映画の共演者で、火事になった撮影所での撮影にも参加していた。映画の経験が浅く、NGが多くて、紗耶に小言を言われたこともある。 そして、ムジカ・アンジェロと由良 久秀。 ムジカは舞台の音楽を手掛けたことがあり、由良は彼女の最後のポートレイトを撮影した写真家だった。新作のプロモーションのために由良が撮影を依頼された写真は、撮影の二日後に彼女が亡くなったため、本人は仕上がりを見ていない。由良が呼ばれたのは、彼女の最後の写真を見せてほしいという意味もあるようだった。「あの娘は決して、良い評判ばかりの女優ではなかったと聞きます」 山村京子は集まったものたちに告げた。「私に気を使う必要はありませんから……どうぞみなさんが思っておられることを、忌憚なく、聞かせて下さいませね。私は、あの娘の本当の、素顔を知りたいのです」 そういって、どこか寂しげに微笑むのだった。 § § § 「……事件はその日の深夜から未明にかけて起こりました。露見したのは翌朝ですね」 世界司書ヴァン・A・ルルーは語った。「城田さんが、黒百合の咲く庭で、死体となっていました。死因は青酸化合物による中毒死。現場に毒の入った飲み物のようなものは見当たらず、犯人が彼に毒を飲ませたあと持ち去ったものと思われます」「窓は嵌め殺しということだけど、庭へ出入りすることはできるのね?」 レディ・カリスはそっと訊ねた。 赤の城の薔薇園である。あずまやにティーセットを運ばせ、カリスとルルーは向かい合っていた。「ええ。本館からは大回りになりますが。『黒百合館』は本館と、おもに客室で構成される別館からなり、ふたつの棟が2本の渡り廊下で結ばれています。ふたつの建物と渡り廊下に挟まれる形で、庭があるのです。庭には、別館の勝手口から入れます」「その夜、客人は全員、屋敷に宿泊した」「ええ。山村婦人も含めて全員が別館に。本館は夜間は無人でした。犯行は深夜でして、アリバイは誰にもありません」「まあ。現場は誰でも出入り自由。関係者にアリバイのあるものは一人もいないですって」 カリスはあきれたように言った。 くま司書の黒くて丸い瞳が、きょとり、としたようだ。少し考えて、司書は言った。「あまりにも茫洋としていますね。では『宣言』を行いましょう。ムジカさんが『探偵』です。よって彼は犯人たりえません」「由良というロストナンバーのほうはどうなの」「由良さんは容疑者に含みます」「屋敷に使用人の類は?」「通いのものがいますが、無視して下さい。『ヴァン・ダインのルール』にもとづき使用人は犯人たりえません。私が個人名を挙げた人物だけが容疑者です」「……」 カリスは紅茶を含んだ。 ふたりの、このような「お茶会」は初めてではない。 その日、いつもと違っていたのは、ルルーのほうから、「物語」を持ち込んだという点だ。それは、ルルーが、ムジカ・アンジェロから聞いた、ムジカが実際にかかわった実話であった。「……伽藍崎紗耶が焼死した日。撮影所にいたのはプロデューサーの城田、マネージャーの佐々木、共演者の有川の3人なのね」「そのとおりです」「残りのものに、その日のアリバイは?」「津田さんだけが、別の現場で仕事があり、地理的に火災時に撮影所にいることは不可能です。残りの容疑者については証明できないアリバイと考えて下さい」「『被害者』の『宣言』も行うことができて?」「構いませんよ。城田さんが『被害者』であることを『宣言』します。彼は確実に死亡しています。ただし、『被害者』は『犯人』と両立できることをお忘れなく」「からかわないで頂戴。死者は一人なのよ。彼が『犯人』ならただの自殺事件になってしまうわ」「おや。レディ・カリスとも思えないお言葉ですね。さきほど伽藍崎紗耶の焼死にまつわるアリバイを確認したばかりじゃありませんか」「伽藍崎紗耶の『被害者宣言』は行わないのね」「拒否します」 ルルーは表情を変えない。 着ぐるみだから変わるはずがない。「……犯行前。各人が紗耶について語ったという――会話の内容が知りたいわ」「ええ、そうでなくては。実のところこの物語において、死体も犯人もさしたる問題ではないのですから」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>由良 久秀(cfvw5302)ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)=========
■ 曇天の前奏 ■ 「ミステリにはお誂え向きの舞台じゃないか」 車を降りたムジカは、屋敷を見上げて由良にだけ聞こえる声で言った。 「ミステリ?」 うろんな眼差しに、ムジカは微笑う。 「人里離れた屋敷。死んだ女優。集められた関係者。……この中のひとりが殺されたとしたら?」 「三流もいいところだ」 由良は面白くもなさそうだ。 「写真を届けるだけでよかった。なぜ俺まで」 「そう言うな」 由良が紗耶を撮影することになったのは偶然のようなものだった。 もっとも、紗耶は以前から、「謎の写真家」の噂と作品は知っていたらしい。ムジカと仕事で知り合ってまもなく、彼女が訊ねてきたのだった。 (『由良久秀』があなたの変名だという噂は本当なの?) その噂はガセだが、由良は実在していて、知己である、とムジカが応えたことから、撮影が実現したのだ。 紗耶の死後、由良のぶんの招待状もムジカが受け取った。由良は一度は欠席の返事を出し――しかしなかば強引にムジカに連れ出された顛末はまた別の話である。 「もしも。この山荘で殺人事件が起きたとしたら」 由良は言った。 「犯人は俺だ」 「ほう。動機は?」 「『もう帰りたい』」 だが由良の意に反して、ことは進んで行った。 老婦人がふたりを迎える。 「紗耶さんは天涯孤独と聞いていたので、驚きました」 「ええ……。あの娘が生まれるまえに私は夫と別れてしまっていたものだから。祖母らしいこともちっともしてやれなくて」 「疎遠だったのですか」 「ほとんど会うことはありませんでした」 「ではこの邸にも」 「あの娘が亡くなってはじめて」 広いリビングに通された。ふたりが着いたことで客が全員揃ったようだ。 「われわれがお邪魔して本当に良かったのですか」 ムジカは訊いた。 「紗耶さんとはそんなに多くのお仕事をさせてもらったわけではないですし。由良はたった一度撮影したきりです。ほかのみなさんほど、紗耶さんのことを知っているとは言えません」 「いいんですよ」 にこにこと、京子は応えた。 「それぞれの方が見た、あの娘の話が聞きたいの」 家政婦からそれぞれに好みの飲み物が配られた。客たちはリビングにバラバラにおのれの位置をとった。どことなく収まりのわるい空気だ。文字通り互いの立ち位置を探りあっているのだろう。 「紗耶さんは稀有な才能そのものです。紗耶さんの映画がもう観られなくなるのは本当に残念ですよ」 城田正則はプロデューサーらしい言辞を述べた。 「でもあたりはずれも多いと思うわよ」 江藤茉莉香はずけずけと言った。 「それに、人としてどうだったかしら。あなた、ずいぶん苦労させられたんじゃないの」 茉莉香は佐々木に話を振る。 「江藤さん」 マネージャーの青年はあいまいな苦笑を浮かべた。遺族の前で失礼じゃないか、と城田が言ったが、茉莉香は意に介さない。いいんですよ、と京子がとりなす。 「たしかに、その……我の強い方であったのは間違いないですけど」 遠慮がちに、佐々木は言った。 「でもだからこそ、いい仕事ができたのかもしれない。自分がないとこういう仕事はできないもの」 と、津田。 「……。おれも同じ意見です」 ムジカも発言した。 「それに、たとえわがままであっても、悪い人間には見えなかった」 「あら、そう? でもよくない噂も聞くわよ。……ところで城田さん、あなた、本当のところ、彼女とはどの程度の関係だったの?」 茉莉香が訳知り顔で訊ねた。 はっと、みのりが顔をあげる。 「なにを言ってるんだね、きみは!」 「いやだ。みーんな知ってることじゃないの」 「失敬な。バカなこともたいがい――」 「そうだ。彼女の写真があるんでしょ?」 場の空気が険悪になりすぎるまえに、津田が言った。写真とはむろん由良の作品のことだ。 「見てみたいわ」 みなが同意のうなずきを見せたが、由良ひとりが浮かない顔だ。 「……プライベートに依頼されたものだ。本当なら、誰にも見せるべきじゃないのかもしれない。せめて遺族にだけと思っていたんだが」 「わたくしなら結構ですよ。みなさんにも見ていただきたいわ。あの娘もきっとそう言うでしょう。だって……女優なのですもの」 観念したように、由良は封筒から、キャビネット判を出す。 「……これは」 伽藍崎紗耶は黒百合を胸に抱き、そっと目を閉じていた。 ごくシンプルなドレス。よこたわるソファのうえに黒髪が流れる。それは眠っているようでもあり、見ようによってはあるいは…… 「まるで死体ね」 茉莉香だ。この女性は思ったことをすぐ口にしないではいられないらしい。 「……写真は、これだけなのか」 城田が訊いた。 由良は一瞬、躊躇したようだ。ムジカがそれを見逃さなかった。 「まだあるんだろ。見せてくれ」 「……」 無言で差し出された写真に、誰もが息を呑んだ。 それは、黒い十字架にかけられた紗耶の姿が写されていたのである――。 「……お、おもしろい演出ですね。これは由良さんのアイデアですか」 佐々木がとりつくろうに言った。 「いや」 「では紗耶さんが」 「撮影中もいろいろ注文をつけてきて煩かった。」 「でも綺麗」 みのりが言った。 「ほんとうに、綺麗なひとだったのよ」 そのことだけは、誰も否定しようとしなかった。 それからあとは、各人がそれぞれ見知った範囲での思い出話を語った。 やがて夜が更け、食事が振舞われ、食後のワインとコーヒーが出されても、語られる挿話は尽きなかった。 ムジカはかつて彼女の舞台に提供に音楽を演奏してみさえした。 そして……、一夜が明け、事件の緞帳はのろのろと開いたのである。 「なにしてるんですか!」 佐々木が、由良の肩をぐいと掴んだ。由良が青年マネージャーを睨み付ける。撮影の邪魔をするものを彼は許さない。だが青年も怯みはしなかった。 「非常識でしょう、こんな――、遺体の写真を撮るなんて!」 「現場の状況を記録する役には立つ」 由良のかわりにムジカが応えた。 「それは警察の役目でしょう!」 佐々木の言い分は正論ではあろう。 リビングから不安げにこちらを見ているのはみのり。傍らに京子の車椅子の姿と、江藤茉莉香の恰幅のよい姿も見えた。 「喧嘩はやめて」 津田が駆け寄ってきた。 「警察には?」 「電話したわ。遺体や周りのものに手をふれないでいてほしいって」 「写真も撮るなって?」 皮肉っぽく、由良が訊いた。津田は困ったような表情を浮かべ、佐々木は由良を無視した。 「でも……ホントにこのままでいいの?」 と、津田。 城田を放置しておくのを哀れに思ったようだ。 ムジカは死体を見下ろし、注意深く周辺に目を配った。 苦悶の表情に――カッと見開かれた目。のど元をかきむしる手。ここで毒殺されたのは間違いなさそうだ。 そのときだ。ぽつり、と冷たいしずくが、ムジカの頬を打った。 「まずい」 彼は言った。 「シーツかなにかを。現場を保存しなくては」 慌ててもってきたシーツが死体を覆うのと、雨が本降りになるのは、ほぼ同時だった。 稲光が、黒百合の庭を照らし出し、骸を包む布を白々と浮かび上がらせた。 § § § 「『嵐の山荘』を宣言します。所定の期間、この場所にはいかなる部外者も介入できません」 ルルーは言った。 「続けて、『警察の無能』を宣言します。この事件において、警察機構は適正に機能しません。……以上で、私の宣言は終わりです。これにてゲーム盤の準備はすべて整いました。……さあ、どうぞ、レディ・カリス」 ことり、とカリスは白磁のカップをソーサーへ戻した。 美しいおもてが思索に耽ったように見えたのは一瞬のこと。彼女の手筋ははやわざだ。よどみなく、彼女は言った。 「『オッカムの剃刀』。由良久秀を容疑者から排除するわ」 「いいんですか? 由良さんはロストナンバーです。なにかとベンリな駒ですが」 「見くびらないで頂戴。由良が当初は欠席の予定だったとわざわざ述べたくせに。明確な動機もなく、計画的な犯行に及ぶはずもない。写真家なら青酸カリを手に入れることはできたかもしれないけれど、人を殺すには事前の準備と適切な保管が必要よ。彼にそれができたかしら?」 「そうですね。ムジカさんもそれに気づき、由良さんを疑ってはいません。『オッカムの剃刀』でほかになにか排除しますか?」 「いいえ。先を進めましょう」 § § § 「警察がくるまでまだ時間がかかるって」 「そんな」 リビングを、不安が支配していた。 ムジカは壁にもたれ、鹿の頭が飾られているしたで、鹿と同じくリビングの面々を観察していた。 「おい」 由良が話しかけてきた。 「警察が到着するまで帰れないとか嘘だろ」 「面倒なことになったな」 「笑いごとじゃない」 「なら協力しろ」 ムジカは微笑った。 そして。 「すこし、話を聞かせてほしいんだが」 ムジカの捜査がはじまる。 江藤茉莉香は語った。 「ええ、そう。あたしの想像じゃあ、城田さんと紗耶は関係があったとは思うわよ。たぶんね。でもそんなこと……芸能界じゃあ、ねえ? ほかにももっとややこしいことがあるんだし。こんな山奥にひっこみたかった気もわかるわ。そうそう、いいこと教えてあげる。実はね……」 佐々木敬悟は語った。 「昨晩、部屋に下がるまえ、廊下で城田さんとちょっと話したんです。城田さん『きみも最後まで災難だな。こんな茶番』って。どういう意味かはわかりませんでした」 津田史郎は語った。 「彼女、引退するつもりだったんじゃないかしら。理由? それは……」 有川みのりは語った。 「はい。私は城田さんとお付き合いしていました。……亡くなった人のこと、悪く言いたくはないですけど、『紗耶は以前ほどじゃなくなった』って言ってました」 § § § 「チェック」 レディ・カリスが宣言する。 ルルーの黒い目が、彼女を見た。 「犯人は――」 ■ 炎の独奏~レディ・カリスの推理 ■ 「犯人は、貴方だ」 ムジカ・アンジェロは言った。 カッと雷光が閃き、死者がよこたわる黒百合の庭とリビングとを照らし出す。 「な、なぜ」 最初に口を開いたのは佐々木だ。 「なぜです。どうして、城田さんを」 「伽藍崎紗耶は引退を決意していた」 ムジカは唐突に言った。彼の視線が、津田に突き刺さる。 「……そう。私が彼女と仕事できなくなったのもそれが原因。あのことに気づいてしまったから。……彼女、病気だったのよ。グプラー麻痺といって、瞬間的に顔の半分だけ筋肉がマヒしてしまうんですって。事務所にも内緒で医者にかかっていたけど」 「し、知らなかった……」 「顔の筋肉がマヒしては表情がつくれない。女優には致命的だ。城田さんは気づいていたのだろか」 ムジカの視線がみのりへ向く。 彼女はかぶりを振った。 「たぶん、そこまでは。でも、紗耶さんが衰えているとは思っていたようです」 「だから心が離れていった」 「ええそうですね」 「なんてこと言うの」 江藤茉莉香が憤然として言った。みのりの声音に、女の傲岸さのようなものを感じ取ったのだろう。彼女もまた、女優だった。 「城田さんはデビューの頃から紗耶を目にかけてきた。女優として地位を築いた今でも、映画会社の敏腕プロデューサーの後ろ盾は、やはりありがたいものだったろう。彼の心が離れていくのを、紗耶は裏切りと感じたのではないか。少なくとも、失望したのでは」 「病気で気弱になってもいたでしょうしね。……知らなかった。彼女に、そんな弱さがあったなんて。知ってたら、あたし」 茉莉香はらしからぬ悄然さを見せる。 「そして、彼女は死んだ。……貴方は、その死の責任が、城田さんにあると感じたのではないないですか。……山村京子さん」 再び、雷鳴――。 「あらあら」 老婦人は乾いた笑いをこぼした。 「かわいい孫を失って、私が復讐したと仰りたいの? でもあれは事故だったんでしょう?」 「あるいは、城田さんが、貴方に詰め寄ったのかもしれない」 「どうして?」 「『正体を見せろ。こんな茶番がなんになる』」 すっ――、と、老女の顔から表情が消えた。さっと、彼女は顔をそむけ、車椅子を半回転させて客たちに背を向ける。 「昨夜、城田さんがそう……」 「意味するところはひとつしかない。貴方が、伽藍崎紗耶だからだ」 「まさか!」 「ちょっとまって、そんな」 「おい」 それまで黙っていた由良が口を開いた。 「いくらなんでもそれは無理があるんじゃないのか」 § § § 「伽藍崎紗耶は女優。そして誰も存在をしらなかった親族の登場。となれば、それが彼女の変装であり演技である。……そんなものは探偵小説のドクサだわ」 レディ・カリスは言い放った。 「では、山村京子は山村京子として実在するのですね」 「ええそうよ。ひとを消すことはできる。それこそ殺人によってでも。でもいない人間をあらしめることは、それよりずっと難しいことよ」 § § § 「そう。伽藍崎紗耶は女優。そして誰も存在をしらなかった親族の登場。となれば、それが彼女の変装であり演技である。……そんなものは探偵小説のドクサだ。映画の中ならそういうこともありうるだろうが……現実的じゃない。しかし、城田さんは映画業界の人間だからな。そう信じ込んでしまったのだろう」 ムジカは続けた。 「一方、貴方は貴方で、城田さんに彼女の死の原因をつくった男という恨みが生じていた。貴方は、彼女を失いたくはなかったはずだ。……ずっと疎遠だったと言ったが――なるほど、会ってはいなかったとしても、紗耶は貴方のことはずっと知っていた。知らざるをえなかった」 「離婚したあと、生活に困ったあなたを援助していたんですものね」 告発するように言ったのは茉莉香だった。 「知ってるのよ。彼女から聞いたの。遠縁のばあさんに金をせびられてるって」 「……山村さんは紗耶さんの母方の祖母でらっしゃるから、血縁です」 佐々木が付け加えた。 「山村さんが生活保護を申請したとき、紗耶さんのところにしらせがきて……」 「……」 しばらく、誰もなにも言わなかった。 重苦しい沈黙。 そして、京子のしわがれた声が、ぽつり、とこぼれる。 「……最初は、本当に殺すかどうか、決めていなかった。でも写真を見て、決心したのよ」 「写真? 俺の?」 由良が目を見開く。 「そう。黒い十字架にかけられた紗耶。……紗耶は同じ姿で死んでいた。つまり、あの娘は自分の意志で死んだの。あの娘が写真を撮らせたのは、『私はこうして死ぬ』というメッセージを残すためだと気付いたからよ」 § § § 「なるほど。それもひとつの結末です。……投了ですよ、レディ・カリス」 「含みがあるわね。無理に勝ちを譲られてもかえって気分が悪いわ、ルルー」 「いえ、そのような」 「ほかにも観測されうる可能性があるのね」 「……」 「言いなさい」 ■ 死の後奏~ムジカ・アンジェロの推理 ■ 「……以上がおれの推理だ。間違いがあったら言ってくれ」 「ふふふ」 京子は笑った。 「申し分ないわ」 「そうか」 ふたりがいるのは伽藍崎紗耶の私室だった。窓からは、雨上がりの庭を現場検証する警察関係者たちの姿が見下ろせる。 「では、自分が伽藍崎紗耶だと認めるんだな」 「……わたしを警察に突き出す?」 ムジカは肩をすくめた。 「ふたつ、わからないことがある。ひとつは、焼死体は誰だ」 「もちろん京子おばあさまよ」 「火事より先に殺――いや、死んでいたんだな」 「スタジオの天井、照明よりも高い位置にワイヤーで吊り上げて隠しておいたの。そうしたらその姿勢のまま硬直してしまって」 「普通、焼死体はくの字に折れ曲がるはずだからな。筋肉が焼けるときの反応で。……もうひとつは、おれたちをここへ呼んだ理由だ」 「……それは、言ったとおりよ」 「?」 「『伽藍崎紗耶の話』を聞きたかったの。だから、わざと立場の違う、付き合いの深さも違うメンバーを選んだの。いろいろな角度から、私がどう見られていたのかを知りたくて。私は私が誰だかわからなくなってしまっていた。たくさんの人間を演じたわ。いつしか、本当の自分がわからなくなるほどに。引退前に、確かめておきたかったのよね」 「そうか……」 ノックの音がした。 入ってきたのは由良である。 「もう帰っていいらしい」 「そうか。思ったより早く済んだ」 「城田の携帯のメモに、『遺書』があったらしい。紗耶の後を追う、って」 「できすぎた話だな。まるで誰かが偽装したようだ」 「だとしたら、俺にはその動機がわかる」 由良は言った。 「『もう帰りたい』」 「そういうわけだ。これで失礼する」 ムジカは、老婦人をふりかえった。 「もう会うこともないかもしれないが」 「……。私は誰だったのかしら。結局、それはわからないままだわ」 「あいにく、それはおれにも解けない謎だ。誰もが一生抱かなくてはならないものかもしれないな」 伽藍崎紗耶は、窓のそとへ、視線を投げた。 黒百合が埋め尽くす庭へ。 「一生……。そんなもの――まるで呪いだわ」 そのつぶやきがこぼれたとき、すでにムジカと由良の姿はなく、紗耶に応えてくれるものは、誰もいないのだった。 (了)
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