森は今日も、穏やかな漆黒に深く沈んでいる。 目的を持ってやってくる人々を、静かに、ただあるがままに迎え入れ、望むままに過ごせばいいと勧めているかのようだ。 ここには、無言の許しがある。 それはまるで、姿の見えないやわらかな抱擁のようだ。 「……静謐で美しいところですねー」 青燐は、のんびりとしたつぶやきとともに周囲を見渡した。 輝く漆黒の木々に、赤や青、金や銀の果実がみのっているのが見える。 それらはどこか懐かしい、かんばしい香りで、青燐の記憶をくすぐる。 「ここに……あるんでしょうか。私のほっするものも」 小首を傾げると、長い瓶覗色の髪がさらさらと流れた。 淡い、もの静かな色合いをしたその髪は、絹糸を縒り合わせた藍の紐に、翡翠や珊瑚の珠を通した繊細で流麗な髪紐でまとめられている。 おそらく誰も知らないが、それは、青燐の母親の、たったひとつの形見だ。 母が青燐にと遺してくれたものではない。 “名無しの暗殺者”ではない『自分』として生き始めてしばらく経ったころ、気になって会いに行ったことがある。 青燐は、そのとき、彼女がすでに故人であることを知った。そして、彼女をしのぶよすがとして、生前母親が愛用していたというこの髪紐を譲り受けたのだ。 「あなたは、私のために、何か想いを遺してくれましたか……母よ」 あれがそうだなどとは思いたくないが、血縁上の父は青燐を便利な駒として扱った。そこに親子の情などなく、“名無しの暗殺者”はしばらく、感情というものを理解せぬまま育った。 そして、父の、和平を疎んじそれを妨げようとする『名もなき月』の思惑のまま、世に平らかさを取り戻そうと尽力する要人たちを暗殺するだけの日々を送っていた。 夜人族の罠師との出会いが彼を変えた。 そこで彼は心の片鱗を理解し、自分を変え、今に至る。 ――父は自分を愛してはいなかった。 そうでなければ、我が子に名前をつけず、いつ死ぬともしれぬ暗殺稼業に身を投じさせるなど、出来るはずがない。 ――恋人の子夜は愛してくれた。 自分への贄となり命を落とす最期の瞬間まで。 それでは、母は、どうだろうか。 浄嘉という源氏名と、緑の髪を持つ木行天人であったことしか知らない、想像と面影だけの母は。 青燐が、想彼幻森を訪れた理由が、それだった。 そこへ、 「探し物を?」 声をかけたのは、漆黒の髪に緋色の眼をした青年だ。 頷くと、青年はゾラと名乗った。 「ええ、実はずっと気になっていたことがあるんですよー」 単眼模様のある薄青の布で隠された青燐の素顔が、どんな表情をしているかは、きっとゾラには見えないだろう。 「ある人の、私への感情というか、想いが知りたくて」 「そうか。ここでの探し物を手伝えるのは黒の夢守だけ……なんだが、最近どうも、様子がおかしくてな」 「おかしい……ですか」 「妙に、ぼんやりしていることが多いんだ。少し前までは、あんなことはなかったのに。そもそも、『ぼんやりする』という機能があったことすら、俺はつい最近知ったくらいだから」 普段なら呼べば高確率で出て来るそうだが、ここのところ、現れないことのほうが多くなっているのだそうだ。 「そうですか……では、地道に探すしかなさそうですねー」 別段、急ぐ旅でもない。 心を得たのも、愛する意味を知ったのも、ゆっくりとだった。 なら、探し物だって、急がなくていい。 そんな思いでゾラに別れを告げ、青燐は森の奥へと踏み込む。 「ああ、でも……ただ歩くだけでも、懐かしい」 果実が放つ芳香のせいだろうか。 それを吸い込むたび、胸のうちを心地よい感覚が満たす。 ひとがひとを想う、その結晶は、こんなにも佳い香りがするものなのかと思う。 そうして、どのくらい歩いただろうか。 黒曜石と黒水晶、ブラックオパールを組み合わせて彫り出した幹に、銀と白金の葉を飾りつけ、わずかなサファイアで陰影をつけたかのような樹木は、どれも、ひとつとして同じではなく、求道者が手を差し伸べたようであったり、天使が太陽を求めて手を伸ばしたようであったり、聖乙女が傷ついた兵士をやさしく抱くようであったりした。 一本一本に歴史と物語を感じさせるそれらは、見ていて飽きることがなく、青燐はひたすら、奥へ奥へと進んでいた。 もしかしたら呼ばれていたのかもしれない、とは、後日の青燐の言である。 きらり。 樹上に、碧い果実が見えた。 そのとたん、青燐は知ったのだ。 自分が、見つけたことを。 そう、根拠もないのに、それがはっきりと判った。 「ああ……ああ、やっと。見つけました」 こぼれる声には、わずかな、常とは違う熱がにじんでいる。 青燐が取る普段の言動、その大半は演技によるものだが、今の彼は、演技ではなく、本当に喜んでいた。 「でも……少し怖い、ですねー」 枝葉の真ん中で、果実はやわらかな碧に輝いている。 果実に含まれた記憶、感情の中に、自分へのものがなかったら。逆に、自分を罵るものばかりだったら。父のみならず、母にまで愛されていなかったら。それを知ってしまったら、きっともとには戻れない。 氷の棘のような危惧が腹腔を冷やす。 それでも、見つけたからには、知りたい。 その思いで手を伸ばす。 輝くそれに、指先が触れた、その瞬間だった。 ――私の宵日(ショウカ)。 感情が、記憶が、青燐の中へ流れ込んでくる。 記憶の主は、瓶覗色の髪をした赤ん坊をあやしている。 とろけるように甘くやさしい声だ、と思った。 ――宵日、私のかわいい息子。いとしい、いとしい子。 記憶の主は、小さな赤子を抱き、ゆったりと揺れている。 ほとんど無意識に子守唄がついて出る。 いとおしさのあまり、自然と、唇がやわらかい笑みを刻む。 ――彼の人に、名前をつけるな、と言われているけれど。 ――お腹を痛めて産んだ子だもの。せめてここだけの呼び名を。 ――ねえ、宵日。こんな世だけれど、幸せになってね。 ――それが、それだけが私の願い。 ――愛しているわ、宵日。どうか、お前の行く末に、愛と光のあらんことを。 記憶の主は、母は、すやすやと眠る赤子を抱き、囁きつづける。 そこに利己はなかった。 今この瞬間、獰悪なる魔の神が顕れて、お前か赤子、どちらかの命を寄越せば片方は助けてやると言えば、彼女はためらいなく己を差し出し、我が子を生かそうとするだろう。 無償にして無上の愛が、そこにはあった。 手の中へ転がり落ちた果実からは、ただただ、愛児の幸いを祈り、その未来が明るいものであるよう願う、深く穏やかな心だけが伝わってくる。 青燐は、しばし、無言でその碧い果実を見下ろしていた。 ややあって、 「愛されていたんですねー、私」 ぽつり、とつぶやきがこぼれる。 面布の奥で、青燐の顔は、不思議な笑みに彩られている。 泣きたいのに、泣いてみたいと思うのに、泣くとはどういうことなのか判らず、知らず、涙をこぼすことが出来ない、それゆえににじんだ微苦笑だ。 「あなたの願いは、きっと叶えられない。私はもう、喪ってしまったんです」 欲して、望んで、ようやく手に入ると思った瞬間、なくした。 はかなく壊れて消えてしまった、家族というもの。 その狂おしい残骸に囲まれて、立ち止まったままでいる。おそらく自分は静かに絶望しているのだろうと思いもする。 狂うことも壊れることも出来ないから、そして喪われた愛しい命が望みはしないだろうとも思うから、ただこのままで存続しているけれど、きっと母が願ったような『幸せ』とは遠い位置にいる。 「それでも、私は……知ることが出来た」 母の想い。 母の願い。 確かに自分は愛されていたこと。 必要とされて、生まれてきたこと。 それが判っただけでもいい。 青燐は静かに微笑み、果実をそっと握り締めた。 「ああ……こういう時、泣ければいいのに、と思いますねー」 まだ泣けない。 泣くことが出来れば前へ進める、そんな気がするけれど、泣けない。 誰からもそれを教わらず、学ぶすべもなかったから。 しかし、青燐の表情は晴れやかだった。 「ありがとう、お母さん。あなたの想いを受け止められたから――きっと、いつかは」 母を呼ぶことに奇妙な感慨を覚えつつ、手の中の果実を見つめる。 彼女の願いは、祈りは、青燐の背中を押すだろう。 いつか、涙を流すことが出来たとき、声を上げて泣くことが出来たとき、想い人を喪い、家族をつくるすべを永遠に失った虚ろな絶望は、ようやく解放され昇華されてゆくのかもしれない。 そうであればいい、と、今は思う。 「あなたの心が、私を一歩、前へ進ませてくれました。そのことを、ただ、感謝します」 こうべを垂れ、祈るように感謝をささげる。 森は、静かな喜びにひたる青燐を祝福するように、ただ沈黙を守った。
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