その日、珍しい広告がターミナルに出された。 何でも、特別な客が複数、来るらしく、店員モドキの神楽・プリギエーラとゲールハルト・ブルグヴィンケルだけでは手が回り切らないとかで急遽募集をかけたのだそうだ。 それに対して応募し、合格したのが、麻生木 刹那と音成 梓だった。「……あ、まずい、ちょっとアガってきた」 表面的には何ら変わりないはずなのに、ぴりりと引き締まったような緊張感のある『エル・エウレカ』を前に、梓はごくりと喉を鳴らす。 超一般人である自分が、VIPなお客さんの応対など出来るのだろうか。 粗相をして火城たちに迷惑をかけるわけにもいかない。 引き受けてしまったからにはやるしかないが、否応なく心拍数は上がっていく。「いや、うん、いつも通りやれば大丈夫だ。お客様には敬意と愛と親切心を。笑顔で明るく、親しみ深く。よしコレで行ける……はず。たぶん」 自己暗示をかけてどうにか乗り切ろうとする梓とは反対に、「っしゃあ、殺ってやろうじゃねぇか! マジもんの気合い入れて、真剣勝負で働いてやんよ……!」 刹那はというと、真面目に取り組もうとするあまり、気合いと意気込みが激烈になり過ぎてカチコミ前を思わせる恐ろしい形相および雰囲気になっている。『お客』が子どもだったら泣くレベルだ。 しかしながら、今回のアルバイトをともに戦う共闘者であることに変わりはなく、「えっと、あの……よろしくね、刹那くん。……だった、よね?」 恐る恐る声をかけると、刹那はクワッと眼を剥き、舐めるように梓を上から下まで睨め回した。「ぁあ゛? そーいや、駅伝で同じチームだっけか? おうテメェ、足引っ張んじゃねぇぞ。手なんか抜いたらどうなるか判ってんだろうな、ぁあん?」 鬼の形相でガンを飛ばされ、凄まれた梓の胸中たるや察するに余りある。 どこまでも一般人の梓は、悲鳴を上げかけ、ぐっとこらえたのち、「えええええええと、うん、あの、が、頑張るよ!」 声を裏返らせつつどうにか返す。 しかし満足のいく返答ではなかったらしく、刹那の眉根がぐっと寄った。 本気で回れ右をして帰りたくなった梓だが、ウェイターとしての矜持が彼の脚を踏みとどまらせる。一度引き受けたからには、そしてウェイターとしての腕を買われて雇われることになったからには、雨が降ろうが槍が降ろうがカチコミが行われようが、責務をまっとうするほかないではないか。 そんな悲壮な覚悟を極めつつある――普通の、一日アルバイトにおける覚悟として適当ではないと突っ込んではいけない――梓へもう一度ガンを飛ばし、「『頑張る』んじゃねぇ、『やりとげる』んだッ! 判ったか!」「はいッ肝に銘じますッ!」 背中に脂汗を流しつながら姿勢を正し、反射的に頷きつつ、(確か駅伝の時にいっしょだった人……だよな。なんかすごいガン飛ばされてるんですけどマジ怖いんですけどカツアゲされても今俺そんな持ち合わせないよぶち殺されたらどうしたらいいですかコレ。いざとなったらいつでも土下座できるように身体ほぐしとこうかな……) 仕事が始まる前からすでにハイパーヘタレモード発動中の梓である。 と、そこへ、「ああ、すまないふたりとも。用意が整ったから入って来てくれ。客ももうじき来る」 いつもの出で立ちに、前掛けタイプのカフェエプロンを身に着けた火城が顔を出し、ふたりを促す。彼の手には、ふたり分の黒いエプロンがあった。「ウィッス。っつか、今日ってどんなお奴(※がんばって『お方』と言おうとして失敗)が来やがらっしゃる(※がんばって『いらっしゃる』と言おうとして以下略)んっすか」「そうそう、俺もそれ気になってて」 頷き、受け取りつつ、刹那が疑問を呈すると、梓もまた同じ問いを口にした。 火城がそれに応えようとするよりも、ドアがゆっくりと開くほうが早かった。「いらっしゃいま……せ……?」 梓が反射的に挨拶しかけ、刹那が反射的におしぼりとお冷の準備に走りかけたところで、『特別な客』が全員、店内へ入ってくる。「ふむ……悪くない空気だ」 ふたりとも、異様な雰囲気に気圧されたか、もしくはあっけにとられたか、思わず口をつぐむ。 双方、直接の面識はなかったが、話には聞いていた。 ゆえに、彼らが『誰』なのかがすぐに判った。 彼らは世界図書館側のロストナンバーではなかった。 世界をひとつほろぼし覚醒した荒ぶる鬼神、清 業淵(シン・ゴウエン)。 闇から闇、影から影を渡る魔忍の少年、赤彌(あかや)および青慧(あおえ)。 精神と魂の領域を司るいにしえの獣、カイル=クロウ・ダークブラッド。 死の因子に侵され望むと望まざるとにかかわらず死を振り撒く死穢使い、レェン・ルウ。 常人には持ち上げることさえ不可能な巨大銃火器で武装した自動少女人形、ブリュンヒルデ。 先の戦いを経て和解し共存の選択がなされた世界樹旅団の団員たち――強大な力を有しながら、暴力的な方法を好まず、内部でも浮いていたと言われる人々――の姿がそこにはあったのである。 しかしなぜ彼らがここにいるのかが判らず、恐る恐る振り返った梓が問うと、「知り合い……?」「どこぞで、神楽と意気投合してきたらしい。世界図書館の営みに興味があると言うので、ここへ招待した」 火城からは納得するような出来ないような、そんな説明が返るばかりだ。「はあ……そッスか。相手としちゃ申し分ねぇ、ガチンコ勝負でサーヴィスさせていただきまくりやがるぜ(※がんばっ以下略)!」 腕まくりせんばかりの刹那が、六人におしぼりとお冷を配り歩く。 実年齢的にも中学生高校生といった赤彌と青慧は、慣れない場所だからかそわそわしている。反対に、少女人形ブリュンヒルデはどこか嬉しそうだ。「えーと、僕こういう場所でのお作法とかあんまり判らないんだけど……食べたいものを注文すればいいの? それだったら、そこのお兄さんたちの夢とかいろんな感情とか、食べさせてもらえると嬉しいんだけどな」 完璧な美少年としか言えないカイルが、年経た老獪な獣の眼で梓と刹那を交互に見やり、目を細める。「!?」 場馴れしている刹那はともかく、梓はいろいろなものの危機を感じて悲鳴を上げそうになった。お客様の前でみっともない真似は出来ない、というプロ意識が働いて、ぐっとこらえたところで、「そういうのもいいね」とカイルが笑った。火に油を注いでしまったことをカイルの愉しげな視線が教えてくれる。 それを制止するのは鬼神ゴウエンだ。「……控えよ、カイル=クロウ。ヒトの営みの場であるからには、それに沿った振る舞いをするが道理というもの」 重々しいそれにカイルが肩をすくめる。 『お茶会』というかわいらしい雰囲気からはほど遠いが、彼らは自分なりにこの場を愉しんでいるらしい。「まあ、そんなわけで、頼んだ」 ありとあらゆる説明を放置して、火城が厨房へ引っ込む。元凶・神楽とゲールハルトは、他の客への応対で忙しい。「さて……では、粛々と始めるとしよう、茶会を」 ゴウエンの厳かな声が、明らかにティー・パーティというカテゴリでくくってはいけないたぐいの調子で始まりを告げる。 ――そして、すべては凸凹ウェイターズに託された。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>麻生木 刹那(cszv6410)音成 梓(camd1904)=========
セクタンのレガートが、フロアの片隅に活けられた鉱石花の傍らでふにふにぷにぷにと揺れている。 そこだけ見れば心和む光景であるが、その飼い主である音成 梓はというと、キリキリと痛む胃をなだめながら『エル・エウレカ』を俯瞰しているところだった。 「うん……うん。予測できなかったわけじゃないし、むしろある意味通常運転っていうか想定内っていうかネタとしてはオッケーっていうか、……うん、ホントどうしようね……」 自分を納得させるための文言をつらつらと並べたのち、梓は遠い目でアンニュイな溜息をつく。 「記録で読んだことはあるけど、予想以上に厳ついお客さまたちだった」 別に、三つ揃えのスーツを着た肥満体型の重鎮たちが大挙して押し寄せるなどと想像していたわけではなかったが、 「物理的な意味で首が飛びそうな危機感を覚えるVIPってすごいな……」 少なくとも、スーツ姿の重鎮たちなら、粗相をしたからといって梓を引き千切ったり斬り裂いたり蜂の巣にしたり灼き尽くしたりはしないだろう。いや、報告書を見る限り、ゴウエンたちがそのような暴挙に出るとも思えないのだが、少なくとも物理的にそれが実行できるVIPというのも稀である。 先行する麻生木 刹那が、メンチを切っているとしか思えない表情で「お好みのものを注文しやがれください」と明らかにおかしい敬語を駆使して注文を取っていることにも胃痛を増強させられる。 しかし、だ。 「そうだ……クールになれ、音成梓。今俺がなすべきことは何だ? そう、誠心誠意のサービスだ。スマイル0円サービス0円、日本が誇るチップ要らずの超弩級ご奉仕精神に、この俺が泥を塗るわけにはいかない……!」 彼はプロである。 ウェイターを天職と断じ、お客さまの笑顔と喜び、くつろぎのひと時のために命を賭けることすら厭わない、そんな梓が、物理的脅威に怖じてサービスを怠るなどということがあっていいはずがない。 「天変地異が起ころうとも笑顔は絶やさない、崩さない。俺のご奉仕スピリッツ、なめんなよ……!」 気合を入れ直し、襟元など正して客席へ歩み寄る。 そのころには、刹那が注文を取り終えており、 「おう、ご注文をいただきまくりやがったぜ。薄茶と上生菓子、ハニーカフェオレと季節のタルトのセットがふたつ、エスプレッソと生ケーキのセットがふたつ、蜂蜜ミルクと季節のソルベ&アイスクリームのセットがひとつだ。っしゃあ、給仕だ給仕。俺のスーパー接客、魅せてやんぜ……!」 気合たっぷりというか殺意充分といった趣で拳を握っている。 メモも取らずすべての注文をすらすらとそらんじてみせる様などは大変に素晴らしいし、さりげなくテーブル上を整えたり、丁寧な仕草でおしぼりやお冷を手渡したりしている様子は慣れた給仕者のそれだ。 しかし、やはり何かがおかしい。 「お兄さん、やる気たっぷりだね。なんだか頼もしいな」 カイルがくすくすと笑い、外見とは裏腹の、年経た獣を思わせる双眸を細めると、 「あ゛ぁ? んなモン当然だろ……でございますじゃねーか。こちとら大事なことはしっかり叩き込まれてんだですから、なにごとも全力で殺りにいくだけのことでございますデスこんにゃろう」 刹那はどこか誇らしげに胸を張り、ドヤ顔で頷いたのち厨房へとオーダーを通しに去ってゆく。それを見送る梓の横顔には、当然、「全力で突っ込みたい」という願望と疲労感がにじんでいた。 率直に言っていろいろアウトじゃなかろうか、それとも何かがおかしいと思っているのは自分だけで、実は正しい接客のありかたなんだろうか……と悩みはじめ、『接客』というものがゲシュタルト崩壊しそうになったところで、 「梓。とりあえず菓子類を頼む」 厨房から火城に声をかけられて、梓はハッと我に返った。 『クールになれ、自分』を呪文のように胸中で繰り返しつつ、色とりどりの和菓子や洋菓子が載った盆を受け取る。 菓子はどれも素晴らしい出来だ。あの強面の、その筋の人としか思えない司書の手からこれらが生まれるのだから、世の中というのは判らないし面白い、と思う。 その、眼にも美味しい菓子たちの中でも、鮮やかな緑色のフィリングに、いっそ高貴ですらある輝きを放つさくらんぼを載せた『季節のタルト』が特に梓の目を惹いた。 「了解。うわ、このさくらんぼすっげ大粒! 色つやといい、瑞々しさといい、これは、まさか……?」 「さすがだな。これは、壱番世界は日本のさくらんぼ生産地、山形から仕入れた最上級の佐藤錦だ。完熟だから、甘さも香りも格別だな」 梓が目を輝かせると、火城が心なしか得意げに頷いた。それは、梓の中に使命感のようなものを芽生えさせる。 つくり手が心血を注いだものを、お客さまに美味しく食べていただくのが彼の仕事だ。 その使命感は梓から緊張や胃痛やツッコミ願望を遠ざけ、彼を完璧なるウェイターへと転じさせる。営業スマイルは本心からの微笑みとなり、動作は優雅さ二割増しでのご奉仕となった。 「大変お待たせいたしました。こちら、『佐藤錦とピスタチオのタルト』となっております。クレーム・パティシエールにピスタチオ・プードルを混ぜ合わせた濃厚なフィリングに、最高級のさくらんぼを配してございます」 ゆったりとした、聞き取りやすく耳に心地よいテンポを心掛けた説明とともに、上品かつ無駄のない手つきで、死穢使いの青年と少女人形の前に皿を置く。 「……美しいな。色合いの妙というか、目にも鮮やかでいい」 「はい、マスター。活き活きとした色です」 ふたりの嬉しげな微笑は、梓にとってご褒美とでもいうべきものだった。 お客さまの幸せなひと時は、ウェイターをも幸せな気分にしてくれる。否、そう思えるからこそ、この仕事は梓にとっての天職なのだろう。 ちょっとほっこりして気持ちに余裕が出来た梓が、では次を……と和菓子や氷菓を給仕していると、 「お待たせいたしやがりましたァ!」 ドスの利いた、殺し合い(と書いて本番と呼ぶ)開始前としか思えない調子の声とともに、大きな盆を手にした刹那が大股に歩み寄ってきて、殴り込みと勘違いした梓は盛大に息を詰めそうになった。ウェイターとしての矜持と理念が勝ったおかげでこらえられたが、さもなくばその場で流れるような土下座モードに突入していたことだろう。 「せ、刹那くん、なに……」 背中にドッと冷や汗をかきつつ見やれば、刹那は飲み物を運んできていた。 「こちら薄茶と蜂蜜ミルクになりやがります。最上級の材料を惜しげもなく使った逸品となりますのでお楽しみやがってくだされゴルァ」 その口上明らかにアウト、と梓が胸中でエア裏拳を炸裂させる中、まったく気づいていない刹那は次に丁寧な手つきでハニーカフェオレを供し、次に濃い色合いの液体が入ったカップをそっと置いた。エスプレッソである。 注文者である双子の魔忍がそれを見て小首を傾げた。 「なんかすごい色だな。薬草を煎じたみたいだ」 「よく判らず頼んだけど、これ、うまい?」 問われた刹那がどうするかと――怒って暴れ出さないだろうかと若干びくびくしつつ――静観していたら、刹那はミルクのポットを手に取った。 「こいつぁまだ完成じゃねぇんでございますです。まあ仕上げをご覧じろ、でございますってんだ」 刹那が言ったとたん、彼の周囲に純白の液体がふわりと浮かび上がり、くるくると乱戦を描きながらもったりと泡立って行く。それは踊るような優雅さで、レェスのような繊細なラインを描きながらふたつのカップへ注ぎ込まれ、何かを描き出してゆく。 流動体を操る能力の持ち主、刹那だからこその芸当と言えた。 それを見て双子が少年らしい歓声を上げた。 「わ、すごい。ゴウエン隊長の顔だ」 「飲むのがもったいなくなっちまうけど、すごいな。これなんての?」 鬼神の顔が浮かぶエスプレッソとか緊張のあまりしぬ、と梓は遠い目をしたが、刹那は案外ていねいに説明をしている。 接客なども様になっているといって過言ではない程度には自然なのだが、いかんせん醸し出す雰囲気と言葉使いと顔の怖さがレッドカード確定だ。一般のお客さまならその場で膀胱を破壊されていてもおかしくない。 「ラテアートでございますですよ。空気を含ませたフォームドミルクでエスプレッソに絵を描くアートなんでございますゴルァ」 「おおお、すごいなあんた。芸術家ってやつか!」 「はっはっは、褒めんじゃねぇでございますですよ、照れちまうじゃねぇですかこんにゃろう」 全体的にアウトな口調ではあるが、刹那の眼はどことなくやさしい……ような気がする。 言いつつ、手をせわしなく動かしているから何かと思えば、紙ナプキンで薔薇をつくり、テーブルにそっと置くなどの心憎い演出までしている。少年少女には魔法のように映ったのか、赤彌も青慧も、ブリュンヒルデも感嘆の眼で刹那を見ていた。 あまり細かいことを気にしないお客さまでよかった、と思うものの、せっかくだから言葉づかいから表情からすべて『教育』して完璧なウェイターに修正したい、という見果てぬ夢を抱きもする梓である。ただしどこまでゲージが振り切れれば出来るのかは不明。 ともあれ他の給仕もつつがなく終わり、ではごゆっくりお楽しみくださいやがれと引っ込もうとしたところで、 「そういえば、いろんなものが注文できるんだよね、ここ?」 愉しげにラテアートや双子の様子などを見ていたカイルが声を上げた。 「用意出来るかぎりは、ですが」 妙に嫌な予感を覚えつつ梓が頷くと、カイルはくすっと笑った。 「じゃあさ、何か面白いことやって」 「……は、あの」 「思わず感じ入っちゃうような面白いことが見てみたいな。僕、どっちかっていうと精神を糧にして生きてるからさ、そのほうがお腹いっぱいになるんだよね」 駄目? と可愛らしく小首を傾げられ、梓は一瞬固まる。 いやいやいや、面白いことしろって俺漫才師でも奇術師でもな、――いやお客様の愉しい時間に興ざめさせるようなこと言っちゃ駄目だよな、でも『面白いこと』って正直ざっくりしすぎじゃね!? 以上、一瞬の間に梓の脳裏をよぎった懊悩と逡巡の走馬灯である。 が、 「少々待ってくださりやがれ。俺とコイツで、極上の『面白いこと』、魅せてさしあげますさかい」 なんで関西弁!? と思わず梓が突っ込む程度にはおかしな語尾のまま刹那が言い、梓の襟首を掴んで裏方へと瞬時に引きずりこんだ。当然、梓は何があったか判らない、という顔で固まっている。 「俺としちゃあ、パッと思いつくのは林檎の握り潰しくらいなんだがよ」 「林檎……いや、向こうの人たちなら、岩でも握り潰しそうだし……」 「ああ、それは俺も思ってた。だからよ、テメェなんかねぇか」 上から下まで睨めおろされ、あ? と首を傾げられたら、一般人の梓などもう蛇に睨まれた蛙である。 バックヤードでのやり取りであるから、お客さまの前、という最後の砦も存在せず、梓としては猛獣もしくは恐竜の前に投げ出された草食動物くらいの気持ちでいたのだが、どうも刹那は別の受け取り方をしたらしかった。 「ん? ンだテメェ、もしかしてVIP客に緊張してんのか? まあ無理もねぇが、心配すんな。テメェはこの死闘をともに乗り越える戦友ってやつだ、絶対に見捨てたりしねぇ」 正直なところ梓の緊張のおよそ八割はその戦友からの無意識の圧力によるものだが、当人はまったく気づいていないようだった。 「えっ……いや、ああ、うん、あ……ありが、とう……?」 突っ込みすらままならず、疑問符だらけの謝意を述べるにとどまる。 しかし、先ほどからのあれは監視やメンチ切りやカツアゲや脅しなどではなく、ただ戦友として梓を叱咤激励しいざというときは補佐するためのものだったのだと思えば、多少緊張は薄れた。 そこで本題を思い出し、梓は首をひねる。 「お客さまにお見せできる面白いことか……俺、やるとしたら歌くらいしかないよ」 「それだ」 「だよね……歌っていっても好みに合うかどうかなんて判らないし、――えっ」 駄目出しされると思っていたら一発でOKが出てしまい、梓は思わず刹那を二度見する。 「ええと……いいの、かな……?」 「ほかにやれることも思いつかねぇしな。詳しくは知らねぇが、テメェに合わせて歌うことならできる。音楽に国境も世界の違いもねぇしな。――で、何を歌うんだ? ジャンルとかには詳しくなくてよ」 「うーん、そうだなあ」 案がまとまったことに安堵しつつ話し合うことしばし。 「お待たせいたしやがりました!」 すでに(いや、最初から)梓以外突っ込むものもいないトンデモ敬語でバックヤードの扉を開け放つ刹那の手には、厨房から拝借してきたものと思しき玉杓子がある。梓の手にあるのは杓文字だ。傍らには、声をかけて引っ張ってきた神楽の姿もある。 「わあ、どんな面白いことを見せてくれるのかな、楽しみだな」 カイルがくすくすと笑い、少年少女が無心に拍手をする中、ふたりは同時に息を吸った。 次の瞬間、流れ出すのは音の塊。 決して大柄ではないふたりの青年の咽喉から、滝のような、大波のような、降り注ぐ雨のような、高くもあり低くもあり、重くもあり軽くもあり、やわらかくもあり堅くもあり、甘くもあり苦くもある、多彩で多様な歌声があふれだす。 ほとばしると言ってもいい。 梓が高音を歌えば、刹那が低音を。刹那が高音へ移れば、流れるように梓は低音に。 打ち合わせたのがたかだか数分間だけとは思えない、完璧なまでの和音が響き渡り、『エル・エウレカ』全体を包み込む。神楽の楽器『パラディーゾ』がシンプルな伴奏を添え、その音色がふたりの歌声を更に引き立てた。 他の客たちも、食事や喫茶の手を止めて聞き惚れている。 それはまるで太古の森に眠る神威の雫、小宇宙を包み込む慈悲の掌、幻想の野に咲く永遠の霊花。 まさか刹那がここまでの実力の持ち主とは知らず、驚きながらも、互いの歌が互いの声を引き立てる、その不思議な昂揚に、梓はほんのわずか、今の自分が『何』であるかすら忘れて身をゆだね、ただ『うたう』ことへの幸いを噛みしめた。 やがて歌は収束し、一瞬の沈黙が落ちる。 次の瞬間、割れるような拍手が『エル・エウレカ』に満ち、梓は照れてあちこちに頭を下げたりお礼を言ったりと忙しい。刹那は「拍手なら梓に贈りやがってください、すべてあいつの仕事です」と、何やかやでしっかり褒めてくれている。それにも面映ゆい気持ちだった。 「……美しいね。なんていう歌?」 カイルが妖しく――しかしどこか優しげに、満足げに目を細めた。 「『Elixir』、です」 「世界に調和をもたらす秘薬か……いいね。それ、お兄さんがつくった歌でしょ」 「あ、はい……?」 「何で判るのか、って? 歌全体から、お兄さんの魂の匂いがするからだよ。すごくおいしそうだ。頭から齧っちゃいたいな」 「……カイル、控えよ。かくのごとき歌い手を喰ろうては、かの世界のものたちに恨まれようぞ」 本性は太古より存在する神獣というカイルに狙われて無事でいる自信などなく、身の危険を覚えかけたところで、ゴウエンの渋くて重厚な声が助け舟を出してくれた。 ホッと息を吐く梓と、少年忍者たちに乞われてミルクを操り、空中でカフェオレのお代わりをつくるという芸当を披露していた刹那へとゴウエンが眼を向けた。まばゆい金眼には、静かな理知が満ちている。 「……ふむ、堪能させていただいた。人の世の営みとは、儚くも愛しきものよな。梓殿、刹那殿。貴殿らの心配り、感じ入ったぞ」 恐ろしい牙ののぞく口元に確かな微笑を見つけ、梓はウェイターの顔に戻る。それは、この仕事を天職と断じるものとして、もっとも貴ぶべき事柄だ。お客さまが自分の采配で楽しいひと時を過ごしてくださった、それに勝る喜びなどない。 同じことを感じたのか、刹那も神妙な顔をしていた。 「ヒトの子らよ、我らに彩なる営みを見せてくれたこと……感謝いたす」 「あ、いえ、そんな。当然のことをしたまでですから」 面映ゆさに頬を赤らめる梓へ、カイルが意味深な笑みを向ける。 「うん、僕も楽しかった。また来たいなー。来てもいい?」 「あ、はい、次なるご来店をお待ちしておりま……」 「次は、頭からとは言わないから、指先くらいは齧らせてほしいな。痛くしないなら、いいよね?」 ここで、まさかの身の危険再び。 冗談と思ったのか、今回はゴウエンも何も言わない。 「……まあ、気に入ってもらえたみてぇでよかったじゃねーか」 ぽむ、と肩を叩き、刹那が慰めともねぎらいとも取れぬ言葉をかけてくれるが、 「うん……そうだね、肉体的な危機がひとつ付加されたけどね……」 表面上はきりりとしたウェイターの顔を保ちつつ、内面ではすべてを超越したアルカイック・スマイルを浮かべるしかない梓なのだった。 それでも、少しおかしなティータイムは、和やかに続けられてゆく。
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