タリスがトラベラーズカフェへと駆け込んできたとき、ミケランジェロと枝折 流杉――当初の登録名は物好き屋といった――は向かい合ってお茶を飲んでいた。 双方、口数が多い性質でもなく、時々何ごとかを言葉少なに交わす程度の、もの静かなティータイムである。しかし、お互いに通じ合う部分もあり、その沈黙はふたりにとって不快でも不安でもない。 そんな中、「アレグリアへ行こう!」 飛び込んできたタリスが、開口一番そんなことを言い、ふたりはカップを持ち上げたままの姿勢で同時に首を傾げる。「ええと……何だって?」 流杉が、もう一度、とばかりに問うのへ、タリスはくふふと笑って両手を大きく広げた。「アレグリア、行ってきた! すごくすごくすてきなところ! だから、ぼく、ふたりといっしょに行きたいの!」 タリスが言い募ると、ミケランジェロはおとがいに手を当て、頷いた。「アレグリアか、話には聞いてる。俺も、そこには興味がある。そうだな、行ってみるか」 切望していた親友との再会を経て平安を得たミケランジェロは、以前に比べるとずいぶん積極的に依頼を受けるようになったし、こうして他の世界へ出かけていくことを億劫がらなくなった。 何より、ミケランジェロはタリスに対して同属めいた親近感を抱いているのだ。この、ヒトのつくりだす芸術というものに多大な愛情と執着を持つ堕ちた神は、タリスの描くものに好ましさを持っている。 流杉はというと、あまり乗り気でない様子だった。 いくつものかなしい別れから、自らを閉ざし耳を塞ぐようになった“物好き屋”は、今回の異世界行にも、どうやら興味を持てずに――あるいは、興味があったとしても別れへの懼れが先に立って――いるらしかった。 しかし、「いや……うん、僕は……」 流杉がすべてを言うよりも、「クレオがいたんだ」「え」「クレオがね、あそこにいたんだよ! アレグリアは生まれかわりの街なの。もう一度会えるところなの。ぼくね、あそこにクレオがいないかなあって思って行ってみたんだ、そしたら、本当に会えたんだよ! クレオ、絵を描いてた。とってもとっても、幸せそうだったよ!」 タリスの、喜びに弾む言葉が衝撃を伝えるほうが早かった。「……!」 そこに偽りがないことは、問い直すまでもなく判る。 タリスの声、言葉、表情には、歓びを体験したものだけが持ち得る真実味が宿り、輝いているからだ。「……そうか。なら、なおさら行かなきゃいけねェな」 ミケランジェロは、心を病んだ黒獅子獣人の青年を、自らの描いた絵によって癒し、立ち直らせたひとりでもある。何より彼はクレオの最期を目撃したひとりでもあった。 哀しい別れによって引き裂かれた心と心が再びまみえることを許されるというのなら、その再会の場へ同行することは悪くないだろうと思うのだ。「ねえ、流杉」「……」 しかし、クレオとの別れによってもっとも苦しみ、懊悩し、自らの無力を嘆いて心を痛めたはずの流杉は、なぜか浮かない顔で首を横に振るばかりだ。「どうした、会いに行かねェのか」 ミケランジェロのいぶかしげな問いに、苦笑を浮かべる。「クレオが望む絵を、僕は絶対に描けないから」 最期の、別れの日、クレオに望まれた。 自分はもう描けないから、君に描いていてほしい、と。 しかし、流杉にそれは果たせていない。 ――同時に、タリスもミケランジェロも、知らないのだ。 実は、タリスから、『クレオに関する記憶』を消したのは流杉だった。 タリスを哀しませたくない一心でやったことではあるものの、それは、クレオという存在を『なかったことにした』のと同じだ。 ヒトは、誰かから忘れられることで本当の死を迎えるという。 だとしたら、流杉はクレオを殺そうとしたも同然だ。 その罪悪感から、流杉は、自分がクレオに会うことは相応しくない、会うべきではないと考えていた。「僕はやっぱり、」「だってぼく、約束したんだもの! クレオに、流杉を会わせるって! 絶対に流杉を連れていくって! クレオ、すごく、楽しみにしてるみたいだったから……!」 だから、どうしてもいっしょに行きたいのだ、という強く熱い想いに、流杉が気づかぬはずはなかった。 断りの言葉を発しようとした流杉の口は閉ざされ、変わって小さな溜息が落とされる。「……判ったよ」 頷くと、タリスはぱあっと顔を輝かせた。 タリスをがっかりさせたくはない、と思いつつも、「でも、クレオと逢うかどうかは、まだ判らない。向こうで考えて、向こうで決めるよ。それでもいい?」 自分自身が迷い、揺れているのだと暴露しているも同然だと知って、流杉は釘をさす。 クレオが生きて――再び生まれて、絵を描いていると知れたこと、それそのものは嬉しい。安堵したと言っていい。しかし、どうしていいか判らない、今さらどんな顔をして会えばいいのかも判らない、寄る辺のない不安があることもまた事実だった。 流杉の内心を知ってか知らずか、タリスは無邪気に笑った。「うん、わかった。だいじょうぶだよ、クレオ、流杉のことずっと待ってるって言ってた」 それはまるで、天なるものの赦しのように、流杉の内側へ染み透る。心が揺らぎそうになって、流杉は自分を戒めたが、その戒めがいつまで強固に保たれるかは、判らない。「よし、じゃあしゅっぱつしんこー!」「チケットは?」「だいじょうぶ、もうもらってきた!」「そりゃ、準備万端だな」 よほど気持ちを抑えきれなかったのだろう、と、ミケランジェロがくつくつ笑う。「ぼく、絵を描きたいな。みんなで、大きな、一枚の絵を」 朴訥で純粋な、タリスの言葉に、ミケランジェロは唇をほころばせ、――流杉はそっと、目を伏せた。 * アレグリアの街並みを望む、小高い丘。 美しい光景の広がるそこで、クレオは絵を描いている。 その傍らには、白と黒の夢守がいて、大きなキャンバスへと描き出される風景を感心したように見つめていた。 と、一衛が何かに気づいた風情でアレグリアを見やった。「……来たようだ」「タリスたち?」「ああ。三人いる」 クレオの眼にはただ、輝く街が入るのみだが、『電気羊の欠伸』全体をみそなわす神造の化身たちには、クレオの望む客人たちの姿が見えているのだろう。「懐かしい? 喜ばしい?」 一衛の問いにクレオは頷く。「俺の、一番の願いで、祈りで、望みだったから。そういえば、零和は?」 手を止めぬまま問うと、「雨鈴のところへ行ってるみたいだ。デートってやつかな」 十雷からそんな答えが返った。 クレオはくすりと笑う。「ヒトとヒトの出会いと交わり。こんなにすてきな『風景』はない」 つぶやき、彼は絵筆を置いた。「迎えに行くのか?」「うん。早く会いたいから」 答えて、うきうきと、弾むような足取りで丘をくだっていく。「会ったら、何をしたい?」「――絵を描きたいな。同じ風景を、別々の視点で。皆で絵を描けば、離れていた間の時間も距離も、すぐに埋められる気がするから」 ああでもその前に抱きしめたいかな、お礼を言うべきかな、それとも握手をして背中を叩き合うべきかな。 『今』を赦されたからこそできる、他愛なくも喜ばしいそれらを脳裏に思い描き、クレオはまた穏やかな笑みを浮かべた。 彼の眼下では、アレグリアが、今日も活き活きとした営みを内包し、輝いている。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>タリス(cxvm7259)ミケランジェロ(chwe5486)枝折 流杉(ccrm8385)=========
1.空が謳う街で 黒い鴉猫ことタリスはずっとご機嫌だった。 疑似ではあるが、抜けるように青く高い空の下を、大好きな人たちと歩くだけでも楽しいし、嬉しい。 何より、彼らは今から、大切な友人に会いに行くのだ。 待ち望んでいた邂逅、再会に、タリスの心が躍らぬはずもなかった。 「ぼくね、クレオと流杉とね、いっしょに絵を描いてみたいってずっと思ってたんだ! きっとクレオもそうだよ、流杉と会うの、すごく楽しみにしてる。あ、そうだ、クレオ、ミケと会ったらきっともっと驚くよ。あの世界で、みんなで描いた壁画のデータ、持ってきた! クレオへのお土産! 喜んでくれるといいなぁ」 はしゃいだ様子を隠しもしないタリスに、ミケランジェロはくつりと笑う。 ぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩くタリスと、横に並ぶミケランジェロの後方には、浮かない顔をした枝折 流杉がいて、時おり小さく息を吐きながらふたりのあとに続いている。 流杉の物憂げな表情に気づいたミケランジェロは、やれやれといった風情だ。 「辛気臭ェな。もう少し嬉しそうな顔をしたらどうなんだ。二度と会えねェと思ってた仲間、友だちと会うんだろうがよ」 「いや、うん、それは判る、けれども」 返す言葉も、どうにも冴えない。 はああああああ。 深々とした溜息に、そもそも短気なミケランジェロがいいからシャキッとしろと拳を握るより早く、 「おおい、みんな!」 丘陵へと続く道から聞きなれた声がして、タリスもミケランジェロも、そちらへ意識を持っていかれた。 見やれば、獅子型獣人の姿をした精巧なアンドロイドが、喜色を満面にたたえて手を振っている。どこからどう見てもロボットだと、機械のからだだと判るのに、そこに心があり魂があり喜びがあることがはっきりと見て取れた。 クレオ・パーキンス。 世界の片隅で出会い、心を通わせ、結局喪った、絵という世界の紡ぎ手、そうあらんと願う心優しい青年の、新しいすがたとかたちがそこにはあった。 「クレオ、やっほー!」 ぱああっと表情を輝かせ、タリスが駆け出していく。 ミケランジェロは穏やかな、静かな微笑を浮かべて歩みを進めた。 「また会えた、嬉しい! クレオ、クレオ元気? 絵、描いてる?」 たくましく大柄なのに、柔和な印象ばかりが先立つクレオに抱きつき、矢継ぎ早に尋ねるタリスを、彼はやさしく抱きしめ、微笑んだ。 「もちろん。アレグリアはいつだって俺に元気と喜びをくれるからね。今も、アレグリアの絵を描いていたところなんだ。完成したら、公民館に飾ってもらえるんだって」 「そうなの! すごいね……クレオ、絵をたくさん描いてる。ぼく、とても嬉しい」 それからタリスは、壁画のデータを結晶化したキューブを取り出してクレオへと差し出した。 「あ、これって」 データは、物理的なサイズで言えば小さな正六面体の結晶を無数に集めてさらに正六面体をつくったような厚みのある形状をしていて、陽光を受けてキラキラと輝いている。覗き込むと、その中に、くだんの絵が見えるようになっていた。立体感を伴っており、データキューブを操作すれば、さまざまな角度から絵を見ることができる仕組みだ。 「うん。ぼくやミケ、みんなで描いたたいせつな絵だよ! クレオが描いてくれた鴉もちゃんといるでしょ?」 「本当だ。ああ、懐かしいな。そんなに昔のことでもないはずなのに、とても懐かしい」 データキューブを見つめ、クレオは目を細めた。 タリスはくふふと笑い、 「あのね、絵の描き方はミケがいっぱい教えてくれたんだ、ミケは絵の先生なの。流杉もいっしょに……あれ?」 今回、クレオと会わせることが目的だったはずの青年が見当たらないことに気づいて周囲をきょろきょろと見渡した。しかし、寂しげな眼をした、線の細い青年の姿は、いつの間にか消えてしまっている。 「どこに行ったんだろ、流杉。……あのね、ぼく知ってる。流杉すごく悩んでた。いっぱい哀しくて、寂しくて、つらかったの。だから」 首を傾げながら、流杉のための言葉を一生懸命に紡ぐタリスの頭を、クレオはぽんぽんと撫でた。 「知ってるよ」 「にゃ?」 「知ってる。流杉が悩んでいることも、苦しんでいることも、全部。判るから、大丈夫、俺は待つよ」 クレオの眼はどこまでも静かで、何かを透徹した強さにも満ちている。 彼は信じているのだ。 流杉と、もう一度出会うこと、そして判りあえることを。 だからこその、この穏やかさなのだろう。 タリスをなだめ、慰めながら、こうべを巡らせ、視線がミケランジェロへと行き着くと、彼の眼にはまた、喜色が揺蕩った。 ミケランジェロはにやりと笑い、 「よォ、元気そうだな」 片手を軽く挙げてみせた。 「うん。お陰さまでね」 軽く肩をすくめるクレオの表情は、明るく健やかだ。 そこに、絵や命への愛があふれていることは、ミケランジェロでなくとも判っただろう。 「取り戻せたんだな」 「絵を描きたい気持ち?」 「ああ」 「そうだね。俺の中には、今、そういうものへの愛が渦巻いているよ」 「そりゃア、いい。俺が言うのもなんだが、嬉しく思うぜ。――ああ、物好き屋のことだが、あんたはどうしてェんだ?」 ミケランジェロが問い、タリスは抱きついたままのクレオを見上げる。 クレオは晴れやかに笑った。 「逢いたいね。逢って話がしたい」 「あいつがあんなでもか?」 「ヒトは迷うし、間違うものだよ。感情の迷路に入り込んだら、ひとりじゃなかなか出られないものだ。それは、ミケランジェロも知っているだろう?」 「……なるほど」 ミケランジェロはくつりと笑う。 「判った、必ず逢わせる。あんたの前に、あいつを引っ張って来てやる」 絵を愛する心にかけて、とミケランジェロが約束する間に、イイコトを思いついた! とばかりにタリスが手を挙げた。 「ねえねえ、みんなで捜そう? 流杉と追いかけっこ! 最初に見つけた人が勝ち!」 どう? と小首を傾げられ、 「おい、黒いのと白いの。あんたたちも手伝――」 基本的に人名というものを覚えないミケランジェロが、夢守たちを色分けして呼ぼうとしたら、 「誰が白いのだ」 「その分類は大雑把にもほどがある。名前を呼ばないと拗ねてお前の相棒にあることないこと吹き込んでやる」 超真顔の白いのと黒いのに両脇から固められ、いきなり脅迫を受ける羽目になった。 「ああ、それはいいな。どんなことを吹き込むつもりだ?」 「ミケランジェロはタマと呼ばれるのが好きだからずっと勘違いされ続けたいとか、永遠に猫扱いされたいとか、手荒に扱われるのが大好きだとか、その辺りを」 「なるほど、じゃあオレはミケランジェロが放置されるのが大好きだと言っていたと伝えよう」 「待て待て待て、人聞き悪ィってかやめろ絶対本気にされる!?」 夢守のスキャン機能マジでタチ悪い。 当然、相棒の天然ぶりに苦労させられているミケランジェロは眼を剥かざるを得ない。 信頼ゆえの手荒さと理解はしているが、だからといって常にそう扱われたいわけではない。あまりの放置プレイぶりに時々心が折れそうになるのも出来れば理解してほしい。 「判った、ちゃんと名前で呼ぶ! 一衛と十雷だろ!」 こんなやりとりを遠い過去にもどこかでした気がする、などと胸中に半ば悟りめいたアルカイックスマイルを浮かべつつ呻くように言えば、天地開闢のころから存在しているはずなのに猛烈に大人げない夢守ふたりは満足げに頷いた。 「よし、なら追跡を手伝おう。オレは南のほうから中心に向かって追いつめるから、あんたたちは中央広場を目指して追跡すればいい」 「なら、私は北から。西には零和と雨鈴がいるから連絡しておく」 言って、夢守ふたりが地面へにじむように消える。 あとには、疲労感だけを抱えたミケランジェロが残され、 「……ミケも大変だな」 クレオの、慰めるような一言に、思わずがくりと肩を落とす“堕ちた神”だった。 2.追いかけっこA(純真無垢の直通ライン) 流杉を探して街を行けば、目に入るのは鮮やかな営みだ。 クレオの友人であったり知人であったり、彼の絵の世話になったりした人々が、会うたびに声をかけ、ときどき何かを奢ってくれるので、流杉を探すという目的以外でも退屈しない。 『前』の世界でも肉屋を営んでいたというアンドロイド氏が、特別ないい芋を使ったという揚げたてのコロッケを紙で包んでくれたので、行儀悪く齧りながら歩く。 熱々のコロッケが、さくさくと音を立てる様は、生きた、日常を強く思わせる。 「熱くてさくさくでおいしいね。流杉にも食べさせてあげたいな」 「そうだな」 生きていることは、つまり、揚げたてのコロッケを齧ることだ。 揚げたてのコロッケが自分たちの口へ入るまでに営まれたたくさんの命に思いを馳せることだ。 しばし無言で歩いたのち、ぺろっと指先を舐め、タリスは空を見上げた。 「あのねえ、ぼく、クレオに会って思い出したの。流杉がグラフィッカーだってこと」 それは、彼らの故郷において、描いた絵を実体化させることのできる能力を持つ人々の名だった。 「グラフィッカーの絵は動くよね。絵が動くのはすごくすてきなことだって、ぼくも思ってた。けど、絵が動くと大変なことにもなるんだって、ヴォロスで知ったの」 グラフィッカーの生み出した絵は、己が主張ばかりに終始し、他者を認めず争い、結果、世界は滅んでしまった。流杉がそのひとりだったとしたら、彼が今も抱えている苦しみを慮るに難くはない。 「クレオはきっと、ぼくよりも知ってるんだよね、動く絵のことを。流杉の絵、あのまちにあったクレオの絵と似てるんだ。絵に“想い”を込めること、流杉はきっととてもこわいことだって思ってる。だから、クレオにもう一度会うのも怖いって思うのかも」 しょんぼりと両の耳を垂れさせたタリスだったが、それは長くは続かない。 すぐにそれはピンと立ち上がり、愉しげにぴこぴこと動いた。 「でも、でもね、それは『Visual Dreama』でのお話。ぼくたちはもう、あそこにはいないんだもの。あそこに戻る必要だってないんだもの。――ここは再誕都市アレグリア、“もう一度”が許されたまち! そうでしょ、クレオ?」 ぴょこん! と飛び上がる鴉猫を、クレオは抱き上げて自分の肩に乗せた。 小柄なタリスとたくましいクレオの対比が妙に微笑ましい。 「もちろん、そうだ。引きずる必要なんてどこにも――……おや?」 タリスを見上げたクレオの首が傾げられたのは、タリスの衣装のポケットから、白い封筒がはみ出ていたからだ。 「ん? あれ……何だろう、これ。あ、流杉かな?」 ポケットから引っ張り出したそれをクレオに差し出す。 クレオを訪れた面子で、こんなことをしそうなのは流杉しかいない。そして、彼がそれを届けたいと思うであろう相手は、クレオしかいない。 「さて……なんだろう?」 受け取ったそれを開き、同封されていた手紙の文面を追ったクレオの目が、大きく見開かれる。 3.追いかけっこB(自縄自縛の螺旋階段) そのころ、流杉はとぼとぼと表現するのが相応しい足取りで街を歩いていた。 一枚絵にしたら様になる光景を携帯電話のカメラで撮りつつ進む、流杉の表情は冴えないし、晴れない。 「……僕には、まだ時間が必要だ」 クレオの前から姿を消した、有体に言えば逃げ出したことを少し後ろめたく思い出しつつつぶやく。 病んだ心を救われながらも、あの時無慈悲な運命によって喪われたクレオが、ひと目でそれと判る姿をもってこの世界に生まれかわれたこと、絵を描き、世界を、命を愛しながらここで生きていると知れたことは、流杉に大いなる安堵をもたらした。 彼やタリスの幸せを願う心に偽りはない。 ふたりが笑っていてくれたらと思う気持ちに嘘はない。 けれど、そこに流杉という存在がいなくてはならないのだと言われても、彼は尻込みせざるを得ない。 ――そう、怖いのだ。 クレオは知らない。 流杉もまた、彼を苦しめた“造形絵師”のひとりであることを。 自らの想いを以って、他者の想いを踏み躙って来た、彼の宿敵であることを。 それを知った時、クレオはどんな反応をするのだろうか。 あのやさしい青年は、流杉が、己を病ませ死へと導いた忌むべき存在のひとりだと知っても、――そして、彼がタリスからクレオに関する記憶を消したと知っても、流杉に“もう一度”を赦してくれるのだろうか。 「……判らないな。判らない」 ヒトの心は難しい。 判らないから、近づくのが怖い。真実を知るのも怖い。 手帳を開き、絵を描くには不向きなボールペンを取り出して、周囲の情景をスケッチしながら歩く。 感情は込めない。 生き物の瞳は描かない。 ――動き出してしまうから。 動き出してしまったそれは、きっと誰かを傷つけてしまうから。 「アレグリア、か……きれいなところだ」 ありとあらゆる喜ばしい色彩がそこには満ちている。 しかし、輝く光景を目にしても、流杉の中では、それぞれの色がネガティヴなイメージと結びつき、暗い表現になって発露されてしまう。 「燃やし尽くす赤。沈めてしまう青。侵蝕する緑。汚泥の黄色。光は目を刺すし、闇は侵蝕する。金も銀も重たくてまぶしい」 ぶつぶつとつぶやきながらも、手帳には精緻な街並みが描写されていく。 「ヒト、痛み、心を揺さぶる風景、描きたいという衝動。僕はそのすべてからずっと逃げてきた。誰かを傷つけることしか出来ない、自分の絵からも」 けれどクレオは、タリスは、流杉の絵が見たいという。 流杉といっしょに絵を描きたいという。 ふたりが向けてくれるまっすぐな想いが、彼を揺らがせているのも事実だ。 描きたい、描きたくない、描けない、描いてもいい? 描いたら、描かなくても、描ける、描こう、描かない、描けたら。 ぐるぐるぐるぐると思考が巡る。 内へ内へとこもる螺旋階段が、流杉の思考のすべてになりかけた、その時だ。 脳裏を、街を歩く三人のイメージがよぎった。 タリスのポケットにすべてを記した手紙をそっと紛れさせ、彼らから離れたのち、様子見のために放った鴉が伝えてきたものだ。 映像は、手紙を見たクレオが大きく目を瞠るさまを伝えてきた。 驚きなのか哀しみなのか憤りなのかはっきりと判別できず、流杉は手帳へと目を落とす。 「……この絵の、“もう一度”は、赦されるのかな。それとも、願うだけ無駄で、図々しいことなんだろうか。僕には、結局その資格なんてないってことなのかな……」 自嘲気味なつぶやきに、 「馬鹿言ってんじゃねェ、資格のあるなしの話じゃねェだろ。想いに応えてやるのが友人ってモンじゃねェのか」 雑で乱暴な、しかし諭すような響きを帯びた言葉がかぶさって、流杉は思わず手帳を取り落としそうになった。 「絵もいっしょだ。描ける描けないじゃねェ、描きたいか否かだ。てめぇは描きてェのか描きたくねェのか、どっちなんだよ?」 いつの間にかそこに佇んでいる――背後に白の夢守がいたから、運んでもらったのかもしれない――ミケランジェロは、呆れた顔をしつつも、真摯に流杉の答えを待っている。 「僕は……」 眉をひそめ、答えを探して口を開いたところで、 「本当にお馬鹿さんだなあ、流杉は」 流杉の耳を打つ、懐かしくも静かな声。 「!」 驚愕とともに振り返った先で、タリスと、タリスを肩に載せたクレオが微笑んでいる。背後には黒い夢守がいて、ふたりもまたミケランジェロと同じく運ばれてきたのだと知れた。 「クレ、オ……」 手紙を読んだのか、読んでどう思ったのか、尋ねるには勇気が足りず、流杉は言葉に詰まる。詰られても罵られても、殴られても仕方のないことを彼は、彼らグラフィッカーはしてきた。判っているけれど、覚悟もしているけれど、やはり怖い。 ぎゅっと拳を握り、うつむいた流杉の肩を、大きな手がぽんと叩いた。 「流杉が何だって、君が俺を悼んでくれたことに変わりはない。君がたくさんのことを悔いて、哀しんだことに変わりはない。だったら、俺に、いったい何を責められる?」 降ってくる静かな声。 「君は自分の絵が人を傷つけるっていうけど、俺はそうは思わない。君が俺のために絵を描いてくれたら、俺はきっとすごく幸せになれる」 言葉が思考に浸透するまで少し時間がかかり、流杉が呆然と立ち尽くしていると、 「だから、流杉。もう一度君に会えてよかった。それと、俺のために哀しんでくれて、ありがとう。君やタリス、ミケのお陰で、ご覧のとおり今の俺は幸せだよ」 たくましい両の腕が伸びて、流杉をぎゅっと抱きしめた。 「クレオ……」 背中には、タリスがむぎゅうと抱きつく。 「……タリス。僕、は……」 心は、想いは言葉にならず、 「……ッ!」 滂沱たる、大粒の涙となって発露される。 一度決壊した涙腺は、まるで想いという雨を得てあふれた河川のように、次から次へと涙を流し続ける。 それは、浄化の、許容の、解放の涙だった。 「大丈夫だよ、流杉。俺もタリスも、ここにいるから。もうどこにも行かないから」 「よかったね、流杉、ほんとによかった」 ふたりに抱きしめられ、声なく嗚咽する流杉の両の手が、おずおずと……しかし確かにクレオを抱きしめ返したのを、ミケランジェロも夢守たちも、確かに見たのだった。 4.浄められたエイコーン 「おお、いいじゃねェか。活き活きして、愉しそうだ。画面全体からそれが伝わってくる。よし、俺も負けてらんねェな」 クレオが大切な人と再会したという噂は一瞬でアレグリアの街に広がり、それを喜んだ住民たちがお祝いにと特大のキャンパスを贈ってくれた。 タリスと流杉、クレオ、そしてミケランジェロ。 四人で、ちょっとした家くらいありそうなキャンバスに、めいめいが思う風景を描き、 絵を描くことを怖がっていた流杉も、クレオと再会し、“もう一度を赦された”ことで気持ちが楽になったらしく、手帳に描き込んだ絵をキャンバスに写し、色を塗っていた。 クレオは彼に、恐れなくていいこと、そして、万が一流杉の描いた絵が誰かを傷つけそうになったら自分が止めること、だからまずは好きなように描いてほしいことを伝えた。 恐れへの理解者を得て、流杉の筆は今までのことが嘘のように滑らかだ。 「ああ、そうだ。ミケランジェロ、僕はようやく言える。僕は絵を描きたい。本当は、ずっとずっと描きたかった」 心の底からの息とともに、流杉の、祈りにも似た想いが紡がれる。 クレオといっしょに、彼のいた街とアレグリア、そして人々が入り乱れた賑やかな絵、壁画のように、さまざまなタッチの絵が共存したそれを描きつつ、タリスが嬉しそうにくふふと笑い、クレオと目くばせをかわしてまた笑う。 「最初っからそう言やァいいんだよ。そいつを見りゃァ判るぜ、テメェは絵を描きてェし、それを心から愛してる。そういうやつの作品は、どんなものだって素晴らしいって決まってんだ」 『鉄塊都市』、そう呼ばれた、過去には確かにあって、しかし今は失われた、心を託しゆだねた友といっしょに駆けた遠い世界の絵を描きながら、ミケランジェロは肩をすくめる。 今、四人の描く絵を感嘆とともに見つめている、一衛や十雷や零和、そして雨鈴の『もうひとり』がいた、懐かしく遠い世界だ。 あの世界、夢の街で描いた絵は、彼らとともに消えてしまったが、このアレグリアになら永遠に遺せる。相棒と自分のためにも、あの都市が存在していた証をどこかに遺しておきたい、その思いでミケランジェロは筆を操る。 「ミケの絵、不思議なまち。でも……ぼく、わかる。その街も、活き活き」 「ん? ああ、そうだな。面白ェとこだったぜ?」 鉄塊都市を見つめる夢守や雨鈴の目がどこか懐かしげなのは、きっと気のせいではあるまい。 「それで、流杉とタリスはこれからどうするの」 「うん、そうだね……僕は、これから、もっと絵を描きたいって思い始めてるよ」 「ぼくも! ぼくもみんなで絵を描き続けたいな!」 これまでのことを話し、これからのことを話しながら筆を進め、それが完成したのは何時間後だったか。 「すごいね、すごい! これ、共存、ぼく知ってる! みんな違うけど、みんなすてき。みんながいるから、ほかのみんなも引き立つし、鮮やかになる。みんながいるって、なんてすてきなんだろう!」 あちこち絵の具まみれになりつつ、満面の喜色を浮かべてタリスがぴょんぴょん跳ねる。クレオは満足げに特大のキャンパスを見上げ、流杉は心地よい疲労感とともに息を吐いた。 キャンパスの天辺には明るい太陽が描かれている。 新しい『これから』を照らす太陽だ、と、流杉は晴れやかな胸の内で思った。 その傍らで、 「おい、黒い……じゃなくて一衛」 ミケランジェロは黒の夢守を呼び、その手首に虎を意匠化した絵を描いている。魔力の込められたそれに、一衛が不思議そうな顔をした。 「あいつから聞いたぜ。お前、変質しかけてんだって?」 「ああ」 「変質したらどうなる」 問いに、一衛は答えなかったが、おおよその予想はついた。 「……お前が消えたらあいつが哀しむからな。ちょっとしたまじないっつーか、仕掛けだ」 相棒の哀しむさまは見たくない。 同時に、平行世界での記憶を持つミケランジェロ本人も、この夢守に消えてほしくないと思っている。だから、いつかその時が来たら、これを核、鍵にして何か出来ないかと、そう思いながらミケランジェロは筆を動かす。 想定としては、先ほど描いた絵の中へ避難させられればと思うが、どこまでうまくいくかは判らない。 「そんな時は来ねェに限るが、な。……諦めんなよ」 「?」 「心とか、そういうモンを、だ」 「……ああ」 心なしか目元を和ませ、一衛が頷く。 「ミケ、ごはん食べに行こう、おいしいとこがあるんだって!」 ひと仕事終えた顔でタリスがミケランジェロを呼ぶ。 流杉もクレオも晴れやかに笑っている。 判ったよと返し、ミケランジェロは歩き出した。 いくつかの予兆を孕みつつも、世界は今日も静かにまわっている。
このライターへメールを送る