外はひどい雨だ。 「災難だったな」 ムジカ・アンジェロはそう、端的に評し、彼らを招き入れた。 「お邪魔します」 ぺこりと可愛らしく頭を下げ、黒葛 小夜が足を踏み入れる。 これだけの雨の中、傘も差さずに歩いたにしては、彼女はほとんど濡れていない。由良 久秀のジャケットを傘代わりにかぶっていたおかげだが、その結果、由良がどうなったかは、苦笑しつつバスタオルを差し出すムジカを見れば想像に難くないだろう。 「なかなか紳士じゃないか?」 むろん、この季節であるから、濡れたからと言ってすぐに風邪をひくものでもないだろうが、幼い少女が雨に濡れるより、自分のジャケットを差し出すことを選んだ由良に、ムジカは称賛めいた視線を送るのだった。 「……風邪を引かせてあいつに怒鳴り込まれるのも厄介だ」 小夜の、過保護で心配性な兄を思い起こしたのだろう、由良はそんなふうに返したけれど、『それだけ』でないことは、彼と小夜の間に通う空気に触れてみれば判る。少なくとも、小夜の、由良へ向けるまなざしには信頼があるし、由良もまた、それをわずらわしくは思っていない。 「由良先生、びしょびしょにしちゃってごめんなさい」 「……お前が濡れなかったんならそれでいい」 バスタオルで乱暴に髪を拭いつつ由良が言い、小夜はありがとうと笑って、ムジカから受け取った替えの衣装を差し出した。 「ムジカの服か」 「何か問題でも?」 「いや、サイズが」 「大丈夫、由良ならなんでも似合うよ。多少脚の部分が余ったって問題ない」 「……褒めているつもりなのか、それは」 「それはもう、この上もなく」 飄々とした笑みとともに紡がれる、どこまで本気か判らない、逆に言うとどこまでも本気にも取れるムジカの言葉に、由良は深々と溜息をつき、衣装を手にバスルームへと向かったのだった。 「それで……どうした? わざわざおれのところへ来るくらいだ、のっぴきならない事情か、もしくは面倒臭い事件でもあったんじゃないのか?」 数分後、リビングのソファに陣取って、ようやくひと息ついたところで、熱いコーヒーとホットチョコレートをそれぞれへ手渡しながらムジカが問うた。 見上げた先で、時計は午後十時を指し示している。 小学生にしか見えない少女と、その父親とは思えない男。 このふたり連れで夜の街を歩いて、面倒が起きなかったとは到底思えない。 しかし、ムジカの言う『面倒臭い事件』は、警察に呼び止められたとか、通行人の視線が痛かったとか、そういう類いのことだけを指してはいなかった。 もちろん、ムジカの家に転がり込むからには、夜間に表を歩くには面倒な事情があったのだろうが――というより、由良と小夜の取り合わせでは職務質問を受けないほうがおかしい――、その根幹となったのは別の事件であるはずだ。 「うん、あのね、由良先生とご飯を食べに行ったんです」 小さな手でカップを包み込み、その温かさから味わおうとでもするような小夜の、やはり小さなお腹がぐうと鳴った。 「食事に行ってきたんじゃ?」 「ええと……食べ損ねちゃって。その、めんどうくさい事件、のおかげで」 頬を赤らめつつ小夜が返す。 「なるほど、じゃあその説明を?」 「……台所、貸してくれ」 視線に催促を感じて、由良は溜息をひとつ落とし、立ち上がった。 * * * Mughetto。 そういう名前の瀟洒なレストランだった。 ふたりがこの店を選んだのはほとんど偶然で、ちょうど通りかかった時に空腹を覚えていたからにすぎない。 時刻は午後八時を過ぎ、夕飯にはもってこいの時間帯だ。 「由良先生、ここ、イタリア風レストランなんだって」 小夜が楽しそうだったので、由良としても拒否する理由もなく、ふたりは店へと足を踏み入れた。客の入りは半分ほどで、多いのか少ないのかは判らないが、めいめいが料理に舌鼓を打っている。 イタリア風と言いつつ、スパゲティ・ナポリタンがあったり、フライドチキンやフライドポテト、サンドウィッチにホットドッグにボルシチだのピロシキまであったりするカオスなメニュー構成ではあったが、味がいいことは、厨房から漂ってくる匂いで判る。料理人がせっかちで、いろいろな味を取り入れたがるタイプなのかもしれない。 「日本のレストランなんてそんなものか」 別段、そこまでこだわりがあるタチでもない。 加えて、 「わあ、大きなケーキがのったパフェだって! いいなあ」 デザート欄を見た小夜がはしゃいでいるとあっては、店を変更しようなどという気持ちが起きるはずもない。 結局、ピッツァ・マルゲリータとスパゲッティ・アッラ・プッタネスカなる刺激的なパスタ、季節のサラダ、コーヒーとオレンジジュースと、ケーキがのった『お姫様のパフェ』という豪奢なデザートを注文することとなった。 「お腹すいたね。はやく来ないかなあ」 にこにこと笑う小夜に頷きつつ、いつものクセで煙草を取り出したところで、 「由良先生、ここ、禁煙だよ」 可愛らしい、大人しげな見かけによらず、実はけっこうしっかりものな彼女に指摘される。ほら、と小夜が指差した先には、愛煙者をたしなめるような例のシンボルがある。 しかし、 「……じゃあ、なんで煙草の匂いが……」 鼻腔をくすぐる匂いに首を傾げ、ぐるりとこうべを巡らせたところで、 「遅ぇんだよ、待ちくたびれちまったじゃねーか」 粗野な言葉遣い、品のない服装と仕草、尊大な態度の、お世辞にも付き合いたいとは思えない男が、煙草を盛大にふかしながら、料理を運んできた男性に文句を言っている様子を目撃する羽目になった。 「この程度のメシを用意すんのに、どんだけ時間かけてやがんだ。もったいぶってんじゃねーよ」 毒づく男を、両隣の男女がなだめにかかる。 男と同年代と思しき人々だ。女性は恋人で、男性は友人といったところだろうか。しかし、ふたりとも、男の粗暴さ強引さには逆らえないらしく、それとも他に何か事情があるのか、傍から見ていても気の毒になるくらい、彼の一挙手一投足にびくびくしているのが判った。 「も、申し訳ございません……あ、あの、それで、ここは禁煙……」 「ああ? てめぇ、誰に向かってものを言ってやがんだ!」 ドスのきいた大声に、周囲の空気が凍りつく。 同時にひそひそと交わされる会話から、男がこのレストランのオーナーシェフの『友人』であり、何らかの理由でオーナーシェフは彼に逆らえないこと、調子づいた男がこの店で好き放題していることなどが聞き取れた。 もともと行列が出来るほどの人気のある店だったここは、男が頻繁に出入りするせいで、最盛期の半分以下に売り上げを落としているのだそうだ。 男が怒鳴り散らす間にも、そそくさと席を立つ客が何組かあり、店員が項垂れているのも見えた。 「ったく……せっかくの愉しい気分が台なしじゃねぇか。この落とし前、どうつけてくれんだ」 ぶつぶつ言いつつも、食欲が勝ったらしく、男は料理に手を伸ばし、貪り始めた。マナーも何もない、ガツガツと表現するのが相応しい、粗暴な食べ方だった。 その時、彼らのテーブルに並んでいたのは、見事なサイズのチキンレッグを照り焼きにしたもの、ピッツァ・マリナーラ、ピッツァ・クァットロ・フォルマッジ、人参やセロリ、きゅうりなどをスティック状にしたサラダ。オリーブオイルをまぶしたフォカッチャ、プロシュットを巻きつけたグリッシーニなど。 「あいつの奢りだ、好きに食えよ」 傍らに置かれた手拭用の濡れナプキンで、時おり指先をぬぐいつつ、男は旺盛な食欲を見せている。同行の男女は、食事どころではなかったようだが、拒絶して男を怒らせるのも怖いのか、つまむ程度に料理を口にしていた。 アルミ箔の巻かれたチキンレッグを掴み、豪快に食いちぎって咀嚼する。濃い血色のワインをひと息に飲み干し、スティック野菜を束で引き抜いてぼりぼりと齧る。 食べっぷりは小気味いいほどだが、くちゃくちゃと音を立てたり、食べかけのピッツァを半分だけぽいと放ったり、ソースなどのついた指をべろべろ舐めたり、断りもなく同席者の皿からつまんだりする品のなさが、彼から微笑ましさを奪っている。 ややあって、腹が満たされたらしい男は、煙草を取り出し、 「ねえ、芹沼さん、ここ、禁煙なのよ……?」 「ああ? おまえまでそんなこと言うのかよ。気にすんな、ここのオーナーは俺に文句なんか言えやしねぇよ」 指先で煙草をいじくったのち、それを口に咥えた。 そして、火をつけようと、 「……?」 ライターを取り出したところで怪訝な表情になった。 口からぽろりと煙草が落ちる。 咽喉を押さえる。痛みがあるのか軽い咳をした。 だらしなく開いた口から涎があふれたかと思えば、次の瞬間には嘔吐している。奇妙な汗が、彼の顔を濡らしている。 「芹沼さん……?」 女性が眉をひそめるが、聞こえていないようだ。がたがたと慌ただしく席を立ち、どこかへ行こうとでもしたのか歩き出そうとしたところで、 「おい、なんだ、これ、」 何かを言いかけたまま、倒れた。 腕が当たって椅子がいっしょに引っ繰り返り、大きな音を立てる。 突然のことに悲鳴が上がった。 「芹沼さん……ねえ、なに、」 女性が言いかけたが、 「……死んでる」 かがみこみ、脈や呼吸を確かめた男性が言うと、真っ青になった。 それを聞きつけて誰かが悲鳴を上げる。 警察を、という声を耳にして、由良は立ち上がった。 「由良先生?」 「出たほうがいいな。俺は身元を証明できない……痛くもない腹を探られるのも、面倒だ」 小夜が頷き、同じく立ち上がる。 店内を、引き攣ったようなざわめきが行き来する。 もはやぴくりとも動かない男が、徐々に血色を失って青白くなってゆく。 * * * 「なるほど、判った」 テーブルに濡れた手拭用タオルを供しつつムジカが頷く。 結局、「それなりに食べられるものはつくれるが、味見をしないうえに大雑把すぎて時々失敗する」レベルの由良とバトンタッチすることになったムジカが、面憎いほど的確な手際で食卓を仕立てた。 鶏手羽のグリル、照り焼き風。 ピッツァ・マルゲリータ。 スパゲッティ・アッラ・プッタネスカ。 新鮮野菜のスティックサラダ。 グリッシーニ・コン・プロシュット。 デザートには、ミニパフェを。 材料を仕入れてきたのは、閉店間際のスーパーに駆け込んだ由良だが、それにしてもムジカの手仕事は見事だった。 「おいしそう……ムジカさん、手品師みたい。ううん、この場合は魔法使い、かな……?」 ずっとおなかをすかせていたらしい小夜が、目を輝かせて歓声を上げる。 ムジカはくすりと笑って、 「どうぞ」 ふたりを促した。 八時にありつけるはずだった夕飯を、二時間もお預けにされていたふたりは、ありがたく饗応を受ける。 手を使う料理が多いため、手拭の存在がとてもありがたい。 チキンには銀紙が巻いてあるが、それだけでは心もとないのが現状だ。 「ん、このパスタはなかなかうまいな」 「ああ、それは娼婦風スパゲッティってやつだ。アンチョビとニンニクと唐辛子、トマトにオリーブなんかのシンプルな材料だけど、これが刺激的でいいんだよな。……小夜にはちょっと早いかもしれない」 「うん、ちょっと辛かったです。でも、ピリッとした感じ、嫌いじゃなかったなあ。わたしが大きくなったら、もっと食べられるかな?」 小鳥のようにスティックの人参を齧りながら小夜が笑う。 空腹が満たされつつあるのもあって、ほのぼのとした空気が流れる中、 「それで……あんたはどう思うんだ?」 ムジカが器用に淹れてくれたアイスティーを啜りつつ由良が問う。 小耳にはさんだところによると、毒は、被害者の料理にはもちろん、彼の手や同席者の皿など、テーブル中にその痕跡を残していたという。しかし、そのテーブル以外に、料理人や、給仕役の店員を含む、他の場所からの毒物の反応はなかったというのだ。 「あの状況下において、誰が、いつ、何処に毒を仕込んだ? どうやってひとりだけ殺した?」 とある事件以降、奇妙な、不可解な、難解な事件の際には、「ムジカ・アンジェロが謎を解く」ことを期待して注視するようになった由良である。腹が落ち着けば、次に意識が向くのは今回の事件と相場は決まっている。 「食事中にする話題じゃないな。小夜の消化が悪くなったらどうする」 「……それは、」 「あの、ムジカさん、わたしはだいじょうぶ……」 「まあ、まずはゆっくり食事をしてくれ。話はそれからだ」 小夜がデザートのパフェを嬉々として片づけるまで、そこから二十分ばかり。 「これでいいだろう。……小夜、吸ってもだいじょうぶか?」 一応の配慮を見せ、由良が問うと、小夜は気にしないでと笑った。 目線で謝意を表し、煙草を咥えた瞬間、 「……!?」 口の中に、猛烈な異味が広がって、由良は顔をしかめた。 くすり、とムジカが笑う。 「気づいたか? 経った今、自分が殺されたってことに」 仏頂面でアイスティーを含む由良と、興味津々といった眼差しの小夜に、種明かしがされる。 犯人は、男に脅され続けていたオーナーシェフだろうと推測された。 脅迫が過ぎて殺害を決意した彼は、男を店へと招き、自分からの奢りだと言って料理を出した。当然、彼の『仕事』に都合のいいメニューばかりが供される。 彼は料理に、二重の罠を仕込んでいた。 最初の罠は、チキンレッグに巻かれた銀紙だ。 そこには毒――少量で死に至らしめる青酸化合物――が塗ってあった。 しかし、わずか50~200ミリグラムで人を死に至らしめる劇毒とはいえ、銀紙に塗られていた程度の量では十分とはいえない。しかも、この青酸カリ、強烈な味がするため同じ場所にたくさん使うのでは気づかれてしまう可能性がある。 そこで、オーナーは手拭、おしぼりに眼をつけたのだ。 手の汚れやすいメニューを供することで、手を拭かざるを得ない状況をつくりだす。手拭には青酸ナトリウムを溶かした液体を沁みこませておく。 青酸化合物が猛毒として作用するには、『青酸化合物が嚥下によって胃中に入り、胃液の酸性にあって瞬間的に加水分解が行われ、青酸ガスが発生し、血中に入ることで呼吸中毒となる』必要がある。 そこでまず、手拭からの毒を経口で摂取させる。 手を拭きながら、手づかみで料理を食べ、あまつさえ指など舐めれば、かなりの量の青酸化合物が胃中へと入ることになるが、これだけでも十分ではなかったはずだ。 となると、とどめを刺すことになったのは、銀紙に塗られていた青酸カリだろう。 青酸カリにまみれた手で煙草の吸い口をつまみ、咥えたことで、付着した毒が経口摂取されることとなり、これが致死量となって死亡したのである。 青酸化合物は、致死量が少ないだけに、わずかな摂取量の違いで死を免れることもあるそうだから、禁煙のレストランで、それに従っておけば死なずに済んだかもしれないと考えれば、男の習性を知り尽くしたオーナーの執念を感じるとともに、自業自得という言葉もまた脳裏をよぎろうというものだ。 「ちなみにおれが仕込んだのは、すりおろしたゴーヤーの搾り汁とオールスパイスとカイエンヌペッパーを混ぜたものだけどね」 あっけらかんと笑うムジカを、小夜が尊敬のまなざしで見ている。 「おれならこうやって由良を殺す。でも、犯人が本当にそうしたかは判らない。すべては推測だけど……まあ、そう遠くなく答えは出るんじゃないかな」 日本の警察は無能ではない。 優秀な現場鑑識係も存在する。 アームチェア・ディテクティブならぬ、クッキング・ディテクティブが突き止めたような事柄を、彼らが嗅ぎ付けないはずがないのだ。 「すごい……!」 しかし小夜は興奮冷めやらぬ様子で惜しみない拍手を送った。 「すごいです。ムジカさんは、那智先生と同じ、優秀な探偵さんなんですね……!」 手放しで讃えられ、ムジカがくすっと笑って由良を見やれば、 「……」 彼は、諦めの混じった複雑な溜息を深々とつくとともに、胡乱な目つきで、手にした煙草を灰皿へと押し付け、ひねりつぶしたのだった。
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