不思議な場所だった。 空のない天へと向かってそびえ立つ、氷の柱のごとき水晶樹が、どこから差し込んでいるのか判らない光によって煌めき、浮かび上がっている。水晶樹の反射する光で、辺りは時にまぶしいほどだ。 「石で出来ているのに、生きているのにゃ」 背の高い水晶樹の幹に触れ、フォッカーはその天辺を見晴るかそうとするように天を見上げた。しかし小柄な彼にその樹は大きすぎ、すぐに首が痛くなってしまう。 「不思議にゃ。でも、よくよく考えたら、生きているって本当は不思議なことなのかもにゃ」 それは紛れもなく鉱物であり、無機物の集合体であるのに、それが確かに生きて、今も成長を続けていることがはっきりと判るのだ。 「きれいなところにゃ。だけど、ちょっぴり寂しいような気もするにゃ」 いにしえの水晶森はひんやりと心地よい空気をたたえ、静謐の中にたゆたっている。 「……けど、出口はどっちにゃ?」 フォッカーは、この不思議な森のことは知らなかった。 ちらちらと目を通したシャンヴァラーラの報告書で、彼が知っていることはそう多くない。 『電気羊の欠伸』にある高度な技術に触れてみようと思い立ち、ちょうど便があったのでやってきたはいいのだが、どうも移動用の蓮状装置に乗り間違えたらしく、気づいたらここまで運ばれていたのだ。 要するに、今の彼は迷子なのだった。 「まあ、いざとなったら大声を上げれば誰か来てくれるって聴いたにゃ。何とかなるのにゃ」 特に黒の領域を護る夢守は恐ろしいほど地獄耳だそうなので、切羽詰まったら呼べばなんとかしてくれるに違いない。 そう結論づければ、次に頭をもたげるのは生来の好奇心だ。 世界を股にかける冒険家が、そして卓越した技術を持つ整備士が、あまたの不思議、あまたの材質を前にして、何も見聞きせず触れもせず帰るなど、出来るはずもない。 「樹を調べてみたいにゃ。この欠片をもらって帰って、水晶発振器をつくれないかにゃ? 生きた水晶から出来た時計なんて、ロマンティックなのにゃ」 常に正確な時刻が計測できることは、飛行家にとっても冒険家にとっても非常に有益だ。ましてやそれが不思議の力を帯びた水晶なら、持ち主を助けてくれることさえあるかもしれない。そんな想像をすることすら浪漫だった。 これは頼んでみる価値があるのにゃ、と、ここの管理者たる夢守を呼ぶか探すかしようとしたところで、 『あいたいの?』 不意に、声が聞こえて、戦闘経験のほとんどないフォッカーは文字通り飛び上がった。 危険な領域ではないと聞いているが、こんな場所でたったひとり、何ものかに襲われることになったら、誰にも気づいてもらえないまま骨まで朽ち果てたとしてもおかしくはない。 「だだだ、だれ……にゃ……?」 背中の毛を逆立てつつ振り向けば、そこには、ひときわ大きく美しい水晶の柱に、身体の半ばまで埋もれた、線の細い、美しい少年の姿があるのだった。 白金の髪と黄金の眼、薔薇色石の唇。長い睫毛、白磁の肌、しなやかな手指。どこか両性的な――蠱惑的な肢体。年のころは十代前半くらいに見えるだろうが、かれを彩るふたつの黄金は、まるで年経た龍のように静かな光を宿すばかりだ。 正直、面食らったといっていい。 「ええと、あんたは……?」 問いかけたところで、 『あいたいの?』 薔薇石色の唇が、再度言葉を紡ぎ、フォッカーは目を瞠った。 言葉が脳裏を巡り、懐かしい光景を呼び起こす。 「……家族や仲間に、ってことならその通りにゃ」 『いとしいの?』 「うん、家族も仲間も大好きにゃ」 『やさしいの?』 「ううん、あの世界は、全部がやさしくはないのにゃ」 『つらいの?』 「そうにゃ。黒だからって馬鹿にされたり差別されたり、嫌な目に遭わされたり、つらいことならたくさんあったにゃ」 『かなしいの?』 「うん、哀しいこともたくさんあったにゃ。でもそれは、おいらだけのことじゃないのにゃ。おいらだけが哀しいだなんて言えないのにゃ」 『すきなの?』 「うん。やさしいばっかりじゃなくて、つらいことも哀しいこともあるけど、それでもおいらは家族や仲間がいるあの世界が好きなのにゃ」 『さびしいの?』 「どうだろうかにゃ。ターミナルには、おいらが困っていたら助けてくれるような、頼もしい人たちがたくさんいるからにゃ」 『かえりたいの?』 「――……うん。それでも、やっぱり、おいらは元の世界に帰りたいのにゃ。家族や仲間に会いたいのにゃ」 気づけばフォッカーは、ヒトの姿かたちをしていても異質な存在と判るそれが紡ぎ出す、儚い泡沫のごとき言葉に思考を呼び起こされ、律儀に、ひとつひとつ応えていた。 応えるたびに、脳裏を、いくつもの顔や場面、言葉がよぎってゆく。 それは懐かしかったり、苦しかったり、いとおしかったり、心躍るものであったり、心沈むものであったり、笑みの浮かぶものであったり、頭を掻き毟りたくなるものであったりした。 「……そういえば、そんなこともあったにゃ」 ぽつりとつぶやき、フォッカーは微苦笑を浮かべる。 故郷の家族、仲間、どこまでも高く透き通り晴れ渡った空。 飛行家となって社会に出たとき、黒猫だからと受けたさまざまな痛み。 フォッカーという一個の存在をつくった懐かしい光景が、確かに自分の『中』にある。 忌まれ蔑まれる黒の出身として、謂われなき、理不尽な扱いを受けて来たフォッカーだが、それでもあの光景と、彼を包む温かい感情は――やさしい人たちが向けてくれる善意は――、フォッカーを今もしゃんと立たせる大切な要素となっている。今や、痛み、哀しみすら、フォッカーをつくった要素だった。 これが報告書でちらと読んだ、ヒトにものを思わせる、『鏡』と呼ばれる存在であることに、そのあたりで気づいた。 『しんぱいなの?』 ほろりとこぼれ出た言葉に、フォッカーは目を見開いた。 きゅっと唇を引き結んだのち、小さくうなずく。 「うん……そうにゃ。壱番世界のような、おそろしい戦争が起きていないかどうかも心配にゃけど……おいらが帰るってことは、世界図書館があの世界の場所を知るってことなのにゃ」 フォッカーの故郷と壱番世界はたどってきた歴史がひどく似ている。 故郷の運命が壱番世界と同じように流れていくとすれば、そう遠くないうちに大きな戦争が起きる。そのとき、最下層民と位置づけられる黒の民は、いったいどうなってしまうのだろうか。 それと同時に、もうひとつ気がかりがある。 『いやなの?』 まるでフォッカーの内面を見透かしたかのようなタイミングで淡々と重ねられる、朴訥ですらある問いに拳を握り締める。 「――――…………おいらは、あの世界を、世界図書館やロストナンバーに干渉されたくないの、にゃ」 それは本心からの言葉だった。 「あの世界に住むのは、おいらみたいな何の能力もないような人たちにゃ。神さまみたいな力を持ったロストナンバーが押しかけたら、あっという間に沈没してしまうにゃ」 『しんじてないの?』 「――そうかもしれないにゃ。信じたいけど、信じられないのかもしれないにゃ」 世界図書館やロストナンバーに恨みや憎しみがあるわけではない。 助けられたこと、励まされたことも少なからずある。0世界に来たから、同じ境遇のロストナンバーたちがいっしょだから孤独ではなかったし、たくさんの経験を重ねて見聞が広がった。 総じて言えば、感謝しているといってもいい。 けれど、フォッカーは知っている。 幾度となくあったトレインウォーで、ロストナンバーの持つ強大な力を見せつけられた。ロストナンバーが世界を変えてきたこと、彼らによって変わってしまった世界のことを見てきた。 『おそろしいの?』 「――……そうにゃ。もしかしたら考え過ぎなのかもしれないっていうのもわかってるにゃ。だけど、おいらの世界が変えられてしまったら、って考えたら、やっぱり怖くて仕方ないのにゃ。だって、もしもそれが実際に起きたら、あの世界に抗うすべなんてないのにゃ」 世界図書館は、その世界の理を覆すことのないように気を配りながらロストレイルを運行しているはずだが、所属している人々の考え方が多種多様である以上、力加減を誤らないという保証はどこにもない。 それらはある種の恐怖となって、フォッカーの中にわだかまっている。 「……そうか、おいらの中に、こんな不安が存在するんだにゃ」 言葉にすれば、それはすとんと納得の中に落ちた。 旅の行く末、己の迎える結末がどうなるかなど、神ならぬフォッカーに判るはずもないが、少なくとも自覚を持つことで、自ら変えていけるものもあるかもしれない。 「どうした、迷ったのか。案内は必要か?」 不意に、遠くのほうから声がして、フォッカーは迎えが来たことを知る。 フォッカーはそこで、思考と表情を切り替えた。 「夢守さんかにゃ。ちょうどよかったにゃ、おいら、あの水晶の欠片がほしいのにゃ」 漆黒の夢守が近づいてくるのへ、意識的に明るい声を上げる。 「無論、問題ない。処理をしておくから、持ち帰ってもらっても構わない」 「ありがとうにゃ!」 夢守へ礼を言い、フォッカーは背後を振り返る。 『それでも、すすむの?』 やはり心を読んだかのような泡沫の言葉に、フォッカーは微苦笑しうなずいた。 「そうだにゃ。何もしないで立ち止まっているようじゃ、冒険飛行家の名が廃るのにゃ」 それだけ告げて、夢守に向かってパッと駆け出す。 『鏡』はもはや何も言わず、年経た龍の眼で、ただフォッカーの背を見送るのみだ。
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